荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

9月場所千秋楽翌日の国技館界隈

2020年09月29日 | 散文

全く人通りが無いです。あの鮮やかな力士幟もさっさと撤去されています。

 

番付看板も撤去されました。正代の優勝で9月場所の幕が下りました。

 

皮肉なことに、このポスターに優勝力士は居ません。

 

国技館の入り口です。

 

柵から覗きます。闘いの跡はいつも寂しいです。

 

千秋楽のスケジュールが残っています。残された者の感情を置いてきぼりにして時は先を急ぎます。

 

両国駅にも人が居ません。電車がやって来て出て行きます。

 

国技館が残されます。

 

両国の歩道に力士像があります。

 

古代、大きな相撲取りは神の化身でした。お腹を撫でて行きます。

 

大鵬の手形がかすれています。

 

彼は昭和の少年の神でした。

 

春日野部屋です。

 

相撲協会理事長を排出した部屋です。

 

部屋を見上げます。青空にこの存在感で聳えます。

何はともあれ、開催中にコロナ感染も起こらず無事に興行を終えた安堵感があります。

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正代が優勝した翌日の時津風部屋周辺の風景

2020年09月29日 | 散文

9月場所で正代が優勝しました。部屋は何の変化もありません。

 

勝手口を通過すると本所松坂公園に行き当たります。秋の陽射しを受け白壁に囲まれた小さな公園です。「本所松坂町」の町名は無くなっていて、この公園に残っているのみです。

 

ここが吉良邸跡です。

 

門の正面には、吉良上野介像が鎮座しています。

 

雲一つない空からの光が濃い影を落とします。永い歴史を連想させます。

 

「足利が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」との言が残る、源氏の名家です。空が抜けます。

 

時津風部屋に戻って来ました。この通りの向こうに工事中の建物が見えます。

 

秋の陽射しが涼やかに、明るい空の下は両国小学校です。

 

芥川龍之介文学碑です。鏡のように磨かれた石碑が両国の路地を映します。説明版を読みます。 「芥川龍之介は、明治二十九年(1892)三月一日、東京市京橋区入船町に新原敬三、ふくの長男として生まれました。辰年辰の日辰の刻に生まれたのにちなんで龍之介と命名されました。生後七ヶ月の時、母ふくが突然発病したために、本所区小泉町十五番地(現両国三丁目)に住んでいたふくの長兄芥川道章に引き取られ、十三歳の時芥川家の養子となりました。 芥川家は旧幕臣で江戸時代からの名家で、道章は教養趣味が深く、文学、美術を好み、俳句や盆栽に親しむとともに南画をたしなみ、一家をあげて一中節を習い、歌舞伎を見物するなど江戸趣味豊かな家庭でした。本所は龍之介の幼児時から少年期までの大事な時期を育んだ場所で『大導寺信輔の半生』『本所両国』などの作品にその一端を見ることが出来ます。

龍之介は明治三十一年回向院に隣接する江東尋常小学校附属幼稚園に入園、翌年同小学校(現両国小学校)に入学しました。明治三十八年(1905)府立第三中学校(現両国高等学校)に入学、同四十三年成績優秀により無試験で第一高等学校第一部乙類に入学しました。その後大正二年東京帝国大学英文科に入学、同五年卒業しました。東大在学中、夏目漱石の門に入り同人雑誌『新思潮』『新小説』に優れた短編を発表して文壇に華やかに登場しました。 この文学碑は龍之介の代表作の一つである『杜子春』の一節を引用したものです。この両国の地に生育し、両国小学校で学んだ近代日本を代表する作家、芥川龍之介の人生観を学び、氏の文才を偲ぶものとして両国小学校創立百五十周年の記念事業として、平成二年十月に設立されたものです。」

こんな場所に時津風部屋は在ります。芥川龍之介の幼少期をもう少し知りたい方はこちら

コメント (7)
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