ソ連はなぜ滅んだのか。
マルクス主義は本来、世界革命論である。
世界全体で革命を起こさないと共産主義は生き残れないという論理だ。
しかしソ連のスターリンはそれを一国社会主義に変えた。
ソ連一国でさえうまくできないのに、世界革命などとんでもないと。
そして世界革命論を主張するトロツキーを追放し、トロツキーは死んだ。
だからソ連は滅ぼされた。
アメリカと結んだ中国によって。
中国は世界革命論を受け継いでいる。
それと同時に、死んだトロツキーの思想はアメリカでネオコンとしてよみがえった。
新自由主義(新保守主義)として。
この理論的支柱はシカゴ大学のフリードマンである。
各国の財政政策を奪い、お金の力(金融政策)だけで経済を回そうとするものだ。
これにより経済の中心はお金を発行する中央銀行に移った。
そしてアメリカは金融立国へと方針を変えた。
アメリカ大統領レーガンの時代である。
レーガンは中央銀行に疑問を持っていたが、暗殺未遂により方向を変えた。
この金融立国は形を変えた世界革命論である。
金融の力で世界全体を変える。
お金の移動は、ヒトやモノの移動よりもはるかに速い。
そのためには国境を取り払い、すべての規制を取り払う必要がある。
小泉純一郎と竹中平蔵がやった民営化と規制緩和はこれである。
世界革命のために利用されたのが国連である。
国境が邪魔になるもの、それがパンデミック対策である。
世界保健機関(WHO)が強力な権限を持って、コロナ対策を行った。
同時に各国の主権は無視された。
そういう世界の動きの第一歩が1991年のソ連崩壊であった。
ここで滅んだのは社会主義ではない。
スターリン型の一国社会主義である。
その代わりに台頭したのが世界革命論の社会主義であり、その具体的表れが形を変えた金融資本主義である。
それを言い替えたのがグローバリズムである。
つまりソ連の崩壊は社会主義の消滅ではなく、社会主義の復活であったのだ。
グローバリズムとは形を変えた社会主義のことである。
日本は思う存分そのことに利用された。
それが日本の平成不況、「失われた30年」である。
ソ連崩壊の前年に起きたのが、日本のバブル崩壊である。
そしてそれを推し進めてきたのが自民党である。
しかし今起こっていることはその自民党の崩壊である。
そのことにまず気づいているのは、肌感覚に優れた若者たちである。
トランプとイスラエル蜜月のナゾ? キリスト・ユダヤの対立は欧州だけの真相に迫る!
【平沼騏一郎内閣】(1939.1~39.8)
近衛文麿が辞意を固めて退陣したあとは、枢密院議長の平沼騏一郎が首相になります。政党政治家ではありません。もともとは司法官僚です。1939.1月の成立です。
日本はすでに中国と戦ってる。敵はアメリカではなくて、ソ連です。さっき言った通り。ソ連が気にかかっている。
【ノモンハン事件】 対ソ紛争が起こる。北朝鮮の北方の満州です。今でいう中国とソ連の国境沿い、そこで日ソ両軍が衝突する。場所はノモンハンです。ノモンハン事件という。1939.5月です。これは何ヶ月も続くんだけれども、結論いうと日本は負ける。北に行くのは阻まれる。これはソ連との戦いで、まだアメリカはぜんぜん関係ありません。
この1939年の7月には、国民徴用令が出される。軍事産業への人的資源、これの国家管理です。本格的に、高校生は授業なんかせんでよかぞ、軍事動員に行け、といって。そういう人を勝手に動かせる。戦時体制です。
【アメリカの日米通商航海条約破棄通告】 今までの流れで、中国は出てくる、ソ連も出てくるけれども、ほとんどアメリカは出てこない。しかし、このアメリカが突然、1939年7月に、日本に対して、日米通商航海条約の破棄を日本に通告する。ここで初めてアメリカが出てきます。日本は、エッ何でだ、と思う。
〇 それまでアメリカは、日本が欲しいものは何でも貿易取引で供給しますよ、と言っていた。メインは石油です。前に言ったように、日本は必要な石油をほぼアメリカに頼っている。それを破棄したということは、どういうことか。おれはあんたに石油を売らいことだってできるんだよ、ということです。エッ脅されてるのか、という感じです。アメリカからの輸入が困難になっていくということです。そして2年後の1941.8月には、アメリカは一滴も石油を売らないことを通告します。
〇 なぜこんなことになるのか。ある教科書には、前年の1938年に近衛首相が出した東亜新秩序声明に対して、「アメリカは自国の東アジア政策への本格的な挑戦だとみなした」と書いてあります。でも東亜とは東アジアのことであって、アメリカの領土とは関係ありません。なぜアメリカは、自分の領土でもない東アジアのことについて、日本が発言したことに腹を立てるのか。日本はアメリカ領土のことをとやかく言っているわけではないのに。日本が、東アジアのことに発言した途端に、アジアから遠く離れているアメリカが腹を立てるのです。
〇 世界大恐慌以来、世界ではブロック経済の形成が進んでいます。イギリス通貨のポンドが流通するイギリスブロック(スターリング=ブロック)、フランス通貨のフランが流通するフランスブロック(フラン=ブロック)、アメリカドルが流通するアメリカブロック(ドル=ブロック)、ドイツのマルクを中心とする為替管理地域も形成されています。そういうなかで、日本は円を中心とする円ブロックをつくれるかどうか、それが日本の死活問題になります。その表明が近衛の東亜新秩序なのです。それに対してアメリカは腹を立てます。
〇 東アジアはすでにアメリカのものになっているかと言えば、インド・ミャンマー・マレーシア・シンガポールはイギリス領、インドシナはフランス領、インドネシアはオランダ領、フィリピンだけがアメリカ領で、アメリカの利害とはほとんど関係ありません。それにもかかわらずなぜアメリカが腹を立てるのか。
〇 実はアメリカはこの前年の1938年から、ルーズベルト恐慌に陥っています。1933年からルーズベルトが実施したニューディール政策はうまくいっていないのです。公共事業の成果が出ず、逆に財政難に陥り、財政支出を削減した結果、恐慌におちいります。アメリカはその打開策を求めています。アメリカが経済回復するのは戦争に参入してからです。
アメリカの日米通商航海条約の破棄通告の意図がどこにあるのか、日本は翻弄されます。日本は、日本にあるアメリカ大使館を通じて、国交改善の要請を行いますが、アメリカ政府は冷淡です。
このことは日本にとってたいへん重要な意味をもちますが、ほとんどの教科書にはたった1行サラリと書いてあるだけです。逆に言うと日本の教科書にはこれ以上書けない部分があるのです。
※ (アメリカによる)日米通商航海条約の破棄通告は国際法上、また当時の不戦条約に照らしても、日本に対する宣戦布告に該当します。日本はアメリカから事実上の宣戦布告をされていたのです。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 P119)
【独ソ不可侵条約】 ここでまた変なことが起こります。日本は共産主義のソ連が敵だと思っていた。ドイツもソ連が敵だと思っていた。だからソ連を対象に日独防共協定という共産主義を防ぐ協定を結んだ。
そのドイツが、突如として独ソ不可侵条約を結ぶ。1939.8.23日です。ドイツとソ連が手を組んだということです。首相の平沼騏一郎は、これを理解できない。
世界はご都合主義で動いています。この時ソ連は東のノモンハンで日本と戦っているから、西では戦えない。だから西にあるドイツと不可侵条約を結んで、ソ連は西の守りを固めた。ドイツはドイツで、ソ連を叩くにはまず西のフランスを叩いておかなければならない。そうしないと西のフランスと東のソ連との挟み打ちになる。それは避けたい。だからここは一旦東のソ連と不可侵条約を結び、ドイツは東の守りを固めた。ドイツのヒトラーは防共協定よりも東の守りを優先したわけです。
しかし平沼騏一郎は、「複雑怪奇」という有名で無責任な言葉を残して総辞職する。ここに日本の実力とホンネが表れています。一国の首相さえ世界情勢がよく分からない。君たち高校生が分からないというのも無理はない。8ヶ月間の短命内閣でした。
〇 ではドイツがソ連と結んだのは何のためか。あと1ヶ月もしない1939.9月に第二次世界大戦が起こります。ドイツとソ連が挟み撃ちして、どこに攻めていくか。これがポーランド侵攻です。この瞬間に、ドイツにとって思いもよらぬ第二次世界大戦が始まる。
〇 しかしこれはドイツとソ連のフェイントです。ドイツもソ連もこれを本気で守る気がなかった。しかし、日本はそこまで見抜けないまま翻弄されていきます。ドイツがソ連と手を組んだら、日本もソ連と手を組もうということになっていく。
ドイツとソ連は、この直前までスペイン内戦で敵と味方に分かれて戦っています。ドイツのファシズムとソ連の共産主義は敵対関係にあります。
さかのぼれば、第一次世界大戦の時も、ドイツのパン=ゲルマン主義とロシアのパン=スラブ主義は対立していました。ドイツとソ連の不可侵条約は見かけ上のものだったのです。
〇 このあとのことを言うと、2年後の1941年に日本は日ソ中立条約を結びます。独ソ不可侵条約を見て、日本はドイツと同様に、ソ連と手を組みますが、結果的にみるとこれもソ連のフェイントです。終戦間際、ソ連が裏切っていく。日本は翻弄され続けます。
【阿部信行内閣】(1939.8~40.1)
平沼騏一郎内閣が、1939.8月の独ソ不可侵条約の成立により「複雑怪奇」という言葉を残して総辞職したあと、総理大臣になったのが陸軍出身の阿部信行です。陸軍大将です。1939年8月28日に組閣を命じられ、2日後の8月30日に阿部信行内閣が成立します。
このとき昭和天皇からは、「英米との協調方針」を取ることとの異例の指示があります。外務大臣には、新米英派の海軍大将野村吉三郎が就任します。
