始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

東アジア共同体という夢・金泳鎬氏・・「九条の会」の立ち位置(7)・2014年

2016-10-05 | アジア




引き続き、2014年に行われた「九条の会」の講演会の記録から、金泳鎬氏の講演のご紹介を続けます。

論者が言うように、東アジアの国々は相互に強く影響しあっているので、どちらが良い、悪い、と言い合うよりは、よりいっそう高い視点から、アジアを相対視し、総合的にとらえたらどうか?という考えには、同意できます。

先日のオリンピックで、日本中の応援を受けて、日本のメダル獲得のために本気で勝負をし、みごと銅メダルに輝いた卓球の福原愛選手は、中国でその技術を磨いてきたのだし、そのみごとな成果とともに、27才の年頃の女性らしい愛らしさで、晴れやかな表情で、台湾の青年との結婚を報告していました。

だれもが、愛さんの幸せを祝福していることと思います。



リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



          *****


         (引用ここから)

「敵対的相互依存の悪循環メカニズムをこえて」


主権者である国民ないし市民の意思と、国家ないし政府の意思との間のかい離は、現代の民主主義が直面している難しい問題であるが、日本、中国、韓国などでは、そのかい離が深まり広がっていく構造に陥ったところに問題の深刻さがある。

中国は150年あまりに亘った「屈辱の世紀」をへて、眠れる獅子が目を覚ましたように立ち上がっているが、それが覇権主義に向かわないようにするためには、過去の日本の覇権主義の遺産を清算することが非常に重要である。

百余年前におきた日本帝国主義による「韓国併合」の不法無効化運動をわれわれが展開した理由も、韓国民族主義の要求にとどまらず、シビル・アジアの必須の前提条件であるからであった。

しかし、安倍政権は正反対の方向に向かった。

「日本を取り戻す」という安倍政権のキャッチコピーは、われわれが乗り超えようとする過去をむしろ肯定し、美化する「歴史修正主義」の立場から、われわれがこれほどまでに守ろうとしている平和憲法体制を克服の対象とみなす憲法改正論として現れており、

それをまず「平和憲法」の精神に反する「集団的自衛権の行使容認」という便法で実践する形として具体化している。

それはまさに戦後、冷戦の波に追われて歴史清算の作業が不十分であったところを、冷戦後さらに清算しようとする、いわば謝罪の時代に正面から逆行することであった。

このごろ世界的な注目を浴びているトマ・ピケテンは「21世紀の資本」で「過去が未来を支配する」という原理を実証的に説明しているが、安倍首相の行動は、過去に対する認識が現在、未来を支配する現象をリアルタイムで見せている。

その結果として中国、韓国などとの歴史の衝突をもたらし、それが領土ナショナリズムの対立を柱として全般的なナショナリズムとナショナリズムの間の対立をあおり、日本と中国との間には安保ナショナリズム、ひいては覇権主義対覇権主義という敵対的関係が形成されてしまった。


これと前後して、尖閣諸島問題が起きた。

国家間の紛争はある一方にその責任を転嫁しにくいほど相対化される傾向があるが、冷静な観察者の間では日本政府の突発的な国有化措置が事態の決定的なきっかけになったと見ているのが事実である。

それは当時、駐中国日本大使が日本政府の措置に激烈に抗議し警告した事実にもよく現れていると思う。

この措置に対応して中国側の激しい反発と武力示威があり、また日本の反撃があって、中国側の再反撃があるという悪循環の過程で、互いの領土ナショナリズムが衝突し、エスカレートしながら急激に危機が拡大深化した。

我々はこれを「敵対的相互依存の悪循環メカニズム」と呼んでいる。

安倍政権としては習近平政権という敵が必要であったのであり、習近平政権としては安倍政権という敵が必要であった。

外部の敵との敵対関係を利用して、国内のナショナリズムを高め、保守化を強めてリベラルの挑戦を弱化させ、その結果として国家は帝国化し、市民は臣民化、あるいは国民に回帰する危険におちいる。

さらに日本政府は、丸山真男氏の指摘のように、太平洋戦争を起こして数千万人の命を失わせたという事実から、ナショナリズムの処女性を失ったという背景のせいで、民族主義をまた復活させるためには戦争犯罪を希釈ないし歪曲させる「歴史修正主義」が必要であった。

