「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

ブログ占い? №10ー1 テンプレートの背景色 ディープパープルに敬意を込めて

2005年05月29日 23時46分40秒 | BLOG論
 先日「な」さんからコメントを頂きまして、「な」さんが「クイーン」のことに触れてまして、それで思いついたことを書きます。
 おそらく「な」さんは、新宿コマ劇場のWE WILL ROCK YOUをご覧になったんじゃないかと思います。
 FMで七尾藍佳さんも行ったよと言うことですが、こういう話を聞くと東京っていいよなと思います。


 ん?

 まあいいか。


 今日は「パープル」、「紫」のお話なんですが、始めに断っておきますが、多分本題に入らないと思います。

 



 僕は昭和35年生まれで、この年っていうのは、歴史でも習うように60年安保があったり、池田勇人首相が所得倍増計画なるものを発表して、いわゆる高度経済成長の時代の幕開けになったりして、色々と派手な年なんですね。

 僕らは1960年代に子供期を過ごしているんです。

 で、ようやく物心ついて、自分の近所の世界からもう少し広い世界に目を向けようとすると、もう色んなものが終焉を迎えていたりします。

 小学校5年生のとき、10歳か11歳の時ですね。昼休みに音楽をかけるのですけれど、ある日突然ビートルズがかかったことがありました。

 後で聞くと音楽の先生が彼等の曲は歴史に残るから小学生に聞かせるべきだって他の先生を説得してまわったそうです。
 
 僕らはラジオでよく聞く曲だ、程度の認識で、そういう曲のことより仮面ライダースナックのカードの方に心が向いていましたから頓着なかったと思います。

 僕が「みのもんたのオールジャパンポップス20(ツウェンティ)」を聞き始めビートルズにかなり関心を持ち始めたころには彼等は解散していました。

 中学に入ったときに周りのみんながフォークギターを持っていて、かぐや姫とか井上陽水とか吉田拓郎、ちょっと気取った奴は六文銭とかブレッドアンドバターとか言って騒いでいました。
 僕も必死になって親に頼みギターを買ってもらい「かぐや姫」を弾こうと練習しました。
 で、中学二年の時にヤマハリゾート施設「つま恋」で拓郎とかぐや姫で12時間コンサートをやったんですね。かぐや姫が再結成だ!って言って大騒ぎでしたから、つまりかぐや姫は解散してたんですね。
 楽器屋さんでチケットを2500円で購入して、当日はどうやって行こうかとか誰の家に集合するかとかわくわくした日が続きました。

 で、ご存じの方はご存じなんでしょうけど、静岡県の教育委員会かなんかで問題になりまして、未成年がそんな場所へ参加するのはまかりならん。という風になってしまったのです。
 で、チケットを楽器やさんに払い戻しにいきました。

 それでも僕らはフォークギターにのめり込んでいました。


 高校生になると、フォーク派とハードロック派にきっちり分かれましてしまいました。

 フォーク派はギターを片手に一人の世界にはまっていましたし、ハードロック派はバンドを組もうとして人数を集め、楽器屋さんが運営するスタジオを時間借りして活動したりしてました。

 フォークについては「つま恋」でヤマハ主催のポピュラーソングコンテストが始まりましたし、地方ラジオ局でも盛り上げようとする動きがありました。

 ハードロック派は「ツェッペリン」や「ディープパープル」に心酔し、FM放送のチェックやアルバムの貸し借りを頻繁に行い、高校の昼の放送や文化祭のテーマ曲に自分たちのアピールの活路を求めようとしていました。

 とにかくフォークもハードロックも普通のロックも学校の先生を代表とする、世間の常識からは随分と外れたものだったので、まともなライブどころか「電気ギターは使用禁止での参加可能」という、とてつもないハードル課してきました。

 バンド参加者は、フォークギターにピックアップマイクを付けて対抗する手段に出ましたが、あんまり成果はなかったように記憶してます。

 それでも、「天国への階段」に通じる精神を伝えたとかで、それなりに満足げでした。

 そういう意味で僕らは余り無茶をしなかった世代かも知れません。

 僕の高校では「アスパック」といって高校生が学生運動して授業ボイコットや教員の吊し上げや、デモなんかした学校でしたが、僕らの入ったときは、国公立進学者120名突破とか言っていて、全くそんなことがあったとは思えない学校になっていました。

