たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

大畑才蔵考その8 <寄贈 JA紀北かわかみ、大畑才蔵を学習漫画に>を読みながらふと考える

2017-08-24 | 大畑才蔵

170824 大畑才蔵考その8 <寄贈 JA紀北かわかみ、大畑才蔵を学習漫画に>を読みながらふと考える

 

先日、<大畑才蔵ネットワーク和歌山>の会合があり、大畑才蔵を描いた漫画を掲載した雑誌「ちゃぐりん」が発刊され、JA紀北かわかみ農協から橋本市に寄贈されたことも報告されました。この会で企画し、監修したのですが、昨年できたばかりですが、事務局や会員有志が有能で活発に活動された成果かなと思う次第です。

 

そしたら今朝の毎日にも和歌山版で<寄贈JA紀北かわかみ、大畑才蔵を学習漫画に 児童向け、橋本市に>が掲載されていました。なにかとんとん拍子で次々に活動が広がっている気がします。

 

その前のイベントも、毎日で取り上げていて(私は見落としていましたが)<教える育む学び合う橋本で探訪会とフォーラム 江戸時代の測量器再現 /和歌山>と才蔵が開発した水盛り台の操作方法を丁寧に解説していました。

 

私の場合、当地にやってきた9年前、当地橋本のことをまったく知らなかったので事前知識を得ようと、一年くらい前から少しずつ調べていたら、大畑才蔵というとてつもなく魅力のある人物にたどり着いたのです。彼が活躍した晩年がちょうど私が当地にやってきた年に近かったので、こんな元気で意欲的かつ合理的精神をもった人が江戸時代中期にいたのかと、それも私が住むことになる家のそばでと思い、それ以来ことあるごとに関心を抱いてきました。

 

そして近畿農政局との間で、その灌漑事業計画について何回か議論させていただいている中で、私が才蔵に関心を持っていると漏らしたら、才蔵や上司の井澤弥惣兵衛の研究をされているKさんを紹介され、その後Kさんを通じて才蔵ネットにも参加させていただくことになりました。

 

不思議な縁と思いつつ、私一人の趣味趣向でやっている限りは才蔵自体の存在はなかなか世間の耳目に上ってくることはなかったでしょうけど(こういうブログも当時は考えもなかったですし)、これからの活動をさらに期待したいと思っています。むろん私もメンバーの一人ですので少しでも支援できればと思っています。

 

これまでも才蔵について、私の個人的な関心と独学でほとんどが議論してないようなアプローチもしてきたかと思います。

 

そして先日、少しその思いつきみたいな考えを会議の中で披露させていただきました。ま、私が才蔵が面白いと考えているその一端みたいな部分でしょうか。実際のところ、才蔵のことをまだほとんど理解できていないわけで、その理解するための手がかり的な意味で、取り上げたものです。それは

 

(1)    農業土木技術の開発と実践による高い生産性を創出した農業土木遺産を生み出した

(2)    灌漑事業における近代的な費用対効果算定による事業化を図った

(3)    導水路部分と受益部分の地域的不公正を調整し、農民の総合力を生み出した

(4)    灌漑事業における農民への収支計算を説明し参加を促し、近代農民意識を創出

(5)    農業経営を通じて収支計算により多角的事業を行い、近代市民の礎を作った

(6)    年貢徴収の合理化を図り行政の効率化と農民の収支予測を可能にした

(7)    創造的思考と精練に働くことによる喜びと安楽の道を見いだした

(8)    途上国においてエネルギー源が不足したり、先端技術の利用が困難な地域で、利用可能な土木技術・知見として検討されうるか(例・上総掘りのような)

(9)    江戸時代初期に流行した算術は当時世界水準だったが、遊興の一種とされていたものを、現実の農業土木に活用する実践的な活用をした点において、小中学生に算数の実用的意義を学ぶ機会になる

 

