読書と映画をめぐるプロムナード

読書、映画に関する感想、啓示を受けたこと、派生して考えたことなどを、勉強しながら綴っています。

寺山修司と「あしたのジョー」と「サザエさん」

2007-01-10 05:00:17 | Weblog
私にとって寺山修司は短歌の歌人です。ちなに私の好きな短歌は有名なこの句。

古着屋の 古着のなかに 失踪し さよなら三角 またきて四角

もう一句好きな短歌がありましたが途中まででしかでてきません。彼ににはもう一句次のような短歌があります。

舐めて癒す ボクサーの傷 わかき傷 みゆけば 深夜の市電

彼の生涯をさらっと見ると、ボクシングへの情熱が見て取れます。彼は昭和22年(1947)に11歳でボクシングジムに通いだし、昭和33年(1958)22歳のときに賭博とボクシングに熱中したとあります。昭和36年(1961)25歳のときには、ファイティング原田と知り合い、ボクシング評論を書き始めたそうです。

そんなボクシング熱のためだったのか、あの「あしたのジョー」の作詞をしています。ジョーのライバルである力石徹が死んだ時に、実際に葬儀が執り行われたのは話題となりましたが、その葬儀を行ったのも寺山修司氏だったことは覚えていません。

「あしたのジョー」(作詞:寺山修司 作曲:八木正生 歌:尾藤イサオ)

同じくアニメでは、『家出のすすめ』(1972年)の中に「サザエさんの性生活」というエッセーがあるそうですが、まだ読んではいないのでこのエッセーについては語れませんが、是非読んでみたいものです。

寺山 修司(1935年(昭和10年)12月10日 - 1983年(昭和58年)5月4日)は日本の劇作家、詩人、作家、映画監督、競馬評論家など幅広い分野で活躍した。1956年(昭和41)31歳で横尾忠則、東由多可とともに演劇実験室「天井桟敷」旗揚げ。享年47。

寺山修司の残したものは数ありますが、その創造の源泉は彼の青森高校時代にあるのではないかと思います。バンドにうつつを抜かしていた自分の高校生時代を振り返ると、隔絶の感があります。

1951年(昭和26年/15才)
「東奥日報」に俳句を発表。青森県立青森高校に入学。新聞部、文芸部に参加。親友の京武久美の刺激により俳句を本格的に始める。吹田狐蓮主宰の「暖鳥句会」に出席、投句。高松五麗主宰の「寂光」に投句。「青森よみうり文芸」に投句。「東奥日報」に短歌「母逝く」を発表。

1952年(昭和27年/16才)
青森県高校文学部会議を組織。京武久美、近藤昭一(のちに自殺)、塩谷律子(のちに自殺)らと全国詩誌「魚類の薔薇」を編集発行。学生サークル「山彦俳句会」を創立。「青い森」を発行。県下高校生俳句会を主催。「青森よみうり文芸」「氷海」に投句。秋元不死が選。「七曜」に投句。橋本多佳子が選。

1953年(昭和28年/17才)
全国学生俳句会議を組織。俳句研究社の後援を得て、学生俳句大会を主催。前年と同じ句誌の他に「蛍雪時代」「浪漫飛行」「万禄」「断崖」などに投句。仏映画「肉体の悪魔」に感動。高校三年生の成績は、国語甲5、国語乙5、漢文4、世界史5、数学5、地学5、体育4、英語3。皆勤だったが、欠課は275時間もあった。この年、斉藤茂吉、釈迢空死去。(参考資料:文芸読本・ 寺山修司論・遊戯の人)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