goo blog サービス終了のお知らせ 
不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

お盆・施餓鬼・七夕(3)・・死者救済術としての祭り

2011-08-16 | 日本の不思議(中世・近世)

藤井正雄氏著「盂蘭盆経」を読んで、「お盆」の由来を調べています。

「盂蘭盆会」はたいへん歴史が古く、推古天皇の時代から行われていたことが書かれていました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。




            *****


           (引用ここから)



「盂蘭盆会」がわが国において始めて営まれたのは、「日本書紀」によりますと推古天皇14年(606)に「この年より始めて寺ごとに4月8日、7月15日におがみせしめき」とあります。

続いて斉明天皇3年(657)に、「15日に須弥山の像を飛鳥の寺の西に造り、また盂蘭盆の会を設けき」とあります。

そして同5年に「15日、京内の諸寺に「盂蘭盆経」を勧講して、7世の父母に報いしめたまひき」と、「盂蘭盆会」が早くから行われていたことを記しています。

平安中期頃になりますと、かなり広く行われるようになったらしく、特に京都では船岡蓮台寺、珍皇寺(愛宕寺)などの葬場では「盂蘭盆会」に寺の塔の基檀に水をかけて亡霊供養のために人々が集まるようになったことを示しています。

その供物を供えるのに、蓮葉を用いることが古くから行われていました。

施餓鬼会が一般化するのには、それを受け容れる庶民の側のニーズがあったことはいうまでもありません。

加持祈祷が中心であった真言宗の葬式が庶民に普及するのは、光明真言土砂加持(光明真言をとなえ加持した土砂を死骸や墓にまいて、亡者を滅罪成仏させる)によって極楽往生ができるとといた明恵によって13世紀にはじまります。

そして高野聖の勧進などによって、次第に浸透していきます。

始めは修行の作法であった「施餓鬼」が、庶民の要求にこたえて次第に死者のたたりを封じこめる呪法となり、追善供養の方法ともなって、盆行事と密接に結びついていったのです。

 
            (引用ここまで)


              *****


おそらく「施餓鬼」は、僧侶が渾身の力で死者と対峙し、成仏させる技であったのだろうと思います。

各宗派の「施餓鬼法」を探してみたいと思いました。

この本にも、

「秘術は夜間におこなわれていた。

これが昼間の回向と同時に行われるようになるには、長い時間が必要であった。」

と書かれています。

夜に行われていた行法が気になります。



ともあれ、「盂蘭盆会」と「施餓鬼会」は、やがて合わせて行われるようになります。

以下、同書より紹介させていただきます。



            *****


          (引用ここから)


江戸時代の中頃にもなりますと、「盂蘭盆会」と「施餓鬼会」が一緒になった現在の形が出来上がってきます。

たとえば「伊勢国問状答」では

「7月13日、墓所参りとて、家々、祖先の墓に詣で、灯を献ず。
寺寺にて「迎え施餓鬼」あり、新亡の家には、初盆とて灯篭をうるはしく造りて、7日より燃やすなり。」

とありますように、お盆を迎えると、寺で「施餓鬼」が営まれている様子がよく分かります。



お盆は、元は旧暦7月を「盆月」と言って、1ヶ月もの長期にわたるものであったのです。

中国では7月1日を「開鬼門」と言って、地獄の門が開き、7月30日を「関鬼門」と言って地獄の門が閉まるといい、この1ヶ月の間は孤魂、幽鬼がさまようとされていました。

おそらくこの中国的世界観の影響があったのでしょう。


「日本民族地図1」に、「お盆行事」の事例があります。

             ・・・

1日 地獄の釜開き。
   朝早く起きて、地面に耳をあてるとカーンと釜の蓋があく音が聞こえるという。
   むかしは先端に杉葉をつけた柱を庭に立て、縄を針、灯篭をつけた。

7日  七夕。墓なぎ。お墓の掃除をする。

13日―16日 お盆。
   念仏講があり、男女の年寄りが集まって、鉦、桶太鼓をならし、念仏を唱えながら数珠くりを  する。

13日 盆棚つくり。
   マコモを敷いてお位牌を移し、初物をサトイモの葉にのせ、盆花(おみなえし)の箸を添えて   供える。
   またナス、きゅうりで馬を作る。
   夕方、家の入り口にたらいに水を汲んで出し、ちょうちんを持ってお墓に迎えにいき、   家では門口に藁で迎え火をたく。

14日 餅をつき、丸餅にし、いばらの葉に包んで仏様に供える。
   また、墓地へもって行き、無縁仏にもあげる。

15日 親戚や義理のある人たちが盆礼に来る。
   この日を中心に神社の境内や辻などの広場にやぐらを組んで太鼓をならし、若衆が盆踊り   をする。
   夕方、土産だんごを作り、仏様に供える。

16日朝、墓地に持って行って、だんごを無縁仏に供えてくる。
    盆棚を取り払って川に流し、あるいは辻に捨てる。

30日 うら盆。お盆の終わりで、庭に立てられた灯篭もはずされる。夕方にはうどんを食べる。

                  ・・・

            (引用ここまで)


               *****



また、夏の風物詩である7月7日の「七夕」は、中国の織姫・彦星の伝説で有名ですが、この行事は、一ヶ月続くお盆の行事のはじまりの、みそぎの儀式なのではないか、

日本独自の民俗と考えるべきではないか、という説が述べられていますので、同書より紹介します。



        *****


        (引用ここから)



7月7日を「盆の初め」とするところは全国にわたっています。

この日はまた「七夕」にあたります。

七夕には「7回水を浴び、7回親を拝む」「7回赤飯を食べる」という伝承が東北から関東地方に多く伝えられています。

盆を迎えるにあたり、物忌みの生活に入るミソギと解釈するのが、定説となりつつあります。


このように「七日盆」には中国の星祭の慣行とは異なる要素が見られますので、七夕を日本独自の行事とみる見方があります。

民俗学者・五来重は「続・仏教と民俗」の中で、七夕をタナバタと読むことに注目した折口信夫から示唆を得て、

「タナバタとは旗をたてる棚であり、旗は精霊のよりしろとなる招き旗である」と考えたのでした。


寺院の施餓鬼棚にたてる五如来の青黄赤白黒の「五色幡」は、日本固有の、タナバタの旗の変形と見るのであり、

また「七夕送り」といって七夕竹を川や海に流すのは、「精霊送り」と同じで、

本来ならば「精霊棚としてのタナバタ」を「終い盆」(盆の終わり)に流すものを、七夕が独立したので7日に流すことになったと推論しています。



盆の供物は「続日本紀」7月6日の条に、

「はじめて大膳をして盂蘭盆の供養を備えしむ」とあり、「盆供」は天皇の食物を司る職の人の管轄であることがわかります。

「延喜式」には、供物として、米、小麦、大豆、ゴマ、味噌、酢、塩、昆布、けし、青大豆、瓜、ナス、みかん、梨、桃などがあげられています。

今日では赤飯、餅、団子、そうめんやなすきゅうり、瓜などの野菜や、りんご、梨、桃などの果物です。


盆の供物にはあきらかに「収穫祭」的な性格が見られます。

その性格の解釈をめぐって、二つの立場が見られます。

すなわち、供物の種類からみて「稲作の収穫祭」と見る見方と、「麦作、畑作の収穫祭」と見る見方とに分かれています。

柳田国男によれば、七夕における水との関連が示していますように、「雨乞い行事」とともに田の神に対して「稲の生育を祈る祈祷行事」と推断することになります。

一方、「盂蘭盆会」の行事を「麦作の収穫祭」としての「ソグド人の死者を祭る祭祀」であるとした岩本説や、そうめんが精霊への供物としてよりも、盆棚に垂らされる形で飾られることから見ましても、

盆に来たりくる精霊の中でも子孫の繁栄を見守る本仏に対して捧げられる「麦作、畑作の収穫感謝」が強調されているという説もあります。


       (引用ここまで)

             *****


「盂蘭盆会」も「施餓鬼会」も「七夕」も、人々の心の奥深くにある、死者の国と現世は分かちがたいという思いによって作り出されてきた行事であろうと思います。

草いきれ、川のせせらぎ、山から吹く風、揺れる木々、赤いほうずき、ろうそくの灯、、生者のかげに、死者が、群れをなして漂っている季節なのでしょう。。

次には、民俗学から見た「お盆」について、載せたいと思います。





関連記事

「ブログ内検索」で

     
       
お盆       7件
地獄      10件      
仏教      15件
雨乞い      3件
柳田国男     7件
水神       6件
墓       15件
日本書紀    15件
修験道      5件
京都       7件
   

などあります。(重複しています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お盆・施餓鬼・七夕(2)・・ゾロアスターの鎮魂儀礼説など

2011-08-13 | 日本の不思議(中世・近世)

「お盆」の起源、「お盆」に行われる「施餓鬼」という行事などについて書かれている「盂蘭盆経」という本を読んでみました。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

筆者は、「7月15日」という日付が、どの行事にも共通しているのはなぜかと問いかけています。

また、「僧への供養」として始まった「盂蘭盆会」が、なぜ「死者への供養」へと傾いてゆくのかと問うています。



           *****


           (引用ここから)



「盂蘭盆経」の説く「盂蘭盆」の僧のいとなみの日は、7月15日となっています。

「盂蘭盆」のいとなまれる7月15日は、中国では「中元」の日にあたります。

「中元」は「上元」、と「下元」とともに「三元」と言われ、道教の祭祀として「三官信仰」と密接にむすびついた日であるのです。

「三官」というのは、大自然の主催者としての「天官」、小麦を主とする畑作の収穫を支配する神としての「地官」、稲作の収穫を支配する神としての「水官」ですから、「中元」はその起源において「畑作の収穫祭」であったことが知られるのです。


