「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

亜米利加ナ日々

2006年12月12日 02時51分27秒 | 文化論


 お仕事は後半戦に突入しました。疲れというか寝不足が重なって、朝聞いた話を午後に覚えていられなくなりました。
 お仕事自体はとってもスムーズに流れているんですけど、なにせ自宅に帰ってオフという時間がまったくないので蓄積した疲労が僕から人間的な表情を奪い取っていきます。
 周りから“疲れてるねえ”とか“蝋人形のような顔になっている”とか言われます。
 アメリカは自由で豊かで大雑把でいい加減な国だけど、とっても責任感が強い国だから僕みたいな人間でも居場所がある。
 
 考えてみれば、これだけいろんな国の人がいて、どうしてみんな「U,S,A!」なんて国民意識をもてるんだろうって疑問だったんですね。
 司馬遼太郎さんが、アメリカは合衆国憲法に従う気になるかならないかが、アメリカ人であることの証明なんだと言っていた。
 とても僕なんかには持てない意識だなと思っていたけれど、実際に来てみると僕でも参加できそうな感じがしてくるから不思議だ。

 困っている人がいたら助ける。エレベーターで一緒になったら声をかける。ショップの店員さんに声をかけられても無視せずに何かしらの返事をする。
 憲法じゃないけど、そうすることで相手が敵じゃないこと、合衆国国民であることをお互いに確認しあって生活をしている。


 シーポートビレッジというところでソフトクリーム食べていたら、遠くのほうから「エクスキューズミー!」と声をかけてきたおじさんがいて、何かとても早口で話しかけてきた。とても大きなおじさんで、僕は何のことかわからずにやっと「あいきゃんとすぴーくいんぐりっしゅ!」とやろうとしたら、奥さんがツカツカと近づいてきて、whrere、aicecreamと言ってくれたので、僕はやっと意味がわかってアイスクリームショップの方向を指差してあげた。彼らは「サンキュウ!」といってそっちのほうに曲がっていったんだ。

 僕が食べていたソフトクリームがおいしそうだったとして、僕が逆の場面だったら僕は明らかに外人さんである人に声を掛けるのだろうかと思い、なおかつそいつが言葉のつたないやつだったにもかかわらず、関わった人間である以上最後まで付き合っちゃうよ的ナニュアンスを感じたんですね。
 だからこれがまあアメリカなんだと思ったりするわけですね。


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