 70年安保で暴れた人たちも既に僕らの認識の中では、内ゲバを繰り返し、民間人を人質に取って立てこもったり、仲間を殺して山の中に埋めたりする悪い人たちということでしたから、父親の「頑張っていたんだけどな」というつぶやきはどうしても理解出来なかったことを覚えています。

 

 今回僕が言おうとしてるのは僕らの世代は常に前の時代の価値観が終わろうとしてる節目に立たされてきた世代なんじゃないかということで、ビートルズもかぐや姫も高度経済成長もバブル経済も全てが転換期に差し掛かったときに僕らはそれを受け止めなくてはいけない時期に遭遇してるわけで、僕らは明確な対象を見失いながら足掻いてきた世代と言えるのではないかと思うのです。

 僕らは3無主義とか5無主義とか言われました。
 無思想、無節操、無駄、無知、無感動といわれ、新しい物差しを見いだせないまま大人になって行きました。
 僕ら世代の後は、フラストレーションを爆発させ。校内暴力が盛んな世代になります。
 地元の国立大の教育学部に進んだ人たちがこぞって小学校教員に進む道を変更したのを覚えています。
 金八先生の第二シリーズの頃に僕らは大学生でしたから。

 あれはあれで僕も感動し、それなりに涙を流したわけですが中学校の先生が「あんなのはテレビだから成立するんだ!」と言って憤慨していたのを覚えてます。


 中島みゆきの唄が印象的で、中学生には中学生なりの正義があったように描かれていますが、校長が生徒に謝っちゃうってのは今でもあり得そうにありません。



 で、いつになったら「紫」になるのでしょう?



御前崎灯台とサーファーと僕のストレス

2005年05月29日 18時23分41秒 | 日記
御前崎灯台からの眺めだそうです。

 今日、その写真に写っている道路を通ってきました。

 急に海が見たくなって…バキッ

 っておじさんだってそういう気持ちになるときがあるんだよおーだ!

 ここから西に浜岡原発までの道はちょっとした景観ですぞ。

 というのもまず御前崎灯台から西側には自衛隊のレーダー基地があって、海岸沿いの道に民家が全くない。
 だから西側の台地から海岸へと下る道路からの風景は右側に湾曲した海岸線の突端に灯台があり、その向こうに駿河湾、天気が良ければ富士山や伊豆半島の天城山を臨む絶景となっている。

 そしてもうずっと前の時期からここには、週末になると全国からサーファーが集まってきている。

 風がいいからウインドサーフィンの大会、「サムタイムカップ」が開かれたこともある。

 道沿いの元々遊泳禁止区域だから店もなにもない。

 名目上、投げ釣りをする人や、観光客のために設けた道沿いの駐車場に車を止め、バスタオルを巻いて着替える姿が見られる。
 のぞき趣味はないけれど、サーフィンの持つイメージと比べると妙に現実的で、微笑ましくなる。
 突堤には見物を決め込む恋人達や、彼氏を待つ彼女。女の子同士で軽乗用車に乗り込んでやってきてたナンパされ目的の子もいる。

 そんな風景がもうここ20年近く続いている。

 でも今日、その場所を通ってみて風景として少し違ってきたことがあるような気がする。

 それは、サーフィンを家族で楽しむ姿が散見できたことだ。

 若い人たちの特権的なスポーツであった(湘南等の地域は除外して)印象はなく、不良の代名詞的なイメージもなく、かつてほどのおしゃれなイメージもなく(そういえば陸サーファーなる言葉も私語ですね)純粋にマリンスポーツとして市民権を得た(おじさん的言い方)といえるのではないでしょうか。
 20年というのは「流行」が「新しものアレルギー」の大人達の非難の洗礼をくぐり抜け価値を認められて次代に根付くのに必要な時間なのかと思ったりした。

 まあ、ともかくボードを脇に抱える少年が海を見つめる姿は掛け値なしでかっこよかったことは確かだった。

 あっ!それからサーファーの人たちのマナーも悪くないですよ。

 え?僕はなにしてたかって?

 今日は海の色がイマイチで通り過ぎただけで帰ってきました。