小野妹子の子孫であり、小野道風や小野小町のおじいさんでもあった「小野篁(たかむら)」は、閻魔さまのお友達だったということです。
なんと、彼は夜毎、井戸から地底の地獄に降りて、閻魔さまの仕事を手伝って、また別の井戸からこの世に戻って、涼しい顔で日々の生活をおくったのだそうです。
伝説ですけれど、第三者の証言もあります。
「今昔物語」なので、まあ、メジャーと言えましょうか。。
久野昭著「日本人の他界観」より転載させていただきます。
*****
7世紀に小野篁(たかむら)という人物がいた。
漢学、和歌、書などにすぐれ、養老律令の注釈書「令義解(りょうのぎげ)」の撰集者の一人としても知られている。
834年遣唐使に任じられながら乗船せず、5年後絞首刑になるところを、死一等減じられて隠岐に流されたが、後に許され、852年に死んだ。
この「小野のたかむら」に、ある日病死した西三条大臣良相(よしすけ)が地獄で会った、という話を「今昔物語集」 が伝えている。
良相(よしすけ)が病死し、地獄の王宮に連行されると、閻魔王の家臣の居並ぶ中に「小野のたかむら」がいて、「この日本の大臣は心が素直で、他人のために良いことをする人物だから、自分に免じて今度の罪は見逃してやってほしい」と、閻魔王に頼んでくれた。
おかげで生き返った良相(よしすけ)は、その後、地獄でのことを他人に話すことはしなかったが、たまたま宮中で「たかむら」と二人きりになった時、思いきって「あの冥府でのことが忘れられません。あれはどういうことだったのでしょう」と尋ねてみた。
すると、「たかむら」は少し微笑んで、「かつて死一等を減じられた時のお礼までにしたことですが、あそこでわたしと会ったことは、けっして人に言ってはいけませんよ。
まだ人の知らないことですから。」と答えた。
良相(よしすけ)はこれを聞いて、「たかむら」はただものではないと恐れた、ということである。
もっともこのことは自然に世間に知れ、皆が「たかむらは、閻魔大王の臣として通う人なり」と、恐れるようになったと言う。」
京都・六波羅蜜寺の北の六道の辻を東に折れると、すぐに六道珍皇寺の前に出る。
伝説によれば、「小野のたかむら」は夜な夜な、この六道珍皇寺の境内の井戸から黄泉(よみ)に下りた。
そして嵯峨野の大覚寺の門前あたりが嵯峨六道町とよばれ、そこにも井戸が掘られていたが、伝説によれば、「小野のたかむら」はこの井戸からこの世に戻るのが常であった。
つまり伝説によれば、「小野のたかむら」は夜毎、六道の辻の方の井戸から冥土(めいど)に入っては、六道町の方の井戸のからこの世に戻ることを繰り返していた。
六道の辻は鳥部野、六道町は嵯峨野、どちらもかつては葬送の地であった。
とすれば、平安京の真下に地獄があったことになる。
現世は奈落の真上にあった。
久野昭著「日本人の他界観」より
*****
閻魔さまは怖いと、子供心にも恐ろしかったことを思い出しますが、この「小野のたかむら」という人は、その閻魔さまの補佐をしていたということです。
では、さぞかし恐ろしい男なのだろうと思うと、どうもそうでもないらしく、
閻魔さまとは、実はお地蔵様の化身なのだという考えもあるそうです。
少し古い集落ならどこにでも見かける、野の守り神のような可愛らしいお地蔵様ですが、じつはお地蔵様は人々を救うためにどこにでも出かけ、地獄に赴いた時には閻魔の姿をとることもあるのだ、という考えもあると知り、驚きました。
怖い閻魔さまとやさしいお地蔵様はじつは同じ人だった、、調べていくうちにわかってきて、なんだかとてもホッとしました。
久野氏の本からまた転載します。
*****
地蔵菩薩の前身は古代インドの大地の女神であった。
「地・蔵」という言葉自体が、“大地”なる”母体”を意味するサンスクリットの漢訳である。
母体として万物を包容し育む大地の徳が、そのまますべての罪人の苦をひきうけて救済しようとの悲願を抱いて、地底にある地蔵菩薩の徳に引き継がれたと見ていい。
釈迦が滅してから弥勒菩薩が出現するまでの、仏のいまさぬ無仏の世の救済者として、地蔵は地獄をはじめ六道にわたって、男子にも女子にも天竜にも鬼神にも化身し、百千万億もの姿で出現する。
地獄では閻魔にも獄卒にも身を変じる。
およそ菩薩らしからぬ地蔵の姿にも、六道を巡り歩きつつ衆生を救済しようとする地蔵の悲願が現れている、と見るべきであろう。
久野昭著「日本人の他界観」より
*****
あぁ、地獄に仏とはこんなことを言うのでしょうか?