そして中国の地理を見てみますと、北部の畑作地帯が、遠く中央アジアを経て西アジアに連なっています。

中国における「麦作」と「粉食」は、漢代に西域ルートを通してソグド人によって伝来したことが知られています。

ソグド人とは、ゾロアスター教を奉ずるイラン系の民族です。

ソグド人の間では、古くから霊魂、特に死者の霊魂を「ウルヴァン」とよび、「ウルヴァン」を祀る祖先祭祀が営まれていました。

この事実に注目した岩本祐氏は、イラン民族間で営まれていた「死者を祀る祭祀・ウルヴァン」が農耕儀礼と結合して、ソグド人の中国進出によって中国にもたらされたと見たのです。

そしてそれが麦作地帯の「収穫祭」としての「中元」と結びつきました。

また、仏教における、僧に捧げ物をする日である「自恣」の日(後に盂蘭盆会の日となる)と道教の「中元」の日が同じ7月15日なのですが、

これは、仏教徒が「自恣」の日と「中元」とを結びつけることによって、今日に伝わる「盂蘭盆会」の原型が成立した、と推論したのです。



では、具体的に道教の「中元」と仏教の「盂蘭盆」とどのようにして結びついたかという問題になりますと、多くの議論が展開されているのですが、

「盂蘭盆供養」がもともと僧への供養によって母の亡魂が餓鬼道から救いだされるという間接的な死者供養・祖霊供養であったわけですが、

中国に入ってから、孝道を重んずる中国の風潮の影響を受けて、死者・祖霊供養の意味を強めたと見られます。


さらに7月15日は中国の「中元」で、俗に言う「鬼節」、死者がこの世に戻ってくる時節にあたりますから、「盂蘭盆会」は中国的変容をとげたものであろうと見られます。


          (引用ここまで)


             *****


筆者は、「お盆」の語源のもうひとつの解釈として、サンスクリット語のウランバナという語が語源であるという説も紹介しています。

7世紀・中国の書「一切経音義」に次のように書かれているということです。

           ・・・

盂蘭盆、この言は訛りなり。正しくはウランバナという。彼の外書(西国・インド)にいう、先亡罪あって家または跡継ぎを絶ち、救いを請うことなければ、鬼処において倒懸(とうけん)の苦を受く。

            ・・・


インドでは子孫のない者は餓鬼となって倒懸(逆さ吊り)の苦しみを受けるという言い伝えがあり、「盂蘭盆」の語源はこのウランバナであるとする考えが、仏教では定説となっているということです。

しかし著者は、目蓮の母の生前の罪深さを救うという「盂蘭盆」の催しには子孫がいないことの罪は関わりがないとして、この語源は適当ではないと考えています。

ゾロアスターの鎮魂儀礼の習俗が西域から麦作と共に伝えられた、とする筆者の説は、広いアジア世界を大きく捉える視点があって、興味深く思いました。


次に「施餓鬼」について書かれていることを紹介します。


               *****


           (引用ここから)


お盆には、「お施餓鬼(せがき)」の行事が伴います。

「施餓鬼」とは、「盂蘭盆」と同じく、お釈迦様の十大弟子の一人阿難の話に由来するのですが、

だれにも供養してもらえない霊、すなわち餓鬼に飲食を施して、供養することで、誰でも救わずにおかれない、仏の大慈悲から出た行事です。

祀られない餓鬼、無縁仏に供養して、その功徳を死者の霊および先祖代々の霊位に振り向けて回向するというように、「盂蘭盆会」と「施餓鬼会」が合体したものになっています。


「盂蘭盆」の背景には、インドでは古くから跡取りのいない者は悪所に堕ちるとする信仰があり、

バラモンは修行を終えて結婚生活をするのに対して、仏僧にあっては家族生活がなされないので、出家をすることは親を餓鬼道に落とすという矛盾があったことになります。

その解決が中国的に図られたのが、「盂蘭盆経」の成立であり、また母は子どもへの愛・育成に心を餓鬼としなければならないという宿業がふまえられていたのでした。


また、庶民にとっては、「施餓鬼会」を修することによって自らの福徳、長寿の現世利益が約束されますが、「盂蘭盆会」と習合することで、この世を安楽に暮らし、死んだら浄土に生まれるという、まさに現世と未来世の利益が同時に果たされることにもなるのです。

まさに「盂蘭盆大施餓鬼会」こそは、長い時間をかけて、仏教と民間信仰が作り上げた習合の産物であり、追善供養の仏教的完成と言ってもよいでしょう。


           (引用ここまで)


              *****


さらに筆者は、「お盆」には中国の習俗である、水難に対する厄除けである「水陸会」も、習合されたと考えます。


             *****


          (引用ここから)


澤田瑞穂氏は、その著書「地獄変・中国の冥界説」の中で、“僧に対する供養”の原義が薄れて、“死者に対する供養”の意味が強まったのは、「盂蘭盆」と「施餓鬼」と「水陸会(すいりくえ」」の3つの仏事が交錯して伝承されたものであると明らかにしています。

中国語の「鬼」は死者の亡霊である「人鬼」をはじめ、妖怪変化、夜叉羅刹をも意味しています。

これらの悪鬼を水上や陸上から供物を投げてなだめ、水辺より発する疫病、災害を取り除こうとしたのが「施餓鬼会」や「水陸会」であったのです。

「水陸会」は水の横死者を多く出す文化の中心地、中国・江南地方に起こりましたが、水の少ない地方でも、供養の場所を水辺に選ぶことになっていったと、澤田氏は述べています。



柳田国男は「先祖の話」の中で、「盆」は本来「梵」であり、神霊に供物を盛る器物で、古くは「ボニ」と呼んでいたものが、「盆」になったという説を述べています。

また、神霊に食べ物を供えることを「ホカヒ」と言い、また、梵は「ヘ」、「ヒラカ」、「ホトキ」、「サラケ」、とも言い、

死者を無差別に「ホトケ」と言うようになったのは、本来「ホトキ」という器物に供え物を入れて祀る霊、ということで、中世民間の盆行事から始まったものと推定したのでした。


             (引用ここまで)

                *****


5月5日の「端午の節句」に食べるちまきも、本来は川に投げ捨てるものであり、古代中国の水難の厄除けの行事であったということを思い出しました。

「お盆」という日本的な行事の基底には、西域の文化や道教など、古代アジアの習俗が色濃く反映されているのであろうと思いました。

しかし同時に、柳田国男はじめ多くの日本の民俗学者による「お盆」の研究では、「お盆」の行事は日本独自の文化の宝庫と感じられているようで、どこから手をつけたらよいか、戸惑うほど豊富な資料があるようです。




関連記事

「ブログ内検索」で

ゾロアスター     11件
お盆          7件
仏教         15件
地獄          9件
地底         15件
道教         10件
西域          7件
鬼          15件
イラン        15件
柳田国男        6件

などあります。(重複しています)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お盆・施餓鬼・七夕(1)・・地獄と母性

2011-08-09 | 日本の不思議(中世・近世)

お盆の時期になりました。

死者供養としての先祖供養、死者と盆踊り、といったことを考えてみました。


お盆は、お寺では「盂蘭盆(うらぼん)」と呼ばれますが、その語源はなにか。


お盆には「施餓鬼法要」が営まれますが、この二つはなぜ合同で営まれるのか、といったことが書かれている藤井正雄著「盂蘭盆経」という本を読んでみましたので、ご紹介させていただきます。

また、民俗学者の五来重氏の習俗の研究も調べてみましたので、後にご紹介したいと思います。


リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


        *****


            (引用ここから)


「お盆」はお彼岸と同じようにわが国の国民的な行事となっていますが、仏教の教えが基になっています。

「お盆」の由来はといいますと、遠いインドの地での目蓮尊者と亡き母との悲しい物語から生まれたものです。


目蓮はお釈迦様の十大弟子の一人で、いながらにして世界の出来事を見たり聞いたりできる神通力を持っていました。


ある時父母の恩に報いようと思い、神通力によって世の中の有様をみつめると、亡くなった母が「餓鬼道」に堕ちているのを見ます。

驚き悲しんだ目蓮はすぐに神通力でご飯を鉢に盛って供養しました。

母は喜んで食べようとしましたが、ご飯はたちまち火炎となって、食べることができません。


お釈迦様は静かに説かれました。

「目蓮よ、汝の母の犯した罪はあまりにも深く、それに比べて汝の修行の日が浅いので、一人の力ではなんとすることもできない。

しかし幸いにも、7月13日の(僧自恣)の日が近い。

その日はたくさんの僧が一堂に集まり、それぞれが過去を反省懺悔して、さらに仏道の修行にいそしもうとする日である。

この日にたくさんのご馳走を諸僧にお供えして、生みの父母、7世の父母のために苦をはらい、楽を与えてくださるよう、回向を頼みなさい。

現在世にある父母は百歳の寿命を保ち、今は亡き7世の父母は「餓鬼道」から救われるでありましょう。」


そこで目蓮は「盂蘭盆会」を営みました。

亡母はその功徳によって、餓鬼の苦しみより離れ、救われます。
                  

この「盂蘭盆経」は内容から見て、インドにおける「目蓮救母説話」に、中国人の重んずる「孝養の徳」が付加されていますから、中国で作られたことは間違いないと見られています。



            (引用ここまで)


               *****


闇の中にいる母を見つけたとき、修行僧・目蓮はどんなに驚いたことかと、心が痛くなりました。

自分を、「母であるわが身」と思うと、「母性」とはなんと切ないものかと思います。

こどもを守り育てようという自分の気持ちを、わたしはわが身の罪であるように感じられてならないからです。


およそ“大地の母”“母性的な女神たち”といった観念ほどわたしが苦手なものはありません。

なので、筆者の描く仏弟子の母の姿を、わたしはすんなりと受け取ることとなりました。

偽経である、すなわち、仏教になんらかの別の思いが込められたものとして。

話は続きます。



            *****


          (引用ここから)


