170822 寄り合い <高原の里、集落守る 鳥取県日南町「ファーム白谷」>を読んで
人は一人でも生きていける、いや仲間がいるから生きていける。簡単に結論を出すものでもないように思うのです。
会社や企業で働いていると助け合い、競争しながら生きているのを日々実感するでしょう。大勢の家族に囲まれている人でも時には一人を意識することもあるでしょう。
普通、仲間がいることでその生き方は豊かになるように思うのです。近世社会の暮らしを垣間見ると、現在の「字」あるいは「小字」程度の狭い領域で一つの集落共同体、ムラが成立していたように思うのです。
そこには共同体の中で自治的な秩序維持がうまく機能していたのでしょう。その生産方法も田んぼの水利や肥料獲得のための山野の入会利用といった中核的な部分に限らず、多様な兼業農民を活かす生産や共同体の暮らしが成り立っていたのではないかと思うのです。
それが維新以降、近代化という第一弾の波、戦後は経済成長の波で、中核的な共同体は農山漁村でもほぼ消失ないしは形骸化していると思います。
それでも誰かが声をかければ、近代化した個々の生き方を大事にすることで、新たな共同体的なものが生まれるのでしょう。やはり人はある意味、一人では暮らせないのでしょう。
農村に住んでいると、農家の人たちは、農作業を個々、独自に営んでいます。周辺一帯に田畑があっても、人影一人見ない日も少なくないのです。それぞれが零細錯圃のあちこちにある田畑の作業などに携わり、自分なりの農法で作業しているので、共同性というものがどんどん失われています。
それでもお互いがそれぞれの作業をしっかりと見て、どんなことをやっているかを気にしながらも、自分なりの農法で作業をやっているように思うのです。兼業農家も多いので、土日や休日だけ作業をする人もいます。灌漑期は毎日田んぼの様子を見たり草取りをしたりする人もいます。
ただ、農業機械が高いのに、多くはそれぞれ自分の時間・方法でやりたいためか、個別に購入し好きなときに利用しているのが一般かもしれません。
それでは生産性の低いところや辺鄙なところではやっていけないでしょう。毎日朝刊記事<地域とともに、農業再生に挑む毎日農業記録賞に寄せて/上 高原の里、集落守る 鳥取県日南町「ファーム白谷」>は、そういう農民の意識をうまくとりあげて、寄り合いを復活させ、共同作業所の設立からはじまって、利害対立する近隣関係や作業方法などを寄り合い的な話し合いで次第に解決していったようです。
柔軟な寄り合いという集まりは、限界集落だけでなく、町中、いや都会においても重要な役割を担うのではないかと思うのです。個々の趣味や嗜好で集まるサークル的な活動は、地域性を超えて、現代の人々の意識を反映してこれからも伸びると思います。
ただ、いま必要とされるのは、地縁的な寄り合いの集まりではないかと思うのです。趣味嗜好などの集まりは黙っていても簡単にできあがるでしょうし、今後も支持されるでしょ。
しかし、そのことにより地域の暮らしはますます空虚になるでしょう。趣味も好みも生活条件も異なる人々がお互いを理解し合える寄り合い的な場ができることにより、より多様で豊かな、そして異なる価値を理解し合えるようになるのではと、ふと考えています。
自分の個性を尊重し高めることも意味があると思いますが、他方で、そのことにより自分が住む場所の価値、身近に暮らす人たちの多様な価値を無視し続ける社会にはほんとの豊かさが生まれないのではと危惧しています。
それが近代化し未来社会と言われる21世紀の生活形態だとすると、なんとも底が浅いというか、折角懸命に水を入れても大きな穴が開いていて水漏れし続けて言うように感じるのは私が少し偏屈なのでしょうかね。
今日はこの辺で終わりとします。