たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

人と社会の相克 <人類誕生><ギリシア・ローマ><百姓たちの水資源戦争>などを見聞しながら

2018-09-17 | 国・自治体のトップ 組織のあり方 民主主義とは

180917 人と社会の相克 <人類誕生><ギリシア・ローマ><百姓たちの水資源戦争>などを見聞しながら

 

今朝、再放送されたNHKBS人類誕生・未来>を見ました。人類が700万年の誕生以来の歴史の中で弱者の地位から生存競争や気候変動に耐え抜いてきた経過をコンパクトにまとめていました。

 

とくに人類が地球上で反映することができた要素として、仲間作り、道具の発見と利用、心を通わすこと(feeling)、好奇心を上げていていたかと思います。

 

世界中に覇権を広げる中で、大海の果て?にあった日本列島にたどり着いたのは上記のよその集大成のような形で解説していたようにも思います。27000万年前に石垣島白保(もう30年くらい前に行ったきりですが、とても素晴らしいところです)に暮らしていた大勢の人の遺骨などが最近、発見されたのですね。約3万年前にまだ氷河期が続いたと思いますが(画面では南洋の風景ですが)、上記の要素を特別強力にはぐくんだと思われる若い男女5人が大陸から大海原を渡海したと想定した試みが繰り返し行われていました。

 

彼らは、新世界に夢を抱き、また、チャレンジ精神ととてつもない勇気と連帯意識、そして失敗を重ねながら新たな舟をはじめさまざまな道具を開発し、島伝いに日本列島にやってきたのでしょうか。

 

ところで、番組の最後には、核戦争を臭わすような、人類の破滅が画面やエピローグで示唆されていました。人類最強の兵器、核爆弾を開発したことは、新しい道具を追い求める人類の究極の姿かもしれません。

 

また、仲間作りと連帯によって、強い敵を打ち破り、他の生物との闘いに勝っただけでなく、人類内に別の敵を作り出し、仲間が部族、ポリスから国家、さらには他国の支配といった具合に、仲間が大きくなればなるほど、また道具の開発が進化するほど、戦争の規模も拡大してきました。

 

さて仲間が社会とか、国家に近いものを想定したとき、その仲間の連帯なり機能を有効かつ適正に行う組織のルールとかについて、少し考えたくなるものです。それで最近、桜井万里子・木村凌二共著『集中講義!ギリシア・ローマ』を読んでいたところでもあり、ポリスでの民主政とローマ帝政を垣間見て少し参考にできればと思ったりしています。

 

桜井氏がギリシアを、木村氏がローマを担当しますが、両氏とも比較史的検討に加えて現代政治との歴史的検討もしておられ、いろいろ参考になります。以下では同著作に基づき、若干、私の言葉も加えて適宜、紹介します。

 

現代ではギリシアもイタリアも、なんとなく自由奔放に市民も政府も生活や国家運営を行っているような印象を受けますが、実際のところはどうでしょう。ともかく古代の両国、その担い手については多くの先哲、いや現代人も参考にしていますね。

 

紀元前508年にギリシアのポリスの一つ、アテナイで民主政が現れたとき、ローマはその前年の前509年に共和国家をつくったとされています。

 

ポリス時代のギリシアは民主政のお手本のように見られていますが、その民主政というのがカギ括弧付きであるのは古代ですから、やむをえないものでしょうね。たしかに市民による統治が徹底していて、代議制ではなく市民全員参加の民会で意思決定するというのですね。日常的なことは評議会で検討して民会に提案する形をとっています。

 

興味深いのは裁判も当然、市民が担い手となり、それも私的紛争・公的紛争(公的秩序を乱す)のいずれについても、前者は200人、後者は500人という多数による評議という形で、多数決を量的にも堅固なものにしている印象です。

 

でも市民となり得るのは、市民資格法があり、都市アテナイでは、「両親ともにアテナイ人である成年男子が市民」と規定されていたのです。アテナイ人でない、他のポリスから移住してきた別のポリスの市民であっても、戦争で負けて奴隷となった人と同様、外人となり、市民とはなれないのですね。それに加えて女性は、戦争で戦えないということで、市民とはなれず、商取引もできず、自立の道がとざされていました。唯一女性ができるのは娼婦や売春宿経営者がほとんどというのですから、民主政の価値もいかがなものかと思います。

 

