始まりに向かって

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中沢新一著「日本の大転換」の研究(1)・・東北・縄文・生態圏

2011-12-11 | 野生の思考・社会・脱原発
さて、図書館の本の予約の順番が回ってきて、やっと中沢新一氏の「日本の大転換」を読めたのは、しばらく前のことでした。

読んでみたら、昔にもこういう考え方はあったような気がして、あちらこちらの本を眺めているうちに、早くも年末の気配が漂い始めました。
(脱原発の展望とニューエイジ、脱原発の展望とトランスパーソナルなど)
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/46a5955931bd58f3282477a937b07f7e


浮世のことは何が何でも「年の内」に済ませなければならない、という日本人らしい思いに突き動かされて、、気持ばかり忙しく過ごしております。。

それで、この中沢新一氏の著作について、思い続けておりましたが、

譬えるならばこの本は、「年末」のようなあわただしい性質のものではなく、「年の初め」のひとときのような、のどかさと清らかさと品の良さを備えた作品ではないだろうか、と思うに至りました。

「後書き」には、「『緑の党』のようなものができた時には、この本はその政治的理念をまとめたマニフェストとなる」と書いてありますので、この本は多くの人の手元に届くことを念慮して書かれたのだと思いますので、私も一人の選挙権を持つ者として、この本をマニフェストとして読んでもいいのだろう、と思いますが、

私としては、なにかこの本に内在する“年の始め”のようなおおらかさを、研究の主テーマにしてみたいと思います。


まず、「日本の大転換」から少し紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

本書は、次のような「前書き」から本文へと続きます。

 
              *****


           (引用ここから)


ひとつの明白な事実がある。

それは東日本大震災による福島の原発事故を境として日本文明が根底からの転換をとげていかなければならなくなった、という事実である。

元通りの世界に復旧させることなどはとうてい出来ないし、また、してはならないことだ。

わたしたちは否応なく未知の領域に足を踏み入れてしまったのである。


        (引用ここまで)


          *****


あの地震の日、多くの人が日本文明の危機を自分のこととして感じたことと思います。

余震が続く中、人心地つく間もなく、テレビから「福島の原子力発電所が地震で破壊され、炉心が溶解して放射性物質が大気中に漏れ出し始めた」という情報が絶え間なく流れ始め、多くの人々がこの世の終わりがついに来たと感じたのでした。

けれども、「元通りの世界」に復旧させることはできないかもしれないけれど、出来る限り「元通りの世界」に戻そう、という思いはあったのではないでしょうか。

いわゆる「がんばろう、日本」の意気込みです。

「未知の領域」には来てしまったが、早く「元の世界」に戻りたい、というのが一般国民の普通の感覚でしたでしょう。

ですから、この本はレトリックが駆使された大学教授の学術書なのだろうという印象を持ちました。

けれども同時に、それでは「元の世界」ではない「未知の世界」とはどんなところなのだろう?という好奇心を誘う心地よさでもありました。


        *****


        (引用ここから)


地震と津波は生態圏の直下で起こる地殻の振動に原因しているから、それによって生態圏の受ける損傷は、生態圏自らの力で修復していくことができる。

ところが、原子核の反応という、生態圏の外部、地球をも包み込む「太陽圏」の物質現象が生態圏に及ぼしたものの影響を、長い時間をかけてでも癒していく能力を、私たちの生態圏は持っていない。

原発の建設は産業界からの強い後押しによって支えられてきたが、その産業は経済と一体であり、この経済の在り方が私たちの生活や意識の質を決定している。

原発は私たちの生態圏の外部に属する物質現象からエネルギーを取り出そうとする技術であり、その技術的な問題が、わたしたちの実存と一体になっていることがわかる。

地球科学と生態学と経済学と産業工学と社会学と哲学とをひとつに結合した、新しい知の形態でも生まれないかぎり、私たちが今直面している問題に正しい見通しを与えることなどはできそうにない。

わたしはその新しい知の形態に「エネルゴロジー=エネルギーの存在論」という名を与えようと思う。

        (引用ここまで)


         *****


著者が言いたいことは大体分かるような気がしますが、ところどころよく分からないところもあります。

一番分からなくて、また最後まで分からなかったのが、一番大事な言葉「新しい知の形態である『エネルギーの存在論(エネルゴロジー)』」という言葉でした。

これは未だに分かりません。

 
       *****


       (引用ここから)


福島第一原発での事故は、たんに原子力発電所が機能不全に陥ったのではなく、資本主義システムに組み込まれた「原子の炉」が破たんしたのである。

その事故によって、これまで表面に現れる事のなかった多くの問題がむき出しにされた。

今回の出来事が日本文明にとってまさに文明的危機を表わすほどの重大性をもつと認識されるのは、それが文明と経済の結びつきの根幹に触れているからである。


    (引用ここまで)


       *****


ここは大変よくわかる部分でした。

この本のテーマは、日本の文明と日本の経済の特質を探り、またその未来を展望する、ということだと思います。


       *****


     (引用ここから)


社会というのはどこでも、具体的な人間の心のつながりで出来ている。

社会の中の個人は、程度の違いはあっても、決して孤立して存在してはいない。

さまざまな回路を通して、人間同士の心のつながりを維持しようという方向に社会は働きを行おうとする。

つまり人間同士を分離するのではなく、結びつける作用が社会には内在しているのである。

このような社会の本質を「交差(キアスム)」の構造として捉えることができる。


資本主義以前の世界では人間と生態系の間にもこの「交差(キアスム)」の構造が貫かれていた。

社会は必ず外部性とのつながりを保ちながら、自ら活動する。

つまり社会は矛盾を受け入れながら作動するダイナミズムなのであった。


まさにそのような「交差(キアスム)」の働きによって作られていたのが、他ならぬ東北の世界である。

東北内陸部での稲作農業の発達は遅く、その文化はむしろ縄文文化の歴史の上に築かれてきた。

縄文文化には、西日本から伝わって来たその後の文化には無い、いくつもの特徴があるが、最も大きな特徴は、人間の文化が作り上げる人工秩序と、それを取り巻く自然秩序の間に深い「交差(キアスム)」構造のパイプが作り出されていたところにある。

動物や植物、祖先霊をはじめとする霊的存在が生者の世界との間を自由に行き来し、人工と自然、生と死が混然一体となった全体世界を形成してきた。

人類は十数万年もの間、このような「交差(キアスム)」構造に基づく世界で生きていたのである。

社会というものをこの「交差(キアスム)」構造を抜きにして語ることは不可能である。


         (引用ここまで)


            *****


地震が起き、原発事故が起きたのが「東北地方」であることが、ここで重視されることになります。

首都圏との比較というような問題ではなく、これは東北地方が「縄文時代」の遺産を引き継ぐ地域であるからである、と重ねて強調されます。

また縄文時代とは、人工と自然、生と死が交感する独自の世界であったと述べられます。

縄文時代と東北地方と原発事故。。

これはなんとも不思議な取り合わせで、これからどのように論が展開するのか心が踊りました。。



三省堂大辞典「キアスム」の項より

キアスム [(フランス) chiasme]
メルロ=ポンティの用語。
見るものと見られるものが、相互に可逆的に侵蝕し合っている状態。
主体と客体の分離を乗り越えるための用語。
交差配列。



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