「弥勒」について調べています。
引き続き、菊地章太氏の「弥勒信仰とアジア」から紹介させていただきます。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
*****
(引用ここから)
「法滅尽経」は続けて言う。
「その時、“月光”が世に現れ、教えを伝えようとするわずかな人びとと相まみえ、52年の間、共に教えを復興させる。」
“月光”とは、中国語訳の仏教経典にしばしば登場する「月光童子」のことであろう。
釈迦に危害を加えようとした父親をいさめる少年として語られている。
教えを守ろうとする少年であった。
そういう少年が、末法に教えを復興する人物として描かれるようになった。
「月光童子」への期待は他の「疑経」においても繰り返し語られている。
やがて「月光童子」は、より強力な救済者へと変貌していく。
「首羅比丘経」という疑経では、「月光童子」は“末世に現れ、大災害で苦しむ人々を救う”と説かれる。
・・・・・
「来たるべき世に、かならずや大洪水が襲う。
波の高さは40里にもなる。
大洪水は西北より起こり、東南へ向かって流れる。
波はたけり、雷ははげしく鳴り響く。
その様は譬えようもない。
その時、人々は恐怖におののき、死んでしまう者は数知れない。
そんな中にも、教団の決まりを守り、きよらかに生きて、生死の繰り返しから解放されることを願う人々もいる。
「月光童子」は大竜王に命じて彼らを導き、洪水の波間に浮かぶ山の上へ運ばせるだろう。」
・・・・・
ここでは「月光童子」は末法の救世主として登場する。
また、5世紀前半に作られた道教の経典にも、世界がやがて終わりを迎えることが、繰り返し説かれていた。
さらに道教経典には「真君」と呼ばれる救世主が登場する。
「真君」は選ばれた人々を救い、理想の世界を実現するという。
この思想は、6世紀に作られた仏教の偽典において、弥勒が救世主としての色合いを濃厚に深めていく上で、何らかの刺激を与えたと考えられる。
420年ごろ成立した道教の経典「洞淵神呪経」巻一は言う。
・・・・・
「真君が現れるのは、ま近である。
庚申の年に災害が起こり、世界は大混乱に陥る。
世界は祓い清められ、天も地も改められるだろう。
「真君」とは、真正な統治者、あるいは理想の君主を意味する。
「壬午(じんご)の年になると、かならずや大災害が起こる。
洪水の波の高さは十万丈に達し、道師は山に逃れる。
山に逃れた者は死をまぬがれるだろう。
壬午の年の3月から9月までの間に、人々は死に絶える。
奇病をもたらす鬼ども三七〇〇〇が地をめぐって殺戮をほしいままにする。
それに気付かない者は真っ先に滅ぼされるだろう。
90種の病気が人々の命を奪う。
「真君」はすぐにもやってくるが、悪人はそれを信じず、天がつかわした鬼によって成敗される。
「真君」は天地のけがれを一掃し、太陽と月を作り替え、星を天に並べ替え、楽器の弦を張りかえて調べを整えるように、世界の秩序を正すだろう。
・・・・・
5世紀のこと、実際に王朝の転覆をもくろんで、李弘の名をかたる反乱が相次いだ。
「李弘よ、世に現れよ!」、と叫んで天下のいたるところで反乱をおこす者が数知れない、とある。
514年には、北魏で僧侶による反乱が起きた。
「浄居国明法王」と自称したという。
「明法王」というのは「天輪聖王」のことと解釈される。
「天輪聖王」とは言うまでもなく、「弥勒」菩薩が現れる時、世を治めている王様のことである。
その翌年にやはり北魏で法系という僧侶が反乱を起こした。
そして、“新仏の出現”を語ったという。
“新たに世に出る仏陀”というのは、「弥勒」のことであろう。
いずれの反乱も、「弥勒」との関連なしには理解できない事件であった。
7世紀になると、あからさまに「弥勒」の名を語る反乱がおきるようになる。
それから19世紀に至るまで、あるいはあからさまに、あるいははぐらかしつつ、「弥勒」にことよせた反乱が突発的に起きている。
インド伝来の「弥勒経」では、「弥勒」は“遠い未来”の平和と繁栄の世に現れ、真理にめざめて人々を教えに導く存在であった。
一方で、「疑経」に語られた「弥勒」はというと、“近い未来”に世界が危機に陥った時に現れ、人々を救って世界を再建する役割を担っている。
「弥勒」を仏教の「メシア=救世主」と考える研究者が、欧米には少なくない。
