北海道旭川。SNS拡散による“いじめ”。
教頭の云う生徒の将来、「10人対1人」の選択・優先根拠は論外。これが教育者となれば忌々しき(ゆゆしき)問題。
だが、いつも・いつまでも繰り返される『いじめは存在していませんでした』という、あれ。
何をそんなに過剰反応しているのだろう。学校で「いじめなさい」と指導したわけじゃないんでしょ。
監督責任云々を言う人達も出て来るのだろうけれど、まるで学校の恥を曝せないとでもいわんばかり。
そもそも、いじめる側の資質の問題が大きい。
それなのに、あった事実を無かったことにして、... 。
だから責任は無かったよねとグループ内部で言いたがっているだけの小中学生のような大人たちの姿が浮かぶ。
(失礼、小中学生の方がきちんとして事だって少なくないかもしれない)
誰かのせいにしたがる保護者や評論家もいるかもしれないが、あったもんはあったと、しないと。
在ったことを無かったとすること自体が、監督責任も問題処理能力も、危機意識も“ありませんでした”と言っている事。
【「さかな の なみだ」 /空気に染まり... /子宮頸がんワクチン薬禍/お為地獄 /】