読書と映画をめぐるプロムナード

読書、映画に関する感想、啓示を受けたこと、派生して考えたことなどを、勉強しながら綴っています。

日本音楽市場形成期の秘話が満載、「熱狂の仕掛け人」(湯川れい子著/小学館)

2008-07-13 11:28:37 | 本;ノンフィクション一般
~ビートルズから浜崎あゆみまで、音楽業界を創ったスーパースター列伝~

[目次];
永島達司―ビートルズを日本に呼んだ男。プロモート界最初で最後のスーパースター&アンバサダー(大使);
渡辺美佐―ロカビリー・ブームを巻き起こしたナベプロ帝国の女帝;
草野昌一―「ミュージック・ライフ」誌創始者。400曲の超ヒット・メーカー、漣健児とは;
堀威夫―1部上場のプロダクション「ホリプロ」を作った元エレキ・ギターの名手でバンドマン;
横山東洋夫―音楽業界さすらいの一匹狼。伝説の最後の最後の“呼び屋”;
依田巽―音楽業界のデュプロマ(外交官)にしてスーパー・ビジネスマン

本書には戦後日本の音楽シーンが形作られてきた歴史、秘話が満載です。湯川さんは「はじめに」で次のように語っています。

「何万年もの昔から、世界中のすべての宗教に、歌と踊りがつきものであったように、音とリズムは私たちの心臓の鼓動や、わらゆるいのちと物体、現象が発する波動と密接に関係し、影響しあいながら存在しているからで、人類が存続する限り、音楽は常に人々に夢と喜びを与える商品としての価値を持ち続けることでしょう。この本は、そんな音楽を心から愛し、仲間たちの夢を実現しようと楽しみながらも、しゃにむに生きた先輩たちの物語です」

昨年12月12日付の記事「『仕事』を極めた9人の伝説、『サービスの達人たち』(野地秩嘉著/新潮OH文庫)」で取り上げた野地さんの本で、「怪物」と呼ばれた興業師・康芳夫さんのことを知り、その康さんの師匠に当たる神彰さんのことを、今年6月5日付の記事「戦後日本に幻を魅せた、『虚業成れり~「呼び屋」神彰の生涯~』(大島幹雄著/岩波書店)」で読んで知りました。この二つの本でともに「呼び屋」から「プローモーター」に変えた人物として紹介されていたのが、永島達司さんでした。永島さんについては、私はまだ読んでいませんが、これも野地さんが「ビートルズを呼んだ男―伝説の呼び屋・永島達司の生涯」 野地秩嘉/幻冬舎文庫)として書かれています。

永島達司、1926年4月26日-1999年5月2日。神奈川県保土ヶ谷生まれ。父親は三菱銀行重役。早稲田大学法学部卒業。日本初のプロモーター。㈱キョード東京設立者。享年73。永島さんについては、詳しいプロフィールで公開されたものが見当たらないため、永島さんの最大の仕事となったビートルズの招聘についてまとめてあるJazzy-Misakiさんのブログ「日本史探求」の2005年4/11の記事「「ビートルズがやってきた」から引用させてもらいます。(http://j-history.cocolog-nifty.com/misakijapanhistory/cat2861978/)

~当時興行は不可能と言われたビートルズを日本に呼び、来日公演を仕切った伝説の男の話をさせてもらいます。1960年代半ばに登場し、世界のミュージックチャートを席巻したイギリスのロックグループ、それが「ビートルズ」です。まあこんな説明は音楽を愛する人また志す人から言わせれば「説明不要」でしょうね。そのビートルズが来日してコンサートをするという噂が1965年ぐらいから国内を賑わします。そしてその話を現実のものにしようと立ち上がった男がいました。男の名は永島達司。共同企画(現キョードー東京)というプロモーション会社の40歳の青年社長です。

1966年、永島のもとに一本の電話が入りました。相手の名はビック・ルイス。ビートルズの辣腕マネージャーで知られるブライアン・エプスタインのパートナーでもあるルイスからの電話、何かビートルズに関する話だと確信した永島はその電話に出てみるとルイスから「ビートルズが日本に行きたがっている。お前がやってくれ。」との事。当時の日本は現在と違い外貨を勝手に使用できない実情があり、ビートルズを呼ぶには相当な金額が必要だったのです。不安になった永島はその事をルイスに告げると「絶対に損はさせない!」と言われます。ただどうしても不安を拭えない永島は要請を断ろうとしましたがエプスタインから直接交渉を求められ渡英します。そして交渉の結果1966年4月5日来日興行を決意するのでした。永島一世一代の大勝負が始まります。

