あざみ野荘つれづれgooブログ

おもに、サッカー関連のコメントを掲載していきたいです。
’78年のW杯アルゼンチン大会以来のサッカーファンです。

「千と千尋」を見返してみた

2006-05-05 00:59:39 | 映画・ドラマ
 前記事を書いた後で、自分が印象に残っているシーンを確認したくて映画「千と千尋の神隠し」を見返してみた。

 まず、千尋がハクに言われて、釜爺に会いに行くために、ボイラー室に通じる長い階段の上に立って下を見降ろして逡巡しているシーン。子どもの未知の世界へ一歩を踏み出すことへの不安な気持ち、たいへんさが、あの長い階段によってよく表現されていたと思う。

 次に、千尋を”偉い”と思ったところをふたつあげておきたいと思う。
 まず、”オクサレさま(実は川の神様)”を”大湯”へ案内して、リンに言われて、番台へ薬湯の札を取りに行ったあと、カオナシがさらにどっさりの札を千尋に差し出した時の千尋、

 「そんなにいらない。」
 
 「だめよ!ひとつでいいの。」

  と言って、余分にくれようとするカオナシを、たしなめながら毅然と断ったところ。これは、大人だといらないとわかっていても、面倒くさいからもらっておこうか、などと言ってしまいそう。

 そして、もうひとつ、みんなが金を欲しがってカオナシにむらがっている時、ひとり千尋だけが、彼女に金をさしだすカオナシに、「 いらない、ほしくない ! 」と言うところ。このふたつの場面は、千尋が持っている本能的な賢さ、聡明さを感じさせる。そして、両親が”神様の食べ物”を無頓着に食べて豚になってしまう場面でも、千尋はひとり直感的にあたりの異変に気づいて、食べ物に手をつけようとしない、という場面も、そういう彼女(子ども)の持つ聡明さ(直感の鋭さ)を感じさせた。そんな彼女の態度は、豚になった両親(大人たち)の鈍感さと好対照を見せていた。

ハリーと千尋~前思春期の子どもたち

2006-05-01 17:34:30 | 日記
 以前に「ハリーと千尋世代の子どもたち」(山中康裕著/朝日出版社)という”前思春期世代”の子どもたちを、「ハリー・ポッターと賢者の石」と「千と千尋の神隠し」というこの世代の子どもたちが主人公の、映画(原作)を引用しながら解説した本を興味深く読んだ。(著者の山中氏は京都大学教授)
 千尋が十歳、ハリーが十一歳という設定―この一歳の差は少女のほうが発育が少し早いからで、少年の十一歳と少女の十歳はほとんど同じ時期―思春期より前の前思春期という年代なのだそうです。
 そして、人間の発育史の中で著者が最も注目していた時期が、このふたつの映画に描かれている前思春期という時期だったのだそうです。そして、臨床医でもある著者が臨床の現場で出会ったちょうどその年齢の少年少女たちのことを、「哲学的、宗教的、実存的などという、そんなような形容詞を使ってしか表現できないくらい深い世界」「人間が到達しうる最高点に通底してしまう」「あるいはてっぺんに触れてしまう」、と表現しています。
 思春期、あるいは青年期というのは、人間が性の発達を受け入れて、子どもを産み、育て、動物としての機能を働かせる時期のための準備期間であり、「性もあり、精神もあり、悪もあり、善もありという形で対極する全部を治めた人間になるため」にある。そしてそのために、その時期には、「その他すべての精神機構が擾乱する」のだと。
 そして、前思春期のというのは、それを通る前のとても”純粋”な時期で、”清らか”ではあるが、「ある意味では透徹した冷たさとか、透徹した怖さがあり」、この時期のそのような性質に起因すると見られる(ここでは挙げませんが有名な)少年事件もあるのだそうです。

 高速道路を200キロでぶっ飛ばしている状態のイメージ―前思春期(同書54頁より)

 と表現されるように、ある意味でとても危険な時期でもある。だから”向こう側に行ってしまって帰ってこられなくならないための歯止め”が必要になる。それは、それ以前に「守り」があったかどうかなのだそうで、この「守りがある」とはどういうことかというと、それは、「小さいころの両親の守り」であったり、「社会的な守りがしっかり内化している」ことなどを意味しているのだそうですが、「結局、簡単に他者が侵入しなくて、しっかりと自分を持っているという意味」で、それに対して「守りが薄い」とどうなるかというと、「幽霊なり、暗闇なり、恐怖のイメージなり、不可思議なものの侵入を受けて、不安で不安でしょうがなく」なるのだそうです。(「守りが薄い」状態というのはある世代以降のひとにはかなり多く見かける特徴かもしれない。)
 では、そのような危機と隣り合わせている子どもたちとどう係わっていけばよいか?という問いに著者は、「子どもが目を光らせたものこそを大事にして」ちょっと引いて「見守る」ことのたいせつさをあげています。「見ていないから」子どもたちの危機にも気付かないんだと。本当に「見守る」ということはとても大変なことなのだと。

 一日のうちにわずか三十分でもいいから子どものほうに主体を置いた時間が持てるかどうかが問われているのです。(同書69頁より)

 前思春期とは、女の子は十歳から十二歳まで、男の子だと十一歳から十三歳までの一年か二年のほんの一瞬なのだけれど、「人間が最も輝く時期」でもあるので、「その時の子どもの目の輝きを、一生保てるようにしたら、生き生きとしたすばらしい社会ができる」のだとも述べられています。

 (私も、著者が出会ったこの時期の少年少女たちのような感受性が豊かな子どもではなかったのですが、この時代のことを思い出しても、「私の黄金時代だったなあ」と思ったりします。この時代の自分が一番輝いて生き生きしていたような気がしています。そのあとに来た思春期がかなり苦しい時期だったということもあると思いますが。)

 「千と千尋」に出て来る”ハク”という美少年について、ハクが何故”神様”という位置を取っているかについて、著者は、「それは恋以前だからなんです。すばらしい象徴的な男性として表現されるもので、生身の恋の対象としての男性じゃない」と説明されています。そして、千尋があの”異界”で気づいたハクへの愛は、「まだ恋愛対象としての愛じゃないのだけれど、ハクという、人間そのものへの愛と、自然そのものへの愛、ごく自然な愛情であって、大きな意味の「愛」」だと。千尋は、大きな「愛」に気づくとともに、「生きてる」ことのすばらしさに気づき、「生きて働くことのすばらしさ」に気づいて、こちらの世界に帰ってきたのだと。(千尋のハクへの愛は、ピアスの「トムは真夜中の庭で」の、トムがハティに抱いた愛に似ていると思いました。)
 だから、多くの作家たちが、異性への愛に移行する前の、こういう純粋で大きな「愛」を描くのに、この前思春期という時期を選んでいるのでしょう。
 そして、このふたつの作品とも、「全ての人が持っている内界に光を当てて、内界ときちっと向き合うと、あなたももういっぺん現実世界で生き直す力を見いだすことができますよ、と語っている」と。

 ”十歳”を描くことは即、人生を描くこと、そういえるのではないか。(「子どもの本のまなざし」清水真砂子著より)


 なお、この本(「ハリーと千尋世代の子どもたち」)では、「カオナシ」のこともくわしく語られていますし、”内界”と触れる他の方法として、内界に一番近いものとしての自然と触れ合うことの大切さなどが語られていますので、興味のあるかたは、読んでみてください。

 ※「ナルニア」の「さいごの戦い」についてココログに少し書いてますので、よかったら見てください。