前記事を書いた後で、自分が印象に残っているシーンを確認したくて映画「千と千尋の神隠し」を見返してみた。
まず、千尋がハクに言われて、釜爺に会いに行くために、ボイラー室に通じる長い階段の上に立って下を見降ろして逡巡しているシーン。子どもの未知の世界へ一歩を踏み出すことへの不安な気持ち、たいへんさが、あの長い階段によってよく表現されていたと思う。
次に、千尋を”偉い”と思ったところをふたつあげておきたいと思う。
まず、”オクサレさま(実は川の神様)”を”大湯”へ案内して、リンに言われて、番台へ薬湯の札を取りに行ったあと、カオナシがさらにどっさりの札を千尋に差し出した時の千尋、
「そんなにいらない。」
「だめよ!ひとつでいいの。」
と言って、余分にくれようとするカオナシを、たしなめながら毅然と断ったところ。これは、大人だといらないとわかっていても、面倒くさいからもらっておこうか、などと言ってしまいそう。
そして、もうひとつ、みんなが金を欲しがってカオナシにむらがっている時、ひとり千尋だけが、彼女に金をさしだすカオナシに、「 いらない、ほしくない ! 」と言うところ。このふたつの場面は、千尋が持っている本能的な賢さ、聡明さを感じさせる。そして、両親が”神様の食べ物”を無頓着に食べて豚になってしまう場面でも、千尋はひとり直感的にあたりの異変に気づいて、食べ物に手をつけようとしない、という場面も、そういう彼女(子ども)の持つ聡明さ(直感の鋭さ)を感じさせた。そんな彼女の態度は、豚になった両親(大人たち)の鈍感さと好対照を見せていた。
まず、千尋がハクに言われて、釜爺に会いに行くために、ボイラー室に通じる長い階段の上に立って下を見降ろして逡巡しているシーン。子どもの未知の世界へ一歩を踏み出すことへの不安な気持ち、たいへんさが、あの長い階段によってよく表現されていたと思う。
次に、千尋を”偉い”と思ったところをふたつあげておきたいと思う。
まず、”オクサレさま(実は川の神様)”を”大湯”へ案内して、リンに言われて、番台へ薬湯の札を取りに行ったあと、カオナシがさらにどっさりの札を千尋に差し出した時の千尋、
「そんなにいらない。」
「だめよ!ひとつでいいの。」
と言って、余分にくれようとするカオナシを、たしなめながら毅然と断ったところ。これは、大人だといらないとわかっていても、面倒くさいからもらっておこうか、などと言ってしまいそう。
そして、もうひとつ、みんなが金を欲しがってカオナシにむらがっている時、ひとり千尋だけが、彼女に金をさしだすカオナシに、「 いらない、ほしくない ! 」と言うところ。このふたつの場面は、千尋が持っている本能的な賢さ、聡明さを感じさせる。そして、両親が”神様の食べ物”を無頓着に食べて豚になってしまう場面でも、千尋はひとり直感的にあたりの異変に気づいて、食べ物に手をつけようとしない、という場面も、そういう彼女(子ども)の持つ聡明さ(直感の鋭さ)を感じさせた。そんな彼女の態度は、豚になった両親(大人たち)の鈍感さと好対照を見せていた。