【第二次世界大戦勃発】 今言ったように、1939年8月30日の阿部内閣成立から2日後の9月1日、ドイツがポーランドに侵攻します。
するとその2日後の9月3日、イギリスは突然、ドイツに宣戦布告をした。1939年9月3日、海の向こうのヨーロッパでは第二次世界大戦が勃発します。
この時には、まだ日本はドイツと軍事同盟を結んでいませんし、ヨーロッパの戦争と日本は関係ありません。日本は大戦不介入を表明します。日本は戦争に加わりません。
〇 さっきも言ったように、第二次世界大戦の直接のきっかけは、ドイツとソ連のポーランドへの侵攻です。ドイツとソ連が、それぞれ東と西からポーランドに侵攻したことに対して、イギリスがドイツに宣戦布告したのであって、ドイツがイギリスに宣戦布告したのではありません。
ドイツがイギリス領土に攻め込んだわけでもないのに、なぜイギリスがドイツに対して宣戦布告をするのか。イギリスとポーランドとの相互援助条約が理由とされますが、イギリスはそれまでドイツに対して宥和政策をとっていたのです。そのイギリスはドイツと外交交渉するでもなく、突然ドイツに宣戦布告をするのです。
しかもイギリスは、同じポーランドに侵攻したソ連には宣戦布告をせずに、ドイツにだけ宣戦布告をします。理屈が合いません。しかしここから第二次世界大戦が始まります。
〇 これにはヒトラー自身が驚きます。ヒトラーはこれで宣戦布告されるとは予想もしていないのです。だからヒトラーは、アメリカのルーズベルトに密かに、この宣戦布告を取り消すよう調停してくれることを頼みます。しかし、アメリカのルーズヴェルトは、素知らぬ顔で、一蹴りします。
〇 実はこの1939年にドイツは「帝国銀行法」によりドイツの中央銀行を国営化しています。イギリス・アメリカの中央銀行は国営ではなく民間銀行です。しかしドイツは国営銀行になりました。これによりドイツの通貨発行権はヒトラーが握ります。これにいちばん腹を立てたのは、イギリスやアメリカの国際金融資本家だったと言われます。
〇 同月1939.9月、ソ連とのノモンハン事件は、日本が劣勢です。日本は、これは撤退だ、中止だ、と撤退させます。実質的には日本の関東軍が敗北しています。
1939.10月、価格等統制令を出します。中国とはすでに戦っていて、戦時経済に入っていきます。
国民の間には、戦時経済と物価高騰に対する不満が高まり、それに乗っかる形で、政党勢力が阿部内閣に対する批判を高めます。こういう中で阿部信行内閣は1940.1月に総辞職します。わずか5ヶ月の短命内閣です。
1941.8月までの世界の状況を先に言いましたが、ここから阿部信行内閣が総辞職した1940.1月の日本に戻ります。
次は海軍出身の首相です。軍人であることには変わりはないです。1940.1月、米内光政内閣が成立します。さっき言ったように、この時はドイツがまだ快進撃を続けている最中です。日本はまだ太平洋戦争に突入していません。
〇 日本はアメリカとではなく中国と戦っています。その中国のなかにも、蒋介石の中国はどうもおかしいと思う人がいる。それで蒋介石の重慶政府を脱出する。そして日本と協力する。これが汪兆銘です。日本の支援のもとで蒋介石政府とは別の南京新政府をつくります。
この米内光政内閣は陸軍との対立で半年しか持たない。1940.7月に総辞職します。
【近衛文麿内閣②③】(1940.7~41.10)
たった1年半の間に3つの内閣が次々に倒れたあと、残るは近衛文麿しかいない。1940.7月、第二次近衛文麿内閣ができます。ここから1年3ヶ月、真珠湾攻撃の2ヶ月前の1941.10月まで首相を務めます。この1年3ヶ月の在任期間は、この時代では長いほうです。この時代の内閣は短命内閣続きで、半年持てばいいほうですから。
彼は外務大臣に松岡洋右を起用します。基本的な外交方針は、ソ連と組んで、アメリカ・イギリスとの戦争を避ける方針です。
【北部仏印進駐】 世界の動きを先に言いましたが、再度それを日本を中心にして見ていきます。
近衛内閣成立から2ヶ月後の1940.9月、日本は北部仏印進駐を行います。仏印というのはフランス領インドシナのことです。フランスの植民地です。北部仏印とは今の北ベトナムです。
〇 この動きの背景にあるのは、前年の1939.7月に突如としてアメリカが日本に対して、石油を売らなくてもいいんだよ、と言ったことです。それが日米通商航海条約の破棄通告です。それで日本は、急いで石油を確保しようとする。石油はインドネシアのスマトラ島にあります。
もう一つは、日本軍は満州から北に行こうとしてソ連と戦ったノモンハン事件で負けた。これが1939.9月です。北がダメなら南しかない、という南進策への方針転換です。この二つが合体して北部仏印進駐になります。
〇 さらにもう一つあります。日本は中国と戦ってます。戦局は日本に有利です。しかし中国に勝っても勝っても、中国の物が尽きない。武器、弾薬、鉄砲が尽きない。それはなぜか。イギリスとアメリカが中国を応援して補給しているからです。ベトナムやビルマの南の密林に道を通している。これを援蒋ルートといいます。援蒋ルートとは、蒋介石援助ルートのことです。米英は半ば公然と中国を支援しています。日本はこれを断ち切りたい。
ちなみに、蒋介石の嫁さんは中国随一の浙江財閥の娘の宋美麗です。浙江財閥とは上海の隣の浙江省を拠点にした、イギリスと関係の深い財閥です。上海はイギリスの拠点です。宋美麗はさらにアメリカとも接近し広告塔として活動していきます。
【日独伊三国軍事同盟】 北部仏印進駐と同月の1940.9月、外相の松岡洋右はドイツ駐在の来栖三郎大使に指示して、ドイツと同盟を組む。イタリアもふくめて。これが日独伊三国軍事同盟です。このときはドイツの快進撃の最中で、日本には「バスに乗り遅れるな」という雰囲気がある。松岡洋右は、日本がドイツ・イタリアと組んで集団安全保障体制を強化すれば、アメリカはこれ以上日本と対決することはないだろうと考えます。
しかしアメリカの構想はそれを上回る規模であることが、翌年1941.8月の大西洋憲章で明らかになります。逆にアメリカは日本と戦うチャンスをうかがっていたのです。
〇 この日独伊三国軍事同盟によってアメリカのルーズベルトとの関係は悪化します。しかしアメリカの国論は、国民の85%が戦争反対です。ルーズベルトは日本に宣戦布告できない。
ルーズベルトはイギリスのチャーチルと接近していきます。しかしイギリスとアメリカとの間に同盟関係はありません。その前にアメリカはまず国際連盟にさえ加盟していない。これでどうやって戦争したらいいのか。
〇 ドイツはアメリカを攻撃しているわけではないから、アメリカはドイツと戦う理由がない。
しかし日本と戦うことができれば、ドイツとも戦うことができる。日本とドイツの日独伊三国軍事同盟はアメリカがドイツと戦う絶好の理由を与えたのです。日本とドイツは、このあと軍事的な共同作戦をとることはありませんし、実質的には機能しません。しかしアメリカ側からすれば攻める理由になるのです。日本が先に手を出せば、アメリカはいつでも日本・ドイツと戦うことができる状況が生まれたのです。
【新体制運動】 近衛首相は、戦争体制固めとして新体制運動を始めていく。
もう政党はいったん活動を停止しましょう、挙国一致でやりましょう、一つの政党があればいいじゃないか、という。それでこの政党を大政翼賛会という。1940.10月です。ここで政党は解散しました。政党がすべて解散して、一つの政党になった。そして一つの政党のもとに、県、市、町、村、町内会、部落会、隣組、そこまで徹底して組織していく。しかしこうなると滅多なことは言えなくなります。この戦争勝てるのとか言うと「非国民」と言われて、しょっぴかれていく。滅多なことが言えない世の中です。
〇 それから労働組合も活動を停止しましょう、となる。翌月1940.11月です。これが産業報国会の成立です。報国というのは、先生に報告するんではなくて国に報いる会です。労働組合の消滅です。今はそれどころじゃない、ということで。
〇 これが日本のファシズム体制だ、というふうに、ヨーロッパでは言われるけれども、これはこの時点で、日本がどれだけ危機感を持っていたかという証しでもある。これは楽に勝てるとかまったく思ってない。しかし国民に負けるかもしれないと言うと、戦争反対になるからそうは言えない。これは本当に危機感をもってないと、やれないことなんです。
実際、この戦争で勝てるといった人もいないんです。でもやらざるをえない状況が生まれつつある。
〇 1941.4月からは、小学校も小学校じゃなくなる。国民学校という。このころ小学校を卒業した人は、小学校卒業じゃない。国民学校卒業です。
物資も、切符制・配給制になる。切符制というのは、お金のほかに切符がないとモノを買えない制度です。自由に物が買えなくなる。物が足らないから。
【日ソ中立条約】 さきの1939.8.23日にドイツがソ連と独ソ不可侵条約を結んだ。でもこれはドイツとソ連のフェイントであることが、このあとすぐに分かります。しかし日本はこれを信じて、ドイツに歩調をあわせてソ連と手を組みます。
それが1941.4月の日ソ中立条約です。これも外相の松岡洋右が結びます。松岡は日独伊にソ連を加えて、日独伊ソの四カ国で軍事同盟を組もうとします。つまり日独伊三国の集団安全保障体制にソ連を加え、それをさらに強固なものにしようとしたのです。この時点では、独ソ不可侵条約、日ソ中立条約、日独伊三国軍事同盟、この三つの条約に矛盾はありません。このことは、伊藤博文の日露協商論以来の流れと関係しています。
〇 軍部はこれで北方のソ連とは戦わないことになったから、北方にいた軍隊をみんな南に集中し、南進させようとします。
(太平洋戦争前の日本の国際関係)

