まるさんかくしかく〇△☐Ⅱ

雑感・雑記・日記

1013 菜っ葉の掛け声

2017-10-13 07:29:29 | 昭和的な

よおしやるぞ!

さあ!やるか!!

掛け声ばかりで実が無い。「菜っ葉の肥やしで、かけごえばかり。」

私の母は、実動を伴わないのを言語道断!のように言っていた。

私は、先輩が退職送別会でのスピーチを覚えている。
仕事が丁寧で漏れの無い方だった。

さあやるか 昼からやるか もう5時か。
毎日こんな感じで仕事しているうちに、いつの間にか退職です。

それはともかく、私は退職後の今も毎日、菜っ葉の掛け肥ならぬ菜っ葉の掛け声で過ごしている。
私の人生最後までずっと、これかい?
然し乍ら、とはいえ、一方、そうは言っても・・・「ゼロでもない」という思いも、無くはない。(ちょっと歯切れが悪い)

ぼちぼちと、ほどほどに、小さな歩み、止むことなく。焦れたら(じれたら)負けよ。

【私の母/10月のこの時期、いつも同じような思いに。そういう季節?/一つ動かすと旅の空と家の中、2つの自由/】

 

 

++++++++++++++++菜っ葉の肥+

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0801 減るもんじゃあるめぇし

2013-08-01 18:10:01 | 昭和的な

幼いころ見た映画の中の上田吉二郎。若くて可憐なお姉ちゃんに、無理やりいやらしいことをしようとする。
子供心にも「お姉ちゃん」に心ときめき、「お姉ちゃんの好きな人」との仲を引き裂こうとするこのオヤジを憎らしいと思う。

てめぇ!減るもんじゃあるめぇし、ジタバタするんじゃねえやい!のあとのヤラシイ息遣い。

しゅるしゅるしゅるしゅるっ!(帯に手を掛けてヒロインがクルクルクルッと回って帯が解ける音)

すると、
『お~っと、そこまでだ。』と現れる、正義のヒーロー。
映画館の観衆が一斉に拍手する、そんな時代だった。
みんなが好きな、勧善懲悪の世界だった。

「だっ!誰でぃ!てめぇわ~!」とかなんとかやりとりがあってのちに上田吉二郎が叫ぶ。時には悪代官、時にはやくざの親分みたいな役でも「曲者だ~、出あえ出あえ!」と手下を呼び寄せる。(曲者は、てめぇのほうでぃ!)

「野郎ども!畳んじめえ!」で、チャンチャンバラバラが始まると結局正義の味方が悪を懲らしめ、悪者が畳まれちゃう。お姉ちゃんと色男のカレシに正義の味方は、『幸せになるんだぜ。』みたいなことを言って、めでたしめでたしで終わる。そして後も振り返らず去っていく。

一度でいいから、やってみたかったな~。え?ヒーローの方じゃなくて・・・・上田吉二郎のほう。
今思う上田吉二郎、あれは一寸したギャクだ。あの上田吉二郎をやってみたかったな~。


あのときの一種純粋な心は、何だったのか。随分と汚れてしまった感じがするのも、あるいは自然な成り行きと申せましょうか・・・・・。
きれいなお姉さんが好きなところは、あの頃も今もまったく変わっていないと自覚する。

それにしても、減らなきゃ良いってもんじゃあ、そもそもあ~りませんでしたっ!


【男の助平心/回顧/ステロタイプ(ステレオタイプ)】







++++++++++++++++あるめぇ+

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0731 はんちくわ

2013-07-31 23:23:51 | 昭和的な

齢(とし)だけとってさばけてない。自分でつくづくそう思う。
上っ面を撫でてきた。
知情意すべてに「はんちく」だ。

母は常々「はんちくはダメ」と言ったが、私は今でも「はんちく」だ。
大きいことを求めちゃいない。
大中小のそれぞれに、真心込めろと母は言い、それも私は分かってる。
分かり方さえ「はんちく」で、どこまでいっても変われない。