「閻魔」は古代インドで死者を支配する神で、サンスクリット語の神名はYAMAと言い、エンマの名はこの音の写しだということです。
平安時代、日本に末法思想が広まり、古代の日本的な漠然とした“黄泉”のイメージに、このヒンズー・インド仏教由来の激しい地獄のイメージが混ぜ込まれ、混然一体となって、地獄の主、閻魔大王と、地獄の救い手、地蔵菩薩が混合されていったようです。
この世の「最後の審判」とも言うべき“地獄での裁き”に、じつは菩薩の身であるお地蔵様による慈悲がかけられていた、という思想は、なんと優美な、たおやかな東洋的な思想でしょうか?
夜な夜な閻魔さまのお手伝いをしていたという「小野のたかむら」は、現世に戻ってくるときに使う井戸のある矢田寺の御本尊に、彼が地獄で見てきた「地獄地蔵」を、また京都のあちこちに六地蔵を作ったということです。
か舎+菊池昌治著「京都の魔界をゆく」より転載させていただきます。
*****
矢田寺の御本尊は地獄地蔵あるいは受苦地蔵とも呼ばれ、火焔に半身を焼かれるような姿をしている。
これはその昔、地獄へ通っていた小野のたかむらが閻魔大王に菩薩戒を授けるのに満慶上人を推薦した時、地獄を訪れた上人の、自ら地獄の炎熱に身を焼いている姿を見て、たかむらが感動を受け、現世に戻って姿を刻んだのだという。
矢田地蔵は、地獄から亡者を救う地蔵として信仰をあつめた。
また、洛外の六ケ所に祭られている六体の地蔵は、たかむらが異界で直接、地蔵尊を拝し、一本の木から刻み出したものと伝えられている。
六地蔵はそれぞれ京の都へ入る街道筋にそれぞれ祭られている。
それは京都という魔界都市が設けた結界であり、そしてそこは言わば、この世とあの世との境をなしていた。
人々にとってあの世とは、因果応報の地獄を意味したのだが、果たして魔界とはこの世なのか、あの世なのか。
か舎+菊池昌治著「京都の魔界をゆく」より
*****
浄土という観念が台頭するほどに、人々の目には、この世もあの世もいっそう救いの無い地獄のように見えてきたことと思います。
ですが、少なくとも「たかむら」の目には、地獄で活躍している地蔵菩薩の姿が見えていたということでしょう。。
あの世もこの世も軽々と通り抜けるこの人物は、56億年先の弥勒菩薩の来迎の時まで、地蔵菩薩が人々の罪をあがなう補佐をし続けるのでしょうか?
