たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

葬送と社会性 <葬送の多様性とはだれのため何のため>

2017-08-31 | 人の生と死、生き方

170831 葬送と社会性 <葬送の多様性とはだれのため何のため>

 

先日のNHK放送「クローズアップ現代」だったと思いますが、納骨する代わりに、業者に骨壺を郵送して、機械などで骨灰にして海や山に撒いてもらうサービスが次第に普及しているという情報をもとに少し議論がありました。

 

依頼者は、現在ある墓から骨壺を取り出して、墓への埋蔵を辞める人、墓を購入する資金に困って火葬後に納骨しないまま、上記業者に送る人などでした。前者は墓参りは大変な重荷、自分たちの世代だけにしたい、次の世代に負担を継承させたくないという思いでしょうか。後者は経済的に厳しいことも要因でしょうか。取材された業者は、業界ルール的に径2㎜以内の灰状にしていました。

 

私は以前脱穀機を使っていましたが、最近の機械は遺骨を骨粉にすることくらいは簡単にできると思います。それくらい簡易にかつ見事粉状にしてくれるのです。業者の中には手動のコーヒーミルのような機械で、気持ちを込めてやっていました。

 

私から言えば、ある遺骨を、関係者が車座になって深夜故人のことを話しながら、それぞれ手で小さく砕いてく、それを次々と回していく、そういう儀式的な、仲間の集いはとても印象に残っています。

 

基本、葬送は自分たちで、できるだけ行うのが本来かなと勝手に思っています。

 

とはいえ、上記のような業者が現れるのも現代の宗教事情でしょうか。いや、葬送そのものが宗教中立的な存在になりつつあるのかもしれません。

 

比叡山・源信が地獄をおどろおどろしい絵図で描いて、極楽を求める衆生、いや貴族の関心を引いたように、その後の鎌倉新仏教もこの浄土思想を背景に発達したように思うのです。

 

しかし、現代において、そのような地獄や極楽は多くの人の心に訴えるものではないでしょう。

 

だからいって、骨粉にして他人に撒いてもらうのもどうでしょう。中国ですら(そういう表現は不適切ですね)、北京や上海で大量の散骨を河口などで行っていますが、実施するのは遺族自身です。ただ、本来、強烈な感情を露わにする中国人ですが、数百人が次々と大きな穴の開いた筒から投入するわけで、情緒もなかなか感じ難いですね。中国人の宗教観に合致するのでしょうかね。

アメリカではもう四半世紀以上前から海での散骨を行い、一定のルールを決めていました。業者が当時から大きく宣伝していました。中には国立公園で散骨できるとうたっていました。いや実際、いくつかの国立公園は許容していましたね。現代はどうでしょう。

 

骨の形状が残っていなければ、含有物が有害なものがないのですから、どこで撒いても、不快感もないかもしれない。とまではいえないですが、次第に世の中意識が変わってきたなと、これに取り組んだ四半世紀以上前との違いを感じます。

 

元に戻りますが、遺骨を郵便や宅急便で送るという行為自体は、ここまでくると、まさに物でしょうか。以前、何人かの宗教学者と議論したことがありますが、こういうことをも懸念していたのでしょうね。私自身は当時は想定していませんでしたが。

 

でもイギリスでの散骨事情、火葬場での遺骨(遺灰ashと表現)の引き取りを遺族の自由な判断にゆだねている火葬規則があり、火葬場管理者としては物扱いは当然の成り行きかもしれません。散骨する芝生という場所はそれなりに美しいですが、それ以上に物的な処理をするのを見せていただきました。

 

実際、最近の火葬場・納骨堂を経営する自治体としては、物として扱えないけど、徐々に、産業廃棄物業者の手にゆだねなければいけない状態に近づいているのかもしれません。

 

このブログで何度か取り上げていますが、骨に意味があるのは、その人、遺族であり、他人がとやかくいう問題ではない、社会が、ましてや国家がああせい、こうせいということは、個人の信条、生き方に不当に介入することになりかねないと私個人としては思っています。

 

この点は宗教学者と、まったく相いれませんでしたが、それがすぐに一般化するとも思っていませんでしたので、個人的な意見としては許容されると思ってきました。

 

とはいえ、NHKが武田さんでしたか、キャスター、そして識者としての小谷さんが、葬送は社会的に行うもの、共同体で行うものといった意識で、違和感を訴えていましたが、私自身は異なる考えなので、公の立場で、意見を述べる場合、個人の立場を意識した発言をしてもらいたいと思うのです。そもそも葬送の社会性は、江戸時代、戦前は国家強制もあり、その実態があったと思いますが、はたしてそれ以前はどうでしょう。