目蓮の亡父はバラモンの修行のおかげで天上界に生まれたのに、亡母はなぜ餓鬼道に堕ちたのでしょうか。

「業つくばばあ」というのに、なぜ「業つくじじい」とは、あまり言わないのでしょうか。

それほど父に比べて母は業が深いのでしょうか。


母の業が深いというのは、欲張りという意味ではないのです。

母はわが子を育てるのに、時には心を鬼にして育てます。

育児に専念する尊い母親の姿を見落としてはならないでしょう。

それに気つかずに、母を忘れ、供養することのなかった目蓮に、お釈迦様はそれとなく教訓を垂れたものと受け取ることができます。


母が餓鬼道に堕ちていたことを知った目蓮の嘆きはいかばかりであったでしょうか。

母が餓鬼道に堕ちたのは、子を思うがゆえの所為であり、目蓮は自分が母を餓鬼道に落としたものと痛感したのです。


自らが母を餓鬼にしたと思えば、母を救うためには、みずからも救われなければならないという思いに駆られたのです。

そして、お釈迦様の教えによって、自分の母だけでなく、すべての母が救われなければ、自分の母も救われないし、自らも救いにあずかれるものではないと悟ったのです。


親鸞聖人は「歎異抄」のなかで、

「親鸞は、父母の孝養のためとて、一辺にても念仏まうしたることいまださふわはず。

そのゆえは、一切の有情(衆生)はみな世世生生(次々に生まれ変わるたびごとに)の父母兄弟なり。

いずれもいずれもこの順次生(次に生まれる世)に仏になりて助けさふらうべきなり」

と述べているのも、同じ心境を伝えています。


              (引用ここまで)


              *****


わたしはほとんど祖先祭祀の行事をしない家庭に暮らしてきたもので、この度「お盆」行事に関する何冊かの本を読み、一つ一つの習俗を知るたびに、珍しく、大変驚きながら、「お盆」という行事に思いを寄せました。

自分が、供養されている側に立っているように思いながら。。

それは仏教渡来以前の感じであろうと感じながら。。


色鮮やかであるほど胸に迫る、夏祭りのなんとも知れない物悲しさは、やはり日本人の魂の在り処をありありと見せているように思います。




関連記事

「ブログ内検索」で

お盆     6件
仏教    15件
地獄     8件
地底    15件
親鸞     2件
弥勒    15件
マリア    6件
卑弥呼    3件

などあります。(重複しています)
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山の霊としての天狗・・ウエサク祭・その4

2010-07-03 | 日本の不思議(中世・近世)
鞍馬山のウエサク祭のことを考えているのですが、やはり天狗が気にかかります。

鞍馬山には、やはり天狗がよく似合うのではないでしょうか。。

天狗は日本の天使ですから。


ウエサク祭が「心のともし火」を一人一人捧げ持つお祭りであるというのも、「魔王のお祭り」であるというのも、天狗との深いかかわりがあるのではないかと思えてなりません。


「天狗と庶民信仰」という民俗学者 五来重(ごらいしげる)さんの文章を抜粋して引用します。


*****

(引用ここから)

修験道の栄えた山ならば、どこへ行っても天狗を祀る神社や祠(ほこら)が見られ、それは今も真剣に信仰されている。

本来は天狗信仰であったものを日本武尊や崇徳天皇に替えたものもあるが、その信仰の対象は依然として天狗である。

これは山岳宗教の中で発生した天狗信仰というものが、その原初形態に近い形で今も生き続けていることを意味する。

したがって天狗は原始信仰の表出であるところから、文化宗教や文化意識には受け入れられなくなって、神や高僧や山伏に使役され、その従者となり、やがては道化役にまで転落することになった。

その代わり、原始信仰を生のままでいかした庶民信仰の中では、野生的で生命力にあふれた霊力と呪力をもち続けたのである。


「山神」、「山霊」であり、その神霊観の原質をなす「祖霊」であるところの天狗は、もともと形象の無い霊魂であった。

“もの”、あるいは“木魂”、あるい“すだま”であった。

これに形象を与えていたのは修験道儀礼や、修験道芸能、あるいはこれを描いた絵画であった。

そして山神、山霊、祖霊の働きを語る神話が、天狗を語る説話となり、やがて御伽草子、民間説話に下降し、その破片化から昔話が生まれた。

このような経過を辿って天狗は継承されたのであって、天狗の不可解な姿や働きは、その原質をなす霊魂に還元しなければ、たやすくは理解できない。


いまでも全国に広く分布する天狗信仰は、大部分は火難、盗難を免れるための火伏せ、盗難よけの霊力が信仰される。

これらの天狗信仰がきわめて真剣なことはおどろくべきものである。

わたしはよく鞍馬へ登ると奏上が谷の奥の院魔王尊へ行ってみるが、そこにはいつも熱心な信者の読経や気合いの声が谷に木魂して鬼気迫るものがある。

鞍馬寺の表は毘沙門天信仰であるが、その裏に鞍馬天狗の信仰が根強く生きている。

江戸時代まで参詣者に火打ち石を授けていたのも、この“天狗の火伏せ”があったからであろう。

これは愛宕山の「火打ち権現」に対応するものであるが、火打ち石を授ける信仰は出羽の羽黒山・奥の院常火堂にも昭和25年くらいまであった。

これから類推すると、鞍馬山にも愛宕山にも“不滅の火”を焚いた時代があったと思われ、火は天狗の属性だったことが分かる。


日光の古峰神社は神仏分離の時、その本殿の御神体だった巨大な天狗面を外に出して、日本武尊を御神体としたことはよく知られている。

その大天狗は畳一畳にも余るほどで、明治以前はこれが土間にあって、“不滅の火”を焚く炉があったという。

まことに原始的な構造で、天狗の御神体の前で“不滅の火”が焚き継がれていたことになる。

すべて神仏分離で構造が変わり、“不滅の火”は客殿の廊下に移され、土間には床が張られて畳を敷き、外陣となったのである。

この不滅の火は今も「消えずの火」として大火鉢に炭が焚かれ、参詣人はこの火の大鉄瓶の湯をのんで、厄除けとする。


山岳信仰には“不滅の火”がつきもので、これは山に集う祖霊のシンボルとして焚かれ、霊魂の永遠不滅をあらわしたものと、わたしは考えている。

比叡山や高野山などでは、それが「仏法の不滅」をあらわす「不滅の宝灯」に変えられたまでである。


修験道系の神楽と田楽に天狗がまつられ、天狗面の舞があることは枚挙にいとまがない。

これは修験道が山岳宗教であるかぎり、いかに仏教や陰陽道を習合しても、山神、山霊は信仰と儀礼と唱道の中心でなければならなかったからである。

しかも姿なき山神、山霊を形象化したのは、山伏が悪魔払いの呪的舞を演ずるとき、露払いの面である鼻の高い治道面をかぶったためであろうと、わたしは考えている。


鎌倉時代の書「天狗草子」に一貫するテーマは、総じて言えば仏教の排除するべき“我執”にもっとも強く執着するのが山伏であり、天狗であると設定している。

これは鎌倉時代には仏教界にありながら、諸宗を向こうにまわして傲慢にふるまう修験山伏が嫌われ者だったためであろう。

したがって、諸宗の中にあって傲慢なるものを「魔界」、すなわち「天狗道」と考えた。

このような天狗観は仏教側からのもので、庶民信仰と修験道側から見れば、天狗はもっと神秘で霊的なものである。

(引用ここまで)


*****


天狗から、高い鼻と、いばった態度と、山伏のいでたちといった劇画的な要素を取り払った姿が、本来の天狗の姿だと言うわけです。

木立の間に住んでいる山のたましいそのものが、天狗なのではないかと。

これも至極まっとうな一つの天狗観であると思われます。




関連記事

「ブログ内検索」で

 天狗   3件
 祖霊   3件
 火祭り  3件
 カラス  9件

などあります。(重複しています)





コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本のピラミッドとニライカナイ信仰・・水木しげるの常世探訪

2009-09-15 | 日本の不思議(中世・近世)
水木しげるさんの「三途の川の渡り方」の紹介を続けます。


              *****

          (引用ここから)


もう20年ほど前のこと、ぼくはまるで招かれるように広島県庄原市に行った。

夢に子どもがでてきて、泣いて呼ぶので行ったのだが、ここには出雲のカミサマより古い、太古のピラミッドと言われる巨石がある。

その石の上にはたたみ一枚ほどの供物台があって、ここから晴れ渡った空をバックに三角形の山がはっきりと見える。

これを見て、エジプトのピラミッドも太陽神信仰だが、日本にも同じ考え方があったのじゃないだろうか、とぼくは直感した。

その信仰が忘れられているので、夢のなかの子供が泣いているのではないか。
その後の体験でこれは事実だと確信している。

その太陽をさえぎるのが雲、つまり時代を支配しようとする生きた亡者たちとも言える。


ざっと世界も見回しても、難しい教義を持った宗教が根をはった国を除けば、おおむね人間のいる世界の上方には心地よい天上界、地下には罪深い魂が落ちる暗い世界があったようだ。

韓国の古い信仰にもこうした形が見られる。


ぼくはインドネシアに縁があって、おじいさんも親父も親類も長い間、インドネシアのジャワ島に滞在していた。

森の多いところは霊の力が強い。

インドネシアは現在、イスラム教が圧倒的に信じられているが、部族によっては古い言い伝えを持ち、ここにも死後に渡る川が登場する。

たとえばボルネオ島のサラワクに住むカヤン族では、死後の魂はロングマランという大河に辿り着く。

この川には丸木橋が一本かかっていて、橋のたもとには大男がおり、この男がいつも橋を揺らしている。

生前、勇者として敵の首を取ったものはすぐに橋を渡れるが、その経験もない臆病者は橋から落ちて藻を伝いながら「ポー」というあの世に降りていく。

「ポー」の手前には「命の水の川」という川があり、ここにも番人がいる。
この番人は、魂を追い返す権利を持っている。



日本には、浄土という思想が入る前から「常世」という考えがあった。

海の向こうにすばらしい国があるという考えで、竜宮城の物語もここから生まれた。

たとえば沖縄にはニライカナイという楽土があり、先祖の霊はそこに行って、お盆には帰ってくる。

またニライカナイは時間の止まった世界で、生身の人間が間違って辿りついても、年をとらないで帰ってきたという言い伝えもある。

この海の彼方に楽土を見るのは、当時はなきがらを海に流す水葬が行われていたためだとも言われる。


熊野や室戸岬に伝わる「補陀落渡海(ふだらくとかい)」もまた、海の彼方に楽土があるという考えだ。

これは熊野の「補陀落山寺」の住職を水葬にしたのが始まりだったという。

「補陀落渡海」では、まず窓のあまりない「ウツボ舟」と言う舟をつくる。

一か月程度のわずかな食糧を乗せ、行者が中に乗ると外から釘で船を密封してしまう。

つまりは小型の棺桶船のようなものを作る。

ここに鳥居を3つか4つ付け、「補陀落浄土」を目指した。

わかっているだけで、数十人が決行している。

修行を積んだ末に行われたというが、楽土に行くのも楽ではない。

そもそも「補陀落渡海」では、楽土は西ではなく、南にあったのだ。

それが、浄土教がさかんになるにつれて、西方の極楽浄土が重要視されるようになった。

ここでも日本古来の信仰が外来の仏教と混交していったことが分かる。

(引用ここまで)

