あざみ野荘つれづれgooブログ

おもに、サッカー関連のコメントを掲載していきたいです。
’78年のW杯アルゼンチン大会以来のサッカーファンです。

太田光とビートたけし

2006-10-08 21:47:33 | 日記
 ふたりについて書く前に、最近美容院で見た雑誌「Cut」にジョニー・デップのインタビューが載っていて、ちらちらと読んだのですが、その中で―正確な言葉は覚えていないので大体ですが―「(過去の自分はこんなだったと語りながら、)悪はもう充分経験したので僕はもういい・・・」と言うようなことを言っていたのが印象に残っています。家族を持って変わったのだとも。それで思い出すのが、ずっと以前に、ジョン・レノンがまだ生きていたころ、ジョンとヨーコの生活について、ふたりが食べ物に凄く気を遣っていることなどが紹介されたりしていたのですが、そのころの知人が、「なんかこういうのって嫌!身体に悪いものも少しは食べたらって思う」とか言っていたのを思いだします。私は別に反論もしなかったんですが、ジョンとヨーコは別に気取ったスノビズムからそうしていたわけではなくて、たぶんいろいろなこれまでの”悪い”生活でボロボロになった身体を立て直すにはそうするしかなかったからそうしていたんじゃないかと私は思っていました。つまり、「身体に悪いものも食べれば」と言うひとのほうが、まだそこまで追い詰められてないと言う意味で健康的であると言えるのかもと思います。何より彼らは、ふたりの子どもが欲しかった(ヨーコは流産を何回もしたと聞きました)ので、そのためには、そうするしかなかったのだと思います。

 表題と話がそれてきましたので、本題に入りたいと思いますが、最近の太田光の活動がビートたけしと比較されたりしているみたいなので、さっき書いたこととも関連して私の印象を書きたいと思うのですが、太田光とビートたけしを比較して、どちらがより追い詰められているかというと、と言うか、ぎりぎりのところで発言しているかというと、私はそれは太田光の方だと思うのです。ビートたけしには、団塊の世代特有の胡散臭さというか、中途半端さというか、未だに肝心なところで”悪”に逃げてかっこつけてるところが、この世代のどうしようもなさだと思うし、マザコン少年の反抗から抜け出さない彼の限界だと思う。あの世代はなんだかんだ言って追い詰められてないし、ある意味日本を駄目にした世代であるとも言えるし、なんだかなあー、はっきり言ってはやく大人になって(もう還暦なんですが)、(ジョニー・デップのように)「もう悪はいい」と言ってもいいんじゃございません?と思うわけです。でも彼はどうしてもできない。てれるというか、太田光のようにかっこ悪く正論を語れない。そして、ヤボに見られることがいやだから、そういうひとを見ると、ついからかって茶々を入れてしまう。以前に藤原紀香がアフガニスタンの写真展を開いた時、「まさか第二の扇千景になりたいんじゃないでしょうね」とか言っていたのを思い出しますが、そういうところ。ヤボを極度に恐れるから、なんでもかんでも、こうやってからかってしまう。ヤボを攻撃する事で満足して、本当にたたかうべき相手を見失う。そして本音は、たまにぼそっと小さい声で言ったりする。そんな彼をカリスマ視して影響を受けた世代もそう。というか、劣化版の彼らには、隠している本音すらないから、そんなたけしの悪癖の方をただ真似しているだけなのだ。私は、ヤボを避けるあまり、悪ぶることに逃げこんでいるビートたけしより、口角泡を飛ばしてしゃべり続ける太田光のほうが好きだ。ぎりぎりという意味で。