歌わない時間

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ちくま日本文学『谷崎潤一郎』

2010年01月21日 | 本とか雑誌とか
ちくま日本文学『谷崎潤一郎』読了。「刺青」「秘密」「母を恋うる記」「友田と松永の話」「吉野葛」「春琴抄」「文章読本(抄)」。はづかしながら谷崎潤一郎をこれだけまとめて読んだのははじめて。谷崎という人は、題材はドロドロでも文体は非常に明晰ですね。横文字に訳すとしたら志賀なんかよりよほど訳しやすいのでは、と感じました。

まづ気になること。このちくま日本文学の『谷崎潤一郎』の本文では、改段のため改行しても、新しい行の冒頭一字分をあけないで、すべて行頭から詰めて組んである。谷崎潤一郎は、行頭から詰めて書く人なのですかね。ほかの、新潮文庫ではどうなっているのか調べてないのでアレなんですが。

いちばん面白く読んだのが「友田と松永の話」。ジキル・ハイドもの。谷崎潤一郎が探偵小説に興味をもっていたというのは確か川本三郎の本で読んだことがあった。「秘密」にもそういう気配は濃厚ですが、この「友田と松永の話」は最初に謎が設定されて最後に真相が明かされる、という意味でまさに〈探偵〉小説になっている。失踪した松永儀助の妻の手紙で松永の失踪のてんまつが語られるという設定がミステリアスな雰囲気をもりあげる。この手紙の扱いようによっては、かのロバート・ゴダードのようにいくらでも謎を深められるなあと思いました。

「吉野葛」。「友田と松永の話」とはうって変わって、実におだやかで奥がふかい小説。中世以来の後南朝伝説やら浄瑠璃やらを背景にして、母恋いを語り、若いふたりの結婚を語る。相変らず文体は明晰。これはいい小説だなあ。

「春琴抄」は句読点を周到に抜き去った独特の表記によって盲人の春琴と彼女に奉仕する佐助との閉ざされた世界をめんめんと描き切っている。それは分かるけれども、予想通りわたしはすこしも心動きませんでした。ヤな女ぢゃん春琴て。佐助がただただ可哀そう。っていうか共感できない。のに、なぜか、ああやっぱこの小説、傑作なのかなあと思ってしまうのはやはり筆力か。佐助が黒目を突くところは読み飛ばしたよ恐くて。余談ながらこれは百恵・友和で映画になっちゃってるんですよね。さぞかし清らかな純愛映画に仕立ててあるんだろうね。

「春琴抄」に「渓流の響の潺湲[せんかん]たるも尾の上の桜の靉靆[あいたい]たるもことごとく心眼心耳に浮び来り」(p.346)とある。「靉靆」というこのことば。どこかで見たことがある。それは頭ではなく目が憶えている感じ。もしかしたら「潺湲」のほうも眼にした経験はあるのかもしれないけどこれはぜんぜん憶えがない。「靉靆」についてちくまの注は「雲のように厚くたなびくようす。」という。

「文章読本(抄)」に『太平記』『更級日記』『源氏物語』など明治以前の古典の引用があるのですが、そういうのまで新カナにしちゃってる。ふつうこういう古典の引用は文庫本でも旧カナで表記しますよね。新カナになってるのを見て最初「えっ?」と思ったけど、しかしね、読んでみるとさほどの違和感はなかったです。われわれはふつう古典を歴史的仮名遣いに調整された本文で見ていますが、元の「原稿」を見てみると、筆で書かれたむかしの人の表記は歴史的仮名遣いに従ってなんかないんですよね。