まるさんかくしかく〇△☐Ⅱ

雑感・雑記・日記

1016 「おむすび」は、ゆるくありてこそ

2014-10-16 21:23:20 | 雑感

美味しい「お結び」は、強く握らない。掌の中で、コロコロ転がす程度で十分結ばれてくる。(TV、「すイエんサー」)

家庭で作るのは大体が「おにぎり」。たしかに・・・お握りは、時に胸につかえる。

それと・・・、町内や学校の学級、それにサークル・・・。その他いろいろなところにおいては得てして「強い結びつき」をよしとする。
あまつさえそれを強要することがある。こちらも同じく、時として胸に閊える(つかえる)。

緊密な「絆」ではなく、本当のところ人は「ゆるい結びつき」を求めている。
和歌山県立医科大学の岡壇さんは、自殺率の低い町の特徴を追い、5つの要素にまとめた。

・いろんな人がいてもよい、いろんな人がいた方がよい(「これ以外は認めない、こうであるべき」をしない)
・どうせ自分なんて、と考えない(ひとつの価値概念で順位づけるのは無意味?)
・人物本位主義をつらぬく(長幼だけで軽重をきめない、など/この人だからでもなく内容本位?)
・「病」は市に出せ(困りごとは、一人さみしく抱え込まないでさらけ出すと、案外、人は助けてくれる)
・ゆるやかにつながる(ねばならぬを強要しない)

「絆」という言葉を、あまりタイトなものとしてではなく、無理も無理強いもない「いとはん」でいきたいものだ。

そういえば、匠の作る「豆腐すくい」の網は、ゆるく編んであり、すくった豆腐に網目がつかないがキャリアの少ない人の編み方はキッチリ編むので、網目が食い込んで豆腐が崩れたりするという。(心ゆさぶるトゥルーストーリー/先輩ROCK YOU)

どれが正しいと決めてかかるのでなく、ころころと転ばす(まろばす)心のゆとりを持ちたい。
とはいえ、心のゆとりは、結構ムズかしい!。

無形の杖/かた結びは自分をも苦しめる/「おっ立て結び」が顔をのぞかせるゆるいつながり/】



++++++++++++++++結び緩く+

2019.10.14 "努力とは息をするように続けられること、無理をしないこと、息をすることです。"  -将棋棋士・永瀬拓矢-


1016 アスリートの魂「終わりなき探究 弓道 増渕敦人」を見て

2014-10-16 20:00:21 | 雑感

29歳史上最年少、弓道で天皇杯を射止めた人の、その後の苦悶の様子を見た。

最初に興味をひかれたのは内容ではなくて、ナレーションだった。
杉本哲太、あの「ガイアの夜明け」の蟹江敬三さんが亡くなった後、ようやく決まったナレーターだ。
リキミも気取りもないナレーションは、映像の邪魔にならず一体となって内容を伝えてくる。

杉本哲太といえば、ストロベリーナイトの元刑事「過ぎた正義」を演じたり、もとはといえば「白蛇抄」など、強烈で重く暗い個性派の演技の人だが、あまちゃんの時の北三陸鉄道の駅長では違う面も巧みに演じていた。それが、またいい感じでナレーターを務めていた。

で、内容を見進めるうちに、なんだか得体の知れないものを感じた。

ただの的当て、と称されて、30歳の時には予選敗退。それから20年を超えて出口の見えない闇の中を、それこそ彷徨い続けてこられたようだった。9割は的に当たった状況を否定されて、そこから、ある意味必要のない迷走を続ける。

必要のない迷走というのは、弓道の何たるかを頭で追い求めていることにあると感じた。

そしてまた、史上最年少で「弓道最高峰である天皇杯制覇」という栄光を常に自負として抱き続けて弓を引いている。
「正射正中」どころか、いわば邪念だらけで姿勢から所作の見直し、筋トレによる十字勁力の向上もしくは維持を図り精度を高めようと努力し続ける。が、巧拙を気にし過ぎた、形を整えようとする努力に終始する。

見ている内に、天皇杯勝利はなるまいと思えた。それ以上に、天皇杯では勝ちを収めてほしくないとさえ思った。
雑念が多すぎるのだ。

私は弓道のことは門外漢だが、ある武道で四段まで頂いた。わけあってその武道を離れたが、それでも薄々分かるような気がすることがある。
たとえ自分を未熟だと自認するとしても、そこまで行った人は、己の理想形を見据えて無心でそれに対峙するしかない。

技がどう、形がどう、体作りがどうではない。一生得ることができないであろう「絶対的平常心」への挑戦みたいなものでしかないと思われる。かつてのTVドラマ「柔(やわら)」で言えば「鉄壁の不動心」。そんなものは、そうたやすく身に付くものではなく、また、常に流転・反転・乱高下する。