〇 ここで注意すべきは、アメリカは日本の国際条約の枠のどこにも入っていないことです。日本が戦っているのは中国であり、日本軍が進駐したのはフランス領インドシナです。そしてねらっているのはオランダ領インドネシアの石油です。アメリカはこの関係の中で枠外にいて、日本と直接対立する立場にはありません。それがなぜ、日本がアメリカの真珠湾を攻撃することになるのか。そこの疑問点にだんだん近づいていきます。
【独ソ戦】 しかしその2ヶ月後の1941.6月に、ドイツはソ連と独ソ戦を開始します。これがドイツとソ連のホンネです。ここで日本の集団保障体制の三本柱の一つである独ソ不可侵条約が破綻したのです。これで日ソ中立条約が宙に浮く形になる。実効性を持たなくなる。ドイツとソ連が戦っているのに、日本はソ連と日ソ中立条約を結び、ドイツとは日独伊三国軍事同盟を結んでいるという矛盾です。この状態ではお互いが疑心暗鬼になり、日独伊三国軍事同盟も日ソ中立条約も機能しなくなります。
〇 ドイツにとってもこの独ソ戦は、戦力を西と東の二つに分けることになり、戦力の低下につながっていきます。この独ソ戦は第二次世界大戦の一つの謎です。表面上の理由はドイツとソ連が石油利権で対立したことになっています。
【日本の在米資産凍結】 アメリカにも日本移民がいっぱいいます。かなりお金持ちになっている日本人もいる。まだアメリカとは戦ってないです。戦ってないけれども、おまえたちは敵国民だといって、アメリカの在米日本人の資産を凍結し、強制収容所に送るんです。これが1941.7月の在米日本資産凍結です。ドイツがユダヤ人を強制収容所に入れたことは有名ですけど、アメリカが日本人を強制収容所に送って財産を没収したことは、あまり知られてないです。
【南部仏印進駐】 1941年7月28日、日本はさらにベトナム南部へ軍を進める。これが南部仏印進駐です。1年前は北部仏印だった。時は近衛内閣です。
【アメリカの対日石油輸出禁止】 その3日後の1941年8月1日に、アメリカが日本に石油一滴も売らない、と通告してきた。アメリカによる対日石油輸出禁止です。日本にとっては寝耳に水です。この間たった3日です。
〇 そこで、にわかに開戦論が出てきます。日本はそれまでずっと日米戦争を避ける方針でした。ただ、ここで石油が手に入らなくなると、このままではどうしようもないというジリ貧論が出てきます。このままでは座して死を待つだけだと。しかし勝てるとは一人も言えない。日本はそういう窮地に追い込まれたのです。「窮鼠、猫を噛む」状態です。追い込まれたネズミは猫を噛みに行く、という意味です。
〇 陸軍は開戦論です。海軍は消極論です。この海軍では、勝てるとしても1年以内の短期決戦しかないという。勝ち目は薄い。だから戦わないほうがいい、という。
しかし陸軍はちがう。1年以内の短期決戦しか勝算がないのなら、即座に戦うべきだと言う。軍部内での海軍の消極論は分が悪い。しかし国力差は、日本対アメリカで、1対77です。これは勝てないです。
〇 このあとすぐ、近衛首相は打開策を求めて、アメリカのルーズベルトに日米の首脳会談を申し出ます。しかしルーズベルトはそれを拒否します。
※ (1941年)8月4日、(日本の)近衛首相は陸海軍大臣と協議し、ルーズベルト大統領との直接会談の道を探ると発表した。引き続き和平の条件を探るという決定は、海軍の支持を得、陸軍も同意していた。天皇は、できるだけ早く大統領との会見に臨むよう指示した。8月8日、東京からの指示に基づいて、野村大使はハル国務長官に対して、ルーズベルト大統領との首脳会談を正式に申し入れた。・・・・・・
大西洋憲章を話し合った時期(1941年8月9日から14日)には、チャーチルもルーズベルトも日本の動きがわかっていた。二人は日本に対して何らかの行動を起こすことを決めていた。近衛首相の提案を無視した上で、日本に対して強い警告を発することを決めた。(裏切られた自由 上 ハーバート・フーバー 草思社 P472)
〇 そしてルーズベルトは10日後にチャーチルと会う。ルーズベルトとチャーチルで、二国間で話し合いが行われている。そして1941年8月12日に大西洋憲章を発表します。憲章という難しい名前になっていますが、これはアメリカとイギリスの二国間の取り決めにすぎません。
〇 その間も日本はこの戦争の回避交渉はずっと続けます。それが野村吉三郎という駐米大使です。この人は有能な人なんですが、4ヶ月後の宣戦布告の暗号電文だけ、30分遅れて届けたことになっています。この間の事情は、誰も口を割らないです。
【ABCD包囲網】 そういったなかで、アメリカが石油を輸出しなくなると、オレも、オレも、オレもと、他の国もそれに倣っていく。1941年には、日本に対してABCD包囲網があっという間にできる。
Aはアメリカ、Bはブリテンのイギリス、Cがチャイナの中国、Dはダッチというのはオランダです。この4ヶ国が日本に経済制限をかける。この戦いは、最初から非常に厳しいですね。これではちょっと戦えないです。
しかし猫に追い詰められたネズミは死ぬとわかっていても、最後は猫に飛びかかっていく。「窮鼠、猫を噛む」です。出てくるのはそういう言葉です。
【東条英機内閣】(1941.10~44.7)
近衛文麿の次が東条英機です。東条英機内閣が組閣される。1941.10月です。近衛内閣の陸軍大臣です。
【ハル・ノート】 3か月間の交渉もむなしく、3か月後の1941.11月に、アメリカの国務長官・・・・・・大統領に次ぐナンバーツーの地位です・・・・・・のハルが日本に要求を伝えます。これをハル・ノートという。軽いメモ書きみたいな呼び方ですけれども、国家のナンバーツーが、他国の政府に文書を届けるということは、正式文書と同じです。
そこに何が書いてあったか。日本は出て行けという。まずフランス領インドシナから出て行け、それだけではなく、中国大陸から出て行け、さらに満州から出て行け、という。これは日本としては、ありえないことです。
ここまで言われると、日本は、これはやる気だな、と思う。あっちはやるつもりですよ、と。しかもこのハル・ノートは、アメリカ人にも知らされていない。あとで聞くと、マッカーサーさえ知らないものです。つまりこれはアメリカでさえ同意を得られていないものです。これは日本に戦争をけしかける動きです。
事実その通り日本は、ハル・ノートを事実上の宣戦布告だと、捉える。しかし、アメリカはイヤイヤそんなことはない、と言っている。でもこれは少なくとも最後通牒です。
※ ハル・ノートは、アメリカによる交渉打ち切りのための最後通牒です。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 P120)
【太平洋戦争】 翌月12月1日に、御前会議つまり天皇の臨席のもとでの会議が開かれ、これだけのことを言われたらもうやるしかないでしょう、となる。誰一人勝てるとは言わないままです。それでもやるしかない、というのが太平洋戦争です。そんなことまで言われたらやるしかない、という感じです。
この太平洋戦争という名前も戦後、日本が負けてからアメリカがつけた名称で、日本は大東亜戦争といってました。大きな東アジアの戦争だという意味です。アメリカは、それまでどこにも出てきてなかったのですから。
〇 日本の戦争目的もここで、はっきり打ち出します。大東亜共栄圏の樹立を掲げます。大東亜とは東アジアです。東アジアはほぼヨーロッパの植民地になっている。ここは共栄してない。共栄させようじゃないか、ということです。
まずヨーロッパを追い払わないといけない。植民地をやめさせないといけない。
結果として、日本は負けたけれども、この最後の目的だけは達成する。戦後、アジアの国々は全部独立していきます。
【真珠湾攻撃】 開戦が1941年12月8日です。相手の軍港、ハワイの真珠湾を攻撃する。
結果的に30分の通告の遅れで、奇襲だ、騙し討ちだ、と言われることになります。その結果、アメリカでは「リメンバー・パールハーバー」、これが合言葉になる。「真珠湾を忘れるな」という意味です。オレたちは奇襲攻撃されたんだ、あの黄色いジャップ(日本人)は許せない、という。あれだけ戦争に反対していた国民が、一気にこれで戦争支持に変わる。奇襲とされたことの意味は大きいです。
〇 これには裏話があります。アメリカは、日本の暗号解読に、1年以上前から成功しているんです。だから、日本の情報は筒抜けだった。ルーズベルトも、真珠湾攻撃のことを本当は数日前から知っていたんじゃないかという話もある。攻撃目標のメインとされたアメリカ空母はすべて湾外に出払っていて、真珠湾内には一隻もいませんでした。こういう形で真珠湾攻撃は成功し、「トラトラトラ」の暗号電文が日本に打たれます。
※ アメリカの情報当局は、1940年8月に日本軍の暗号の解読に成功し、これまでに傍受した日本の暗号電報はすべて解読されていた。多くの歴史学者は、ルーズベルト大統領は日本軍の真珠湾攻撃計画を知っていたと信じている。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P193)
※ 戦後の東京裁判では、死刑に処せられた A級戦犯に海軍軍人は1人もいません。文官の広田弘毅を除くと死刑になったのはすべて陸軍軍人です。・・・・・・そもそも海軍の作戦は、最初からおかしなものばかりです。真珠湾を攻撃する必要があったのかどうかについても、きちんと検証する必要があります。・・・・・・南進するにしても、オランダ領のインドネシアの石油だけ抑える作戦にしていれば、アメリカは対日戦に参戦できなかったはずです。アメリカ国民は参戦に反対していましたから、オランダ領が攻撃されたのみでアメリカの領土が攻撃されていなければ、開戦の理由になりません。・・・・・・