wikipedia「地蔵信仰」より
地蔵菩薩 (じぞうぼさつ)、梵名クシティ・ガルバ(क्षितिघर्भ [kSiti gharbha])は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」と言う。また持地、妙憧、無辺心とも訳される。
大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包みこみ、救う所から名付けられたとされる。
偽経とされる閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経(預修十王生七経)や十王経(地蔵菩薩発心因縁十王経)によって、道教の十王思想と結びついて地蔵菩薩を閻魔と閻魔王と同一の存在であるという信仰が広まった。
閻魔王は地蔵菩薩として人々の様子を事細かに見ているため、綿密に死者を裁くことができるとする。
日本においては、浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生のかなわない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における責め苦からの救済を欣求するようになった。
菩薩は如来に次ぐ高い見地に住する仏であるが、地蔵菩薩は「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」との決意でその地位を退し、六道を自らの足で行脚して、救われない衆生、親より先に世を去った幼い子供の魂を救って旅を続ける。
このように、地蔵菩薩は最も弱い立場の人々を最優先で救済する菩薩であることから、古来より絶大な信仰の対象となった。
また後年になると、地蔵菩薩の足下には餓鬼界への入口が開いているとする説が広く説かれるようになる。
地蔵菩薩像に水を注ぐと、地下で永い苦しみに喘ぐ餓鬼の口にその水が入る。
「六地蔵」とは六道それぞれを守護する立場の地蔵尊であり、他界への旅立ちの場である葬儀場や墓場に多く建てられた。
また道祖神信仰と結びつき、町外れや辻に「町の結界の守護神」として建てられることも多い。
これを本尊とする祭りとして地蔵盆がある。
wikipedia「閻魔」より
閻魔(えんま)は仏教・ヒンドゥー教などで地獄の主。また神とも。
冥界の王・総司として死者の生前の罪を裁くと考えられる。
日本では地蔵菩薩と同一の存在と解され、これは地蔵菩薩の化身ともされている。
wikipedia「小野篁」より
小野篁は遣隋使を務めた小野妹子の子孫で、父は小野岑守。孫に三蹟の一人小野道風がいる。
『令義解』の編纂にも深く関与する等法理に明るく、政務能力に優れていた。
一方で漢詩文では平安時代初期の三勅撰漢詩集の時代における屈指の詩人であり、『経国集』や『和漢朗詠集』にその作品が伝わっている。
また和歌にも秀で、『古今和歌集』以下の勅撰和歌集に18首が入首している。
篁は夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという。
この井戸は、京都東山の六道珍皇寺にあり、また珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されている。
『今昔物語集』によると、病死して閻魔庁に引据えられたた藤原良相が篁の執成しによって蘇生したという逸話が見える。
まだ日本に『白氏文集』が一冊しか渡来していない頃、天皇が戯れに白楽天の詩の一文字を変えて篁に示したところ、篁は改変したその一文字のみを添削して返したという。
白楽天は、篁が遣唐使に任ぜられたと聞き、彼に会うのを楽しみしていたという。
(写真は本文とは関係ありません)
なんと、彼は夜毎、井戸から地底の地獄に降りて、閻魔さまの仕事を手伝って、また別の井戸からこの世に戻って、涼しい顔で日々の生活をおくったのだそうです。
伝説ですけれど、第三者の証言もあります。
「今昔物語」なので、まあ、メジャーと言えましょうか。。
久野昭著「日本人の他界観」より転載させていただきます。
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7世紀に小野篁(たかむら)という人物がいた。
漢学、和歌、書などにすぐれ、養老律令の注釈書「令義解(りょうのぎげ)」の撰集者の一人としても知られている。
834年遣唐使に任じられながら乗船せず、5年後絞首刑になるところを、死一等減じられて隠岐に流されたが、後に許され、852年に死んだ。