中身が空洞、ピーマン・ちくわ。そして私は「はんちくわ」

有り難いのは我が家の家族。
生の私にキュウリ詰め、サッパリ味で楽しんだり、煮たり焼いたり炒めたり、私を上手に温めて、なんとか毎日「活かして」くれる。

・・・・・・・。
反省だけならサルでも出来る。やはり私は捌けていない。
母を想えば向上したい。

わが子のほうが大人に見えて、それにつけても親父は軽(カ~ル)。
===今日は一日、そんな気分の支離滅裂な日だった。これもまた「五臓の疲れ」?===





【私の母/親子家族】

 

 

 

 

+++++++++++++++++++はんちく+
*

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0517 人に厳しく自分に甘くだと~?!

2013-05-17 18:28:33 | 昭和的な

人に厳しく自分に甘く。これは結構知られたフレーズらしい。昔の日本人には当てはまらないような・・・・。いやいや、どうだか。これも人によるのだろうが、私の母なら、さしずめ「自己に厳しく人には優しく」だろうか。

私の母は、「思う」ことを大切にしていた。「思う」を、ごく自然に習慣化していた。いってみれば「当たり前」のことにしていた。だからその場その場での「無理」な努力は必要なかったようだ。これは今考えると凄いことのように思える。

母は「思うこ」とを朝から晩まで普通に行っていたが、自分の世界に耽ってしまうことはなく、母を呼んだときに「上の空」なことは無かった。

また、母は無心になって「動き」また「働いていた」。

「沈思黙考」の「静」と働きづめの「動」を、あの小さな体でメリハリきかせて生きていた。洗濯機が我が家に来る前はそれこそ「洗濯板」や「羽釜で飯炊き」をしていたのだから、4人の子供を抱えて無我夢中。貧しい時代だったから、「食うこと食わせること」に精一杯だったろう。

そこへもってきてあのころの男たち(親父も同様)は、酒を食らって酔い潰れるのが世の中的に多かった。酔い潰れて道路に寝ているのをよそ様が連れてきてくれたり、連絡を貰って「親父回収」に出かけては、人の親切に恐縮しながら頭を下げることもちょくちょくあった。

そんなだから夜遅くまで働いてくたくたに疲れても、床に入ると「お休み3秒」で夢の中だとか言っていた。いずれにしても「無になって静まる」ことにも長けていたように思う。

静・動・無。どれも自分は遠く及ばない。

あの頃の大人たちは子供に阿る(おもねる)ことはしなかったが、口は悪くても心底優しかった。

人に厳しく自己にも厳しい。
人に甘くて自己には厳しい。
人に厳しく自分に甘く。
人に甘くて自己にも甘い。

自分は知らないうちに(無意識に)、どれをやっているのだろう。



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0515 へばりつかないで人間性回復

2013-05-15 18:16:01 | 昭和的な

「管理職の定時上がり」(昨夜のクローズアップ現代)は画期的かもしれない。

残業時間を減らすには「個人個人の意識づけが大事」としか言えない中間管理職の再現映像なども面白かった。管理職が残業していると部下は帰り難い、と続く。

残業時間が私の若いころに比べたら格段に増えていること、家庭生活時間の減少・精神を病むまでの心身崩壊、そして管理職が早い時刻に退社することで部下も帰りやすくなる上に、実績も上がっていくという成功ストーリーが幾つか紹介された。

一番面白かったのは「ゼクシー」の女性編集長が、双子出産を機に変わっていく件。後ろめたさから始まるが、家庭生活することで自らが「読者目線」を得ていくことに、ある時気がつく。部下にも定時退社を勧めるが「そんな(綺麗ごと)言ったって、出来るわけないじゃん」といった「黙ったままの反応」を返される。番組では特に女子社員がそんな描き方をされていた。

しかし、男性社員が実践して趣味の時間を持つようにしたところ、思わぬアイデアが浮かんで、ヒット記事を生んだ。男性社員の言葉が印象的だ。「10時間20時間と机にへばりついていても浮かばないアイデアが、わけなくフッと浮かぶことがある」と言っていたようだ。頭だけでいくら捏ね繰り回しても、生活感覚的に共感できるアイデアは浮かぶものではない。降臨?(スープレでも、作家、エリザベス・ギルバート[eat pray love]が言っていた)

