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ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

長老がいた社会・・中沢新一「熊から王へ」(4)

2012-06-15 | 野生の思考・社会・脱原発


中沢新一氏の「熊から王へ」を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

シャーマンと長老という、古い社会のかなめとなる人々は、今の社会にはもう存在できないのでしょうか。

シャーマンのような人や、長老のような人はいますが、彼らが成り立たせてきた、かつては生きて存在していた社会は、もう今は消えてしまったということなのでしょう。



            *****

         (引用ここから)


シャーマンは「自然」の力の秘密を知っています。

そういうシャーマンは、人々の暮らしからは離れている必要があったでしょう。

日常生活は別の原理によって成り立っていないと、シャーマンが身に帯びている危険な力は、人間の「社会」の内部に侵入してきて、そこに危機を作りだしかねないからです。

シャーマンはどんなにすぐれた能力をもっていても、そういう「社会」ではいつも周辺部にいて、社会的な「権力」の中心に近づくことは出来ないようになっていました。

では、「対称性社会」の智恵に選ばれ、その中心部にいたのはいったいどんなタイプの人達だったのでしょうか。

「首長」とよばれている人たちがそれに当たります。

シャーマンと「首長」は、いろいろな点で対立する存在です。

シャーマンは人々の暮らしから離れて、人間の能力の限界を超えようとしている人々です。

人間の限界の外と言えば、それは「自然」の奥にひそむ力のことを指していますから、シャーマンを支えている力の源泉は、「自然」の内にあると言えます。

これに対して、人々と一緒に暮らしながらみんなが抱える問題を解決に導こうとするのが、「首長」なのです。

「首長」はむしろ「自然」に対立する「文化」の原理を、自分のよりどころとしていますので、シャーマンや戦士のように流動性あふれる力の領域に踏み込んでいくことを避けて、「文化」を成り立たせている規則や良識にしたがって、「社会」を平和に保とうとしています。

人類学の研究がすすんで、新石器時代の思考法をつい最近まで保ち続けてきた社会についてのたくさんの正確な情報がもたらされるようになって以来、こうした社会の「政治」がどのように行われていたのかがよくわかってきました。

それまでは多くの人は、そういう社会の政治には理不尽や非合理がまかり通り、呪術師や占い師のご託宣によって、事が決められていたかのように考えていましたが、

実際には意外なほどに 「民主的」な方法によって、政治が行われていたらしいことが分かってきたのです。

この「社会」のリーダーは、思考のレベルでも現実の生活の場面でも、「対象性」を保ち続けようとする、およそ政治権力などをもたない「首長」と呼ばれる人物で、

この人物は人々に強制するのではなく、むしろ「全員一致 」を原則として、気長な交渉を行いながら、力や緊張の偏りを社会から取り除いていこうとしていました。

「首長」にはたしかにある種の「威信」というものがありましたが、それは「首長」が何かの力を行使できるからという理由で得られたのではなく、自己の利害を離れて、不偏不党の立場に立つ事が出来る「正しい心」の持ち主であることから、もたらされるのです。

しかし、首長によるそういう調停が、いつでも成功するとは限りません。

そうなると首長には手のほどこしようがなくなります。

最悪な場合には部族間の戦争が発生してしまいます。

その時には、「首長」とは別の人物「戦士」が戦争のリーダーに選ばれて、男達を率いて戦争に出かけるのです。

戦時のリーダーには「首長」の政治原則とは違う原理によって活動をおこなう別の人物が立ち、二つのタイプのリーダーは完全に分離されるというのが、こういう社会では一般的なのでした。

「戦士」のリーダーは実際的な勇気と判断力によって評価され、文化を成り立たせている言葉の原理よりも、「自然」の力とわたりあう狩人と同じように、流動的な力を取り扱っていくために、技術の原理の方を重視します。

しかしその戦いが終われば、たちまちにしてこの戦士のリーダーは任務を解かれて後ろに引っ込んで、再び平和時の「首長」が元の場所に戻ってきます。

「対象性」の社会では、この二つのタイプのリーダーは画然と分離されているのが普通の在り方です。

こうして平和が保たれている限り、社会は「首長」の行動様式に代表されるような「理性」によって運営されることになります。

 
          (引用ここまで)

           *****



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シャーマンは熊になる・・中沢新一「熊から王へ」(3)

2012-06-10 | 野生の思考・社会・脱原発


ちょっと更新が滞ってしまいましたが、まだ続きます。


中沢新一氏の「熊から王へ」を読んでみました。

熊とは自然の力を、王とは社会の力を現していると思われます。

しかし、人間は熊になることもできるし、熊はまた自然界の王でもあります。

人間と熊を分かつものは何なのか、そして人間と熊を結んでいるものは何なのか。

大変興味深い考察が述べられています。


リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


           *****

        (引用ここから)


はじまりの意識は、世界を詩のようにして、とらえています。

そのことは、「有用性」を大事なものとしだすと、たちまち見えなくなってしまいます。

しかし、心を澄ませてもう一度世界を見つめ直してみると、私たちにだって、表面では分離され、孤立しているように見えるものを、現実の深い層でつなぎあわせている通低器の働きが感じとれるようになり、

世界が一つの全体として呼吸しているようすをとらえることができるようになるでしょう。

フランスの詩人が言ったように、まさに世界は「象徴の森」なのです。


神話の思考も、比喩の能力をフルに活用しています。

それによって、神話は詩の場合以上に雄大な哲学的意図をもって、この世界を「象徴の森」につくりかえようとするのです。

現実の表層では、人間は熊を追い、殺して、その体から毛皮と肉を採って、自分達を養おうとしています。


ところが現実の「詩的な層」では別のことがおこっている、と神話は語ります。

偉大な自然の首長である熊が、気に入っている自分の友人である人間に、気前よく毛皮と肉を贈り物として与えてくれようとしているというのが、現実の「詩的な層」でおこっている事実なのだ、と神話は言うのです。


熊が人間と一つにつながっている世界の「詩的な層」においては、日常の意識が捉えているものとは別の過程が進行していて、その層に踏み込んでみると、動物も植物も鉱物も水も風も、ありとあらゆるものが一つの全体性を呼吸しているのが理解され、

残酷と友愛が同居し、現実性と詩とが結びあいながら、「贈与の霊」がその全体性を動かしている様子をありありと実感されているのがわかります。

「神話的思考」はこのようにして、現生人類の脳におこった飛躍の瞬間の記憶を今に留めているわけです。

それは人類におこった最大の革命の生きたモニュメントです。


熊は自然界の偉大な治癒者でした。

そのために熊はシャーマンであり、シャーマンは熊であるとも考えていたのです。


北方の世界には、シャーマンと呼ばれる特殊な能力をもった人々が、かつてはたくさん活躍していました。

シャーマンになるための訓練はとても厳しいものだったといいます。

シャーマンになるための試練は、冬眠する冬の熊の行動様式にとてもよく似た手順を辿ります。

シャーマン志願者は、“冬の熊のように”ものも食べず、飢えと寒さに耐えながら、“冬眠”・・生きているのか死んでいるのかさえ定かでない精神の状態の中に留まらなければなりません。

そのやり方はシベリアやアメリカインディアンの世界の、文化や社会の構造の違う場所でも、ほとんど同じスタイルで行われています。

同じやり方は仏教やイスラムの神秘主義的な伝統がおこなわれているところでも踏襲されているのです。


この普遍性は、いったいどこからくるのでしょう?

わたしはそれがきわめて古い、おそらくは旧石器時代以来の伝統につながっているのだろうと推測しています。


シャーマンは「熊になる」ことのできる人間なのです。

実際にシャーマンたちは熊の毛皮を全身に身にまとって、人前で踊ることさえありました。


この時シャーマンは動物霊の領域に足を踏み込んでいます。

それは普通の思考では追いついていくことも、捉えることも出来ないような、力や速さでできている領域ですので、日常生活にとってはとても危険な領域であるともいえます。

シャーマンの持っている特別な力とは、普通の人間には近付くこともできない自然の力の源泉に、身をもって触れることができることからもたらされたものです。

シャーマンは、とても矛盾をはらんだ存在です。

彼らは「熊」になる能力を身につけることによって、「自然」の奥に潜む力の源泉に触れるのですが、そこからほんの一歩を外に踏み出すだけで、

今度は熊たちが守っている「自然」の柔らかく優しい体を引き裂いてしまう力を持った、高エネルギーの状態をひっぱりだしてしまうような、危険な存在に早変わりしてしまいます。


現代の世界をつくりあげたのは技術の力です。

またそれを破壊することさえできるのも、技術の力です。

現代世界はこういう技術を手に入れたのはいいですが、それをコントロールできなくなっています。

そういう人類にとっての“大問題の発生する臨界点のような場所”に、シャーマンという存在は立っていると言えます。


シャーマンは「自然」の力の秘密を知っています。

そういうシャーマンは、人々の暮らしからは離れている必要があったでしょう。

日常生活は別の原理によって成り立っていないと、シャーマンが身に帯びている危険な力は、人間の「社会」の内部に侵入してきて、そこに危機を作りだしかねないからです。

シャーマンはどんなにすぐれた能力をもっていても、そういう「社会」ではいつも周辺部にいて、社会的な「権力」の中心に近づくことは出来ないようになっていました。


では、「対称性社会」の智恵に選ばれ、その中心部にいたのはいったいどんなタイプの人達だったのでしょうか?

「首長」とよばれている人たちがそれに当たります。

シャーマンと「首長」は、いろいろな点で対立する存在です。

シャーマンは人々の暮らしから離れて、人間の能力の限界を超えようとしている人々です。

人間の限界の外と言えば、それは「自然」の奥にひそむ力のことを指していますから、シャーマンを支えている力の源泉は、「自然」の内にあると言えます。

これに対して、人々と一緒に暮らしながらみんなが抱える問題を解決に導こうとするのが、「首長」なのです。

「首長」はむしろ「自然」に対立する「文化」の原理を、自分のよりどころとしていますので、シャーマンや戦士のように流動性あふれる力の領域に踏み込んでいくことを避けて、「文化」を成り立たせている規則や良識にしたがって、「社会」を平和に保とうとしています。

人類学の研究がすすんで、新石器時代の思考法をつい最近まで保ち続けてきた社会についてのたくさんの正確な情報がもたらされるようになって以来、こうした社会の「政治」がどのように行われていたのかがよくわかってきました。

それまでは多くの人は、そういう社会の政治には理不尽や非合理がまかり通り、呪術師や占い師のご託宣によって、事が決められていたかのように考えていましたが、

実際には意外なほどに 「民主的」な方法によって、政治が行われていたらしいことが分かってきたのです。

この「社会」のリーダーは、思考のレベルでも現実の生活の場面でも、「対象性」を保ち続けようとする、およそ政治権力などをもたない「首長」と呼ばれる人物で、

この人物は人々に強制するのではなく、むしろ「全員一致 」を原則として、気長な交渉を行いながら、力や緊張の偏りを社会から取り除いていこうとしていました。

「首長」にはたしかにある種の「威信」というものがありましたが、それは「首長」が何かの力を行使できるからという理由で得られたのではなく、自己の利害を離れて、不偏不党の立場に立つ事が出来る「正しい心」の持ち主であることから、もたらされるのです。


しかし、首長によるそういう調停が、いつでも成功するとは限りません。

そうなると首長には手のほどこしようがなくなります。

最悪な場合には部族間の戦争が発生してしまいます。

その時には、「首長」とは別の人物「戦士」が戦争のリーダーに選ばれて、男達を率いて戦争に出かけるのです。

戦時のリーダーには「首長」の政治原則とは違う原理によって活動をおこなう別の人物が立ち、二つのタイプのリーダーは完全に分離されるというのが、こういう社会では一般的なのでした。

「戦士」のリーダーは実際的な勇気と判断力によって評価され、文化を成り立たせている言葉の原理よりも、「自然」の力とわたりあう狩人と同じように、流動的な力を取り扱っていくために、技術の原理の方を重視します。

しかしその戦いが終われば、たちまちにしてこの戦士のリーダーは任務を解かれて後ろに引っ込んで、再び平和時の「首長」が元の場所に戻ってきます。

「対象性」の社会では、この二つのタイプのリーダーは画然と分離されているのが普通の在り方です。

こうして平和が保たれている限り、社会は「首長」の行動様式に代表されるような「理性」によって運営されることになります。

 
          (引用ここまで)