しかしそれは中国で変質した「弥勒」信仰の有り様を古い時代にまで遡らせただけのことである。
古い、残された資料からはそのようなことを確認することはできない。
道教経典の中で、救世主としての「真君」が語られはじめたのは、南中国が王朝の交替によって大揺れに揺れた時代であった。
これに影響されて、「救世主としての弥勒」が疑経の中に登場したのもまた、北魏の分裂から魏の統一に至るまでの動乱の時代であった。
このような方向への転換は、どれほどそれが異端的であったとしても、後の中国における、あるいはアジアにおける弥勒信仰のありかたを決定した。
為政者にとっては、自らを「弥勒」の生まれ変わりとすることで、現在の政治体制を合法化するよりどころとなった。
則天武皇の武周革命がその典型である。
これと対照的に、現実の政治に不満を抱き絶望する民衆は、地下に潜伏して秘密結社を組織し、時に、反乱勢力と結びついた。
近世の「白蓮教」の遠い源はここにある。
そこでは「弥勒」信仰は道教や民間信仰と著しく混淆し、ますます仏教は本来のあり方から離れていったのである。
(引用ここまで)
*****
長々と引用させていただいて恐縮ですが、とても刺激的な研究で、大変興味深く思いました。
ここに登場する「真君」や「月光童子」という救済者の型は、中国独自のものであり、「真君」は道教の概念である、
この世の救済者「マイトレーヤ」としての「弥勒」像は、インド仏教本来のものではなく、
中国において、道教の教理と混ざり合い、変形されていったものだ、ということがとてもていねいに解説してありました。
同じ筆者の「儒教・仏教・道教ーー東アジアの思想空間」という本においても、筆者は東アジアにおいて、本来相容れないはずの思想が混淆し、融和して、より大きな器として人々の心に根付いている様相を述べています。
道教の世界観、予言、救済思想・・・これもまた、大きなテーマだと思います。
「真君」や「月光童子」や「弥勒」を、救済者たらしめている要素は何なのだろう?
日本からマニ教やミトラス教を考える、ということは、これらのさまざまな文化のバイアスがかかっている自分の位置を確かめる、という作業でもあることと思います。
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弥勒下生 7件
法滅尽 4件
マイトレーヤ 5件
仏教 15件
終末 15件
大洪水 15件
予言 15件
白蓮教 2件
中国 15件
道教 8件
などあります。(重複しています)
引き続き、菊地章太氏の「弥勒信仰とアジア」から紹介させていただきます。
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(引用ここから)
「法滅尽経」は続けて言う。
「その時、“月光”が世に現れ、教えを伝えようとするわずかな人びとと相まみえ、52年の間、共に教えを復興させる。」
“月光”とは、中国語訳の仏教経典にしばしば登場する「月光童子」のことであろう。
釈迦に危害を加えようとした父親をいさめる少年として語られている。
教えを守ろうとする少年であった。
そういう少年が、末法に教えを復興する人物として描かれるようになった。
「月光童子」への期待は他の「疑経」においても繰り返し語られている。
やがて「月光童子」は、より強力な救済者へと変貌していく。
「首羅比丘経」という疑経では、「月光童子」は“末世に現れ、大災害で苦しむ人々を救う”と説かれる。
・・・・・
「来たるべき世に、かならずや大洪水が襲う。
波の高さは40里にもなる。
大洪水は西北より起こり、東南へ向かって流れる。
波はたけり、雷ははげしく鳴り響く。
その様は譬えようもない。
その時、人々は恐怖におののき、死んでしまう者は数知れない。
そんな中にも、教団の決まりを守り、きよらかに生きて、生死の繰り返しから解放されることを願う人々もいる。
「月光童子」は大竜王に命じて彼らを導き、洪水の波間に浮かぶ山の上へ運ばせるだろう。」
・・・・・
ここでは「月光童子」は末法の救世主として登場する。
また、5世紀前半に作られた道教の経典にも、世界がやがて終わりを迎えることが、繰り返し説かれていた。
さらに道教経典には「真君」と呼ばれる救世主が登場する。
「真君」は選ばれた人々を救い、理想の世界を実現するという。
この思想は、6世紀に作られた仏教の偽典において、弥勒が救世主としての色合いを濃厚に深めていく上で、何らかの刺激を与えたと考えられる。
