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市民は平和を求め、和合し得る・金泳鎬氏・・「九条の会」の立ち位置(8・終)2014年

2016-10-07 | アジア



引き続き、2014年に行われた「九条の会」の講演会の記録から、金泳鎬氏の講演のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


           *****

        (引用ここから)



「東アジア市民の連帯をテコとして」


国家と市民のかい離が極端にまで行き、「帝国と国民」の枠に閉じこめられ、安保か平和かの二者択一を強いられて、国民が安保危機対応体制に加わることは、国家の論理であって市民の論理ではない。

市民同士、人民同士は対立したり、敵対したりする理由がない。

市民の論理に立って、市民と国家との関係を再調整し、声を上げてゆくデモクラシーの方にもっと近づかなければならない。

そもそも「平和憲法」自体が、市民の論理の上で国家と市民との関係が再調整された結果の産物であり、その「平和憲法」体制が影響しあう東アジアの平和と高度産業化の過程から形成された6億の中産層が中心になって、

西ヨーロッパ市民社会のように東アジアの市民社会ないしはシビル・アジアが形成される直前まで至った成果を完成しなければならない。

そのためには、国際的に保守政権同士が相互依存するように、市民間ないし国民間の連帯を強化して相互依存関係を強固にすべきである。

東西ドイツ統一の直前に東ドイツ政府の反統一的な動きがあった際、市民が「私たちがまさにその国民である!」と叫びながら、国家の主権者である人民自身が前面に出て、統一妨害工作を粉々に壊したように、

日中韓の市民と国民はシビル・アジアを逆行ないし後退させて戦争の危機を造成する「敵対的相互依存関係」を克服しなければならない。

市民あるいは国民とかい離した政府と政府との間に幾多の国際制度の連携、協議機構があるように、市民社会と市民社会との間、またはNGOとNGOとの間にも、固い連帯関係が形成されてこそ、政府と市民の関係における再調整のための均衡が成り立つ。

このような文脈から、我々は「東アジア市民平和会議」を構成することを提議する。


もし中国側から「市民」という用語に異議が提起されるならば、いくらでも修正ができよう。

この「市民平和会議」は、「東アジア市民平和憲章」の制定を第一次課題とすべきである。

「東アジア市民平和憲章」には、アジア市民の平和意識がアジアの戦争不安を解消するテコになる基本理念を盛り込むべきである。

従来、国によって形成されて、国家のために展開された国際法の世界において、市民の関与は限定的かつ間接的であった。

しかし国際化が深まり、シビル・アジアが進展すれば、市民が国を経由せず、世界やアジアに密接に結ばれる。

こうしてアジア問題に対して国を経由せずに関与したり、あるいは国を補完して参加する状況になり、そして市民とアジアとにおける基本関係の理念定立が重要になった。

地域協力や平和は、政府と市民社会の協治で可能になる時代である。

政府間協力と市民間協力という、2つのワダチで行くべきである。


ただいまのところ、市民不在のアジアになっている。

それが〝危機のアジア″へと帰結している。

今日もっとも重要な課題は、〝市民参加のアジア″であり、それがシビル・アジアに至る近道である。


「市民平和会議」参加者の代表の問題があろう。

この問題の解決が簡単でないことは事実であるが、慰安婦問題なら慰安婦問題国際会議に参加する各国の代表性のある人を、関連NGOが選定するのは難しくないだろうし、尖閣列島問題なら利害当事者を排除した客観的な第三者の団体が代表性のある人を選出することも難しくないだろう。


日本の「平和憲法」を、東アジアの共有資産にしようとする動きも、東アジアで徐々に広がり、その運動のリーダーたちも平和会議に参加することができる。

人権問題、平和問題、環境問題、歴史問題なども似通っていると思われる。

このような市民代表または専門家は、政府代表より合意を導くことにずっと柔軟であろうと思われる。

国ができないことを、市民の手でやってみようとする試みである。

「東アジア市民平和憲章」においては、アジアの平和は各国の安全保障に劣らぬほど優先すべきであり、各国の歴史の立場からアジア共同の歴史を見ることに劣らぬほど、アジア共同の歴史の立場から各国の歴史を見ることが重視されなければならない。


日本の過去の侵略や戦争の歴史清算の課題は避けられない問題であろう。


「東アジア市民社会」は、目指すべき目標である。

「東アジア市民社会」は、東アジア共同の歴史教科書編纂の課題をなし遂げる潜在力を持つだろう。

自由・人権・平等のような市民的普遍価値を抱えて、輝く潜在力もあると思われる。

アジアの日本化、アジアの中国化を乗り越え、アジアのアジア化、すなわちアジアの「アジア市民社会化」をめざすべきであり、東アジア人権裁判機構成立の課題も盛り込むべきである。

「東アジア市民平和会議」は、ユネスコのグローバル市民意識フォーラムのアジア支部の役割も兼ねる。

「ASEAN平和憲章」はすでに、2007年に公表されている。

「東アジア平和憲章」は、結局「東アジア平和憲法」を目指すべきであり、「東アジア平和憲法」の基礎の一つはアジア共有資産の一つである「日本平和憲法」である。

「九条の会」発足10周年を迎えて、東アジアも「9条」というアジア共有の資産を大切に守りたいと願っている。

そのために「市民不在のアジア」から「市民参加のアジア」に向かう初めての歩みとして、「東アジア市民平和会議」を構築し、その最初の課題として「東アジア市民平和憲章」の制定をかさねて提唱したい。


            (引用ここまで・終)


              *****


ヨーロッパにおけるEUの問題が、複雑で流動的であるように、東アジアもまた、論者が述べるように、簡単に統合していけるであろうわけはないと思います。

しかし、わたしたち一人ひとりが、国家という枠を超えて友好的であろうとすることは、できるのではないかと思います。

単純な問題ではない、ということは百も承知してはいるのですが。。

また、「九条の会」が会の党是として、アジアの統一を掲げているわけはありません。

それでも、「9条」の持つ理念が、国際語として広まってゆくことは、喜ばしいと、わたしは思います。



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