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110年前の行商組織に両班・日本商人まで加入/朝鮮日報より

2016-01-24 15:22:42 | 歴史
「 20世紀初め、「チャンドルベンイ」と呼ばれる褓負商(ほふしょう、行商人)の組織に、中国・日本の商人も加入していたことが確認された。韓国学中央研究院(韓中研)のチョ・ヨンジュン、シム・ジェウ、チョン・ギョンモク教授と韓神大学のヤン・ソンア研究員が共同で出版した『チャンドルベンイの組織と記録』(韓中研出版部)で明らかにされた研究結果だ。研究チームは、忠清南道礼山・唐津一帯の褓負商組織「礼徳商務社」の組織員リストと規定をハングルに翻訳し、解説を加えた。礼徳商務社は、1851年から6・25戦争(朝鮮戦争)直後の1954年にかけて、およそ110件の資料を残した。

 今回出版された『チャンドルベンイの組織と記録』で注目されるのは、1906年から07年の組織員リストだ。このリストには、中国商人の華商・王文魁と日本人商人の上野為吉が、礼徳商務社の幹部に当たる「副接長」として登場する。外国商人と韓国商人については対立関係ばかりで見がちだが、協力・協調も同時進行していたというわけだ。チョ・ヨンジュン教授は「外国商人まで参加することで、組織の性格も、当初の『行商人の同業組合』から『地域の商人連合』あるいは『地域共同体』へと拡大・変化したと見ることができる」と語った。

 1860年代以降は両班(ヤンバン=朝鮮王朝時代の貴族階級)や僧侶も褓負商の組織に参加した、という事実も興味深い。平安道竜川郡守を務めた鄭俊鎔(チョン・ジュンヨン)は、1905年から06年にかけて、礼徳商務社のリーダーに当たる「領位」を務めていた。五衛将を務めた元官僚も参加していた。1889-90年のリストには、忠清南道唐津にある霊塔寺の僧侶の名前も載っている。1898年にソウルで褓負商を中心に「皇国協会」が結成されたことから考えると、当時の中央・地方権力が、商人を動員するため積極的に抱き込みに乗り出した、という解釈も可能だ。チョ教授は「純粋な商人組織というよりも、商業を名目としつつ、同時に政治を含むさまざまな目的で組織を運営した可能性がある」と語った。

 礼徳商務社は、6・25戦争直後の1954年の時点でも、およそ50人の組織員を確保するほどしっかりした組織を維持していた。褓負商組織が、植民地時代や光復(日本の植民地支配からの解放)、戦争を経ながらも命脈を保つことができたのは、相互扶助や自律など、厳格な規律を強調していたからだ。1850-60年代の組織規律には「市場で押し売りした者、むち打ち30発」「同僚に手荒なことをした者、むち打ち30発」「弔問をしない者、むち打ち15発、罰金5銭」などといった内容が盛り込まれている。また1883年の規律には、多数決による接長選出という「民主的選挙手続き」も含まれている。

 チョ教授は「褓負商が1970-80年代まで五日市などで命脈を保つことができた原動力を、組織規律からも読み取ることができる」と語った。

キム・ソンヒョン記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版」

http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/01/23/2016012300449.html


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