   
           *****


日本にもピラミッドがあるという説は興味深いです。

水木しげるさんの直感では、太古の日本人は太陽神を信仰していたということになりますが、じめじめした日陰や暗がりの似合う水木さんの直感する“太陽”とはどのようなものなのか、興味があります。

広島・葦獄山(あしたけやま)のピラミッドについては、月刊ムーの単行本に説明がありましたので、以下に引用します。

         *****

          (引用ここから)

日本のピラミッド研究は1932年、酒井勝軍によって、広島県庄原市にある葦嶽山が人工のピラミッドである、と断言されたことに始まる。

明治6年、山形県に生まれた酒井はアメリカに留学し、牧師となるが、昭和2年にユダヤ・シオニズム運動の調査のため、中東・パレスチナに派遣されてから、突如としてピラミッド研究に没頭しはじめ、ついには世界中のピラミッドのルーツは日本にあるという、いわゆる日本ピラミッド発祥説を唱え始める。

その根拠として酒井は、有名な「 竹内文献」を伝える天津教竹内家神宝の一つ、御神体石に神代文字で書かれた「日来(ひらい)神宮」を挙げている。

この言葉「日来(ひらい)神宮」こそ、古代日本における「ヒラミット(ピラミッド)」の存在を暗示するものというのだ。

酒井の定義では、ピラミッドはかならずしもエジプトやマヤのように、人工的に石組みされたものである必要はないとされる。

山や丘など、自然の地形を巧みに利用しながら、その一部に石や土を積み上げ、形作られたものでもかまわない。

ただしピラミッドとして絶対に欠かせないものがある。

山頂に設置された「太陽石」と呼ばれる、一種のエネルギー集積装置だ。

つまり酒井によれば、ピラミッドは古代のテクノロジーによるエネルギー装置だった、というわけだ。

葦嶽山ピラミッド説は、当時新聞でも大々的に報じられ、広島県の山村には続々と見物客が押し寄せることになった。

たしかに葦嶽山は、中腹から山頂にかけて人工的に積み上げたような巨石が大量に存し、その山容も美しいピラミッド型をしている。

また山頂には、酒井が主張したような「太陽石」もあったのだ。

ちなみにこの「太陽石」はのちに国家によって破壊され、谷底に投げ落とされてしまったといわれている。

    (学研「ムー」スペシャル「超古代文明ファイル」より)


        *****

この問題については、一度にはとてもまとめられないので、またの機会に譲りますが、古代日本になにがあったのか、大変気になるところです。

「太陽石」は本当にあったのでしょうか?

水木さんは次に、浄土より先にあった“常世”(とこよ)について述べています。

日本書記には、「少彦名命が熊野から常世に帰った」という記述があります。

wikipediaから引用します。

      *****

常世の国(とこよのくに)は、古代日本で信仰された、海の彼方にあるとされる異世界である。

一種の理想郷として観想され、永久不変や不老不死、若返りなどと結び付けられた、日本神話の他界観をあらわす代表的な概念で、古事記、日本書紀、万葉集、風土記などの記述にその顕れがある。

こうした「海のはるか彼方の理想郷」は、沖縄における海の彼方の他界「ニライカナイ」にも通じる。

常世の国の来訪者

日本神話においては、少彦名神、御毛沼命、田道間守が常世の国に渡ったという記事が存在する。

浦島子(浦島太郎)の伝承にも、常世の国が登場する。

少彦名神

大国主国造りのくだりでは、少彦名神が大国主とともに国土を成した後に帰った地とされる。

『古事記』上巻の記述では、この国を作り固めた後、少彦名神は常世の国に渡ったとあり、日本書紀神代巻の該当箇所では、本文ではなく第八段の一書第六の大国主の記事中に、大国主神が少彦名命と力を合せて国作りの業を終えた後、少彦名命は熊野の岬に行き、そこから“常世郷”に渡ったとある。

         (引用ここまで)

           *****


水木さんはさらに、日本史上でも異彩を放つ“海上版・死出の旅路”である「補陀落渡海(ふだらくとかい)」について述べています。

この“死出の旅路”は、海上を西方浄土ではなくて、南方の浄土をめざして進む旅路ですが、驚くべきことにその起源は仁徳天皇時代とされ、仏教伝播以前のようです。

元祖日本人は、南の海に魂の故郷をもっていたということでしょう。

そしてそういった仏教以前の日本人の心性を、「常世」という言葉であらわすことができると、水木さんは述べているのだと思います。

「三途の川」は、仏教よりはるかに古くから、日本人の心性に根付いていたのだと言えると思います。


Wikipediaから、お寺の由来と渡海行の方法を紹介します。

      
         *****

wiki「補陀落山寺」より

補陀洛山寺(ふだらくさんじ)は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある、天台宗の寺院。

補陀洛とは古代サンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳である。

「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として世界遺産に登録されている。

仁徳天皇の治世(4世紀)にインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人によって開山されたと伝える古刹で、平安時代から江戸時代にかけて人々が観音浄土である補陀洛山へと小船で那智の浜から旅立った宗教儀礼「補陀洛渡海」で知られる寺である。

江戸時代まで那智七本願の一寺として大伽藍を有していたが、文化5年(1808年)の台風により主要な堂塔は全て滅失した。


Wiki「補陀落渡海(ふだらくとかい)」より

補陀落渡海(ふだらくとかい)は、日本の中世において行われた、捨身行の形態である。

この行為の基本的な形態は、南方に臨む海岸に渡海船と呼ばれる小型の木造船を浮かべて行者が乗り込み、そのまま沖に出るというものである。

最も有名なものは紀伊(和歌山県)の那智勝浦における補陀落渡海で、『熊野年代記』によると、868年から1722年の間に20回実施されたという。

この他、足摺岬、室戸岬、那珂湊などでも補陀落渡海が行われたとの記録がある。

補陀落渡海についてはルイス・フロイスも著作中で触れている。

渡海船

渡海船についての史料は少ないが、補陀洛山寺で復元された渡海船の場合は、和船の上に入母屋造りの箱を設置して、その四方に四つの鳥居が付加されるという設計となっている。

鳥居の代わりに門を模したものを付加する場合もあるが、これらの門はそれぞれ「発心門」「修行門」「菩提門」「涅槃門」と呼ばれる。

船上に設置された箱の中には行者が乗り込むことになるが、この箱は船室とは異なり、乗組員が出入りすることは考えられていない。

すなわち行者は渡海船の箱の中に入ったら、箱が壊れない限りそこから出ることは無い。

渡海船には艪、櫂、帆などの動力装置は搭載されておらず、出航後、伴走船から切り離された後は、基本的には海流に流されて漂流するだけとなる。

思想的背景

仏教では西方の阿弥陀浄土と同様、南方にも浄土があるとされ、補陀落(補陀洛、普陀落、普陀洛とも書く)と呼ばれた。

その原語は、チベット・ラサのポタラ宮の名の由来に共通する、古代サンスクリット語の「ポータラカ」である。

補陀落は華厳経によれば、観自在菩薩(観音菩薩)の浄土である。

多く渡海の行われた南紀の熊野一帯は重層的な信仰の場であった。

古くは『日本書紀』神代巻上で「少彦名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世郷に適(いでま)しぬ」という他界との繋がりがみえる。

この常世国は明らかに海との関連で語られる海上他界であった。

また熊野は深山も多く山岳信仰が発達し、前述の仏教浄土も結びついた神仏習合・熊野権現の修験道道場となる。

そして日本では平安時代に「厭離穢土・欣求浄土」に代表される浄土教往生思想が広まり、海の彼方の理想郷と浄土とが習合されたのであった。

       *****

写真
上・日本のピラミッド・あしたけ山(「ムー・超古代文明ファイル」より)
下・補陀落山まんだら図(「三途の川の渡り方」より)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水木しげるの、“日本的・死者の書”・・「死出の山」と「三途の川」

2009-09-11 | 日本の不思議(中世・近世)
水木しげるさんの「三途の川の渡り方」から抜粋・引用して紹介を続けます。
古事記のいざなぎの話の続きです。
長くなったのでまた2つに分けます。


                 *****

              (引用ここから)


いざなぎは、黄泉の国から帰ったあと、けがれをはらうために「みそぎ」をするのだが、そこには上流には激流、下流にはちょろちょろとした流れがあったので、中流のちょうどよい流れで禊祓をした。