           *****

wikipedia「シャーマニズム」より

シャーマニズムとは、シャーマン(巫師・祈祷師)の能力により成立している宗教や宗教現象の総称であり、宗教学、民俗学、人類学(宗教人類学、文化人類学)等々で用いられている用語・概念である。巫術などと表記されることもある。



シャーマンとはトランス状態に入って超自然的存在(霊、神霊、精霊、死霊など)と交信する現象を起こすとされる職能・人物のことである。

「シャーマン」という用語・概念は、ツングース語で呪術師の一種を指す「醇}aman, シャマン」に由来し、19世紀以降に民俗学者や旅行家(探検家)たちによって、極北や北アジアの呪術あるいは宗教的職能者一般を呼ぶために用いられるようになり、その後に宗教学、民俗学、人類学などの学問領域でも類似現象を指すための用語(学術用語)として用いられるようになったものである。

シャーマニズムという用語で、上記の現象自体に加えて、その現象に基づく思想を呼ぶこともある(ミルチャ・エリアーデなど)。

広義には地域を問わず同様の宗教、現象、思想を総合してシャーマニズムと呼ぶ。



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“地球法”の感覚・・中沢新一「熊から王へ」(2)

2012-06-02 | 野生の思考・社会・脱原発


中沢新一氏の「熊から王へ」という本を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



同書では次に、宮沢賢治の童話が紹介され、そこに描かれる動物達と人間のかかわりが述べられます。


              *****


           (引用ここから)


宮技賢治の生きていた時代、北方にはまだたくさんの狩猟民達が住んでいました。

北海道とサハリンにはアイヌが、サハリンの北地方にはオロッコやニヴフ(ギリヤーク)がいました。

対岸のオホーツク海に面したアムール河流域には、オロチやウリチなどの狩猟民がいましたし、さらに北にはコリャーク、アジア側ベーリング海峡のあたりにはチュクチが住んでいて、

そのままベーリング海峡を超えると、文化的な連続性を保ちながら、イヌイットやアメリカ大陸北西海岸のインディアン諸部族(トリンギット、ハイダ、クワキウトゥル、ツィムシアンなど)の豊かな世界が広がっていきます。


その世界にはまだ人間と動物の間の「野生」の関係、つまり「対照的」な関係の記憶が、色濃く保存されていました。


夏の季節の間は、人間が生きるために狩猟を行って、動物を殺すのですが、冬の季節になると、今度はその関係が逆転して、動物達の王である精霊が、人間を食べてしまう、という考えが、神話や儀礼を通して、鮮やかに表現されていました。

そこでは人間がいつでも圧倒的な力で動物たちを支配するのではなく、人間もまた他の動物を食べたり、他の動物によって食べられたりする、

捕食の連鎖の中に巻き込まれた、なんら特殊な存在ではない生命の一員として、人間よりも大きな存在によって食べられなければならない、という思想が生きていました。

ところが、アイヌの世界を南限として、このような「対象性」の思想は語られなくなります。

代わりに登場してくるのが、生物圏における、人間の圧倒的な優位を少しも疑わない人々です。

この人々は、自分だけは食物連鎖の環から「超越」した存在であると思いこみ、動物達を自由に家畜にしたり、動物園に囲い込んだりしてもかまわないと思うようになりました。


圧倒的な「非対称」でできあがった世界に対する動物達の憤りや悲しみは、宮沢賢治作品にはとても印象的に描かれています。

北極の動物たちによるテロに直面した宮沢賢治の童話の主人公の青年は、次のように考えました。

青年は言います。

           ・・・


「おい、熊ども、お前達のしたことはもっともだ。

お前達が言うように、確かに最近の人間達のやり方はむごすぎる。

最近の人間の心からは、「地球法」の感覚が失われてしまっている。

「地球法」というのは、地球の生命圏に生きるあらゆる生物に同等の権利を認めて、その上で食物連鎖の環や生態系に一つの秩序を産み出そうとする「法」の働きのことだ。

かつては神話が、その「地球法」の表現者になっていた。

その「法」に対する感覚を今の人間がなくしているという、お前達の主張は全く正しい。

だから、あんまり“無法なこと”はこれから気をつけるように言うから、今度は許してくれ。」


            ・・・


「無法をやめる」、、これが人間に出来る唯一で最高のことではないでしょうか。

狩猟民の世界で、このような地球的な意味をもった「法」が守られていたことの記録がたくさん残されています。

狩猟民たちは、自分に必要なもの以上の動物を捕ったりすることを固く禁じていました。

また自分達が殺した動物の体を丁寧に、尊敬を込めて扱おうとしていました。

そうしないと、動物達が再びこの世界に再生して来られなくなってしまう恐れがあるからです。

それが「法」のある世界、別の言い方をすれば、「野蛮」でない世界の在り方なのです。


 
         (引用ここまで)

           *****

象徴の森

ボードレールの「万物照応」

  自然は荘厳な寺院のようだ
  列柱は厳かな言葉をおりなし
  人は柱の間を静かに歩む 
  「象徴の森」をゆくが如くに

  遠くから響き来るこだまのように
  暗然として深い調和のなかに
  夜の闇 昼の光のように果てしなく
  五感のすべてが反響する

  嬰児の肉のような鮮烈な匂い
  オーボエのようにやさしく 草原のように青く
  甘酸っぱく 豊かに勝ち誇った匂い

  無限へと広がりゆく力をもって
  こはく 麝香 安息香の匂いが
  知性と感性の共感を奏でる
    



wikipedia「熊送り」

熊送りまたは熊祭りとはユーラシア・タイガの内陸狩猟民族の典型的な文化要素の一つ。

熊祭りには、子熊を数年間飼育した後に殺して魂を天に送る飼い熊型熊送り儀礼と、狩りで捕殺した熊を祭る狩り熊型熊送り儀礼がある。

前者の分布は北海道、樺太から黒竜江流域のハバロフスクあたりまでのナラ林帯で、アイヌのイオマンテもこれに含まれる。

飼い熊型熊送りはツングース系のトナカイを飼養する牧畜文化との接触によって派生したとみられ、ところによっては西方の騎馬遊牧民文化の影響もみられる。

なお、北米先住民の中には、イヌワシの雛を数年間飼育した後に殺して魂を天に送る儀礼を持つ部族があり、北海道ではシマフクロウのイオマンテが行われる地域がある。



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中沢新一「熊から王へ」(1)・・共同体的な在り方の重要性を考える

2012-05-29 | 野生の思考・社会・脱原発

中沢新一さんの「熊から王へ」を読んでみました。

「熊」は自然の力を、「王」は社会の力を表します。

近代西洋文明とは別の文明の形として、人類は古くから、「王」を持たない文明を生きてきた歴史があることを、情熱を込めて語っています。

熊のぬいぐるみはなぜ可愛いのか?

考えてみると、その理由はさして自明ではなかったことに気づきます。




         *****


         (引用ここから)


第一次の「形而上学革命」である「一神教の成立」がもたらした宗教は、新石器革命的な文明の大規模な否定や抑圧の上に成立している。

その抑圧された「野生の思考」と呼ばれる思考の能力が、第二次の「形而上学革命」をとおして、装いも根拠も新たに、「科学」として復活を遂げたのである。

現代生活は三万数千年前、ヨーロッパの北方にひろがる巨大な氷河群を前にして、サバイバルのために脳内ニューロンの接合様式を変化させることに成功した人類の獲得した潜在能力を全面的に展開することとして出来あがって来たが、

その革命の成果がほぼ出尽くしてしまうのではないか、という予感が広がりはじめているのが、「今」なのである。

私たちはこういう過渡的な時代を生きている。

第三次の「形而上学革命」はまだ先の事だ。

そういう時代を生きる知性に与えられた課題は、洗礼者ヨハネのように、“魂におけるヨルダン川”のほとりに立って、来たるべきその革命がどのような構造をもつことになるかを、できるだけ正確に見通しておくことであろう。

宗教は科学(「野生の思考」と呼ばれる科学)を抑圧することによって、人類の精神に新しい地平を開いた。

その宗教を否定して、今日の科学は地上のヘゲモニーを獲得した。

そうなると、第三次の「形而上学革命」がどのような構造をもつものになるか、およその見通しを持つことが出来る。

それは、今日の科学に限界づけをもたらしている諸条件を否定して、一神教の開いた地平を、科学的思考によって変革することによって、もたらされるであろう。


この本では、「国家」の誕生のことが話題になる。

人類の脳のニューロン組織に決定的な飛躍が起こり、いまの現生人類(ホモサピエンス・サピエンス)の心が生まれたのが、後期旧石器時代のことであったとすると、それから2万年以上もの間は、そのニューロン組織を使って、「神話的思考」が発達していったことが考えられる。

その頃私たち現生人類の心では、「二元性」に基づく思考が行われ、物事は「対象性」を実現すべく細心な調整を施されていた。

そこにはまだ、「国家」はない。

それが出現するのは、この「対象性」をくつがえすべくして人間の意識におこった変化をきっかけにしている。

現生人類の脳のニューロン組織は、その時にはもう完成してしまっているから、このとき起こる変化は、生物的進化の要素はまったく含まない。

脳の構造もまったく同じ、能力にも変化はない。

しかし、その内部で、力の配置の様式が、決定的な変化を起こすのである。

その時、世界に「対象性」をつくりだそうとしてきた心の働きが、急展開を起こして、それまでの「首長」の代わりには「王」が出現し、「共同体」の上に「国家」というものが生まれることになった。

それと同時に、「人間」と「動物」との関係、「文化」と「自然」の関係にも、大きな変化が発生して、人間の世界は今あるような姿へと、急速な変貌を始めたのだった。


つい先週(2001年9月11日)のことですが、ニューヨークであの大事件(9・11事件)がおこったのです。

事件の直後から、「これは文明と野蛮の戦いである」というような表現が大声で語られるようになりましたが、これにはびっくりしました。

どうやら現代世界は今、深刻な思考停止の状態に陥っているようです。

それというのも、「国家」や「文明」の外部に立った視点から、現実の世界におこっていることの意味を照らしだすような思考が、ますます困難になりつつあるからです。

このような思考の閉鎖状態から脱出するためにも、私たちはこの世界をつくりあげているもろもろの制度について、それを発生の観点から深くとらえなおしてみる必要があるのではないでしょうか。

21世紀が「文明と野蛮の問題」がクローズアップされる時代となるだろうとは、前から予測されていたことです。

20世紀には「資本主義」対「社会主義」という虚構の対立で、文明そのものが内抱する本質的な問題が隠蔽されていたと言えるでしょう。

ところが20世紀の終わりに、「社会主義」と「資本主義(あるいは自由主義)」の対立の構図が崩壊しました。

21世紀に世界では、グローバルな規模で「自由主義」・「資本主義」が地球を一元化し、地球上の民族や宗教の対立は終息に向かうだろうと言って「歴史の終焉」ということを主張する人々がいましたが、

この予測が完全な間違いであったことは、今世界におこっていることを見れば、一目瞭然でしょう。

今日の世界では、「富を得た者「と「貧しい者」との差が極端に大きくなっています。

人類の中のごく少数の人々の下にだけ、富を得るチャンスや仕組みが集中してしまって、圧倒的多数の人々には、そうした機構やチャンスに接近する可能性さえないのです。

富の配分が、極端に「非対照的」になってしまっています。

そうした世界はみずからテロを招き寄せてしまうでしょう。

現代の世界では、富の配分の不公平という形をとった「非対称性」が、さまざまな「野蛮」を発生させてしまっています。

21世紀に突きつけられたこのような問題を、解決に導いていけるような政治的思考を、わたしたちはまだ持てていません。

いま地球上のさまざまの地域で発生しているこのような状況の真の意味を、近代に作られた政治的思考は、十分に解読できないままに、手をこまねいているばかりです。

そういう時には、「はるかなる視線」(レヴィ・ストロース)の立場に立って、私たちの生きている世界を照らし出すような思考をおこなってみることが必要なのではないでしょうか。


「人間」と「動物」との間になんとかして「対照的な関係」を作りだそうとしていた人々(採集狩猟民)にとって、自分達が生きるために殺した動物の体を粗末に扱ったりすることはとても考えられないことでした。

ところが最近のヨーロッパや日本で、狂牛病や口蹄疫が発生し、たくさんの牛や羊が殺されていく恐ろしい光景が、テレビで何度も放映されました。

とりわけ狂牛病の原因は、飼料として与えられた肉骨粉にあるのではないかととりざたされました。

肉骨粉の飼料を牛達に食べさせるのは、一種の「共食い」を彼らに強いていることになりますが、それほど恐ろしい「野蛮」な行為はないと、この人々(採集狩猟民)は考えてきました。

