白夜の炎

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アラブの統一?

2011-02-21 16:36:58 | 国際
 アラブ連盟という組織がある。エジプトの外相で、今エジプト革命後の指導者候補の一人っとしも名前が挙がったムーサ氏が事務局長を務めている。この組織は第二次大戦後、イギリスの強い影響下で作られた組織である。

 しかし今回のアラブ世界の激動に対してはほとんど有効な手を打つことができない。

 イギリスは同時期、アメリカとともに国連で決議を通し、1947年にイスラエルの建国を実現させた。このイスラエルは事態の推移を不安のまなざしで見つめている。


 もともと第一次大戦中、イギリスはドイツの同盟国で敵国だったオスマントルコをたたくため、当時オスマントルコ領だったアラブ世界に独立をえさに働き掛けを強めた。その最たるものがフセイン・マクマホン協定で、戦争終結後アラブ人国家の建設を認めるものだった。

 同時期イギリスはユダヤ人の協力にこたえるため、19世紀のドレフュス事件を機に発展してきていたシオニズムの運動に迎合する形でバルフォア宣言を出し、ユダヤ人国家をパレスチナに建国することを承認する意思を示した。

 しかし実際に実現したのは、フランスとイギリスの間で結ばれた、サイクス・ピコ協定である。これはオスマントルコ解体後の中東を英仏間でどのように分割支配するかという協定であった。

 これら協定や宣言は当然秘密であったが、ロシア革命によってロシア帝国が崩壊し、その過程で各種の機密情報が露呈したが、その一部として明らかになったのである。


 第一次大戦後にはアラブ人は不満を抱えつつ独立への努力を続け、1919年にはエジプトで市民による動乱が革命につながり保護領から事実上の独立国へと発展した。

 また1928年にはムスリム同胞団が誕生しているが、これもアラブ民族主義・ムスリムの覚醒運動の一環だったといえよう。

 同時にシオニズム運動の側も発展し、欧米の有力なユダヤ人によるパレスチナの不動産購入とユダヤ人の入植の推進が進行した。

 1930年代にアラビア半島で石油が見つかると、石油権益確保のため、この地域を英米仏が支配することの必要性が-英米仏に取って-さらに重要になった。


 第二次大戦によってドイツの覇権を完全に排除すると、英米仏三カ国はこの地域で拡大するアラブ統一とムスリムの連帯を打破するため、イスラエルの建国を認めた。

 同時にアラブ諸国の独立も認めていったが、その際は英米仏三カ国の息のかかった王族の支配を優先し、同時に重要な拠点は保護領として維持し続けた。現在問題になっているバーレーンなどその典型である。

 1880年にイギリスの保護国になるまではシーア派のペルシャ帝国の領土であったが、その後はイギリスの支配下にはいり、王家のハリーファ家はクウェートのサバーハ家やサウジアラビアのサウード家と同じくアナイザ族出身でスンナ派である。

 少数派をエリートとして優遇し、宗主国の保護と支持を必要とする支配層を作り出し、多数派との和解を困難にするという欧米列強の植民地支配の典型的な手法がここでも見られる。

 しかし今やその手法がエジプト、チュニジアで崩壊し、さらにバーレーンなど湾岸諸国、さらにリビアにも及んでいる。

 いまや様々な国家形態、歴史的経緯を経てきたアラブの全領域に、若い世代の行動をきっかけとする大きな変動が始まっている。

 その中で弾圧に耐えてきたムスリムの運動組織が次第に役割を果たしつつある。

 また地域から排除されてきたシーア派が復権しつつあり、そのことはイランの影響力の拡大をもたらしている。

 長期的には英米仏の影響力の低下と、アラブ世界の統一、イランの影響力拡大、という結果につながる可能性があるだろう。