先日は、ちょっと瞑想をしました。
テーマはハートの味わい。
で、いざ、ハートの瞑想を始める。。
何が出てくるか、じっくりと見ることになる。。
目前に広がる情景は千変万化ではあるけれど、「ひとつ呼び名をください」とお願いしたら、いきなり鷹になった。
はいはい。
高度100メートルくらいだろうか。
ずいぶん、高く飛んでいく。
緑が濃い。
ときおり建物に遭遇する。
中に入るも、すぐに窓があらわれる。
出たいらしい。
軽々と、出奔するわが身。
時々、光るような、ダイヤモンドのごとき自分を感じる。
そうよ、これがわたしの本体、と納得する。
しかし、、わたしの本体はあるのだけれど、自分は全然、本体についていけていない。
でも、エネルギー源がまったく違うから、問題はない、と思い返す。
わたしの本体と、わたしのエゴは、なんの関係もない。
これは事実だ。
わたしの本体について、心配しなければならないことは、実際何もないのだ。
考えてみれば、驚くべき事実だ。
小学校で子ども達に教えたら、どれだけいいだろう。
瞑想、などという名前で、なぜ秘密にするのだろうか?
チベットではかつて男性の4分の1が出家僧であったと聞くけれど、それだけの蜜を共有できる社会があったということだと思う。
競争社会なんて、辛いだけじゃないでしょうか?
なんで、こんなことを長々とするのでしょうか?
いつまでも、、ならまだしも、崩壊が目の前にある。
そういうことはもういい、と思うのです。
命の危機に直面するのも、誰もがいやなこと。
だから、もうやめてほしい。
そして、やめてほしい、とやめたい、が錯綜する。
でも、ハートは全く、そういった心の動揺とは関係ない。
本心(ハート)の自分は鷹であり、地上100メートルをゆうゆうと飛翔している、という事実がある。
わたしは、ダイヤモンドのようにきらめく、自由で力に満ちたエネルギー。
だれもそれを侵すことはできない、自分ですら侵すことができない自由で高貴なエネルギーなのだと確認した。
今までも、今も、これからも、永遠に変わることなく。。
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