養老孟司・斎藤磐根氏の共著「脳と墓」という本を読んでみました。
人間の社会とは不思議なものだということがつくづく書かれています。
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(引用ここから)
脊椎動物は進化の過程で「脳化」と呼ばれる方向に進んできた。
より新しい方の動物は、より大きな脳を持つ。
この進化傾向の成れの果てが、現代の都会である。
都会には、脳の産物以外のなにものも存在しない。
建築物であれ、道路であれ、街路樹であれ、ペットであれ、すべては人の脳が作り出し、配置したものである。
ここでは脳はもっぱら脳の産物に囲まれ、おとぎの国に暮らす。
そこには違和感はない。
あれば脳はそれを排除する。
違和感は脳に生じるからである。
だから200メートルもある超高層ビルまで作ろうとするし、ワンルームマンションでも住める。
では、“自然”とは何か。
人がかつて社会を造り始めたころは、それは“自明”だったろう。
至る所、その“自明”、つまり“自然”が存在したからである。
それは人間にあらゆる益を与えると同時に、あらゆる危害を加える。
“自然”とは本来的に“統御できないもの”を意味するのである。
“社会”とは、“統御可能”な脳の機能を集約するものである。
それはそのようなものとして作られたからである。
社会とは、要するに脳の産物である。
ところが、その脳とは、身体を統御する器官であり、環境を統御する器官である。
社会は個人の集合であるというのは、間違いである。
個人とは、身体の上に成り立ち、その身体は“自然性”のうえに成り立つからである。
その“自然性”を、社会は排除する。
そして排除する身体の器官は、脳である。
脳は身体の一部であるがゆえに、初めから矛盾を抱えている。
個人と社会の相克は根本的にここに発する。
社会は個人の集合ではない。
社会は脳のアナロジーである。
つまり脳がなぜか外部に、脳自身を実体化したものに他ならないのである。
脳化=社会は身体を嫌う。
それは当然である。
脳はかならず自らの身体性によって裏切られるからである。
脳は、その発生母体である身体によって、最後にかならず滅ぼされる。
それを知る者は脳だけである。
だからこそ脳は、統御可能性を集約して社会を作り出す。
個人は滅びても、脳化=社会は滅びないですむからである。
脳内における、死をめぐる帳尻あわせこそ、宗教に他ならない。
この世は統御可能な社会である。
これに対し、あの世も、誰も見たことがないので、どのようにでも統御できる。
したがって、この世とあの世の間に関係をつくり、それを統御しようという宗教というものは、まさに脳が行う業である。
宗教は社会と表裏一体となって、社会を裏から支える。
社会が続くかぎり、宗教も形を変えながら続く。
人間が自分自身のことが分かるまで。
(引用ここまで)
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すべては脳が作りだしているものだという筆者の考えは、なるほどと思えます。
そして、その脳は身体の一部であるという宿命によって、身体が滅びる時には滅ばざるをえないということも、なるほどと思いました。
文明は脳の墓標であると思われます。
映画「おくりびと」はまだ見ていないのですが、青木新門氏の原作「納棺夫日記」を読んでみました。
作者は納棺夫の仕事から人の死についていろいろなことを考えていました。
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(引用ここから)
私がこの葬送儀礼という仕事に携わって困惑し驚いたことは、一見深い意味をもつように見える厳粛な儀式も、その実態は迷信や俗信がほとんどの、支離滅裂なものであることを知ったことである。
迷信や俗信をよくぞここまで具体化し、儀礼として形式化できたものだと思うほどである。
人々が死をタブー視することをよいことに、入らずの森のように神秘的な領域となって、数千年前からの迷信や今日的な俗信まで幾重にも堆積し、その上日本神道や中国儒教や仏教各派の教理が入り混じり、地方色豊かに複雑怪奇な様相を呈している。
こうした葬送儀礼様式や風習が生まれる原因も、元はと言えば、「我々はどこから来て、我々は何で、我々はどこへ行くのか」があいまいであることから来ているのである。
今日の仏教葬儀式に見られる姿は、釈迦や親鸞の思いとは程遠いものであろう。
極端に言えば、「アニミズム」と「死体崇拝」という原始宗教と変わらない内容を、表向きだけは現代的に行っていると言っても言い過ぎではない。
科学が、宇宙や生命の謎を解き明かそうとしている時代に、霊魂を信じるアニミズムが数千年前と変わりなく人々の心に巣食っている。
そのことは、迷信や俗信の裏に霊魂の実在を信じる人間の自我が、断ちがたく存在しているということに他ならない。
釈迦は、当時輪廻説を解いたバラモンが霊魂の実在を信じていたのに対して、霊魂(自我)を否定し、無我を縁起とした新しい仏教を解いたはずである。
(引用ここまで)
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人間は崇高な存在であるとともに、迷いの雲の中をさまよっているものでもあるのだという気持ちになりました。
脳に関する科学が必要ではないかと思いました。
筆者はいよいよ死に肉薄していきます。
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(引用ここから)
毎日毎日死者ばかり見ていると、死者は静かで美しく見えてくる。
それに反して、死を恐れ、恐る恐る覗きこむ生者たちの醜悪さばかりが気になるようになって来た。
驚き、恐れ、悲しみ、憂い、怒りなどが錯綜するどろどろとした生者の視線が、湯棺をしていると背中に感じられるのである。
死者の顔を気にしながら、死者と毎日接しているうちに、死者の顔のほとんどが安らかな顔をしているのに気づいた。
生きている内にどのような悪や善を行ったか知らないが、そんなことはあまり関係がなさそうだ。
信仰が篤いとか薄いとか、そんなことにも関係なく、死者の顔が安らかな顔をしているように思えてならない。
死んだままの状態の時などは、ほとんど目は半眼でよくできた仏像とそっくりである。
(引用ここまで)
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社会や文化が人間の妄想の産物であるとすると、人間が姿を消した暁に、地球はやっとおだやかな日常を取り戻すのかもしれません。
でも、これこそが現代文明の課題なのは、なんと皮肉なことでしょうか。
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