ところが日本の海軍は、アメリカの領土である真珠湾に攻撃を仕掛けました。これでは、アメリカに参戦させるためにやったようなものです。作戦的に見ても真珠湾攻撃をする必要があったのかどうか非常に疑問です。・・・・・・しかも真珠湾攻撃は極めて中途半端なものでした。よく指摘されるように、石油施設は全く攻撃しませんでした。・・・・・・そのようなこともあって、山本五十六スパイ説というものまで出てきているわけです。・・・・・・しかも、真珠湾には老朽艦しかおらず、空母はすべて湾外に出ていました。・・・・・・真珠湾攻撃をさせるように周到に謀った者がいるのでしょう。それに呼応したのが日本の海軍です。
真珠湾攻撃については、東条英機首相ですら知らなかったと言われています。日本には統合参謀本部がありませんでしたから、海軍は独自に作戦を立てており、陸軍に伝えていなかったようです。・・・・・・さらに真珠湾攻撃から半年後にはこちらからミッドウェーにまで出かけていって惨敗を喫しています。・・・・・・最大の問題は、海軍が補給を確保しなかったことです。ガダルカナル島でも膨大な戦士者が出ていますが、ほとんどの戦死者は餓死によるものでした。・・・・・・海軍がとった作戦はおかしなものばかりです。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 2015.12月 P139)
ドイツは1930年代、スペイン内戦に対してフランコ将軍側を応援した。イギリスとアメリカは、このスペイン内戦に不干渉です。「オレは干渉しないよ。いいようにして」と言う。
そしてドイツとイタリアが同じ方針で仲間になります。これを首都の名前を取って、ドイツはベルリン、イタリヤはローマですから、ベルリン・ローマ枢軸といいます。1936年です。
そして翌年の1937年に、日本とドイツが接近します。これが日独伊防共協定です。
なぜ日本が入ったのか。仮想敵国つまり一番戦う危険のある国はどこか。「共」を防ぐの、共とは何か。共産主義です。つまりここでの共通の敵はソ連です。
敵はアメリカではない。アメリカはぜんぜん出てこない。アメリカはノーマークです。「敵はソ連だ」といってドイツはソ連を警戒する。
このときドイツのヒトラーは、驚くことにノーベル平和賞にノミネートされているほどですから、極悪人というイメージはありません。ノーベル賞はとらなかったけど。ここらへんがこの戦争の不思議なところです。ノーベル平和賞候補者が第二次世界大戦が終わると極悪人になるわけですから。
翌年の1938年3月には、ドイツはオーストリアを併合します。ドイツの隣の国です。オーストリア人はドイツ語をしゃべってる。ドイツ人もドイツ語をしゃべってるんです。つまり同じドイツ人なんです。それですんなりいく。
それにしてもイギリスは不気味です。何も干渉しない。
昔、この時のオーストリアを舞台にした映画に「サウンド・オブ・ミュージック」というのがありました。有名な映画ですが、君たちは知らないかも。アメリカ映画ですけど。ここでドイツは、ロスチャイルド財閥のウィーン分家の当主を拘束します。
半年後の1938年9月には、ドイツでミュンヘン会談が行われて、「ドイツに干渉しない」という事をイギリスとフランスは話合い、正式に決定する。これを宥和政策といいます。「ドイツが同じ民族を併合しようが、イギリスとフランスには関係ない。同じ民族自決だからそれでいい」というわけです。
すると、さらにドイツは領土を広げます。ドイツは20年前、第一次世界大戦に負けたときに領土を削られました。そのチェコスロバキアの領土になった中にドイツ人が沢山住んでる地方があった。そこをズデーテン地方と言います。民族自決がオーケーだったら、「ここもドイツだ」ということになる。ドイツはそこを1938年9月に併合します。
この時にも、イギリスとフランスは「われ関せず、ああそうですか」という感じです。宥和政策を決定してるからです。まるでドイツの進出を誘発しているかのようです。
翌年の1939年5月には、日本とソ連の紛争であるノモンハン事件が起こります。
するとアメリカは、そのノモンハン事件の最中の1939年7月26日に突然、日本に対して日米通商航海条約の破棄通告を行います。そして翌年の1940年1月にこの日米通商航海条約は失効します。なぜ日本にそんなことをするのか。
潜在的には1920年代のワシントン会議から、ずっとアメリカによる日本潰しの兆候はありました。四カ国条約を結んで日英同盟を廃棄させた。そういう潜在的なアメリカの動きはあったのですが、ここでアメリカのホンネが一気に表面化したわけです。
さきほどのスペイン内戦では、ドイツとソ連が敵対してスペイン内戦で戦いましたが、この戦いは1939年3月にドイツが勝った。
するとソ連は「これはドイツと手を組んだほういい」と、1939年8月23日には独ソ不可侵条約を結びます。不可侵というのは「戦争しません」ということです。ドイツとソ連はここで手を組んだのです。
世界はその時の事情で動いています。この時ソ連は東のノモンハンで日本と戦っているから、西では戦えない。二面作戦は不利です。だから西にあるドイツと不可侵条約を結んで、ソ連は西の守りを固めた。ドイツはドイツで、ソ連を叩くにはまず西のフランスを叩いておかなければならない。そうしないと西のフランスと東のソ連との挟み打ちになる。それは避けたい。だからここは一旦東のソ連と不可侵条約を結び、ドイツは東の守りを固めた。ドイツのヒトラーは防共協定よりもソ連に対する東の守りを優先したわけです。これに驚いた日本の平沼騏一郎内閣は、総辞職します。
▼第一次世界大戦前後のドイツ国境

翌月の1939年9月1日、ドイツ人の住む地域を併合していいんだったら、「以前ドイツであった地域も当然併合してよいだろう」とドイツがポーランドに侵攻する。ここはたった十数年前までドイツ領だったところです。
すると2日後の9月3日に、突然イギリスとフランスがドイツに宣戦布告する。これが第二次世界大戦の始まりです。
※ ヒトラーはベルサイユ条約によって不当に奪われたドイツ領の回復を目指していました。武装が禁じられていたラインラントへの進軍から始まって、同じドイツ民族国家であるオーストリアとの合併、チェコ・スロバキアのドイツ系住民の居住地域であるズデーテン地方の併合などを経て、最後の領土回復要求であるポーランドとの交渉に臨んでいました。
ヒトラーの要求は極めて寛大でした。実質的な領土回復要求はバルト海に臨む港湾都市ダンチヒの返還のみでした。住民の9割がドイツ人であるダンチヒはポーランドに使用権がありましたが、国際連盟の管理下にあった国際都市です。その他は、ドイツからポーランドに割譲されたポーランド回廊におけるハイウェーと鉄道の建設でした。ドイツの飛び地である東プロシャとドイツ本土の間に位置する回廊における両者を結ぶ輸送路の建設で、ポーランド回廊のドイツへの返還ではなかったのです。
この寛大な要求をポーランドが呑めないはずはありません。しかし、ポーランドは最後まで妥協しなかったのです。それには訳がありました。英仏がポーランドの安全を保障していたのです。つまり、ポーランドがヒトラーから侵略されれば、英仏はポーランド側にたってヒトラーと戦うといういわば白紙委任状でした。ポーランドは英米による独立保証を基に、ヒトラーに対し不相応な強硬姿勢をとったのです。英仏に加えてアメリカのルーズベルト大統領からも強力な応援がありました。
ルーズヴェルトもヒトラーとの戦争を決めていました。・・・・アメリカの強い援軍を得て、ポーランドはドイツを不必要に刺激する挑発行動をとりました。ポーランド回廊のドイツ系住民の迫害・虐殺です。1939年9月1日のドイツによるポーランド侵攻の直前には、約6万人のドイツ系住民がポーランド軍などによって惨殺されました。ヒトラーにポーランド侵攻決断の最後の一押しになったのが、ドイツ人の虐殺だったのです。自国民保護という国際法上の大義名分でした。
ドイツのポーランド侵攻の2週間後には、独ソ不可侵条約秘密議定書(1939年8月23日締結)に従い、スターリンのソ連がポーランドに侵攻し東半分を占領しました。ところがドイツには宣戦布告した英仏は何故かソ連には宣戦布告しませんでした。ポーランドの独立を保証していたにもかかわらずです。この歴史の謎は解明されてしかるべきでしょう。(「ウクライナ紛争 歴史は繰り返す」 馬渕睦夫 著 WAC出版 序章より P3 2022.5月出版(抜粋))
これを聞いてヒトラーはビックリした。「なぜだ。今まで言ってきたことと違うじゃないか」と。
それで、ヒトラーはアメリカのルーズベルト大統領に仲介を頼もうとした。ヒトラーが「イギリスと握手できるように仲介してください」と頼むと、ルーズベルトは知らんふりです。
さらに第二次世界大戦の勃発で不思議なことは、約2週間後の1939年9月17日に同じようにソ連がポーランドに侵攻します。でもイギリスとフランスは、ソ連には宣戦布告をしないのです。
ドイツがポーランドに侵攻したのが悪いのなら、ソ連がポーランドに侵攻したのも悪いはずです。だからドイツに宣戦布告したのだったら、ソ連にも宣戦布告しないと理屈が合いません。
しかしイギリスはソ連とは戦争をしません。イギリスはドイツにだけ戦争を仕掛けます。しかも翌年にはソ連は、バルト三国のリトアニア、ラトビア、エストニアをも侵略します。それでもイギリスはソ連に宣戦しない。この理屈の無さが何なのかというのは、まともに考えても分かりません。つまり戦争の原因とされるドイツのポーランド侵攻が、この戦争の真の原因ではないのです。
侵略度合いは明らかにソ連が大きいのです。しかしイギリスはソ連の行動には見て見ぬふりで、ソ連には宣戦布告しなかった。これがドイツとソ連のどちらにも宣戦布告するんだったら分かりやすいのですが、これではドイツ叩きにしか見えない。なぜこうなるのか、よく分からないのです。
