歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

乙鶴丸をめぐって

2014年03月01日 | 古典をぶらぶら
『徒然草』の、こないだ書いた「猫また」の次の段が第九十段です。「猫また」の第八十九段とは、「暗いせいで相手の正体が分からなかった」という点が同じで、つながっている。しかし、この段を高校までに学校で読んだという人はいないはず。男色の話だから。これは短い段なので、せっかくですから岩波文庫で全文を引きますよ。
大納言法印の召使ひし乙鶴丸、やすら殿といふ者を知りて、常に行き通ひしに、或時出でて帰り来たるを、法印、「いづくへ行きつるぞ」と問ひしかば、「やすら殿のがり罷りて候ふ」と言ふ。「そのやすら殿は、男か法師か」とまた問はれて、袖掻き合せて、「いかゞ候ふらん。頭をば見候はず」と答へ申しき。
などか、頭ばかりの見えざりけん。

いちおうこの話のキモは、大納言法印に「そのやすら殿というのは在俗の男か、法師か」と問われた乙鶴丸が「さあ。頭は見ておりません」て答えた、ってところでしょう。

気になるのは例の直接経験の助動詞「き」が使われていることですね。前段、「猫また」の第八十九段には「き」は使われていなかった。

この乙鶴丸の話を読んで、われわれは、今ひとつ食い足りない、なにか説明不足なような読後感をもつのではないでしょうか。それはやはり兼好の責任なのであって、大納言法印も乙鶴丸も、兼好にしてみれば直接の顔見知りだったせいで、「猫また」のときのような、ネタの客観視が足りなかったんだろうと思います。

この「乙鶴丸」「大納言法印」「やすら殿」というのはそれぞれ何者なのか。直近の研究動向については知らないんですが、まだ断定されてはいないと思いますよ。ただ「やすら殿」については、滋賀県に「安羅神社」というのがあり、また兵庫の出石には「安良」という地名があるそうで、漢字を宛てるとこのどちらかになるんでしょうかね。ちなみに岩波文庫『徒然草』の校注者は安良岡さんという方。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