そういう「野蛮」が現れてくるのを食い止めるのが、彼らの「文化」の働きだったからです。

ところが、私たちの世界は彼らが「野蛮」だとみなした行為を、自分達の生活を支えている一番大事な部分にセットしているのです。

しかも狩猟民達が想像もしなかったような巨大な規模で、そのシステムを日夜運行し続けています。

私たちの「文化的」な生活は、そういう「野蛮」の行為の基礎の上に成り立っています。

この社会は、「野蛮」を自分の内部に組み込んだシステムとして機能しているため、さまざまなタイプの「野蛮」を除去できないばかりではなく、

一たび危機的な状況が起こると、その責任を外の世界の、自分達がよく理解できない相手に投げつけて、その相手のことを「野蛮」呼ばわりすることになります。


               (引用ここまで)

                 *****


中沢新一氏の文明論は、とてもまっとうな、適正な文明論だと思います。


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日常という名の罪と罰・・裁判員裁判

2012-04-30 | 野生の思考・社会・脱原発
        
ずっと気になっている裁判員裁判制度について、ずいぶん古い記事になりますが、投稿しておきます。

ここで弁護士五十嵐氏が指摘しているような、「一般市民」と呼ばれる人間の他者の犯罪への処罰感情の揺れ幅の部分が、実際に他者を法律的に判じるに至る過程が、果たして正当なものであるのか否か、心が揺れ続けています。

人間にとっての法とはなにかという、大変に根源的な問いの答えを出すのは、もう少し議論を尽くした後の方がよいのではないかという思いが断ち切れません。

日常生活の中で起きる犯罪という罪を罰する原理はどこにあるのでしょう。

裁判官が裁けばよくて、一般市民が裁くのはよくないと言っているわけではありません。

むしろ、このように、罪とは、罰とは、という問いを一般的に考える機会を与えてくれているということは裁判員制度の大いなるメリットだと思います。

されど、、生身の人間の無明の世界を照らす光とはどこにあるのだろうか、と思い続けています。


         ・・・・・

2009・10・22
「裁判員裁判・・検察側が圧倒する公判運営」  弁護士・五十嵐二葉


9月29日から4日間、福島地裁郡山支部で裁判員裁判を傍聴した。

本格的に殺意を争う初めての殺人事件で注目されたが、懲役17年(求刑20年)という重い判決の審理に、裁判員制度の多くの問題点が見えた。

被告が店長を務めるスナックの開店祝いに被害者が来なかったことが事件の発端だった。

謝罪させるために関係者が被害者を呼び出し、被告が包丁で刺した。

弁護人は、包丁は体格で勝る被害者を脅そうと用意したものであり、刺したのは被害者に殴られての咄嗟の行動で「殺すつもりはなかった」と主張したが、退けられた。

だが、判決は「犯行時には明確な殺意(確定的な殺意)とする一方で「殺してもかまわないと考え」(未必の故意)ともし、争点である殺意の認定に矛盾を残した。

裁判員が判決後の会見で、4日の公判は限界としながらも、「必要な審理としてはもう3,4日の
時間があれば」と言ったのは争点が十分解明されなかったことを見抜いた市民の聡明さだろう。

にもかかわらず重い判決となったのは、参加する市民の負担を軽減するためとする公判運営と無縁ではない。

郡山では証人を傍聴席に置いたまま、検察官が当人の調書をディスプレーに順次写しながら全文を朗読した。

当人が話さずに 「調書」で検察側から見た事件像をまず裁判員と裁判官に刷り込む。

尋問は「調書を補充してお聞きします」と前置きをして始まった。

外国の法曹関係者に知られたら呆れられるだろう。

警察官や検察官の「作文」と国際的に非難されている供述書中心の日本で、裁判員制度は市民が参加することで証人から生の証言を聞く「直接主義、口頭主義」を実現すると多くの法曹が考え、歓迎した。

だが、ふたを開けてみれば「調書朗読裁判」で従来以上に検察側の見方が裁判員の心証を圧倒した。

重い判決につながったもう一つの要因が、被害感情を軸に据えた証拠調べだ。

証人4人のうち、争点の殺意関係と被告側情状証人が一人ずつで、あとは被害者の兄と内縁の
妻。女性検察官は被害者と内妻の、戦前の少女小説ばりの「純愛物語調書」を延々と読み上げた。

裁判員裁判は、これまでのところ被告を「社会の敵」と「たまたま間違いを犯してしまった隣人」にくっきり二分している。

東京地裁の隣人殺人(懲役15年、求刑16年)などは従来より量刑が重く、神戸地裁の父親への無理心中未遂(懲役3年執行猶予4年、求刑5年)などは軽いうえに判決後に被告へ応援の言葉まで付けた。

郡山では被告が属する露天商組合を暴力団、被害者は暴力団を抜けた善良な市民とする検察側の構図がそのまま判決になった。

検察官4人に対して一人だけの弁護士はプレゼン機器利用も含めて力量不足は否めなかった。

検察側の見解が圧倒する形の公判で、真実の発見が損なわれることがないか。

今後の裁判員裁判でも気がかりなところだ。



            ・・・・・


朝日新聞2010年5月18日
「裁くということ・裁判員経験者アンケートから(2)」・・評議の方向、裁判長次第』

評議は非公開、被告が有罪か無罪かや、刑の重さを話し合う過程は見えない。

ある裁判員経験者によると、刑の決め方はこんなイメージだ。

議論の最後に「自分が適切だと思う量刑」をそれぞれ紙に書き、裁判官が一枚ずつ読み上げる。

検察側の求刑に賛同する裁判員、被告の年齢を考えると、と軽い刑を書き込んだ裁判員、裁判官も含めた多数決の末、求刑よりやや軽い刑に落ち着いた。

「執行猶予をつけることもできるんですが、まあ、つけない方向でね。。」

東日本の裁判員経験者は、評議の時に裁判長が「進めたい方向」に話を運んでいるように見えた。

過去の似た事件での判決のデータを示されると、その範囲でしか意見を言えない雰囲気になった。

早く終わらせたい雰囲気が自分にも周囲にもあり、納得できなくても、そうは言えなかった。

「刑務所でどんな生活を送るかも知らずに意見を言ってしまった』と悔やむ。


西日本のある地裁で開かれた傷害致死の裁判で裁判員を務めた男性は、
検察官が説明する被害者の死亡推定時刻が、被告本人が主張する時刻に数時間のずれがあったことに疑問を抱いた。

「解剖医にも聞きたい」と考え、証人を追加できないか裁判官に聞いた。

裁判官は時刻のずれについて「誤差の範囲内です」と述べ、日程的にも新たな証人は呼べないと言った。

「まあ、待って下さい」

「その話は置いておいて」

男性が議論を促そうと突っ込んだ発言をすると裁判官に止められたという。


まったく逆の感想もある。

昨秋、大坂地裁で行われた審理に参加した男性会社員は「どうせ裁判官が先に結論を決めていて、我々はそれに付き合わされるだけだ」という冷めた気持だった。

しかし評議が始まると、3人の裁判官は専ら裁判員の意見を引き出す役に徹し、裁判員が一通り意見を出し終えた後にしか自分の意見を言わなかった。

素晴らしいマネージメント能力だ」と見方が一変した。


一方では「裁判長の人柄に負う部分が大きい」という思いも生じた。

議論を誘導したり、裁判員の意見を充分聞かなかったりする裁判長だったらどうなったか。

「どんな評議が行われたのか、ある程度客観的に検証できるような基準をつくるべきでは」と考える。


          ・・・・・


2010年5月18日朝日新聞
「裁判員の量刑、検察側求刑の77%」

裁判員が加わって出した実刑判決の、検察官の求刑に対する懲役期間の割合は、2010年5月14日現在で平均77%だったことが朝日新聞社の集計で分かった。

全体としては求刑の8割前後の量刑が示されることが多いと言われてきた従来の刑事裁判と同じ水準。

一方で求刑の半分に満たない判決もあり、スタート前から予想された通り、量刑の幅がやや広がっていると言えそうだ。


裁判員制度開始一年を前に全国の取材網を通じて集計した。

今月14日までに判決を受けた被告511人中、実刑だったのは422人。

このうち求刑通りの判決は24人(6%)。

懲役期間が求刑の8割以上だったのは201人(48%)、7割以上が314人(74%)を占めた。

10%ずつ区切って調べると80%以上90%未満が132人(31%)で最も多かった。

検察官の求刑より重い刑を言い渡した判決はなかった。


一方、求刑の5割未満の判決を言い渡された被告も2人いた。

最もかけ離れていたのは札幌地裁で2月に審理された傷害致死事件。

懲役4年の求刑にたいして懲役1年6カ月の実刑だった。

実刑ではないが昨年11月末から12月初めに神戸地裁で審理された事件で、懲役8年の求刑に対して懲役3年、執行猶予5年の判決が出たケースもあった。

検察側は従来なら控訴したようなケースでも、市民の判断を尊重して一件も控訴しておらず、量刑の幅の広がりを容認している。

一方、執行猶予の判決を受けたのは89人。

猶予期間の間に保護観察官や保護司が生活を見守る「保護観察」を一緒に付けられた人が半分以上の50人もいた。


             ・・・・・


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人間の知恵と悪智恵・ケンカの仕方・・中沢新一「イカの哲学」(3・終)

2012-04-26 | 野生の思考・社会・脱原発
中沢新一氏の「イカの哲学」を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

人間の研究書としては面白いと思います。


       *****

      (引用ここから)


それが一万三千年ほど前に始まる都市と国家の萌芽の発生によって、その性格を大きく変えてくる。

生物は物質だけの現象ではなく、そこに知性が結びついて起きた現象である。

生物に宿る知性は現れ方の違いはあっても、すべての生命に同一の知性が生きて、働いている。

同じ本質をもった知性が生物種ごとの生物学的構造の違いに応じて、それぞれの生物にふさわしい心となって働いているのだ。


二十万年のホモサピエンスの歴史から考えれば、ここ一万2,3千年前まで人間が行っていたのは、心をもった生命を実存として捉えようとする思考だった。

まだ農業の始まっていない頃であったから、人々は狩猟採集経済を生きていた。


当然その社会では、動物達を殺さなければならない。

ところがその狩猟採取社会でこそ、他の生命への共感に満ちた実存主義が社会一般の哲学となっていた。

人間が動物の狩りをしていた頃、狩猟は「弱めの戦争」と看做されていた。


戦争は自分の内部に歯止めを失った「超戦争」に踏み込んでしまう危険性をいつも抱えている。

「イカの哲学」はそのような「平和論」の限界を超えて、現代戦争の時代にふさわしい別の原理に土台を据えて、新しい「平和論」を構想しようとしている。

そのような思索が一人の日本人の中から生まれ得たのは、日本人が太平洋戦争において、自ら「超戦争」を体験したからに他ならない。

1938年にウラン核分裂発見のニュースが流れると、それがかつてない強力な威力をもつ新型爆弾の開発につながるだろうと、多くの物理学者が即座に理解している。

しかし核兵器によって自分達が今までの戦争のレベルを超えて、「超戦争」という道の領域に踏み込んでいくことになると理解していた人はほとんどいなかった。

日本人は「超戦争」を現実のものとするこの核爆弾の破壊力を浴びた初めての人類となった。
「超戦争」では、“的”の実存は一切消去される。


人間ばかりではない、動物も植物も、およそ地球上に生きているすべての生命と、未来に生まれるはずの生命すべてが修復不可能な損傷を受ける。

その意味で、日本はもはや普通の国には成りようがないのである。

普通の国は戦争を回避し平和を実現するための現実的手段を考え、実行するだけで十分だ。

ところが、私たちの国は核戦争を体験した唯一の国として、戦争を超えた「超戦争」に向かいあう原理ーーこれをわたしは仮に「超平和」と名付けようと思うのだが、この「超平和」の原理を模索するという人類的な課題を与えられた。


