ふるさとの駅である。
農村と漁村が大部分で、少しだけ商人の町の駅である。
予讃線開通時は、ここが終点であり始発駅だったらしい。
地場産業に携わる商人のお蔭で、昔は裕福な町だった。
2番乗り場の景色は映画に出てきそうだ。
盛んにウグイスが鳴いている。
緊張感の欠けらも無い。
のどかそのものである。
タイミング良く1時間に1本の電車が止まって、
数人の客を乗せて出て行き、
そして無人駅が残された。
久し振りに、小中学校(隣接している)の裏にあるお寺山に行ってみた。
実家の菩提寺でもある。
この石段はここ十数年に出来たものである。
子供の頃には無かった。
その頃はこちらに石段があったが、今は坂になっている。
一時期、こちらから踏切を渡って車を通す為に改造したらしい。
山上に新しい道路ができた今は、踏切に車が進入できないようにポールが立っている。
子供の頃、お寺山に呼び出し、呼び出されて、時々喧嘩をした。
この境内が少年の「決闘」の場であった。
当時は薄暗くて、誰も来なくて、学校から近くて、決闘に便利な場所だった。
本堂が立て替えられて、庭も随分綺麗になっている。
何より、日差しが差し込んで随分明るい。
お寺山を下りて帰ろうとしたら、踏切の向こうにこんな看板があった。
「伊予国分尼寺塔跡(県指定史跡)
奈良、天平時代に建てられた国分尼寺(法華寺)境内の東南隅にあたる。
因みに、創建当時の法華寺は今の桜井小・中学校を中心に広大な寺域を誇っていたが、江戸時代の初めに、現在地に移った。」
へー!知らなかった。
学校はお寺の跡に建てられていたの(看板の左奥が学校である)!
国分尼寺塔跡はすぐ近くである。先ほどの駅の斜め向かいである。
これは、行かなくては。
田畑の中の小さな丘の上にある柿木の下に案内板が立っている。
読んでみる。
「<史跡 国分尼寺跡>
聖武天皇の勅願(天平13年・741年)により、天下諸国に国分寺国分尼寺の造立が命ぜられた。当時国分寺(北約2km)建立と共に、国分尼寺を建てられた。国分尼寺は、法華滅罪之寺といい、尼僧10人を置き、妙法蓮華経を奉じ、民の憂苦疫病、飢餓を救い国家の鎮護と国民の平和を祈ったといわれている。
方形の敷地に、巨大な花崗岩の自然石が6個約2mの間隔に並び、赤土石灰土を底から固めて礎石をすえてある。石には柱口の加工はしていないが、整然と間隔をおいて並んでいる。なお付近から布目瓦の破片などが出土している。
昭和31年1月3日 指定 愛媛県教育委員会」
へえー!知らなかった。
今から1,274年前、大化の改新から約100年後、平安京遷都の約50年前、万葉集編纂の約30年前、鑑真和上来日の12年前、東大寺大仏造立の11年前、僧行基が貧民救済に活躍した時代の事である(これを機に日本史を調べてみました)。
こんな凄いものがあったの!?
成る程、表面が平らな石が並んでいる。
更に「史跡伊予国分尼寺塔跡地」の石碑が立っており、その裏には「昭和24年10月建立」と書かれている。
へー!知らなかった。
私が生まれる前から石碑が建っていたのである。
線路脇の小道が通学路だったので、9年間かよった道路のすぐ近くである。
「あそこに何か在るな」とは思っていたが、道草大好き少年であったが、ここに来た事は無かった。
「学校の先生も親も近所の古老も、誰も教えて呉れなかったぞ!」
「そんな事は無いだろう、小中学校自体が法華寺の跡地にあるのだから、少なくとも担任や社会科の先生は教えた筈である」
自問自答は続く。
そして結論、「どうせ子供の頃からひとの話を聞いていなかったのだろう」。
私って、結構凄い所で生まれ育っていたのね。