昨晩開催された高校の同期会の席上で、大阪よりの参加ということで挨拶にたったS君が、「私は、北海道を出てもう50年を過ぎました。ご存知の方もおられると思いますがTの夫です。彼女は脳梗塞や脳出血でいま半身不随で寝たきりになりましたが、まだ頭もはっきりして話ができることが救いです。彼女の言うことには、皆が私のことを覚えていてくれるかしら、是非参加して皆の話を聞いてきてくれ、と言われて初めてこの会に参加しました」と話し出しました。
彼女は、いつも死ぬ覚悟は、できているようなので、私も家族も、これが最後という気持ちで毎日接しています。という言葉で締めました。彼女の級友達は、Tさんはてっきり一緒に大阪から来ると思っていた、来年までに一生懸命にリハをやって車椅子で参加しなさい、との言葉を託しました。生きる目標ができるとひとは生き返るかもしれないとの望みを告げたのです。
釣りは非常に危険な遊びで死につながるかもしれないという覚悟はしております。このような物騒なことを家人に言うと釣りに行かせてくれないでしょうから黙っていますが、慎重さに関しては人後に落ちません。潔く思える死ぬ覚悟に対して私の生きる覚悟の方は、まるでいい加減です。
ただ生きる覚悟というのは、結局死ぬ覚悟ではないのかと自分で禅問答しています。いつ頃からか自分が死ぬことになってもと、周りの物を整理はしています。ただ時間をかけて選別した私にとって宝と思うものも、他人にとってはゴミかもしれない、という危惧があります。年老いたものの同期会は認知症予防の一面も持っていますが、生死を考える宗教的な側面も持っていました。
彼女は、いつも死ぬ覚悟は、できているようなので、私も家族も、これが最後という気持ちで毎日接しています。という言葉で締めました。彼女の級友達は、Tさんはてっきり一緒に大阪から来ると思っていた、来年までに一生懸命にリハをやって車椅子で参加しなさい、との言葉を託しました。生きる目標ができるとひとは生き返るかもしれないとの望みを告げたのです。
釣りは非常に危険な遊びで死につながるかもしれないという覚悟はしております。このような物騒なことを家人に言うと釣りに行かせてくれないでしょうから黙っていますが、慎重さに関しては人後に落ちません。潔く思える死ぬ覚悟に対して私の生きる覚悟の方は、まるでいい加減です。
ただ生きる覚悟というのは、結局死ぬ覚悟ではないのかと自分で禅問答しています。いつ頃からか自分が死ぬことになってもと、周りの物を整理はしています。ただ時間をかけて選別した私にとって宝と思うものも、他人にとってはゴミかもしれない、という危惧があります。年老いたものの同期会は認知症予防の一面も持っていますが、生死を考える宗教的な側面も持っていました。