といったことでしょうか。これはほんの一部に過ぎないと思っていますが、他方で、こういった部分の研究が研究者の中であまり行われていないように思えるものですから、さらに絞ってどれかを深めると、より才蔵の意義がわかるのではと思ったりしています。

 

で、今日はこれとは別に、先の会合で話していてYさんから出た話からちょっとした思いつきを考えたことを披露しようかと思っています。紀ノ川の河川流況・形態は古代から近世、現代にかけて大きく変容していて、その時代、時代の姿があまりよくわかっていないように思うのです。ところがYさんの話では、慈尊院の鐘撞き堂が高野口町の国道24号線付近まで張り出した位置にあったというのです。

 

いま慈尊院は参道を降りていくと県道と交差し、すぐ紀ノ川護岸です。ところが、古文書では高野山の政所がその護岸付近にあったとか書かれているのをどこかで読んだことがあり、昔の紀ノ川筋がどうだったかいつも気になっていました。

 

政所ですから、相当な敷地を持っていたと思われるのですが、いまの紀ノ川の流れを見ているととてもそんな敷地はありそうもないのです。しかし、Yさんの言うように、国道24号線まで慈尊院の敷地が出っ張っていたとすると、それは広大です。

 

室町期に大洪水で、紀ノ川の流れが変わり、現在の南側護岸に後退したというのです。たしかに、南側の護岸付近は岩盤がむき出していて、そこまで削り取られたのかなと思ってみたりします。

 

で、ここからです。前にこのブログでも取り上げた元禄高野騒動、ないし聖断です。元禄5年(1692年)7月、江戸から寺社奉行が道中奉行を引き連れて、合計500名以上が橋本までやってきて、高野山の紛争についてい裁判を行ったのです。元々高野山では学侶方、行人方、聖の紛争が絶えなかったと言われていますが、このとき裁判では行人方が大勢追放になり、寺社も1300近くが取りつぶしになっています。

 

まさに江戸時代最大の裁判ではないでしょうか。寺社奉行は町奉行・勘定奉行の三奉行のトップで、大名だけが就任できる、言葉は適切ではないですが、まさに最高裁判所的存在でしょうか。その寺社奉行が直々に橋本にやってきて大裁判を実施したのですから、その意義は大変なものでしょう。

 

才蔵日記は、この裁判を淡々と客観的に結果だけを書いています。ただ、寺社奉行を本田紀伊守としていますが、当時の寺社奉行は本多上総守?ではないかと思うのですが、このあたりも他の文献で確認したいところです。

 

それはさておき、この裁判は高野山の内紛として処断されていますが、もしかしたら、領地紛争の解決も図ったのではないかと推測しているのです。

 

才蔵は、高野口出身のもう一人と、30年近く高野山の内偵という調査活動をして、この裁判の調査員的働きをしたのではないかと思うのです。

 

で、慈尊院の敷地が高野口まで元あったのであれば、室町期に氾濫で川筋が変わったことによって、領地が減ったとしても、当時の高野山の領地に対する支配意識(これは西行物語などでも指摘されているかと思います)から、むざむざ放任することはなかったと思うのです。

 

それで紀州藩が高野口にある小田からかつらぎ、粉川、根来にまで紀ノ川の水を灌漑するなんて計画したら、猛反発した可能性は十分にあるように思うのです。

 

とりわけこういう分野は行人方が戦闘的だったわけでしょうから、それが寺社奉行による大裁判を元禄高野聖断と繕って、大弾圧を行ったかもしれないと勝手な推測をしています。

 

その結果、その後すぐに、下流の藤崎井を開削し、さらに小田井を開削することが、なんの妨害もなく行うことができた、というのはちょっと飛躍が強すぎるかもしれません・・・が。

 

ともかく才蔵の行動は、同時代を生きた芭蕉に似たなにか不思議さと芭蕉にない合理的精神があります。芭蕉のような俳諧の高貴な文学性はなかったでしょう。でも芭蕉が持たない和算や高度な土木技術は自負してよいのではと思います。

 

今日はこの辺で無駄話を終わりとします。