この川を「三瀬川」という。

古事記の時代には、さかまく急流とちょうどいい流れ、さらにはちょろちょろとした流れ、しかなかったのだ。

船も橋もなかった。


日蓮宗の開祖・日蓮の著と言われるものに「十王讃歎抄」があって、「三途の川」のことが詳しく述べてある。

ここでは、亡者の前には対岸も見えないほどの大河が横たわっている。

ここが「三途の川」だ。
その川幅は400キロ以上ということになる。

この川には三つの渡瀬がある。

上流の渡瀬は、膝下くらいの水かさで、ここは罪の少ない者だけが渡る。
中流には金、銀、ルビー、めのう、水晶などでできた橋があって、善人はこの橋を渡る。

いちばん下流にあるのが悪人向けの激流だ。

しかし「自分は少なくとも悪人じゃなかった」と思うのはうぬぼれの度が高すぎる。

ほとんどの人は悪人に分類される。

三途の川を楽に渡れる人はほとんどいない、ということになる。


日本中に名山は多いが、富山県の立山や山形県の月山などに神として祀られているのが、阿弥陀如来。

だから立山や月山には「弥陀が原」という場所があり、ここには供養のための石積がされている。

富士山も霊山で、ここの風穴からお盆には亡者が帰って来るとされている。
風穴の前に広い川原があり、ここが「賽ノ河原」とよばれている。


霊山の一つ、立山には地獄・極楽絵図で有名な「立山曼荼羅」がある。

この絵では、亡者は火の車に追いかけられたり、血の池に堕ちたり、剣で出来た山を登らされている。

だが空にはまん丸い日月があり、暗さは微塵もない。


地獄めぐり49日目には「闇鉄所」という難関があり、狭い道の両側は鉄のとがった崖。

罪人が通ろうとすると崖が道をふさぎ、足を止めると開く。
すこしでも崖が触ると、体に剣のように突き刺さる。

修験道が盛んだった山では、二つの巨石の間をくぐる修行が「胎内くぐり」と言われる。

修験道でも亡者がこの巨石の間を群れをなしてくぐろうとすると、石が迫ってきて亡者たちをつぶしてしまうのだ。


この山が後年、「三途の川」と一セットになり、「死出の山」と書かれるようになった。

古来から、山は地獄の入口、つまり山には霊が住むと考えられていたのだ。


だからもっと昔は「幣(しで)の山」と書いた。

「弊(しで)」とは“神への捧げもの”の意味だ。

今の神社のしめ縄などや玉串についている小さな紙片も“しで”といい、これには垂、四手という文字があてられるが、どちらにしろカミサマへの崇敬を意味している。

霊は緑の多いところに住むという、ぼくの持論はあとでくわしく述べるが、やはり昔の人もそう考えていたようだ。


ぼくの好きな箴言に「目に見えるものは、存在しない」というものがある。

網膜とちっぽけな脳みそだけですべてが見えると思うのは、人間のうぬぼれだ。


第二次大戦で、日本は民間も含めれば300万人を超す被害者を出したのを、わずか10年ほどでケロッと忘れ、昭和31年の経済白書で「もはや戦後ではない」と言いだした頃からおかしくなったと、ぼくは思う。

昭和35年に「高度経済成長」が打ち出され、みんなが中流になることばかりに熱中して、すべてを見失ったんじゃないかと。


「鬼太郎」のデビューは昭和41年と高度経済成長に重なるのだが、読者の子供たちは親のそうした生き方を見て、直観的に“ちょっと違うな”と思っていたのだろう。

だから「異界」と自由に往来できる鬼太郎が支持された。
最初のタイトルはずばり、「墓場の鬼太郎」だった。


               (引用ここまで)

           *****


水木しげるさんは、「目に見えるものは存在しない」という箴言を愛しておられるようですが、この本の中では、「三途の川は仏教以前の日本人の心を反映していて、そこは恐ろしいようでもあり、また、なつかしいようでもある、日本人の心のふるさとではないか」と考えておられます。

彼は、日本人はやさしい、と語っています。

死者を心からいとおしみ、またその魂が清められて“成仏”するよう願ってきた日本の文化は、つい最近まで生きていたのだ、と語っています。

人々はつい最近まで、妖怪やおばけやカミサマやご先祖と同じ空間を共有してきたのだ、と。

それは幸せな時間だったのだ、と彼は語っています。



wiki「立山修験」より

立山修験(たてやましゅげん)とは、富山県の立山を中心として行われた修験道をいう。

奈良時代の佐伯有頼による立山開山伝説を、その発祥とする。

剱立山連峰に対しては、浄土あるいは地獄と両様の語りようをされるが、山上他界が存在するという信仰があり、立山を巡拝し擬似的な「他界」「死」から戻ってくる修行を積むことで超常的な力(法力)を身に付けることが出来ると考えるようになったものである。

立山山麓には、岩峅寺や芦峅寺をはじめとした信仰の拠点であり、宿坊を兼ねた宗教的な村落があり、それらを中心に勧進が行われていた。

また、立山修験の世界観は、今日まで伝わる立山曼荼羅に描かれた世界を見ることで、窺い知ることができる。

立山浄土の世界では、立山三山、なかでも雄山が、阿弥陀浄土とされていた。

雄山登山を代々重視して来たのは、そこが極楽浄土であるとする信仰による。

また、開山伝説に登場する矢傷を負った阿弥陀像も、信仰の対象となった。

それに対して立山地獄とは、現在の地名にも残る地獄谷の硫黄臭ただようさまであるし、その上のみくりヶ池は、血の池として、また、剱岳は針山地獄として恐れられた。

さらに、女人禁制であった当時は、入峰を許されない女性のための布橋大灌頂という行事が芦峅寺で盛んに行われた。


wiki「立山権現」より

立山権現(たてやまごんげん)は、立山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、阿弥陀如来を本地仏とする。

大宝元年(701年)、佐伯有頼(慈興)が立山で鷹狩りをしている時に、阿弥陀如来の垂迹である熊の神験に遭ったのが立山権現の由来であり、修験道場としての立山の開山と伝承される。

江戸時代には芦峅衆徒によって、立山権現信仰が全国に広められた。


HP「死出の旅路をたどる」中「死出の山」より
http://www.cable-net.ne.jp/user/terao-ji/tera5.htm

七日ごとの中陰の仏事を大事に営むのは、輪廻転生(りんねてんしょう。生ある者が生死を繰り返すこと)の考え方からです。

人間が生まれることを生有(しょうう)といい、その一生を本有(ほんう)、死の時が死有(しう)といい、死んでから次の生を受けるまでの間が中有、または中陰(ちゅうう、ちゅういん)といいます。

 この裁判を受ける世界を「中陰の世界」と呼ぶ。

現世と来世の中間だから「中」であり、現世の陽に対して死後の世界は幽冥なので、「陰」というわけです。

 その裁判に必要な期間は四十九日。

法事でおなじみの日数で、その間のことを「冥途の旅」といい表わしています。

 ちなみに「冥途」とは「冥土」とも書くが、要するにこの冥界は死者が住みつく場所ではなく、ただそこを通過するだけの土地であるため、「冥途」という書き方のほうがふさわしい。

 ともあれ、この「冥途の旅」は、山路から始まる。
山路とは、大きな山の裾野の道だ。

この山は死者が冥途へ旅立つにあたってその出発点となる山であるところから、「死出の山」と名づけられている。

 この「死出の山」は長さが800里、高さは不明。

いずれにしても峻険な山脈であり、これを七日間にわたって、星の光だけを頼りに死者はとぼとぼと一人で歩いていくことになる。

 さて、死者は、この冥途の旅の間、中陰の期間は、どのような姿をしているのか?

 死者はきわめて微細を体をしており、人間の目には見えない。

そして、香を食物としている。
そこから彼らを「食香」と呼び、仏壇には彼ら死者のためにお線香絶やしてはならないという根拠になっている。

 死者はこうして死出の山をスタートし、山路をとぼとぼと歩いているうちに、七日間がすぎる。

そして、来世の行き先を裁く最初の裁判官・秦広王の法廷(第一法廷)に立たきれることになる。

以下、都合七日間ごとに七回の裁きうけるわけである。


wiki「紙垂(しで)」より

紙垂(しで)とは、注連縄や玉串、祓串、御幣などにつけて垂らす、特殊な断ち方をして折った紙である。

単に垂とも表記し、四手とも書く。

「しで」という言葉は動詞「垂づ(しづ)」の連用形で、「しだれる」と同根である。

古くは木綿(ゆう)を用いていたが、現在では紙(通常は奉書紙・美濃紙・半紙)を用いるのが一般的である。

断ち方・折り方はいくつかの流派・形式がある。

吉田流・白川流・伊勢流が代表的な流派である。

四垂が一般的であるが、ほかに二垂・八垂などの場合もある。

玉串・祓串・御幣につけた場合は祓具としての意味だが、注連縄に垂らして神域・祭場に用いた場合は聖域を表す印となる。

また、相撲の横綱は、土俵入りの際に紙垂を垂らした綱をつける。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゲゲゲの鬼太郎と、三途の川

2009-09-08 | 日本の不思議(中世・近世)
「ゲゲゲの鬼太郎」の作者、水木しげるさんの本「三途の川の渡り方」を読んでみました。
前書きにはこんな言葉がありました。

        *****

「あの世」というのは、日本人にとっては、それほど深刻な場所ではなかった。
死は本来、ほがらかなものであった。

しかし、死から目をそむけるようにすればするほど、死に何かの意味をつけたり、また死んだら何もなくなると考えるようになる。

ちょっと貧乏だったり、病気になったり、いじめられたりしただけで、もうこの世は終わったかのように思うのは、「この世」の方にばかり目が向いているからだ。

教えられた世界だけがこの世ではない。
そう考えると、今生きている時間もまた、ほがらかになる。
              
               (引用ここまで)
       
         *****


そんなほがらかな、日本人の死ではありますが、水木さんは、日本人は、死んだらどうなると考えているのか、ということを綴っています。

抜粋して引用します。
長いので、2回に分けます。

            *****

              (引用ここから)