 

鎌倉以前、親鸞が生きた時代にはなかったのでは。縄文期にすでにあったとも思われますが、それはより自由な意思によるものであったのではと勝手な推測をしています。

 

もうそろそろ到着駅が近づいてきました。今日はこの辺でおしまい。電車の中で揺れながら、ラップトップのいい加減な反応で、ミスタイプの連続。読み返すのもしんどいので、ますますいい加減になりました。失礼しました。


旅と弁当 <久しぶりの新幹線乗車と弁当を買っての思い>

2017-08-31 | 心のやすらぎ・豊かさ

170831 旅と弁当 <久しぶりの新幹線乗車と弁当を買っての思い>

 

今日は夕方5時まで地元で会議に出席し、会議後すたこらさっさで、自宅に帰り、ローカルの南海電車に乗り、新大阪まで一直線。明日からの関東での会議のためです。

 

以前は余裕をもって新大阪の駅にたどり着くのですが、地下鉄駅を出たところで出発まで10分を切っていました。これからお土産を買って、弁当を選び、乗り込むにはちょっときつい。でも久しぶりの新大阪駅。雰囲気が少し変わっています。地下鉄を出たところから、ハイカラなお店が並んでいます(古い言葉でこれでは新鮮味がない!)。目ざとく見つけた店舗に入り、適当に選んで、後はスイーカで支払って秒殺ならぬ、課題1を終えました。

 

のしんだことのあるEX-ICカードとスイーカ(これもきわめて長い歴史もの)で改札をさっと抜け出し、弁当屋をさがし、どうも品ぞろえが以前と違う、勝手が違うと思いつつ、ぱっと目についた、「京のおばんざい」を指し、画像はぱっとしないとおもいつつも、時間がないと選びました。後はほんとはワインでもと思っていたので、時間的に余裕がなく、ビールの銘柄はと聞かれ、目の前に飛び込んだプレミアムにしました。いい加減この上ない選択です。

 

以前はこんな感じだったなと思いながら、久しぶりの新幹線と弁当でした。でも弁当はうれしい誤算。これはいけます。かぼちゃはさほど好みではないのですが、白だしあんの蒸し南瓜は見事な味付けでした。鮭の西京焼きもあまり好みではない(自然に塩焼きが一番と思っているのです)ですが、これは柔らかい感じの焼き加減、鮭の荒々しさがないものの、さすが京の味でした。ごぼうの牛肉の煮物も山椒入りで、ごぼうの切れ味がおつなもの。最近は京風味の味わいを忘れていましたし、弁当は以前からありますが、まったくその風味がないと思っていたのを、これはいけると、まったくグルメとは縁遠い私がいうのですからあてにはならないものですが、私は大満足。

 

これで新大阪から名古屋まで、このブログを書いたのです。なにせラップトップもあまり使っていないので、スムーズに動いてくれず、あちこち関係のないアプリケーションが立ち上がり、悪戦苦闘しながら、書いています。

 

ところで、日本くらい電車で弁当、しかも各地の旅情をそそる味わいの食事ができるのは、旅の醍醐味というか、贅沢ではないかと思うのです。それほど諸外国の電車に乗ったわけではないですが、少なくとも弁当は聞いたことも見たことも、もちろん味わったこともないでtしたことがありますが、だいたいナイフ・フォークを使って車窓の景色を楽しみということはまず考えられません。それに料理も外観はいいですが、とても美味とか旅情をそそるというものではないですね。そういう意味で、私は日本一周電車の旅をしたことがありますが、やはり日本の凄さでしょうか。

 

ただ、最近は地域の地産性を感じる弁当は少なくなったのではと、旅行も遠のいているのに、感じています。

 

旅行情緒といえば、やはり以前のように、それはいわゆる鈍行列車でしょうか、互いに座る席ですね。それが自然に知らない人同士で話し合うことができたように思うのです。こういう感覚は最近薄れたように思うのは旅行していないせいでしょうかね。

 

私が若いころは、横に座ったり、前に座った人と適当な話を良くしたものです。どちらかというと人見知りするのですが、こういうとき、恥は旅の掛け捨てみたいな感覚が自然に通用していたのかなと思ったりします。それが日本の旅のよさの一つだったかもしれません。

 

長々と趣旨不明の文章を書きましたが、このブログは多少アルコールも入ったので、この辺で終わりとします。