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青い乗り物が西の空にのぼり、大唐は光り輝いた・・8世紀中国の景教碑文(3)

2014-08-08 | マニ・ゾロアスター


引き続き、8世紀・唐時代に作られた中国の「景教」の碑文のご紹介をさせていただきます。

神直道氏「景教入門」より引用させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


              *****


            (引用ここから)


第2段

太宗文皇帝(627-649)は、光輝き、国運を隆盛にみちびき、徳は明聖にして人にのぞむ。

大秦国(ローマ)に高徳の士あり。
阿羅本(ア・ルワーン)という。

唐の情勢を占い、経文をたずさえ、時宜を得て艱難にたえて旅し、635年、都・長安に至る。

帝は長安の西に兵を出して迎え、賓客として宮廷に入らしめ、経を翻訳させ、道を御所で問い、深く正真の道を知り、特に伝道させた。


638年、秋7月、召してのたまう。

「道に定まれる名無く、聖に定まれる形なし。諸方の実情にしたがい、教えを設け、人々を救え。

大秦国の徳のある阿羅本(ア・ルワーン)は、遠くから経像をもち、京に来て献上した。

その教えの旨をつまびらかに見ると、元妙であり、人為的でない。

その根本は生成が要を担い、言葉は容易であり、理は手引きを要しない。

ものを多くし、人を利するのである。

よろしくこの教えを天下に行え。」と。


役人は都に大秦寺を一つ作り、21人を寺の僧とした。

むかし宗家なる「周」の徳がすたれた時、青い乗り物が西の空にのぼり、わが大唐は光り輝き、景風は東に吹いた。

役人をして、帝の肖像を寺壁に描かしめ、天の姿うるわしく景門に輝き、聖なる教えはますます栄えて、永く法界に輝いた。



「西域図記」および「漢魏の史書」を見ると、大秦国(ローマ)は南はサンゴの海に接してこれを領し、北は衆宝の山に区切られ、西は仙境の花林を望み、東は風しずかで長い川に接している。

国土には石綿製の布、香料(焚けば死者の霊をかえして、その姿をあらわすという)、明月珠、夜光壁を出す。

世に盗みなく、人は楽しみ安んじ、宗教は景教でなければ行われず。

国王は高徳でなければ位につかず、国土ひらけて文明さかんである。


高宗大帝(650-684)、恭しく父祖を継ぎ、まことの宗教を豊かにし、諸州に「景教」の寺を置く。

阿羅本(ア・ルワーン)を崇んで、鎮国大法守となし、法は十道に広まり、国は富んで大いによろこび、景寺は100域に満ちて、家は景福で盛んであった。

高宗の時代、仏教徒の勢いが盛んで、東周で「景教」は遺跡の論戦がおこなわれ、玄宗時代(712)の末、身分の低い役人や道教の下級祭司が大いに景教を笑い、長安でそしりののしった。

僧首ラーク、グラークならびに西国の帰属や世俗をはなれた高僧たちが、綱紀を正しくし、絶えんとする「景教」の教えをつなぎとめた。


玄宗至道皇帝(712-755)は、寧国王などの5王をして景寺に祭壇を建立させ、「景教」を家屋の柱とさせる。

ことごとくたわみ さらに崇まれ、「景教」の綱紀がしっかりと整った。


744年、ローマに僧ギワルギスあり。

星をみて民を徳化しようと、日を占って皇帝のもとに来た。

僧パウロなど17人にみことのりして、ギワルギスと共に功徳をおさめさせた。


ここにおいて皇帝が寺の額にみずから書いた。

宝のよそおい、珠はみどり、あかき霞のごとく、御筆は大空に輝き、激しい日陽をしのぐようである。

皇帝のたまものは南山の高さに比すべく、あふるる恩沢は東海の深きに同じ。


その後、4皇帝が「景教」の根義を体したので、よく民を育て、養いたもうた。

広慈、衆苦を救い、善きほどこしを人々にこうむらせるのは、わが修行の大いなるはかりごとであり、民をひきあげる緒についたのである。

風雨がほどよく来たり、天下はしずまり、人おさまり、物清く、生ける者はよく栄え、死せる者もよく楽しみ、かくあれとの念が生ずれば、響くがごとく相応じ、情が誠から発するのはわが景教のよくなすべきわざの巧用である。


           (引用ここまで)


             *****


ア・ルワーン、ラーク、グラーク、パウロ、ギワルギスなどという名前の西洋人が、唐にやってきていたことが分かります。

ウィキペディアには、阿羅本という人物は以下のように記されています。


wikipedia「阿羅本」より

阿羅本(あらほん、阿罗本、ピンイン: Āluóběn)は、唐朝へキリスト教を広めるために訪れた宣教師。

歴史上、最も早く中国にキリスト教(ネストリウス派)を伝えた人物といわれている。

「大秦景教流行中国碑」によると、 唐代貞観9年(635年)、阿羅本はアッシリア東方教会の使いでネストリウス派の主教として、宣教団を率い、首都・長安へ向かった。

唐太宗は宰相の房玄齢に長安郊外まで出迎えさせた。

当時、唐は各所からの外国人の来訪を歓迎していた。

貞観12年(638年)、ネストリウス派キリスト教は唐朝に認められ、唐朝は資金を援助して、教会(後の大秦寺)を建てさせた。

唐高宗時代になると、阿羅本に「鎮国大法主」に封ぜられ、各地に景寺(教会)を建てるよう、詔勅が下され、ネストリウス派キリスト教は唐王朝に広まることになった。



>むかし宗家なる「周」の徳がすたれた時、〝青い乗り物”が西の空にのぼり、わが大唐は光り輝き、景風は東に吹いた。

わたしはこの「青い乗り物」というものがどういうものなのか、興味がわいたのですが、同書の注によると、以下の意味があるようです。

老子が乗っていた青い牛の車だったんですね。

>周の王国の徳が衰え、衰退した時、老子が青い牛の引く車に乗って大秦(ローマ)に行った、という故事を引いて、国が衰えんとする時は、すぐれた人は去り、国が盛んになる時は、立派な教え(宗教)が来ることを言っている。


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