420年ごろ成立した道教の経典「洞淵神呪経」巻一は言う。
・・・・・
「真君が現れるのは、ま近である。
庚申の年に災害が起こり、世界は大混乱に陥る。
世界は祓い清められ、天も地も改められるだろう。
「真君」とは、真正な統治者、あるいは理想の君主を意味する。
「壬午(じんご)の年になると、かならずや大災害が起こる。
洪水の波の高さは十万丈に達し、道師は山に逃れる。
山に逃れた者は死をまぬがれるだろう。
壬午の年の3月から9月までの間に、人々は死に絶える。
奇病をもたらす鬼ども三七〇〇〇が地をめぐって殺戮をほしいままにする。
それに気付かない者は真っ先に滅ぼされるだろう。
90種の病気が人々の命を奪う。
「真君」はすぐにもやってくるが、悪人はそれを信じず、天がつかわした鬼によって成敗される。
「真君」は天地のけがれを一掃し、太陽と月を作り替え、星を天に並べ替え、楽器の弦を張りかえて調べを整えるように、世界の秩序を正すだろう。
・・・・・
5世紀のこと、実際に王朝の転覆をもくろんで、李弘の名をかたる反乱が相次いだ。
「李弘よ、世に現れよ!」、と叫んで天下のいたるところで反乱をおこす者が数知れない、とある。
514年には、北魏で僧侶による反乱が起きた。
「浄居国明法王」と自称したという。
「明法王」というのは「天輪聖王」のことと解釈される。
「天輪聖王」とは言うまでもなく、「弥勒」菩薩が現れる時、世を治めている王様のことである。
その翌年にやはり北魏で法系という僧侶が反乱を起こした。
そして、“新仏の出現”を語ったという。
“新たに世に出る仏陀”というのは、「弥勒」のことであろう。
いずれの反乱も、「弥勒」との関連なしには理解できない事件であった。
7世紀になると、あからさまに「弥勒」の名を語る反乱がおきるようになる。
それから19世紀に至るまで、あるいはあからさまに、あるいははぐらかしつつ、「弥勒」にことよせた反乱が突発的に起きている。
インド伝来の「弥勒経」では、「弥勒」は“遠い未来”の平和と繁栄の世に現れ、真理にめざめて人々を教えに導く存在であった。
一方で、「疑経」に語られた「弥勒」はというと、“近い未来”に世界が危機に陥った時に現れ、人々を救って世界を再建する役割を担っている。
「弥勒」を仏教の「メシア=救世主」と考える研究者が、欧米には少なくない。
しかしそれは中国で変質した「弥勒」信仰の有り様を古い時代にまで遡らせただけのことである。
古い、残された資料からはそのようなことを確認することはできない。
道教経典の中で、救世主としての「真君」が語られはじめたのは、南中国が王朝の交替によって大揺れに揺れた時代であった。
これに影響されて、「救世主としての弥勒」が疑経の中に登場したのもまた、北魏の分裂から魏の統一に至るまでの動乱の時代であった。
このような方向への転換は、どれほどそれが異端的であったとしても、後の中国における、あるいはアジアにおける弥勒信仰のありかたを決定した。
為政者にとっては、自らを「弥勒」の生まれ変わりとすることで、現在の政治体制を合法化するよりどころとなった。
則天武皇の武周革命がその典型である。
これと対照的に、現実の政治に不満を抱き絶望する民衆は、地下に潜伏して秘密結社を組織し、時に、反乱勢力と結びついた。
近世の「白蓮教」の遠い源はここにある。
そこでは「弥勒」信仰は道教や民間信仰と著しく混淆し、ますます仏教は本来のあり方から離れていったのである。
(引用ここまで)
*****
長々と引用させていただいて恐縮ですが、とても刺激的な研究で、大変興味深く思いました。
ここに登場する「真君」や「月光童子」という救済者の型は、中国独自のものであり、「真君」は道教の概念である、
この世の救済者「マイトレーヤ」としての「弥勒」像は、インド仏教本来のものではなく、
中国において、道教の教理と混ざり合い、変形されていったものだ、ということがとてもていねいに解説してありました。
同じ筆者の「儒教・仏教・道教ーー東アジアの思想空間」という本においても、筆者は東アジアにおいて、本来相容れないはずの思想が混淆し、融和して、より大きな器として人々の心に根付いている様相を述べています。
道教の世界観、予言、救済思想・・・これもまた、大きなテーマだと思います。
「真君」や「月光童子」や「弥勒」を、救済者たらしめている要素は何なのだろう?