私たち団塊野郎たちは懸命に働くことを美徳とし、他人の何倍も働くことを誇りに思うような風潮があった。それこそリーガル・ハイの「古美門先生」が2時間 SPで言っていたのと同じで、その時を覆う「空気」によって人は能く「空気」に支配されてしまう。それ故に、解決は甚だ困難だ(った?)。

どこかの元首相が「働く以外に能がないんですから(細かな言い回しは定かではない)・・・・」みたいなことを言っていたが、それこそ「そういう空気を呼吸して生きてきた発想だけから出る言葉だ。

昔の人間の働き方では今は立ち行かない。アイデア勝負になってきている。テストの点数を取り、尋常でない長時間労働することでは結果がついて来ないばかりか自殺者やうつ病をはじめとした社会病理の原因になっているかもしれないのだ。

私の若いころでも「人間性回復」という言葉が流行したことがある。今から比べたらあんなに「悠長」と思える時代にだ。「生涯教育」という言葉もあった

この場合の生涯教育とは、自らが終生自発的に学び続けることだったように思う。カルチャーとか大学教授の講義を聴講するという形にとどまらない。前回のNHK「スープレ(スーパープレゼンテーション)」で、2013年のTED賞を受賞したスガタ・ミトラの言うように、教師が無くてもインターネットがあれば、英語が良く分からない子供たちでも、「子どもたちは自ら学ぶ」ことができる。そして教える側と学ぶ側という図式以外スタイルが提案されていたようだ。

大人も(老人だって)自分の関心に従って学び続けることは楽しいことに違いない。「イカタコ」的にイイカゲンな内容の書き込みもあるが、物を調べたり学んだりするのには、私が若いころとは天と地ほどの開きがある有難さだ。

峠を越えた日本がこれからも活き活きし続けるには、日本人が得意な「内観」的な発想や、工夫・知恵、それに最近少なくなってきた「直接体験」的なことを大事にすることか。番組の中では「何気ない家事の中に見出した何気ない改善点」や「何で今まで無かったの?」といった発見が示された。日常の中の直接体験に基づいた宝物だ。

私は在職中、リタイアするまで、極力定時上がりを目指してきた。21時とか22時までやろうとすれば、19時ころには「ホッとする時間」が極僅かだけ持てる。ところが、定時上がりを目指すと、そうはいかない。段取り・今日は捨てる(敢えてやらない)という判断・そして関係先への連絡のタイミング・それらに時間を割くことは結構しんどかったが、それなくしては定時上がりに近いことはできない。

やって良かったと思っている。そういうペースで仕事をしてみないと、その良さは分からないと思う。

去年私の家に、何度か営業で訪れた涼しげな美人系のロン毛女性がいた。この方はなかなか心得ていて「傾聴」が上手い。言ってみれば「阿川佐和子」風で、「話したくなって」話してしまう。営業そのものよりも「会話を大切に」しているようだ。「質問力」とか「合いの手」力に長けているのだ。だが、その女性がこう言っていた。

時間が余ったときの使い方は女性の方が上手いが、時間が無いときの時間の使い方は男性には敵わない、と。

男たちは、だらだら、たらたら仕事するんじゃなくて、自ら時間を短く(時間の無いときを)設定して、「何か」を鍛えよう。女性は、「昭和の価値観で育てられた上司の言葉」から自由になって、たとえ「宇宙人」と呼ばれようが何しようが、自分の閃きが起きやすい環境を自らに提供するがいい。(ちょっと「すいエンサー」の伊吹吾郎を真似ちゃいました。あ~、スッキリした。)

ちなみに、今朝のNHK7時。「視線」関連のビジネス研究が面白かった。今までの定説はどんどん覆され、進歩また進歩だ。世の中、面白くってしょうがない。

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0502 私の母 「あっら!うまそ~」

2013-05-02 14:50:04 | 昭和的な

水族館の鰤(ブリ)を見て「あ~、美味しそう!」と私の母が言った件を食事時にカミさんに話した。
カミさんはとってもよく覚えていた。『あらっ!旨そう!!』と言ってたよね、びっくりしたよ~、も~。

