司馬遼太郎と江川達也を比べるのはどうかと思うが、どちらも日露戦争で活躍した秋山兄弟を描いた物語だと言う点では共通している。今、「日露戦争物語」は「黄海海戦」が真っ盛りである。秋山真之や正岡子規の少年時代と比べて、戦争に至る経緯では資料的、政治的な説明が多くなり、その分コマ割りも増え、「読みにくいなー」という思いが強くなった。しかし、戦闘シーンに入ると俄然面白くなっていき。特に黄海の海戦では世界最強の戦艦「定遠」「鎮遠」を擁する北洋艦隊に、装甲は薄いが高速巡航が可能な日本艦隊が挑んでいく姿が克明に、尚かつ実に人間くさく描かれている。
僕は次の展開が待ちきれずネット上で黄海海戦を調べてみた(よい子はまねしないでね)。結構史実としてもドラマチックであり、第一遊撃隊司令坪井航三の命令違反、遅速艦「比叡」の敵中突破、軽遅速艦「赤城」の戦い方、敵艦(当時)「斉遠」、「広甲」の敵前逃亡など、現代の電子戦と比較して、人間の個人レベルでの判断や気力が大きく戦況を左右する戦いであることがわかる。日露戦争と比較され、ドラマ性や感情移入の点で、取り上げられる事が少なく、また登場する戦艦のビジュアル性において、第2次世界大戦の次の「大和」に代表される格好良さに引けを取るのかあまり注目されていない。
僕自身のつたない認識では、清という老大国の技術性や精神性は、この当時の日本と比べると遙かに劣るものであり、銃と弾の口径があわないものが支給されていた等の説明がされて、日本は楽々勝ったような印象を残している。30年のことだけどね。つまりその当時まだ日本には、西洋にあこがれ、日本人独特の自己否定と共に同じ東洋人を蔑視する雰囲気が多分に残っていたような気がする。
話が横道それたようなので戻すと(もどるかな?)「日露戦争物語」は週刊誌としては、かなり作り込みがしてあるマンガである。実際連載中の「ビックコミックスピリッツ」でもいつも最も後ろに置かれており、原稿締め切りぎりぎりまで書き込んでいるのではないかと思われる。(一説には人気がないから)しかし、これだけのものを書ききるのはずいぶんと骨が折れるのではないかと思う。江川氏はこの作品で採算を取ろうと考えていないのではないか、このペースで進んでいくならばおそらく後数年は必要であり、彼のライフワーク的な仕事になるのではないかと思う。もっとも江川氏はまだ40代前半であり、漫画家としてもまだ先は充分ある。
この話の主題は「坂の上の雲」との比較である。今回のこの「黄海の海戦」を「坂の上の雲」でどう扱っているかというと、文庫本のページで7ページ扱っているに過ぎない。というより海戦におけるエピソードは出てこないと言った方がよいかも知れない。当時、主人公である秋山真之は巡洋艦「筑紫」航海士であり、この戦闘には参加していない。だが、両作家ともそれは同じである。司馬遼太郎が大事にしているのは常に「主題」であり、それは「いつも明治という時代までは日本人もそれなりにすごい人物がいてその都度きわどく日本をよい方向に導いてきた、だが、それを参謀本部という集団が統帥権という魔法を使って日本を愚かな戦争に引きずり込み日本を壊してしまった。今の日本人には精神を司るコアな何かをなくしてしまったのではないか。だから探っていこう日本人とはどう生きたらいい民族なのかを。」ではないかと考えている(勝手にね)。その意味で秋山真之という青年のコアを描こうとしたとき「黄海の海戦」は必要ないのかも知れない。江川達也は秋山真之というより、江戸から明治という時代の大転換期に連続していきている人間達が、その都度その都度、必死になって直面する人間の姿を描いているのであって、その時代の全ての真剣に生きていた人間を誰彼の区別なく描こうとしているのではないか。僕を含めた昭和三〇年代生まれの人間が時代を背負う役割を持ち始めていて、昭和の戦後の平和が当たり前に保障されている時代に育ったけど、平成の自分達の平和は当たり前じゃないし、日本や日本人は特別保障されてるわけじゃないって気付いたときに、僕たちの世代は、僕たちの平和をどう守っていけばいいのか分からないって気付いたんじゃないかと思う。だから、同じようにわけの分からなかった明治初頭の人間達の生き様を克明に再現する必要を感じたんじゃないかと思う。
やっと「この国のかたち」的なこと書けたかと自己満足な日でした。
僕は次の展開が待ちきれずネット上で黄海海戦を調べてみた(よい子はまねしないでね)。結構史実としてもドラマチックであり、第一遊撃隊司令坪井航三の命令違反、遅速艦「比叡」の敵中突破、軽遅速艦「赤城」の戦い方、敵艦(当時)「斉遠」、「広甲」の敵前逃亡など、現代の電子戦と比較して、人間の個人レベルでの判断や気力が大きく戦況を左右する戦いであることがわかる。日露戦争と比較され、ドラマ性や感情移入の点で、取り上げられる事が少なく、また登場する戦艦のビジュアル性において、第2次世界大戦の次の「大和」に代表される格好良さに引けを取るのかあまり注目されていない。
