あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

詩の読み合わせ その2

2018-10-04 22:34:12 | 日記
吉野弘さんの『夕焼け』の詩の読み合わせは、9/19と10/3に実施しました。
約15分の授業時間枠では扱いきれず、二回にまたがる形での取り扱いとなってしまいました。
10/3は、今回から新しく加わった生徒さんもいましたので、前回で読み合った内容を振り
返りながら、読み進めていきました。
 以下、どんな形で読み進めていったのか、詩の全文と共に その概要を紹介します。


 夕焼け
              吉野 弘

いつものことだが
電車は満員だった。
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが坐った。
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
娘は坐った。

別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
又立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。

娘は坐った。
二度あることは と言う通り
べつのとしよりが娘の前に
押し出された。

可哀想に
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をキュッと噛んで
身体をこわばらせてー 。

僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持で
美しい夕焼けも見ないで。


※詩の原文では行間の区切りがないのですが、時間の経過と書かれてある内容を把握しやすいように、
 テキストには まとまりごとに1行ずつ空けた上記の詩を提示しました。

※またテキストには 読み合っていく上での 核となる発問として(読む観点を提示する意味もあり) 
 次のような質問も提示しました。
 ○娘さんを「やさしい心の持主」と作者はとらえていますが、娘さんのどんな様子からそう感じ取っているのでしょう。
 ○どこまで行ったろう。と どこまでゆけるだろうという微妙な表現の違いについて考 えてみましょう。
 ○やさしさには、目に見えるやさしさと目に見えないやさしさがあるとすれば、どんな違いがあるのでしょう。

【実践の概要】
◇今日は、吉野弘さんの『夕焼け』の詩を読み合っていきます。一緒に全文を読んでみたいと思いますが、朗読前に1行
 空けてあるところまでを一まとまりと考えて、順に番号を付けてください。
 1 いつものことだが
 2 別のとしより
 3 娘は座った
 4 可哀想に
 5 僕は電車を降りた
◆その後、全文朗読 
〇先ほど五つのまとまりに沿って、番号を付けていただいたわけですが、この五つのまとまりは、さらに大きく二つに
 分けることができます。どこで分けることができるでしょうか。5の始まりの言葉(僕は電車を降りた)に着目して考え
 てみたいと思います。
●1から4までが 電車の中で作者が見たことが書いてあり、5は電車を降りてからの作者の娘さんに対する思いが書か
 れてある。
〇では、次に 1番目の問いの答えを考えたいと思います。5の四行目にあるように 娘さんを やさしい心の持ち主と
 作者はとらえていますが、どんな行動や様子からそう感じ取ったのでしょうか。
●娘さんが、二度も席をゆずった行為から。 ※これ以上深入りはせず進めていきました。
〇では、席をゆずった場面について 本文に戻って考えたいと思います。
 まず、1度目の席をゆずった 場面1を振り返ってみましょう。
 出だしは、いつものことだが とあり、この言葉が二度も繰り返されて表現されています。
 このことからわかることは、なんでしょうか。
●電車が満員であり、若者と娘が腰をおろし、としよりが立っていた といった光景を、作者はいつも見ていた。
●作者は電車をよく利用していたから、その光景に見慣れていた。
〇通勤や用事でよく電車に乗る機会があったことが想像できますね。
 ところが、いつもと違う光景を目にすることになるわけですね。
●うつむいていた 娘さんが立って席をゆずった。
〇この うつむく という言葉が、何度か使われていますよね。
●1と2と4と5の場面で 使われている。
〇四度も使われているということは、それだけ 作者の思いの込められている言葉なのだと想像されます。一度目のうつ
 むいていた はどんな感じがしますか。
●お年寄りを気にしないように 目を向けないでいる。
 お客だから そうするのが当たり前 といった感じを受ける。
 疲れていて 余計なことを考えたくないといった 感じ。
〇でも、娘は うつむいたまま 座り続けるのではなく、席をゆずったわけですよね。
 作者にとっては、いつも 見慣れた光景ではない 場面を目にすることになるのですね。
 そして その娘さんは、2の場面で 二度目の席をゆずる行動に出ます。
 作者の目は、娘さんの行動に 注がれています。
 この場面でも、うつむいた という表現が出てくるわけですが、うつむいた態度をとり続けるのではなく、それに反して
 というニュアンスで しかし という つなぎ言葉(逆説の接続詞が使われています。
 しかし という表現は、前に述べたことと 反対のことが生じた場合に使われますが、うつむいたままではなく また立って
 席を譲ったという娘さんの行動を、強めて表現した言い方になるではないかと思います。それだけ、作者にとっては予想外で 
 心に残る行為だったではないでしょうか。うつむく娘さんの姿に、心身ともに疲れ果てているような印象があったのかもしれ
 ません。
〇4の場面の最初に 可哀想に という 娘さんに寄せる作者の心情が語られています。可哀想にという思いは 誰に対する
 思いなのでしょうか。
●作者の 娘さんに対する思い
〇娘さんの どんな様子から 可哀想にと 思えたのでしょうか。
●何度か駅が過ぎても、下唇をキュッと噛んで 身体をこわばらせている 様子を見て。
〇ここでの うつむきは、何かに必死に耐えているような姿に見えたのでしょうね。
〇そして 作者は電車を降りてからも 娘さんの姿が頭から離れず 5に書かれているような思いを抱くことになるのですね。
〇では、5の場面について 考えてみたいと思います。 
 この中では、二つ目の設問にある どこまで行ったろうと どこまでゆけるだろう との違いについて、考えてみたいと思
 います。どちらも 文末に目を向けると ~だろう という 作者の想像を込めた表現となっている点が、共通点ですが、
 どこに違いがあるのでしょうか。
●初めの 行ったろう は、下唇を噛んで 身体をこわばらせたまま 娘さんは どこの駅まで乗り継いで行ったのだろう
 という 作者の想い。
●後の ゆけるだろう は、 娘さんの将来を心配する想いで、やさしい心の持ち主であるからこそ、やさしい心に責められ
 ながら 娘さんは、どうこれからの人生を生きていくのだろうか という作者の思いが込められている。