「あら!」なのか「あらまっ!」なのか、「まっ!」なのか分からないが、「あ~」とか「おいしそう」程度の上品な言い方ではなかったようである。うちのカミさんは、子どもたちを連れての水族館だったから、見学の場での「旨そう」に驚いたというのだ。

しかし私の母はリュックを背負って闇市に出かけたという。列車で行った地方への買出しでは、憲兵が睨みをきかせてどうとか、米軍戦闘機に機銃掃射されて重い荷物に引っ張られるように尻餅をつき、勢いあまってリュックの上を乗り越える格好で後頭部と肩が地面について両脚を空中でジタバタさせて死ぬ思いだったとか言っていた。そういうところを通り抜けてきた人だから、まあ、うまそう!は自然なんだろう

戦争という「生きるのにやっと」な真っ暗な毎日を「敗戦」で終えて(母たちは「終戦」と言う)、軍国主義という「空気」がアメリカによって吹き払われたらしい。蒙古襲来の時の「神風」、戦争中の「カミカゼ」、そして太平洋戦争の終わり。陸軍病院で外科病棟勤務だった母にしてみれば、泣き喚く(なきわめく)負傷兵をどやし付けながら、それでも「いつか勝つ日まで」と頑張ってきて聴いた「玉音」に号泣したようだ。だが母たち庶民には幸か不幸か負けたことで「神の風」が吹いたのかもしれない。

「相次ぐ勝利」というニュースが全て嘘っぱちだったことを後から知り肚が立ったようだ。よく分からないが、最近の近隣の国も、いまだに当時の日本と同じような状況なのではないかと想像してしまう。

私は戦後の生まれで、その辺には疎い。
ただ小さいころ住んでいた町にも「傷痍軍人」の人が、アコーディオンを奏でて町角に立っているところを子供の目で見ていた

母の願いは文字通り「平和」。戦争は、良いことがひとつも無い、といつも言っていた。米寿を過ぎて母は逝った。日本の平和だけでなく、世界のあちこちに見られる内戦や紛争にも心を痛め、平和が訪れることを願っていた。

昭和を潜ってきた人の価値観は「食うこと」から始まって、良きにつけ悪しきにつけ、大きく展開してきたと思う。

母は日本人らしく「魚食文化」の人で、イクラ(昔は筋子が多かった)とか刺身、とりわけ「ハマチ」が大好きで、その意味でも「欲しがりません勝つ迄は」の戦争が終わったことは、「婦人参政権」の実現も齎して(もたらして)、嬉しかったことだろう。

チビだった私は、あまり当時のことを知らないが、毎年8月ころの放映されるNHKスペシャルなどの戦争番組は、父母の追悼の意味になるかは分からないが、当時をもっと知りたいので、なるべく観させてもらっている。

2003年の1220に母が亡くなって10年を迎えようとしている。
母はどこかの水族館とかに今も出向いて言っているのだろうか? あっら~、うまそっ!


【家族/母の思い出/】







++++++++++++++++++私の母2+
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最近は「鯖」の人気が絶大。アミノ酸づかいの養殖サバは成長も早く、丸々ととして見た目も良い。それこそ「うっまそう~!」2018.9.21

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0429 生命へのまなざし(母と金魚)

2013-04-29 18:52:40 | 昭和的な

今は亡き母の思い出。

私が小学生のころだろうか、縁日か何かで掬ってきた小さなやせ細った金魚を飼っていた。それがたまたま大きく育って体長15センチ以上にまでなった。勿論水の入れ換えや苔とりは私の担当だった。何匹か金魚がいたがその「赤」と名づけた金魚は私の自慢だった。

水を換えたあとは金魚の姿がよく見えて嬉しかった。何時間見ていても飽きない。ある時、塩素中和剤が少ししかないのに少し急いだのか、早めに金魚たちを水槽に戻してしまったところ、「赤」だけが苦しそうに体を傾げてバランスが取れなくなってしまった。