ぼくは鳥取県境港という古い港町で生まれ育った。

この町は古代から「黄泉の国」と言われてきて、実際“夜見が浜”という地名もある。

ぼくの家の近くに「加賀のくけ戸」という場所があって、そこが「黄泉の国」の入口だった。

子どものころ、舟でそこまで行ったのだが、入ってみると、中は大きなドームになっていて、石積や小さな塔がたくさんあり、人形まで置いてあった。

奥の方はだんだん狭くなっていて、その先には小さな穴が続いており、本当に「黄泉の国」まで続いているようで、怖かった。


宍道湖の中海には地底の霊界である「根の国」があると言われていた。

「根の国」は地上の世界に罪やけがれ、厄災、疫病をもたらす悪鬼の住む地獄のような所とも、反対に、地上に豊かな実りをもたらす「根源の国」だとも言われているが、どちらにしても、「あちらの世界」なのである。


以前は死者が出ればねんごろに弔い、心から死をいたんだものだ。

それは、いつかは自分もたった一人で、真っ暗の道を辿って「三途の川」を超えなければならない、という覚悟があったからだろう。

死んだ人が成仏するためには残された者たちはどのようにふるまえばいいかということは、その土地土地で細かく決まっていた。


のんのんばあによく連れていかれた寺があった。
正福寺という曹洞宗の古刹で、そこにぼくの実家の墓もあった。

寺の一角の鴨居には古ぼけた4枚の絵が掛けられていた。
これが地獄絵、正確には六道絵というものだった。

こどもから見れば、妖怪や鬼や地獄がおどろおどろしく描かれ、不気味だったが、死んだら次に行く世界の絵だ、とのんのんばあが言う。

ぼくは飽きもせず眺めていて、いつの間にかこの世と違う別の世界があるのだということが深層心理に刻みこまれた。

妙な話かもしれないが、兵隊に行った時、ぼくが現地人と仲良くなることができて、他の兵隊より深刻にならずにすんだのも、このおかげだ。
なにしろ地獄よりはよっぽどましだと思っていた。


正福寺の絵の中でいちばん印象に残っているのが奪衣婆(だつえば)の絵だった。

あとで知ったのだが、イタコの口寄せで有名な青森の恐山には、湖から流れ出る正津川(しょうずがわ)という川がある。

正津川(しょうずがわ)とは「三途の川」がなまったものだが、この川の橋の手前に姥堂があって、ここの奪衣婆(だつえば)が祀られている。

橋を渡ったむこうはあの世なのだ。

あの世の「三途の川」では、奪衣婆のいる橋の脇に大木があり、死者は、着物をはぎとられ、その着物を枝にかけられ、枝のしなり具合で生前の罪を計られる。

富山県の立山も恐山と同じく霊場だが、その姥堂には葬頭河婆(そうずかば)が祀られている。

「しょうず」と「そうず」も韻が似ているが、この語源は「精進」であるという。

「精進川」というのもあって、墓地と集落の間にある川のことをそう呼んだ。

墓地からの帰りには必ずその川の水で手足を洗う習慣があった。

こうしたことも古事記の「いざなぎ伝説」に出てくるから、古くからの習慣なのだろう。

いざなぎは「黄泉の国」から帰ったあと、けがれをはらうために禊をするのだ。
  
             (引用ここまで)

          *****


子どものころを思い出すと、子どもだったせいか、昔は今よりも、ずいぶん暗かったように記憶しています。

夜になると、真の闇がやってきたし、インターネットなどなかったから、世界は今よりももっと事実(リアリティーという呼び名も流行っていましたが)というものの重みでずっしりとしていたように思い出します。

水木しげるの世界ほど極端ではないけれど、この世の暗さ、重さがむきだしになっていたので、そこからどうやって逃れるかということを、常に考えていたように思います。

今どきの世界は、明るくて、清潔感に満ち、軽みもあり、なんでもありのこの自由さは、人間が勝ち取ってきた成果なのだと思いますが、それでも、根源的な暗さ、深さ、遠さへの思い入れは、断つことができません。

「根の国」は、生き物のたましいにとっての「根」そのものではないだろうか、という気がします。

水木しげるさんは、子ども時代にいろいろなことを教えてくれた近所のおばさん・のんのんばあのことを、今も「鬼太郎の父・目玉おやじのようにぼくの肩の上に乗っかって語りかけていると感じる」と書いています。

彼にとっては、死んでから渡る「三途の川」は、ずっと見えているものであり、決して遠いものではないのではないかと思えます。





境港市観光ガイドHP
http://www.sakaiminato.net/

加賀神社(加賀のくけ戸)HP
http://www.mitene.or.jp/~hayamine/file3/kaga.htm


wiki「根の国」より

根の国(ねのくに)は、日本神話に登場する異界である。

『古事記』では「根堅州國」(ねのかたすくに)・「底根國」(そこつねのくに)、『日本書紀』では根国(ねのくに)、祝詞では根の国底の国(ねのくにそこのくに)・底根の国(そこねのくに)と書かれる。

根の国は、その入口を黄泉の国と同じ黄泉平坂(よもつひらさか)としている記述が『古事記』にあり(大国主の神話)、一般には根の国と黄泉の国は同じものと考えられている。

しかし六月晦の大祓の祝詞では根の国は地下ではなく海の彼方または海の底にある国としている。

柳田國男は、根の国の「ネ」は琉球の他界信仰である「ニライ」と同じものであるとし、それに「根」の字が宛てられたために地下にあるとされるように変化したとしている。

また、高天原も根の国も元は葦原中国と水平の位置にあったのが、高天原を天上に置いたために根の国は地下にあるとされるようになったとする説もある。

いずれにしても、根の国が地下にあるとされたことで、それが死者の国である黄泉の国と同一視されるようになった。

祝詞においては、罪穢れは根の国に押し流すとしていたり、悪霊邪鬼の根源とされたりしている。

逆に、『古事記』では大国主が王権の根拠となる刀・弓矢・琴を根の国から持ち帰っていたり、スサノオが根の国を「妣(はは)の国」と呼んでいたりする。

これらのことから、根の国は正と負両方の性格を持った世界と捉えられていたと考えられる。

柳田國男は根の国が「ニライ」と同根であるとの考えから、根の国は本来は生命や富の根源の地(=根の国)であったとしている。

比定地

根の国のあった場所は言うまでもなく地下であるという主張もあるが、一方で古くから神話を現実的に解釈し、地上のどこかに当てる説が行われた。

その場合、イザナミやスサノオと縁の深い出雲国にあるとする説がある。

特に、夜見(よみ)という地名のある鳥取県米子市と、黄泉平坂の比定地のある島根県東出雲町の間の島根県安来市には、古くからイザナミのものと伝えられる御神陵があることからこの出雲東部一帯が根の国とする説が安本美典著「邪馬台国と出雲神話」では述べられている。

また、大国主が根の国へ行く前に「木の国」へ行ったとの記述が神話にあることから、紀伊国、特にスサノオとの縁が深い熊野であるとする説もある。

『日本書紀』の一書にイザナミが熊野に葬られたとの記述もあるように、熊野もまた古来より他界信仰の霊地であった。

ただし、出雲説を支持する立場からは、「根」からの連想で「木」を持ち出しただけであるとする反論もある。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東北のヤタガラス・・出羽三山のカラスやうさぎや天狗たち

2009-05-10 | 日本の不思議(中世・近世)
「熊野のヤタガラス」の続きです。

神武天皇を大和へと導いた熊野のヤタガラスは、その後、聖徳太子の時代に登場します。

聖徳太子のおいの蜂子皇子(はちこのみこ)は、崇峻(すしゅん)天皇の息子ですが、父天皇が曽我馬子による暗殺の危機にあると知り、聖徳太子のアドバイスに従って585年、京都から日本海を通って東北に脱出しました。

彼が到着したのは、山形県鶴岡市の海岸でした。

山形に上陸した彼の前に、三本足のヤタガラスが現れました。

ヤタガラスに導かれて、山の奥へと進んでいきました。

その山は“黒い羽”という名前の、羽黒山でした。

そして羽黒山の山中で修業をかさね、出羽(いでは)の神を拝して593年、蜂子皇子(はちこのみこ)は出羽三山を開山したとされています。

羽黒山、月山、湯殿山、この三つの山は以来、修験道の山となり、明治政府が廃仏棄却令で、仏教から神道への変更を強行するまで、神仏混淆の山岳仏教の一大修業場として大きな力を持ちました。

伝説によれば、役の行者もやってきたけれど、途中で戻されたという話もあるそうです。

それほど、強いエネルギー、あるいは独自の権力をもった場所だったと言いたいのだと思われます。



ヤタガラスに導かれた蜂子皇子(はちこのみこ)は、羽黒大権現という名の山の神に出会います。

“羽黒”とは、カラスを指しているように思われます。

彼が導かれたのはカラスの山であり、カラスの神であったということではないでしょうか。


羽黒山のおおみそかには、「からすとび」という行事が行われます。

これはヤタガラスを現していると言われています。

この行事の後には、うさぎの身なりをした人も登場します。

うさぎは月山からの使者であるとされています。
うさぎは、月のシンボルなのでしょう。

黒いカラスと白い兎が、まるで童話のようです。

内藤正敏著「日本異界発見」から引用します。

       ***


深夜11時、松例祭もいよいよクライマックスを迎える。

まず本殿で「烏とび」がはじまる。

12人の山伏が二つに分かれて右回りと左回りに進みながら、空中にカラスのように飛び上がり、その姿の美しさと高さを競いあう。

「烏とび」が終わると「うさぎの神事」となる。

白うさぎのぬいぐるみを着た山伏が、本殿正面で12人の山伏の真ん中に座り、山伏が一人づつ扇で机をたたくとうさぎが従うしぐさをする。

この時のカラスは羽黒権現の使者で“太陽”、うさぎは月山権現の使者で“月”とされ、カラスとうさぎで日月の運行を表す。



         ***


ヤタガラスは、羽黒山の世界においては、山そのものを黒い羽のカラスのイメージでおおい、そのイメージは開祖・蜂子皇子(能徐=のうじょ、ともいう)の人物像にも転移されているようです。

父天皇を暗殺され、都を追われた皇子は、奥まった山の中でいつのまにか不思議な鳥に変貌してしまったかのようです。

皇子は耳までさけた口、おそろしいこの世のものならぬ風貌をしていたとされていますが、都を追われ、山にこもって修行をした皇子は、カラスの山で、いつしか異能をもつ怪鳥に変化していったのではないでしょうか。

