貨幣とは信用の量である。
貨幣とは人間の心に内在する信用の量である。
決してそれ以外に貨幣を担保する価値があるわけではない。
金本位制ならば貨幣には金の裏付けがあった。
しかし今は金本位制ではない。
今の貨幣はたんなる紙幣である。
この紙幣は金(きん)の裏付けがない。
それを担保しているのは金(きん)の裏付けではない。
では何がそれを裏付けているのか。
それは国家の信用である。
国家の信用そのものが貨幣(紙幣)を生み出している。
では信用とは何か。
人を裏切らない力である。
その力の量が紙幣である。
国家はこの信用の力によって貨幣を造ることができる。
地球に水を作る力があるように、国家には貨幣(紙幣)を作る力がある。
ゲームとは人間の世界と似て異なる世界である。
ゲームには生身の人間の信用は反映されない。
そこにあるのは現実を離れて人間が勝手に作り上げたルールがあるだけである。
そういう意味でゲームは信用の対極にあるものである。
国家の信用によって支えられている紙幣が、このゲームの対象となるとき、
紙幣は紙幣としての価値を落としていく。
株や証券や土地にはものとしての実体がある。
しかしその価値は人間が作り上げたルールによっていくらでも膨張するしまた縮小する。
そこにゲームが発生する。
貨幣が信用の世界からゲームの世界に移行するとき、貨幣は貨幣としての信用を失っていく。
信用の量がどれだけあるが、その量に応じて政府は紙幣を発行できるし、しなければならない。
この目測を誤ったり、他の私的な目的を持って紙幣を発行するとき、その国の経済は崩壊する。
『実体のないものが如何にして実在的であり得るかということが人生において、小説においてと同様、根本問題である。』
(人生論ノート 三木清著 P40 新潮文庫)
この言葉は、単に哲学において有効であるばかりではなく、今や世界経済において通用する言葉である。
『知恵と呼ばれるものは金貨と紙幣を、特に不換紙幣とを区別する判断力である。』(前掲書 P42)
世界のルールを作る政治家に今最も要求されているのはこのような『知恵』であろう。
紙幣がゲームになるとき、国家と金融資本は対立する。
それは決して望ましいことではないが、
アメリカは早くからそういう局面に入っているし、それが今世界経済全体を覆いつつある。
金融ビックバン、長銀・りそな銀への外資導入、郵政民営化などの経緯を見ていると日本はあまりにもそのことに無自覚である。