興行にはプローモーション会社以外にも主催してくれる企業が必要です。それには読売新聞社が求めに応じ、4月27日ついにビートルズ来日が公式に発表されました。日本のビートルズファンが夢にまで見た来日公演が現実となったのです。これは以前にその誠実な対応や堪能な英語を駆使しナットキング・コールなど大物ミュージシャンを呼び、興行を成功させているプロモーター永島に対してビートルズサイドが全幅の信頼を置いた結果とも言えるでしょう。

しかしビートルズ来日に関しては異論が絶えませんでした。主催の読売新聞社主の正力松太郎が「ベートルズとか言う連中に武道館は使わせん!」と発言すれば、細川隆元(細川隆一郎の叔父)は「乞食芸人に武道館を使用させるな!」と言う始末・・・。このような国内の反応に永島も苦慮し、使用問題解決のためエプスタインのいるニューヨークへ渡ります。そして協議を重ねた結果「女王から勲章(ビートルズはMBE勲章「メンバーズ・オブ・ブリティシュ・エンパイア」を授かっている)を授けられた英国の国民的音楽使節に武道館使用を許可する。」という武道館理事長の声明により事態の収拾を図ったのです。

そして1966年6月30日ビートルズが来日します。台風4号が去った直後の来日となったため、この来日を「ビートルズ台風上陸」とメディアは伝えたようです。永島と共同企画の社員たちはメンバーの移動やスケジュールを管理するため精一杯働きました。そして戒厳令が布かれた武道館においてコンサートがおこなわれます。会場はすさまじい声援と歓声で当時の音響設備では満足に音楽を聴くことは出来なかったでしょう。そして4日間日本に滞在したビートルズは7月3日に離日。日本におけるビートルズ狂騒曲は幕を閉じたのでした。永島はプロモーターとして永遠に語り継がれる仕事を成し遂げました。彼がこの日本にいなければこの「ビートルズ来日」は夢物語に終わっていたのかもしれませんね。~


渡邊 美佐(わたなべみさ、1928年9月25日-)は、「株式会社渡辺プロダクション代表取締役会長、渡辺プロダクショングループ代表・芸能プロモーター。1955年、夫の渡辺晋前社長と共に「渡辺プロダクション」を設立、ショービジネスの世界に近代化をもたらす。テレビ創世期の「シャボン玉ホリデー」は有名。また1958年の日劇ウエスタン・カーニバルなどを手がけ、マダム・ロカビリーの異名をとった戦後のショービジネスのリーダー的存在。曲直瀬正雄・花子夫妻の長女として横浜市に生まれ4人の妹、2人の弟がいる」。

「横浜市の青木小学校からミッション系の捜真女学校に入学。1945年宮城県登米郡登米町に疎開し、仙台市のミッションスクール・宮城女学校に転入し、ここから東京都の日本女子大学英文科に入学する。1946年、母花子が仙台駐留のアメリカ軍基地に通訳として採用され、両親は仙台にマナセプロダクションの前身であるオリエンタル芸能社を設立する。学生時代より、アルバイトで学生バンドの通訳兼マネージャーをやり、主に進駐軍の王子キャンプに出入りする」。

「この頃、ジャズバンド・シックスジョーズのマネージメントを引き受け、リーダーで後に夫となる晋と知り合う。晋と美佐は、ショービジネスの世界を合理化・近代化し、日本の音楽とミュージシャンをレベルアップさせ国際的に通用するものにとのテーマのもと、1955年1月、渡辺プロを発足させ、同年3月に結婚。長女の渡辺ミキは、ワタナベエンターテインメント社長、渡辺プロダクション副社長。次女の渡辺万由美はトップコート社長。フジテレビジョン編成制作局バラエティ制作センター部長の吉田正樹はミキの夫」。


