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弥勒とアジア(5)・・新羅の少年たちと弥勒の化身

2011-04-14 | 弥勒
金三龍著「韓国弥勒信仰の研究」の紹介を続けます。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

筆者は、中国から視点を移し、朝鮮半島の新羅の「花郎」という年若い少年たちの集団と、弥勒との関わりについて書いています。


     *****


(引用ここから)


韓国弥勒信仰

中国において盛行した弥勒信仰は、我が韓国の三国時代(4-7世紀)の仏教界においても同じような様相を呈した。

また、新羅の弥勒信仰の形態上の特徴として、「花郎」と弥勒の関係は見逃すことはできない。

新羅の「花郎」は、新羅における原始共同体的な遺産であると見ることもできるのだが、それは宗教的修練と武紙的訓練を同時に行う青少年の集団であった。

花郎制度は、その団結の基礎を弥勒信仰に置いたところに意義がある。

すなわち「三国遺事」によると、ある僧は本尊である弥勒像の前で、「弥勒が花郎に化してこの世に出現しますように」と発願し、弥勒仙花という少年に会うことができたという。

また真平王時代の花郎徒は、自ら「竜華の香徒」と称した。

その後の敬徳王代には、花郎徒である月明師が、「とそつ天歌」を歌って弥勒に供養した、と伝えられている。

このような記事はまぎれもなく、集会の中心人物である「花郎」は弥勒の化身であり、したがって、花郎たちは弥勒の保護を受けているという信仰によって、花郎徒の育成発展が可能であった。

したがって新羅の花郎制度は中国のような反乱を前もって防ぐ機能をもっていたのである。

    (引用ここまで)


      *****


この著者と同じことを、前に紹介した「弥勒信仰のアジア」の著者菊地章太氏は、もう少し分かりやすく述べています。
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       *****


    (引用ここから)


 朝鮮の三国時代、新羅・高句麗・百済の三国のうちでは新羅がもっとも遅れて、しかしもっとも旺盛に弥勒信仰を受け入れた。

朝鮮半島の新羅では弥勒信仰が伝わった早い時期から護国の思想と結びついた。

やがて三国時代の末期になると、それは著しい進展をみせた。

「花郎」という青年貴族集団の首領を、弥勒の生まれ変わりとして人々はあがめたのである。


花郎は「弥勒」の化身であるといわれる。


ではどうして花郎が「弥勒」と結びついたのだろうか。

新羅が半島を統一した時の第一の功臣であった金ユシンは15才で「花郎」になった人物である。

彼が率いた集団は「龍華香徒」と呼ばれた。

「弥勒」がこの世に現れて真理に目覚めるとき、龍華樹を背にしていると言う。

「香徒」というのは結社を意味する。

つまり「弥勒結社」である。

彼らが首領と仰ぐその人は、「弥勒」の化身である。

その求心力は大変なものだったろう。

国難にあたり団結できたのも、そのような信念があったからに違いない。

「弥勒」が彼らを守っているのだ。


彼らは戦場にあっても退くことはなかったという。

三国時代の新羅においては、このように「弥勒」の現世への到来が人々によって期待された。

その点では、6世紀の中国において「弥勒」やそれに先立つ救済者の出現が期待されたことの延長にあるといえる。

ただし新羅にあっては弥勒到来への期待が国家に対する反乱勢力に結びついたのではなく、むしろ国家を導く人々から望まれていた点に注意したいと思う。

       (引用ここまで・続く)

        *****


「花郎」という言葉は、この論文ではじめて知りました。

ですが、「花郎」という言葉の、花と男性という言葉の組み合わせにある中性的なイメージは、わたしの知っている百済から贈られたという広隆寺の弥勒菩薩像の、透明な中性的な姿をほうふつとさせ、まさに弥勒にぴったりだという感じがしました。


