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小説「フォワイエ・ポウ」(第6回)<2章(安易な決断ー1)>

2006-02-24 09:06:48 | 連載長編小説『フォワイエ・ポウ』
Photo by Mr. G.A.: (The entrance of traditional Piano Bar in Barcelona Spain on Jul. 1994.)

掲載済みの小説「フォワイエ・ポウ」は、下記から入れます。

1)第1回掲載(2月9日)
2)第2回掲載(2月10日)
3)第3回掲載(2月15日)
4)第4回掲載(2月17日)
5)第5回掲載(2月22日)

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エセ男爵ブログ・連載小説
  『フォワイエ・ポウ』

著:ジョージ青木

2章

1(安易な決断)

(1)

「兄貴、今日、会社終わってそっちに行っていいか?」
昭和63年の10月中旬の頃、本田の弟から彼の事務所に電話がかかった。
「おう、かまわんよ。何時頃になる?できるだけ早く来てくれないか。久しぶりだから、たまには一緒にめしでも食いに行くか?」
「ありがとう、できるだけ早く行く。そうだな~、6時頃でどうだろうか・・・」
「分かった、あまり遅れるなよ!待ってるぞ」
電話が終わって一時間と経たないうち、本田の事務所に弟の譲治は姿を現した。
「こんばんは!お待たせ・・・」
「おう、来たか!めずらしく時間厳守だな」
「うむ、兄貴、今日は相談したい事があるんだ」
「なんだ、また愚痴か?またまた、『いよいよ会社辞める』って言うのか?」
「いやいや、今日は前向きの話しだよ」
その頃、譲治は仕事に打ち込めないサラリーマン落第生一歩寸前、なぜか出世街道へ出遅れているサラリーマン。本田幸一は脱サラして3年目。未だにサラリーマン時代の殿様商売が抜けきれていない、不器用な経営者であった。
「小林さん、今日はもう、このまま仕舞いなさい、帰っていいよ」
彼女の名は、小林美智子。本田の事務所のたった一人の事務員である。
「ありがとうございます」
小林美智子の退社時間は、通常6時過ぎである。が、今夜は意外と早く本田の弟が現れたので、美智子は喜んだ。
「時には、早く帰んなさい」
「お二人にコーヒーお出しして、帰ります」
「ありがとう・・・」
「おい、ところでこの時間、コーヒー飲むか?」
と、本田が弟に確認すると、
「うん、そうだな、この時間になるとアルコール分のある方がありがたいな~」
「そういうと思った、小林君、グラス二つ、それからいつもの1階の喫茶店から、ビール2本、電話で出前注文してよ」
「分かりました、おつまみどうしましょう?」
「あ、いらないよ、ビールだけでいいよ」
顔なじみの1階の喫茶店のマスターに電話した美智子は、ニコニコ笑いながら2人に挨拶し、事務所をあとにした。

本田が事務所を構えるビルは、市内中心地のワンルーム・マンション。1階だけは店舗が入り、2階からは住居ビルとなっている12階建てのマンションであるが、ロケーションに特徴があった。
つまり、県庁舎に合同庁舎、地方裁判所に家庭裁判所がそれぞれ徒歩5~10分の位置にある。ロケーションが良いので、弁護士事務所ならびに司法書士などの業種が打ち揃って入居しており、一般住民は一割に満たない。
本田は3年前、国際イベントのソフト業務を取り扱う「目的」で脱サラして開業。そのためにこの位置にこの事務所を借りた。
わずかに2回、さりとて2回、外国からの参加者を含めて、参加者総勢500人規模の大きな国際イベントを引き受けた実績がある。本田の引き受けた仕事はことごとく成功し、関係者からは高い評価を受けた。しかし、当時の本田は「儲け方」が解らなかった。ことごとく赤字を出した。当時、納得してすんなりと、本田の仕事に対しノウハウ料を払う発想など誰も持っておらず、当時の地方都市のイベント主催者の感覚として、未だ全く理解を得ていない時代であった。つまり、知的ノウハウに対する価値観は、まだ存在しない時代であった。本田は、これを最初に試みた、この地この地方都市での数少ないパイオニアの一人であった。しかし、当時、いや今も尚、この手の業種は地方都市では儲からないし、流行らない。サラリーマン時代の旅行業界で、約16年培ったノウハウが、この手の業務をこなすには如何にレベルの低いものであるか、本田は極度な自信喪失に陥り始め、試行錯誤を繰り返し始めた。
大きな国際イベントがあるときは、それに関連するほとんどの業者を東京から呼びつけ、なぜか実力ある地方の業者が存在するにもかかわらず、地元の中小零細業者には決して任せない。という当地独特の悪癖ともいえる商習慣がある。国際交流のコンサルタントといえば、聞こえはいい。しかし、ビジネスにはならなかった。企業という組織から離れた個人経営者の苦悩は、大企業の歯車であった本田には想像を超えるものがあった。まして、国際イヴェントという新しい事業体の運営が如何に難しいものか。立ちはだかる壁と大きさが、ようやく解かりかけてきた本田は、いささか取り扱い業種の矛先を変えようと、日夜頭をくゆらせていた時期であった。
しかし、石の上にも3年。ようやく本田の存在が認知されつつあった時期、想えば考えれば、今からようやく芽が出始める時期に差し掛かっていたと判断できなくもない。が、本田の事業を継続するための致命的な欠落があった。立上げ当初からの自己資金の少なさであった。3年前、わずか300万円でスタートした有限会社であったが、その内の運転資金に当たる現金は、およそ150万円。残りは持ち寄った自分の車、その他調査資金と称して半分以上の資本金相当額は、ただ単なる帳簿上の数字合わせで、取り急ぎ開業した。
しかし、考えれば、その時、自己資金の少なさを耐えて耐え凌ぎ、あらたな業界で本田の名を定着させることができていれば、いや、すでに定着しかかっていた現状を維持さえできれば、本田の人生が変わっていたかもしれない別のシナリオが、わずかながらも残されていたに違いない。が、わずかな資金は底をつき、町金融や自己手形割引に手を染めた半年前から、すでにどうにもならない限界が来ていた。一刻も早く事務所を閉ざし、全てを整理すべきときが来ていた。いや、もうすでに手遅れであったし、もっと早く事務所を閉める決断をすべきであった。

「兄貴、ところでひとつ、飲み屋をやってみないか」
小林美智子が退社し、事務所のドアが閉まった瞬間、譲治が口を切った。珍しくも、アルコールに口がつく前である。
「なんだって?『飲み屋』がどうしたって?」
本田は驚いた。
「ま、一杯やろう、おつかれ・・・」
お互い、グラスに口をつけた。
わずか1分もかからなかったが、互いに暫らく口を開かず、沈黙した。
「例の、兄貴もよく知っている『フォワイエ・ポウ』だよ・・・」
「なんだって? あの店、山根君がやってんだろうが、彼、どうしてるんだ」
「いや、実は・・・」
ようやく譲治は、事の仔細を語り始めた。

<・・続く - 3月1日(水)掲載予定>


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