漣 健児(さざなみけんじ、本名草野 昌一、1931年2月4日- 2005年6月6日)は、「日本を代表する訳詞家。別名義に新田 宣夫がある。代表的なものに坂本九の『ステキなタイミング』やナット・キング・コールの『L-O-V-E』、中尾ミエの『可愛いベイビー』、『赤鼻のトナカイ』などがある。シンコー・ミュージック・エンタテイメントの前身、新興音楽出版社の創業者でもある。ホワイトハウスに招待された唯一の日本人音楽家である。実弟の草野浩二は、東芝EMIの名物ディレクターである」。


堀 威夫(ほり たけお、1932年10月15日-)は「日本の実業家。ホリプロ創業者、取締役ファウンダー。芸能プロモーター。息子は同社代表取締役副会長の堀一貴と現社長の堀義貴。和田アキ子、榊原郁恵、片平なぎさらを育て上げ、ホリプロスカウトキャラバンで多くのスターを輩出した」。

「浅野学園時代からサークルでバンド活動に勤しみ明大時代は小坂一也、井原高忠等とともに学生バンドワゴン・マスターズに加入しギタリストとして活躍し1955年(昭和30年) 明治大学商学部卒業の1956年(昭和31年)スウィング・ウエストを結成し、リーダーとなる。1960年(昭和35年) スウィング・ウエスト退団後東洋企画を設立し専務に就任するも内紛で追放され後に有限会社堀プロダクションを設立、代表取締役に就任する。1963年(昭和38年)株式会社ホリプロダクションに社名変更し株式会社化、代表取締役社長に就任する。1984年(昭和59年)には同社代表取締役会長に就任。1990年(平成2年)社名をホリプロに社名変更」。

「芸能界の一般企業化を進めた先駆者でもある。きっかけは、息子の一貴の小学校受験にて、面接で親の職業について答えた際の面接官の妙な反応だった。この出来事をきっかけに、「芸能界をヤクザな虚業でなく一般企業として社会に認めさせたい。その為には株式を店頭公開して経営の透明度を上げるしかない」という目標の下経営の健全化を進め、1989年に業界初の株式公開を果たし、1997年には東証2部上場、2002年9月には東証1部上場を果たした。更には日本経団連の加入も成し遂げた」。

「また、1981年から繰り返し上演されている『ピーターパン』の上演を発案した。当初は『ピーターパン』のみの製作にとどまっていたが、舞台作品の製作を広く手がけるようになった。2002年(平成14年)会長職を退任し、取締役ファウンダーに就任。2003年(平成15年) 大英帝国勲章(CBE=三等勲章)を授与される」。


横山東洋夫(とよお)は、「株式会社ユニバーサルコミュニケーションズ代表取締役、株式会社ユニバーサルオリエントプロモーション取締役会長。日大付属豊山(ぶざん)夜間定時制高校中退。運送会社、花屋の店員、製本会社の工員、パン工場など『強盗と乞食以外はなんでもやった』」。

「1963年、呼び屋の草分け的存在である樋口久人氏が主宰する『ワールド・ワイド・オートレース・アソシエーション』(旧スワン・プロモーション)に入社。1967年、ユニバーサルオリエントプロモーションズ設立。代表取締役に就任。1970年、株式会社ユニバーサルコミュニケーションズ設立。代表取締役に就任」。詳細は、「パイドルスピアレコード」サイトで。
(http://www.peidollspear.com/yokoyamatoyoo.html)

招聘したミュージシャン;ボブ・マーリー、マーヴィン・ゲイ、Tレックス、ディオンヌ・ワーウィック、グレン・キャンベル、ポール・アンカ、コモドアーズ、ロリー・ギャラガー、ジェフ・ベック、ジェームズ・ブラウン、サラ・ヴォーン、エラ・フィッツジェラルド、STUFFなど。


「スター・ウォーズ」シリーズの新3部作「エピソード2/クローンの攻撃」と「エピソード3/シスの復讐」の間に位置する"クローン戦争"を描いた長編3Dアニメーションが今夏公開されるということで話題になっていますが、この映画の登場人物「ヨーダ」のモデルと言われているのが、溝口健二監督のほとんどの脚本を手がけた大阪芸術大学元映像学科長の故依田義賢さんと元エイベックス元会長の依田巽さんです。

