ぶうちん村、風わたる。

風の吹くまま、気の向くままなんて、なかなかできませんが、楽しみを見つけながら過ごしたいものです。

国鉄・宮之城線の今  096

2009年12月14日 23時53分34秒 | Weblog
 073に始まり、この096までの長期間、樋脇駅に滞在いたしました。23回分もここにいることになりました。

 このままのペースで行くと、この企画は400回を越えてしまいます。

 エェエェエェエェエェエェエェエェエェエェエ(゜Д゜ノ)ノエェエェエェエェエェエェエェエライコッチャ

 となれば、終点・薩摩大口にたどり着くのは、一体いつ?!


 この企画、書き始めはこんなことは全く想定しませんでした。
 
 しかも・・・
 これまでの写真を撮影したのは9~10月。まだ緑の濃い季節だったのですが、秋が深まり、草木が枯れてしまったために、その下から、「こんなものがあったの?!」なんて発見が、実は続いているのです。

 また、勝手に掲載するわけにはいかないのだけれど、書いている内に疑問が生じて調べているうちに、古い時代の写真とかも見つかりました。

 ライフワークにするってことは全く考えてはいないのですが、とりあえず、年内に一日、時間を作って再度、川内駅からいろいろと疑問点や調査事項を整理して、薩摩大口から逆行する形で調べてみたいと思います。
 なぜ、薩摩大口から逆行するかって?
 そりゃあ、進む方向を変えて、視点に変化をつければ、今まで気づかなかったことを見つけられるかもしれないからですよ。

 なんて言っていると、400回どころか500回も越えてしまうかも・・・


 ともかく、まずは樋脇駅にオサラバです。
 中央のちょっと左よりの所にあるのが「鷹の巣冷泉」です。

 さあ、出発進行!

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国鉄・宮之城線の今  095

2009年12月14日 23時39分48秒 | Weblog
 さて、そろそろ出発しなければなりません。
 線路が薩摩大口側に伸びていく方向に目をやると、新しい建物が目に飛び込んできます。
 何年前だったでしょうか、つい最近だったと思いますが、鷹の巣冷泉が建てられました。
 「鷹の巣」温泉といえば、ここから1㎞ちょっと川内の町よりの谷間にありました(地元の方、確か、あの建物でしたよね)。
 そして、そこへの入り口は、12/3に070で公開した「鷹巣」バス停近くの橋台です。


 掘ったら出たんでしょう。

 駅の構内の一角が温泉になっているのも、廃線を巡る旅に立ち寄るにはいいものです。
 
 最後の一休みをしたら、いよいよ出発です。

 
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国鉄・宮之城線の今  094

2009年12月14日 23時36分21秒 | Weblog
 さらに、大通りを抜けて県道に出てみると、今でも商店等があり、昔日の名残を感じさせますが、その一角に見つけたのがバス停。

 堂々と「樋脇駅」を名乗っていました。

 ちなみに、駅舎の前にもバス停はありますが、こちらは別な名前がついているのが、ちょっと情けない感じがしました。
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国鉄・宮之城線の今  093

2009年12月14日 23時26分55秒 | Weblog
 駅前の大通りに感心しながら、ふと左側を見ると、ゴミ・ステーションがありました。ごく当たり前の景色だったのですが、私の目線はそこに表示されているある言葉に目が釘付けになりました。

 「駅前自治会」
 「駅前公民館ゴミステーション」

 駅はありませんが、未だに改名することもなく、廃線23年目になっても「駅前」という言葉を自治会名に残しているなんて、感動物です。

 
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天候にも恵まれた収穫祭

2009年12月14日 23時05分55秒 | Weblog
 昨日は恒例となった収穫祭でした。
 昨年の朝は、吐く息が白くなりましたが、今年は軽装で十分。風もほとんどありません。

 朝8時にはもうたくさんの方が準備で集まっていました。かまどには火が入っていました。
 それぞれ三々五々集まってきます。

 お祭り開始の10時前には、もうもちつきが始まりました。

 私は今年も火の番を主としていましたが、いつの間にやら参加者が自分たちで作ったそばをゆがく係におさまっていました。

 煙が目にしみる中、火の勢いを落とさないようにしながら、そばを湯がきました。

 昼前には全ての準備が完了し、そばとししなべを「いただきます」しました。

 ただ、私、体調が悪く、食事はいただかず帰宅しました。
 帰宅と同時に、こたつに入ってそのまま

 思いの外、疲れてしまったようでした。
 最近、心配事や仕事の疲れがたまっている上に余裕のないスケジュールでしたから。休むべき時は休まないといけませんね。
 
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国鉄・宮之城線の今  092

2009年12月14日 22時52分29秒 | Weblog
 駅前に戻ってきました。

 以前も紹介したように、大きな倉庫がありますし、なんと言っても、この広さの正面の大通りが開けています。小さな田舎にとっては、とても不相応な感じがするのですが、それほど、この駅前がにぎわっていたということの裏返しでもありましょう。

 
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国鉄・宮之城線の今  091

2009年12月14日 00時13分21秒 | Weblog
 先ほど、しんちゃんのおしりスタイルをしていた息子です。
 ドラえもん大好き少年です。

 さてさて、宮之城線の建設が滞ってしまったこの時代は、世界的に金の価値をどうするかで揺れていました。
 経済の話になると、私自身はとても弱いのですが、いろいろなデータを読んでいると、結局、金の増産が当時の日本経済の安定にとって重要だったということなんですよね、読者のみなさん!

 どうして、このような話をするかと言うと、実は、宮之城線や山野線沿線には金山がいくつもあるからです。

 山野線では菱刈ですが、ここは1920年代に開通し、金山との関係が始まっていました。
 宮之城線沿線では、線路がまだ延びていない所に永野金山がありました。

 いったん、中止に近い停滞が生じた宮之城線の建設が復活したのは、実はこのあたりの話と関係があるのではないかと私は考えているのです。
 つまり、金の採掘・運搬を円滑に進めるために宮之城線の構想は「再スタート」を切ったのではないかと。

 これは、あくまで勝手な推測ですよ、みなさん!

 ですから、いわゆる15年戦争によって、戦争遂行のための資金獲得、つまり外貨の獲得の手段として普遍的な価値を持つ金を増産する必要性が生じたのではないかと考えるわけです。

 そうしたら(そうしないでも)、八代~出水~鹿児島のルート争いに敗れた宮之城線が息を吹き返したように国費が欠乏していく中で、この後、宮之城線の建設が急ピッチで進められることになるとは理解ができないのです。

 1934(昭和9)年7月・宮之城~薩摩鶴田が開通。
 1935(昭和10)年6月・薩摩鶴田~薩摩永野開通。
 1937(昭和12)年12月・山野線全線と同時に薩摩大口駅まで宮之城線が全線開通。

 そして、どうしようもない泥沼となる日中戦争へと突入していきました。 
 
 
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