以下は、3日に扱った 概要です。

〇この前は、夕焼けの詩を最後まで読み合うことができませんでしたので、その続きから始めたいと思います。夕焼けの詩の
 ページをお開きください。
 前回で、本文を五つに区分し、番号を付けていただきました。
 1と2の場面には 作者が目にした いつものことではない 満員電車の中での出来事(娘さんが一度ならず二度もおとしより
 に席をゆずる)という行為が描かれていますが、3の場面にあるように 前と同じようにおとしよりに席をゆずったのでしょうか。
●(4の場面にあるように) 娘さんは、うつむいたまま 今度は席を立たなかった。
〇その娘さんに対し、作者は 4の1行目にあるように、『可哀想に』という思いを抱きます。
 娘さんのどんな様子から、そう思ったのでしょうか。
●下唇をキュッと噛んで 身体をこわばらせて うつむく 娘さんの様子から
〇その様子から、娘さんのどんな思いを汲み取ったのでしょうか。
●(5の場面に書いてあるように) 満員電車の中で 座ることができず立ち続ける おとしよりの辛さを自分の辛さのように感じ
 てしまい 自分を責め続ける やさしい心を感じ取っている。
〇この詩を読み合うために、3つの質問を用意したわけですが、その三番目の問いには、「やさしさには、目に見えるやさしさと
 目に見えないやさしさがあるとすれば、どんな違いがあるのでしょうか」とあります。
〇もし 目に見えるやさしさが、席をゆずるという行為だとしたら、目に見えないやさしさは どんなことを指すのでしょうか。
●席をゆずることができないことで 自分を責めてしまう やさしい心を指しているのでは…。
〇そう考えることができるとすれば、目に見えるものだけでは、人の心のやさしさは決して推し量ることはできない。そんなこと
 を作者はこの詩の中で伝えようとしているのかもしれません。
〇と同時に、娘さんに対しては、作者はどんな思いを抱いたのでしょう。
●やさしさを二度も 席をゆずるという目に見える行動で示すことができたのに、なぜそれほど自分を責め続けるのだろうか。
●他人のこと以上にもっと自分を大切にする人生を歩んでもいいのに。
〇どこまでゆけるだろう と 娘さんのこれからの人生を心から気遣う作者なのですからそう感じたのかもしれませんね。
〇ところで、この詩の題を 夕焼けとしたのは、作者のどんな思いからでしょうか。「美しい夕焼けも見ないで」という表現が、
 この詩の最後の一行に置かれており、ここに初めて夕焼けという言葉が登場してくるのですね。
〇作者は、この美しい夕焼けを どこで見たのでしょうか。
●電車の中で。 電車を降りてから夕焼けに気づいた。 ※正解かどうか特にふれない。
〇5の場面の最初に 僕は電車を降りた。
          固くなってうつむいて 娘はどこまで行ったろう 
 とありますね。
 電車を降りた作者は、美しい夕焼けを見上げながら、娘さんの姿を思い浮かべたのかもしれません。
 美しい夕焼けを見上げることもなく、うつむいたまま自分の心を責め続ける娘さんの つらい心の痛みを感じるからこそ、そんなに
 自分を責めないで この美しい夕焼けを見上げるようなゆとりをもって 生きていってほしい そんな願いが込められているような
 気がしますが、皆さんはどう感じられでしょうか。