ギリシアは紀元前ではローマにとって先進国で、文化・芸術・哲学など多方面で優れていたとされていますが、その規模はポリスどまりで(ポリス内部の政争に明け暮れたとも言われていますが)、ローマのように一国を統一することもなかったのです。さらに地中海やヨーロッパに覇権を及ぼすようなこともなかったわけですね。ただ、ローマにまで貿易等でその影響は及んでいたそうですが。それはポリスを成り立たせていた特有の「民主政」というものの限界かもしれません。

 

ローマが覇権を広げることができたのは、戦争が強かったからでしょうか。ただ、ローマ帝国といわれるのは、オクタヴィアヌスがアウグスティヌスという称号を得た前27年からとされていますので、それまで「執政官2人の独裁政、元老院の貴族政、民会の民主政が均等に配置されて」、その体制の下、他国に侵略して領土を拡大していたのですね。カエサルもその中で力を伸ばしたわけですね。帝政ローマとなってからは戦争がない平和な社会となり、文明が開花したかもしれませんが、他方で奴隷制など差別がさらに強化されたのかもしれません。

 

ざっと目を通してみただけなので、まだ咀嚼するにはほど遠い段階ですが、民主政というものの合理的なというか、人類にとって有効で適正な手法かどうか、悩ましいものであることを感じた次第です。

 

ただ、看過してはいけないのは、ギリシア民主政で最高水準に至ったとも言える、弁論術や哲学は今なお多くの知識人が学ぶところではないかと思います。ソクラテスやプラトンなどのそれはギリシア民主政が生んだ賜物かもしれません。

 

他方で、ローマ時代の弁論家として卓越した能力を持っていたとされるキケロは、優柔不断な性格描写をされることもあるようで、自らカエサルには到底かなわないと評価していたとか言われていますね。やはり軍事力を背景にした言葉の力が優先していたのでしょうか。

 

と長々とよく分かっていないギリシア・ローマの政治論的な話題をもってきましたが、これまでが前置きです。

 

本論は、渡辺尚志著『百姓たちの水資源戦争』で取り扱っている江戸時代から明治初期までの百姓たちの水利用をめぐる、共同体内の争いと他の共同体との争い、さらには幕藩体制や明治新政権でのあり方を取り上げたいということです。

 

でもここまでに一時間を超えてしまいました。本論は次の機会にして、簡単に述べたいことの一つを指摘して今日は終わりとします。

 

同著では、江戸時代を通じて水利用をめぐる裁判例を中心に、水利組合の中で従来の水利用がどのようにして行われていたか、その秩序を変更することは構成する村全部の同意を求められていて、変更があったと認められると、裁判で元に戻される厳しい共同体ルールが規範となっていたことが示されています。

 

それは灌漑用水の取水口付近に、新たな堰を設けること、用水路に新たに樋門を設けること、用水路の一部を浚渫して掘り下げたり、あるいは木々を取り除いて幅を広げたりすることなど、さまざまです。

 

そのような厳しい水利秩序の中、たとえば18世紀初頭に実施された大和川付け替え工事(東大阪市の中甚兵衛が半世紀かけて幕府に嘆願して成就)や、紀ノ川沿いに大灌漑事業としてい実施された藤崎井や小田井(大畑才蔵が計画施行か)は、その土木事業の偉業が強調されていますが、私はこの従前の水利秩序を大きく変更したという、大変革にもう少し注意を払ってもいいのではないかと思っています。

 

大和川付け替え>は、計画提案から実施まで半世紀を要していますが、施工期間は8ヶ月で、<延長131町(約14キロメートル)・幅100間(約180メートル)の川筋を>もっぱら、<河底を掘り下げるのではなく、堤防を盛り土したり、高台を切り開いたりする方法>で施行されています。

 

計画採用に時間がかかったのはこの付け替えで、田畑がなくなる者、従来の水利秩序が大きく変更し用水利用ができなくなる者、さらに氾濫被害が及ぶ者など、少なくない反対者がいたからです。

 

他方で、藤崎井や小田井はどうだったのでしょう。その施工方法といった土木技術が取り上げられますが、従来の水利秩序で守られていた水利権を主張する村々にどのように説得したのか、そこに民主制が合理的に機能していたかをとく鍵があるように思うのです。

 

大畑才蔵が残した『積方見合帳』や『地方の聞書』などに隠れた示唆が含まれているように思えるのです。それをいつか明らかにできるといいのですが。

 

今日はこれにておしまい。また明日。

 

 

 

 


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