読書と映画をめぐるプロムナード

読書、映画に関する感想、啓示を受けたこと、派生して考えたことなどを、勉強しながら綴っています。

煙管と法螺貝を愛した「小泉八雲」

2006-09-26 08:00:53 | Weblog
昨日読んだ「グレート・スモーカー」(祥伝社新書)中、「煙管を愛した人々」の中で小泉八雲が登場する。「八雲は仕事に集中しているときは、少しの音も嫌ったため、節子(妻)はじめ家の者は音を立てねようの気を遣っていたが、そんなときに突然『ボオー、ウオー』と法螺貝が鳴り響くのである。それも長い。八雲は法螺貝を吹くのが好きで、煙管の火が少しでも消えると、喜んですぐに吹くのである。いわば茶目っ気であろうか」。

日本を愛し、特に田舎を愛し、日本人の舶来思考を嫌い、特に洋服姿を嫌った八雲。日本に帰化までした八雲だけに、好きなたばこも日本式の煙管でという彼らしい。八雲が亡くなって102年。時代は「美しい日本」を標榜する首相を選ぼうとしている。八雲が愛した日本に近づけていきたいものだ。

小泉八雲(1850年6月27日-1904年9月26日)は、「大日本帝国に帰化したイギリス時代のアイルランド人の紀行文作家・随筆家・小説家・日本研究家。国籍を取得する前の彼の旧名はパトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)で、一般的に知られているラフカディオは、かれのミドルネームである(「ハーン」のところはよく「ヘルン」とも呼ばれていたが、これは来日したとき、かれのファミリーネーム「Hearn」を誰かが文字読み等で「ヘルン」と発音してしまったのが定着してしまったものである。ただ、妻の節子には「ハーン」と読むことを教えたことがある)」。

「なお名前の『八雲』は、一時期当人が島根県の松江市に在住していたことから、そこの旧国名(令制国)である出雲国にかかる枕詞の『八雲立つ』にちなむとされる。なお、彼が松江時代に居住していた住居は、1940年に国の史跡に指定されている。三男に画家の小泉清がいる」。(フリー百科事典)彼の日本人との出会いからの経歴を同事典で辿る。

·1879年、アイテム社の編集助手。食堂「不景気屋」を経営するも失敗。

·1882年、アイテム社退社、タイムズ・デモクラット社の文芸部長になる。この時期の彼の主な記事はニューオリンズのクレオール文化、ブードゥー教など

·1884年、大日本帝国、文部省の服部一三に会う。

·1887年~1889年、フランス領西インド諸島マルティニーク島に旅行。

·1889年、ニューヨークに帰る。

·1890年(明治23年)にハーバー・マガジンの通信員としてニューヨークからカナダのバンクーバに立ち寄り4月4日横浜港に着く。7月、島根県松江尋常中学校(現島根県立松江北高等学校)と松江師範学校(現島根大学)の英語教師に命じられ8月30日に松江到着。

·1891年(明治24年)1月、中学教頭西田千太郎のすすめで松江藩の士族小泉湊の娘小泉節子と結婚する。同じく旧松江藩士であった根岸干夫が簸川郡長となり、松江の根岸家が空き家となっていたので借用する(現・国指定史跡)。その年の11月、熊本市の第五高等学校(現熊本大学)(校長は嘉納治五郎)の英語教師。長男一雄誕生。

·1894年(明治27年)神戸クロニクル社に就職、神戸へ赴く。
·1896年、東京帝国大学文科の英文学講師、帰化し「小泉八雲」と名乗る。
·1897年、次男巌誕生。
·1899年、三男清誕生。

·1903年、東京帝国大学退職、長女寿々子誕生。

1904年3月、早稲田大学の講師を勤め、9月26日に狭心症により東京の自宅で亡くなった。享年54。ちなみに後任は夏目漱石である。贈従四位(1915年)。墓は東京の雑司ヶ谷墓地。


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