日本の市民はまた、市民が市民の権利を譲る代わりに、臣民化されて得られる、他民族に対する特権を享受したことへの郷愁があり、臣民化の誘惑に弱い。

したがって国家と市民との妥協の可能性が生じる。


日本で今起こっているヘイトスピーチの洪水、嫌韓・嫌中の本や雑誌の氾濫、ナチズムをも連想させる在特会の街頭行進(韓国ではすでに20~30年前にほとんど消えた、非文明的な風潮)が、アジアの最先進国である日本で「言論、集会の自由」という名目で横行していることは、特異な歴史的風景である。

これは安倍政権の影の舞台と見る向きもあるが、最近安倍政権の閣僚がヘイトスピーチの主導者たちと共に撮った写真が現れて、やはり根拠のある噂であるかな、と思わざるをえない。

政治哲学者ハンナ・アーレントは、アイヒマンのホロコースト裁判を見て、「悪の平凡性」という概念を表出したが、ヘイトスピーチが言論・集会の自由を名分として、合法的にSNSを使って、公権力の庇護を受けながら、公然と行われることを見ると、「悪の文明性」の具体例を見ているような気持を禁じ得ない。

どこの国でもヘイトスピーチはあるが、健全な市民社会の自浄力で自浄していくので、日本もそのようになると思われる。

我々は日本の市民社会の自浄力を信じたい。

ドイツのメルケル首相が痛烈に指摘したように、ナチズムはヒトラー一味だけの責任ではなく、知識人を含めた市民の責任であるが、日本もまったく同じであったと思う。

日本は中国との戦争の危険に直面して「安保」か「憲法9条」かという二者択一の構図に市民を閉じ込めて、「集団的自衛権」の支持率を引き上げようとしている。

習近平政権もまた、安倍政権という外部の敵を活用し、中国ナショナリズムを高揚させながら、穏健なハト派が後退し、強硬なタカ派が中心になって対外覇権主義的な動きを強化しながら軍拡に拍車をかけ、政府中心の動員体制を強化している。

その結果、国内の広範な民主化要求や政府に対する様々な批判的動きが抑圧され、弱化している。

このような敵対的相互依存の悪循環構図のなかで、国家は市民社会を委縮させる帝国化の傾向を帯びるようになり、相対的に過大国家と市民の国民回帰という、一種の「帝国と臣民」、または「帝国と国民」という構図を作る。

この構図の中では政府間の対立や敵対関係が、市民間あるいは人民間の対立・敵対関係へと広がる。

シビル・アジアは後退して、歴史は逆流する。

活発に行われていた「東アジア共同体」論は、今や遠い過去の話になってしまった。

20世紀初頭、日露戦争で日本が勝利した後、日英同盟体制が支配した時代に、東アジアに手を出す驚異的な国家は存在しなかった。

中国とロシアは革命前の混乱の中にあり、国家の存立自体が揺らぐ状況であった。

したがって他の強大国による植民地化が進んで、日本にとって大きな脅威となるのを防ぐために、日本は領土拡張に先手を打ったのだ、という理論にはまったく根拠がない。

当時日本が侵略主義に進まなかったら、アジアはあれほどの極端な破壊と戦争と恨みの大陸へと化さず、平和な協力体制が形成され、日本は真の盟主になったはずである。

戦後にも東アジアの和解、統合の機会があった。

とくに冷戦後、再び世界的に歴史和解の潮流がおきて、東アジアにおける貿易・投資の統合が急ピッチに展開されたとき、日本は過去の日本の覇権主義の影をぬぐいさって、歴史和解とともに東アジアの韓国、台湾など民主国家および中国のハト派と提携して中国国内を説得し、東アジアの平和民主統合のイニシアティブをとる機会があったと思う。

しかし、安倍政権にいたって正反対の「歴史修正主義」「領土ナショナリズム」「集団的自衛権の行使容認」「日米軍事同盟強化による対中国対決体制の強化」「中国の強硬なタカ派の全面的浮上と新覇権主義的路線の復活」などで、東アジアは100年前のサラエボの銃声が聞かれてもおかしくない状況になってしまった。

日本は再び東アジアの平和と統合を破壊した責任から自由ではなくなった。


          (引用ここまで・続く)

             *****


ブログ内関連記事

「ヘイトスピーチではなくて、インターナショナルスピーチを・・セブ島で英語教室」

「ゲートウェイとしての国境という発想・・ボーダーツーリズムの試み」

「朝鮮と古代日本・・済州島をめぐる考察(1)」(6)まであり

「日韓めぐりソウルでシンポジウム・・韓国現代詩賞を日本人が受賞」


「スサノオは渡来人だったのか?・・梅原猛の「古代出雲の謎を解く(2)」

「日・中・韓の、琴の音を聞き比べる・・片岡リサさん」

「アジア」カテゴリー全般
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする