金三龍氏の著書「韓国弥勒信仰の研究」を読んでみました。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
まず、中国の弥勒信仰の歴史に関わる部分をご紹介させていただきます。
筆者は、中国において、弥勒信仰は西域から伝わったこと、弥勒信仰に関する経文は西域の人々による翻訳からの中国語訳であることを指摘しています。
そして、西域由来の経文が描き出すこの世の変革者としての「弥勒」の「下生」への願望が強くなってゆくに従い、騒乱や暴動という社会現象があらわれるようになったことが述べられています。
*****
(引用ここから)
弥勒信仰の中国伝来
弥勒信仰がガンダーラに多かったという事実は、弥勒信仰がその昔西インド地方において盛んであったことを明らかにしているものである。
天山南路を通ってインドに旅行した玄奘が、その途中に立ち寄った敦煌の寺にも、弥勒像があったという。
この旅行途中の見聞について後世の人たちは、「玄奘三蔵は、西域の人々はすべて弥勒のわざを行っていると言った」としている。
初期に漢訳された弥勒経典は、すでに西域地方に伝えられた経典を根拠としており、そのどれもが西域人の手によって訳されていたものである。
そして、これが中国の弥勒信仰と西域諸国の弥勒信仰の深い関係を物語っているのである。
龍門の石窟の銘を見ると、すでに6世紀の初期に、龍華三会(弥勒仏があらわれ、龍華樹の下で悟りを開き、三度にわたって人々のために大説法会を開くという約束)に出られることを願っている例が見える。
北魏時代、「上生信仰」とともに「下生信仰」も相当発達していたように思われる。
このような「下生信仰」を背景として、早くも西暦515年には「大乗賊の乱」がおきている。
沙問・法宝は幻術に長け、みずから「大乗」と称して豪族を心服させ、地方官の失政や凶作などに苦しみあえぐ地方人たちを多くその翼下に集めた。
伝えられるところによると、法宝は部下に薬を飲ませて狂人にし、父子兄弟も分別できないようにして、「一人殺す者は一法菩薩、十人を殺す者は十王菩薩」というように、殺人を多くすればするほど仏僧の位が高くなると説いたという。
こうして起きた大乗賊5万人は驚くべき殺人集団と化し、役人を殺害し、寺院を破壊し、僧尼を多数惨殺した。
ここに北魏朝廷は10万の軍隊を派兵して、4カ月の激戦の末、ようやくこれを鎮圧することができたという。
しかしこのため河北一帯は数えきれないほどの死傷者を出した。
ところでこの大乗賊のスローガンは、「新仏出現して、旧魔を除去する 」というものであった。
すなわち指導者を「新仏=弥勒」としてあがめ、「新仏」の出現によって旧来の支配者や僧尼など一切の魔性を除去して理想国土を実現しようとするものであった。
ここには弥勒の名ははっきりとは出ていないけれども、これは「弥勒下生」と民衆反乱が結合した最初の例であると言える。
隋の610年の元旦には、白衣をまとい、香花をもった一団が「弥勒の出生」と称して、衛兵を殺害し、洛陽の建徳門に乱入するという事件がおきた。
これに連座した者、1000余家に至ったという。
続いて613年、「宋子賢の反乱」が起きた。
彼は幻術に長け、自らを「弥勒の出生」と称していた。
彼は堂上に鏡をかけ、紙に蛇の絵を描き、来観する者がある度に鏡をまわして様々な姿を映し出した。
また罪業ある者がざんげ礼拝すると、紙のヘビを人形に変えるなどの詐術を弄して、一日に数百、数千もの信者を集めた。
こうして勢力を得てから反乱を起こし、帝の行列を襲撃するなどしたが、結局失敗して死んだ。
同年、別の者も「弥勒の化身」であると称して、民衆を集めて反乱をおこした。
彼は自らを皇帝と称し、年号も白鳥元年と改めるなどしたが、結局滅ぼされた。
唐代に入ってからは、則天武后の「武周革命」がおきたが、これは武周が自ら権力を掌握するために、そこに「弥勒下生」の名を借りていたところに特色がある。