「超平和」の概念は一度だけ、ただ一度だけ国の立ち上げの原理である憲法として表現された事がある。

言うまでも無く「憲法9条」の文言である。

この「憲法9条」の規定は普通の国の憲法としてはまず類例のない、尋常ならざる内容を表わしている。


ヒューマニズムは平常態の思考として人間と動物の区別の上に立って、人間の尊重を歌いあげる。

しかしその思考はあまりにも弱い土台の上に立っているために「超戦争」の現実には立ち向かう事が出来ないのだ。


現代エコロジー思想の主導者の一人は、エコロジー運動の目的の一つは「自然との停戦を実現すること」だと位置づけている。

人類は数万年に渡って、自分たちの行う狩猟がこのような戦争にまで踏み込んでしまわないように細心の注意を払ってきた。

一旦狩猟が戦争の段階まで進んでしまうと、攻撃のための技術に勝っている人間は、たちまちにして動物や植物の生態に壊滅的な危機をもたらしてしまうことになっただろう。

しかし人類は、狩猟が戦争に突入してしまうことを回避する智慧を発達させてきた。

その智慧が生きるためには、動物や植物が自分と同じ実存であることを思いすだけでよかった。


エコロジー思想をこのような「自然との戦争状態に停戦をもたらそうとする運動」として理解することができる。

これ以上の戦争の持続と拡大は、この戦争における圧倒的勝利者たる人間に破滅をもたらすに違いない。

それに立ち向かうべきエコロジー思想は、地球温暖化のペースを緩めるための現実的政策のレベルに留まっていることは出来ないであろう。

「超平和」の理想をもったエコロジーの思想が形つくられるのでなければならない。


         (引用ここまで・終わり)



           *****



本書を読んでいると、まるで頭の体操をしているような変わったものの見方、発想の転換を余儀なくされるように思います。

テレビの田原総一郎の政治討論会でこのようなことを言ったら、なんて返答されるだろう?、などと思います。

しかし、分かる人には分かる考え方だとも言えます。


では、このような考え方が、どのようにしたら多くの人に対して説得力をもつのだろうか?、と考えます。

中沢新一氏が先般発表した「グリーンアクティブ」という新しい政治的団体が、「緑の党のようなもの」を目指そうとしている、という、曖昧模糊とした話題は、あまり人々の関心を引いていないようですが、

それはやはり本書に書かれているような問題設定自体が、非常に哲学的なテーマ設定で、哲学的な論理展開をしているので、大変に分かり辛いからだと思います。

国民の大半が支持している「脱原発」を推進しようという政治的団体なのですから、「日本の大転換」を実現する「脱原発」の理論的バックボーンになりうるかどうかは、これからの中沢氏が紡ぎ出す、「生きた言葉」にかかっているのではないかと思いました。



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生命活動は知性である・・中沢新一「イカの哲学」(2)

2012-04-22 | 野生の思考・社会・脱原発
中沢新一氏の「イカの哲学」を読んでみました。

人類の知性と生命の関係、戦争という人間的な文化について、述べられています。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


           *****


         (引用ここから)


政治思考として現れた「イカ的なもの」が原始的な生命感覚としての「イカ的なもの」を否定してしまっている。

ここには戦前戦中の国家主義が陥った最大の矛盾が凝縮されている。


戦争の原理がすでに生命の奥深い部分にセットされている、という視点に立つとものの見え方が変わって来る。

ただ戦争に反対するだけでは、現実に戦争はなくならない。

私たちは強靭な土台の上に立つ平和学を築きたいと考えている。

そのためには、生命の深部に平和学の土台を据える、という難しい試みに取り組んでみなければならない。

戦争と平和を、具体的な人類の可能性と限界の中で考えてみたいのだ。


波多野氏はイカ漁で捕獲されるたくさんのイカが、網に追い込まれ、お互いの間に保たれていた自由の感覚を産み出す距離が無くなり、狭い場所にぎゅうぎゅうに押し込まれて、

まるで物のような扱いを受けるようになってしまい、ただの蛋白質の塊とみなされるようになってしまう姿を見て、その情況が自分の体験した出撃直前の特高隊の置かれた状況とそっくりだと感じた。


この直感は人類学的な深さをもっている。


多くの先住民神話は、狩猟とは動物の世界との間に繰り広げられる戦争に他ならない、と語っている。

言い方を変えれば、狩猟と戦争は、相手が動物であるのと人間であるのとの違いはあるが、両方とも普通の状態では分離されている生と死を異常に接近させてしまう点では同じだ、と言っている。

そして生と死のように、絶対的な矛盾を抱えている2つの項が異常接近してしまう状況では、もはや合理的な判断や論理的な思考は通用しにくくなる。


まさにその時、「生命そのものにセットされた奥深い知性の働き」が浮上してくるのだ。

私たちの中にある「イカ的なもの」が目ざめ、生命と心を結ぶ無意識の回路が大きく開かれて、普段は見えにくくなっている、この世の本当の姿がまざまざと見えてくるようになる。


生命にはもともと知性が内在している。

それはどんなに単純で原始的な生物においても、そうである。

生命活動そのものが知性なのであるけれど、そこは合理的な思考から見たら矛盾のるつぼのように見える。

しかしそれこそがまぎれもない知性の原初的な働きなのであり、

それが原理的に戦争と酷似していることは否定しようにも否定することのできない事実である。


この事実を認めない限り、本物の平和学を構築することなどはできない。


生命論の深みで戦争と平和の問題を考え突き詰めていくと、どうしても生命の本質の中に隠されている「原理としての戦争」というものが浮上してくることになる。

それは現実の戦争そのものではないけれど、戦争の現実を産み出す原理として、生命の奥深くにセットされていて、宗教も芸術も同じこの原理から産み出されてくる。

この原理をバタイユにならって「エロティシズム」と呼びたい。

私たちはふつう生命の本質を考えるときには、生物が個体としてのアイデンティティを自分自身の能力で産み出し、それを維持している側面にまず目が行く。

しかし生物には自分を非連続的な個体として維持しようとする面ばかりではなく、むしろ非連続であることを自分から壊して連続性の中に溶け込んでいこうとする強力な傾向が隠されていることをバタイユは見出した。

ウイルスよりもさらに単純な生物でも自己と非自己の見分けを行う。

生物は自己の内部に自分とは違う異物が侵入してくると、すぐさま免疫抗体反応を発動して、異物を自分の外に排除しようとする行動を起こす。

つまり、どんな単純な生命にも、自分というものを認識する知性能力が宿っている。

しかしその知性能力はもう一方で、さらに深いレベルで、それとは正反対の活動を行うのだ。


生殖の瞬間、生命はその能力をあえて解除して、短い時間だけれどもその間は個体の死を意味する連続性を自分の中に引き込もうとする。


生命と知性は、本質的には同じものなのだ。

単純な生物ではそれは見やすい事実である。

ところがホモサピエンスである人間では見えにくくなっている。

しかし見えにくいだけで、ホモサピエンスの作り上げている世界を奥底で動かしているものも、地球進化の過程で産み出された生命=知性の原理のもっとも自由な形をした現れに他ならない。


ところがもう一つの側面をとおして、人類の心は個体性を壊してまでも連続性を自分の内に引き入れようとする。

これは他の生物にあっては、生殖をはさんだ短い時間にしか実現できなかった。

ところがホモサピエンスでは違う。

そこから宗教と芸術が発生した。

そして戦争もその時まぎれもない人類の印として発生したのである。


戦争はホモサピエンスとしての人類の心の奥深くにセットされている、生命=知性的な原理の一つだということになる。

戦争、芸術、宗教の奥底には、それらすべてを発生させる共通の生命的原理が動いている。

もしも「人間性」という言葉を、他の生物種と違う「私たち人類の本質」を表現しているものとして理解するならば、戦争もそのような人間性の一つに考えなければならない。

それを認めた上でなければ、偽りのない平和学を構築することはできないと私は思う。

一万数千年前の、まだ旧石器を使っていた人類によって描かれた洞窟壁画に、すでに人間同士が戦争をする光景が現れている。

この壁画は旧石器時代ももうだいぶ後期の人々によって描かれたもので、二十万年も前から地球にいるホモサピエンスたちが、どのような戦争をしていたかはまだよくわかっていない。

しかしほかの生物とは明らかに違う人類の戦争が、宗教や芸術と同じように人類の心の特性を表わしているのだとすると、人類は洞窟壁画の時代よりもずっと以前から、戦争をしていたと思われる。

狩猟でも戦争でも普段は慎重に分離されている人間と動物、生と死、非連続なものと連続するものなどが、極端な近距離で接近し、ぶつかり合い、混ざり合う。

さっきまで生命に輝いていたものが数時間後には死者の仲間入りをしている。

人類は自分の心にセットされた、生命と知性のエロティシズムに突き動かされてこういう戦争を始めたのである。


         (引用ここまで)


            *****


この文章はちょっと悪文というか、よく分かりにいな、、と思うのですが、中沢氏は、

狩猟というのは人間と動物の間の戦争と言ってよく、

人類は、狩猟を始めたのと同じくらい古い時代から、狩猟を始めたのと同じ必然性をもって、人間同士の殺し合いをも始めたのだ、と言っているのだと思います。

そして戦争は人間にとって、芸術や宗教と同じ性質をもっている。

であるから、ヒューマニズムにより戦争に反対する平和運動は、人間の本性に合っていない。

ヒューマニズムでは人類の平和は築けないのだ、と言っているのだと思います。

人間には芸術や宗教を希求する本能があり、その同じ本能で、戦争を希求していると述べられているのだと思います。

そして、そのような事態であるということを踏まえた上で、新たな平和学を構築する必要がある、と述べられているのだと思います。


著者が言う、“水揚げされたイカ”が特攻隊の極限状態と同じだという比喩は、あまり鮮明な比喩には思えませんが、

>まさにその時、「生命そのものにセットされた奥深い知性の働き」が浮上してくるのだ。

>私たちの中にある「イカ的なもの」が目ざめ、生命と心を結ぶ無意識の回路が大きく開かれて、普段は見えにくくなっている>この世の本当の姿がまざまざと見えてくるようになる。


何万匹というイカの体が、この世のものならぬ光景を出現させているという状態なのだろうと思います。。



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過激で、懐が深い・・爆笑問題vs中沢「憲法9条を世界遺産に」(3・終)

2012-02-26 | 野生の思考・社会・脱原発
爆笑問題の太田光さんと、中沢新一氏の憲法9条をめぐる対談のご紹介の終わりです。

なかなか革命的な話だと思います。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


        *****

        (引用ここから)


太田 ひとはなぜ右翼と左翼に分けたがるんでしょうね。どちらも自分の役割を意識した瞬間になにか捨てるものがあります。

右翼、左翼で分けてしまうことが、大事なことを見落とすことになるんじゃないかと思うんです。


中沢 太田さんが最近考えたり書いたりしていることを見ると、これは右翼が怒るなと思うところもあると同時に、じゃあ、それは左翼の理論かというとそれとも違う。

たぶんこれが「中道」なんでしょうね。

「中道」だから、右にも左にもいいなと言われる。

あるいは両方から文句を言われる。

その意味で言うと、「日本国憲法」はすごく懐が深い。

ある面とても過激なんですよ。

しかし過激でありながら、その過激さがバランスを産んでもいる。


中沢 「日本国憲法」に共鳴しているこの「中道」というものを明らかにすることができれば、混迷から抜け出る道がみつかると思います。


太田 それはたぶん世界中でできていないことですね。

中沢 できていませんね。

中沢 芸術と政治が合体した時に生まれた最大の失敗作はナチズムでしょう。

ナチズムの思想は、人間が人間を超えて行こうとした。

非人間的なものも飲み込んで、人間を前進させるんだという考えが、現実の政治とつながって行った時、途方もない怪物が生まれた。

ところが「日本国憲法」はナチズムとは逆のことを実行してきました。

この憲法自体、現実には存在しえないことを語ろうとしているわけですから、芸術に近いものだともの言えます。

日本は、それを政治の原理にしようとしてきた。

それが戦後の日本の保ってきたユニークさでした。


中沢 「日本国憲法」がどんなに問題をはらんでいたとしても、日本人の心に深く入っていくものがあった。

ぼくは、世界を変えたいという狂気じみたパラノイアを太田さんと共有しています。

ただ世界を変えようとする思想がひっかりやすい一番の罠が「平和」です。

この「平和」というやつを表現することがいかに難しいか。

戦争を語ることよりずっと難しい。

天国のことより地獄のことの方が表現しやすいものね。

しかし「世界遺産としての憲法9条」を究極に置いて、そこに映し出される自分たちの思想と表現を磨いていけば、今のような混乱から抜け出ていく道がつけられるんじゃないかと僕は確信しています。



「本書あとがき」より (中沢新一)