僕自身のつたない認識では、清という老大国の技術性や精神性は、この当時の日本と比べると遙かに劣るものであり、銃と弾の口径があわないものが支給されていた等の説明がされて、日本は楽々勝ったような印象を残している。30年のことだけどね。つまりその当時まだ日本には、西洋にあこがれ、日本人独特の自己否定と共に同じ東洋人を蔑視する雰囲気が多分に残っていたような気がする。
話が横道それたようなので戻すと(もどるかな?)「日露戦争物語」は週刊誌としては、かなり作り込みがしてあるマンガである。実際連載中の「ビックコミックスピリッツ」でもいつも最も後ろに置かれており、原稿締め切りぎりぎりまで書き込んでいるのではないかと思われる。(一説には人気がないから)しかし、これだけのものを書ききるのはずいぶんと骨が折れるのではないかと思う。江川氏はこの作品で採算を取ろうと考えていないのではないか、このペースで進んでいくならばおそらく後数年は必要であり、彼のライフワーク的な仕事になるのではないかと思う。もっとも江川氏はまだ40代前半であり、漫画家としてもまだ先は充分ある。
この話の主題は「坂の上の雲」との比較である。今回のこの「黄海の海戦」を「坂の上の雲」でどう扱っているかというと、文庫本のページで7ページ扱っているに過ぎない。というより海戦におけるエピソードは出てこないと言った方がよいかも知れない。当時、主人公である秋山真之は巡洋艦「筑紫」航海士であり、この戦闘には参加していない。だが、両作家ともそれは同じである。司馬遼太郎が大事にしているのは常に「主題」であり、それは「いつも明治という時代までは日本人もそれなりにすごい人物がいてその都度きわどく日本をよい方向に導いてきた、だが、それを参謀本部という集団が統帥権という魔法を使って日本を愚かな戦争に引きずり込み日本を壊してしまった。今の日本人には精神を司るコアな何かをなくしてしまったのではないか。だから探っていこう日本人とはどう生きたらいい民族なのかを。」ではないかと考えている(勝手にね)。その意味で秋山真之という青年のコアを描こうとしたとき「黄海の海戦」は必要ないのかも知れない。江川達也は秋山真之というより、江戸から明治という時代の大転換期に連続していきている人間達が、その都度その都度、必死になって直面する人間の姿を描いているのであって、その時代の全ての真剣に生きていた人間を誰彼の区別なく描こうとしているのではないか。僕を含めた昭和三〇年代生まれの人間が時代を背負う役割を持ち始めていて、昭和の戦後の平和が当たり前に保障されている時代に育ったけど、平成の自分達の平和は当たり前じゃないし、日本や日本人は特別保障されてるわけじゃないって気付いたときに、僕たちの世代は、僕たちの平和をどう守っていけばいいのか分からないって気付いたんじゃないかと思う。だから、同じようにわけの分からなかった明治初頭の人間達の生き様を克明に再現する必要を感じたんじゃないかと思う。
やっと「この国のかたち」的なこと書けたかと自己満足な日でした。
この正月、平和ぼけした私が漫画喫茶にて手に取った本が江川達也氏の「日露戦争物語」です。
一冊一時間数日かけ読み下し、一気に惹かれていきました。(その途中、坂の上の雲読中)
現在迄、明治という時代自体に関心が無い私が、秋山兄弟を軸に当時の人、日本、世界の行方に興奮を覚え、その決断・決起の鋭さに興奮を覚えました。
この個人的な良両書は、良き研究材料であるとともに、小生の信念、志、大儀を倒錯・整理し、現在、「日本人」である喜びを痛感いたした次第です。
この先の日本に、楽観的な希望は相持ち得ませんが、一人でも多くの「日本人」が輩出されることを切望申し上げる次第です。
最終章の前、一個人的な感想を述べさせていただきました故、この作品に対するの愛情を感じていただきたく、お願い申し上げる次第です。
これからも、率直な意見・感想をお聞かせいただくようお願い申し上げます。
日米戦争の戦術的誤りの説明を読み、石原完爾中将が自らの理念を示す大東亜戦争(持久戦化した後の日米戦争維持のための大義名分と戦略)の参謀を受けず、「天承立命」の立命館大学の教授で生涯を終えたのは叡慮でしょう。
「近衛公に憧れて東大、京大に進んだ者(自分)が近代史を書こうとすれば、天才か馬鹿か阿呆か何れかである。
東大京大で近代史なるものを始めたのがあれとそれなので、教科書の近代史を読むと馬鹿になるので割愛します。」とは、文学博士だった恩師の教えです。
いま読むと「年寄りの懐古趣味」が目立つ「坂の上の雲」ですが、後世への資料提供としては1級資料の価値があると思います。
「坂の上の雲、昇れぬ雲を追い求め、長い坂を荷物を背負って昇り行くが如く。」
クリスチャンであった坪井中将の英霊に捧ぐ
あーめん(君、誠実でありたまえ)
せめて正岡子規(のぼさん)の壮絶な死にっぷりぐらいまでは行って欲しかったのですが残念です。
秋山はこのあと清国艦隊の封じ込め作戦に参加して自分の艦に砲弾を喰らい水兵達の死に様に旋律するんですが、そういう生な秋山をどう描くのかも楽しみでしたのに返す返すも残念です。
作者が「東京大学物語」の映画化に夢中になってますので、それが終わったら2部の期待も持てるかもしれませんが、期待は薄いのではないかと思ってます。