彼らは「則天武后はすなわち弥勒仏の下生である」という噂を振りまいた。
従来の「弥勒下生」は民衆反乱に便乗するものであったが、武后はこれをよく利用して、上から人心をつかもうとしたのである。
このような計画は功を奏し、武后は人々の請願を受け入れる形で皇帝になった。
(引用ここまで・続く)
*****
「弥勒の出現」と称して繰り返し起きる、一種独特な破壊的な反乱。
この反乱は、留まるところを知らず、何度も何度も引き起こされます。
弥勒には慈悲がないのか?、という気持ちになりますが、目をそむけてはいけない史実もあるのだと思います。
「弥勒」というものが呼び醒ます独特の雰囲気があるように思います。
また、下のウィキペディアには「マニ教による動乱とする説もある」と書かれています。
この説の根拠があるかどうか、ずいぶん調べましたが、わたしには関連がみつけられませんでした。
しかし、“マニ教が関与”と聞くと、そういう説もあるかもしれない、と思うのはなぜか、ということを考えてみたいと思っています。
おそらく上記の本で金氏が述べておられるように、弥勒信仰が西域由来の信仰であることから、西域で広く信仰されていたマニ教と混同しているのだと思われます。
当ブログでは長いことマニ教について調べていますが、マニ教はグノーシス的な宗教形態であり、現世逃避的とも言えるほど観念的な宗教だと思われ、革命につながるような教義があるようには思えない、と今のところは考えております。
wikipedia「大乗の乱」より
大乗の乱(だいじょうのらん)とは、中国北魏の宗教反乱である。
背景には弥勒下生信仰があるとされる。
また、同時期に中国に伝来していたとされるマニ教によるとする説もある。
北魏の正史である『魏書』が、その顛末を伝える一次資料である。
515年(延昌4年)6月、沙門の法慶が冀州(山東省)で反乱を起こし、渤海郡を破り、阜城県の県令を殺し、官吏を殺害した。
法慶は自らを「大乗」と称した。
それより先に、法慶は幻術をよくし、渤海郡の人であった李帰伯の一族を信徒とし、法慶が李帰伯に対して「十住菩薩・平魔軍司・定漢王」という称号を与えた。
その教えでは、一人を殺すものは一住菩薩、十人を殺すものは十住菩薩であるという。
刺史の蕭宝寅が征討を図ったが敗れた。
凶徒は5万余人に及び、至る所で寺舎を破壊し、僧尼を惨殺し、経像を焼き捨てた。
そのスローガンは「新仏が世に出んとす、旧魔を除き去れ」というものであったという。
7月、征北大将軍に任じられた元遥が討伐に向かった。
元遥は、反乱の徒を撃破して鎮圧し、法慶と妻で尼の恵暉ら数百人を斬り、その首を都に送った。
李帰伯も後に捕らえられ斬殺された。
wikipedia「則天武后」より
武則天(ぶそくてん623年 - 705年)は、唐の高宗の皇后。
中国史上唯一の女帝となり、武周朝を建てた。
漢代の呂后、清代の西太后とともに「中国三大悪女」の一人に数えられる。
690年(天授元年)、ついに武則天は自ら帝位に就いた。
国号を「周」とし、自らを聖神皇帝と称し、天授と改元した。
睿宗は皇太子に格下げされ、李の姓に代えて武姓を賜ることとなった。
この王朝を後世の史家は「武周」と呼んでいる。
帝室が老子の末裔だといわれ「道先仏後」だった唐王朝と異なり、武則天は仏教を重んじ、朝廷での席次を「仏先道後」に改めた。
武則天は諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、自らを「弥勒菩薩」の生まれ変わりと称し、このことを記したといわれる『大雲経』を作り、これを納めるための「大雲経寺」という寺院を全国の州にそれぞれ作らせた。
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などあります。(重複しています)