国家を生命体にたとえてみれば、生命体としての同一性を保つために、免疫機構を備えていなければならない。

自分と他者を見分けて、自分の内部に外からの異質な力や存在が侵入してこようとすると、国家はすぐさまある種の免疫機構を発動させて、これを自分の外に押し出そうとする。

その際にはしばしば、武力が行使される。

いずれにしても国家と戦争は切っても切れない関係で結ばれているのである。

ところが「日本国憲法」は第9条において、「いかなる形であれ、国家間の紛争解決の手段としての戦争を放棄する」と言うのである。

免疫機構の比喩で譬えれば、日本という国家はその機構の最深部分で、みずから免疫機能を解除しようと思うと語っているのと同じである。


自らの存在の深部に、免疫抗体反応の発動を否定しようとしてきたものが、この世には二つある。

一つは「母体」である。

女性の体は自分の身体の内に自分とは異なる生命体が発生してきたとき、異物に対して敏感に反応するはずの免疫機構を部分的に解除して、その異物を数カ月にわたって慈しみ育てる。

もうひとつは「神話」である。

神話はかつて人間と動物は兄弟同士であったと語ることによって、お互いの間に発生してしまったコミュニケーションの遮断と敵対的関係を思考によって乗り越えようとしてきた。

「憲法9条」に謳われた思想は、現実においては女性の産む能力が示す「生命の思想」と、表現においては近代的思考に先立つ神話の思考に表明されてきた「ディープエコロジー的思想」と同じ構造で出来上がっていることになる。


他のどこの国の憲法も近代的な政治思想に基づいて書かれたものである。

だから当然のことながら、そこには生命を産むものの原理も、世界の非対称性を乗り越えようとする神話の思想も混入する余地を残していない。

ところが我が憲法のみが、その心臓部に他のどの憲法にも見出せない尋常ならざる原理を背負っているのだ。

「憲法9条」を世界遺産の一つとして考えて見る時に、はっきりと見えてくるこの国のユニークさだけは明瞭に示すことができたのではないかと思う。


      (引用ここまで・終わり)


               *****


なにか、言葉にしがたいひとつの理想の世界があるような気がする。。

二人が語っているのは、そういういわく言い難い一つの「理想の地」の感触なのだと思います。


なぜ“それ”は、「懐が深い」と感じられるのか?

なぜ“それ”は「過激」だと感じられるのか?

なぜ“それ”に魅力を感じるのか?

その問題をみつめることで、今の文明を相対化できた時、別の形の文明の在り方を見出す可能性があるのだと思います。

その「理想の地」への旅をすることが、若者のつとめであったのは、、昔のことなのでしょうか?


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1万年の先住民の魂を引き継ぐ・・爆笑問題vs中沢「憲法9条を世界遺産に」(2)

2012-02-23 | 野生の思考・社会・脱原発
爆笑問題の太田光さんと中沢新一氏の対談集「憲法9条を世界遺産に」のご紹介の続きです。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



            *****
   

           (引用ここから)


中沢 アメリカの建国精神も、アメリカ先住民の平和思想との合作であったとすると、いろいろと面白いことが見えてきます。

アメリカ先住民の、戦争と平和に関する思想というのは、環太平洋のいろんな民族が共通に持っていた考え方の中から、一つの理念を抽出したものになっています。

人間の世界には、憎しみもあれば不正もあり、戦争はいつでも起こる可能性がある。

アメリカ先住民は、戦争は無条件に悪だなどは考えてはいないんです。

そこには立派な戦士たちがいる。

気高い戦士の精神をもった人たちがいて、その上に立って、平和な世界を作りだそうとしていました。

こういう考えは環太平洋の諸民族に共通の考えでした。

戦争と平和についての古い考えを探って行くと、意外なところで「日本国憲法」に通じている考え方を見出すことになります。


「日本国憲法」の精神の底流を流れているものはそんなに表面的なものじゃない。

もっと大きな人類的な思想の流れなんだと思いますよ。


太田 今この時点では絵空事かもしれないけれど、世界中がこの平和憲法を持てば、一歩進んだ人間になる可能性もある。

それならこの憲法をもって生きていくのはなかなかいいもんだと思うんです。


僕らが闘うべき相手が何なのかは、分からない。

人間の作り出した神という存在なのかもしれない。

人の心に住む、何か他のものかもしれない。

その何かがいつも人間に突きつけてくるわけです。

人間はしょせん死んでいくものだ、文明は崩壊していくものだと。

でも、たとえそうであっても自分が生まれて死ぬまでは挑戦していくほうにベクトルが向いてないと面白くないと思うんですよ。


秩序と無秩序、最近はエントロピーと言いますが、この社会はエントロピーが増大していくものだという。

でも、僕としては、そうは思いたくない。

人間は秩序を構築できる生き物であると、少なくとも、生きる態度として示したいと思う。

その証が「憲法9条」だと僕は思っているんです。

太平洋戦争が終わったときに、アメリカと日本が「日本国憲法」で表現したことは、アメリカの世界の古典をこっちに引っ張ってきて、表現してみせたことだと思うんです。

それを今の人間の都合で作りかえちゃいけない。

それをするのは世界遺産に落書きするようなものです。



中沢 「日本国憲法」は短かい歴史しか持っていないようで、実は1万年規模の歴史をもった平和思想なんですね。

環太平洋の平和思想というものの最高表現だとも思っています。

アメリカ先住民の思想がアメリカの建国宣言に影響を及ぼし、その精神の中のかすかに残ったものが日本国憲法に生きている。

それが日本民族の精神性と深い共鳴を持ってきた。

そう考えれば、「日本国憲法」のスピリットとは、1万年の規模をもった環太平洋的な平和思想だと言っていい。

だから決して新しいものではないのです。


             (引用ここまで・つづく)


                 *****


wikipedia「イロコイ連邦」より

アメリカ連邦政府との関わり

イロコイ連邦は、アメリカの独立戦争に際しては英国側に与して戦ったため1779年に破れて、1794年にアメリカ合衆国連邦政府と平和友好条約を結んだ。

アメリカ合衆国国務省のパスポートを認めず、鷲の羽根を使った独自のパスポートを発行、同パスポートの使用はいくつかの国家により認められている。

国連も認める独立自治領であり、1949年にはイロコイ族代表団はニューヨークの国連ビルの定礎式に招かれている。

アメリカ合衆国が1917年にドイツに宣戦布告をした際には、イロコイ連合は独自の独立宣言を発行し、第一次世界大戦同盟国としての地位を主張している。

独立した国家として、FBIなど連邦政府の捜査権も及ばない。

イロコイの連邦制度自体、アメリカ合衆国の連邦制度の元になっており、アメリカ合衆国が13の植民地を州として独立する際に、イロコイ連邦が協力して大統領制を始めとする合衆国憲法の制定にも関係した、とする研究者は多い。

かつてアメリカ合衆国大統領は、就任に当たってイロコイ連邦を表敬訪問するのが慣習となっており、近年のジョンソン大統領まで続いた。

イロコイ連邦はそのヴィジョンをアメリカ合衆国に託するために協力を惜しまなかった。

1780年代の合衆国憲法制定会議には、イロコイ連邦や他のインディアン民族諸国の代表団が含まれていた。

イロコイはフランクリン(→アルバニー計画)や、ジェファーソンに影響を与えたのみならず、アメリカ合衆国の独立から憲法制定にいたる過程で具体的な示唆を与えていた。

共和主義と民主主義の高潔な原理に基づいたイロコイ族の国家組織は、ベンジャミン・フランクリンを含む多くの植民地指導者の関心を集めた。

18世紀中を通して、彼らの五カ国の自治システムの中心にあった共和・民主の両原則は、白人の男性支配の哲学のなか、より正当で人道的な政治手法を捜していたヨーロッパとアメリカの政治体に組み込まれたのである。

合衆国のハクトウワシの国章はイロコイ連邦のシンボルを元にしたものであり、合衆国憲法そのものも、言論の自由や信教の自由、選挙や弾劾、「安全保障条約」、独立州の連合としての「連邦制」など、イロコイ連邦から合衆国へと引き継がれたものである。



wikipedia「環太平洋火山帯」より

環太平洋火山帯は、太平洋の周囲を取り巻く火山帯のことで、火山列島や火山群の総称。

別名環太平洋造山帯とも言い、アルプス・ヒマラヤ造山帯とともに世界の2大造山帯とも言われる。

太平洋プレートを中心とする太平洋の海洋プレートが、その周辺の大陸プレートや海洋プレートの下に沈み込むことによって火山列島や火山群が形成された。

プレートの沈み込みに伴う物であるため、火山活動のほか地震活動も活発である。

太平洋プレートができた中生代以降に形成されたと考えられている。

日本列島やインドネシア、フィリピン、アリューシャン列島などの火山列島、またアンデス山脈、ロッキー山脈などが含まれる。

世界の2大造山帯ともいわれており、共に地震の多発地帯となっているが、環太平洋造山帯は火山を伴った活動が多いのに対して、アルプス・ヒマラヤ造山帯は火山が少なく褶曲が多い点が異なる。

基本的に、東太平洋では諸島、西太平洋では、大陸に付随する山脈を形成する事が多い。



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爆笑問題vs中沢 「憲法9条を世界遺産に」(1)・・言葉は世界を変えるためにある

2012-02-18 | 野生の思考・社会・脱原発



http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2012021402000030.html
脱原発「グリーンアクティブ」 「格差社会に抵抗 国民戦線」

2012年2月14日 東京新聞朝刊

          ・・・・・

 文化人類学者の中沢新一氏らは十三日、東京都内で記者会見し、脱原発などに取り組む市民団体「グリーンアクティブ」の設立を正式に発表した。

中沢氏は「原発に依存せず、むやみな自由主義や経済格差に抵抗する人々の力を集め、現状の政治を変えていく」と設立趣旨を説明した。

 団体は「緑の日本」と称した将来の環境政党を目指す部門など、四部門で運営される。環境保護と経済成長の両立を目指した「緑の経済人会議」も置く。

具体的な政策では脱原発を柱に据え、消費税増税と環太平洋連携協定(TPP)の推進反対、熟議の民主主義の構築などを訴える。

 中沢氏は「格差社会を助長するTPPなどの政策に抵抗していく。政治や経済を上からの改革ではなく、右も左もない草の根の民意をくみ上げ、変えていく国民戦線をつくる」と強調した。

             ・・・・・


グリーンアクティブという政治組織を作って「日本の大転換」をめざすこととなった中沢新一氏ですが、大変意義深いことと思いますので、いろいろとご著書を読んでみました。

以下にご紹介するのは、お笑いタレント「爆笑問題」の太田光さんとの対談ですが、なかなか面白かったです。

「憲法9条を世界遺産に」というアイデアを発案した太田光氏と、中沢新一氏が敬意を込めて話し合っています。

二人の力量には何の差もなく、いい友人の楽しい会話という風で、読んでいても心地良さをかんじました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



      *****


        (引用ここから)


中沢  言葉の戦場を戦い抜くのは、ほんとうに難しい。

でも僕は今、多くの仲間たちに呼びかけたい。

言葉は世界を表現するためにあるのではなく、世界を変えるためにあるのだから、いま僕たちが
使っているこの言葉に、世界を変えるための力を取り戻してやろうではないか。


太田  平和の問題というのは、最終的には、人間の持っている愛とはなにかという問題に突き当たると思うんです。

愛が人類を破滅させる危険も十分にある。

愛がなければ戦争も起きませんからね。


 
中沢  あのナチズムの場合でさえ、血が結びあう共同体へのゆがんだ愛情が、ドイツ人をあそこまで連れていってしまった。

ほんとうに微妙なものなんですよ。

真理はいつも危険なもののそばにあって、それを求めると間違った道に踏み込む可能性の方が大きいんです。



太田  今の日本の風潮では、癒しという言葉が流行になって、愛情というものを履き違えていますよね。

人間の愛はもっともっと未熟で危ういものなのに、そうじゃないところに行こうとしているように見える。

誰かを憎んだり、傷ついたりすることはすごく人間的なことなんだけれど、そこを否定して逃げようとしているんじゃないか。

過去の戦争も忘れたふりをしている。

それじゃだめだろうと思う。

戦争や愛情から発生するネガティブな感情を否定することは人間そのものを否定することですよね。



中沢 未熟であること、成形になってしまわないこと、生物学でいう「幼形成熟」ということは、ものを考える人の根本条件なんじゃないですか。

矛盾を受け入れている思想はどこか未熟に見えるんですよ。

たとえば神話がそうでしょう。

神話にはちゃんとした論理が働いている。

しかしその論理は矛盾を受け入れて、その矛盾によって動いています。

そうすると未熟に見えてしまうんですね。

普通の大人はそうは考えません。

現実の中ではっきりと自分の価値付けを決めておかなければいけないという、立派な役目があるからです。

効率性や社会の安定を考えれば、そういう大人はぜひとも必要です。

僕も長いこと、お前はいつまでも未熟だと言われてきました。

しかし自分の内面にそう簡単に否定できないカオスがありますから、そのカオスを否定しないで生きて行こうとしてきました。


中沢 「ギフト」と言うドイツ語は、「贈り物」という意味と同時に「毒」という意味ももっています。

贈り物を贈って愛を交流させることは、同時に毒を贈ることだ、とでもいう意味が込められているんでしょう。

昔の人達は、この世界が矛盾でできていることを前提に生きていました。

だから矛盾を平気で自分の中に受け得入れていた。

絶対に正しいとか、純粋な愛情とか、そんなものは信じていなかったし、あり得ないと思っていたわけですね。

神話を通じて理想的な状況を考えようとしていた人々は、一方でとても現実的なものの考え方をしていた。

そういう思考法が、日本人には一番ぴったりくるんじゃないですか。

マッカーサーはよく言ったものです。
「日本人は精神年齢12才の子供だ」って。

12才といえばハリー・ポッターの年ですね。
その年頃の子どもはよく世界を凍らせるような真実を口にするでしょう?

