荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

おかず横町/2017年7月

2017年07月31日 | 散文
鳥越のおかず横丁です。


商店街を徃きます。










不安になって振り返ります。






終点です。


もう一度振り返ります。


暑いからか?
人が居ない。
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とんかつ百万石の焼滅

2017年07月31日 | 散文
久し振りに柳橋に来たので、あの店でトンカツを食べようと思います。
昭和初期の建物で、中庭がある老舗店です。
えッ!!
店にシートが掛かっていて、2階がありません。




シートに張り紙がありました。


どうしたんだろう?
店内を覗きます。


手前にカウンター席と小上りがありました。


どうやら火災があったようです。


空が見えます。
正面の戸の向こうに小意気な中庭があって、その奥に座敷がありました。


ショックです。
2階があった空間が寂しい・・・。


でも、材木が運び込まれています。
復活の気配です。
頑張れ!
10月の再開時にはカキフライを食べに来ます。


在りし日の百万石を惜しみます。




店内にガラス戸があって、


その奥に座敷がありました。

粋な店の早期の復活を望みます。
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「桜井の史跡と伝説」-13/世田山(世田城)

2017年07月30日 | 散文


13.世田山(世田城)
後村上天皇の興国三年四月(1342)新田義貞の弟脇屋義助が四国官軍の総領の大任を帯びて伊予に下向、四月二十三日今治の港に上陸して直ちに国府に入ったが永の心労と疲れのため病気となり、五月十一日悲しくも36才を以って遂に帰らぬ人となった。
脇屋義助死亡のことを知った北朝方の讃岐細川頼春は、その軍兵七千余騎を従えて伊予に侵入し、南朝方の土居三郎左衛門儀昌の守る川之江城を攻めて之を敗りその勢いに乗じて周桑郡の世田城に向かった。


官軍(南朝方)の金谷修理太夫経氏は、兵三百を率いて壬生川に上陸して細川の大軍と千町ヶ原で戦った。
家来達は次々に討死し、わずか十七騎となりましたが、みな一騎当千の武士で金谷経氏、河野備前守通郷、得能弾正日吉、大蔵左衛門、杉原与一、宮田六郎、高市与三衛門、土居備中守浅海六郎等は、ここを先途と戦ったが、敗退して引揚げた。

これを千町ヶ原の戦いという。

この戦いに勝った細川軍は8月24日、大舘氏明の守る世田城に攻め入ったのであります。大舘氏明はもともと新田氏の一族で、伊予の国司四条有資と共に伊予の守護として来任したのでありました。
細川頼春は手兵を七手に分けて世田城の峰に攻め登り四方より激しく攻めたてた。9月3日の暁、大舘左馬之助主従十七騎一の木戸口へ打出て、堀に著たる敵五百余人を、遥か麓へ追下し、一度に腹を切り枕を並べて討死した。


これをみた兵士達も敵と刺し違えたり、砦に火をかけて、火の中に入って死ぬるものもあり、目もあてられぬ惨状であったといいます。

この九月三日は千町ヶ原合戦で世田城落城は十月十九日であることは、敵方小早川氏平の軍忠状によって明らかです。



<筆者>
随分な思い入れの余り、後半、世田城の戦いと千町ヶ原の戦いが混同した文章になって、最後にその事に気づいて追記訂正しています。
文章全体を訂正していないのは、作成を急ぐ余りの事でしょうか?

作者は太平記に残るこの戦いを書き残しておきたかったのでしょうが、上記冒頭の「国府」以外は桜井地区ではありません。
以下度々登場させている世田山に関する話も当然桜井以外の土地の出来事です。
よっぽど「世田山」に思い入れがあったものと推察します。