イギリスが「ドイツがポーランドを侵略したから宣戦布告した」と言うのであれば、同じようにポーランドを侵略したソ連にも宣戦布告するのが当然なのに、そうはなりません。ここらへんがこの戦争の分からないところです。でも歴史には理由があるはずです。必ず別の理由があるはずです。
こうやって世界では、1939年9月に第二次世界大戦が始まります。
日本は、このヨーロッパでの第二次世界大戦の勃発に対して、「これは日本とは関係のないヨーロッパでの戦争だ」として「大戦不介入」つまり戦争には参加しないことを、はっきりと対外的に表明します。
さらにイギリスは、ポーランドに侵攻したソ連と、2年後の1941.7月に英ソ軍事同盟を結んで仲間になります。これはますますおかしいことです。こうやってドイツは孤立していきます。
第二次世界大戦が終わる1年前の1944年7月に、戦後の貿易のあり方について、特に通貨制度について決定している。これがブレトン・ウッズ会議です。これはアメリカの地名です。
ここで世界の基軸通貨はアメリカのドルになった。これは「政治・経済」で言ったことと同じです。本物のお金というのは紙幣じゃなくて金(キン)なんです。この時もそうです。
1万円札つまり日本銀行券というのは、ほんらい日本銀行に「お願いします」と持っていけば、1万円金貨と交換できるものなんです。今はこれを停止しています。これで日本の円や他の通貨は・・・・・・この時までは金と交換できたのに・・・・・・金(キン)と交換できなくなった。
ドル以外の通貨を金(キン)と交換させない。交換できるのはドルだけになった。今までみんなが自国の通貨で金(キン)と交換できていたのが、ドルでしかできなくなった。
もし日本政府が金(キン)が欲しくなったら、まずドルを買い、そのドルでまた金(キン)を買うことになります。2度手間です。もしアメリカがドルを売らないと言えば、金(キン)は買えません。
※ ブレトンウッズ体制では、「金ドル本位制」と呼ばれる変則的な金本位制が採用されている。これは、アメリカの圧倒的な経済力、金の保有量を前提に成立した制度である。「金ドル本位制」のもとでは、アメリカは、各国の中央銀行に対し、その保有するドルを、求めに応じて金と交換する義務を負う。すなわち、最終的には、アメリカは、自国および世界に散布されたドルに見合った金を保有していなければならない。ドルと金がリンクし、各国通貨がドルにリンクすることで、辛くも為替の固定相場制が維持されることになった。(マネー敗戦 吉川元忠 文春新書 P27)
円とドルの交換に手数料も発生します。けっこう高いんです。海外旅行の時、空港で交換したりしますけどかなり高いです。こういう他の通過とドルとの交換をアメリカの銀行がやる。全部アメリカの収入になります。ただこれはまだ小さいことです。本当の狙いは別にあります。

あとで言いますが、30年後の1971年にドル・ショックが起こって、金とドルの交換ができなくなります。できなくなったらもとの形に戻って、どこの国の通貨でも以前のように金(キン)と交換できるようにしなければならないはずです。しかし今も戻らない。矛盾しているんですね。ドル・ショックで金(キン)はお金(かね)ではなく、単なる商品になります。
※ 1.まずフランクリン・ルーズベルト大統領が1933年に伝統的な金本位制を廃止し、ドルと金を直接交換するシステムから金為替本位制に変え、金を排除する第一歩を踏み出した。しかしこの制度では、海外のドル保有者は国際流通市場で依然として金に交換することができた。
2.その後に構築されたブレトンウッズ体制はさらに一歩前進し、為替を通して間接的に金と交換するシステムから、ドル本位制に取って代わった。すなわち、各国の通貨をドルとリンクさせ、ドルが金とリンクさせ、海外の中央銀行のみドルを金に交換できるようにしたのである。こうして貨幣流通市場から金は追い出され、金を排除する第2ステップが完成した。
3.1971年、リチャード・ニクソンがドルと金の兌換停止を宣言し、 IMF と世界銀行の歴史的使命が終わりを迎えた。しかし、その後、国際銀行家たちはすぐに新しい「使命」を見つけた。それは、発展途上国の「グローバリゼーション」の手助けをすることであった。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P215)
アメリカのドルが世界の基軸通貨になったのは、アメリカのドルだけが金(キン)と交換できる唯一の通貨だったからです。そのドルが金(キン)と交換できなくなれば、当然ドルは基軸通貨ではなくなるはずです。
しかし今もそうなってない。その矛盾が解消されていません。今もドルが世界の基軸通貨の地位を占めています。紙幣が金(キン)と交換できないということは、紙幣に何の裏付けもないということで、これ以降アメリカはいくらでもドル紙幣を刷れることになります。
恐慌はずっとアメリカから起こります。1929年の恐慌も、そしてつい10年前のリーマン・ショックもアメリカからです。
今の金融制度と通貨制度にはどこかに矛盾があり、今も不安定です。この矛盾の原因を知れば少しは安定した経済になるでしょうけど、小賢しい人は逆にその矛盾を突いて利益を手にすることもできます。今の世界で今起こっていることはそういうことです。
円とドルの交換レートが戦後決められたのは正式にはこのあとの1949年です。1ドルは360円という固定レートになります。固定相場制です。これが1971年に、現在のような変動相場制に変わります。この変動相場制が名前のとおり変動して不安定なのです。
【ドル・ショック】 次に1970年代の話です。その1970年代は何で始まるか。アメリカがベトナム戦争に負けて、お金を使い果たして財政難になる。お金がない。アメリカの信用が落ちる。ということはアメリカのお金の信用も落ちます。
1971年、ここで何が起こるか。ドル・ショックです。別名は大統領の名前を取って、ニクソン・ショックという。大統領はニクソンです。
「ベトナム戦争でお金が必要だ。じゃあお金を刷ればいいじゃないか」、それでお金を大量に印刷する。今の管理通貨制度というのはこんなことができます。今の日本もこの管理通貨制度です。何も無いところから、いくらでも1万円札を刷れます。今のアベノミクスもこれです。もう7年もやっている。でもこんなことはいつまでも続きません。お金ばかり刷っていると、「このお金は本当に信用できるのか」と疑心暗鬼になっていく。誰もドルなんか欲しがらなくなる。欲しくないお金というのは、物の値段と同じで下がるんです。
ドル・ショックで金(キン)とドルの交換が停止されます。そこから変動相場制に変わります。これが今の制度です。その時からずっと今もそうです。
そうすると円では金(キン)が買えなくなった。というか逆に、本物のお金つまり金(キン)が欲しかったら、ドルでしか買えなくなった。

これが第二次世界大戦後、ブレトン・ウッズ会議で新たに決まったルールでした。これを金ドル本位制と言います。もっと正確に言うと、「金1オンスつまり31グラムは、35ドルで交換する」とアメリカが約束していたんです。しかしそれから20年経って、ベトナム戦争でお金を刷りまくり、他の国がそのドルをたくさん持ってるんですよ。
すると「ドルを持ってくれば、金(キン)と交換できる」のだから、他の国はそのドルをアメリカに持ってきて、金と交換する。その金がどんどんアメリカ国外へ流出し、アメリカから無くなってしまう。そうなるとアメリカは金と交換できなくなる。金が無いんだから。
しかしそうは言わない。「交換したくないから」という。金とドルの交換停止を発表します。理由は「金がない」からですが、「ない」とは言わない。「あるけれども交換しない」ということにする。本当は「ない」から交換しないんです。それほど金がアメリカから流出していたんです。
※ アメリカが1971年に一方的にブレトンウッズ体制を廃止して以来、米ドルの発行は、金による強制的な制約も出なければ国際機関による監督も受けなくなった。アメリカは思うままに米ドルを発行し、世界的備蓄と決済通貨の特権を利用してシニョリッジ(通貨発行によって得られる利益)を享受してきた。
1959年からアメリカの通貨発行量は GDP の実体経済の成長率を上回り、この過度な発行は1997年以降、さらに拡大した。2本の線の差額は、数十年来アメリカが過度なドル発行による世界から得たシニョリッジを表している。アメリカが1971年に一方的にブレトンウッズ体制を廃止したことは、重大な契約違反であった。ブレトンウッズ体制は世界各主要国が共同で締結した法的拘束力のある国際条約であるが、アメリカ政府は協議もせずに一方的に米ドルと金のリンクを廃止した。まるで米ドルによる多額の借金の踏み倒しであった。米ドルにはすでにこのような「前科」があるため、今後どのような契約違反と踏み倒しが起きても不思議ではない。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン 2010.12月 P430)
世界経済はその後「お金をどう操作するか」、そういう世界経済になっていきます。
一番簡単に言うと、お金が足らない時に、どうやってお金を手に入れることができるか。FRBが輪転機をまわして印刷すればいい。紙のお金はタダだから。それだけで完全な紙のお金になる。
もともとは紙のお金というのは・・・・・・「政治・経済」で言ったように・・・・・・金との交換券だった。1万円札は日本銀行に持っていけば、「お願いします」というだけで1万円金貨と交換してくれた。しかしこれを「しない」とアメリカが一方的に宣言したわけです。
「そんなことしていいんですか」という質問をした生徒がいる。いけないんですよ。金と交換するというのは国際的な約束なんだから。でもアメリカは軍事的にナンバーワン、経済的にナンバーワン、「ダメだ」と言ったって、お金はアメリカに牛耳られているから、日本の円では輸入できない。だからドルを買うしかない。約束を破るのはいけないことですが、でもアメリカはその約束を破ってでも、自国の利益を優先したわけです。こうやってアメリカは武力と経済力を背景に、ルールを無視していくわけです。