日本人はそういう存在として人類に貢献すべきなんじゃないかな。



中沢  太田さんは「憲法9条を世界遺産に」というすばらしい発想をどんなシチュエーションで思いついたんですか?



太田  戦争していた日本とアメリカが、戦争が終わったとたん、日米合作であの無垢な理想憲法を作った。

時代の流れからして、日本もアメリカもあの無垢な理想に向き合えたのはあの瞬間しかなかったんじゃないか。

日本人の、15年も続いた戦争に嫌気がさしているピークの感情と、この国を二度と戦争を起こさせない国にしよう、というアメリカ側の思惑が重なった瞬間に、ぽっと出来た。

これはもう誰が作ったとかいう次元を超えたものだし、国の境界すら超越した合作だし、奇跡的な成立の仕方だと思ったんです。

アメリカは5年後の朝鮮戦争でまた降りだしに戻っていきますしね。



中沢 グールドという生物学者は、生物の進化は生物が競争して切磋琢磨している状態の中で行われてきたけれど、そういう抗争に入らないで、ゆっくりと成長を続けた生物、いつまでも“幼児型”を保ち続けた生物が哺乳類として後のち発展することになったと言っています。

日本国憲法に関しても、それと同じことが起こりうると考えるべきだと思っています。

太田さんの言うように、日本国憲法はたしかに奇跡的な成り立ち方をしています。

当時のアメリカ人の中にまだ生きていた、人間の思想のとてもよいところと、敗戦後に日本人の後悔や反省の中から生まれて来たよいところがうまく合体しているんですね。

ところが政治の世界でこんなことが起こるのはめったにないことなんですね。

政治の世界の常識が出現をずっと阻止し続けていた“子ども”がとうとう現れてしまい、それで世界は変わらざるをえなくなった。

そういうものを葬り去りたいという勢力は常に存在してきましたが、かろうじて今まで命脈を保ってきました。

もしこれを簡単に否定してしまうと、日本人は確実になにか重大なものを失うことになるはずです。


      (引用ここまで・続く)

   
        *****


wikipedia「幼形成熟」より

ネオテニー(neoteny)は、動物において、性的に完全に成熟した個体でありながら非生殖器官に未成熟な、つまり幼生や幼体の性質が残る現象のこと。幼形成熟、幼態成熟ともいう。

ネオテニーと進化論

進化論においてネオテニーは進化の過程に重要な役割を果たすという説がある。

なぜならネオテニーだと脳や体の発達が遅くなる代わり、各種器官の特殊化の程度が低く、特殊化の進んだ他の生物の成体器官よりも適応に対する可塑性が高い。

そのことで成体になるまでに環境の変化があっても柔軟に適応することができるとされる。

たとえば脊椎動物の場合、それに近縁な無脊椎動物として重要なものにホヤ類などがあり、それらでは幼生で脊椎動物の基本に近い構造が見いだせる。

このことから、そのような動物のネオテニーが脊椎動物の進化の始まりであったとの説が唱えられた。

しかし異論もあり、たとえばより似通ったナメクジウオに近いものを想定する説もある。

また、そのような現生の動物にこだわらなければ、ホヤの幼生の様な姿の祖先的動物がいたと考えた方が簡単ではある。



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みどり色の呪力・・中沢新一氏、新党「緑の日本」たちあげる

2012-01-25 | 野生の思考・社会・脱原発



昨年来の政治にかんする発言で注目されてきた宗教学者・中沢新一氏ですが、1月14日・15日パシフィコ横浜で開催された「脱原発世界会議」において、とうとう新しい政党「緑の日本」を設立した旨を発表されたようです。

          ・・・


       (引用ここから)


「みどりの日本、はじまります」ーー「原発のない世界をつくる行動の森」HPより

中沢  ネット上では日本国民の8割が「原発ないほうがいい」との調査がある。
    
    そのバーチャルをリアルな世界で政治に結びつけるインターフェイスが必要。

    原発を作らない、売らない、自然環境を守ることを約束する個人・企業・地方自治体、そして特に政治家を「みどり     の日本」でつくっていく。


      (引用ここまで)


          ・・・


うーん、、本当に政治団体を作ってしまわれたのか、、と今更ながら少し驚きました。

これでは新しい本の執筆のための研究時間が少なくなってしまうのではないかと心配です。


政党名は「緑の日本」。。

緑色が心の中にペンキのように濃く広がっていくイメージがあります。。

緑色は森の色、植物の色、自然の色。。

しかし、人間の体の中には無い色。。

強いて動物で言えば、爬虫類の色になるかもしれません。。

自然というものが、文明と対峙していることを感じさせる効果がある命名ではないかと思います。


“わたしは緑色だ!”と名乗るだけで、実に革命的な意図を秘めているのだということが分かるように思います。

アーモンド型をした宇宙人の眼も、緑色、、似合います。。


昔は“赤”が革命の色だったけれど、今や時代は“緑”が革命の目印の色なんだろう、と思いました。


あ、ピンク色のヘルメットをかぶった人もいたことを思い出しました。

榎美沙子さん、なつかしいですが。

       ・・・

wikipedia「中ピ連(略称)」より

「中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合」は1970年代前半に活動した戦闘的なウーマンリブ団体。

中ピ連の略称で知られた。
代表は元薬事評論家の榎美沙子。

新左翼のものを模した♀印のついたピンク色のヘルメットと過激な活動内容でマスコミを賑わせ、当時の社会現象となった。

       ・・・


さて先日、朝日新聞の投稿欄に年配の男性からの面白い投稿がありました。

「社民党は緑の党に加われ」というタイトルが目を引いたので読んでみました。


       ・・・


      (引用ここから)

「社民党は緑の党に加われ」

       (前略)

社民党に関しては、まことに空しい思いにかられてしまう。

社民党は所属議員の多くが民主党に移ってしまって、風前の灯火のような党勢が続いている。

わたしはこの党はほどなく消滅してしまうだろうと思ったものだ。

ところがどうして、意外にもしぶとく、今日まで命脈だけは保ってきた。

しかしながら誰の目にもこれ以上、伸展の余地はないように思われる。

ここで提案したいことがある。

社民党は解党して、現在結成の動きが進んでいる日本版「緑の党」に加わったらどうだろうか。

「脱原発」を掲げ、環境を重視する「緑の党」は社民党と理念も近い。

社民党の国会議員10人が入れば、活動にも弾みがつくであろう。

選挙権を得て以来、社会党、社民党一筋できた私だが、最近はわが選挙区に社民党の候補を見ることもなくなった。

社民党は今は捨て石になることをいとわず、新たな勢力を結集すべく決意を新たにするときではないだろうか。

  
      (引用ここまで)


          *****


すごく面白い投稿だと思いました。

社民党の党是はさておき、政治も発想の転換がなければ面白くないですから、どの政党も斬新なアイデアで進路を切り開いていってほしいと思います。


「緑の党」と「民主党」の連携についてはドイツの「緑の党」の先例があるようです。

           ・・・

wikipedia「社会民主党」より

社会民主党は、社会民主主義を党是とする(若干の例外もある)政党の名称。しばしば社民党と略す。

           ・・・


wikipedia「緑の党」より
     
ドイツの「緑の党」の歴史

同盟90/緑の党(どうめい90/みどりのとう、Bündnis 90/Die Grünen)は、ドイツの環境政党。グローバルグリーンズ加盟。

2011年現在はドイツ連邦議会で68議席を持つ5番目に大きい党であり、80年代以降一定の勢力を持つ野党である。

1998年から2005年まではドイツ社会民主党と連立政権を組み、脱原発・風力発電の推進・二酸化炭素の削減など環境政策を進展させ、国民的人気の高いヨシュカ・フィッシャー外相などの閣僚も送り出した。

初めは、西ドイツの地方レベルで1970年代の終わりに、戦前から続く主に右翼的な環境保護運動が連合する形で「諸派・緑の党」 (Die Grünen) は設立された。

しかし、そのままでは5%条項を突破できないので、のちに60年代学生運動世代を呼び込んで、連邦レベルの政党「緑の党」として1980年に再出発する。

その後、右左の勢力が逆転し、右派グループは別の環境政党として脱退、以降は新左翼色の濃いエコロジー政党として一貫している。

1983年には連邦議会でも議席を獲得。世界の多くの緑の党の中で最も古く、最も議会政治的に成功している。

1989年と1990年には、東ドイツの民主化に関わった市民グループが同盟90を結成、1993年に緑の党と統合した。

      ・・・


「原発のない世界をつくる行動の森」HP
pfree.jp/forest-of-action/02/286/
http://npfree.jp/forest-of-action/02/286/
「みどりの日本、始まります。」

「webdice topics」
http://www.webdice.jp/topics/detail/3395/
「中沢新一氏、新政党「緑の日本」設立を発表」


「脱原発世界会議」HP
http://npfree.jp/

〈公式発表〉

2012年1月14~15日、パシフィコ横浜にて「脱原発世界会議 2012 YOKOHAMA」が開催されました。

参加者は、海外からの約30カ国約100名を含め、初日6,000人、2日目5,500人、あわせてのべ1万1,500人に上りました。

会議はインターネットで全世界に中継され、約10万人が視聴しました。

閉会にあたり「原発のない世界のための横浜宣言」が発表されました。

 
        ・・・

「みどりの未来」(日本の緑の党)HP
http://greens.gr.jp/

明治大学野生の科学研究所HP
http://sauvage.jp/



中沢新一氏の著作については、また改めて取り上げたいと思います。

この記事は変なタイトルになりましたが、みどり色という色からは不思議な力が立ち上っているように思い、あえて“みどり色のパワー”ではなく“呪力”としました。




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もったいない精神に帰ろう・「文明災」の警告をどう捉える?・・梅原猛氏の元旦インタビュー

2012-01-17 | 野生の思考・社会・脱原発
元旦の朝日新聞に、「再考・エネルギー」というタイトルで梅原猛氏と経団連会長のインタビュー記事がありました。

梅原氏は30年来原発に反対していらっしゃるということです。

梅原氏が語っておられること・・原発の事故は天災でも人災でもなく、原発という装置をつくりだした文明による、いわば“文明災”とでも言うべきものである、という考えは、東日本大震災が起こった直後の昨年4月5日の京都の講演会以来、繰り返し語っておられるようです。

インタビュー記事は他にもいくつかありました。

梅原猛インタビュー東洋経済オンライン 11・04・05
http://www.toyokeizai.net/business/interview/detail/AC/14e6e18a6d22fe5395a8e2fb0784fdcd/
「梅原猛・哲学者――原発事故は「文明災」、復興を通じて新文明を築き世界の模範に」 - 11/04/05 | 12:18

京都民報Web
http://www.kyoto-minpo.net/archives/2011/05/11/post_7836.php
「原発全廃運動、自然エネルギー研究を」 哲学者・梅原猛さん講演



ここでは今年の元旦の朝日新聞のインタビュー記事を載せます。


        *****


     (引用ここから)


Q  震災や原発事故でなにを考えましたか?