心とはそうしたもので、「集中」するなどという程度の世界観では語れない。

番組の最後まで、邪念や「心の囚われ」は変化の兆しを観ないで終わった。杉本哲太ナレーションでは「すでに次の天皇杯を見据えていた」ように語られていたが、八段の言葉を頭で理解するのでなく、心で噛みしめないと進化は望めないと思った。

真摯であることを八段は認めていたが、真摯であることは「真善美」の「真」とは同一ではないだろう。
ドラッカーのマネジメントにあるように、真摯であることは必要条件であるとしても、その意味では皆誰もが真摯だ。

心・技・体は、体技心。身体を調え、超絶技巧であってもなお、それだけでは一応の完成もない。

一方で、この20年を何故、「自身の行き方」をみがくことなく「孤高の新境地」を切り拓くことに費やさなかったのか。
戦場(いくさば)では百発百中の強弓を誇ることこそ誉だったはず。

「道」という美学は肝心で、当たればよいとだけする鼻持ちならぬ自尊心のままでは何ともならないが、そもそも「心」は「道」とともに最終の目当てであり、自己の境地を極めていくしかない。

もっとも、そういう今の自分を認めたがるのは、「そこまで行っていない」初中級者にはありがちな心境で、これは袋小路。
増渕敦人氏が番組の途中で言っていた「何かきっかけが欲しい。いい状態が多くなっていけば・・・」というような発想は、どちらかといえば、「心」的な錬成度としては、初中級のように思えてならなかった。

弓の選択やら、力ではない引き方(押引き・伸び合い)やら奥は深いのだろうが、あんなに震える腕と矢はあまり見ることはない気がした。


1012 生死の境を彷徨いたい?

2014-10-12 16:30:06 | 雑感

頭に銃弾を撃ち込まれたことで、マララは生死の境を彷徨った。
そして甦り、すべての子供が教育を受けられるようにと再び立ち上がり活動している。ノーベル平和賞の受賞。

女は教育を受けるべきでないという教えで爆弾を仕掛け、非力な女子を相手に誘拐や暗殺を繰り広げる集団がいる。
それでも怯む(ひるむ)ことなくマララは信念の意志を貫く。

一方「戦闘の中に自分の身を置きたい」と、日本人がイスラム過激派に帰属・改宗、戦闘・負傷を経験、日本に戻った。イスラム国に参加しようとした学生もいた。「このまま日本に居ても自殺するしかない」ようなことをTVカメラの前で言っていたようだ。この国で「生きている意味」を見いだせずにいる若者が多くなっているのか?いや、若者だけではない。イスラム国で囚われたアラサーだかアラフォーと見える日本人もいた。

確かに、生きている実感を持ちにくい時代かもしれない。人のために役立っている感覚からも遠い日常は、生きるモチベーションを失いがちだ。

御嶽山で不幸にして亡くなられた方々は登っている最中に汗をかき心臓を鳴らせ「生きている」感覚がビンビン来ていたことだろう。一歩踏み間違えば滑落・転落して死ぬという感覚。それも含め、生きている感覚に包まれる。今現在も捜索にあたっている方々は、職業観や使命感もあろうが、もはや捜索作業中は「無の心境」であるに違いない。

無心にやるしかないという、ある種の充足感。単に一色ではない複雑な思いの交錯を振り切ったうえで無心に行う活動。

日常生活の中で、感じられるか否かは別として人は常に生死の間にある。その生死の境にあってはマララのような信念(シンプルな事柄)に基づいた社会的行動を無心で行える境地は、生命を超えたものになっている。それはもはや「救世主」にも近いかもしれない。

死に場所を求め、死ばかりを見つめるのは、ちょっとした勘違い・片手落ちのような気がする。
死は憧憬の対象でもなければ不必要に怖がり忌み嫌うものでもなく、いつかは誰にも自然に訪れるもの。
見えも触れもしない、重力のようなものにさえ感じられる。心を揺らめかすことなく、生死を感じて生きていたい。



+++++++++++++++++++生死彷徨+
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1008 寝つきよく眠りたい

2014-10-08 20:59:59 | 健康

ためしてガッテン。

通常、1日の中で最も体温が高くなるのが夕方。朝、起床ころは体温が最も低い。
就寝時の体温 - 起床時の体温 = +0.5℃以上。  (寝る前>目覚め時)
これだと寝つきが良いのだという。

今回のガッテンは面白かった。
ほかにも、ストレスが微熱を引き起こすなど、体温の持つ意味は深そう。