この「小野のたかむら」に、ある日病死した西三条大臣良相(よしすけ)が地獄で会った、という話を「今昔物語集」 が伝えている。
良相(よしすけ)が病死し、地獄の王宮に連行されると、閻魔王の家臣の居並ぶ中に「小野のたかむら」がいて、「この日本の大臣は心が素直で、他人のために良いことをする人物だから、自分に免じて今度の罪は見逃してやってほしい」と、閻魔王に頼んでくれた。
おかげで生き返った良相(よしすけ)は、その後、地獄でのことを他人に話すことはしなかったが、たまたま宮中で「たかむら」と二人きりになった時、思いきって「あの冥府でのことが忘れられません。あれはどういうことだったのでしょう」と尋ねてみた。
すると、「たかむら」は少し微笑んで、「かつて死一等を減じられた時のお礼までにしたことですが、あそこでわたしと会ったことは、けっして人に言ってはいけませんよ。
まだ人の知らないことですから。」と答えた。
良相(よしすけ)はこれを聞いて、「たかむら」はただものではないと恐れた、ということである。
もっともこのことは自然に世間に知れ、皆が「たかむらは、閻魔大王の臣として通う人なり」と、恐れるようになったと言う。」
京都・六波羅蜜寺の北の六道の辻を東に折れると、すぐに六道珍皇寺の前に出る。
伝説によれば、「小野のたかむら」は夜な夜な、この六道珍皇寺の境内の井戸から黄泉(よみ)に下りた。
そして嵯峨野の大覚寺の門前あたりが嵯峨六道町とよばれ、そこにも井戸が掘られていたが、伝説によれば、「小野のたかむら」はこの井戸からこの世に戻るのが常であった。
つまり伝説によれば、「小野のたかむら」は夜毎、六道の辻の方の井戸から冥土(めいど)に入っては、六道町の方の井戸のからこの世に戻ることを繰り返していた。
六道の辻は鳥部野、六道町は嵯峨野、どちらもかつては葬送の地であった。
とすれば、平安京の真下に地獄があったことになる。
現世は奈落の真上にあった。
久野昭著「日本人の他界観」より
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閻魔さまは怖いと、子供心にも恐ろしかったことを思い出しますが、この「小野のたかむら」という人は、その閻魔さまの補佐をしていたということです。
では、さぞかし恐ろしい男なのだろうと思うと、どうもそうでもないらしく、
閻魔さまとは、実はお地蔵様の化身なのだという考えもあるそうです。
少し古い集落ならどこにでも見かける、野の守り神のような可愛らしいお地蔵様ですが、じつはお地蔵様は人々を救うためにどこにでも出かけ、地獄に赴いた時には閻魔の姿をとることもあるのだ、という考えもあると知り、驚きました。
怖い閻魔さまとやさしいお地蔵様はじつは同じ人だった、、調べていくうちにわかってきて、なんだかとてもホッとしました。
久野氏の本からまた転載します。
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地蔵菩薩の前身は古代インドの大地の女神であった。
「地・蔵」という言葉自体が、“大地”なる”母体”を意味するサンスクリットの漢訳である。
母体として万物を包容し育む大地の徳が、そのまますべての罪人の苦をひきうけて救済しようとの悲願を抱いて、地底にある地蔵菩薩の徳に引き継がれたと見ていい。
釈迦が滅してから弥勒菩薩が出現するまでの、仏のいまさぬ無仏の世の救済者として、地蔵は地獄をはじめ六道にわたって、男子にも女子にも天竜にも鬼神にも化身し、百千万億もの姿で出現する。
地獄では閻魔にも獄卒にも身を変じる。
およそ菩薩らしからぬ地蔵の姿にも、六道を巡り歩きつつ衆生を救済しようとする地蔵の悲願が現れている、と見るべきであろう。
久野昭著「日本人の他界観」より
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あぁ、地獄に仏とはこんなことを言うのでしょうか?
「閻魔」は古代インドで死者を支配する神で、サンスクリット語の神名はYAMAと言い、エンマの名はこの音の写しだということです。
平安時代、日本に末法思想が広まり、古代の日本的な漠然とした“黄泉”のイメージに、このヒンズー・インド仏教由来の激しい地獄のイメージが混ぜ込まれ、混然一体となって、地獄の主、閻魔大王と、地獄の救い手、地蔵菩薩が混合されていったようです。
この世の「最後の審判」とも言うべき“地獄での裁き”に、じつは菩薩の身であるお地蔵様による慈悲がかけられていた、という思想は、なんと優美な、たおやかな東洋的な思想でしょうか?