1977年依田が付き合っていたロス・アンゼルスの大手ステレオ店の店長の従姉妹が、「スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲」の制作陣でキャラクター設定にかかわっていた。彼女が「ヨダという名前のキャラクターをスター・ウォーズに使ってみては」と提案し、ヨーダという名前はそのままで、キャラクターの顔も、依田の顔に似せて制作され、ヨーダの原型になったという噂。この点について、ご本人が次のように語っています。

「僕は1975年から4年間、ロス・アンゼルスで山水電気(音響機器メーカー)の支店長をやっていたんです、自分の足でお店を回って営業やってたんですよ、それでお店のオーナーともたくさん友達になって。そんな一軒にユニバーシティ・ステレオというオーディオ店があって、そこの副社長のガールフレンドがとてもチャーミングな女性なんですが、YODA、YODAと僕を呼んでみんなで仲良く遊んでいたんですよ」。

「そして、ディーラー招待で彼らが東京に来た時にね、彼女がみんなの前で、“今度「スター・ウォーズ」の配役で、絶対にわたしはYODAを勧めるわ、見ていてごらんなさん、必ずYODAが出てくるから”と。それで’80年の暮れに『帝国の逆襲』が公開された時に、みんな“ああ、まさしくYODAだ”と。僕は向こうの人たちにはトム・ヨーダと呼ばれていましたし、当時は笑うと、確かにああいう顔をしていましたしね」

依田 巽(よだ たつみ、Tom Yoda、1940年5月27日-)は、「日本の実業家で、ドリーミュージック代表取締役会長、エイベックス元会長。元日本レコード協会(RIAJ)会長、元音楽産業・文化振興財団理事長。業界、政界や海外への強い影響力を持っていることから『音楽業界のビル・ゲイツ』とも呼ばれる。エイベックスの同じく創業者である松浦勝人との経営方針の確執が深刻化、2004年8月3日付けで会長兼社長を辞任。同日、日本レコード協会の会長も辞任し、エイベックス名誉会長に(2004年中に退任)。六本木・ベルファーレの出資者」。(ウィキペディア)



<備忘録>
永島達司;「ラテン・クウォーター」(P18)、「力道山、アロンゾ・B・シャタック(CID)、テッド・ルーウィン」(P「樋口久人」((P26)、「ジェリー・ペレンチオ」(P43)、「樋口玖(ひさし)、スワン・プロモーション」(P46)、「ヴィック・ルイス」(P48)、「ビートルズ来日の真相」(P49~50)、「CD一枚での収入構成」(P51~52)、「リー・イーストマン」(P52)、「権利の問題」(P59)、「エルヴィス・プレスリーが日本に来なかったわけ。密入国だったマネージャー、トム・パーカー」(P68~72)、「レッド・ツェッペリンの来日騒動」(P76)

渡辺美佐;「ラルフ円福、ポールエンプク」、「有働誠次郎、シックス・ジョーズ」、「ナベプロの目標」(P96)、「第一回ウエスタン・カーニバル」(P97)、「ナベプロのビジネス・モデル」(P112)

草野昌一;「日本で最初のピアノ」(P131)、「藤沢嵐子(らんこ)、ナンシー梅木」(P136)、「訳詞と作詞家」(P149)、「スキヤキのヒット秘話」(P154)、「原盤制作のレコード第一号、『スーダラ節』」(P165)、「『涙の太陽』の発売秘話」(P166)、「ビートルズの高嶋」(P160)

堀威夫;「ウエスタン・カーニバル」(P210)、「アンバサダー、優れた業界人」(P228~229)、
「堀プロの上場」(P236)、「CMマンダムの制作秘話」(P241)、

横山東洋夫;「久保正雄」(P252)、「呼び屋とプロモーター」(P253)、「ローリング・ストーンズの来日中止」(P256)、「ボブ・マーリーの奇跡的な来日秘話」(P260)

依田巽;「エイベックス設立秘話」(P266)、「ユーロビート、テクノハウス」(P272)、「ブリトニー・スピアーズ」(P276)、「CCCD」(P284)、


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1 コメント

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新明治維新とことんやれ (グローバル・サムライ)
2024-03-02 21:21:56
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタインの理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズムは人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。ひるがえって考えてみると日本らしさというか多神教的な魂の根源に関わるような話にも思える。
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