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再掲「「名残りの世」(1)いとしく思いあう風景」・・追悼・石牟礼道子さん・90才で死去

2018-02-14 | メディテーション
4日前のご逝去を悼み、2011年に、当ブログにご紹介した石牟礼道子さんの文章を、あらためてご紹介させていただきます。3回連続です。


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「石牟礼道子「名残りの世(1)・・いとしく思いあう風景」
                            2011年12月20日

前にお盆のことを調べていたら、親鸞の話をする本を多くみかけました。

この石牟礼道子氏のお話も、親鸞的世界を語るものでした。

熊本・不知火のお寺で縁あって開かれた「親鸞をめぐる講演会」に、話手の一人として参加なさったものです。


煩悩と知性と宗教をめぐる、親鸞のパラドックスに満ちた世界が、無名の人々の生き様の中に、みごとに存在している、ということ、

また、苦しみにみちた人生には、それをいやす、濃い情がなければならないのが人の世だ、ということ、

それから、苦しみは、浄化されなければならない、ということ、

人の苦しみ、悲しみを浄化するのが、人の世の努めだと思う、ということを言っておられるのだと思いました。

長いお話を、はしょりながら、まとめたので、意味がわかりにくいと思いますが。。


吉本隆明・石牟礼道子・桶谷秀昭氏の講演記録「親鸞・・不知火よりのことづて」をご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



                 *****

             (引用ここから)


(子どもの頃、母におぶわれて行ったお寺の思い出、大人たちがお寺に集まってきている時のことを思い出しながら)


つつましい晴れ着をまとってきた人々が、全身的に心をかたむけてお坊様の話をきいている。

そういう場所でしばしば出てくる「煩悩」という言葉を考えてみます。

幼いなりに思い当たっていたことがいろいろございます。

朝晩自分の家で起きていること、隣近所や親類の家で起きていること、たいがい小さな争いごとや悲喜劇のさまざまで、

人々が背負っている苦悩のさまざま、そういう表情のさまが「煩悩」というものを表わしているということだろうと、子ども心にいちいち思い当たります。



人間の生身と傷心の世界、人間存在よりも深い作品というものはなく、すべての宗教や文学は人間存在への解説の試みなのだろうとわたしは思うのですが、

この度し難い世界を読み解こうとしてきた長い苦闘の歴史を見ましても、行きつかねばならない到達点など、ないのではないかと思われます。

そうは申しましても、阿弥陀如来というものを人格化せずにはやまなかった先人たちの欲求というものはやはり一つの到達点でして、後世はこの到達点を、後追いするばかりでも大変だという気がいたします。

そのことも仏教は予言しておりまして、後追いをせねばならぬ後の世の時の流れを、天文学的な言い方で「百千万億劫(ごう)」などと言っております。


わたしどもは、あるいはそれを、「業」とも言い換えております。


最初に、そういう意味を含めた仏教の予言がありました。

長い時の流れから言えば、一瞬にして人類史の基底部を見通すほどな最初の人間の叡智が、予言の形をとって語られ、書かれてきました。

仏教の古典に触れて思うのは、自己の運命を予知してしまった人間の「業」、その知性の「業」の深さです。


ところで、そういうものと、宗教書など一度も読まないただの普通の人々が、生きてゆく過程の中でおのずから弁えてくる「業」というものとは、一つになると思います。

そのような意味で、人間というものは何らかの意味で、一人一人が人類史の体験を、己の中に蓄えていると言えませんでしょうか。


薩摩には、「義を言うな」と言う言葉がありますけれど、浄土真宗に言う「義なきを義とす」、、と申す、あの義なのでしょうか。

知というものは、存在の一番底を見通せた時に、その頂をも仰ぐことができるのではないかとわたしは思うのですが、

人間世界と申しますのは、このように生々しいゆえに、「荘厳」ということがより必要になってくるのだと思います。


            (引用ここまで)
        
  
              *****


ここで言う「荘厳」というのは、仏教の形であったり、そのほかの形であったりして、人の思いを浄める作用をもつものではないかと思います。

石牟礼道子さんの言葉はほんとうに味わいがあり、私はこの文章を読みながら、思わず何度も声に出して読んでしまいました。

そうしている自分の声を聞きながら、私は何をしているのだろう?と思うと、それは祈りをしているのにちがいない、と思いました。

度し難い人の世、傷心の世界。

そうした人の世を生きなければならない人間を愛しく慈しむ思いが、石牟礼道子さんの言葉には染みわたっているように思います。

著者が描くお寺のお坊さんのお話を“全身的に心を傾けて”聞きあう人々の世界は、ひとつのつつましい人の世の理想の姿として描かれています。

理想というものが空理空論ではなく、誰もが自分の手で触れ、心から納得できる世界として在るとしたら、それはどんなに貧しくとも、何ものにも代えがたい至宝であることでしょう。




wikipedia「荘厳」より

荘厳(しょうごん)とは、仏語で仏像や仏堂を美しくおごそかに飾ること。また、その物。お飾りともいう。宗派により異なる。

智慧・福徳・相好で仏などの身を飾る(包む)ことも意味する。

サンスクリット語のvyuha(分配、配列)が語源とされ、「みごとに配置されていること」「美しく飾ること」の意。

漢字の「荘」「厳」はいずれも「おごそかにきちんと整える」 という意味。

「立派で厳かな」という意味の荘厳(そうごん)は荘厳から派生した言葉。

荘厳は一般には「そうごん」であるが仏教では「しょうごん」と読む。呉音。

信は荘厳なり

寺堂の立派な装飾を見て信心が啓発されるという意で、内容は形式によって導かれるというたとえ。

「信は荘厳から起こる」「信は荘厳より」ともいう。

香光荘厳

念仏三昧をたたえた言葉。香に染まると香気が漂うように、仏を念じて仏の智慧や功徳に包まれること。

染香人(ぜんこうにん)のその身には 香気(こうけ)あるがごとくなり
これをすなわち なづけてぞ 
香光荘厳(こうこうしょうごん)と ま(も)うすなる 
                     『浄土和讃 勢至讃』

「ブログ内検索」で

親鸞    3件
念仏    9件
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仏教   15件

などあります。(重複しています)

             
             (引用ここまで)

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