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北陸の白山信仰(1)・・菊理(きくり)姫とは、だれなのか?

2015-08-05 | 日本の不思議(中世・近世)


荒俣宏氏の、「サルタヒコは白く輝く朝鮮系の神である」という話を読んで、白い山、白山の信仰について考えてしまいました。

白山は、なぜ「白い山」という名前なのだろうか?

そう思って、前田速夫氏の「白の民俗学へ」を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


                    *****


                 (引用ここから)


柳田国男は、「白は本来忌々しき色であった。日本では神祭の衣か喪の服以外には、以前はこれを身に着けることはなかったのである」と述べている。

白は日常の俗を超絶した聖なる色であると同時に、畏怖の念を呼び覚ます怖い色、タブーの色でもあったのだ。

もう一つは、お隣りの朝鮮半島で人々が白衣を好み、李器の白磁など、白色が目立つことについて、韓国の民俗学者は、「それはむしろ天空信仰に支えられた明るさの色であって、太陽の白光に由来する」、と述べていることが注目される。

「白い」という韓国語は、「日」および「太陽の明るい属性」を意味すると考えられるとし、日本語の「シロ」、「シラ」とも同根である、と述べている。


では、白山信仰は、日本の神話の中では、どのように位置づけられるのか?

「日本書紀・神代の巻」には、次のようにある。

         ・・・

その時に 菊理姫神 また白す(もうす)ことあり

         ・・・

白山の主神に据えられた菊理姫が古文献に登場するただ一つの箇所である。

この後、

         ・・・

イザナギ尊聞きしめて ほめたまふ
すなわち散去(あらけ)ぬ

         ・・・

と続くのだが、この時菊理姫が何と言ったのか、書かれていない。


イザナギが、黄泉の国に愛しいイザナミを訪ね、その腐乱した死体に恐怖して、この世との境の黄泉平坂まで逃げ帰ってきて、イザナミと問答をした直後のことだ。

したがって、これは難問中の難問なのだが、折口信夫の解釈はこうだ。

               ・・・

続く場面がイザナギの禊であることからして、菊理姫は、蘇るために禊を勧めたのであろう。

すなわち、「菊理姫」は「ククリ(潜り)」を意味しており、水中に入って禊をすることであろう。

しれこと(白事)とは、死のけがれを祓うのに、巫女の呪言が必要とされたのである。

               ・・・

こうしてみると、白山信仰は死をめぐる宗教の印象が濃厚で、とりわけ死から再生することに深く関わっていることが看守される。


古代漢字学者・白川静によると、

「白」は古代中国では「どくろの形、その白骨化したもの、つまりしゃれこうべが字源で、葬式を「白事」と称した」という。


白山信仰の歴史は、公式には養老元年(717)、「泰澄開山」をもって始まるが、その発生は有史以前に遡るであろう。

泰澄はむしろ「中興の祖」と言うべき存在で、原始からあった土着の信仰に、仏教、道教、陰陽道など、大陸や朝鮮半島から新たに渡来した信仰を加えて、当時流行の神仏習合思想を注入するとともに、朝廷が望む国家鎮護の役割も加え、中央でも通用する宗教としての体裁を整えたのであったろう。


白山神が都に知れ渡ったのは、中央政府の神祇体制に組み込まれたからだが、その後律令制度が崩れた後もさらに勢力を伸ばした点には、比叡山の果たした役割が大きい。

比叡山を開いた最澄は、近江志賀郡の出身で、父三津首百枝は泰澄の父と同様、やはり渡来人の家系であった。

唐から帰朝した最澄が天台宗を開いたのは、806年。

平安時代末までには、白山と「本末関係」を結んだ。

泰澄の「澄」が、最澄の「澄」と同じであることも、その関係を物語っている。

以後、白山信仰は急激に密教化し、修験道色も濃厚になる。

仕上げとしては858年、比叡山の地主神である麓の日吉山王神社に「客人神」として白山社が祀られたことが挙げられる。


「客人」とはこの場合、「眷属」として外部から招かれたものの意味だが、ここから直ちに想起されるのは、折口信夫がこれを「まれびと」と訓読して、彼の古代研究の中核に据えたことである。

すなわち、折口のいう「客人」とは、時を定めて異郷(他界)から来訪する神の意味なので、白山の女神がやって来たのは他界からである。



話は飛ぶが、江戸吉原の遊郭で「白山神」を祀っていたことは、下の一行から知られる。

青桜にて「客人権現」の宮を信ずるのも おかし
山王一社の「客人権現」は 女なり 
青桜に 女客は入らぬものなり


筆者は、蜀山人こと太田南畝。

傀儡が祀る「百神」や、遊女が祈る「百太夫」が「白山神」に他ならないことを証する貴重な文言で、「客人神」の意味はこれほどに広いのである。

「白山神」の「渡来の神」としての性格も、「客人神」に含めていいだろう。




泰澄をはじめ、白山信仰と縁のある僧侶が秦氏の家系で、白山の主神である菊理姫の顕現の姿を「天衣瓔珞をもって身を飾る」と異国風なことを強調したのは、今来の神としての正体が、当時は公然たる事実だったからではあるまいか。

のちの「白山曼荼羅図」を見ても、忠実に唐風に描かれているし、比叡山の別院である三井寺が、「新羅明神」を鎮守にして、白山権現を祀っていたのは重要である。

地理上の位置ゆえに、古代の北陸は、朝鮮からの表玄関だった。

高句麗が、唐・新羅の連合軍によって滅亡したのは668年。

百済の陥落は、その前の660年である。

すぐ隣りの日本列島に、大量の亡命者が流れ込んだであろうことは、近年、南ベトナムが陥落した折、多くのボートピープルが黒山をなして我が国に流れ込んだことを考えれば、いっこうに不思議ではない。

それ以前からも、何波にも亘って、とうとうたる移住があったことだろう。

一説によると、紀元前3,4世紀から6世紀までの約1000年間に、少なくとも数十万人、最大150万の人々が朝鮮半島や中国大陸から流入したと言われている。

能登、越前、若狭など、上陸地点に近い地域はもとより、大和への経路である近江一帯に、点々と渡来人の里が連なり、そこでは多く十一面観音が祀られている。

菊理姫の「きくり」は「高句麗」がなまったものという説があるくらいだ。


おまけに、白山麓の白峰では「ギラ言葉」といって、「わたし」のことを「ギラ」と呼ぶなど、朝鮮語のなまりが顕著で、郷土芸能のかんこ踊りを見ても、打ち鳴らす「かっこ」やリズムは朝鮮のものだ。

踊りのときに白いハンカチを振るのは、婦人が長い袖を振る古代の風習を今に伝えている。

白峰では、母や妻、近所のおかみさんを呼ぶのに、「イネ」という。

それは韓国語の「エビネ」の音に近い。

泰澄の母の名が「伊野」であったのとも通じて、見逃せない。



                 (引用ここまで)

写真(下)は「白山三社権現画像(中央が白山ひめ)」(同書より)


                   *****


とても興味深い話が次々と書かれていて、驚嘆してしまいました。

著者・前田氏は雑誌「新潮」の編集長を定年退職後、民俗学の探究に取り組んでおられる方だそうです。

白山、一度訪ねてみたいものです。


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