〇そんな作者の思いが、次に書いてある二つの詩からも 読み取ることができるような気がします。

 ※テキストには、吉野さんが甥御さんの結婚式に贈った「祝婚歌」の詩の全文と 娘さんに宛てて書いた 「奈々子に」の詩の後半
  部分を載せています。

   祝婚歌
       吉野 弘

二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと気付いているほうがいい
完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい
二人のうちどちらかが
ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい
互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には
色目を使わず
ゆったり ゆたかに
光を浴びているほうがいい
健康で 風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと胸が熱くなる
そんな日があってもいい。
そして
なぜ胸が熱くなるのか
黙っていても
二人にわかるのであってほしい

※この詩は、姪御さんの結婚式に出席できなかった吉野さんが、いい夫婦でいてほしいという願いや自分にも言っておきたかったこと、
 奥さんへの感謝などの思いをもとに書かれたそうです。


〇祝婚歌 の中では 立派でありたいとか と書いてあるところをご覧ください。そこから読んでみますと

  立派でありたいとか 正しくありたいとかいう 無理な緊張には
  色目を使わず ゆったり ゆたかに 光を浴びているほうがいい
  健康で 風にふかれながら 生きていることのなつかしさに ふと胸が熱くなる
  そんな日があっていい  

〇この中にある 無理な緊張を 強いられている姿が
 夕焼けの詩に登場する娘さんの 
  下唇をキュッと噛んで 身体をこわばらせて-
 の姿に 重なって見えてくるような気がします。
  ゆったり ゆたかに 浴びる光も 
 美しい夕焼けの光に 重なるような…気がしてきます。

〇皆さんは、どう感じられるでしょうか。
  
〇奈々子に という わが娘に寄せた 詩の中には 次のような一節があります。一緒に読んでみたいと思います。 
 後半部分の朗読。

  奈々子に

……(前略)
ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。
自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう。
自分があるとき
他人があり
世界がある。

お父さんにも
お母さんにも酸っぱい苦労がふえた。
苦労は
今は
お前にあげられない。
お前にあげたいものは
香りのよい健康と
かちとるのにむずかしく
はぐくむにむずかしい
自分を愛する心だ。


〇夕焼けの詩に登場する娘さんは、この詩のように 自分があるとき 他人があり、世界がある と考えるよりは、
 自分のことより 他人のことを優先して考え、他人の辛さを自分の辛さと考える やさしい心の持ち主でした。
 でも、作者の願いは、もっと自分を大切にし 自分を愛する心を持ちながら、他人を気遣い、世界を見つめていって
 ほしい。そう願っているような気がしてなりません。
 ただそうすることは、生きていく上で 決して 簡単なことではなく かちとるのにむずかしく はぐくむにむずか
 しい ことでもあるのだと。