梅原 文明が変わらなければいけないし、文明を基礎づける哲学も変わらなくてはいけない。

現代の科学技術文明を基礎づけたのは17世紀のフランスの哲学、つまりデカルトですね。

科学が発展すれば、人間は自然を奴隷のように支配できるという彼の哲学が人類の思想となったわけです。

ところが今回の原発事故を見て、すぐ「文明災」という言葉が浮かんだ。

地震、津波は天災。政府や東京電力が危険の手当をおろそかにしてきたのは人災。

しかしそれだけでは尽きない。

世界の文明国は多かれ少なかれエネルギーを原発に頼っている。

事故は文明の災害でもある。



Q 大切な変わり目の機会を与えたと?


梅原  哲学が、いまや大きく揺らいでいる。

文明はそれを支えるエネルギーが問題。

最初は森林を伐採してエネルギーにしていたのだけれど、もっと効率の良い石炭や石油が見つかった。

ただ、いずれも実はかつての動植物ですね。

ところが20世紀になって原子力が発見された。

人間の力を超えたエネルギーですね。

温暖化防止にも役立ち、人類の救世主のように思われたけれど、結果として悪魔のエネルギーだった。

一部の人は原発容認を言っているけれど、10年、20年の対策としては必要だとしても、脱原発は歴史の必然です。



Q すんなりできるでしょうか?


梅原 今、日本の原発はほとんど停止している。

それでもなんとか出来る。

電力消費を20%でも押さえられれば、原発なしでいける。

さらに自然エネルギーーを安く手に入れることができれば、この問題は解決する。

政府は自然エネルギー研究に予算を出せばいいんですよ。

かつて、核融合研究に大変な予算を出した。

それは地球に太陽をつくるという研究。

思い上がりですよ。

それに対して太陽の恩恵をよりうまくいただく。

それが新しい科学だ。

自然エネルギー利用は生活を良くするだけでなく、環境破壊を防ぎ人類の救世主になる。

それを今より安価に手に入れることができれば国も企業も栄える。



Q 文明や哲学は?


梅原  やはり「自然との共存」という思想に帰らなくてはならない。

人間は自然を征服できるという西洋の思想に対して、日本には動物はもちろん植物も鉱物もみな仏だという「草木国土悉皆成仏」との思想がある。

日本は国土の三分の二が森で、神社には必ず森を残した。

一方の西洋文明にとっては森は未開の象徴。

古代メソポタミアの叙事詩「ギルガメッシュ叙事詩」で王様ギルガメッシュが最初にしたことは、森の神フンババを殺す事でした。

そういう文明、哲学まで変わらくては。

若い時、来日した英国の歴史学者トインビーに会った。

彼は「17世紀になってそれまで最も強力だったイスラム文明に代わり、科学技術文明を産んだ西洋諸国が世界を征服した。そして日本のようにいち早く科学技術で近代化した国が栄えた。しかし21世紀には、非西洋諸国が技術文明を採り入れながら、自分の伝統的原理に基づいて新しい文明を造るであろう。」と語った。

で、わたしは「どういう原理でしょう?」と聞いたら、「それはお前が考えることだ」って叱られました。

それから40年考えて、今やっと答えを出した。



Q どう変わっていくべきですか?


梅原  やはり過剰な消費生活は慎むべきだな。

自然エネルギーを利用して、「もったいない精神」で生活する。

それが日本の伝統にかなう。

震災で思ったのは、東北の人々がけっしてエゴイストではないということ。

忍耐強く秩序を守る被災者に世界が驚いた。

道徳精神が残っている。

自然の恩恵を受け、感謝して生きる。

そういう文明によって新しい日本をつくるべきです。

   
        (引用ここまで)


           *****

wikpedia「もったいない」より

もったいない(勿体無い)とは、仏教用語の「物体(もったい)」を否定する語で、物の本来あるべき姿がなくなるのを惜しみ、嘆く気持ちを表している。

日本の民族信仰である古神道を源流とする神道においては、「散る桜の花びら」や、「吐息の一つ一つ」にまで命が宿るとされ、森羅万象に対して、慈しみや感謝の念をもって接してきた。

その心根が「もったいない」という価値観の根底に流れている。

もともと「不都合である」、「かたじけない」などの意味で使用されていたが、現在では一般的に「物の価値を十分に生かしきれておらず無駄になっている」状態やそのような状態にしてしまう行為を戒める意味で使用される日本語の単語である。



ノーベル平和賞受賞者マータイさんが提唱する「もったいない」運動 
http://allabout.co.jp/gm/gc/197471/

2004年にノーベル平和賞を受賞したのは、ケニアの環境副大臣、ワンガリ・マータイさんです。

マータイさんは、グリーンベルト運動と呼ばれる植林事業で知られている生粋のエコロジストなのです。

その彼女が、日本の美徳の真髄ともいえる言葉「もったいない」を、世界に通じる環境標準語にしようとしています。

3月4日にニューヨークの国連本部で開催された「国連婦人の地位向上委員会」で、マータイさんは、MOTTAINAIとプリントされたTシャツを掲げながら、日本語の「もったいない」をキーワードに「女性たちによる世界的『もったいない』キャンペーンを展開し、資源を効率良く利用しましょう」と訴えたのです。

エコロジーに取り組む人や企業なら、今や3R活動=消費削減(Reduce)、再使用(Reuse)、資源再利用(Recycle)を実践されていることでしょう。

マータイさんは、「もったいない」という言葉に、3Rの精神がこめられていることに深い感銘を受けたそうです。

この言葉と精神が、ケニアのみならず、世界に広まれば、地球環境問題の改善に役立つばかりでなく、資源の分配が平等になり、テロや戦争の抑止にもつながると力説するのです。



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自然エネルギー・文明の生成・ユートピア・・中沢新一著「日本の大転換」の研究(3)

2011-12-17 | 野生の思考・社会・脱原発
中沢新一氏の「日本の大転換」を読んでみました。

著者は、東日本大震災と福島の原発事故という出来ごとをきっかけに、生き方や考え方を変えようとしている人々は、著者の説く新しい思考による新しい文明の担い手になることができる、と述べ、人々に新しい生き方をするよう提唱しておられます。


         *****


       (引用ここから)


東日本大震災と福島第一原発の事故は、私たちに新しい思考の出現を促している。

それを「エネルギーの存在論=エネルゴロジー」と名付けた。

今回の未曾有の出来事をきっかけに生き方や考え方を変えようとしている人々は、誰でも「エネルゴロジスト」になれる。

「エネルゴロジスト」は、この危機があらわにした日本と日本人の抱える深刻な困難を見つめることの中から、次のような認識を持つにいたった。


1・原子力発電という技術体系は、致命的な欠陥を抱えている。

  原子力発電からの脱出が、人類の選択すべき正しい道である。


2・太陽光発電、風力発電、バイオマス発電などのいわゆる自然エネルギーの開発と普及は、原子力発電が産んだ時代をゆっくりと終焉に向かわせ、

 新しい秩序である「第8次エネルギー革命」の時代を開始させることになるだろう。

 生態圏をただ収奪するのではなく、生態圏を蘇らせることによって、人類は初めて地球上で他の生き物を益する生き物となるであろう。


3・この構造転換は、社会と市場経済の間をつなぐインターフェイス構造の大規模な復活を誘発し、経済の構造も変えていくであろう。

4・「第8次エネルギー革命」の産み出すものは、人類の心の本性との親和性がきわめて高い。

「第8次エネルギー革命」は、科学に内在する過激な抽象主義をゆっくりと変質させていくだろう。


      (引用ここまで)


        *****


夢見られているのは、ユートピアであり、そこに到達するのは容易なことではないと思われます。

かつて人類が無垢であった頃の世界が、夢見られているのだと思います。

人類はこれから、原発を廃止して、自然エネルギーを用いて、生態圏を蘇らせ、他の生物と共存しよう。

そして社会と市場の間に生き生きとした関わりを作りだそう。

過度の科学偏重をやめて、人間の心の本性に基づいた社会と経済を作りだそう。


そのような社会を、どのようにして作るか、という方法論の部分がちょっと面白みに欠けているように思いました。

アジテーションの名手ならば、ここはもう少し力を入れているはずの部分でしょう。

著者の改革の具体策がぼんやりしているので、読後の印象が弱いのですが、それは多分、著者独特の品の良さなのだろうと思います。

つまり著者の心の中では、それはすでに成就しているものであり、はげしい渇望の気持で書いているわけではない、という印象を受けました。


続いて著者は、その改革は日本という場所でおこる必然があるのだと語ります。


         *****


        (引用ここから)


このような大きな転換は、日本でこそ起こらなければならない。

大転換は日本文明を、むしろ文明としての自分の本性への立ち帰りを実現することになる。


日本文明は、ユーラシア大陸が自らを太平洋に押し出して作りだした「リムランド(周縁のクニ)」の列島上に形成されてきた。

ユーラシア大陸の中心部からはずれた周縁のリムランドであったこと、プレートに内包された運動エネルギーのあやうい均衡の上に列島があることは、日本文明の本性にも大きな影響を及ぼしてきた。

リムランド型(周縁)文明はグローバル経済や原子力発電とは、もともと異質な本性を持っていたのである。

グローバル型の資本主義にせよ、原子力発電の設計思想にせよ、中心部の文明にはふさわしい発想であるかもしれないが、明らかにリムランドの文明には適合しない。

それを無理やりに適合させようとすれば日本文明は土台からの破壊にされされていくことになるだろう。

それゆえに、「第8次エネルギー革命」の可能性は、日本文明にとっては大きな僥倖なのである。


            (引用ここまで)

     
              *****


日本文明が崩壊しかかっているのは、日本人が日本人本来の性質になじまない資本主義経済に自分をゆだね、無理やり適合させようという力に圧迫されているためである、と書いてあります。

ですから、“原発事故により日本は危機に陥った”という風には考えられておらず、“日本は原発事故を契機に、原発や資本主義に無理やり適合させられることを拒否しよう”、と筆者は述べているのだと思います。



              *****


            (引用ここから)


どんな文明も、自分を作り成している大もとの原理に帰るのではなければ未来への可能性を自ら開いていくことはできない。

「第8次エネルギー革命」の原理は、おどろくほど日本文明の生成原理と似ている。

そのためエネルギー分野での方向転換によって、文明の深層部には新しい活力が注ぎ込まれ、さまざまな領域に新生の芽吹きがはじまる可能性が予見できる。

原発の開発と共に進んできた「第7次エネルギー革命」の時代はゆっくりと衰退への道に入っていく。

それに代わって、生態圏の生成の原理に立ち戻って、そこに別の豊かさを取り戻そうとする「第8次エネルギー革命」の時代が隆起する。

それに連動して、経済の思想が根底からの転換を始める。

社会は再生への運動を始める。

日本の進むべき道は、今やはっきりと前方に見えて来ているのではないか。


    (引用ここまで・おわり)


         *****


おそらくこの本は、著者から日本文明への、ラブレターなのでしょう。

著者は、日本の古代や、縄文時代や、周辺に存在するひそやかなものたちや、アジアに広がる仏教思想や、欲得ずくでない人々が作りだすユートピアを、熱烈に恋しているのだと思いました。

それにしても、「日本文明の生成原理」と著者が指摘している原理について、もう少し考えたいと思いました。

そこがはっきりしないと、著者が言いたいことがよく分からないからです。

著者の別の本を見ることで、少しでも著者の意図する所が明らかになるかどうかを試みてみたいと思います。



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太陽・仏教・エネルギー革命・・中沢新一著「日本の大転換」の研究(2)

2011-12-14 | 野生の思考・社会・脱原発


先日、全国の寺院の組織である「全日本仏教会」が「脱原発宣言」を発表したという記事がありました。


         ・・・・・


「仏教会が脱原発宣言=避難民と菩提寺の連絡中継も」2011年12月1日
http://www.asahi.com/national/jiji/JJT201112010151.html


 全国の寺院などで組織する全日本仏教会は1日、東京電力福島第1原発の事故に関し、「いのちを脅かす原子力発電への依存を減らし、原子力発電によらない持続可能なエネルギーによる社会の実現を目指す」との宣言文を発表した。

 宣言文は「私たちの利便性追求の陰には、原発立地の人々がいのちの不安に脅かされ、さらに処理不可能な放射性廃棄物を生み出しているという現実がある。

このような事態を招いたことを深く反省しなければならない」としている。

[時事通信社]

              ・・・・・



中沢新一氏の「日本の大転換」を読んでみました。

引き続き、少しご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



著者は、「一神教の文明」から「仏教的な文明」への転換を目指すべきである、と述べています。


          *****


          (引用ここから)


資本主義の「市場」は、自然や他者との交差(キアスム)の構造を通じて形成された社会とはまったく異なる原理で動くシステムなのである。

いったいなにが私たちの世界で破壊されているのか?