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まず、中国の弥勒信仰の歴史に関わる部分をご紹介させていただきます。
筆者は、中国において、弥勒信仰は西域から伝わったこと、弥勒信仰に関する経文は西域の人々による翻訳からの中国語訳であることを指摘しています。
そして、西域由来の経文が描き出すこの世の変革者としての「弥勒」の「下生」への願望が強くなってゆくに従い、騒乱や暴動という社会現象があらわれるようになったことが述べられています。
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(引用ここから)
弥勒信仰の中国伝来
弥勒信仰がガンダーラに多かったという事実は、弥勒信仰がその昔西インド地方において盛んであったことを明らかにしているものである。
天山南路を通ってインドに旅行した玄奘が、その途中に立ち寄った敦煌の寺にも、弥勒像があったという。
この旅行途中の見聞について後世の人たちは、「玄奘三蔵は、西域の人々はすべて弥勒のわざを行っていると言った」としている。
初期に漢訳された弥勒経典は、すでに西域地方に伝えられた経典を根拠としており、そのどれもが西域人の手によって訳されていたものである。
そして、これが中国の弥勒信仰と西域諸国の弥勒信仰の深い関係を物語っているのである。
龍門の石窟の銘を見ると、すでに6世紀の初期に、龍華三会(弥勒仏があらわれ、龍華樹の下で悟りを開き、三度にわたって人々のために大説法会を開くという約束)に出られることを願っている例が見える。
北魏時代、「上生信仰」とともに「下生信仰」も相当発達していたように思われる。
このような「下生信仰」を背景として、早くも西暦515年には「大乗賊の乱」がおきている。
沙問・法宝は幻術に長け、みずから「大乗」と称して豪族を心服させ、地方官の失政や凶作などに苦しみあえぐ地方人たちを多くその翼下に集めた。
伝えられるところによると、法宝は部下に薬を飲ませて狂人にし、父子兄弟も分別できないようにして、「一人殺す者は一法菩薩、十人を殺す者は十王菩薩」というように、殺人を多くすればするほど仏僧の位が高くなると説いたという。
こうして起きた大乗賊5万人は驚くべき殺人集団と化し、役人を殺害し、寺院を破壊し、僧尼を多数惨殺した。
ここに北魏朝廷は10万の軍隊を派兵して、4カ月の激戦の末、ようやくこれを鎮圧することができたという。
しかしこのため河北一帯は数えきれないほどの死傷者を出した。
ところでこの大乗賊のスローガンは、「新仏出現して、旧魔を除去する 」というものであった。
すなわち指導者を「新仏=弥勒」としてあがめ、「新仏」の出現によって旧来の支配者や僧尼など一切の魔性を除去して理想国土を実現しようとするものであった。
ここには弥勒の名ははっきりとは出ていないけれども、これは「弥勒下生」と民衆反乱が結合した最初の例であると言える。
隋の610年の元旦には、白衣をまとい、香花をもった一団が「弥勒の出生」と称して、衛兵を殺害し、洛陽の建徳門に乱入するという事件がおきた。
これに連座した者、1000余家に至ったという。
続いて613年、「宋子賢の反乱」が起きた。
彼は幻術に長け、自らを「弥勒の出生」と称していた。
彼は堂上に鏡をかけ、紙に蛇の絵を描き、来観する者がある度に鏡をまわして様々な姿を映し出した。
また罪業ある者がざんげ礼拝すると、紙のヘビを人形に変えるなどの詐術を弄して、一日に数百、数千もの信者を集めた。
こうして勢力を得てから反乱を起こし、帝の行列を襲撃するなどしたが、結局失敗して死んだ。
同年、別の者も「弥勒の化身」であると称して、民衆を集めて反乱をおこした。
彼は自らを皇帝と称し、年号も白鳥元年と改めるなどしたが、結局滅ぼされた。