夜な夜な閻魔さまのお手伝いをしていたという「小野のたかむら」は、現世に戻ってくるときに使う井戸のある矢田寺の御本尊に、彼が地獄で見てきた「地獄地蔵」を、また京都のあちこちに六地蔵を作ったということです。
か舎+菊池昌治著「京都の魔界をゆく」より転載させていただきます。
*****
矢田寺の御本尊は地獄地蔵あるいは受苦地蔵とも呼ばれ、火焔に半身を焼かれるような姿をしている。
これはその昔、地獄へ通っていた小野のたかむらが閻魔大王に菩薩戒を授けるのに満慶上人を推薦した時、地獄を訪れた上人の、自ら地獄の炎熱に身を焼いている姿を見て、たかむらが感動を受け、現世に戻って姿を刻んだのだという。
矢田地蔵は、地獄から亡者を救う地蔵として信仰をあつめた。
また、洛外の六ケ所に祭られている六体の地蔵は、たかむらが異界で直接、地蔵尊を拝し、一本の木から刻み出したものと伝えられている。
六地蔵はそれぞれ京の都へ入る街道筋にそれぞれ祭られている。
それは京都という魔界都市が設けた結界であり、そしてそこは言わば、この世とあの世との境をなしていた。
人々にとってあの世とは、因果応報の地獄を意味したのだが、果たして魔界とはこの世なのか、あの世なのか。
か舎+菊池昌治著「京都の魔界をゆく」より
*****
浄土という観念が台頭するほどに、人々の目には、この世もあの世もいっそう救いの無い地獄のように見えてきたことと思います。
ですが、少なくとも「たかむら」の目には、地獄で活躍している地蔵菩薩の姿が見えていたということでしょう。。
あの世もこの世も軽々と通り抜けるこの人物は、56億年先の弥勒菩薩の来迎の時まで、地蔵菩薩が人々の罪をあがなう補佐をし続けるのでしょうか?
wikipedia「地蔵信仰」より
地蔵菩薩 (じぞうぼさつ)、梵名クシティ・ガルバ(क्षितिघर्भ [kSiti gharbha])は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」と言う。また持地、妙憧、無辺心とも訳される。
大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包みこみ、救う所から名付けられたとされる。
偽経とされる閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経(預修十王生七経)や十王経(地蔵菩薩発心因縁十王経)によって、道教の十王思想と結びついて地蔵菩薩を閻魔と閻魔王と同一の存在であるという信仰が広まった。
閻魔王は地蔵菩薩として人々の様子を事細かに見ているため、綿密に死者を裁くことができるとする。
日本においては、浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生のかなわない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における責め苦からの救済を欣求するようになった。
菩薩は如来に次ぐ高い見地に住する仏であるが、地蔵菩薩は「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」との決意でその地位を退し、六道を自らの足で行脚して、救われない衆生、親より先に世を去った幼い子供の魂を救って旅を続ける。
このように、地蔵菩薩は最も弱い立場の人々を最優先で救済する菩薩であることから、古来より絶大な信仰の対象となった。
また後年になると、地蔵菩薩の足下には餓鬼界への入口が開いているとする説が広く説かれるようになる。
地蔵菩薩像に水を注ぐと、地下で永い苦しみに喘ぐ餓鬼の口にその水が入る。
「六地蔵」とは六道それぞれを守護する立場の地蔵尊であり、他界への旅立ちの場である葬儀場や墓場に多く建てられた。
また道祖神信仰と結びつき、町外れや辻に「町の結界の守護神」として建てられることも多い。
これを本尊とする祭りとして地蔵盆がある。
wikipedia「閻魔」より
閻魔(えんま)は仏教・ヒンドゥー教などで地獄の主。また神とも。
冥界の王・総司として死者の生前の罪を裁くと考えられる。
日本では地蔵菩薩と同一の存在と解され、これは地蔵菩薩の化身ともされている。
wikipedia「小野篁」より
小野篁は遣隋使を務めた小野妹子の子孫で、父は小野岑守。孫に三蹟の一人小野道風がいる。
『令義解』の編纂にも深く関与する等法理に明るく、政務能力に優れていた。
一方で漢詩文では平安時代初期の三勅撰漢詩集の時代における屈指の詩人であり、『経国集』や『和漢朗詠集』にその作品が伝わっている。
また和歌にも秀で、『古今和歌集』以下の勅撰和歌集に18首が入首している。
篁は夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという。
この井戸は、京都東山の六道珍皇寺にあり、また珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されている。
『今昔物語集』によると、病死して閻魔庁に引据えられたた藤原良相が篁の執成しによって蘇生したという逸話が見える。
まだ日本に『白氏文集』が一冊しか渡来していない頃、天皇が戯れに白楽天の詩の一文字を変えて篁に示したところ、篁は改変したその一文字のみを添削して返したという。
白楽天は、篁が遣唐使に任ぜられたと聞き、彼に会うのを楽しみしていたという。
(写真は本文とは関係ありません)