私は慌てた。慌てたがどうしていいか分からなかった。そこで母に金魚の急を知らせた。少年の私には重大事件だったのだ。母は忙しそうに仕事をしていたが、私の訴えを聞くと直ぐにベランダにやってきてくれた。

様子を見てとるや水槽に手を入れて「赤」を静かに、そおっと正常な態勢に起こした。造船所のドックに入った船のように「赤」はひっそりと静かだった。母は魚体に触れるか触れないかの形で両手のひらで金魚をキープし続けた。母は時折両手を僅かだけ広げて「赤」の様子を見ては30分以上それをやめなかった。

凄い!「赤」は見事に立ち直った。

自分も母の前に同じようなことをやってみていたのだが、手を離せばフワ~っと横倒しになってしまう。何度やっても同じことだった。手に負えないと思った。同じ事をやっても母の場合は「思い」が違ったのだろうか。

このあと何年も「赤」は生き、産卵して小さな稚魚の孵化を何度も見せてくれた。大事にしていた「赤」を甦生させようとする母の眼差しは、静かで無心で愛に満ちていたように見えた。

ちなみに、母は陸軍病院で看護婦として働いていたという。大正生まれの母は「ナイチンゲール」の伝記を読んで看護婦になったような人だ。だから人一倍「生命」に対する「無条件な姿勢」が身についていたのかも知れない。

命をいただいて生きてゆく。水族館の母の「おいしそう!」は、それはそれで理に適っている。だが家族のように一緒の生き物を大切にする母の姿は、忘れられない。

ただ、うちのカミさんも子供たちのペットの急場では同じようにやっているのを何度も体験した。
そうした習性が、女の人には生まれつき具わっているのだろう。その辺は、到底かなわない。



【戦争体験者/生きることは食うこと/生命の尊厳/女の人/親子家族/私の母】

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0411 小沢昭一的こころ

2013-04-11 00:42:34 | 昭和的な

お待ちかね、小沢昭一の小沢昭一的こころ

若山弦蔵のTBSラジオ、車の中でよく聞いた。「夕日に赤い帆」とか「引き潮」とか、「ディプ・パープル」とか、この方は好きだったんだと思う。何度も何度も流れたもの。

それで暫くすると、三味線交じりのテーマ曲で小沢昭一が登場する。この番組が終わったときは、随分と寂しかったものだ。そのあとの大沢悠里では相方の女性アナがダイアナ妃やマイケル・ジャクソンの物まねで、なにかランキングをやっていて楽しかった。

時には仕事中だったり、家路に帰るときもあった。もてないお父さんがそれでも一生懸命女の人にもてようと努力するのだが、あまりかすりもしないような話を聞かせてくれた。

おとうさんは、もてない自分をよ~くご存知なんであります。ご存知なんでありますが~、ご婦人を目の前にしますと・・・みたいな、絶妙か語り口。これが男心をくすぐるわけでございまして・・。

顔がほころんでしまうんです。助平な話題がまた、あの人らしかったかな。

もはやノスタルジー。時代の色が変わってしまった。無きゃぁ無いなりに温かみのある電球の下であの頃だって「すき焼き」でも「湯豆腐」でも、ごく普通に家族で食事して安らいだ気分にもなれた。

格好良くはなくったって、どこのお父さんもどこのお母さんも、自信なんかない、けれども「負けるもんか!」と威勢が良かった。空元気かもしれないが、元気だった。

東京タワー建設の頃、あのALWAYS 3丁目の夕日に描かれるああいう人々で溢れていた。話し言葉には日本人的なリズムや韻があり、情緒があった。目に見える事柄や損得だけを大事がるだけでもなく、「陰と陽」を包含したような生き方みたいなものを感じた。