唐代に入ってからは、則天武后の「武周革命」がおきたが、これは武周が自ら権力を掌握するために、そこに「弥勒下生」の名を借りていたところに特色がある。
彼らは「則天武后はすなわち弥勒仏の下生である」という噂を振りまいた。
従来の「弥勒下生」は民衆反乱に便乗するものであったが、武后はこれをよく利用して、上から人心をつかもうとしたのである。
このような計画は功を奏し、武后は人々の請願を受け入れる形で皇帝になった。
(引用ここまで・続く)
*****
「弥勒の出現」と称して繰り返し起きる、一種独特な破壊的な反乱。
この反乱は、留まるところを知らず、何度も何度も引き起こされます。
弥勒には慈悲がないのか?、という気持ちになりますが、目をそむけてはいけない史実もあるのだと思います。
「弥勒」というものが呼び醒ます独特の雰囲気があるように思います。
また、下のウィキペディアには「マニ教による動乱とする説もある」と書かれています。
この説の根拠があるかどうか、ずいぶん調べましたが、わたしには関連がみつけられませんでした。
しかし、“マニ教が関与”と聞くと、そういう説もあるかもしれない、と思うのはなぜか、ということを考えてみたいと思っています。
おそらく上記の本で金氏が述べておられるように、弥勒信仰が西域由来の信仰であることから、西域で広く信仰されていたマニ教と混同しているのだと思われます。
当ブログでは長いことマニ教について調べていますが、マニ教はグノーシス的な宗教形態であり、現世逃避的とも言えるほど観念的な宗教だと思われ、革命につながるような教義があるようには思えない、と今のところは考えております。
wikipedia「大乗の乱」より
大乗の乱(だいじょうのらん)とは、中国北魏の宗教反乱である。
背景には弥勒下生信仰があるとされる。
また、同時期に中国に伝来していたとされるマニ教によるとする説もある。
北魏の正史である『魏書』が、その顛末を伝える一次資料である。
515年(延昌4年)6月、沙門の法慶が冀州(山東省)で反乱を起こし、渤海郡を破り、阜城県の県令を殺し、官吏を殺害した。
法慶は自らを「大乗」と称した。
それより先に、法慶は幻術をよくし、渤海郡の人であった李帰伯の一族を信徒とし、法慶が李帰伯に対して「十住菩薩・平魔軍司・定漢王」という称号を与えた。
その教えでは、一人を殺すものは一住菩薩、十人を殺すものは十住菩薩であるという。
刺史の蕭宝寅が征討を図ったが敗れた。
凶徒は5万余人に及び、至る所で寺舎を破壊し、僧尼を惨殺し、経像を焼き捨てた。
そのスローガンは「新仏が世に出んとす、旧魔を除き去れ」というものであったという。
7月、征北大将軍に任じられた元遥が討伐に向かった。
元遥は、反乱の徒を撃破して鎮圧し、法慶と妻で尼の恵暉ら数百人を斬り、その首を都に送った。
李帰伯も後に捕らえられ斬殺された。
wikipedia「則天武后」より
武則天(ぶそくてん623年 - 705年)は、唐の高宗の皇后。
中国史上唯一の女帝となり、武周朝を建てた。
漢代の呂后、清代の西太后とともに「中国三大悪女」の一人に数えられる。
690年(天授元年)、ついに武則天は自ら帝位に就いた。
国号を「周」とし、自らを聖神皇帝と称し、天授と改元した。
睿宗は皇太子に格下げされ、李の姓に代えて武姓を賜ることとなった。
この王朝を後世の史家は「武周」と呼んでいる。
帝室が老子の末裔だといわれ「道先仏後」だった唐王朝と異なり、武則天は仏教を重んじ、朝廷での席次を「仏先道後」に改めた。
武則天は諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、自らを「弥勒菩薩」の生まれ変わりと称し、このことを記したといわれる『大雲経』を作り、これを納めるための「大雲経寺」という寺院を全国の州にそれぞれ作らせた。
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