【アメリカの中央銀行(FRB)の設立】
1914年、第一次世界大戦が勃発しますが、その少し前からの話です。
そのころアメリカでは中央銀行をつくろうとする計画が密かに進んでいます。金融資本家たちはこの中央銀行の設立のため、人目をはばかるように密議をこらしていたという話もあります。彼ら金融資本家たちの中心にいたのが欧州のユダヤ人財閥ロスチャイルド家です。しかし多くのアメリカ人は中央銀行の設立をのぞんではいません。
そこで1907年にアメリカにまた恐慌が発生します。
1912年には、アメリカの大統領が共和党のタフトから民主党のウィルソンに変わります。ウィルソンの本業は学者であって、政治家ではありません。彼は大統領になるため、イギリス系の金融資本家から援助を受け、そのことによって大統領に当選します。
その前の大統領は共和党のタフトでした。この大統領選で、共和党の大統領タフトの対抗馬として、同じ共和党の元大統領セオドア・ルーズベルトが第3政党として進歩党をつくり、共和党の票を分裂させました。このような不自然な動きの中で民主党のウィルソンが勝利し、大統領に就任します。
第一次世界大戦の1年前、1913年に・・・・・・「たまたまだ」とアメリカは言うけれど・・・・・・アメリカは中央銀行をつくります。これで紙のお金が自由に印刷できるようになった。金貨と違い、紙のお金はいくらでも印刷できます。戦争で一番必要なのは何か。大砲とかミサイルとかはもちろん必要ですが、それは軍人に任せておけばよいことです。政治家にとって戦争で一番必要なものは何か。お金です。そのお金を作る場所、これがアメリカの中央銀行(FRB)です。
しかもこれが銀行という名前になってない。連邦準備制度という訳のわからない名前になってる。「わざと」そういう名前にしたという話さえあります。これは日本で言えば日本銀行のことです。アメリカ版の日本銀行です。
我々の1万円札は正式名称は「お金」ではありません。「日本銀行券」です。これは政府がつくったお金ではありません。中央銀行という民間銀行が作ったお金です。この銀行は民間の金持ちがつくったものであって、政府がつくったものではありません。2大財閥として、ロックフェラー財閥、それからモルガン財閥です。これは今でもあるアメリカの財閥です。FRBは彼らの民間資本によってつくられた銀行です。こうやって国家の裏にドカンと金融資本家が居座わります。
この中央銀行によって第一次世界大戦の資金が湯水のようにヨーロッパに供給されます。
※ 1907年の金融危機が一段落すると、連邦議会は、再度起こるかもしれない恐慌を防止できるようにヨーロッパの中央銀行の制度を研究する必要があるとして、財政に明るい共和党院内総務のネルソン・オルドリッチを委員長とする通貨委員会を組織しました。委員会は、ヨーロッパ各国の中央銀行のシステムを調査することになります。
オルドリッチは、 JP モルガンをはじめとするウォール街の銀行家と密接な関係にあり、娘婿はロックフェラー家の2代目当主ジョン・D・ロックフェラーでした。
1910年、オルドリッジは、10日間におよぶ法案検討の会議を秘密裏に開きます。
彼は、個人秘書のアーサ-・シェルトン、
クーン・ロブ商会のパートナーであり英仏にまたがるロスチャイルド銀行の代表ポール・ウォーバーグ、
モルガン銀行のトップを務めるベンジャミン・ストロング、
ユダヤ系のファースト・ナショナル銀行の頭取チャールズ・ノートン、
ナショナル・シティ銀行の副社長フランク・バンダーリップ、
ナショナル・シティ銀行の会長ジェームズ・スティルマン、
そして財務省の次官補アブラハム・ビアット・アンドリューを、
ジョージア州沿岸で最も小さな島のジキル島にある、上流階級の冬用のクラブに集めたのです。
彼らは、同クラブの会員だった JPモルガンのゲストとして同島に集まり、外界から隔離された秘密会議(ジキル島会議)を開きました。モルガンは直接会議には参加しませんでしたが、背後には彼の意思が働いていました。アメリカの中央銀行制度となる連邦準備制度の構想を推進したのは、クーン・ロブ商会のパートナーで、シフの義理の息子の兄である、ハンブルク生まれのユダヤ人ポール・ウォーバーグでした。彼は、アメリカの通貨を強くする中央銀行の設立が、ウォール街の国際的影響力を増すためには不可欠であると考えていたのです。ウォーバーグは後にウィルソン大統領によって連邦準備制度理事会の理事に任命されました。また、同じくジキル島会議に参加したモルガン銀行のベンジャミン・ストロングは連邦準備制度を構成する連邦準備銀行のうち中心的な役割を担うニューヨーク連邦準備銀行の初代総裁に就任します。
(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P246)
連邦準備制度理事会というアメリカの中央銀行(FRB)設立の署名をしたのは、この新しい大統領のウィルソン大統領です。のちに彼はこのことを「うかつだった」と後悔しています。
1913年12月22日というクリスマスの前日に、多くの議員がクリスマス休暇で欠席している中、この中央銀行設立の法案は議会を通過します。
中央銀行は発券銀行です。つまりお金をつくるところです。お金をつくるのは国家ではありません。中央銀行です。お金をつくる力を手に入れた者は、巨万の富を手に入れます。お金を人に貸すことによって人を操るのです。
戦争するときにはお金が必要になります。そのお金をつくる力がユダヤ人財閥を中心とするアメリカの金融資本家の手に入ったのです。
※ 連邦準備銀行には監査制度はなく、活動実態について情報公開されていませんので(この点も実におかしなことです)、連邦準備銀行の実態について詳細に理解することは困難をきわめます。(国難の正体・新装版 馬渕睦夫 ビジネス社 2014.11月 P114)
【イングランド銀行】
1688年の名誉革命で、オランダからウィリアム3世がイギリス王に即位した時、この新しいオランダから来た王の取り巻き連中が一緒にイギリスについて来ます。オランダは商業の国だから商売人が多い。その中にけっこうユダヤ人がいるんです。そのユダヤ人がイギリスで何を始めるか。ユダヤ人は金貸し業が多い。金融業つまり銀行業に入っていく。
彼らがその後に何をつくるか。
イギリスでは戦争のためのお金が必要になりましたが、そのための借金に応じる国民がいない。だから何をつくるか。それが1694年のイングランド銀行です。この銀行はロンドンの「シティ」という区域に建てられ、今もあります。名誉革命から6年後のことです。
イギリスは忙しい。王が殺され、2回も革命が起こって、その間にオランダと戦争し、革命が終わったらすぐにフランスと戦争する。その借金のために銀行をつくるんです。
この戦争の資金は国王の手持ち資金ではありません。民間の金融業者たちの資金を集めたものです。このイングランド銀行は民間銀行に過ぎません。この民間銀行から王様はお金を借ります。イングランド銀行は、イギリス国債を買う形で、フランスとのファルツ継承戦争の戦費120万ポンドをイギリスに貸し付け、その代わりに、それと同額の120万ポンドのイングランド銀行券を発行する権利をえます。つまり120万ポンドの金(キン)を元手に、その2倍の240万ポンドのお金を発行します。
こうやって、金(キン)をもっていれば、その2倍のお金を発行することを国が認めたのです。しかし2倍がよければ、3倍でも4倍でもいいはずです。10倍でも20倍でもいいはずです。キリがありません。こういう手品のようなことが起こるのです。これが紙幣つまり銀行券の発生です。
だとすれば、紙幣を発行する権利を手に入れた者は、いくらでも富を手にすることができます。紙幣はもとはタダの紙です。紙に「10万円」と書いて相手に渡せば、相手は10万円の品物を売ってくれるのです。「10万円」と書くだけで富は無尽蔵に増えます。
銀行は、「100万円貸してくれ」といわれれば、紙に「100万円」と書いて相手に渡すだけで、それがお金になります。返してもらわなくても困りません。どうせ紙なのですから。いくらでも印刷すればいいことです。しかも返してもらわない限り、利息はもらえます。イングランド銀行はこのとき、イギリス政府に貸した120万ポンドを「返さなくていいよ」といいます。そして利息だけもらい続けます。かえってこの方がいいのです。
もともと銀行券というのは金(キン)の預り証です。預かった金以上の預り証を発行することはサギです。金の預り証でなくても、預かってもいないのに預り証を発行することは、人をだますことです。ニセ金をつくって手数料を取る、そういう商売です。ニセ金でも、自分で使うのではなく、困っている人に貸して人を助けているのだからいいという人がいます。でもこれは人を助けることが目的ではありません。利息を取ることが目的なのです。
利息は不労所得です。働かずに他人の利益をもらうことです。人を働かせて、その利益を自分のものにすることです。ニセ金をつくった者に利息を払う、またそのことを国が認める。そのことそのものが、国民を裏切る行為なのです。そういうことをイギリスがはじめます。このカラクリは一見複雑に見えますが、手口は簡単なものです。預かってもいないものを、さも預かっているように見せかけ、しかもその手数料を取っているだけなのです。自分はニセ金をつくっておいて、「借りた金は返せ、利息を払え」という。