感じたというのは、そのころの私は紅顔の美少年だったから・・・。

顔にはハタケがあり(栄養失調?)、頭の毛も赤っぽくて金髪が少々混じった細い髪(栄養失調?)で背も小さかった。物のない時代に両親はそれこそ必死に育ててくれた。

あの頃の楽しみはビー玉やメンコやチャンバラごっこ。それに、母さんが石鹸を削って作ってくれた液にストローを突っ込んで、そぉっと吹いて風に飛ばした虹色に輝くシャボン玉。(七色仮面なんていう映画もあった)

そういうものに心を奪われるほど無心になれた。儚くても次々に吹き続けてシャボン玉が長いこと空中に漂っているのを見ながら、それだけで嬉しかった。しあわせな少年時代だった。そのストローは光沢のある麦わらだった。

小沢昭一は私より上の世代で、「駅弁を開けると、一番最初に食べるのは蓋にくっついたご飯粒」という。それがあのころの共通の食べ方だったわけで。

恵まれない時代にはそれなりの恵みがあり、恵まれた時代にはそれなりに不遇があったりする。

いつの世でもいつの場合でも、禍福はあざなえる縄の如くあり、太極図のように陰陽一体なのかもしれない。

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0303 オランダ人は合理的?

2013-03-03 17:01:09 | 昭和的な

もう随分と前になるが、オランダに旅行したことがある。それはウチのカミさんの職場友達(オランダ娘)の一言から始まった。
それは、かねてより付き合っていたオランダ人男性と結婚するから、「結婚式においでよ。」というものだ。
スッキリしたヨーロッパ顔の金髪女性だが気働きのきく素敵な娘だった。なんでもお相手の男性が日本での仕事になってしまったので、追いかけるように彼女も来日したのだという。

大体、オランダ人は合理的と言われるようだ。それに「良い」と思ったことは強力にかつ当たり前に議論の上、推進してゆく国民性のようで、どこかの国のようにややもすれば「出来ない言い訳」を考えたり、世間の目を気にして恥と思ったりはしないようだ。

このカップルだけでなく、オランダでは結婚前の「同棲」はむしろ当たり前で、結婚してから「しまった!」と思うよりも、確かに2人で一緒に暮らしてみてから最終決着?する方が無難といえるかもしれない。まあ、結婚しても姓が変わることもないらしいのだが、いよいよ結婚するから花嫁姿を見に来てよ、みたいな。で、二人で世界旅行をしながらオランダに帰るから、6月にオランダへおいでよと言う。今から20年も前のことだ。

その時息子は小学2年生、娘は保育園に通っていた。「え~?!」と思ったが、すでに「行く行く~!!!!」と即答したらしいうちのカミさん。「一緒に行こうよ~」がくっついてきた。だって仕事中もいいとこじゃん!でも興味がないわけでもない。

結局、いろいろやりくりして、職場の同僚や上司にもなんとか受け入れてもらい、短いながら休暇を頂いてのオランダ旅行。子供がちょろちょろするので、コラコラ!と道中で注意でもしようものなら、ひんしゅく顔でこちらの顔を眺めてくるオランダの人は、遊園地で乗り物に並ぶ時でも整然として、走って順番取るなど皆無と言ってよいくらいだった。
おしなべて物価は安く、ヨットもボートハウスも中古で安く手に入るので運河を楽しんでいる。勿論冬は運河でスケーティングだという。とにかく白夜チックで夜の8時9時ではまだ明るいので家事も遊びも長時間可能。皆さんよく働く。働いた後は、よく遊びよく食べてよく飲む。ビールも肉も鱈腹食べる。それもあってか体もでかく、みんなタフ!

・・・何をだらだら書いてるんだ?
とにかく・・・オランダの家庭に泊めていただきながら・・・・
日本には無いものや考え方なども・・・感じることができたと思う。子供たちは子供たちで、一番気に入ったのは「マドローダム」だったらしいが、それなりにいろいろと吸収していたのだろう。

その娘が、この3月1日(0301)に彼氏と「同棲」を始めた。相手は、なかなかの好青年だ。

自分にとって、同棲は明るい明るいイメージになった。






【娘のこと/娘の結婚/息子のこと/親子家族/日本人と外国人/大事にするもの/旅行】

 

 

 

+++++++++++++++++++++++++++++オランダ+
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