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奥平康弘氏「9条の魂」2012年・・「九条の会」の立ち位置(3)

2016-09-23 | 野生の思考・社会・脱原発



2012年に行われた「九条の会」の講演会の記録「いま、憲法の魂を選びとる」の中から、会の発起人のお一人の憲法学者・奥平康弘氏の講演をご紹介します。

独特な言い回しが少し分かりづらいのですが、青年のような感性に好感を持ちました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


                *****


               (引用ここから)

「いま一度、魂を選びとる」        奥平康弘

〝空虚な理想論″、、著名なコメンテーター・寺島実郎氏が雑誌「世界」に書いておられる文章の中に出てきた言葉です。

「「非武装中立論」という言葉は、国際情勢の紛争のなかで〝淡雪のごとく″、急速に勢いを落として、空虚と化した」とありました。

あえてぼくは、その著者に対して反発をします。

〝淡雪のごとく、「非武装中立論」が空虚と化した″という文章が、こちらとしてはすごく気になったのです。

こういうことを主張している人もいる、ということは分かっているのですけれど。

現今最大の争点の一つである「原発存廃問題」について、「平和利用に徹した原子力の基盤技術の維持と蓄積こそ大事なのに、原発を今すぐなくしてしまうという、「脱・原発」論は現実的ではない」ということを言わんとしているその文章の文脈の中で、寺島氏は次のように述べます。

「私は多くの「脱・原発」の論調に「非武装中立論」にも通じる虚弱さを感じる」。


敗戦国日本で、深い反省に立ち、二度と戦争に巻き込まれたくないとの思いで宣言している「非武装中立」であるというのに。。


「非武装中立」、、ぼくの学生時代には「「再軍備」しない平和主義」という言葉もありました。

戦争は絶対しない、武器は絶対とらない、平和主義ということを示すために、非常に大きな枠組みで「非武装中立」という言葉が広く使われていました。

著者は、その言葉と、「脱・原発」とに、似たような〝ひ弱さ″を感じる」と言っているのです。

寺島氏は言います。

「かつては「二度と戦争に巻き込まれたくない」との思いで「非武装中立」を希求した人たちが存在したことも理解できる。

しかし現実には、峻厳な国際環境の中で瞬く間に〝空虚な理想論″にさせられていった。

求められるのは、重層でたくましい構想力なのである」。


「非武装中立」は「空虚な理想論」でしかなくなってしまった」という、その件(くだり)が、ぼくにとっては非常に衝撃的でありました。

ぼくのように、そしておそらく「九条の会」にお集まりの方々は、スローガンとしての「非武装中立」、あるいは「非戦平和」とか、「無武装平和主義」という言葉を使いながら、「憲法9条」のまとまりをつけてきているのだと思うのです。

必ずしも「非武装」という部分に重点を置かず、「自衛権は保持し、しかしそれは自衛に留まり、絶対に外には行かない、戦わない(=非戦)」といったレベルで考える人たちも含め、そのフレーズには「9条」の魂が込められていることは確かであると言えるわけです。

それを寺島氏は、「瞬く間に〝空虚″と化してしまっているじゃないか。あんなもの役に立たなかったんだ」とおっしゃっている。

              ・・

wikipedia「寺島実郎」より

寺島 実郎(1947年 - )は、鳩山由紀夫政権でのブレーンであり日本の評論家。

政治経済における東アジア統合を唱えており、憲法9条2項の改正とともに、対等な日米同盟とアジアでの多国間安保関係を提唱する一方で、軽武装・経済国家路線の堅持を説くなど、穏健な保守派として知られる。

ジョージ・W・ブッシュ政権となって以降はしばしば反米的な発言をするが、本来は親米派であり、「親米入亜」)を標榜している。

“アジアダイナミズム”の重要性を説いている。

日本のエネルギー戦略の脆弱さを指摘し、東日本大震災後においては、「日本の原発技術を絶やしてはならない」と発言し、早期の原発再稼働や原発技術の海外輸出推進を主張している。

              ・・

「9条の魂をつかまえる」


歴史の中で「非武装中立」あるいは「再軍備反対平和主義」あるいは「非戦平和主義」、いろいろな言葉で呼ばれてきた「9条」というものは、どのように戦われてきたのか?

戦われずにはすまされないほど、いろいろな問題を持っていたわけです。

ご承知のように、アメリカによる占領が終了するのと、朝鮮戦争が始まるのとほぼオーバーラップしながら、「警察隊」が出来、次にそれに合わせて「保安隊」となり、1954年に「自衛隊法」が成立します。

そうすると政府としては、あるいは国会対策としては、「自衛隊法」を正当化しないわけにはいかないということになって、もとは一緒に「非武装中立」なり「再軍備反対」なりで固まってきた日本人の中が分かれてきて、そして「自衛のためだったらいいんじゃないの?」という話が浮き上がってきました。

そして55年体制あたりから、支配階級側、社会を支配する人たち・・ぼくは「向こう側」と言うのですが・・そしてそれに直接的に影響を受ける人たちは「自衛のための戦争ならいいんじゃない?自衛のために実力を持つということは「憲法9条2項」でいう「゛陸海空軍その他の戦力″には当たらないんだ」という理屈を付け始めます。

それが「集団的自衛権」とは別ものとして「個別的自衛権」として、内閣はずっと理屈付けているのです。

こういった道筋がある中で、ぼくは憲法研究者として、どんな憲法裁判があったかということを辿っています。

いろんな憲法裁判がありました。

そして、おいそれと〝空虚″とは化さなかった、ということが分かります。

いや過去形ではなく、今でもそうです。

最近も2008年名古屋高裁が、バグダッドなどで行われる航空自衛隊の空輸活動を巡る裁判で、「違憲である」という判決を、いわゆる「傍論」で語っています。

しかし、「9条」が「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と言っている中で、「いや自衛のための実力は戦力じゃない」という内閣解釈が出てきて、それが居座っているのが「個別的自衛権」です。

「個別的自衛権」として、我が国がわが国だけで守る。

敗戦当初は、政治家ももちろん全国民的な規模で、「非武装中立・再軍備反対・中立」という線をかなりの時間真面目に真剣に考えていたことがありました。

1945年8月の敗戦により一切の軍隊がなくなった時、日本人は初めて理想的な見地を語ることができたものでした。

その唯一の戦後の時期に於いて、圧倒的多くの人たち、国民は「非武装中立」「非武装平和主義」「非戦平和主義」、いろんな言葉をもって「9条の魂」をつかまえていたのです。


          (引用ここまで・続く)

             *****

とても分かりにくい文章なのですが、敗戦直後の一時期には、日本人は政府も本気で「非武装中立」という命題を、新しい日本国憲法として、真剣に受け止めていたのだ、と著者は言いたいのだと思います。

その後、体制側、反体制側に分裂して久しいけれど、日本人の共通体験として、「非武装中立」を現実の命題として考えていたのは事実である、と。

その共通体験という歴史的事実を、著者は「たましい」という言葉に込めているのではないかと思います。


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