よろしければ下の紹介記事をゆっくり読んでください。
当分次の投稿はありません。

故郷は「世田山の戦い」の地ー1

故郷は「世田山の戦い」の地ー2

故郷は「世田山の戦い」の地ー3


故郷は「世田山の戦い」の地ー最終回

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柳橋の風情/2017年7月

2017年07月30日 | 散文
柳橋は神田川に架かっています。
その橋の袂には船宿があります。


小松屋です。


東京にあってこの風情が好きです。




神田川の上流側です。


ここ柳橋は料亭で栄えた街です。
橋の欄干には柳橋芸者のかんざしがデザインされています。




神田川の下流です。
この橋を過ぎると隅田川に合流して神田川が終わります。


橋の反対側にも「小松屋」があります。


つまり、柳橋の両岸に「小松屋」があるのです。




こちらは佃煮屋です。


佃煮屋を正面から見ます。
橋名の柳が今、夏景色です。






街は飲食店が多くあります。


橋の欄干に残るかんざしが示すように、ここは昔の花街です。
街に少しだけその名残りがあります。


黒板塀の料亭です。




江戸の気風が真夏日に佇んでいます。


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藝「大」コレクション「パンドラの箱が開いた!」展

2017年07月29日 | 散文
暑さが戻った東京です。
木陰に逃げました。


昼下がりの太陽が照り付けます。


強い陽射しが濃い影を落とす木陰の先で、看板が光っています。


涼を求めて東京芸大美術館へ逃げ込みます。
奇抜なタイトルですが、この学校には大コレクションがあります。

(この展覧会は2回に分けて開催されます。入場料は1回800円ですが、この2回券を買うと、1300円とお得です。チケットの下が1回目、上が2回目券です。)

岡倉天心を初めとする教授陣の作品だけでなく、村上隆等々の卒業作品が全て保管されているのですから、その数たるや膨「大」であり、中身は「パンドラの箱」なのでしょう。


チケット売り場横には、美術の教科書で見た、高橋由一の「鮭」があります。当然、この絵も展示されていました。

この立ち位置マークは何!?不明です。

芸大は、もう一度観たい作品を沢山保有しています。
黒田清輝の「湖畔」や「智」「感」「情」の三部作であったり、上村松園の「序の舞」であったりします。
この季節に観たいのは、小倉遊亀の「径(みち)」です。
やっぱり展示されていました!
数年振りに遭えました。

母と小さな娘と愛犬の歩く姿です。
三角の安定した構図の右に青を穿いて動きを出しています。
今時分の昼下がりでしょうか、その姿に影はありません。
陽射しを受けて実物より白く映る日傘と服と、母のサンダルと娘の靴が時間帯を教えています。
先頭を行く母の重心はまだ右足に残っていて、左足の親指がまだ反っている、着地の瞬間を捉えています。
娘の歩幅に気遣いながら歩む母の歩調に、頭上に両手で捧げた黄色い日傘に赤い信玄袋をぶら下げて、娘がついて行きます。その後ろを愛犬が歩みます。

母の手提げは竹と網製の籠です。
恐らく実物より大きく描いていて、白っぽい画面の中で、黒い籠が目を引きます。
籠の中には季節の草花が、まだ瑞々しいです。
お盆のお墓参りでしょうか?
オカッパに刈り上げられた娘の幼いうなじが健気です。
作者の対象に注ぐ愛が溢れたこの作品が好きです。

帰りにこのポストカードを買ってしまいました。
暑中見舞いは誰に出しましょう?


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不忍池の蓮

2017年07月29日 | 散文
不忍池の蓮が最盛期を迎えています。


池を埋め尽くす蓮の海です。


こんなに広大な蓮池を他に知りません。


花も見頃です。


遠く浮見堂を望みます。


花見客もこのとおり。





見頃ですよ!
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三菱1号館の中庭

2017年07月28日 | 散文
美術館を出て中庭へ行きます。


店の灯が濃くなって来ました。




涼を求め寛いでいます。




都心のオアシスです。
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涼を求めてレオナルド・ダ・ヴィンチ×ミケランジェロ展へ。

2017年07月28日 | 散文
暑い日は美術館に限ります。
涼しいし、静かだし・・・。


移動時に見る階段風景が好いです。


外光を計算し尽くした、透かし階段と手摺りのシルエットが美しいです。






窓のシルエットも好いです。


さて展示品ですが、素描が中心なので、私的にはあまり面白くありませんでした。
撮影OKのコーナーがあります。
左側がダ・ヴィンチです。


そして、最後の部屋にミケランジェロの大理石像があります。
右手の十字架や海綿や、左手の布は彼の作品といわれています。
脱ぎ捨てた布は「復活」の象徴です。
胴部と脚部と左手と頭部がミケランジェロの手になるものです。
・・・この像は作品になりませんでした。


この像は注文主の遺族に引き取られ、邸宅の庭に設置した後、貴族の没落時に競売にかけられやがて行方不明になりました。
西暦2000年、研究者がローマ近郊の修道院にあった像がこの未完の彫像と同定しました。
17世紀に、ミケランジェロとは別の彫刻家が背中部分を仕上たといいます。
正面と比較できるのが鑑賞者冥利ですが、私にはさっぱり作風の違いが分かりません。