日本からマニ教やミトラス教を考える、ということは、これらのさまざまな文化のバイアスがかかっている自分の位置を確かめる、という作業でもあることと思います。
関連記事
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弥勒 15件
弥勒下生 7件
法滅尽 4件
マイトレーヤ 5件
仏教 15件
終末 15件
大洪水 15件
予言 15件
白蓮教 2件
中国 15件
道教 8件
などあります。(重複しています)
こんにちは、地震に原子炉と大変な時代に突入してしまったようなかんじですね!
弥勒信仰、マイトレーヤ、救世主伝説・・・・・・
これまでに大量の他力本願思想を調べてきましたが
総合的私見としては、「光を与えられる者」は「複数形」だと考えます
彼らや彼女らが、新しい世界を造るのではないかと
欧米思考=救世主を待ち望む他力本願の権威主義者たちは
地球を破壊しても、また神様が新しい地球を用意してくれると考えています
東洋と西洋、大乗と小乗、他力と自力、
相対的価値主義と絶対的価値主義
脳機能が向上する要因として思考形態がキーポイントになるかと思われますね
非常に待望されたものは決してヨーロッパヘは戻らないだろう
それはアジアに現れるだろう
偉大なヘルメスから発した系統(同盟)のひとつが
そして東方のあらゆる王の上で成長するだろう。
『諸世紀』 第10章75節
http://www42.atwiki.jp/nostradamus/pages/203.html
///様
こんにちは。
コメント、どうもありがとうございます。
毎日、これは映画の中だよね?
と思わずつぶやいてしまうような、非日常的な日々ですね。
世界はこれからどうなっていくのでしょう。。
>東洋と西洋、大乗と小乗、他力と自力、
相対的価値主義と絶対的価値主義
おっしゃること、分かるように思います。
この相克を、自分自身で乗り越えないと、いけないのではないかと、私も思っています。
>脳機能が向上する要因として思考形態がキーポイントになるかと思われますね
脳は、なにをしているのか、そして、脳は誰が作っているのか?
わたしは誰か?という問いの現代版かもしれませんね。
そして、その問いへの答えが、現代の神学になるのではないでしょうか?
ワタリガラスの神話-コラム-
http://www.moonover.jp/2goukan/ohter/watari/watarigarasu-1.htm
///様
サイトのご紹介、どうもありがとうございます。
わたしも、動物神についてはマニアックな関心があります。
当ブログでも、カラスについてはワタリガラス、ヤタガラス、何回も取り上げています。
ミトラス神の脇にも、カラスの顔をした従者がいて、わたしはひそかに嬉しかったです。
天と人を結ぶ鳥という生物は、本当に人間の宿命と義務をはっきりと表わしているのではないかと思えますよね。
太陽に向かって飛んでいき、焼け焦げて、息絶える、、これが人間の宿命ならば、飛べるところまで飛んで行ってみよう。。
そんな気持ちになりますね。