弥勒の生まれ変わりだと、自他ともに認じて、戦い、退かない若い青年たち。

これは魅力的かもしれません。。

天草四郎には「花郎」のイメージがあるということです。

東洋のジャンヌダルクといったところでしょうか。。



wikipedia「三国時代(朝鮮半島)」より


朝鮮の歴史に於ける「三国時代」とは朝鮮半島および満州に高句麗、百済、新羅の三国が鼎立した時代をいう。

日本の歴史学ではおよそ4世紀ころから7世紀ころまでを指す。

韓国他では紀元前1世紀から紀元後7世紀をいう。

後者の時代区分は高麗時代の史書に依拠する。

三国以前に、また三国と並行して小国や部族国家があった。

扶余、沃沮、伽耶、于山国、耽羅国などである。

それぞれの建国神話によれば、韓国では伝統的にこの時代は紀元前57年に、斯盧(後の新羅)が朝鮮半島の南東部で前漢から自治権を認められた年に始まったとする。

高句麗は鴨緑江以北にあり、紀元前37年に漢から独立した。

紀元前18年に高句麗の二王子が王位の継承争いから逃れ、東明王の子温祚が半島の南西部(今日のソウル特別市周辺)に百済を建国したとする。

これは中国史料と異なるため、日本の史学界ではこの数字を取らず、高句麗を除く二国の建国年代を多く4世紀におく。

百済の都ははじめ熊津(今日の公州或は清州)であったが、のちに泗沘(今日の扶余)へ遷都した。

紀元後1世紀には伽耶が百済から自立した。

220年の後漢の滅亡が、三国の発展を許した。

三国は皆同じ文化を共有していた。

1世紀から儒教が朝鮮半島の上流階級に広がった。

後に儒教は仏教に入れ替わった。

三国のうちで最大であった高句麗は、鴨緑江沿いの国内城とその山城である丸都城の二つの並存された都をもっていた。

建国の始めには高句麗は漢との国境沿いにあり、ゆっくりと満州の広大な土地を征服していき、最後には313年に楽浪郡・玄菟郡を滅ぼし領域に入れた。

中国文化の影響は、372年に仏教が国教とされるまで残った。

4世紀には百済が栄え、半島の南半分を支配した。

斯盧国は503年新羅と国号を改めた。

4世紀の始めに、新羅は国境を接していた伽耶を吸収したことが知られている。

新羅の都は徐羅伐(今日の慶州)であった。

仏教は528年新羅の国教となった。

新羅は唐と結んで(羅唐同盟)、660年に百済を668年に高句麗を滅ぼした。

これによって三国時代は終わり、統一された新羅の時代がはじまった。

滅ぼされた百済の王族は日本にのがれ、百済王(くだらのこにきし)の姓を賜った。

百済王氏からは陸奥国で金を発見した百済王敬福などが出た。

この時代を記述した歴史書に高麗時代の『三国史記』および『三国遺事』がある。



wikipedia「天草四郎」より

生涯

肥後国南半国のキリシタン大名で関ヶ原の戦いに敗れて斬首された小西行長の遺臣・益田甚兵衛の子として母の実家のある天草諸島で生まれたとされる。

その生涯については不明の点が多いが、生まれながらにしてカリスマ性があり、大変聡明で、慈悲深く、容姿端麗で女が見たら一目惚れするとまで言われたほどだった。

小西氏の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立、神格化された人物であると考えられており、さまざまな奇跡(盲目の少女に触れると視力を取り戻した、海面を歩いたなど)を起こした伝説や、四郎が豊臣秀頼の落胤、豊臣秀綱であるとする風説も広められた。

島原の乱勃発時は16才程度の少年で、十字架を掲げて戦闘を指揮したと伝わり、徳川幕府の軍隊による原城への総攻撃を受けて、炎の中で自害したとされる。

実際には少年であった四郎が大規模な反乱を組織したり戦いを指導したとは考えられず、実質的な首謀者は庄屋や浪人たちで、彼はその象徴として祭り上げられた性格が強い。

しかし、3万7000人とされる島原の乱の参加者が主と仰ぐカリスマ的存在であったのは確かである。



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2 コメント

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弥勒とキリスト (///)
2011-04-17 11:51:28
島原の乱と秀吉、家康、千利休は非常に密接な関係があります

キリシタン大名が行っていた奴隷貿易の実態を知った秀吉は
1587年にバテレン追放令を出し、1591年に千利休を惨殺
市中に放置した利休の遺骸を彼の偶像に踏みつけさせました

秀吉のキリシタン弱体政策は韓国出兵という形で
西国キリシタン大名の資金力を削ぐことになります
この政策の実務を行ったのが石田 三成でした

秀吉の死後、石田 三成を恨んだ西国キリシタン大名の力を
巧く利用したのが家康です。
家康はキリシタン大名たちを騙し石田 三成に反旗を翻したのです
関が原の合戦は、毛利がまったく動かないという奇態を演じて終了

権力を握った家康は、秀吉が行ったキリシタン弱体政策を強化します
利用されて騙されたことを知った西国キリシタン大名は反乱を起こしました
しかし、家康・家光は準備万端、キリシタン大名を撲滅することに成功
キリシタンは地下に潜ってしまいます

茶の湯という儀式を通じて大名たちをキリシタンに転向させていった
千利休の組織は、徳川幕府の茶坊主組織を遺産として残します

そして明治維新へと続く・・・その後茶坊主組織は現代の閨閥とも融合します


東洋の神秘 (veera)
2011-04-18 09:44:00

///様

コメントどうもありがとうございます。

茶の湯という儀式は、キリスト教と関係していたんですか!

それは興味深いです。

わたしとしては、あの密室的な空間には関心がありますが、まだ全体像がよく理解できていません。

しかし、ああいう狭い部屋の秘密めいた儀式には、なんらかの秘密に満ちた由来があったことも大いに在り得ますね。

西洋人が不思議がるように、東洋は神秘的です。

同時に、東洋の神秘は東洋を越えた神秘にもつながっているにちがいない、、とは常々思うことです。

また勉強させていただきます。

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