さて、どうして作品にならなかったのか?
顔を掘り出した時、頬に黒い石の模様が出てしまいました。
彫ってみないと分からないとはいえ、さぞかし無念だったと思います。
それでもくじけずに、もう一つの石に挑んで、6年後に完成させたて件の貴族に納品したらしい。
芸術家の執念はすざまじい!
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「桜井の史跡と伝説」-12/蛇池の湿地植物

2017年07月27日 | 散文


12.蛇池の湿地植物







医王池の東側湿地帯約50アールには、サギソウを主とする、アオトンボ等の蘭科、モウゼンゴケ等の食虫植物、ヒナノカンザシといった湿地植物約60種がよく生育している。


サギソウは8月上旬から、9月中旬にかけて、30cmばかりの先に白サギに似た可憐な花ビラをつける(県指定天然記念物)


<筆者>
冬は枯れ野です。


観賞する植物がありません。



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亀戸天神/筆塚祭2017年

2017年07月27日 | 散文
盛夏の亀戸天神です。


こんな暑い日には誰も居ないだろう、と思いつつやって来ました。


名物の藤棚が繁っています。


藤棚の先の拝殿が見づらいくらいです。


暑そうに剪定作業中でした。


7月25日はここ亀戸天神の「筆塚祭」だそうです。

小耳に挟んだのでやって来ました。

それらしい飾り付けですが、やっぱり誰もお参りしていません。


生来の左利きだった私は、入学前に鉛筆とお箸を右手に持つように変えさせられました。
当時の子供は皆そうされていました。
国民皆兵の時代に、左利きの子供は鉄砲を打つ兵隊になるのに都合が悪いので、強制的に矯正されていた名残りだと考えています。
従って私なんか漢字の書き順が未だに無茶苦茶です。
筆塚に相対しても、なんだかなあ。


隣に、筆の「お炊き火」が燃やされていました。
これは、暑い日に熱いぞ!

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白鵬名古屋場所優勝翌日の風景

2017年07月26日 | 散文
白鵬が、魁皇が持っていた勝利数を更新し、自身が持っていた優勝回数も更新しました。
1050勝も39回の優勝も、彼しか破る事ができない大記録です。

宮城野部屋へ行ってみます。
思ったとおりまだ帰京していないので誰も居ません。


でも、花が届いています。


部屋の中にも入れられています。

福島米も運び込まれていて、主役を迎える準備が始まっている様子です。

さて、近くの「キラキラ橘下町人情商店街」はどうでしょう?
盛り上がっていますかね?
スカイツリーが覗く商店街へ行きます。




そろそろ夕飯の準備が始まります。












お惣菜屋だけでなく京島郵便局もありますが、白鵬関係の「おめでとう!」とかが全く無いです。

宮城野部屋が引っ越して来て盛り上がるかと思ったけど、この商店街は「白鵬?」てなもんで、今回も何にも無いですね。

商店街を抜けると東武亀戸線の踏み切りに出ます。
向こうは押上の十間橋通り商店街です。

こんな風景です。

稀勢の里の「昭和通り商店街」と対照的です。
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帰京しました。2017年7月

2017年07月26日 | 散文
松山空港を飛び立ちます。
鏡のような瀬戸内海です。


四国山脈を横断して土佐湾に出ました。
特徴ある地形は名勝桂浜辺りです。
湿度が高くて暑そうな風景です。


飛行機は東へ飛びます。
特徴ある三角形です。
室戸岬を付け根から見ます。


和歌山県の最南端、潮岬です。


新島が見えます。
右の雲の下は神津島でしょうか。


地理が苦手ですが、利島と式根島でしょうか。
飛行機はここから北西に進路を変えます。


太平洋の所々に赤潮が発生しています。
夏らしいと言えば、夏らしい。


千葉県鴨川に上陸します。


房総半島のゴルフ場銀座上空を飛びます。


夏雲に突っ込みます。
飛行機が揺れます。


千葉市の住宅街です。
凄い人口密度ですね。


千葉市の海岸沿いを東に飛びます。
マリンスタジアムも見えます。


東京ディズニーランドです。


葛西臨海公園です。


スカイツリーが現れました。


ゲートブリッジ上空を飛びます。


東京都心を望みます。




こんなに地上が近くなりました。


東京は夏の雲です。


穴の空いた雲も出ていました。

こんな風に帰京しました。
暑そう・・・。
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あの伝説の、「蛇口からみかんジュース」