この通貨発行権は、富の収奪につながります。銀行は紙に「10万円」と書くだけで、人の所得をもらうことができます。銀行が国家と結びついた場合、銀行への利息は国の税金から支払われます。その税金は国民が支払ったものです。つまり中央銀行へ利息を払っているのは国民なのです。銀行が紙に「10万円」と書くだけで、国民がその銀行へ利息を支払わなければならなくなる。これが中央銀行の仕組みです。
しかもこの銀行は国立の銀行ではありません。国とは関係のない民間商人たちによる株式会社の銀行です。その利益は誰のものか。当然このお金持ちの商人たちのものになります。何かキツネにつままれたような話ですが、本当のことです。中央銀行にはそういうカラクリがあります。それによってお金が、金貨から紙幣になりはじめます。でも紙のお金でよかったら銀行はいくらでもお金を刷れます。
政府が「戦争したいから、お金を貸して」というと、「いいですよ、いくらですか、いくらでも刷りますよ」、そうやって銀行がお金を貸します。
そうやってイングランド銀行は、政府のイギリス国債を買います。そしてその国債を担保に紙幣を印刷し、そのお金をイギリス政府に払います。これを「国債を引き受ける」という言い方をします。紙幣発行の裏付けとしてイギリス国債を担保とし、その担保としたイギリス国家の国債の信用力で紙幣を発行する。紙と紙のやりとりだけであたかも信用が生まれたように見える。これは一種のトリックです。何かが新しく生まれたわけではありません。
しかしこれで、イギリス政府はいくらでも紙幣を手に入れることができます。こうやって一度ゴマカスと、いつまでもゴマカシ続けなければならなくなります。つまりどこまでも富の収奪を行わなければならなくなります。しかしこのことは持続可能なことではありません。富が尽きたとき、このシステムは終わります。
イギリス政府はこれで財政難をしのぎます。イギリスが戦争に強かったのはこういうゴマカシのお金、つまり紙のお金をいくらでも印刷したからです。そしてそのお金で、戦争のための武器弾薬をいくらでも買います。しかし銀行への利息は国民の税金から支払われます。
フランスは、そういうことをしません。だから戦争には弱い。「お金とは金貨だ」というルールを守っています。でもフランスでもその金貨は底を突きつつあります。だから武器を買えないのです。
しかしイギリスの紙幣はいくらでも刷れます。王様がイングランド銀行に国債を渡して、紙幣の発行を頼めば、それだけで印刷した紙がお金になります。こうなるとニセのお金と、本物のお金の差がどこにあるか分からなくなります。でもこのスタイルが世界中に広まって、今の紙幣というお金になっていきます。しかしその利息を払っているのは国民です。国民は利息を支払うために働くことになります。
これが中央銀行の通貨発行権のはじまりです。紙のお金を自由に発行する権利をイングランド銀行がもつようになった。しかもそれを王が認めた。そしてこれがのちの中央銀行になります。中央銀行とは今の日本でいえば日本銀行ですが、イングランド銀行はこういう形で世界初の本格的中央銀行になります。
紙幣 - Wikipedia
現在の多くの国では中央銀行の発行する銀行券が一般的であるが、シンガポールなど政府紙幣を発行している国もある。
現在多くの先進国の中央銀行が完全な国家機関ではなく、民間企業の投資などで出来ていることから、中央銀行のありかたを疑問視する考え方が最近世界中で起きている。そのため代替案としての政府紙幣、地域通貨なども再び脚光を浴びはじめている。
だからイギリス政府の金庫には、いっぱい紙のお金がある。イングランド銀行から借金して紙のお金を貸してもらう。自分のお金だろうが、借金したお金だろうが、お金に変わりはないのですから、武器、弾薬、戦争に必要なものは何でもガバガバ買える。フランスの何倍も買える。兵隊の給料だって払える。だからイギリスが強いんです。そのことは高校の教科書にも書いてあることです。その銀行業の中心に、新しい王といっしょにオランダから来た金貸し業のユダヤ人がいます。
※【戦争費用の調達】
※ イギリスでは、1694年にイングランド銀行が創設され、政府が発行する借用証書(国債)を引き受け、これが金融市場で取引されるようになった(財政革命)。イギリスでは、イングランド銀行が国債を引き受けたことで、国債の信用を高め、国内外からの投資を安全なものとしたため、多くの資金が集まることになった。こうした資金を軍事費にあてることで、イギリスはフランスとの戦争を有利に進めた。イギリスが、あいつぐフランスとの戦争に勝利したのは、この財政革命によって、フランスより戦争の費用を集める能力が高まったためであった。(高校教科書 新詳世界史 B 川北稔他 帝国書院 P178)
こんなことをするんだったら「イギリス政府が直接紙幣を発行すればいい」という考え方もあります。でもそうすると紙幣は「銀行券」ではなくて「政府紙幣」になります。
しかしこれをやられると銀行家の商売はあがったりです。銀行券と政府紙幣の違いは何か。政府紙幣はいくら発行しても利息は発生しません。しかし銀行券には銀行に支払う利息が発生します。中央銀行が利息をもらうのです。中央銀行は政府にお金を貸しているから、政府から利息をもらうのです。
ではその利息は誰が払うか。政府の税金から払うんです。つまりこれは国民が、中央銀行に利息を払うのと同じことです。
中央銀行は紙幣を刷るだけで、国民の税金を利息として手に入れることができます。このぼろい儲けを銀行家たちは決して手放そうとしません。逆に、政府紙幣を発行しようとする政治家は、銀行家たちにとっては敵なんです。中央銀行券というお金が政府紙幣に変わっただけで、中央銀行には利息収入が手に入らなくなりますから。しかもこの中央銀行は政府がつくった銀行ではなく、民間のお金持ちたちがつくった銀行です。
※【利子と重税】
※ 名誉革命後のイギリスでは、1694年にイングランド銀行が創設され、政府の発行する国債を引き受けた。・・・・・・イギリス政府は、戦争時、容易に大量の国債を発行することができるようになったが、その利子を払うために、国民にますます重い税を課すようになっていった。・・・・・・イギリス政府は、大量の国債を発行してその利子を税金で支払いつつ、対フランス戦争を戦い、植民地を拡大する政策を進めた。(高校教科書 新編高等世界史B新訂版 川北稔他 帝国書院 P212~213)
紙幣に関しては、前に言った中国でも似たようなことがありました。約600年前の中国の宋の時代、民間業者は「交子」という紙幣を発行していました。しかし政府はそれを禁止して、国家が発行する「官交子」という紙幣に切り替えます。これにより、紙幣の発行は民間業者がするものではなく、国家が発行することにしたのです。
紙幣発行権を手に入れた者に莫大な利益がもたらされることは同じでも、これには利息が付きません。国民が利息を払う必要もありません。しかも国家は公的なもので、そこには利益の再配分機能があります。民間業者にはその機能がありません。民間業者は、利益は全て自分のものとするだけです。つまり「富の偏在」が起こるのです。
通貨発行権を誰がもつか。現在、多くの国は中央銀行がその権限を握っていますが、その正当性は曖昧で、今でも正式に説明されたことのない問題です。しかしこの問題は、このあと政治を動かす大きなカギになります。
イギリス政府にお金を貸しているのはイングランド銀行です。イングランド銀行ができたのが1694年です。このイングランド銀行は、ファルツ継承戦争の最中にその戦費を調達するためにつくられたものです。この銀行ができたとたんに、ますます戦争が起こるようになります。この戦争をきっかけとして、イギリスはアメリカに乗り出していきます。
1.1688年 ファルツ継承戦争=アウグスブルグ同盟戦争
1689年 ウィリアム王戦争(アメリカ)
2.1701年 スペイン継承戦争
1702年 アン女王戦争(アメリカ)
3.1740年 オーストリア継承戦争
1744年 ジョージ王戦争(アメリカ)
4.1756年 七年戦争
1754年 フレンチ=インディアン戦争(アメリカ)
アメリカでの4つの戦争は、第2次英仏百年戦争ともいわれます。このときはヨーロッパの戦争がメインですが、その後の歴史から見るとアメリカでの戦争が重要です。これらの戦いでイギリスはすべて勝利していきます。背後にイングランド銀行の金の力があります。
【ユダヤの歴史】流浪するユダヤ人とハザール王国の謎|茂木誠
ハマス・イスラエル戦争、10の疑問
1.ガザ地区のビルの倒壊
ハマスが拠点とするガザ地区でのイスラエルからの攻撃を受けたビルの倒壊の様子が、まるで9.11事件の時のような、ビル解体工事のような垂直的な倒れ方だったこと。
これはハマス自身がガザ地区のビルに発破を仕掛けたことを予想させる。
2.ハマスのロケット弾5000発
10月7日のハマスからの攻撃がロケット弾5000発。こんな大量のロケット弾がどこから運ばれてきたかが不明なこと。ハマスは攻撃後、ウクライナに対して「武器を売ってくれてありがとう」と言ったこと。
3.モサドの知らぬふり
2のような大規模攻撃をイスラエルの諜報機関であるモサドがなぜ察知できなかったかということ。
これは本当は察知していて、ワザと知らないふりをイスラエルはしていたのではないかということを疑わせる。
エジプトの情報機関は、ハマスの攻撃を事前にイスラエル側に知らせていたが、ネタニアフはこれを無視した。
4.ジョージ・ソロスのハマスへの資金援助
アメリカのユダヤ人ジョージ・ソロスがイスラエルにではなく、ハマスに資金援助しているという話があること。
彼の後ろには、巨大な組織があると言われる。
5.アメリカからイランへの資金援助
ハマス側のイランに、イスラエル側のアメリカが資金援助していたと言われること。
これはイランも一枚岩ではなく、2つの勢力が対立していることを予想させる。特に軍部が。イランには、イラン革命防衛隊と国軍の2つの軍隊がある。
6.国連の停戦案拒否