社会が、生態圏が、そして社会と生態圏が結びついたところに形成されてきた文明が、破壊されているのである。

文明を作り上げてきたのは「エネルゴロジー=エネルギーの存在論」の構造である。

その構造が今、土台の部分から突き崩され出している。

とりわけ日本文明は、西欧的な文明と違って、交差(キアスム)の構造を基礎として、生態圏との豊かな交通の上に成り立ってきた一種の「生態圏文明」である特質を備えている。


その日本文明が今、かつてないほどに深刻な危機に直面している。

津波と原発の事故は私たちが抱え続けてきた大きな矛盾を、これ以上のものはないと思えるほど激烈な形で、白日の下にさらした。

日本文明は「エネルゴロジー=エネルギーの存在論」的に破たんしかかっている。

がんばればなんとかなる、というレベルはとうに超えてしまった。

危機の本質を知り抜くことによって、文明の大転換を試みない限り、日本文明は衰退の道へと踏み込んでしまう。


            (引用ここまで)

  
           *****


日本の経済は地震と原発事故によって大きな痛手を受けた、というような話を、筆者はしているのではないようです。

では、“危機”とは、“衰退”とは、どのような事態を指しているのでしょうか。

原発によって成り立ってきた日本の経済とは、資本主義経済であり、日本の文明は資本主義経済との関連なしには成り立たないであろう、ということでしょうか。

原発が止まったら、現在の日本の文明は死に絶えるということでしょうか。

危機の本質とは、原発の危険性ということでしょうか。

日本の文明は、これから本当に衰退してゆくのでしょうか。



             *****


         (引用ここから)



私たちは世界に先駆けて自覚的に、コンピューターと原子力による第7次エネルギー革命を超えて、第8次エネルギー革命の道に踏み込んでいく、またとない機会を得た。

そしてそれを通して、袋小路に入り込んでいる現代の資本主義に大きな転換をもたらすのである。

そのように今日の事態を理解する時初めて、私たちには希望が生まれる。

         (引用ここまで)


         *****


著者は「第8次エネルギー革命」と名付けた改革によって、資本主義との対決姿勢を明らかにしているようです。

それは日本の経済を“日本文明の本来の姿”に戻す改革であるようです。

著者はなぜ確信を持ってそう言えるのでしょうか。


           *****


       (引用ここから)


「第8次エネルギー革命」がめざしているのは、よく言われているような「自然エネルギーの活用」という言い方でその本質が言いつくされるものではないことを強調しておこう。

来たるべきエネルギー革命は、原子力発電技術の過激さを否定して、「中庸」の技術を目指すのである。

誤解を恐れずに宗教思想とのアナロジーを用いてみよう。

すると「第8次エネルギー革命」は、「一神教から仏教へ」の転回として理解することができる。

仏教は一神教の思考を否定する。

一神教は人類の“思考の生態圏”にとっての外部を自立させて、そこに超越的な神を考え、その
神が無媒介的に“生態圏”に介入することによって、歴史が展開していくという考えを発達させた。

仏教はこのような思考法をラジカルに否定するのである。

仏教は“生態圏”の外部の超越者という考えを否定する。

そして思考における一切の極端と過激を排した「中庸」に、人類の生は営まれなければならないと考えた。


        (引用ここまで)


           *****


一神教は、人類にとってはあまり良くない宗教であると述べられています。

何か諸悪の元という感じです。



           *****


        (引用ここから)


現代の資本主義は、原子力発電による大量のエネルギーを利用しながら、かつてないほどの成長を続けてきた。

原発は、いわば「資本の炉」として、今日稼働を続けているのである。

その資本主義は、次のエネルギー革命が起こる時、ラジカルな変容を迫られることが予想される。

原発の「エネルゴロジー=エネルギーの存在論」の構造と、グローバル化する今日の資本主義との間に本質的なつながりが存在するからである。


第8次エネルギー革命はほとんど自動的に現代の資本主義が陥っている内閉性を打ち破っていく力を秘めている。

人類の経済活動は実のところ生態圏の内部に閉じ込められてさえいないのである。

それは太陽に向かって開かれているのでなければ、自分を維持することすらできない。

経済のもっとも深い基礎には「贈与」が据えられているのである。

太陽エネルギーと同じように「贈与」性がすべての経済活動を根底で支えている。


「脱原発」に始まる新しい「エネルゴロジー=エネルギーの存在論」革命を通過していくうちに、資本主義はもはや自己の原理に内閉していることは不可能になってくる。

そして資本主義はゆっくりとその深部から自己変容をはじめ、その変化はいずれ暮しと実存の全領域に及んでいくことになる。

資本主義が、人類の本性によりふさわしい形態へと変容していくのを、私たちは手助けするのである。


           (引用ここまで)


           *****


脱原発にはじまる「第8次エネルギー革命」は、資本主義を超えて、日本の未来を切り開く、と書かれています。

一神教的な文明から、仏教的な文明への転換である、とも書かれています。

太陽のように、取引による利益を目標としない、“与えること”を原理とする文明、仏教のように中庸の徳で成り立つ文明が、予見されているようです。

この理論は、どの程度妥当性があるのでしょうか。

この理論は、時代を切り開く鍵となるのでしょうか。

著者は、どうしても言いたいことがあり、この本を書いたのだと思います。

著者の心の目に見えている「世界」に、もう少し近づきたいと感じます。





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中沢新一著「日本の大転換」の研究(1)・・東北・縄文・生態圏

2011-12-11 | 野生の思考・社会・脱原発
さて、図書館の本の予約の順番が回ってきて、やっと中沢新一氏の「日本の大転換」を読めたのは、しばらく前のことでした。

読んでみたら、昔にもこういう考え方はあったような気がして、あちらこちらの本を眺めているうちに、早くも年末の気配が漂い始めました。
(脱原発の展望とニューエイジ、脱原発の展望とトランスパーソナルなど)
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/46a5955931bd58f3282477a937b07f7e


浮世のことは何が何でも「年の内」に済ませなければならない、という日本人らしい思いに突き動かされて、、気持ばかり忙しく過ごしております。。

それで、この中沢新一氏の著作について、思い続けておりましたが、

譬えるならばこの本は、「年末」のようなあわただしい性質のものではなく、「年の初め」のひとときのような、のどかさと清らかさと品の良さを備えた作品ではないだろうか、と思うに至りました。

「後書き」には、「『緑の党』のようなものができた時には、この本はその政治的理念をまとめたマニフェストとなる」と書いてありますので、この本は多くの人の手元に届くことを念慮して書かれたのだと思いますので、私も一人の選挙権を持つ者として、この本をマニフェストとして読んでもいいのだろう、と思いますが、

私としては、なにかこの本に内在する“年の始め”のようなおおらかさを、研究の主テーマにしてみたいと思います。


まず、「日本の大転換」から少し紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

本書は、次のような「前書き」から本文へと続きます。

 
              *****


           (引用ここから)


ひとつの明白な事実がある。

それは東日本大震災による福島の原発事故を境として日本文明が根底からの転換をとげていかなければならなくなった、という事実である。

元通りの世界に復旧させることなどはとうてい出来ないし、また、してはならないことだ。

わたしたちは否応なく未知の領域に足を踏み入れてしまったのである。


        (引用ここまで)


          *****


あの地震の日、多くの人が日本文明の危機を自分のこととして感じたことと思います。

余震が続く中、人心地つく間もなく、テレビから「福島の原子力発電所が地震で破壊され、炉心が溶解して放射性物質が大気中に漏れ出し始めた」という情報が絶え間なく流れ始め、多くの人々がこの世の終わりがついに来たと感じたのでした。

けれども、「元通りの世界」に復旧させることはできないかもしれないけれど、出来る限り「元通りの世界」に戻そう、という思いはあったのではないでしょうか。

いわゆる「がんばろう、日本」の意気込みです。

「未知の領域」には来てしまったが、早く「元の世界」に戻りたい、というのが一般国民の普通の感覚でしたでしょう。

ですから、この本はレトリックが駆使された大学教授の学術書なのだろうという印象を持ちました。

けれども同時に、それでは「元の世界」ではない「未知の世界」とはどんなところなのだろう?という好奇心を誘う心地よさでもありました。


        *****


        (引用ここから)


地震と津波は生態圏の直下で起こる地殻の振動に原因しているから、それによって生態圏の受ける損傷は、生態圏自らの力で修復していくことができる。

ところが、原子核の反応という、生態圏の外部、地球をも包み込む「太陽圏」の物質現象が生態圏に及ぼしたものの影響を、長い時間をかけてでも癒していく能力を、私たちの生態圏は持っていない。

原発の建設は産業界からの強い後押しによって支えられてきたが、その産業は経済と一体であり、この経済の在り方が私たちの生活や意識の質を決定している。

原発は私たちの生態圏の外部に属する物質現象からエネルギーを取り出そうとする技術であり、その技術的な問題が、わたしたちの実存と一体になっていることがわかる。

地球科学と生態学と経済学と産業工学と社会学と哲学とをひとつに結合した、新しい知の形態でも生まれないかぎり、私たちが今直面している問題に正しい見通しを与えることなどはできそうにない。

わたしはその新しい知の形態に「エネルゴロジー=エネルギーの存在論」という名を与えようと思う。

        (引用ここまで)


         *****


著者が言いたいことは大体分かるような気がしますが、ところどころよく分からないところもあります。

一番分からなくて、また最後まで分からなかったのが、一番大事な言葉「新しい知の形態である『エネルギーの存在論(エネルゴロジー)』」という言葉でした。

これは未だに分かりません。

 
       *****


       (引用ここから)


福島第一原発での事故は、たんに原子力発電所が機能不全に陥ったのではなく、資本主義システムに組み込まれた「原子の炉」が破たんしたのである。

その事故によって、これまで表面に現れる事のなかった多くの問題がむき出しにされた。

今回の出来事が日本文明にとってまさに文明的危機を表わすほどの重大性をもつと認識されるのは、それが文明と経済の結びつきの根幹に触れているからである。


    (引用ここまで)


       *****


ここは大変よくわかる部分でした。

この本のテーマは、日本の文明と日本の経済の特質を探り、またその未来を展望する、ということだと思います。


       *****


     (引用ここから)


社会というのはどこでも、具体的な人間の心のつながりで出来ている。

社会の中の個人は、程度の違いはあっても、決して孤立して存在してはいない。

さまざまな回路を通して、人間同士の心のつながりを維持しようという方向に社会は働きを行おうとする。

つまり人間同士を分離するのではなく、結びつける作用が社会には内在しているのである。

このような社会の本質を「交差(キアスム)」の構造として捉えることができる。


資本主義以前の世界では人間と生態系の間にもこの「交差(キアスム)」の構造が貫かれていた。

社会は必ず外部性とのつながりを保ちながら、自ら活動する。

つまり社会は矛盾を受け入れながら作動するダイナミズムなのであった。


まさにそのような「交差(キアスム)」の働きによって作られていたのが、他ならぬ東北の世界である。

東北内陸部での稲作農業の発達は遅く、その文化はむしろ縄文文化の歴史の上に築かれてきた。

縄文文化には、西日本から伝わって来たその後の文化には無い、いくつもの特徴があるが、最も大きな特徴は、人間の文化が作り上げる人工秩序と、それを取り巻く自然秩序の間に深い「交差(キアスム)」構造のパイプが作り出されていたところにある。

動物や植物、祖先霊をはじめとする霊的存在が生者の世界との間を自由に行き来し、人工と自然、生と死が混然一体となった全体世界を形成してきた。

人類は十数万年もの間、このような「交差(キアスム)」構造に基づく世界で生きていたのである。

社会というものをこの「交差(キアスム)」構造を抜きにして語ることは不可能である。


         (引用ここまで)


            *****


地震が起き、原発事故が起きたのが「東北地方」であることが、ここで重視されることになります。

首都圏との比較というような問題ではなく、これは東北地方が「縄文時代」の遺産を引き継ぐ地域であるからである、と重ねて強調されます。

また縄文時代とは、人工と自然、生と死が交感する独自の世界であったと述べられます。

縄文時代と東北地方と原発事故。。

これはなんとも不思議な取り合わせで、これからどのように論が展開するのか心が踊りました。。



三省堂大辞典「キアスム」の項より

キアスム [(フランス) chiasme]
メルロ=ポンティの用語。
見るものと見られるものが、相互に可逆的に侵蝕し合っている状態。
主体と客体の分離を乗り越えるための用語。
交差配列。



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