2017年07月25日 | 散文
みかん処の愛媛県には、「水道の蛇口の脇に、みかんジュースが出る蛇口が各家庭にある」とのまことしやかな噂があります。
実は、在るんです。

昨日地元のTVニュースでやっていました。
帰京の為に松山空港へやって来るに際して、これを楽しみにしていました。
早速試します。
350円で、自分で蛇口を捻って注ぎます。

これが美味しい!
腰に手を当てて飲みます。
店のお姉さんが、蛇口の前で飲んでいる私の姿を撮ってくれます。
でも公開する勇気はありません。
何処に出しても恥ずかしい・・・。

私が飲んだ後、蛇口がある箱の裏のタンクに、みかんジュースを注ぎ足していました。

旅の記念にどうぞ。
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「桜井の史跡と伝説」-11/蛇越しの池(蛇池・医王池)女龍の伝説

2017年07月25日 | 散文


11.蛇越しの池(蛇池・医王池)女龍の伝説

孫兵ヱ作の医王池(蛇池)に昔一匹の女龍が棲んでいて、時々竜宮の乙姫を思わせるような美しい女性に化けて姿を現し村人たちを喜ばせていたといわれ、どんな日でりの年でもこの池ばかりは水に不自由をすることがありませんでした。


ところが或る年、数十日間干天が続き、田畑の作物は枯死状態になってしまいました。


それでも里人達はこの池に棲む龍のため少しばかり池の水を残してあったが、せめてあの残りの水でも抜けば作物が助かるが、でも女龍の棲家がなくなる。

そう言って里人達は深いため息をつくばかりでありました。

それからも、まだまだ日でりは続き、里人達は池の堤に残った水をながめながら、池の主女龍様には申し訳ないが、村の人々の幸せの為だ、この水を頂だいしようと話し合いました。


そうしたささやきを聞いていた女龍は「そうだ村人達の幸せの為だ、この池を出て海に行くことにしよう。」と里人の前に姿を現し、幾度も、幾度も頭を下げて名残を惜しみながら、池の東北の隅から堤に出て、山越しに桜井浜に出た。


この時、女龍が悲しみの余り涙を流しながら山を越えたことから、その後この池を「蛇越しの池」と呼ぶようになったといわれています。


又、不思議にも龍が涙を流したその道は、雨が降れば白く乾き、天気の日には反対に黒く濡れると云われています。


それ以来桜井の人には、この女龍に感謝して、毎年夏になると海上に多くの船をこぎ出して賑やかに龍神様の祭りをするようになったとのことです。

<筆者>
現在、夏に船を出す祭りは「宮島さん」しか行われていません。
これは男児の健やかな成長を祈念する祭りなので、本件とは関係ないと思います。
娯楽の少ない子供時代ですので、実施していたお祭りなら覚えています。
ずっと前に廃れてしまった祭りでしょうか?
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叔母の家

2017年07月24日 | 散文
母の妹の嫁ぎ先は大きな農家です。
50数年振りですが、迷う事なく訪問できました。
場所の記憶だけは確かでした。
敷地の中を小川が流れます。


母屋と作業小屋の間を流れる清流です。
作業小屋と言っても、普通の民家くらいに大きくて立派です。

作業小屋の土地は田んぼだったように思います。

大きな納屋の向こうには長男(私の従兄弟)のいわゆる新宅があります。
この辺り全部叔母夫婦の所有地です。
この辺りでは珍しい2世帯専業農家です。
ここも田んぼだったので、随分と景色が変わっています。

向こうに笠松山が見えます。
ビニールハウスにはトマトとスイカと葱と蜜柑が植わっています。

小川脇に「田神さん」が祀られています。


数年前に、叔母夫婦が所有している田んぼの各所に分散してあったのを、ここに纏めて祀っているのだそうです。


そんなこんなを見ても、どうも記憶に霞が掛かったようで、もやもやと気持ち悪る感があります。
小川に朽ちかけた水路が掛かっています。


水路の先に行ってみます。


あっ!
思い出しました。
「掘」です。

降水量の少ない故郷には各地に溜池が沢山あるのですが、叔母の住んでいる地域だけこのような堀があるのです。

ここからポンプで水を汲み上げて、この水路で田んぼに給水していました。


堰を設けて、小川にも流していました。


記憶が鮮やかに蘇りました。
小さい頃、この堀で泳いだのです。

覗き込むと、夜店の金魚掬いの密度で、鮒と鯉が泳いでいます。
今泳いだら魚の中に入ったようで気持ち悪いでしょうね。
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