鳥のような、人のような山の生き物といえば、天狗でしょうか。



大和和夫著「天狗と天皇」によると、天狗は負けた者の神となるということです。

          ***

山の天狗は反権力で敗者につく。

なぜかというと、権力は里にあり、山は里・中心と対立する異世界・周辺とみなされていたからである。

日本中の修験の山の天狗が牛若を守っているのは、仏教が我が国に伝来する以前からの固有信仰である山岳信仰に、天狗信仰は根ざしているからである。

その固有の信仰を特に色濃く受け入れた密教は、空海の真言密教であった。

真言密教が民衆に受け入れられ、空海崇拝や伝説が民間に根強く広がっているのは、民衆が伝えてきた固有の信仰を空海の真言密教が取り入れ、民衆の信仰により近いものになっていたからである。

山の神としての天狗は、里の権力にとっては荒ぶる神、魔であり、反権力の“もののけ”であった。

         ***


また、天狗の鼻が高くなったのは新しいことで、元は鳥のくちばしだったということです。

         ***

天狗像は「今昔物語」に見られるように、室町時代まではトビの姿か、トビのくちばしをもった人として描かれている。

鼻高の天狗は主に近世からのもので、古く見ても室町時代末以降のものである。

               同著より

         ***


カラスや天狗は、羽のある人間、鳥人間であり、東洋の天使と言えるのかもしれません。

東北のヤタガラスは、大和の地に現れたヤタガラスとは一味違う“すごみ”があるように思われます。


羽黒山の奥の院である湯殿山は日本のミイラ仏のメッカでもあります。

ここのミイラはエジプトの王様のように死後人々によって処理がほどこされて作られたものではなく、本人の力で、自力でミイラになった方々です。

これは世界的にも貴重なもので、そこに込められた精神の力を思うと、日本という土地の精神風土がかなり違った色合いで感じられるように思います。

天狗とミイラのこと、また改めて続けたいと思います。


出羽三山神社公式HP

写真は
上・蜂子皇子(能除)
下・羽黒山の“からすとび” 内藤正敏著「日本異界発見」より


wikpedia「i羽黒山」より

出羽三山は、約1,400年前、崇峻天皇の御子、蜂子皇子(能除太子)が開山したと伝えられる。

崇峻天皇が蘇我氏に害された時、蜂子皇子は難を逃れて出羽国に入った。

そこで、三本足の霊烏の導きによって羽黒山に登り、苦行の末に羽黒権現の示現を拝し、さらに月山・湯殿山も開いて三山の神を祀ったことに始まると伝える。

月山神社は延喜式神名帳に記載があり、名神大社とされている。

出羽神社も、神名帳に記載のある「伊氐波神社」(いてはじんじゃ)のことであるとされる。

古来より修験道(羽黒修験)の道場として崇敬された。

三山は神仏習合、八宗兼学の山とされた。

江戸時代には、三山にそれぞれ別当寺が建てられ、それぞれが仏教の寺院と一体のものとなった。

羽黒山全山は、江戸期には山のいたるところに寺院や宿坊が存在した。


wikipedia「烏天狗」より

烏天狗または、鴉天狗(からすてんぐ)は、大天狗と同じく山伏装束で、烏のような嘴をした顔、黒い羽毛に覆われた体を持ち、自在に飛翔することが可能だとされる伝説上の生物。小天狗とも呼ばれる。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お地蔵さまと、閻魔さま・・「小野篁(たかむら)」の冥府渡り

2009-05-03 | 日本の不思議(中世・近世)
小野妹子の子孫であり、小野道風や小野小町のおじいさんでもあった「小野篁(たかむら)」は、閻魔さまのお友達だったということです。

なんと、彼は夜毎、井戸から地底の地獄に降りて、閻魔さまの仕事を手伝って、また別の井戸からこの世に戻って、涼しい顔で日々の生活をおくったのだそうです。


伝説ですけれど、第三者の証言もあります。
「今昔物語」なので、まあ、メジャーと言えましょうか。。

久野昭著「日本人の他界観」より転載させていただきます。

       *****

7世紀に小野篁(たかむら)という人物がいた。

漢学、和歌、書などにすぐれ、養老律令の注釈書「令義解(りょうのぎげ)」の撰集者の一人としても知られている。

834年遣唐使に任じられながら乗船せず、5年後絞首刑になるところを、死一等減じられて隠岐に流されたが、後に許され、852年に死んだ。

この「小野のたかむら」に、ある日病死した西三条大臣良相(よしすけ)が地獄で会った、という話を「今昔物語集」 が伝えている。

良相(よしすけ)が病死し、地獄の王宮に連行されると、閻魔王の家臣の居並ぶ中に「小野のたかむら」がいて、「この日本の大臣は心が素直で、他人のために良いことをする人物だから、自分に免じて今度の罪は見逃してやってほしい」と、閻魔王に頼んでくれた。

おかげで生き返った良相(よしすけ)は、その後、地獄でのことを他人に話すことはしなかったが、たまたま宮中で「たかむら」と二人きりになった時、思いきって「あの冥府でのことが忘れられません。あれはどういうことだったのでしょう」と尋ねてみた。

すると、「たかむら」は少し微笑んで、「かつて死一等を減じられた時のお礼までにしたことですが、あそこでわたしと会ったことは、けっして人に言ってはいけませんよ。
まだ人の知らないことですから。」と答えた。

良相(よしすけ)はこれを聞いて、「たかむら」はただものではないと恐れた、ということである。

もっともこのことは自然に世間に知れ、皆が「たかむらは、閻魔大王の臣として通う人なり」と、恐れるようになったと言う。」


京都・六波羅蜜寺の北の六道の辻を東に折れると、すぐに六道珍皇寺の前に出る。

伝説によれば、「小野のたかむら」は夜な夜な、この六道珍皇寺の境内の井戸から黄泉(よみ)に下りた。

そして嵯峨野の大覚寺の門前あたりが嵯峨六道町とよばれ、そこにも井戸が掘られていたが、伝説によれば、「小野のたかむら」はこの井戸からこの世に戻るのが常であった。

つまり伝説によれば、「小野のたかむら」は夜毎、六道の辻の方の井戸から冥土(めいど)に入っては、六道町の方の井戸のからこの世に戻ることを繰り返していた。

六道の辻は鳥部野、六道町は嵯峨野、どちらもかつては葬送の地であった。

とすれば、平安京の真下に地獄があったことになる。

現世は奈落の真上にあった。

久野昭著「日本人の他界観」より


*****



閻魔さまは怖いと、子供心にも恐ろしかったことを思い出しますが、この「小野のたかむら」という人は、その閻魔さまの補佐をしていたということです。

では、さぞかし恐ろしい男なのだろうと思うと、どうもそうでもないらしく、

閻魔さまとは、実はお地蔵様の化身なのだという考えもあるそうです。

少し古い集落ならどこにでも見かける、野の守り神のような可愛らしいお地蔵様ですが、じつはお地蔵様は人々を救うためにどこにでも出かけ、地獄に赴いた時には閻魔の姿をとることもあるのだ、という考えもあると知り、驚きました。

怖い閻魔さまとやさしいお地蔵様はじつは同じ人だった、、調べていくうちにわかってきて、なんだかとてもホッとしました。


久野氏の本からまた転載します。

         *****


地蔵菩薩の前身は古代インドの大地の女神であった。

「地・蔵」という言葉自体が、“大地”なる”母体”を意味するサンスクリットの漢訳である。

母体として万物を包容し育む大地の徳が、そのまますべての罪人の苦をひきうけて救済しようとの悲願を抱いて、地底にある地蔵菩薩の徳に引き継がれたと見ていい。

釈迦が滅してから弥勒菩薩が出現するまでの、仏のいまさぬ無仏の世の救済者として、地蔵は地獄をはじめ六道にわたって、男子にも女子にも天竜にも鬼神にも化身し、百千万億もの姿で出現する。

地獄では閻魔にも獄卒にも身を変じる。

およそ菩薩らしからぬ地蔵の姿にも、六道を巡り歩きつつ衆生を救済しようとする地蔵の悲願が現れている、と見るべきであろう。


         久野昭著「日本人の他界観」より
      

         *****


あぁ、地獄に仏とはこんなことを言うのでしょうか?

「閻魔」は古代インドで死者を支配する神で、サンスクリット語の神名はYAMAと言い、エンマの名はこの音の写しだということです。

平安時代、日本に末法思想が広まり、古代の日本的な漠然とした“黄泉”のイメージに、このヒンズー・インド仏教由来の激しい地獄のイメージが混ぜ込まれ、混然一体となって、地獄の主、閻魔大王と、地獄の救い手、地蔵菩薩が混合されていったようです。


この世の「最後の審判」とも言うべき“地獄での裁き”に、じつは菩薩の身であるお地蔵様による慈悲がかけられていた、という思想は、なんと優美な、たおやかな東洋的な思想でしょうか?