国連に停戦案を提示しているのはロシアであり、国連がそれを拒否していること。つまりアメリカ側がそれを拒否していること。
7.ファタハのハマス不支持
同じパレスチナ勢力でも、ヨルダン川西岸を統治するファタハは、ハマスの軍事攻撃を支持してはいないこと。
8.ハマス成立の背景
ハマスは、もともとファタハと対立させるために、イスラエルが支援してつくらせたものとする意見がある。
イスラエルの裏には当然アメリカがいるが、そうするとハマスはアメリカが作らせたものということになる。
そうだとすれば、ハマスはイスラム国やゼレンスキーと同じアメリカの傀儡勢力だということになる。
そうだとすれば、この戦争は、9.11事件やベトナム戦争のトンキン湾事件と同じ、アメリカによる偽旗作戦(自作自演)だということになる。
9.ウクライナ戦争との関係
ウクライナ戦争でウクライナ側の敗北が濃厚になったこの時期に、なぜこの戦争が起こったのか。戦争を拡大させたい勢力が、ウクライナ戦争ではそれはムリだと判断したと同時に、新たにこの戦争を引き起こしたとも考えられる。
ウクライナ戦争は、先に軍事行動を起こしたのは確かにロシアだが、それ以前からずっとロシアを挑発していたのはウクライナ側である。
それと同じ構図が、今回のイスラエル戦争にもある。
マスコミはそれを報道しないが。どちらも「突然に起こった」と言っているが、決して突然ではない。
ちなみに、ユダヤ人にはアシュケナージとスファラディーという2つの系統があるが、ウクライナはアシュケナージの故地だといわれ、イスラエルはスファラディーの故地である。
10.マスコミの煽り報道
日本をはじめ各国の報道は、上のことをほとんど報道せず、そして深掘りもしないまま、多くは戦争の被害ばかりを報道している。そして、その悲惨さによって互いの憎しみばかりを募らせる報道に終始している。
このような報道は結果的に、戦争の拡大を助長させ、逆に停戦へ向かう世論を減退させる。
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人は何を大切にしてきたか。
人が生きながらえて来たのは、なぜだったのか。
人が何を大切にし、どうやって生きながらえてきたのか。
過去は過ぎてしまった昔のことではない。
過去から何をくみ取るか。
過去の人間が何を大切にしてきたか。
その結果として今我々がある。
どんなに貧しい社会の中でも、人々は祈り続けてきた。
神を祭り、死者を恐れる信仰の中に、何が隠されていたのか。
昔、あるホームページに載せた2005年(小泉政治の頃)の投稿ですが、、、、、、
エセ新自由主義の横行
2005.1.4
いろいろ雑誌を読んでいると、
私は新自由主義には批判的な立場ですが、同じくそれに対して批判を表明している革新政党系の雑誌には、これまた私の批判しているジェンダーフリー思想やフェミニズム思想への賛同が表明されているのです。
この論理展開の差が一体どこにあるのか、分かったようでうまく言語化できないもどかしさがあります。
たぶんそれは私が『共同性と個人』という対立軸で問題を捉えているのに対し、
革新系雑誌が『平等と差別』という軸で問題を捉えているからだと思います。
日本とヨーロッパの文化的差異を解明できる人が必要とされていると思います。
私の頭ではどうもそれがうまく説明できません。
西洋の新自由主義が道徳観と結びつく論理の背景には、自由競争を是とする市場原理が、もともとキリスト教の予定説を背景にして生まれたという事情があります。
従ってそこにはキリスト教という文化的背景がなければなりません。キリスト教というのは絶対神であり、一神教です。
そのような神への信仰があって初めて、市場原理の中で自由競争に励む行為が、『神の栄光』を増すものとして正当化されるのです。
そこに自由競争が倫理的価値と結びつく根拠があるのであって、その背景には強いキリスト教的世界観があります。
新自由主義がアメリカの保守層に受け入れられる理由はそういうところにあるのであって、彼らは同時に熱心なキリスト教徒であるのです。
西洋の伝統的倫理観がキリスト教の教えに裏打ちされていることはいうまでもありません。
アメリカの熱心なプロテスタントたちはキリスト教の教えに従う形で、自由競争の中で生き抜く労働観を作り上げているのです。
それは神と結びついていますし、
社会の安定とも結びついています。
さらに世界の安定とも結びついていますし、
世界の救済とも、そしてまた自らの救済とも結びついています。
彼らは同時にキリスト教的倫理観の復活をも期待しているのです。
アメリカのブッシュ再選の切り札が、イラク攻撃ではなく、キリスト教的道徳観の復活(同性婚の禁止・中絶禁止など)であったことはそのことをよく示しています。
私が新自由主義をキリスト教原理主義だと捉えるのはそのような理由からですし、
そのことは逆にいうとキリスト教原理主義でない新自由主義は、本当の意味での新自由主義ではないということです。
ところが日本ではこのキリスト教原理主義がないまま、新自由主義という上澄みだけを受け入れようとしています。形だけがあって中身がないのです。これは本当の新自由主義ではありません。
しかしこのニセの日本流新自由主義はその中に倫理観や道徳観を伴っていないぶん、よけいに危険なものです。
利益追求オンリーに陥ってしまう危険が大きいのです。
弱者差別に陥ってしまう危険が高いのです。
そのことが分からない政府当局は新自由主義でもって奉仕活動や愛国心教育を行おうとしているのですが、そこに日本の新自由主義の論理的破綻があると思うのです。
私は仮に日本の経済は復活することが出来たとしても、
日本の道徳的倫理観は途方もなく崩れていくと思います。
ヨーロッパ流の個人主義はキリスト教と結びつくことによって初めて一つの倫理観たりえたのに、
キリスト教的伝統のない日本の個人主義がいかなる意味でも倫理観と結びつくことは論理的にあり得ず、
そればかりか逆に日本の従来の倫理観や道徳観を根こそぎ破壊していく恐れが高いのです。
アメリカでの新自由主義が熱心なキリスト教徒たちの支持によるものであることは述べましたが、
そのキリスト教徒たちはメガチャーチと呼ばれる巨大教会の構成員となり、そこで共同体をつくろうとしています。
つまりアメリカ社会では新自由主義は自由な個人意志による共同体の構成へと向かっているのです。
ところが日本ではそうはならずに、愛国心教育へと向かっています。
これは階段を登らずに直接建物の二階に登ろうとするようなもので、個人と国家との間にある中間的共同体を介することなく、個人を国家と直接結びつけようとするものです。
学校選択制は、個人と国家の中間にあった地域共同体の文化を崩壊させるものですし、
企業の成果主義導入は終身雇用・年功序列の秩序下にあった企業共同体の文化をこれまた壊していく方向に作用しています。
このようにして個人と国家の間にあった地域共同体や企業共同体が壊されつつあり、後に残ったのは個人と国家だけという殺伐とした風景が広がりはじめています。
しかしこれに反対している左派勢力や革新陣営が共同体の復活の必要を感じているかというとそうではなく、
彼らが唱えるジェンダーフリー思想もまた、個人と国家の中間にあった家族という共同体の機能を著しく崩壊させていくものです。
つまり今この国は右からも左からも共同体つぶしの思想に席巻されているのです。
政府当局のやり方は国民をバラバラの個人に切り離した上で(それが教育の自由化・個性化・自己決定ということだと思いますが)、
つまり個人を孤立無援の状態にした上で、
否応なく国家と結びつけようとするものですし、
左派は左派で平等を掲げるだけで国民がアトム化し孤立化していくことを、社会的制約からの脱却という19世紀的自由観でもって賛美しているだけです。
前者が国家主義に結びつくのに対し、
後者はそのようなナショナリズムの台頭を恐れてそれに反対しているのですが、自分がやっていることも共同体の破壊だということは隠しています。
このような形で、日本では共同体の破壊が進んでいるのですが、
本場のアメリカ社会ではそうではなく、
キリスト教徒たちによる教会を中心とした共同体づくりが進んでいるという大きな違いがあります。
どちらにより多くのファシズムの危機があるかは、明らかだと思います。
私は人と国家とのつながりを説くことに反対しているのではありません。私は人と国家とのつながりを説くのであれば、人と人とのつながりも説かなければ片手落ちになるといいたいのです。
さらに人と国家とのつながりを説くのであれば、その前に人と人とのつながりを説くのでなければ意味がないといいたいのです。
私は国というものは抽象的なものだと思ってはいません。もっと具体的な血の通ったものだと思うのです。
そうでなければ血の通わない国家というのはいつでもどんなときでも専制国家になる可能性があるのです。
国を思うあまり、それがファシズムに陥ってしまえば、何にもなりません。
人間は苦しいときほど、努力を要する。
では努力を命ずるのは誰か。自分ではない。それが神である。
人は神からの命令という形を取る。
無邪気に神だのみをしているうちは良い。
そのうちに神だのみが効かなくなる。
そうすると逆に神ではなくて自分を責めるようになる。
神は人間にとって必要なものであるから。
神が人間を必要とする以上に、人間が神を必要とする。
なぜなら神がいなくなればすべてが許されることを知っているから。
それは人間でなくなるということだから。
人間から神がなくなることはない。
それは神々の交代という形を取る。
優しい神は捨てられて、命令する神が登場する。
それはすでに古代オリエントで見られる神の姿である。
さらに人間はこの神の命令に従うようになる。
オリエントをさまようユダヤ人の間にそれが発生した。
それが一神教である。
日本人の神はどうなるのだろう。