夜な夜な閻魔さまのお手伝いをしていたという「小野のたかむら」は、現世に戻ってくるときに使う井戸のある矢田寺の御本尊に、彼が地獄で見てきた「地獄地蔵」を、また京都のあちこちに六地蔵を作ったということです。


か舎+菊池昌治著「京都の魔界をゆく」より転載させていただきます。



     *****


矢田寺の御本尊は地獄地蔵あるいは受苦地蔵とも呼ばれ、火焔に半身を焼かれるような姿をしている。

これはその昔、地獄へ通っていた小野のたかむらが閻魔大王に菩薩戒を授けるのに満慶上人を推薦した時、地獄を訪れた上人の、自ら地獄の炎熱に身を焼いている姿を見て、たかむらが感動を受け、現世に戻って姿を刻んだのだという。

矢田地蔵は、地獄から亡者を救う地蔵として信仰をあつめた。

また、洛外の六ケ所に祭られている六体の地蔵は、たかむらが異界で直接、地蔵尊を拝し、一本の木から刻み出したものと伝えられている。

六地蔵はそれぞれ京の都へ入る街道筋にそれぞれ祭られている。

それは京都という魔界都市が設けた結界であり、そしてそこは言わば、この世とあの世との境をなしていた。

人々にとってあの世とは、因果応報の地獄を意味したのだが、果たして魔界とはこの世なのか、あの世なのか。

       か舎+菊池昌治著「京都の魔界をゆく」より

       
          *****



浄土という観念が台頭するほどに、人々の目には、この世もあの世もいっそう救いの無い地獄のように見えてきたことと思います。

ですが、少なくとも「たかむら」の目には、地獄で活躍している地蔵菩薩の姿が見えていたということでしょう。。

あの世もこの世も軽々と通り抜けるこの人物は、56億年先の弥勒菩薩の来迎の時まで、地蔵菩薩が人々の罪をあがなう補佐をし続けるのでしょうか?






wikipedia「地蔵信仰」より

地蔵菩薩 (じぞうぼさつ)、梵名クシティ・ガルバ(क्षितिघर्भ [kSiti gharbha])は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」と言う。また持地、妙憧、無辺心とも訳される。

大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包みこみ、救う所から名付けられたとされる。

偽経とされる閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経(預修十王生七経)や十王経(地蔵菩薩発心因縁十王経)によって、道教の十王思想と結びついて地蔵菩薩を閻魔と閻魔王と同一の存在であるという信仰が広まった。

閻魔王は地蔵菩薩として人々の様子を事細かに見ているため、綿密に死者を裁くことができるとする。

日本においては、浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生のかなわない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における責め苦からの救済を欣求するようになった。

菩薩は如来に次ぐ高い見地に住する仏であるが、地蔵菩薩は「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」との決意でその地位を退し、六道を自らの足で行脚して、救われない衆生、親より先に世を去った幼い子供の魂を救って旅を続ける。

このように、地蔵菩薩は最も弱い立場の人々を最優先で救済する菩薩であることから、古来より絶大な信仰の対象となった。

また後年になると、地蔵菩薩の足下には餓鬼界への入口が開いているとする説が広く説かれるようになる。

地蔵菩薩像に水を注ぐと、地下で永い苦しみに喘ぐ餓鬼の口にその水が入る。

「六地蔵」とは六道それぞれを守護する立場の地蔵尊であり、他界への旅立ちの場である葬儀場や墓場に多く建てられた。

また道祖神信仰と結びつき、町外れや辻に「町の結界の守護神」として建てられることも多い。

これを本尊とする祭りとして地蔵盆がある。


wikipedia「閻魔」より

閻魔(えんま)は仏教・ヒンドゥー教などで地獄の主。また神とも。

冥界の王・総司として死者の生前の罪を裁くと考えられる。

日本では地蔵菩薩と同一の存在と解され、これは地蔵菩薩の化身ともされている。


wikipedia「小野篁」より

小野篁は遣隋使を務めた小野妹子の子孫で、父は小野岑守。孫に三蹟の一人小野道風がいる。

『令義解』の編纂にも深く関与する等法理に明るく、政務能力に優れていた。

一方で漢詩文では平安時代初期の三勅撰漢詩集の時代における屈指の詩人であり、『経国集』や『和漢朗詠集』にその作品が伝わっている。

また和歌にも秀で、『古今和歌集』以下の勅撰和歌集に18首が入首している。


篁は夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという。

この井戸は、京都東山の六道珍皇寺にあり、また珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されている。


『今昔物語集』によると、病死して閻魔庁に引据えられたた藤原良相が篁の執成しによって蘇生したという逸話が見える。


まだ日本に『白氏文集』が一冊しか渡来していない頃、天皇が戯れに白楽天の詩の一文字を変えて篁に示したところ、篁は改変したその一文字のみを添削して返したという。

白楽天は、篁が遣唐使に任ぜられたと聞き、彼に会うのを楽しみしていたという。



(写真は本文とは関係ありません)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミロク踊りの系譜・・“船”への夢

2008-11-25 | 日本の不思議(中世・近世)



沖縄の「赤田みるくウンケー」



茨城の鹿島地方に、古くから「鹿島踊り」という名の踊りが伝わっている。
偶々知ったこの踊りについて、わたしはもうずいぶん長いこと思いをはせている。

この踊りは鹿島神宮のお祭りに奉納されるものなのだけれど、古くは土地の神、たたら神への信仰であるという。

その「鹿島踊り」に、さらにもうひとつ重なって、「みろく踊り」があったことが確認されているが、いまも現存する「みろく踊り」というものは、少ないようである。

それらは鹿島の他、静岡、千葉、神奈川、の太平洋沿岸各地に、現在も「鹿島踊り」(ミノコオドウ)としてごくまれに残されている。

また、秋田地方には「鹿島流し」という風習がある。
華やかな船に、わらの神様を乗せて、川を下る。
鹿島流しHP
http://puchitabi.jp/08/06/post-1037.html
「鹿島様」と呼ばれる、3,4メートルもの大きなわらの道祖神も多く伝えられる。

村を見守る鹿島様HP
http://www.pref.akita.jp/fpd/bunka/kashima.htm

これら各地で伝承されている「鹿島」とは、何なのだろうか?


「みろく歌」はこのように歌われる。

「まことやら ○○に みろくの船がついた。。」
「よのなかは 孫末代 弥勒の船が続いた。。」

この歌詞は「俵木」という名の俵木氏の研究論文ファイルから引かせていただいた。



「みろく踊り」は、海のかなたから船に乗ってやってくる神様たちが運んできてくださる幸せが、未来永劫にわたって続く夢のような世界を待ち望んで、踊り、歌われたのである。


Wiki弥勒信仰より抜粋

戦国時代に、弥勒仏がこの世に出現するという信仰が流行し、ユートピアである「弥勒仏の世」の現世への出現が期待された。
一種のメシアニズムであるが、弥勒を穀霊とし、弥勒の世を稲の豊熟した平和な世界であるとする農耕民族的観念が強い。
この観念を軸とし、東方海上から弥勒船の到来するという信仰が、弥勒踊りなどの形で太平洋沿岸部に展開した。
江戸期には富士信仰とも融合し、元禄年間に富士講の行者、食行身禄が活動している。
また百姓一揆、特に世直し一揆の中に、弥勒思想の強い影響があることが指摘されている。
(略)
沖縄県では、「ミルク神」、「ミルクさん」と呼び、弥勒信仰が盛んである。
祭りでは、笑顔のミルク仮面をつけたミルク神が歩き回る。
弥勒菩薩の化身とされた布袋との関係が指摘されている。



沖縄のみろく信仰は、中国、アジア一帯の弥勒信仰のひとつと考えられている。
HP「ミルク面と弥勒信仰」
http://www.kt.rim.or.jp/~yami/hateruma/miruku.html

関東で踊られた実際の「みろく踊り」とは、どのようなものだったのだろうか?

千葉・房総で踊られている鹿島踊りについての観光HPを見ると、
房総では、「鹿島踊り」と、「みろく踊り」がはっきりとふたつに分けて伝承されている。

南房総データベースHP「洲崎(すのさき)おどり」より
http://furusato.awa.jp/modules/dbx/?op=story&storyid=643


毎年、2月の初午(はつうま)と、8月の神社例祭に奉納されるもので、弥勒(みろく)踊りと鹿島(かしま)踊りの2種類からなり、土地ではこれを総称してミノコオドリ」と呼んでいます。

 このふたつの踊りは、いずれも海の安全を司(つかさど)る鹿島の神に関係しています。
鹿島踊りは、鹿島の神人(じにん)が一年の豊凶を告げ歩く「事触(ことぶ)れ」に由来するもので、悪霊払いを目的としています。
一方、弥勒踊りは、世直しを願う念仏踊りの系譜にあたり、弥勒が遠い海の彼方から訪れ、富や豊作をもたらすという内容になっています。
このように、弥勒信仰が鹿島信仰の中に習合された形は多くみられるものですが、洲崎踊りのように両者を明確に区別して踊り分けている例は珍しいといえます。
踊り手は、現在は小学生から中学生までの女子ですが、かつては20歳前後の成人女性も加わり、見物人から嫁にほしいと言われることもしばしばあったといいます。
さらに遡った明治期には成人男性が踊っていましたが、それがなぜ女子に変わったのか、そのいわれは定かではありません。
 オンドトリの太鼓と歌に合わせて、少女たちが輪になりゆったりと踊ります。
手に持っているのはオンベと扇で、鹿島踊りの時は扇のみを使います。オンベは、初午の時には青竹にサカキと五色の幣束(へいそく)をつけたもの、例祭の時には木に白い幣束と鏡をつけたものをそれぞれ使用します。
「洲崎踊り」は昭和48年11月5日、国選択無形文化財となっています。

【歴史】>伝統芸能・洲崎・波左間のミロクオドリ
【安房の観光情報】>洲崎踊り 館山市



本土の「みろく踊り」の動画は見つけられなかったので、「鹿島踊り」の動画を載せる。




初島に行こうよHP

http://www.hatsushima.jp/find/history.html

この伊豆七島・初島の観光パンフレットには、伊豆七島・初島に伝わる「鹿島踊り」について書かれている。

初島は古来関東の太平洋沿岸の海上の要地として7000年もの歴史をもつと書かれている。


海の向こうからやってくる神様を乗せた船をまちのぞむ沖縄のみろく信仰。。

それとおなじ信仰様態が、近世、伊豆や千葉や茨城や秋田の沿岸地帯一帯に広く分布していたというのである。

それは、沖縄の人々が海に寄せる、海のかなたの何ものかへの信仰心と郷愁が、関東地方の人々にも同様にあったということなのではないだろうか?

あわせて、「みろく」という言葉への、わたしたち現代の人間の思い、信仰心と郷愁、も感じないではいられない。

「みろく」とは、いったい何ものなのであろうか?

なぜ、この言葉はかくも深くわたしたちを揺さぶるのであろうか?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする