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ひょうきちの疑問

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宗教の世界史 【1】ギリシアとローマ -乾いた世界-

2019-07-22 09:00:00 | 宗教の世界史

【1】ギリシアとローマ  -乾いた世界-

1)乾いた土地

EUTIZU

                      ギリシアとエルサレム

 アテネの山には木がありません。 緑がまばらで、地肌がむき出しになっています。この地域は、山に草木が生えない地域です。植物の育成の一番旺盛な夏に、雨が降りません。
 日本は植物の生い茂る夏に潤沢な雨が降りますから、稲も育ち夏草も生い茂ります。しかし地中海地方の雨量は日本の半分以下です。この地中海性気候の特徴は夏の「乾き」にあります。
 また、アルプスの北側の西ヨーロッパ地方の気候は西岸海洋性気候に変わりますが、やはり夏に雨が減少します。冬には少し湿り気が出てきますが、夏に雨が少ないという点では地中海性気候と共通しています。

 地中海性気候は地中海を取り巻くように存在しています。 この地域では農産物も、柑橘類、オリーブ、葡萄などしか育ちません。代表的なものは夏のオリーブ、冬の小麦です。つまり作物が豊かではありません。

 この地域は夏は緑が枯れて褐色になり、そして冬は湿り気が出てきて緑になります。つまり日本の景色と逆なのです。 こういう地域では農業が発達しません。土地が痩せていて、人口収容力が低いのです。

 日本人が一般に持つ地中海のイメージは、非常にきれいで、異国的で、青い原色の美しい海を思い浮かべますが、実はこの海は塩分濃度がかなり高くて、魚が住まない海です。 「風土」を書いた和辻哲郎流にいうと「痩せ海」または「死の海」です。 その理由は、地中海唯一の出口であるジブラルタル海峡の水深の浅さにあります。水深が浅く、海水の出入りが自由にきかないため、海水が閉じ込められています。 その上、地中海の南のアフリカ大陸には砂漠気候が広がって、広大なサハラ砂漠、そしてその北のリビア砂漠があり、そこから熱風が吹き込んできます。その風にあおられて地中海は水分蒸発量が非常に高く、塩分濃度が高くなっています。 このようなことから、地中海沿岸部分は農業にも漁業にも適しません。その理由はやはり乾燥にあるということができます。 

 いっぽう、この地中海は交通に便利で、この海には島が多くて港も多い、渇いているから霧はなく、遠望もききます。 こういった地域では人々は活発に動き回るようになります。そしてこのような社会は生産よりも交易を重視する社会を発展させます。 さらにそれが高じていくと、自分で作るよりも他人の物を奪ったほうが早いことになります。つまり交易はそれがうまくいかなかった場合、略奪になります。 そのことは、この地域が戦いの世界へと変化していくことを意味します。交易と戦いは、一見無関係に見えますが、実は非常に近い関係にあります。

 日本では海賊といわれてもピンと来ないのですが、同じようなことは日本の室町時代にも見られました。例えば日本の倭寇と呼ばれた海賊集団がそうです。 これは海賊だと言われるから分かりにくいのであって、彼らは最初から海賊であったのではなく、もともとは朝鮮半島や中国沿岸との交易を目的とした私的貿易集団でした。 しかし、貿易がうまくいかなくなると、略奪を行って沿岸の村々を荒らし回るようになり、やがて海賊化していったのです。

 ギリシア世界というのは、このような倭寇が絶えず発生する社会だと思えばいいでしょう。 日本と比較してみると、西洋は地中海をまたいで民族と民族が出会う場所であったのに対し、日本は島国であり鎌倉時代の元寇などの特殊な例を除いて、異民族との深刻な対立を経験していない非常に対照的な地域だということができます。


2)植民活動
 ですから、この地域では地中海をまたいでの人々の植民活動が活発になります。 そういったところにギリシア文明が花開きます。 ギリシャ文明の始まりは紀元前2000年頃からのクレタ文明や、その後の紀元前1600年頃からのミケーネ文明にあります。 

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                       ミケーネの獅子門

 ミケーネ王宮の獅子門は、強固な城塞に覆われ、戦いを意識した戦闘的な作りになっています。 この城塞の背後には荒涼とした山がそびえ立っており、決して緑豊かな土地柄ではありません。

 この時代と同時代の地中海の東側・オリエント地方(現代の中東地域)を見てみると、そこにはもともとメソポタミアを中心とするセム族、その西側にはエジプト文明を中心とするハム族がいます。 その上にカスピ海周辺にいたインド=ヨーロッパ語族南下し、ヒッタイトやミタンニなどの新しい国が乱立するようになります。

 特に今「イスラエル」のあるパレスチナ地方は、民族が行き交う交通路になっていきます。 そこに民族系統不明の「海の民」やアッシリアという新しい国が加わり、 北からはメソポタミアの文明に襲われ、 南からはエジプト文明が攻めのぼり、 西からは「海の民」が、 さらに東からはアラビアの砂漠から遊牧民が押し寄せて、このパレスチナ地方は民族の十字路になっていくのです。

 紀元前1000年前後の東地中海世界は都市国家や部族集団がせめぎ合う時代に入ります。「イスラエル」のあるパレスチナ地方は陸橋の役割を果たし、戦乱が続き、目まぐるしい社会変動に襲われています。そこはあらゆるところから異民族が押し寄せてくる地域なのです。

 このような人々の移動は、地中海世界全体に共通することです。 先に述べたミケーネの王宮が強固な城壁に覆われていたのも、絶えず外敵の侵入に怯えていなければならなかったからなのです。
 このミケーネ文明が紀元前12世紀頃にいったん滅んだあと、ポリス(都市国家)が出現するまでの400年間はギリシアは暗黒時代と呼ばれる時代にはいります。それは紀元前12世紀から前8世紀までの400年間のことです。 その400年の時間を経たあと、紀元前8世紀頃にギリシャのアテネ・スパルタなどを中心とする数々のポリス(都市国家)が登場します。

 では、400年間のギリシアの暗黒時代にどのようなことが起こっていたのでしょうか。 紀元前1200年頃からギリシアにポリスが発生する前8世紀頃までの400年間の暗黒時代を見ると、 エジプトでは紀元前1380年頃にイクナアトンによる宗教改革が起こり、その約100年後の紀元前1250年頃モーセの出エジプトという事件が起こっています。 この2つのことについてはあとで詳しく取り上げますが、そのときユダヤ人集団を率いたリーダーのモーセはシナイ山のふもとで、ヤーヴェという神から十の戒めである「十戒」を授かり、ユダヤ教の成立に大きな一歩を踏み出すのです。 そしてそれから200年後の紀元前1020年頃に、今の「イスラエル」の地にユダヤ人初の王国ヘブライ王国が建国されます。 ユダヤ教の成立やヘブライ王国の建国と、ギリシアの暗黒時代は同時代なのです。

 つまりギリシアの暗黒時代は、ユダヤ教という世界初の「一神教の誕生」が起こった時期なのです。 この「一神教の誕生」はその後の世界史に大きな影響を及ぼします。
 ギリシアは紀元前8世紀になると暗黒時代を終えて、各地にポリスが成立します。そしてそれはギリシア人による植民地活動が最も盛んな時期でもあります。 ギリシア人の植民活動を見ると、その背景にはポリスの成立という小国分立の状態があり、痩せた土地をめぐってのポリス間の争いが絶え間なく続いています。 その戦いに敗れた人々は土地を離れて海に出て行くしかありません。 それは冒険好きの者が好きこのんで出ていったロマン的な話ではなく、戦いや日照りなどで食うに困った人たちが母国から追い出されるように植民していったのです。 その結果、植民に成功した新しい植民市は母国から独立したポリスを形成します。 中には植民に失敗した人々もいるわけですが、彼らにはもはや帰る場所がありません。 ギリシア人の植民活動とは生きるための必死の活動です。

 これと似たことは日本にもありました。 日本人は江戸初期に東南アジアに出ていって、日本町を形成しました。 しかしその違いは、彼らはいわば一旗揚げて日本に帰ろうと思っていたのであって、当然帰れると思っていたのです。しかし、その後日本が鎖国になってしまって帰れなくなったのです。そこに長崎の平戸からインドネシアのジャカルタにわたり、ついに帰れなくなった「ジャガタラお春」さんのような悲劇も生まれます。

 さらにギリシア人の植民は、同じインド=ヨーロッパ語族の移動である4世紀のゲルマン人の移動とも違います。 ゲルマン人の場合、同じ移動にしても、馬車を引っ張り家族を乗せて、部族全体で移動していきます。 これに対しギリシア人の植民は、いわば部族の断片である独身者が家族を伴わずバラバラに移動していくのです。そこに大きな違いがあります。


3)ギリシア・ローマ神話
 このような独身の放浪者の話はローマの建国神話にもみられます。 ローマの建国者はロムルスという男だと言われますが(このロムルスのロムがロームになってローマになったといわれます)、このロムルスが引き連れてきた仲間たちをみると、どうも彼らは独り身の男たち、つまり部族のはみ出し者であるようなのです。 このロムルスの出生伝説は、彼の母がある日昼寝をしているところを突然戦争神のアレスに襲われ、それで懐妊し、ロムルスを産んだことになっています。 つまりローマの建国者ロムルスの父親はギリシアの戦争神アレスになっているのです

 アレスというのはもともとギリシア流の呼び方で、ローマではマルスと呼ばれます。 ちなみにこの軍神アレスの不倫の相手が女神ヴィーナスであって、ヴィーナスは別にちゃんと夫(バルカンという火の神)をもちながら、軍神アレスと不倫を続けていく女神です。このこともローマ人の家族関係を考える上で重要な示唆を与えるのですが、ここではいったん横に置いておきます。

 ギリシア・ローマの神話には戦争神や軍神がよく出てきます。
 ローマを形成したこのような男たちが次にしたことは、女を獲得することでした。近くに住むサビニ族の娘たちを略奪し、自分の妻にしたのです。 

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            「サビニの女たちの略奪」 コルトーナ 1629年頃

「サビニの女たちの略奪」という絵には、ローマ人とサビニ族の間の戦いが描かれています。ローマ人に略奪されローマ人の妻となったサビニ族の女たちは不本意にローマの男の子どもを生んでいくのです。

 この戦いが続いたあと、どのようにしてそれが終わったかといえば、次の「サビニの女たち」という絵に見るように、 自分の子どもの父であるローマの男と、自分の兄弟が戦うという悲惨さの中で、サビニの女たちがこの戦いの中に割って入って、「戦争をやめるよう」に哀願するのです。 

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             「サビニの女たち」 ダヴィッド 1796年頃

 こういう物語りを考えると、ギリシアに悲劇が誕生する意味もわかる気がします。
 このような状況のなかで形成された家族には、家族のあり方にも変化が起こり、女たちは夫への怨みをもちながら産んだ子どもを育てるわけです。
 ポリス社会形成以後、ギリシアでは祖先の意識や家の意識は非常に薄くなっていきます。

 ギリシア人ももともとは強い祖先崇拝をもっていたといわれます。 例えばゲルマン人は家を重んじ、子孫の絶えることを何よりも恐れたといわれますし、 さらにその北方のヴァイキングは、自分の死後は祖先の霊の集まっている北の海にもどって、そこで祖先と再会することを念願していたといわれます。そういう強い祖先崇拝があったのです。

 そういう血のつながりのなかでKing(王)が発生します。KingのKinは「血筋」を表すのであって、Queen(女王)もKinの音便変化で血筋を表すといわれています。そういうなかで、ひときわ高貴な血統のものがKing(王)と呼ばれていくわけです。

 しかしギリシアやローマはこれと違って、家の意識の低下があらわれてきます。 ローマの建国伝説にみられる「女の略奪」というテーマはギリシア神話のトロイ戦争にもみられることであって、これはホメロスの神話に描かれています。シュリーマンのトロイ遺跡の発掘によって、これが単なる神話でないことは明らかになっています。

 トロイ戦争の始まりは、スパルタ王の妻(絶世の美女ヘレネ)がトロイの王子(パリス)に略奪されるところからはじまります。 すると妻ヘレネを奪われたスパルタ王のメネラオスは兄のミケーネ王アガメムノンを頼り、そのアガメムノンの呼びかけによって、全ギリシアによるトロイ総攻撃がはじまります。英雄アキレス(アキレス腱の語源となる英雄)の活躍もこのときのことです。 そして10年の長い戦いののち、トロイの木馬の奇策によってトロイは滅亡していきます。
 つまりトロイ戦争の伝説は、トロイの国の王子が他国の王の奥さんを横恋慕することによって、国が滅亡していく話なのです。 日本人からすると不倫まがいでけっして美しい話ではないと思います。 しかし、このような話がギリシア民族の神話になるということは、この社会のなかで女の略奪が決して特殊なことではなかったことを連想させます。 いわば女の略奪婚が、正当化された社会ではなかったかと思われます。 そこでは女たちは夫である男への怨みをもったまま生活をするのですから、その怨みはやがて子どもに伝わっていきます。 ギリシア神話に、息子による父への復讐というテーマがよく見られるのは、そのことと関係しているのではないでしょうか。

 ギリシャ・ローマ神話には、父殺し、または父親による子殺し神話が多く見られます。 例えば、オリンポス12神の中心はゼウスですが、このゼウスの父クロノスは、子どもが生まれるとすぐ食べてしまいます。 なぜこんなことをするのかというと、父のクロノスは予言をされるからです。 「おまえは息子によって、天上の王位を奪われる」と。 それを恐れてゼウスの父クロノスは生まれてすぐの子どもたちを食べてしまうのです。ゼウスも危うく食べられるところを、父から逃れることによって難を逃れます。 そしてゼウスは成人したあと、予言通り、自分の父クロノスと戦い、父を倒すことによって、王位に就きます。 そうやって王位に就いたゼウスが自分の子どもをかわいがるのかというと、彼もまた父と同じように自分の子どもを食べていくのです。

 さらに言えば、このことはヴィーナスの誕生についても言えることで、「ヴィーナスの誕生」という有名なボッティチェリの絵がありますが、 ヴィーナスの誕生は、父ウラノスが母ガイアと交わろうとしたところに息子のクロノスがやってきて、 クロノスが父の男性器を刃物で切り、それを海に投げ捨て、そしてその中から、白い精液があふれ出したところから女神であるヴィーナスが誕生したことになっています。 我々からみると何とも壮絶でもの凄い話です。だからこの「ヴィーナスの誕生」の絵の背景は海であり、ヴィーナスは海の貝殻から誕生しているのです。 しかしこの神話の中にも親と子の対立という、テーマが隠されています。

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            「ヴィーナスの誕生」 ボッティチェリ 1485年頃

 さらに言えば、父親と息子の対立がヨーロッパ人の深い病理になっているという概念を提出した精神分析学者であるフロイトの「エディプス・コンプレックス」ともこのことは関係しています。 これはテーベの王エディプスが、父を殺し、母と交わっていくという救いようのない話です。
 またヴィーナスについても、ヴィーナスが男性の精液の白い泡から誕生したということは、 この女神は男の性的欲求とを結びついていて、それはどうも男の破壊性と結びついている女神ではないか、ということを我々に連想させます。

 ですからこのヴィーナスは19世紀になると、次のカパネルの「ヴィーナスの誕生」に見られるような、非常に過激でなまめかしいヴィーナスになります。 

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            「ヴィーナスの誕生」 カパネル 1863年頃

 やはり海が背景で、天使が舞っていたりしますが、こうなると神とは思えない非常に官能的なヴィーナスになります。(美術として個人的には好きですが)日本人は神の姿をこんな形で描いたりはしないでしょう。


4)奴隷制
 今まで述べた神話はギリシアの暗黒時代を反映したものといわれますが、その暗黒時代は紀元前1200年頃、ギリシア人の一派であるドーリア人の南下(または「海の民」の侵入)によってはじまります。 このことによって、ミケーネ文明は崩壊します。その破壊はすさまじく、それから400年間のギリシアは文字のない無言の暗黒時代を迎えます。 しかし、その間に非常に大事なことが起こったのです。

 先に述べたトロイ戦争はこの時代を知る手がかりだといえます。 少なくともそこではポリスの対立と戦いの世界が描かれています。 戦いの世界では征服者が先住民を殺していくのですが、仮に殺さなかったとしても先住民を奴隷にします。 つまり、戦いの社会奴隷制社会生んでいくのです。 奴隷の始まりは戦争捕虜にある、ということは一般に認められていることですし、ギリシアでは総人口の3分の1が奴隷です。 こういった世界では、最高の美徳は戦うことであって、食糧生産などは奴隷に任せておけばよいことになります。

 ギリシア最大の哲学者、ソクラテスは哲学ばかりしていたのかというと、当時起こったペロポンネソス戦争(前431年~前404年)には当然のごとく従軍しています。 いわば、戦争に行くことが当然視された社会だったのです。

 奴隷と厳しく対立した社会の例としてスパルタの奴隷制があります。スパルタはドーリア人が先住民を征服して建てた国で、紀元前1200年ごろ、彼らは先住民を村ごとまとめて、奴隷化していきます。 そして、支配者になったスパルタ人は先住民と決して同化することなく、奴隷化された先住民たちは常に不満を抱いて不穏な状態にありました。 いわばスパルタ人と先住民は、混じり合うことなく階層的に住み分けていたわけで、そういった意味ではインドのカースト制に似ています。そういう伝統を受け継ぐヨーロッパは今でも階層性の強い社会です。

 よくスパルタ教育というと、理想的な教育のように言われて、そこでは心身の鍛錬が男ばかりでなく、女性も心身の鍛錬を行っていたといわれますが、彼らは好きでそんなことをしているのではなく、必要に迫られて仕方なくやっていたと考えるべきなのです。 どれほど厳しい社会であったのかといえば、体の弱い子どもは捨てられる社会であって、母親は子どもへの育児権を奪われる一方、強い子どもを得るためにスパルタの女性は夫以外の強い男との間に子どもをもうけることが容認された社会です。 平たく言えば不倫が容認されるわけですが、このようなことが容認される社会で家族の絆が強まるわけがありません。それは血筋の意識が芽生えない社会です。

 「ヴィーナスの誕生」を描いたボッティチェリは、このような「ヴィーナスとマルス」という絵も描いています。 

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           「ヴィーナスとマルス」 ボッティチェリ 1483年頃

 ヴィーナスはバルカンの妻ですが、同時に戦争神マルス(ギリシア名はアレス)と不倫関係にあります。 女神と戦争神が結びついているのです。 見方によってはヴィーナスは男の戦争神を操る女神だともいえるわけで、やがてその女神は戦争を率いるようにもなります。

 フランス革命の際には、民衆の先頭に立ち、民衆を率いる「自由の女神」の姿が描かれます。ドラクロアによる有名な絵があります。 

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           「民衆を率いる自由の女神」 ドラクロア 1830年

 また現在の覇権国家アメリカの入り口にもフランスから贈られた「自由の女神像」がリバティー島に立っていて、これも戦争好きなアメリカの象徴的な構図だと思われます。 2003年のイラク戦争のとき、アメリカのブッシュ(ジュニア)大統領が言った言葉は「フリーダム、フリーダム、フリーダム」でした。アメリカでは「自由」という言葉は戦争の理由になるのです。 イラク戦争には勝利したアメリカですが、戦争の原因となった肝心の「大量破壊兵器」は見つからず、アメリカはこの戦争の正当性を完全に失ってしまいます。 にもかかわらず、イラク大統領のフセインは捕らえられ、3年後の2006年12月30日に処刑されました。 

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             リバティー島に立つ自由の女神  

 ところで日本では、ギリシアやローマとは違った家族観があるのであって、久隅守景の「夕顔棚納涼図屏風」(江戸初期の絵)を見ると、夫婦の情愛、親子の情愛、そういう家の理想が、平凡な庶民の間にも成立していたことがわかります。 

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            「夕顔棚納涼図屏風」 久隅守景 江戸前期

 日本人は今でも金持ちで冷たい家よりも、貧しくてもくつろげる家に価値を見いだそうとする、そういう共通認識はあると思います。 こういう家族は血縁の意識を必然的に高めます。しかしギリシアではそのような家の血筋の意識というのは非常に希薄でした。


5)ギリシアの暗黒時代   前12C~前8C
  

a)神々の沈黙
 そこで、見過ごしてならないのが血統の弱まりとともに起こっている神々の変化です。 このオリンポスの神々の役割を見てみると、例えば最初に出てきたアレスという神は戦争の神、ヴィーナスは愛の神・美の神、そしてそのヴィーナスの正式な夫であるのがバルカンなのですが(バルカン半島のバルカンなのですが)、これは火の神です。

 こういった神々は民族との直接的な血のつながりを持ちません。これを日本の神々の役割と比べると、日本の神々は基本的には祖先神です。 その祖先神は中世になると村々を守る産土神(うぶすなしん)になります。 しかしギリシャのオリンポス12神はギリシア人の直接的な祖先神ではありません。 もっと抽象的な、愛とか美とか知恵とか火とか、そういった機能神になっているのです。 それは日本のような祖先神ではなく、人間と神の間の血縁関係が切れている状態だといえます。

 ギリシアの暗黒時代の混乱の中では神々の質も変化していきます。 この神の変化をもたらす要因に、激しい戦争の時代であることがあげられます。 戦争は人間同士の部族間の戦いですが、単にそれだけではなく、戦争は部族が崇める神と神との戦いでもあります。 戦争に負けると、負けた部族の神は「ダメな神」とされます。そして負けた神はその責任を取らされ、消されるかおとしめられていくのです。

 このことはゲルマン社会にも見られます。 2世紀のゲルマン社会ではマルコマンニ戦争というローマ帝国との激しい戦争が行われて、その間にゲルマン社会の王の性質と神の性質が変わっていきます。 まず王はそれまで高貴な血統のものであったものが、戦争が終わると王はたんに軍隊の指導能力のある者が選ばれるようになり、王の質の変化がみられます。 そして部族の神もそれまでは平和の神ティワズであったものが、戦争が終わるころになると戦争神オーデンにとって変わります。このように、戦争の中では神々も死滅し新しい神に変化していきます。

 それに対し、日本の場合、神々の性質が変わるほどの激しい戦争は行われません。 大和政権の国家統一の方法を見ると、古事記や日本書紀の中で天皇やその皇子はしばしば地方に巡幸しています。 そして地方の豪族たちの娘を娶ることによって、大和政権の勢力下に組み込みます。 一種の婚姻政策によって大和政権の勢力拡大が図らるのです。 このように大和政権は地方豪族を滅ぼさずに、彼ら地方豪族にそのまま地方の支配を委任していきます。 その地方豪族が6世紀の氏姓制度の時代にはその地域をとりまとめる国造(くにのみやっこ)となり、また7世紀以降の律令制度になると郡司となって現れます。彼らはともに地方に根を張った豪族たちです。 それとともに地方豪族たちが崇めていた神々も死滅することなく、維持されていき、神々の融和図られて、日本の多神教の世界がつくられていきます。

 日本には多くの神々を一緒に拝むという風習が古来からあって、それが後の神仏習合につながっていきます。 この神仏習合というのは日本だけのものではなく、実は世界的に広く見られるものであって、「シンクレティズム」と言われます。 このシンクレティズムのシンクロというのは、スポーツのシンクロナイズドスイミングのシンクロであって「共鳴する」という意味です。 つまり2人の演技が1つになることを目指すものです。この日本の神仏習合によって2つの別々の神を1つにする努力が払われます。 それが理論化されたものが平安時代に発生する「本地垂迹説」(ほんちすいじゃくせつ)です。日本の神は、本物(本地)であるが仮の姿(垂迹)であるとなって現れたもので、実体は同じであるという考え方です。のちには逆に、本物が神で仮の姿が仏であるとする「反本地垂迹説」も現れますが、2つの別々の神が本来は同じ神であるとする発想は同じです。


  b)神官の消滅
 戦争によって神々が排除されると次は神官の消滅が起こります。 なぜなら戦争に敗れた神を呼び出したのは神官なのですから、当然神官の責任が問われます。それで神官の力が弱まり、やがて消滅します。

 ギリシアにポリス社会が成立する紀元前8世紀には、ギリシアには神の神託を受けるデルフィの巫女はいても、特権的な神官はいなくなっていますここがメソポタミアやエジプトと違う、ギリシア社会の特異な点です。

 それと同時に大規模な神殿(代表的なものがパルテノン神殿 これはポリス全盛期のもの)が造られるわけですが、そこは神官の権威を見せつける場所ではなく、たんに共同体全員の祭祀が行われていく場所になっています。神官が消滅し、神殿のもつ意味も変わっています。 

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                  パルテノン神殿




宗教の世界史 【2】王の消滅 -血のとぎれた王権-

2019-07-22 08:00:00 | 宗教の世界史

【2】王の消滅 -血のとぎれた王権-

 1)ギリシア
 戦争による神々の変化は次々に連鎖反応を生みます。神官が消滅するとさらには王権が消滅していきます。 ギリシアのアテネも初めは王政だったのですが、前8世紀ごろポリスが成立する時期には、アテネはすでに王権が消滅した社会になっています。 それは神官が呼び出した神を、王も信じていたからです。 スパルタには、例外として2人の王が存在するのですが(これは2つの部族が合体したからだといわれますが)、この王は以前の王と比べるとかなり弱体化された王です。政治の実権は貴族たちの長老会にありました。

 ポリス成立後のギリシアの歴史は、王と神官が滅ぶところから始まっているということがいえます。 そこでアテネでは王に代わって、アルコンと呼ばれる9人の執政官が選ばれるのですが、これを選ぶのが民会です。選ぶといっても抽選です。 ギリシアは民会をもつ社会です。この民会は、王制時代の戦士の総会に起源あります。 つまり、この社会は戦い中心、戦士中心の社会だということが言えます。 ローマの場合は貴族の総会と平民の総会が別々で貴族が力を持つようになりますが、アテネの民会は貴族も平民も一緒で民会が最も力をもつようになります。

 このように平民が力を持ってくると、平民の中には農業だけではなくて商工業に従事し富を蓄える者も出てきます。 その一方で農業従事者の中には没落する平民も出てきます。

 そうしたなかで貧富の差が拡大し、没落していく平民の中には貨幣経済(貨幣は紀元前8世紀にトルコ西部のリディアですでに発生しています)の発展のなかで借金に借金を重ねて、それが返済できずにやがて借金奴隷に陥っていく者がでてきます。 借金奴隷は紀元前594年に、ソロンの改革で禁止されますが、それは禁止しなければならないほど社会に悪影響を及ぼしていたと考えるべきことです。

 そのような社会は平民同士の激しい競争を生んでいきます。 人々は常に自己正当化・自己主張する必要があり、そこから発達してくるのが弁論術です。 民会でも裁判でも常に自分の主張を明らかにし、そして民衆を説き伏せる力が必要になります。そこでは声高な自己防衛が行われる社会であって、心理学者の中にはこれを躁鬱病の躁をとって躁的防衛という人もいます。

 それとともに、このような社会ではもはや神の声というのは聞こえなくなって、神の声より自分の気持ちや欲望が優先されるようになります。 それと同時に宗教的には「神々の零落」が起こります。 そして崇高な神々の神話がおもしろおかしく喜劇にアレンジされ、人々は神様を笑い飛ばすようになります。ギリシアの神々は人間と同じような感情を持ち、同じような失敗をし、時には滑稽なことをして人々を笑わせるのです。日本人はこのようなギリシア神話の気安さに好感を持つ人が多いのですが、その裏に潜む心の渇きにも目を向けなければなりません。 日本では古来の神々が社会の変化につれてお化けに零落する過程を、民俗学者の柳田国男が「妖怪談義」の中であとづけています。それと同じことがもっと過激な形でギリシアでは起こっているのです。

 そんななかで、紀元前5世紀にはギリシアに外国から敵が押し寄せてきます。これがペルシア戦争です。 ギリシアの民主政治は、専制国家ペルシアに負けて滅んだと勘違いしている人も多いのですが、ギリシアはペルシア戦争に勝利します。そしてこの勝利によって民会が政治の最高機関として位置づけられるようになります。

 このペルシア勝利によってギリシアの民主政治は絶頂期を迎えます。 それがペリクレスの時代であり、ギリシアがもっとも繁栄する時代ですが、しかしそのあとが問題なのです。ソクラテスが登場するのはこういう時代であり、社会に深い疑いを抱いた人たちが多く出現する時代です。

 そのソクラテスは民衆による裁判によって死刑に処せられます。 それを見ていた弟子のプラトンは、アテネの民主政治に深い失望感を味わいます。ソクラテスは弟子たちの逃亡のすすめを聞かず、自ら毒を仰いで死にます。ダヴッドが描いた「ソクラテスの死」はそのシーンを描いた作品です。

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              「ソクラテスの死」 ダヴィッド 1787年

 プラトンによれば、民主政治というのは無知な大衆の政治であって、無知な人々の自分勝手が通る社会だと言ってます。デモクラシーのデモは、デマゴーグ(扇動政治家)のデモであり、またデモ行進のデモです。それらは語源を共有しています。

 ではプラトンはどういう社会を理想としたかというと、これも少し問題があって、スパルタのような国家目的最優先の国家を理想とします。財産は共有性で、そればかりか妻も社会の共有制とする。そして結婚年齢も出産年齢も指導者が決定するような社会なのです。

 それも一面恐いと思うのですが、それはともかくプラトンが言った通り、ギリシア社会はポリス間の争いであるペロポンネソス戦争(前431年~前404年)によって、衆愚政治に陥っていきます。衆愚政治というのは「皆の衆が愚かな政治」と書きます。そういう民衆を、無能な扇動政治家(デマゴーグ)が率いていくようになります。 このペロポンネソス戦争によってアテネはスパルタに敗れて、ギリシアの黄金時代は終わります。 つまりギリシアの滅亡は、ペルシアという外敵によってではなく、ギリシア内の内部崩壊によって終わっていくのです。
 
2)ローマ
 ギリシアと同様に、王権の消滅という事態は古代ローマでも起こります。 伝承によれば、ローマの建国はギリシアのポリス成立期とほぼ同時期の紀元前713年で、ロムルスという男が初代の王だと言われます。 このロムルスも勝手に王になったのではなくて、市民集会によって王に選出されました。 この王は終身ではありますが、決して東洋の王権のような世襲制ではありません。 これも家族の弱さというもの、つまり血筋の弱さというものと関係していると思われますが、日本のような世襲王権の伝統を持つ社会からみると、このような世襲制を取らない王制はどこか中途半端な印象を与えます。

 その後、紀元前509年にローマは共和制に移行し、2人のコンスル、これが執政官とよばれたり統領とよばれたりするのですが、このコンスルの任期は終身ですらなく、たった1年なのです。 そしてさらに、カエサル暗殺の後の紀元前27年、元首政に移行します。

 初代の元首はカエサルの養子であるオクタヴィアヌスです。彼はアウグストゥスという称号を受けるのですが、彼自身は決して自分を王とは言いいません。 あくまでもプリンケプス(これが元首と訳されます)、自分はあくまでも市民であって「市民の中の筆頭」にすぎないというスタンスです。これは暗殺されたカエサルの轍を踏まないようにするためなのですが、このことからローマ社会で王になることがいかに危険なことかがわかります。 しかしその業績によりこのアウグストゥスは初代の皇帝とみなされていきます。

 では実際にこの皇帝と見なされたアウグストゥスの本当の政治的肩書は、 「司令官・カエサル・神の子・アウグストゥス」、さらに「大神祇官・コンスル13回・最高司令官の歓呼20回・護民官職権行使37年・国父」とやたら長い肩書きです。 そのなかには「王」という言葉はありません。ここで言えることはアウグストゥスは従来からあった共和制の公職を多数兼任しているだけであり、決してこれは共和制から王制への過激な変化ではないことです。アウグストゥス自身は「王」と呼ばれることを極力避けていました。

 日本人から見ると絶大な権力を持っているいるように見える皇帝、つまり「エンペラー」という言葉は、先のアウグストゥスの最初の肩書である司令官、つまり「インペラトール」の英語読みです。 インペラトールは、「命令する者」といった程度の意味です。決して王ではありません。単なる戦争時の将軍を意味する言葉です。 ドイツではこの皇帝のことをカイザーといいますが、これは2番目の肩書きである「カエサル」をドイツ語読みしたものです。

 皇帝つまりエンペラーは、宗教的権威をまとった王ではなくて単なる司令官にすぎないということです。 中国の皇帝と違い、王は「天」や「神」の権威をまとってはいません。 そしてこの皇帝も世襲制とは限りません。 ローマの帝政が世襲制ではないことは、帝政時代の最も安定した時代とされる2世紀の五賢帝の時代を見るとよくわかります。 五賢帝というのはネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス、そして最後がマルクス・アウレリウスの五人を指しますが、彼らは親子でもなく、血がつながっているわけでもありません。 前の皇帝が有能と見込んだ次の皇帝を指名しているのです。 前4人の皇帝に子どもがないから、このように皇帝に血がつながらないのですが、皇帝4人も続けて子どもがいないというのが我々からみると不自然です。 ちなみにローマ帝国滅亡後のゲルマン社会は、それぞれの民族が移動先で国を建てて世襲王権を建てますが、ゲルマン国家の中心となるフランク王国の王権を見ても、その王権の世襲制は非常に不安定なものです。

 王に子どもがいないことの不自然さについて、前2世紀の歴史家ポリヴィオスは、「人々は結婚したがらず、結婚しても子どもを育てたがらないといっています。 当時のローマでは、捨て子の風習がますます広がっていきます。奴隷制社会ローマでは、捨て子はなくてはならない奴隷の格好の供給源になっています。 ローマ帝政期は見かけは華やかなのですが、どうも自分中心の社会で、自分の子どもさえ捨てて良心の呵責を感じない、いわば神の声が聞こえなくなった社会、しかも宗教的な退廃期であると言えます。 ローマ人貴族の宴会は、寝そべりながら、味を楽しみながら、食っては吐き、食っては吐き、そのために鳥の羽まで用意して、ノドをくすぐりながら吐き続けるのです。 こういう食事が一般化するということは、どこか社会が退廃しているのであって、その裏には精神的な渇きがあったと思われます。 この精神的な渇きの中で、ローマ社会に東方からのオリエント(現代の中東地域)系宗教が入り込み、様々な宗教が乱立しますが、やがてそのなかから東方オリエント系宗教の一つにすぎなかったキリスト教がどっかりと腰を据えていくのです。




宗教の世界史 【3】ユダヤ教 -一神教と多神教-

2019-07-22 07:00:00 | 宗教の世界史

【3】ユダヤ教 -一神教と多神教-

 

1)イクナアトンの一神教(エジプト)

 先に簡単に触れましたが、ギリシアの暗黒時代と同時に起こっていることが、地中海の東側・オリエント地域での「一神教の誕生」です。

 最初の一神教はヘブライ人によるユダヤ教だと思われがちですが、実は初の一神教は前14世紀のエジプトのイクナアトン王の時代にさかのぼります。 エジプトはもともと太陽神ラーを中心とする多神教の世界です。そして王は太陽神ラーの子どもまたは化身と見なされます。そういう意味では、神と人との血がつながっていました。

 そういう多神教の世界のなかでも、神々の間には人気の違いがあって、イクナアトンの宮廷ではアメン神が1番の人気であり、アメン神を祭るアメン神官団は政治的にも強い力をもっていました。 しかしその人気が高まり過ぎるとアメン神を祭るアメン神官団が政治に介入するようになり、ついには王と対立することになります。

 そういう時期、前14世紀にイクナアトン王はアメンホーテプ4世という名前で最初は即位します。 しかし彼は強い力をもつアメン神官団と対立します。 アメンホーテプという意味は「アメン神」に仕える王という意味です。 この名前を嫌って、この若い王はイクナアトンと名前を変えます。

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                アメンホーテプ4世(イクナアトン)

 そしてアメン信仰を禁止するのです。 その代わりに「アトン神」という新しい神を打ち立て、その神だけへの信仰を強要していくことになります。イクナアトンというのはイクナ・アトンであって「アトン神に仕える王」という意味です。 このイクナアトンはアトン神以外の信仰を認めず、他の神々への信仰を禁止しました。 それが一神教のはじまりです。彼はアトン神以外への信仰を否定していったのです。

 ちなみにエジプトのピラミッドは、その時代よりも1000年以上昔のエジプト古王国時代の建造物であって、そこには王の死後の世界が存在していたのですが、イクナアトンはそういった死後の世界を否定していきます。 エジプト人は死後の世界を本気で信じ、生命の再生を願ってさかんにミイラ作りを行っていたのですが、これはミイラという体がないと霊魂だけでは復活できないと信じられていたためです。その背景には、死の世界を支配するオシリス神への信仰がありました。 このイクナアトンはそのオシリス神への信仰も否定していくのです。そのことは死後の生命の否定につながります。 ですからイクナアトンのアトン神は民衆からも不人気で、その後、度重なる外交の失敗や、テーベからアマルナへの急な遷都などによってギクシャクした政治が続きます。そして彼は志半ばで若くして死にます。

 その次の王が彼の弟で黄金のマスクで有名なツタンカアメン王です。 ツタンカアメンは、「ツタンカ・アメン」であって、ここで以前の「アメン神」が復活しています。

 このように、イクナアトンアトン信仰というのは世界史上の突起物にすぎない、一種の瞬間風速だと思われてきたのですが、最近どうも違うんではないか、これはユダヤ教という一神教の成立と関係があるのではないかという考え方が出てきています。


2)ユダヤ教

  a)下層の宗教
 ユダヤ教の成立は前1250年ごろの「出エジプトという事件に始まるといわれます。これはエジプトにいたユダヤ人たちがモーセという指揮者のもと、エジプトから脱出し、目的とするカナンの地、つまり今「イスラエル」のあるパレスチナ地方に侵入していった話です。 その過程でモーセが「十戒」を授かったと伝えられるシナイ山は荒涼たる砂漠地帯です。今そこにはキリスト教の聖エカテリニ修道院が建っています。

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               シナイ山と聖エカテリニ修道院

 そこでモーセは神からの十の戒めである「十戒」を授かったとされています。 その十戒の最初には「オレ以外の神を拝むなと書いてあります。 これが一神教であるユダヤ教の成立なのです。

 エジプト人は一神教を受け入れませんでしたが、ユダヤ人がこれを受け入れたのはなぜなのでしょうか。その違いをマックス・ウェーバーは、「古代ユダヤ教」のなかで「ユダヤ人はパーリヤ民族である」といっています。 パーリア民族というのは賤民と訳されます。ユダヤ人はエジプトから脱出する前は、エジプトの奴隷として暮らしていた人々です。

 ユダヤ人またはヘブライ人は、民族的にはセム族に属し、国を持たず、またどこの国にも所属していない、この地方をさまよっている民族であって、ある時は砂漠の隊商となり、ある時は定住地に侵入する盗賊になる、またある時はエジプトのブドウ園の収穫人として現れたり、またある時はエジプトの傭兵隊となって現れたりしています。

 彼らユダヤ人はエジプトで暮らしていたときに、イクナアトンのアトン信仰、つまり一神教の思想に触れていた、そういう考え方があるのです。 イクナアトンの死後、一神教と多神教との対立が深まり、一神教の信徒は国外に追放された、そしてその一つがモーセの「出エジプト」であったというものです。

 一神教は社会の底辺であえぐ人々に光をもたらすものであって、彼らは現状に対して絶えず不満を抱いているわけですから、その宗教は現状打破を求める宗教に変わっていきます。 こういう考え方を唱えたのは、先ほど「エディプス・コンプレックス」で触れたユダヤ人の精神分析学者フロイトです。それについて書かれた本が最近何冊か出ています。

 そう考えた方が、突然ヤーヴェという神がモーセの前に現れ、「十戒」を授けたとするよりも、うまく説明がつくのです。そうでないと、我々日本人にはモーセの前になぜ突然神が現れ、なぜ十戒を授けなければならないのかがよくわかりません。そしてなぜ「オレ以外の神を拝むな」と命令するのかわかりません。彼らはそれ以前に一神教に触れていた可能性が高いのです。

 旧約聖書では、ヤーヴェはシナイ半島の神ということになっていますが、その信仰の中身は外国の神、つまりエジプトの神であったのです。つまりユダヤ人と血のつながりのない神であって、ユダヤ人の祖先神ではありません。 このような変化は先に見たギリシア・ローマ世界と同様のことが起こっていると言えるのであって、ギリシア・ローマの神々も祖先神ではありません。ギリシア・ローマにも一神教を受け入れる下地があったのです。 このような共通の地盤がやがてユダヤ教がキリスト教に変化すると、宗教的渇望の中にあったローマ人の間に急速に広まり、多くの人々がそれを受け入れていくのです。

 よくユダヤ教は民族宗教で、キリスト教は世界宗教だと言われますが、確かに現象面はそうですが、中身は同じ構造を持っています。それらは民族の祖先神ではありません。 血のつながった神は、その血を共有する民族だけの神になりますが、血のつながらない神は誰でも拝める神様ですので、そういう意味ですべての民族に受け入れやすい世界宗教になりやすいのです。 ユダヤ人と血のつながらない神であれば、ユダヤ人だけを救う民族宗教である必要もないわけです。そこに疑問を抱いたのが、のちのイエス・キリストでした。

 b)戦争神
 「出エジプト」以後、現状に不満を持つユダヤ人のなかにいっそう一神教が入ってきます。 この宗教は強い信念のもと、現状打破を目指し、カナンの地(今のパレスチナ)を手に入れるための戦争の宗教に変化していきます。 社会学者のマックス・ウェーバーはヤーヴェというユダヤ教の神のことを、「戦争神」あるいは「軍神」であると述べています。 戦争神は日本人になじみの少ないものですが、他の地域にも存在し、ギリシアでも戦争神アレスがそうであったということを述べました。

 実は日本にも戦争神はあります。八幡神というのは武門の神様であり、いくさの神様です。八幡宮はその八幡神を祭る神社です。 鎌倉の鶴岡八幡宮は鎌倉将軍家源氏一族の守り神で、源頼朝の崇敬の厚かった神社です。

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                 鎌倉の鶴岡八幡宮

 しかし、この鶴岡八幡宮は多神教の日本の中で、まだ八百万(やおよろず)の神の一つにすぎず、ユダヤ教のような戦争神を唯一の神とする一神教にはなりません。そこが大きく違う点です。

 旧約聖書は読み方によっては戦争の記録とも読めるもので、それは指導者モーセに率いられたイスラエル軍が、ヤーヴェ神の守護のもとにカナン(パレスチナ)の都市を殲滅していく記録だとも言えます。 そして悲しいことに3000年以上たった今も、パレスチナの現状は変わっていません。(これは近代以降のヨーロッパによるユダヤ人政策が原因になっています) このような状況から、旧約聖書の人間観、つまり「人間は罪に落ちた存在であるという人間観も出てきます。

 旧約聖書創世記の冒頭にはアダムとイブの楽園追放の話が出てきますが、これはよく絵画に描かれるテーマであって、マザッチョの描いた「楽園追放」のイブの表情は、この世の悲しみでこれ以上の悲しみの表情はないといわれます。

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                「楽園追放」 マザッチョ 1425年頃

 アダムはこのとき、ヤーヴェからこう言われます。 「あれほど私が食べるなと言っていた、りんごの木の実を、お前の妻が食べたから、おまえのためにこの土地は呪われる」(旧約聖書 創世記) つまりこの2人は神から呪われた人なのです。こういう人を祖先とするのがユダヤ人であることになります。これが旧約聖書の底辺を流れる思想です。

 これは、日本でいえば、日本の国土を作ったイザナギとイザナミの命が呪われた神であるとするのと同じことであり、もしそうであれば我々がそういう神々を今のように親しみを込めて拝めるかどうかは、かなり疑問だと思います。

 このように西洋の強い自己主張の裏には深刻な自己否定感があります。 これが「原罪」の意識です。 ヨーロッパ近代では、この自己否定感の反動としてプロテスタンティズムが生まれ、表面上は強い自己主張の世界に変わりますが、その底流にあるのはこのような自己否定感です。 つまり一神教が生まれる背景には、危機的な戦争、そして抑圧的な奴隷制があり、「危機」と「抑圧」が根底に存在しています。

  c)一神教の成立
 このような一神教がモーセの「十戒」によって、はっきりとした形をとります。 モーセの十戒の最初の第1条には、 「あなたは私の他に何ものをも神としてはならない」、 つまり「オレ以外の神を拝むなと書いてあります。 ここでは従来の神の性質が大きく変わっています。 我々日本人にとって神様は普通、願い事をする神様です。しかし、このユダヤ教の神は逆に「命令する神」に変わっています。 それと同時に人間は「神様にお願いをする存在」から「神への義務を果たすべき存在」に変わっているのです。

 さらにそこに戦争という状況が加わります。 戦争は今も昔も一つのことに人々を団結させる力を持ちます。 その結果は民族の結束が強まり、前1020年ごろにユダヤ人によるヘブライ王国が建国されます。その詳しい史実は旧約聖書には書かれていません。サウルという無名の若者が神から選ばれて初代の王になる話や、羊飼いの少年ダビデが神の加護のもといくさで手柄をたて2代目の王になる話があるだけです。

 ダビデ王の時期はユダヤ人はまだ民族的な結束そして国家的統一を進めていく時期ですが、 その息子で次のソロモン王の時代になると安定と繁栄が訪れ、国内の先住民や外国の諸勢力との共存の道が模索されていきます。 まだこの時期は一神教は十分に強固な一神教に固まっていませんので、多神教との共存が図られていきます。 そうした中でヘブライ王国が前922年に分裂し、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂します。 北のイスラエル王国ではヤーヴェ以外の神(特にバアル神という先住民の神)への崇拝が行われ、他民族との共存が図られていきます。 しかし先に滅んだのはこのイスラエル王国であって、前722年のことです。アッシリアによって滅ぼされました。 イスラエル王国の多神教崇拝に反対していた南のユダ王国はその後も100年以上存続します。

 その100年間の間に生き残ったユダ王国が、同胞のイスラエル王国の滅亡後、それをどう解釈したかといえば、 従来のように「ヤーヴェは自分たちの仲間を救ってくれなかったダメな神だ」とはならずに、 逆に「彼らはヤーヴェ神の掟に背いたから滅んだんだということになってしまうのです。 それは一神教の契約概念の論理構造から導かれる結論です。 ユダ王国では異教との共存が否定され、神々の世界でのシンクレティズム、つまり宗教融合が否定され、一神教の契約の概念がますます強化されていきます。

 このことによってヤーヴェはダメな神だとする事態を回避できます。 これを商売に例えるならば、「買い手が義務として100円を出さないならば、売り手は恩恵としてリンゴを渡さないのは当然だ」という契約論理です。 人間の世界の契約論理が、人間と神の間にも適用されます。日本人のように「苦しいときの神頼み」という存在ではなくなります。神頼みをする以上、義務を果たすことが要求されます。ヨーロッパが厳しい契約社会であるのは、こういう観念が発達するからです。

 その後、前586年にユダ王国も新バビロニアによって滅ぼされ、ユダヤ人がバビロンに強制的に移住させられるという「バビロン捕囚」の時代を迎えます。 そのバビロン捕囚の数十年間にユダヤ人たちの宗教的結束はより強まり、契約のルールもさらに固まっていきます。

 d)契約の発生
 この契約という概念がいかに大事かということは、新約聖書という名前にも表れていて、新約聖書の約は、翻訳の「訳」ではなく契約の「約」です。今でも「新『訳』聖書」とついうっかり間違って書く人がいます。 この契約の概念が固まってくると、さらに神々の変化が現れて、最初、契約が守られることによって動くとされた神ですが、実は我々人間は間違いの多い存在で神との契約を100%守ることはできないのですから、契約を完全に果たさなかった人間に対して、神は「動かなくてよい神」になります。 そしてついには「動かしてはならない神」に変わっていくのです。

 e)動かない神
 それがモーセの「十戒」の第3条です。 「あなたはあなたの神の名をみだりに唱えてはならない」。

 日本人から見るとオレだけを拝めと言ったり、オレの名を唱えるなと言ったり、一体どっちなのか迷ってしまうのですが、 一神教から見れば、神の名を唱えることは「人が神を動かす」ことであって、これはあってはならないことなのです。 これが一神教の側からは、言葉の呪術的価値の否定とか、御利益宗教からの脱却とかいわれるものです。 しかし我々日本人にとっては、神様に願い事をするということは当たり前であって、 通常「神様・仏様・観音様」というふうに複数の神の名を唱えますし、または「アブラカタブラ」「チチンプイプイ」、ハリーポッターの呪文でもいいのですが、そういう言葉を唱えながらいろいろな願い事をするわけです。 「商売繁盛・無病息災・家内安全・合格祈願」、こういう日本では当たり前の願い事がユダヤ教ではすべてダメになるのです。それは「人が神を動かす」ことになるからです。 つまり一神教世界というのは、日本人が行っているほとんどの宗教活動を禁止することになります。 そこには日本人の宗教観と鋭く対立するものがあります。

 一神教では「神は人間によって動かされてはならない」のです。 逆に「人間が神によって動かされなければならない」のです。 人は神のいうことには従わなければ救われないし、逆に言えば、従がってはじめて救われるのです。 いわば神の命令に従わなかった人間は自業自得で神の罰を受けるということです。そう考えていくと、このことは今はやりの自己責任論に似てきます。

 余談ですが、私は、一人前ではない子どもにあまり強くこれをいうと、子どもの心は育たないのではないかと思っています。西洋では子どもの自立尊重が謳われますが、それはこういう契約の概念の強い一神教の信仰から出てくることです。そういう文化的地盤のないところでこれを子どもに押しつけると子どもの心は壊れてしまうのではないかという疑問をもっています。このことが日本人にはよく理解できないから、ヨーロッパ流のさまざまな論理に押し流されてしまうのです。 日本人は自分たちの宗教観をもっと自覚し、それをはっきり説明すべきではないでしょうか。

 日本人の宗教観は、現在でも最も多い檀家数を抱える浄土真宗を例に取ると、悪人でも阿弥陀仏の慈悲によって救われる、という考え方があります。 親鸞の言葉として「歎異抄」に「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(善人だって極楽往生できるのだから、ましていわんや悪人が極楽往生できないわけがない)という言葉があります。これを悪人正機説といいますが、これはヨーロッパ流の契約の観念とは対極にあるものです。なぜなら神との契約を守らない悪人が救われるのなら、神の存在は必要ないからです。 こういう宗教観をもつ日本に、16世紀にキリスト教が入ってきたとき、日本人は日本で布教活動を始めたザビエルに向かって、 「あなたのいうことはわかるが、では洗礼を受けていない我々のご祖先様は地獄に行ったのか」と質問するのです。 ザビエルはこれに困ってしまいます。論理的には地獄に行くしかないのですから。 すると日本人は、 「自分たちのご先祖様を見捨てて自分だけ救われて、それが一体何になるのかと言ったといいます。

 ザビエルはこれを聞いて、本国への手紙に「もう精根尽き果てた」と書いています。 そして、「日本をキリスト教化するためにはよほど優秀な宣教師でないとできない」ということを言っています。 当時の日本人は、キリスト教という一神教が日本の宗教観と鋭く対立することを肌で直感的に理解していたのです。

 このように一神教では慈悲の心を排除していくのですが、日本人から見るとそれではどうも収まらないのです。この事は単に日本人だけでの問題ではなくて、慈悲の心をどうするかという問題は宗教的に非常に重要な問題です。

 同じユダヤ教を母体とするイスラーム教はどうかというと、慈悲の心を尊重しています。 イスラーム教のコーランの冒頭には、「慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において」という言葉が必ず書かれてます。 それは章が変わるごとに必ず書かれてある決まり文句です。 つまりイスラーム教では、神は人間の責任を問い過ぎない。神は、かわいそうな人間を救ってやることがあるのです。 しかし神との契約で成り立っているユダヤ教には、このような慈悲の心が入り込む余地がありません。

 f)厳しい弾圧
 こういうユダヤ教の厳しい神の要素を受け継ぐキリスト教は、ローマ社会で勢力を拡大したあと、ついに国教となります。紀元後392年、テオドシウス帝の時です。 国教の立場をえたこの一神教は他の宗教を認めないものになっていきます。そしてそれまでローマ社会の至る所で行われていた異教の信仰が禁止されます。 古代ギリシアの時代から続いていたオリンピックの祭典はこのとき異教の祭典として禁止されますし、それまでエジプトのアレクサンドリアで書かれていた神聖文字であるヒエログリフも異教の文字として禁止されます。 また有名なミロのヴィーナスも異教の女神として打ち捨てられて土に埋もれたまま、1000年以上もの間、眠り続けていくわけです。 このような事態は実は日本では現在起こりつつあることであって、 宮崎駿監督のアニメは「滅びゆく神々の姿」を親しみを込めて描き、それを一貫してテーマにしています。そして多くの人々の共感を呼んだわけです。

 またヨーロッパのアルプスの北でも強引な改宗が行われていて、そこに住むゲルマン人は「粗末に改宗」させられていきます。もし嫌だといえば、血が流れていくような事態になります。 例えば紀元後693年イングランドでは、子どもが生まれると30日以内に洗礼を受けさせることを強制し、そうしなければ全財産を没収するという法令が出されています。

 このような強引な布教活動は異教の世界との対立を生むのであって、ヨーロッパにはキリスト教徒によって辺境に追い詰められた民族がいます。 それがケルト人です。 ケルト人はもともとフランスとドイツの国境ラインに住んでいたのですが、現在ではヨーロッパの辺境に押しやられ、今見られるのはイギリスのウェールズ地方・スコットランド地方・アイルランド地方、それからフランスのブリターニュ地方、こういったヨーロッパの辺境にしか住んでいません。

 映画「ハリーポッター」の人気はそのことと関係しているのであって、「ハリーポッター」はキリスト教を描いた映画かというと全くそうではなく、逆にキリスト教徒によって魔界に落とされた魔法使いたちの世界が舞台なのです。 著者のJ・K・ローリングは、生まれはウェールズ地方、住まいはスコットランドです。そしてそのスコットランドの州都エジンバラで書かれたのがハリーポッターです。この地域はアングロサクソンによって迫害を受けてきた地域で、ケルトの伝統の強い地域です。 こういう地域で書かれたハリーポッターがヨーロッパでも人気を博すことは、ヨーロッパの人々がキリスト教以前の古来の神々対して今も親しみをもっていることを感じます。 そこにはグリム童話以来の、キリスト教以前のヨーロッパの土着文化を大切に維持しようとする伝統があるように思います。 スコットランドはローマ帝国やローマの影響を受けたイングランドに抵抗を続けてきた地域です。 ローマ帝国の国境には、ハドリアヌスの長城と言われるものがありますが、これは大陸から海を隔てて、イングランドとスコットランドの国境近くにあります。

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              ハドリアヌスの長城  イギリス

 スコットランドにはケルト人が住んでいます。つまりこの長城の奥にはケルト人が追いつめられていたのです。


3)キリスト教
 キリスト教がなぜ発生したのでしょうか。一言でいえばユダヤ教のもつ厳しい契約概念や自己責任論に対して、「それではあんまりだ」と思うところから発生したように思えます。

 前60年、パレスチナはローマに征服され、その属州になります。今イスラエルのあるパレスチナ地域はすっぽりとローマ領内に収まります。 そこに反ローマの独立運動が起こるのですが、ユダヤ人イエス(のちのキリスト)はこの潮流の中からユダヤ教への批判者として現れます。

 そして紀元後30年、イエスはユダヤ教徒によって告発され、反ローマ的な言動を行ったという罪でゴルゴダの丘(場所は未特定)で処刑されます。しかし3日後に処刑されたイエスが復活したという信仰が生まれます。 復活したイエスの姿を最初に見たのはマグダラのマリアという女性です。このことはあとで触れます。 イエスの復活という信仰によりイエスの教えは新しい宗教になります。 そしてイエスの教えは救世主(キリスト)の教えとして、貧しい人々に広まっていきます。 この教えを自分流に解釈して広めたのが使徒パウロであって、パウロによればイエスの死は神による「人類の罪のあがない」である、ということになります。


 つまりここでの問題は、イエスは神か、人間かということなのですが、キリスト教はイエスを人間ではなく神とします。神だからこそ全人類の罪を救ってくれたのです。 それまでのユダヤ教の神はヤーヴェという強力な戦争神でした。 ではキリスト教によってヤーヴェは否定されたのかというと、そうではありません。 つまりヤーヴェとイエス・キリスト(救世主)という二つの神が発生し、それを両方とも認めてしまうのです。 このままでは二神教になってしまいそうですが、それをどうにか一神教であるとするために、この二つの神を合体させていく努力がなされます。 それがヤーヴェとイエス・キリストは本来一体であるとする考え方です。さらにものにはついでです。父なる神ヤーヴェと子である神イエス、おまけに聖霊まで加え、三つで一つの神とします。これが三位一体論といわれるものです。 これは日本の神仏習合と似ています。そういう意味で、キリスト教は多神教的要素をもっています。

 三位一体論は、どうかすると神が三つあるという多神教的要素を持つことになります。キリスト教はさらにそれに加え、マリア崇拝というものも発生します。こうなると四神教になります。 ピエタの像を見てもマリアが中心であって、この彫刻がキリスト教カトリックの総本山バチカンにあるということも我々を驚かせます。

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               「ピエタ」 ミケランジェロ 1499年

 ちなみにこの「ピエタ」というイエスを抱くマリアの像は古代エジプトの女神であるイシス女神とその子であるホルスの像の影響を受けていると言われます。先に古代ローマでは様々な東方系のオリエント宗教がさかんに流入しその一つがキリスト教であったことを述べましたが、このイシス崇拝は、当時のローマではキリスト教と肩を並べる外来宗教の双璧でした。 キリスト教はこのような外来宗教の要素も取り入れていくのです。

 

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                ホルスに乳を与えるイシス女神

 さらに先に見た一神教色の強いプロテスタンティズム国家であるアメリカの窓口には、リバティー島に自由の女神が立っています。こうなると五神教になります。 そのほかに聖者崇拝というものもあって、キリスト教にはいろいろな多神教的要素が混じり合っています。

 ところで一頃はやったた映画「ダヴィンチ・コード」は、このようなキリスト教に対する「反」三位一体論の立場だと思います。

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           「最後の晩餐」 レオナルド・ダ・ヴィンチ 1495年頃

 この絵は「最後の晩餐」ですが、イエスの左隣にいるのは通常はヨハネだといわれますが、実はこの映画によればイエスの左隣の人物は、マグダラのマリアであり、彼女は聖書では卑しい女だとされて、次のようなあらわな姿で描かれたりもしますが、 実はこの女性とイエスとは男女の関係にあり、そして子どもまでなしていた、というのが「ダヴィンチ・コード」のストーリーなのです。

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            「悔悛するマグダラのマリア」 ティツィアーノ 1533年頃

 つまりイエスは男である、つまり人間である、つまり神ではないというのが「ダヴィンチ・コード」の主題になっているのです。 そういう意味ではキリスト教を否定する映画なのですが、それはどうもキリスト教のもつ多神教的要素の否定であって、この映画はより強い一神教への回帰を志向しているように思われます。

 このようにキリスト教は時々一神教への回帰を起こすのであって、歴史的に見れば、16世紀のルターやカルヴァンの宗教改革にそれは典型的に現れています。 特にカルヴァンの予定説などはまさにそれであって、恐ろしいほどの一神教的決定論をとっています。 一つの原理からすべてのものが発生するという発想はこういうところから出てきます。 カルヴァンによれば、すべてのことは太古の昔から神によって決められていて、その決定は人間の力ではどうすることもできない、ことになっています。 これが予定説です。 人が死んだあと天国に行くのか、地獄に堕ちるかは太古の昔からすでに決まっていることなのです。 このような考えが急速にヨーロッパに広がっていきます。

 そしてそのカルヴァン主義が近代資本主義の発展につながったとするのがドイツの社会学者マックス・ウェーバーの説であり、この説は戦後定説化された感があります。 しかしこれには異論もあり、ユダヤ人やユダヤ教に焦点をあて、彼らユダヤ教徒の金融活動が近代資本主義を発生させたとするのが同時代のドイツの社会学者のヴェルナー・ゾンバルトの説です。 いずれにしろカルヴァン主義やユダヤ教という一神教の考え方が、近代資本主義の成立に強い影響を与えたとする点は一致しています。 ゾンバルトは「カルヴァン主義はユダヤ教という強い一神教への先祖帰りだ」といっています。

 残念なのはそのゾンバルトの主著「ユダヤ人と経済生活」が現在絶版になっていることです。 ゾンバルトの本の多くは日本でも出版されていますが、主著であるこの本はユダヤ人について触れているためか、需要が高いにもかかわらず多くの出版社が二の足を踏んでいると思われます。 戦前の日本では、ヴェーバーとゾンバルトは社会学の双璧でした。 私はこの「ユダヤ人と経済生活」というゾンバルトの本は、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」と同等かそれ以上に必読の本だと思っています。 現在マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」ばかりが読まれ、ゾンバルトの「ユダヤ人と経済生活」が読まれないのは、資本主義の理解が一方に偏向する恐れがあります。

 2008年のリーマンショックを見ても、その約80年前の世界恐慌を見ても、現在の世界経済の変動は、マックスウェーバーが論じた産業資本によるよりも、ニューヨーク・ウォール街のユダヤ人を中心とする金融資本によるところが大きいのは事実です。金融資本が資本主義の成立にいかに大きな影響を与えたかを説いたのがゾンバルトです。

 現在世界中を覆いつつある「新自由主義」という経済思想は、自由競争や規制緩和そして自己責任をその思想の中核とするものであり、アメリカシカゴ学派のミルトン・フリードマンというユダヤ人経済学者の思想ですが、そのことと一神教思想は非常に似通ったものがあるように思います。 自由競争の結果が、神の予定調和の世界に至るという発想はカルヴァンの予定説そのものです。 宗教はたんに宗教界だけにとどまるものではありません。我々の日常まで作り変える力をもっています。




宗教の世界史 【4】インド -表現しえない神-

2019-07-22 06:00:00 | 宗教の世界史

【4】インド  -表現しえない神-

 1)多神教との共存
 今までヨーロッパ世界の話をしてきましたが、これから話すインド世界も、半分はヨーロッパ世界です。インド人の大半はヨーロッパ人と同じインド=ヨーロッパ語族に属するからです。 インド=ヨーロッパ語族の分布は、ヨーロッパからインドまで広大な地域に長く帯状に広がっています。 ヨーロッパを南北に分けると、北ヨーロッパ側が主にプロテスタント、南ヨーロッパが主にカトリックになりますが、 カトリック教徒が主に南米に移住し、プロテスタント教徒が主に北米に移住した結果、現在のようにインド=ヨーロッパ語族が新大陸にも広がり、現在のようなインド=ヨーロッパ語族中心の国際社会ができあがるのです。

 インド=ヨーロッパ語族のもともとの原住地はカスピ海沿岸地方だと言われます。そこから南下して、インドへの侵入が開始されるのが紀元前1500年ごろです。彼らはインド・アーリア民族といわれます。アーリアというのは「高貴な」という意味の民族の自称です。 その別派で西の方に移動した人々は、イランに定着し、イラン・アーリア民族を形成します。 それはギリシャの暗黒時代以前のことで、彼らの宗教にはインド=ヨーロッパ語族の古い神々の姿をかいま見ることができます。

 彼らがインド西北部のカイバル峠を越えてインド北部へ侵入したとき、そこにはすでに先住民が住んでいました。彼ら先住民は、インド・アーリア民族の侵入と征服から逃れるため、インドの南部へ押し出されることになります。

 現在インドの言語分布図は多様でさまざまな言語が使用されていますが、南部は主にインドの先住民族であったドラヴィダ語族になります。 ちなみにこのドラヴィダ語というのは日本語と多くの基本的な語彙を共有する言葉として、日本語の起源を考える上で注目を集めています。

 その後インド人は地域的にも階層的にも住み分けを行うようになり、それが現在のカースト制度(ヴァルナ制度)に結び付いています。 現在でもインド人は南から北に行くにしたがって、肌の色が白くなっていきます。それは先住民が南に押し出され、北にはインド=ヨーロッパ系の住民が多くなるからです。

 インド人の宗教観の大きな特徴は、先祖を祭る墓がないということです。 それは、インド人は死ねば再びこの世に生まれかわると信じていますから(これが輪廻の思想ですが)、人が死んだ後の死体は空の器にすぎないのです。この点、生命の復活を願ってそのためにミイラを作ったエジプト人とは大きく違います。 インド人は死体は火葬にして、これを荼毘(だび)に付すといっていますが、その後は聖なる川(ガンジス川など)に流して、それでおしまいです。 死後の肉体には執着しません。輪廻の世界をめぐる「精神」こそが重要であり、それだけで十分なのです。肉体は仮の宿にすぎません。インド人は目に見えるものをそれだけでは実体として信用しません。目に見えないところに本当のものが隠されていると考えています。 ですから遺骨に執着しないインド人には、日本人のような祖先供養の感覚はありません。 ということは日本や東アジアに特徴的な祖先供養は、仏教からは説明できないことになります。

 インド人が理想とする死後の世界とはどういうものでしょうか。それは輪廻の果てに宇宙の根本原理であるブラフマン)と、自己の実体であるアートマン)が合体し融合することにあります。 漢字でいえばこれを「梵我一如」(ぼんがいちにょ)といいます。 そのことが輪廻から解き放たれた「悟り」の状態であって、また「解脱」とも言われます。 このような観念はアーリア人の宗教であったバラモン教思想が仏教思想にはいりこんだ結果、その仏教を通じて日本にはいってきたものです。

 現在日本にある多くの神様でその起源をインドに持つものが多くあります。 さっき触れたブラフマンは日本では梵天といわれます。平安初期の密教文化にあらわれます。 次にインド最大の戦争神とあがめられるインドラという神様がありますが、これは日本では帝釈天となっています。この帝釈天が祭られているお寺で有名なのが東京葛飾柴又の帝釈天です。つまり映画「男はつらいよ」の寅さんの舞台です。(若い人は知らないかもしれませんが)

 また死の世界を支配するヤマという神がありますが、このヤマがヤンマになり日本でエンマ(閻魔)大王になっていきます。悪いことをすると舌を抜かれるという、あのエンマ大王です。 さらに水の神のクンビーラ神は、コンビーラ神となり、コンピラ(金比羅)神香川県)となります。 また呪術的な力を持つといわれるアスラ神ですが、これは日本では奈良時代の興福寺の仏像で有名な阿修羅像、三面六臂の像となります。

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                 奈良興福寺の阿修羅像

 このようにインドは多神教の世界ですが、そこは全くの多神教ではなく、ブラフマンに代表されるような、和辻哲郎の言葉を借りれば「非人格的なる創造原理」である一神教的要素を持っています。 その神の観念は日本と同じく、ぼんやりと曖昧模糊としていて、人間を超えたところにある何か、とらえどころのないものとして観念されています そのような神様はキリスト教の神のような人格神とはなりえないものです。 このことは神を人間の姿として描けるかどうかという、非常に根深い問題と関係しています。

 このような神観念が仏教になると、仏教の「」、つまり色即是空・空即是色の空、実体としては何ものも存在しない、あるのは関係性のみである、そういう「空」の観念にもなっていきます。 インド人の最大の発見は「ゼロの発見」だといわれますが、このことも「空」の観念と関係があると思われます。 この漠然としたブラフマンのような神の観念は、神と人との血のつながりのない点ではより徹底したものであって、そこにも仏教が世界宗教となりえた要素があると思います。

 こういう漠然とした神の観念は実は日本にもあって、日本の神話には、具体的で究極的な神は登場しません。 日本の国を生んだというイザナギ・イザナミの神についてもそうで、この二柱の神は自分の意志で日本の国を生んだのではなく、より上位の神の命令で国を生んでいくのです。 ではその上位の神が絶対的な神かというと、彼らはさらに占いなどをして、より上位の神々の意志を占ったりしています。 日本の最高神であるとされている天照大神にしても、この神は神を祀る神のような性格を持っていて、世界を専制的に支配するような神ではありません。 つまり日本ではいかに尊い神であろうと、その背後に何らかの神、または神のようなものが想定されているといえます。
 
2)日本の神観念
 このような神観念は中世から近代に至るまで和歌にも詠まれていて、例えば平安末期の僧西行はこういう歌を詠んでいます。 「何事の おはしますかは 知らねども かたじけなさに なみだこぼるる」 また明治になると石川啄木は、 「目になれし 山にはあれど 秋来れば 神や住まむと かしこみて見る」 と歌を詠んでいます。 日本の神社というのは、何が祭られているのかよくわからないのであって、そのよくわからないところが、いいところだともいえます。 このような神は偶像化できない超越的な神の感覚であり、日本人に広く共有されるものです。日本人は神社にお参りするとき、祭神が誰であるか意識しません。

 ついでに言えば、モーセの十戒の第2条に、 「あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない」とありますが、 こういうことからすると一神教にも本来偶像はありません。 それは超越的なものは具体化できないからです。

 しかし、キリスト教はキリスト像やマリア像のような偶像を利用して布教してきた歴史があります。 このことは、古代ギリシア社会から行われてきた、神を人間の姿として描く伝統と関連していると思います。 このことを考えるとなぜギリシア人が神の姿を人間の姿として描いたのか不思議な気がします。ギリシア人もアーリア人も同じインド=ヨーロッパ語族に属しながら、なぜこうも神観念が違うのか疑問はつきません。 ギリシア人は神は人間の最高の姿をしていると考えていました。神の姿を最高の人間として描きました。だから神の姿が芸術になりえたのです。しかし宗教はそういう考えだけではありません。 インド社会は本来は神を人間の姿として描かないのです。このインド社会もギリシア文化の影響を受けるまでは神を偶像として描きません。

 インド社会が仏の姿を偶像として刻むきっかけがインドの北西、バクトリア地方で発生したガンダーラ美術でした。 インドがギリシャ文化の影響を受けるようになるのは、紀元前4世紀のアレクサンダー帝国の領土拡大です。この帝国はインド西部のインダス川流域まで勢力を伸ばします。アレキサンダーはギリシア人で、この帝国の支配者もギリシア系の人たちです。つまりアレキサンダーによってギリシア文化がインドのすぐ隣にまでもちこまれました。 この大帝国が短期間で滅んだ後、次にインドの周辺に成立するのがセレウコス朝シリアです。これもギリシア系の国家であって、それを受け継ぐのが同じギリシア系国家のバクトリア王国になります。 さらにそれがインドの王朝であるクシャーナ朝へと受け継がれて、そこでガンダーラ美術が栄えるのです。このクシャーナ朝はイラン系国家ですが、文化の中心はギリシア文化でした。

 このギリシア文化の影響を受けて初めて仏の姿が偶像(仏像)として刻まれていくようになります。 その仏教文化の影響ははるか東方の日本にまで及びます。その終着点が日本の天平文化の奈良の都であり、そこで日本に仏教文化が花開きます。しかしそれが庶民にまで浸透するには長い年月がかかります。

 宗教にとって偶像を作るか作らないかは大問題であって、このような聖像問題はのちのヨーロッパ社会にも波紋を投げかけます。キリスト教は聖像崇拝を行いますが、これは主にローマ教会のもとでのことであって、それと袂を分かつ東ローマ帝国のビザンツ教会は、逆に726年に聖像禁止令を出します。キリスト教会は偶像問題で対立し、ローマ教会と東ローマ帝国のビザンツ教会(今のトルコのイスタンブールにあった)の意見の違いが表面化します。結局、キリスト教会は偶像問題で決裂し、東西に分裂します。 偶像崇拝に関しては、東ローマ帝国は最終的には偶像崇拝を許容していきますが、それは 像は刻まず、かなり抑制のきいたものになります。イコンという絵によって偶像崇拝を許容するようになります。 ヨーロッパのキリスト教文化は一神教であり、原則として偶像崇拝を禁止しながらも、現実には偶像崇拝を許容してきた歴史を持ちます。そういう意味ではヨーロッパは宗教的矛盾を抱えています。

 神を刻むか刻まないかは、宗教的にはかなり大きなことであって、日本でも当初は神の像はありませんでした。 今でも奈良県の大神(おおみわ)神社には裏手の山そのものを御神体として崇め、本殿はありません。拝殿だけです。このような姿は日本の神道の原初的な形態を示すものです。

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                 三輪山と大鳥居

 また一神教の中でイスラム教は現在でも聖像を禁止しています。 こういうことを考えると、一神教は本来、聖像崇拝と相いれないものをもっているように思います。 それは超越神や絶対神は本来像になしえない性質をもっているからだと思われます。 イスラム教徒が巡礼の対象としているのはメッカのカーバ神殿ですが、そこには偶像はなく、その代わりに黒い石が御神体として神殿に埋め込まれているにすぎません。 単なる石が御神体である例は日本の地方の神社にも見られます。御神体として丸い鏡が置かれているだけという神社もあります。 これらは宗教の持つ高い抽象性を示すものです。 神様とはいったい何なのかという問題です。

 人類史的にはこの問題はネアンデルタール人には発生せず(埋葬の風習は発生していましたが)、ホモサピエンスとよばれる現世人類に特徴的な問題です。 これは人間の抽象的思考能力に関わる問題で、脳の前頭前野の発達と関係しています。 ネアンデルタール人と比べて現世人類の特徴は、違ったもの同士を同時に意識上に取り上げ、比較する能力が発達していることです。この違ったもの同士を同時に意識上に取り出し、相互に比較することが前頭前野の働きです。 宗教学者の中沢新一は現世人類に特有のこの脳の働きを「流動的知性」といっています。いわば違った概念同士が、前頭前野というメモリー上に並べられ、相互に互いを見比べ、何が同じで何が違うかを観察し、そこから意味を読みとっているのです。 比喩とは、いわば一つの概念を他の違った概念と比較し、その共通する部分を見いだしてそれに意味づけをして独自の表現する脳の機能です。

 パソコンでいえば、例えばウィンドウズという基本ソフト(OS)の上にワードとかエクセルとか一太郎というアプリケーションソフトが同時に起動できることに似てますが、一昔のパソコンはメモリー量が小さくて同時に複数のアプリケーションソフトを開くことはできませんでした。ネアンデルタール人の脳はその状態に似ていたと思われます。 しかし今でもパソコンには限界があり、一つの基本ソフト(OS)はその上に開かれたアプリケーションソフトを他のソフトと比較し、その類似点や相違点を自動的に認識し、そこから意味を読みとることはできません。しかし現世人類の前頭前野はまさにそこから共通する部分を見いだし、それを何かに例える働きをしているのです。

 ネアンデルタール人も言葉を使用していたといわれますが、現世人類の特徴は言葉に比喩表現が多用されることです。直喩だけではなくもっと抽象度の高い隠喩(いんゆ)や暗喩(あんゆ)という表現もあります。英語でいうメタファーです。 「君は楊貴妃のように美しい」というと直喩ですが、「君は女神だ」といえば隠喩(暗喩)になります。「時は金なり」も隠喩です。ここでは全く違ったものを同じものとして表現しています。女性は女神ではありませんし、時は金ではありません。それでいて意味がわかるのです。 男が愛の告白をしてキスをしようとしたとき、女性がうつむきながら「バカ」といえば、それはOKのサインです。黙ってキスをすればいいのです。恋愛には隠喩がより多く用いられます。神を何かに例えて表現することと、愛の告白の表現には似たものがあります。愛の表現は、心の機微に触れるさらに微妙なものになりますが、このように人間の言語能力は言葉の裏に隠された意味を読む力をもっています。言葉ではなく、心を読む「マインド・リーディング」という機能です。 優れた恋愛小説にはこのような隠喩がふんだんに盛り込まれています。そういう優れた恋愛小説の衰退と、神の衰退は関係しているかもしれません。 女性がささやいた「バカ」という言葉を聞いて、「何で俺がバカなのか」と本気で怒る男はいないでしょう。この感覚はストレート好きの今の若い人にもわかるのではないでしょうか。 パスカルは「人間は考える葦である」といいました。またアダム・スミスは経済活動を神の「見えざる手」という言葉で表現し、現在の経済学にとても大きな影響を与えました。(彼はこの言葉を一回しか使ってないのですが後世に与えた影響は絶大です)

 これは違った概念を同時に意識上で比較し、操作して、類似点を見いだす能力です。 この比較能力は世界構造そのものの類似点や、死後の世界の探究にまで及びます。 神の発生はそのようなところから始まります。 神を何に例えるかは民族によって違います。自然環境によっても違いますし、社会環境によっても変化します。例えようのないものは何ものにも例えないということもできます。 ただ一つ共通して言えることは、神の概念は全現世人類に共通して発生していることです。 その神概念は一つの民族が共有して持つ比喩概念なのです。 それを何に例えるかはそれぞれの民族にまかされています。

 「人生論ノート」を書いた三木清の言葉を借りれば、人間社会にはこのように不確実なものが確実なものの基礎にあります。 比喩という実体のないものがいかにして実在的でありえるかということが、人生において最も重要な根本問題です。





宗教の世界史 【5】中国 -祖先祭祀の儒教-

2019-07-22 05:00:00 | 宗教の世界史

【5】中国  -祖先祭祀の儒教-

 1)儒教の「孝」
 宗教の点で、中国社会は西洋流の考え方とはかなり違った社会です。その中心に儒教があります。 儒教の特徴は、親孝行の「」の観念を中心とする点です。中国は家族道徳を社会秩序の基本とした社会で、そこから儒教が生まれるのですが、儒教の根底には「祖先崇拝」があります。 つまり日本と同じ祖先崇拝の感覚は中国にもあるということです。祖先崇拝というのは前にも言ったように、古代ゲルマン社会にも古代ヴァイキンク社会にもあるものであり、古代社会に広く共通して見られるものです。

 ところが西洋ではそれが徐々に薄れていったのに対し、東洋社会では今でもそれが根強く残っています。

 中国人はまず生きている親に対する「」を尽くすことから始めて、単にそれが生前だけのことではなく、死んだ親に対する「孝」というものにまで発展させていきます。 そうして祖先の魂を呼び戻す行為は子孫だけに許された役割だと考えられていくのですが、このことは単に親に対する親孝行だけではなくて、いずれ自分も子孫に祭られるという観念につながり、やがてそれは自分の死に対する恐怖や不安を解消することにもつながっていきます。 そこに儒教のもつ強い宗教性があるのであって、儒教は単なる学問ではないということがいえます。

 自分の子孫によって自分の霊がこの世に呼びもどされることが儒教の第1条件だとすれば、祖先の霊の呼び戻し、つまり「招魂」を行う第2の条件は、その魂降ろしをする技術者、つまり巫祝(ふしゅく)の存在です。 儒教の祖である孔子は「」と呼ばれる巫祝、これが儒教集団ですが、そういう集団に属していたと言われます。特に母がその系統の出身であったといわれます。
 
2)天皇家の血筋の尊重
 このような巫祝(ふしゅく)はシャマンの一種であって、それは日本にもあるものです。

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              シャマンの一例 オロチョン族のシャマン

 それが中国の史書「魏志倭人伝」の卑弥呼の記述にみられます。 「鬼道につかえ、よく衆を惑わす。男弟あり、佐けて国を治む」という記述です。 このように卑弥呼には、霊的存在と直接交流するシャマンの性格があります。 だから女王といっても、卑弥呼の実際の役割は巫女や神官ともとれるのであって、政治の実権は弟が握っていました。

 その後日本は女系天皇にはなりません。紀元5世紀には中国の史書「宋書倭国伝」に「倭の五王」という五人の男の王が日本に現れます。「倭」とは日本のことです。「讃・珍・済・興・武」という日本の五人の王であり、雄略天皇などの日本のこの時代の天皇に比定されるのですが、そこではすでに親子兄弟の血縁関係が成立し、日本の王権は男子による世襲制になっていて、現在に至るまでそれは受け継がれています。 そのことを考えると日本には祖先崇拝の下地があってそれが政治ルールへと発展していったことが読み取れます。

 このような政治ルールは中世・近世社会にも及ぶものであり、それは天皇と将軍の関係にも見てとることができます。 俗に武家社会のリーダーを将軍と言っていますが、正式には「征夷大将軍」のことであり、征夷大将軍は決して日本の政治的トップではありません。 将軍は鎌倉将軍・室町将軍・徳川将軍と続きますが、彼らはともに夷敵を討伐する天皇の家臣の立場であるにすぎず(だから「征夷」という呼び名がつくのですが)、決して自ら天皇にはなろうとはしません。

 最初の鎌倉将軍である源頼朝の血筋は、清和天皇の末裔である清和源氏に属します。 源氏系図をたどると、清和天皇から源頼朝への系譜をたどることができます。つまり天皇家から見れば将軍家は分家にあたるのです。 また室町将軍家(足利氏)も、清和源氏の嫡流源義家(将軍源頼朝の4代前の祖先)からの分家です。 確かに徳川将軍になると、三河の松平郷の出身であり、清和源氏とはいえないのですが、家康は一時自分の系図を清和源氏に偽造することに凝っています。 このことは逆に言うと、それだけ血統に権威があったということであり、日本の政治ルールでは血統の信仰を上回るだけの政治的正当性が出てこなかったということです。天皇家を覆す試みがなかったわけではないですが、それらはすべて失敗していきます。

 一つの例として平安時代の平将門は天皇と張り合って、自ら新皇と称しますが、天皇の権威とは比較になりませんでした。 もう一つは足利時代の三代将軍足利義満は公武にわたって力をおよぼし、次には足利天皇を擁立しようとしたという説があり、それが成功するかに見えた直前、急死してしまいます。どうも一服盛られたのではないかという話もあります。 こういうことを考えると、日本の将軍というのは将軍になるのがやっとで、天皇になることなど思いもつかないのが実態であったと思われます。

 ですからペリーがやってきて黒船ショックがあると、最終的には大方は天皇方についてしまうのです。 それは一種の日本の宗教感情であって、それが政治感情と結びついています。明治維新は決して朝廷が軍事的に強かったからではありません。 政治を理解するためには宗教理解が必要であることのよい例だと思います。 明治維新の説明には政治理解だけでは限界があるのです。例えば尊皇攘夷というキーワードを説明する際にも、宗教的文化的な面から、天皇家と結び付けないとうまく理解できないのです。
 
3)中国の宗族
 話を中国に戻しますと、中国は今でも男系による血縁集団が強固です。 これが「宗族」といわれるものです。 宗族は祖先を同じくする親族の組織であって、長男が相続し祖先の祭祀を行う集団です。この集団は非常に強固であって、人間の属性として一生変えることはできません。そしてこの宗族を表すのが姓ですから、この姓を変えるのは決して許されません。ですから中国人の姓は不変です。女性もそうです。そこに血縁集団の強さが表れています。 ですから中国人は夫婦別姓ですが、その夫婦別姓の裏には血縁集団の強さがあるということです。

 日本でも最近夫婦別姓論があり、それを血縁集団の強さと結びつけて考える人は非常に少なく、逆に西洋流の個人主義と結びつけて考える人が多かったのです。そのことを私は非常に残念に思っていました。夫婦別姓が西洋流の個人主義から発生したのでないことだけは確かなことです。

 実は日本にもこのような夫婦別姓の時代はありました。源頼朝の妻の北条政子は結婚しても北条政子であり、室町幕府8代将軍の足利義政の妻は結婚しても日野富子であり続けます。 このことは現代の個人尊重の夫婦別姓論とは無関係のことで、むしろ氏族社会の強固さが根底にあったため、結婚によって自分の氏族の名前を変更することはなかった、そう理解すべきことなのです。

 中国の宗族は現在では中国中に散らばっていることもあって、決して地域集団ではありません。 地域集団であれば日本のように、「遠い親戚より近くの他人」となりますが、血縁集団では「近くの他人よりも遠い親戚」なのです。 この血縁集団がどれくらい強固なものかといえば、例えば見ず知らずの中国人が、アメリカで社長と皿洗いの立場で出会った場合、それまで見ず知らずで立場も違う二人が、同じ宗族だと知った途端に、家族を挙げての付き合いに豹変するのです。それほど強固なものです。

 日本の家集団は、確かにその中に血縁ルールを含んでいますが、血縁ルールのみで成り立っているものではありません。異姓の養子をとることも可能ですし、結婚すれば姓の変更も可能です。 このような「家」が生まれるのは平安時代以降の武士社会に見られるものであって、そこでは「家の子・郎党」という組織づくりが行われています。「家の子」は血のつながりを持つ者ですが、「郎党」は血のつながりのない者をも含みます。これは日本の家族制度の柔軟性を示すものだと思います。 

4)中国の封建制
 今、宗族に触れたのは中国の政治体制である封建制が宗族と深いつながりを持つためです。 紀元前11世紀の周王朝の時代に封建制が現れますが、それは王は諸侯を任命し土地を与えるものですが、その王と諸侯の関係は単なる主従関係ではなくて、「血のつながり」をもった本家と分家の関係になっています。 そういう血のつながりのもとに周王朝は国を治めていくのです。 この「血のつながり」の強さが先に述べたギリシア植民との違いであって、ギリシアでは本国と切り離された植民が行われただけで、それぞれ独立したポリスが乱立していくのに対し、中国は一つの国家として領土を広げ領域国家として発展していくのです。
 
5)天の思想
 ただ紀元前5世紀の戦国時代になると、「血のつながり」のほかに「天命」を受けた天子と称する者が出てきます。 これは最初は周代からみられますが、戦国時代になると多くの成りあがりの王が現れてきますが、彼らは周の王室のようには血統を誇れないのです。 そこで血統以上の論理が必要になるわけです。例えば「戦国の七雄」に見られるように「斉・礎・秦・燕・韓・魏・趙」が乱立する群雄割拠のなかで、まだその真ん中には「周」の王室が存在しているのですが、彼らは周の王室の権威に負けないような新たな理論を作る必要に迫られるのです。

 それが王たるの「」という考え方であって、この徳が誰によって与えられるのかといえば、それが「天命」によって与えられるとするのです。 つまりこのことによって血統原理を上回るものとして、「天命」という強い原理が発生します。

 中国では王が変わることを「易姓革命」といいますが、それは読んで字のごとく、「天命が革まることによって、王の姓が易わる」ことです。 つまり血統を上回る新たな天の正義という論理によって王朝が交代することです。 ですから革命というのは、「血統」という原理から「」という原理に原理が変わることを意味します。 

6)中国の皇帝
 その「天命」という発想の延長線上に「皇帝」という言葉も現れてきます。 この言葉を最初に使用したのは秦の始皇帝です。 皇帝というのは「ひかり輝く神」の意味です。皇帝の「皇」の文字は「王」の上に「白」く輝くと書かれています。また皇帝の帝は神を祀るときのテーブルの形です。 つまり皇帝とは「天のお墨付きをもらった人」であって、大きな権力を天から保障された人です。

 しかしこのことによって中国の血統の原理は否定されたのではなくて、中国の皇位は世襲されていきます。 中国では血統は尊重すべきものとして維持されて、王権の世襲も維持されていきますが、この原理が行き詰まったときに「天命」という原理が発動されます。このように二つのルールが共存しているのです。

 西洋のエンペラーには血統原理が弱いことはすでに見たとおりですが、ローマ帝国以降の西洋の歴史は、フランク王国になると確かに世襲制になるにしても、そこでは血統原理が常に選挙原理に脅かされる歴史を持っています。 ヨーロッパの近代革命は、王権が消滅し議会政治になることですが、それは血統原理が消滅し、選挙原理が勝利することです。 このように西洋では原理が変わるのです。だから「革命」なのです。




宗教の世界史 【6】日本 -神儒仏の習合-

2019-07-22 04:00:00 | 宗教の世界史

【6】日本 -神儒仏の習合-

 1)神との血のつながり
 中国で見たように、日本にも祖先崇拝はもともとありました。つまり神と人との「血のつながり」がありました。 そこがヨーロッパとの大きな違いであったのです。 西洋の神(God)は先に見たように、人と神との血のつながりが切れたものでしたが、日本人はその違いにもかかわらず、それを日本語と同じ「神」と翻訳しています。それは翻訳である以上仕方のないことですが、その内容まで同一だと思い込むと、文化の相互理解の妨げになります。

 7世紀後半の天武天皇は、確かに国家仏教の興隆に努めましたが、それと同時に伊勢神宮の祭祀にも力を入れています。今まで触れてきたように、仏教(寺院)と神道(神社)は違うのです。それを同時に行うのです。この時期は、天皇の神格化が同時に行われた時期でもあります。 天皇という言葉の発生も、聖徳太子の時期なのか天武天皇の時期なのか論争がありましたが、ほぼ天武天皇の時期だと決着がついているようです。

 では伊勢神宮に祭られている神はと言うと、これが天皇家の祖先神、つまり皇祖神である天照大神なのです。 このように天皇と神との血のつながりが日本には残っています。 また各部族の氏神も氏族との血のつながりを残したまま維持されていきます。そして朝廷は各部族の氏神を天皇家との血縁的な関係に組み入れていくことによって、領土を統一していきます。それと同時に、家臣になった部族の氏神を大切に祭っていくのです。

 例えば出雲大社の壮大な社殿は平安時代にも維持されていました。ここに祭られているのは大国主命であって、ここは国譲りの神話でも有名なように、朝廷と対立した強大な王権があった地域だと思われます。 それにもかかわらず朝廷は対立した神でも打ち捨てずに、壮大な社殿を維持したのでした。出雲大社の社殿は今でも立派なものですが、平安時代の社殿は今よりもっと大きく高かったといわれています。

 日本には2つの宗教観があって、仏教では「人は遙か彼方に存在する浄土や彼岸に生まれ変わる」と言われています。 しかし、これに対して柳田国男は「日本人は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方へは行ってしまわない」、常に我々の近くに存在している、そういうことを「先祖の話」の中でしています。 例えば、「草場の陰で泣いている」という言い方は、このような霊魂観を示すわけです。こちらの方が仏教より古いのです。いわば神道流の死生観が根底にあるのです。

 
2)死のケガレ
 柳田国男のいうような観念をもつ日本人にとって、人間の霊魂は、恐いもの、ケガレとして恐れられてきました。 死は最大のケガレであって、アラタマ(荒魂)の跳梁に対して、それから逃れるためには禊ぎ(みそぎ)や祓え(はらえ)がありましたが、それだけではあまりにも心細かったのです。

 禊ぎの風習は日本にだけ限られるものではなく、インドにもあります。インドでは聖なる川であるガンジス川で沐浴をします。 日本での禊ぎは、若い人だけが行うわけではありません。古くは老いも若きも行っていました。お祓いなどは今でも多くの人が一度は経験することだと思います。

 こういう日本の風土の中に紀元6世紀にインドから仏教が伝わってくるのです(直接的には朝鮮からですが)。それは最初、氏族仏教として受け入れられました。 しかし、有力な氏族たちがその新しい宗教である仏教をどのように利用したのかといえば、やはり歴代の先祖の祭祀に利用したのです。 つまり鎮魂儀礼として身のまわりにいる霊を鎮めるものとして仏教を受容したのです。日本初の仏教文化といわれる7世紀の飛鳥文化とはこのようなものです。

 これが受け継がれて8世紀の奈良時代には国家仏教になるのですが、この国家仏教の特色は「鎮護国家」の思想にあります。 ここでもやはり国家による怨霊鎮めである「鎮魂」が中心となるのであって、疫病鎮めなどに利用されます。当時疫病は怨霊の仕業と考えられていたからです。 奈良時代は有力な藤原氏の四人の兄弟が次々に天然痘で死んでいった時代であり、また反乱を起こした藤原広嗣の怨霊が恐れられていた時代でもあります。

 平安遷都の理由もこれに似たものであって、桓武天皇の弟である早良親王の怨霊を恐れて、桓武天皇は平安遷都を断行していくのです。どうもこの早良親王の暗殺に桓武天皇も一枚かんでいたようなのです。

 人が一人で誰にも見とられずに死んだり、孤独な死、または不幸な死というのは、古来から最も恐れられた死にかたであって、そのような人の霊魂は適切な祭祀を行わなければ人に祟ると信じられていました。だからそのような怨霊を神として祭る必要が出てきたのです。 今から思えば、そんな霊魂はお寺さんにお任せすればいいではないかと思うのかもしれませんが、この当時の村々にお寺はなく、お墓というのは村はずれのさびしい共同墓地であったのです。 そういうところで祖先を祀っても、その子孫はどうも不安でたまらない。どうも安心できない。そういう怨霊を恐れる気持ちがずっと流れていました

 しかし日本の怨霊はある意味、人間的な心を持つのであって、人々が誠意を込めて霊をなぐさめれば、ちゃんと鎮まってくれる性質を持っていました。 こういう鎮まった怨霊を「御霊」といって、人々はとても大切にしました。 そこから平安時代には御霊会といって、早良親王や政治的な敗者などの怨霊を慰める行事が生まれてきたのです。 京都の北野天神や祇園社(八坂神社)のお祭りは、元来この御霊信仰から生まれたものです。現在でも日本の夏祭りの代表といえば京都八坂神社の祇園祭です。これは怨霊鎮めの祭りなのです。 ですから日本の夏祭りというのは、春祭りの豊作祈願や秋祭りの収穫祭と違い、系統を異にする祭りです。

 このような怨霊の代表として最も恐れられたのが菅原道真です。 彼は都から福岡の大宰府(ちなみに今の表記は太宰府と書きます)に左遷され、903年にそこで無念に死んでしまうのですが、のちに彼は雷として祟るという信仰が生まれます。 これが天神信仰なのですが、天神という地名は日本各地にある地名で、そのことによっていかにこの怨霊が恐れられていたかということが分かります。 菅原道真の怨霊を描いたのが「北野天神縁起絵巻」ですが、描かれたのは鎌倉時代であって、すでに道真の死後数百年が経っていますが、それにもかかわらずこういう絵が描かれていたということは、道真の怨霊が数百年の時を経ても強く恐れられていたことがわかります。 京都の北野天神はその菅原道真を祀る神社ですし、菅原道真が左遷された福岡の太宰府天満宮は現在は学問の神様として有名ですが、歴史的には決して学問の神として成立したのではありません。怨霊を鎮めるためのものだったのです。

 また、9世紀の応天門の変の犠牲者である伴善男も怨霊化した人物であって、死後約200年たった院政期に「伴大納言絵巻」が描かれています。  また平家物語も、もともとは滅亡した平氏に対する鎮魂歌です。鎮魂の歌というのは日本に限られたことではなく、英語ではこれをレクイエムといいます。 平家が怨霊として恐れられていたことは、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が日本で結婚した妻や民間から採取した「耳なし芳一」の話に記されています。これは平氏への鎮魂歌、つまり琵琶法師たちが歌い続けてきたレクイエムなのです。

 そこから不幸な死に方をした者ほど大切に祀らなければならない、という強い信仰も生まれてきます。 日本人の判官(ほうがん)びいきもそういうところから出てきます。判官びいきの判官というのは将軍源頼朝の弟の源義経を指すのですが、彼も非業の最期を遂げたあと非常に恐れられた人物であって、多くの伝説を生んでいます。中にはモンゴルに渡ってチンギスハンになったという伝説さえあります。 また平安時代に反乱を起こして死んだ平将門は現在でも、東京丸の内のオフィスビル街の地価何千万円するビル街の一等地に首塚が設けられていて、今も丁重な祭祀が続けられています。

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                東京都千代田区の将門の首塚

 日本にはこのような怨霊思想を生む下地があります。それは古くから受け継がれてきたアニミズムの思想が連綿と続いていることにあると思います。 


3)アニミズム
 アニミズムというのはすべてのものに心を認めるという考え方であって、西洋ではこのアニマ(心)を持つ生き物がアニマルとなったことからみても、このようなアニミズムは広く世界的に見られるものです。 日本人の霊魂観もそうであって、魂は人だけに宿るのではなくて、山や川、草や木など、すべてに霊が宿るという考え方があります。 宮崎駿監督のアニメ「もののけ姫」を見るとそこに登場するシシ神の描写などは非常にアニミズム的な色彩の強いものです。

 実はこのような感覚は今でもあるのであって、例えば幼い少女が大切にしていたお人形さんに自然に話しかけることはよくあることです。 それを見て大人が、「お人形さんに話しかけてわかるわけないじゃないか、バカじゃないか」などといえば、子どもの心は絶対に育ちません。子どもは人形の中に心を見いだすことによって人の心の存在に気づくのです。 逆に人形を単に物だとみて、切り刻んで喜ぶ子どもや、人形の頭を引き抜いて楽しむ子どもがいれば、それこそ恐いことです。

 この他にも、例えば鎌倉・室町時代には貨幣経済が発達して定期市が発生し、それを三斎市・六斎市というのですが、三斎・六斎の「三」「六」はそれぞれ三のつく日、六のつく日を意味しますが、三斎・六斎の「」は祀るという意味であって、その日は神が天から下界に降りて来る日なのです。

 つまり市で取り引きされる物は、単なる物として存在するのではなくて、その所有者の魂を呑み込んだものとして存在しているのです。だから神様が降りてくる日にそこでお払いをして、いったん以前の所有者の霊魂を取り除く必要があるわけです。 この事を現在でも笑えないのは例えば、中古車を買いにいって極端に安い車があると、それは事故車ではないかと疑って、誰も買いたがらないのと似ています。 よく考えれば事故を起こしたのは運転者の責任であって車自体とは関係ないのですが、それを買うと前の持ち主の霊が自分にも乗り移るような気がして、どうも買う気にならないわけです。

 また死者の形見分けの風習はこれとは逆の意味で、自分と親しい死者の心が生前使用していた物に乗り移り、それを分け与えてもらうと我々を守ってくれるという信仰です。

 それは現在にも続く感覚で、日本人に今も染み付いている感覚だと思います。ですから三斎市や六斎市では元の持ち主との縁を断つために、いったん神に捧げて神のものとし、そこで初めて誰のものでもなくなるわけです。物を交換するには、そういうことをする必要があったのです。 そして物と霊魂との縁が切れたところで初めて交換が成立します。ですから市での交換の本質は、まず神との交換であったのです。

 このような例は、鎌倉時代の永仁の徳政令にも見られるもので、これは購入した土地を無償で元の持ち主に返還しなさいという幕府の法令ですが、このような徳政令が鎌倉時代から室町時代にかけて頻発されるのは、土地も元の所有者の魂を呑み込んだものとして存在しているわけですから、貸し借りや売り買いは仮の姿に過ぎず、いずれは元の持ち主に返さなければならない、そういう観念が流れていたからです。

 ですから、現在のような「所有者は所有物についての全支配権を持つ」というのは近代資本主義に特有の所有権であって、それは近代以降の歴史的な産物にすぎないとも言えるのです。
 

4)鎮魂
 ところがこのような霊魂を実体的にとらえる霊魂観に対し仏教はどう考えるかといえば、 「諸行無常」、常なるものはない、つまり常なる実体はない、 「諸法無我」、自分という実体はない、 縁起」、縁あって起こる、すべては関係性の中で起こる、つまり実体はない、(今でいう縁起が悪いの縁起とはかなり違った意味です) また「」、色即是空・空即是色の空ですが、この世の全てのものに実体はない、 つまり霊魂はない、そんな霊魂などというものを考えたらだめなんだ、 そういう思想が仏教の根底にある思想だったのです。

 だから物に魂が宿るという日本の思想は、このような仏教思想とは非常に根深い対立をはらんでいました。 無我というのは何もないことですから、そこに魂だけがあるのはおかしいことになってしまいます。 そこに矛盾がありました。

 ところが民間の仏教者である各地をまわる平安時代後期の聖(ひじり)という念仏行者たちは、「そんな怨霊はいない」とは言いません。庶民の考え方を否定しませんでした。 そして丁重に庶民の先祖の供養を行ったのです。つまり霊魂を祀るのです。そういう活動の中で貴族の宗教にすぎなかった仏教が次第に庶民に浸透していきます。


5)密教
 そういうことを可能にしたのが平安密教であって、密教は仏教思想と日本のアニミズムとの矛盾を解消していきます。 日本のアニミズムを論理的に正当化したのが密教です。 平安時代初期の密教は、仏教のもつ「実体否定性」をまた「否定」します。二重否定を行うのです。つまり霊魂という実体はあるとするわけです。死者の霊魂はあると認めたのです。 それが平安初期の宗教家である最澄と空海の共通点です。

 最澄はすべての人は仏性を持つ、「一切衆生、悉有仏性」(いっさいしゅじょう、しつうぶっしょう)ということを強調します。 衆生の一人ひとりに仏性が宿るというわけです。 このことによって「諸法無我」つまり実体はないという思想が、「諸法実相」つまり実体はある、ということになって仏を実体化し、さらに魂を実体化していくことに成功していくのです。

 しかしこのことは奈良時代の南都六宗(これを密教に対して顕教といいますが)とは相反するのです。だから奈良仏教と京都の平安仏教は仲が悪くなります。 しかしそこに空海という助っ人がやってきて、彼は本格的に密教を中国で学び、それを日本に導入していきます。 よく人は最澄と空海が後に対立したことを強調したりしますが、そのことよりも最澄と空海の共通点を強調することのほうが大事なのです。

 この二人によって日本のアニミズムが容認され、はじめて仏教が日本で日本の風土に合うように変容されていきました。 日本の神も仏教により正当化されたのです。そのことによって神仏習合が正当化されていったのです。

 そこから神はもともと仏であるという本地垂迹説が誕生していきます。 この論理によって、例えば日本の中心の神である天照大神は、密教の中心仏である大日如来の化身である、という考え方が成立し、それはその他のいろいろな神と仏も同じように結び付けていきました。

 さらにもともと日本には神像はなかったのですが、「僧形八幡神像」のように、神の像も彫られていくようになります。

 6)浄土教
 さらに仏教はそこにもう一つの要素を加えていきます。それが浄土教です。その中心仏は阿弥陀仏であって、その仏様が来世での守り神になります。 平安時代当時は、現世では救われないという考え方が広まり、それは都の荒廃や、末法思想(この世はだんだん悪くなり生きるに値しないという仏教思想)の流行などが影響していたのですが、そうであるならばせめて死後の成仏だけは確保したい、こういった切実な願いが人々の間に広まっていきました。 餓鬼草子のような都の悲惨な状況を描いた絵巻が描かれていきますが、これはたんに想像だけで描かれたものではなくて、そこに描かれたような悲惨な光景が都にあふれていたためだと思われます。

 あの世で仏に守ってもらうという意識が、阿弥陀仏の加護を求める意識を強めていきます。 そして10世紀の国風時代になると次のような来迎図が描かれます。これが今も日本人の持つお迎えの観念になっていきます。人は阿弥陀様に導かれて極楽浄土に行けるようになったのです。

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               「高野山聖衆来迎図」 平安時代

 11世紀には全国各地に阿弥陀堂がたてられます。その代表が東北の中尊寺金色堂です。ここに奥州藤原氏三代の遺体がミイラ化して安置されていることも大事ですが、その三体のミイラを守っているご本尊が、あの世の仏、阿弥陀仏だということがより重要だと思います。

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               中尊寺金色堂 岩手県


7)村の守護神
 今まで仏様を中心に見てきましたが、日本には神様と仏様の二つの神様があるわけですから、両方とも辿っていく必要があります。 仏の世界が極楽浄土であるのに対して、神様はというと現世での守り神となっていきます。これが村々の鎮守の神となっていくのですが、日本はもともと氏族社会であって、氏族の祖先神であったものが、中世になると地域の守護神、これは産土神(うぶすなしん)と呼ばれますが、そういう地域の守護神になって村々の守り神になっていきます。 こういう形で神に守護された村が発生し、それが惣村と呼ばれる今の日本の農村の原型となるのです。このように日本の農村の原型は南北朝時代、室町時代に始めてその姿を表します。          


 その村での中心となるのが鎮守の社の祭礼です。 その運営組織が宮座といわれるものであって、それは祭りの日に村の者がお宮の拝殿に集合し祭礼を行い、それが終わるとお神酒をいただき食事をともにします。これは余談ですが、土産(みやげ)はもともとは宮餉(みやげ)であり、このような宮座で振る舞われるご馳走を指したのだと思われます。人々はそれを家に持ち帰ったのでしょう。このような風習は現在でも地方に残っています。 もともと村は他人の集まりでしたが、このような活動によって互いに気心の通じ合う異姓集団の形成に成功していくのです。


8)葬式仏教
 そのような宮座は個人の集まりではなく、家の代表たちの集まりです。 村の成立はそれを構成する「家」の成立を促していきます。 現在、俗にいう葬式仏教は、このような家の成立が背景にあるのであって、庶民の間に家が形成されるのは、惣村の成立にともなう14世紀から15世紀にかけてだと言われます。

 こういうと明治まで庶民には苗字がなかったという反論がありますが、苗字はなくても、百姓や町人の社会には屋号が成立していました。 ですから、すでに家は成立していたと見ることができますし、そのことを前に述べた江戸初期の久隅守景の「夕顔棚納涼図屏風」の家族の姿にも見てとることができます。 このようにして成立した家の原理は、家によって「命の継続性」を維持しようとするところにあります。

 それは従来からあった祖先崇拝をより強化するために、家を確立しようとするものであって、このことと結びついて仏教が家の宗教となっていきます。 つまり祖先崇拝仏教という二つのものによって、庶民の来世での救済が約束されるようになるのです。 それを媒介するのが家であって、家の一員として祭られ続けるという期待がそこに込められるようになります。

 つまり一方では子孫からの祭祀があり、そこに阿弥陀仏の加護が加わることによって、庶民は阿弥陀仏の慈悲を得るためにお寺の壇家になり、そしてお寺の中に墓をつくることを許されていきます。(それ以前、お寺にお墓はありませんでした。) それが現在のお寺の姿になります。地方のお寺は、江戸幕府の寺請制度のような権力によるものではなくて、それ以前から自然発生的に成立したものです。 民間寺院の8割がすでに江戸初期の寺請制度以前に成立したと言われています。 そうなるまでには仏教は霊魂を否定せず、誰でも救う宗教になろうとする長い年月がありました。つまり鎌倉時代の親鸞の悪人正機説から脈々と流れている思想が長い年月を経て、日本古来のアニミズムと矛盾しなくなっていく過程があるのです。これが日本の大乗仏教なのです。

 江戸幕府はそれを政治的に利用しただけであって、そうした中で寺請制度を作っていったのです。 そしてこのことによっていわゆる葬式仏教が成立していきます。 ですから我々が、家の座敷の仏壇を拝むときには、奥にある仏様を拝みながらも、同時にその手前にあるご先祖様の「位牌」を拝む気持ちが同時にあるのです。

 ただし一部には説明のつかないこともあるのであって、例えば一周忌の法要などがそうなのですが、輪廻という仏教の世界では人が死んで四十九日を経て新たな生命をえます。その法要を行わないと死んだ人の霊魂は本当の浄土に行けずにこの世をさまよい続けるという信仰があります。 この四十九日の期間が中陰と呼ばれるのですが、中陰の期間を過ぎれば本来は菩提を弔う必要はありません。 しかし日本人はそれでも三十三回忌までは行い、弔い上げをします。 そこにはすっきりした理論的な解答はないのですが、ふだん我々はそのことを意識しないで済むほど神仏習合に馴染んでいると考えた方がいいのです。

 そういう例外を除けば、寺請制度というのは日本人の宗教感覚に合致したもので、そうでなければ寺請制度の強制力が失われた明治以降になっても、なおこの制度が存続していることの理由が見つからないのです。 さらに葬式仏教の成立と同時に、江戸時代に庶民文化が隆盛し、庶民が元気になることとは決して無関係ではありません。
 

9)仏教と神道・儒教の併存
 以上のことから日本仏教は、外見は「輪廻転生」の仏教の衣をまといながら、その中身は「招魂再生」の神道または儒教、これが融合したものであるということが言えると思います。 これを簡単にいうと「神儒仏」の習合ということになり、それは確かにそうなのですが、それをよく品詞分解して理解する必要があります。 そしてこの神儒仏の融合によって、庶民救済が実現していくわけです。つまり自然宗教の祖先崇拝や鎮魂思想に、仏教的色彩を施し庶民を救済したのが葬式仏教であるということができます。

 では仏教の実体否定の考え方はどうなったのかというと、それは宗教としてではなく「無の思想」のような哲学として根付いていったものと思われます。 仏教は外見は確かに葬式仏教になりますが、 その中には哲学として「無の思想」に見られるような「無念無想」、 小林秀雄流に言えば「無私の精神」、 また夏目漱石が最後にたどりついた「則天去私」、 西田幾多郎流に言えば「絶対無の場所」、 そういう形で日本文化の高みに位置しているものだと思われます。

 このような文化も突然発生したのではなくて、 室町時代の東山期にみられる竜安寺の石庭 

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                 竜安寺 石庭

また同時代の高い芸術性を持つ雪舟の水墨画

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                秋冬山水図 雪舟

また桃山時代の千利休の侘び茶の精神、 さらに元禄期の松尾芭蕉の「侘び・さび」の世界、 そういったものに脈々と流れているものだと思われます。 また豊臣秀吉の辞世の句、「浪速のことも 夢のまた夢」という思いや、 織田信長が好んで歌ったといわれる敦盛の「人間五十年、下天のうちに比ぶれば 夢幻のごとくなり」という歌にもそのことは表れています。

 無我というのは自我を消滅させて自分を無にし、周りの世界と自分が一体となったところに真の世界があるというものです。 関係性の中で自己をとらえること、自分に執着しない美徳をもたらすこと、つまりそれは仏教の「縁起」の思想を受け継いでいるのであって、自分だけではなく周りの者も大事にするという慈悲の精神が同時に生まれていきます。 近代の明治になっても、このことは描かれているのであって狩野芳涯の「悲母観音」という絵には慈悲の念が表現されています。

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                「悲母観音」 狩野芳崖 1888年





宗教の世界史 【7】気づかない日本の宗教性

2019-07-22 03:00:00 | 宗教の世界史

【7】気づかない日本の宗教性

 最後に日本の無宗教性について再び触れると、日本の宗教というのは非常に複雑な宗教体系の統合であるといえます。 よく日本人は宗教が恐いといいますが、それはオウム真理教などの教祖のある宗教が恐いという意味であって、そこにはザビエルに向かって16世紀の日本人がご先祖はどうなるのかと聞いたときのような恐さと共通するものがあるように思います。

 教祖のある宗教への恐怖心を日本人が抱くというのはある意味で正常な反応なのであって、それは自分たちの宗教的立地点と異なるという直感のようなものです。 ですから日本人の無宗教性は宗教全般の否定ではなく、むしろ自然宗教の信奉を意味しているのだと思われます。

 ただこれが今子どもたちの間で崩れているのではないか、これが崩れるともう歯止めが効かないのではないか、そういう危機感を私は同時に持っています。

 若いころは誰でもよく欲望を抑えきれずに苦しむものですが、それをどうにか抑えられるのは日本ではそれが唯一絶対なる神様によってではなく、尊い無数の他者の存在によって可能だったのではないでしょうか。

 敬語の発達もその一つであって、命の尊さが自己の命の尊さだけになれば、いつまでたっても自分の欲望に押し流されるだけになってしまいます。敬語は、自分の命の尊さだけでなく、他者の命の尊さに気づくことによってはじめて発達します。 しかし今の子どもの現状は自分の欲望に押し流されるか、他人の欲望によって「いじめ」られるか、どちらか一つになっているのです

 命の尊さというのは実は論理的に証明できないところが厄介なところであって、そこに宗教の役割があるように思えます。 宗教とは一言でいえば過去・現在・未来と命がつながることの大切さを見いだすことです。

 また土井健郎のいう「甘え」の心理は、心理学の用語として最近は定着していますが、その「甘え」の中にはその中にとらえきれない神との一体感のようなものが含まれているようです。 それは中国の天、インドのブラフマン、そういう超越神の中に見いだすような一体感と似たものがあるようです。 日本人の場合はそれを超越神とはとらえずに、それを自分の身の周りの近くの人に対して抱こうとする傾向がみられます。 そのような、身近な他者との梵我一如の状態を「甘え」として感じているようです。 ただその中で自分よりも、他人を大切にする境地に近づこうとする心性が、日本文化の高みに存在しているのであって、それが自分を「」にする境地とつながっているように思われます。 しかしその「無」の境地は決して虚無的なものではなく、自分よりも価値あるものの存在に気づいた「無」の境地だと思います。

伝統の問題は死者の生命の問題である
 「執着するものがあるから死にきれないということは、執着するものがあるから死ねるということである
 「私に真に愛するものがあるなら、そのことが私の永生を約束する
(人生論ノート 三木清 注1)





 

(注1) 三木清は戦前の哲学者。京都帝国大学卒業後、京都学派の中心となる。思想が自由主義的であるとして戦時中に投獄され、終戦の年の1945年に48歳の若さで獄死。混乱する戦後日本の思想界で彼の思想が十分継承されなかったことは残念である。

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参考文献

風土  和辻哲郎 岩波文庫 
モーセと一神教  フロイト ちくま学芸文庫 
ユダヤ人と経済生活  ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神  マックス・ヴェーバー 岩波文庫 
一神教VS多神教  岸田秀 新書館 
多神教と一神教  本村俊二 岩波新書 
一神教の誕生  加藤隆 講談社現代新書 
ローマ人の物語1  ローマは一日にして成らず  塩野七生 新潮文庫 
ローマ帝国の神々  小川英雄 中公新書 
サガとエッダの世界  山室静 教養文庫 
世界神話事典  角川書店  
世界の歴史4  オリエント世界の発展  小川英雄・山本由美子 中央公論社 
世界の歴史5  ギリシアとローマ  桜井万里子・本村凌二 中央公論社 
世界の歴史4  ギリシア  村田数之亮・衣笠茂 河出書房新社 
世界の歴史5  ローマ帝国とキリスト教  弓削達 河出書房新社 
世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成  佐藤彰一・池上俊一 中央公論社 
世界の歴史9  ヨーロッパ中世  鯖田豊之 河出書房新社 
世界の歴史12 ルネサンス  会田雄次・中村賢二郎 河出書房新社 
キリスト教の歴史  小田垣雅也 講談社学術文庫 
古代エジプト  笈川博一 中公新書 
古代ユダヤ教  マックス・ヴェーバー 岩波文庫 
日本人とユダヤ人  イザヤ・ベンダサン(山本七平) 角川文庫 
比較文明社会論  シュー 培風館 
世界の歴史3  古代インドの文明と社会  山崎元一 中央公論社 
世界の歴史6  古代インド  佐藤慶四郎 河出書房新社 
カイエ・ソバージュ 2 熊から王へ  中沢新一 講談社選書メチエ 
カイエ・ソバージュ 4 神の発明  中沢新一 講談社選書メチエ 
沈黙の宗教 儒教  加地伸行 ちくまライブラリー 
「論語」を読む  加地伸行 講談社現代新書 
世界の歴史2  中華文明の誕生  尾形勇・平勢隆郎 中央公論社 
世界の歴史3  中国のあけぼの  貝塚茂樹 河出書房新社 
日本仏教史  末木文美士 新潮文庫 
日本仏教の思想  立川武蔵 講談社現代新書 
空の思想  立川武蔵 講談社学術文庫 
日本文化の歴史  尾藤正英 岩波新書 
村のなりたち  宮本常一 未来社 
開拓の歴史  宮本常一 未来社 
日本人の神はどこにいるか  島田裕己著 ちくま新書 
日本人はなぜ無宗教なのか  阿満利麿 ちくま新書 
日本民族文化体系 3 稲と鉄 さまざまな王権の基盤  小学館 
日本史からみた日本人・古代編  渡部昇一 祥伝社 
日本中世史像の再検討  勝俣鎮夫 山川出版社 
甘えの構造  土居健郎 弘文堂 
聖書と甘え   土居健郎 PHP新書 
発達障害の豊かな世界  杉山登志郎 日本評論社 
誇大自己症候群  岡田尊司 ちくま新書 
人生論ノート  三木清 新潮文庫




宗教の世界史(参考文献1)

2019-07-22 02:00:00 | 宗教の世界史
宗教の世界史(参考文献1)


 はじめに 

●無宗教性とは宗教があること 日本人が無宗教という言葉で済ますことができるのは、この日本列島の中での、いわば内部了解に属することであり、他の文化伝統の中で生活している人には通用しない考え方であることを、改めて認識せねばならないであろう。大切なことは、無宗教という言葉にとらわれることなく、その言葉が指し示している現実を正確に理解することから始めることではないか。(日本人はなぜ無宗教なのか 阿満利麿 ちくま新書 P13)



【1】ヘレニズム世界


1) 乾いた世界 

●地中海性気候 
和辻の「風土」より ○夏の乾燥  ヨーロッパには雑草がない。夏の乾燥は夏草を生育せしめない。草は主として冬草であり牧草である。 イタリアのように太陽の光の豊かなところで夏草が茂らない。それは全く不思議のようである。しかし事実はまさにその通りなのである。 日本の農作業の核心をなすものは「草取り」である。これを怠れば耕地はたちまち荒蕪地に変化する。 夏の乾燥は昆虫類にとって有利な条件でない。日本のように昆虫の多い国から見れば地中海沿岸といえども物さびしいくらいに虫が少ない。地中海地方の雨量は日本の3~4分の1である。夏は褐色、冬は緑。


○痩せ海 
地中海は海であるかも知れぬが、しかし黒潮の流れている海とは同じものではない。黒潮の海には微生物から鯨に至るまで無限に他種類の生物が生きている。しかるに地中海は死の海といってよいほどに生物が少ない。黒潮の海は無限に豊穣な海であるが、地中海は痩せ海である。農業も発達せず、漁業も発達しない。


○海は交通路 
地中海は古来「交通路」であり、それ以上の何物でもなかった。それに比して我々の海は何よりもまず食物を獲る畑であって、交通路ではなかった。地中海は交通に便なのである。島が多い。港湾が多い。霧などはなく、遠望がきく。7ヶ月ぐらいは好天気がつづき、天体による方位の決定が容易である。風は極めて規則正しく吹いている。陸風と海風との交代も極めて規則正しい。もし地中海が太平洋のごとき湿潤な海であり、無数の生物を繁茂せしめえたならば、沿岸地方の人々はあれほど動き回りはしなかったであろう。(風土 和辻哲郎 岩波文庫 P86)



2) 植民活動 

●近代に至るまで日本は、島国として、日常生活の場では基本的に異文化・異民族との深刻な対立を経験してこなかったことも、日本人の精神風土を考える際に見落とすことは出来ない。(教科書 倫理 東京書籍 P72)


●対立と抗争の世界 
前1000年前後の東地中海世界はすさまじいほどの激動期であった。安定と秩序をもたらす大きな覇権国家はなく、都市国家や部族集団が激しくせめぎ合うばかりであった。とりわけメソポタミアとエジプトの狭間にあるカナン地方は、弱小勢力が群立し攻防をくりかえしていたのである。 平穏であれば神々の声に従いながら、ささやかな安堵感に満たされて生きることができたかもしれない。しかし、次々と戦乱と天変地異がつづき、あまりにもめまぐるしい変動に襲われたのである。このような多難な状況に生きる人々はもはや神々の声に従ってばかりではいられなかったに違いない。このような危機と抑圧の時代には、人々は神々の喪失を嘆かざるをえない。(多神教と一神教 本村俊二 岩波新書 P178)


・チグリスの巨人とナイルの巨人 
『日本と比べて、パレスチナは一体どうだったか。昔から陸橋といわれたこの地は、常に戦場であった。 チグリスの巨人は北から攻め下り、ナイルの巨人は南から攻め上った。 海の民は海岸に侵攻し、あるいは海岸沿いにエジプトに進み、一方ヨルダンの彼方からはたえず遊牧民がなだれ込んだ。これが実に四千年にわたって間断なくつづけられ、これを詳述すれば、一冊の膨大な書物になってしまうだろう。』 (『日本人とユダヤ人』 角川文庫 P63)


●征服か植民か 
種族の移動や再編成によって起こった動揺がおさまって、落ち着いた生活が続くと、やせた小平野と乏しい資源しか持たない国家には、増加してきた人口を収容する限界がすぐにやってくる。その解決策は2つしかない。本土には余分な未開地がない以上、境を接する隣国を征服するか、海外に植民するか、いずれかであった。 だが隣国を征服するといっても、ギリシャ本土自体がそう広くはないのだから、この方法には、すぐ行き詰まりが来る。そこで第二の方法としての海外植民が考えられ、大規模な植民運動が始まるのである。 (世界の歴史4 ギリシア 村田数之亮・衣笠茂 河出書房新社 P112)


ポリスという形にしろ小国家の分立状態にあったということは、狭い土地をめぐってのポリス間の争いが絶えなかったということでもある。紀元前776年には、第1回のオリンピア競技会が開かれている。四年に一度戦闘をやめ、オリンピアの地に集まって体育競技を楽しむということは、それ以外の時期は戦闘をしていたということだ。とはいえ、誕生直後のポリス群の勢力は互いに伯仲していて、戦闘に勝っても、それは直ちに領国の拡大にはつながらなかった。自国内で生活の糧を得ることができなかったり戦争に敗れた人々には、海外に雄飛するしか道は残されていなかったのである。この時期のギリシャの植民が、ギリシャの一地方に限らず、全ギリシャの規模でなされたのも、ギリシャでは植民活動が、ポリスの形成と表裏の関係にあったからであった。 (ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず 塩野七生 新潮文庫 P142)


耕作地に恵まれないギリシャでは、これらの人々には国外に出るしか生きる道がない。 紀元前8世紀は、ギリシャ人による植民地運動が最も盛んであった時期にあたる。 (ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず 塩野七生 新潮文庫 P43)


・棄民の植民 
国を捨ててきたのだからここで失敗すれば帰るところもない。母国であるにもかかわらず、ターラントの人々にとってのスパルタは他国であり、シラクサの人々にとってのコリントは他国だった。それでもなお、交流は盛んだった。 (ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず 塩野七生 新潮文庫 P47)



3)ギリシア・ローマ神話 

●ローマの建国神話 
レア(建国者ロムルスの母)は、神殿に必要な水を汲みに、森の中の泉に行ったところで、疲れて森で眠っている間に戦争の神アレス(マルス)に犯され、ロムルスとレムスの母になった。 ロムルスがローマの初代王になった。ロムルスは、カピトリウムの丘の上に、犯罪人のための避難所を開くなどして、ローマの人口を増やした。しかし女性の数が少なかった上に、近隣の人々がみなローマ人との婚姻を拒否したので、ロムルスは一計を案じ、近隣の人々を祭りの見物にローマに招いた。そしてその祭りの最中に、合図してローマの男たちに、サビニ人たちが連れて来ていた娘たちを略奪させ、各人の妻にさせた。この無法がきっかけで、ローマ人とサビニ人との間に、戦争が起こった。ローマ人の妻になり、子をすでに産んでいたサビニの女たちが、泣きながら両軍の間に割って入って、戦闘をやめさせ、和睦を成立させた。(世界神話事典 角川書店 P410)


・ローマのはみ出し者 
ロムルスと共にローマの建国に参加したのはどのような人々であったのだろう。 王になる前のロムルスに率いられた羊飼いや農民たちが、ラテン人とよばれる民族であったのは分かっている。ラテン語を話した人々である。だがラテン語を話す民族のうちの1部族が、家族ともどもテヴェレ河沿いに移住してきて、新国家を建設したわけではない。どうやら誕生直後のローマの市民の大部分は、独り身の男たちであったようである。なぜなら、政体確立に続いてロムルスが行った第二の事業は、他民族の女たちを強奪することであったのだから。 暴力に訴えてまでして他民族から女を補充しなければならないような男たちの集団が、ロムルスとその配下の男たちであったならば、彼らの素性にも疑いを持たざるを得なくなる。おそらく、ロムルスも彼らも、それぞれの部族のはみ出しものではなかったかと思われる。部族の移住ならば、妻子を伴うのが普通だからだ。 (ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず 塩野七生 新潮文庫 P54)


●妻の略奪 
(ギリシアでは)人口の増加などによって、部族と部族との間の争闘を引き起こしたはずである。 かくして始められた人間の争闘が漸次熾烈になってきたときに、はじめて農民の民を海へ追いやるという情勢が現れてくる。海からの移住は何らかの切迫した事情のために男たちがその女子供や家畜を捨てて小舟をこぎ出すというような事件に始まっているらしい。それは集団的な移動ではなくして、しわば部族的共同態の「断片」が海にさまよい出たのである。そうしてこれらの「断片」は、必要に迫られておのずから「海賊」に変化する。 一度海に出れば、掠奪のみが生存の基礎であり、従って生活全体が闘争になる。 戦って勝てばその土地を占領し、家畜と女たちを自分たちのものにする。彼らがその夫や親を殺したところの女を、妻とするのである。その妻が、夫や親の敵である新しい夫に対してどんな復讐をするかもしれないという危険は、日夜彼らの生活につきまとう。今や彼らは力によって屈服せしめた土着人に労働せしめ、自らはただその成果を味わう。だから彼らの新しい仕事はその力を練って自らを守ることである。 (風土 和辻哲郎 岩波文庫 P101)


●家の意識の低下 
牧場的文化のはじまりはギリシア人の海賊的冒険であった。その郷土の牧場を離れた男たちが、地中海沿岸の諸地方を征服して、原始的ポリスを形成し始めたとき、被征服地の女をとって妻とした。すなわち家族から脱出してきた男と、殺戮によって家族を破壊せられた女とが、ここに新しく家族を形成した。ギリシアの古い伝説に残虐な夫殺しの話が多いのは、このように史的背景に基づくと言われている。 だからギリシア人がもと強い祖先崇拝の上に立っていたにもかかわらず、ポリス形成以後においては、家の意義はポリスに対してはるかに軽くなっている。(風土 和辻哲郎 岩波文庫 P169)


●王権と血統と司祭権 
ゲルマン人の世界では、氏族団体が部族を形成する単位である。部族というのは、共通の祖先を持っていると彼らが考えたまとまりである。むろん共通の先祖というのは神話であるが、にもかかわらず言語をはじめとして、衣服の習慣や髪形、装身具、さらに武器の形や宗教とか伝説などを共にし、それが部族の一体感を支えていた。 部族社会の上層には、優れた祖先の血を引いているとみなされ、多くの家畜を所有する貴族層が君臨していた。その中でもひときわ高貴な血統のものが王と呼ばれる存在である。王は法と豊穣と平和の守護神ティワズの祭司でもあった。 (世界の歴史5 ローマ帝国とキリスト教 弓削達 河出書房新社 P39)


・子孫が死に絶える恐怖 
ゲルマン人も昔はそうであった。ヴァイキングの男は、死ぬときに手に剣を持って死ぬと、大威張りで先祖の霊の集まっている静かな北の海に帰れること、また自分の子孫に再生してくることができると信していたと言われる。ヴァイキング版の靖国神社である。さればこそゲルマン人も名誉を重んじて勇敢であり、家を重んじ、子孫の絶えることを何より怖れたのであった。 キリスト教になると北の海が天国になり、先祖の霊に会見するよりも、神とかキリストに対面するということが、強調された。死後に自分が対面するのは、全能の神と一対一であることを原則とするという信仰は、家族中心であったゲルマン人を、心の底から個人主義者に変えてゆく作用があった。 (日本史からみた日本人・古代編 渡部昇一 祥伝社 P84)


●戦争の日常化 
古代ギリシアには、戦争に行って血を流す覚悟のないやつに参政権は与えられないという原則がある。なぜかというと、当時は人口が常に食料生産を上回るという状況がある。だから、働いて、耕して、種を蒔いて実りを待てばみんな無事に生きていけるというやわな世界ではない。戦争が、食料を得るための日常生活の一部となっている。 (世界史講義の実況中継上 青木裕司 語学春秋社 P18)


●ヴィーナス 
ヴィーナスに関するもっとも有名な伝説は、トロイア戦争の原因にかかわるものである。王ペレウスと海のニンフのテティスの結婚式にただひとり招待されなかった女神エリスは、おこって「いちばん美しい女のために」ときざんだ金のリンゴを神々のいる中にほうりなげた。それをヘラ、アテナ、ヴィーナスの3女神がうばいあったため、ゼウスはトロイアの王子パリスに判定を命じた。すると、それぞれがパリスを買収しようとして、ヘラは権力のある支配者にするといい、アテナは軍事において偉大な名声をあたえるといい、ヴィーナスは世界でいちばん美しい女性をめとらせるといった。パリスはヴィーナスをえらび、ギリシャ王メネラオスの妻ヘレネとの結婚をのぞんで彼女を誘拐するが、これがトロイア戦争勃発の遠因となった。(エンカルタ百科事典 ヴィーナス)


●子殺し・父殺し神話 
クロノス(ゼウスの父)は子供たちを、生まれるはしからレア(クロノスの妻)から取り上げては、自分の腹の中に呑み込んでしまった。それは(父母である)ウラノスとガイアから、息子によって天上の王位を奪われる運命にあると、宣言されていたからだった。ゼウス(クロノスの子)は兄弟と協力し、自分の味方になる神々を、オリンポス山の頂上に集めた。そしてそこを本拠にしてクロノス(父)と戦った。(世界神話事典 角川書店 P400)


・クロノスに代わって神々の王になったゼウスは、メティスと結婚した。ところが妊娠すると彼女を、腹の中に呑み込んだ。それは、もし結婚を続ければ次には男の子が生まれ、その子に神々の王の位を奪われると予言されていたからだった。(世界神話事典 角川書店 P400)


・オイディプス伝説  
「オイディプス王」(ソポクレス) エディプスはその出生に先立って、自分の父を殺し、母を妻とするという運命を予言されていた。彼は、この神託から逃れようとあらゆる手だてをつくすが、結局は、知らなかったためとはいえ、この二つの大罪を犯してしまう。エディプスは、殺したのが自分の父、通じたのが自分の母という二つの罪を犯していたことを知るに及んで、その罰として、逆に我とわが目を抉り、放浪の旅に出る。(モラトリアム人間の時代 小此木啓吾 中公叢書 P209)



4) 奴隷制

 ●ドーリア人の南下 
ミケーネ文明の崩壊の原因はどこにあるのか。古くは、ギリシャ人の第二次侵入、すなわちギリシア人の一派であるドーリス人の侵入によって破壊された、という説明がなされていた。これは今日ほとんど否定されている。それに代わって、「海の民」説が注目されるようになった。時を同じくしてアナトリアでヒッタイト王国が崩壊(前1190)している。 (世界の歴史 5 ギリシアとローマ 桜井万里子・本村凌二 中央公論社 P34)


●ミケーネ社会 
ミケーネ社会には、王のほかに神官がいた。また奴隷も多かった。 (世界の歴史4 ギリシア 村田数之亮・衣笠茂 河出書房新社 P61)


・ミケーネの滅亡 
「10年もの間、家を留守にして遠いトロイで戦争ごっこに熱中していたものだから、その間に国内の秩序が乱れ国力も衰え、外来民族に簡単に征服されてしまったのだ」 当たらずといえども遠からず、ではないかと思う。十年にわたったトロイ戦役を終え(前1184頃)、山ほどの戦利品を持って帰国したギリシャ軍の総大将アガメムノンは、王妃と王妃の愛人によって浴室の中で殺されたのである。ミケーネ文明を滅ぼしたのは、北方からギリシャに南下してきたドーリア民族であった。 ミケーネ文明の担い手であった人々が、殺されたり奴隷にされたりして、まさに徹底して排除されてしまったからである。ドーリア人のもたらした破壊はすさまじく、ギリシャ全土は、この後400年もの間、完全に沈黙してしまう。(ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず 塩野七生 新潮文庫 P140)


・ギリシア神話の原型 
英雄はその行為によって、祖先であることを超えて次の世代に語り継がれ、伝説の中で崇められる。その物語が叙事詩である。残念ながらミケーネ時代の叙事詩は失われて今はないが、ギリシャ人の英雄伝説の原型がミケーネ時代に存在したことは、のちのギリシャ文学、ことにホメロスの詩から推定できるし、ホメロスの詩に描かれた舞台や道具や装身具などが、発掘された遺物と一致することを考古学も明らかにした。伝説の数は少なくはないが、最も大きなものとしては、「トロヤ戦争」、「テーベの攻囲」、「ミケーネ王家の運命」の3つを挙げることができよう。アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスらの作品は、全くの空想による創作ではなくて、以上の物語をそれぞれに脚色し、解釈して創作したものである。(世界の歴史4 ギリシア 村田数之亮・衣笠茂 河出書房新社 P72)


●人間も戦利品 
ゲルマン人の戦利品の中には人間も多く含まれていて、戦争には労働力の補充という側面もあったらしい。 (世界の歴史5 ローマ帝国とキリスト教 弓削達 河出書房新社 P68)


・ギリシア人の創造は、競闘の精神に基づいている。そうして競闘の精神は、物質生産のための奴隷の使用を前提とする。人間はここで、神々のごとく生きる市民と、家畜のごとく生きる奴隷とに分裂する。 (風土 和辻哲郎 岩波文庫 P106)


・スパルタの奴隷 
紀元前1200年ごろに南下してきたドーリア民族が、先住民を征服しててきたのがスパルタである。征服者であるドーリア人は、このスパルタでは先住民と同化しなかった。支配階級と被支配階級が、スパルタほどはっきり分離したままで続いたポリスは他にない。都市国家スパルタのカーストの最下層は、ヘロットと呼ばれる農奴たちだった。この人々こそ、ドーリア人が来襲する以前のスパルタの住人であったのだ。 (ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず 塩野七生 新潮文庫 P170)


・のちには借金を返せないための自由な市民も奴隷化(新世界史B 山川 P35)


●ヴィーナス 
ホメロスの「アデュッセイア」によると、ヴィーナスは鍛冶神バルカンの妻となったが、軍神アレス(マルス)を恋人にした。(エンカルタ百科事典)


・ヴィーナスの誕生 
クロノスは、ウラノス(父)がガイア(母)と交合しようとして降りてきたとき、その男性器を左手で掴み、右手にもった鎌で刈り取って、背後へ投げ捨てた。男性器は、海に落ち、海面を漂ううちに、周りに精液の白い泡が湧き出て、そのなかに、美と愛の女神アフロディテ(ヴィーナス)が誕生した。(世界神話事典 角川書店 P399)


●ギリシア文化に飲み込まれたローマ 
ローマの支配はギリシャ語の文明を変えることなく、逆にギリシャ語世界に帝国は飲み込まれていった。また3世紀以降は、政治的中心も中東に移動してきた。ローマ帝国もまた、しょせん中東の帝国なのであった。当然、ギリシャの神々がローマの神々となった。それらはまだ愛の神、戦争の神のように特定の機能を持つ神であった。 (都市の文明イスラム 佐藤次至・鈴木董 講談社現代新書 P42)


・捨て子の奴隷化 
紀元前2世紀の歴史家ポリュビオスは「人々は結婚したがらず、結婚しても子供を育てたがらない」と嘆いている。平和で繁栄した時代が訪れても、嬰児遺棄の風習は衰えるどころか、さらに広がった形跡すらある。捨て子は奴隷人口のかっこうの供給源でもあった。こうした捨て子が奴隷商人の手で集められ、奴隷として訓練される。 (世界の歴史 5 ギリシアとローマ 桜井万里子・本村凌二 中央公論社 P374)


・神の声の聞こえない社会 
ローマ帝政期の地中海世界にあって大きな潮流、何かしら現世を軽視し肉体を憎悪するとでもいえる衝動が広がっていたのではないだろうか。これこそが人々が自己の中に漠然と罪として感じていたものの別称ではないだろうか。かつて神々の声は人々にあれこれの示唆を与えてくれた。今やそれらの声が聞こえなくなったところに内なる世界がぽっかり姿を見せる。(多神教と一神教 本村俊二 岩波新書 P196)



5)ギリシアの暗黒時代   前12C~前8C

 ●英雄への転落 
部族の全体性を表現する神々は神話のつくられるころすでに「英雄」の地位に落とされていた。 (風土 和辻哲郎 岩波文庫 P69)


・ヴィーナスと軍神アレス 
(妻ヴィーナスと軍神アレスの不倫の現場を取り押さえた夫の)バルカンは、こんな不埒な娘を押しつけた親のゼウスに、婚資として与えた品々を、せめて返してくれ、と迫る。(ギリシア神話 上 呉茂一 新潮文庫 P244)


・喜劇に落ちた神々 
ローマ人の間でもでデメテル、デュオニュソス、コレ、ヘルメス、ポセイドンなどのギリシャの神々が一般化した。しかし、注意しなくてはならないのは、ギリシャの宗教はローマに到来したとき、本国では変質していたことである。人々はすでに、人間なみの生活をするオリンポス山の神々を信じなくなっていた。ギリシャ神話は人間と同じ不道徳を行う、主神ゼウス以下の神々にあふれており、哲学者たちの批判を受けたり、喜劇の対象となったりしていた。 他方ローマ人の社会は、第二次ポエニ戦役(紀元前218~前201年)の後には、貧富の差が大きくなり、政治的・軍事的混乱が起こったため、ローマ古来の宗教も、ギリシャ伝来の宗教も信仰する者がなくなった。 (ローマ帝国の神々 小川英雄 中公新書 P26)


・ギリシア哲学と神話の影響力は反比例 
ギリシャ人はすでにミケーネ時代からオリンポスの神々のうちの幾柱かを信じ、やがてそれらの神々について神話体系を持つようになった。ギリシャでは次第にオリンポスの神々は人間世界と同じような振る舞いをするものとして描かれるようになった。他方、ギリシャでは哲学を中心とした学問体系が早くから発達し、神話の支配力はそれと反比例するように低下していった。(ローマ帝国の神々 小川英雄 中公新書 P21)


・神としてのロゴス 
神々の声が消え去った時代を凝視し、誰よりも透徹していった哲学者がいる。イオニア生まれのヘラクレイトスはその必然なるものをロゴスと呼んでいる。「ロゴスに聞く」とは「神々の声に聞く」ことの名残かもしれない。ギリシャ人の中にあって、神々の声が消え去ってしまった人々がいたことは間違いない。その喪失感のただよううつろな世界には、まさしく自分自身しか残っていなかったのである。(多神教と一神教 本村俊二 岩波新書 P184)


●神々の処刑 
未開の諸民族は、彼らの神々が彼らに勝利と幸運と安楽を提供する義務を果たさなかった場合、彼らの神々を排除するのを慣習としていた。それどころか神々を処刑することすら慣習としていた。 王たちはいつの世にあっても神々と同じように取り扱われてきた。この太古における王と神の同一性は、両者が共通の根から生じてきた事実を明瞭に示している。(モーセと一神教 フロイト著 ちくま学芸文庫 P188)


・駄目な神の発生 
古代の戦争も、国と国、民族と民族、軍隊と軍隊の戦いである。しかし古代の戦争には、神と神の戦いとしての意味もあった。戦争に負けて、国や民族が滅びると、そこで崇拝されていた神も死ぬ。 このことは戦争での勝利という「人の側の要求」について、神は当てにならない、頼りにならないということを意味する。つまりこの神は、いわば駄目な神である。そのことが戦争の敗北・民族の滅亡という動かしようもない厳然たる事実によって、証明されてしまったのである。(一神教の誕生 加藤隆著 講談社現代新書  P60)


●2世紀後半のゲルマン社会 
2世紀後半にゲルマン社会は、マルコマンニ戦争と呼ばれる戦乱と激動の時代を迎える。その結果、多くの伝統的な部族が解体し、新しい部族が誕生した。フランク族やアラマン族などがその例である。社会は完全に戦士中心に編成されたし、また王の性格にも変化が生じた。王となる者は血統より、むしろ軍隊の指揮者としての才能が求められるようになる。信仰の対象である神もまた交替した。彼らが豊穣と平和をつかさどるティワズを退けて、新しく拝跪しはじめたのは戦争の神オーデンであった。(世界の歴史5 ローマ帝国とキリスト教 弓削達 河出書房新社 P41)


・軍事指揮者としての王 
ゲルマン人の間で「王」は、何よりも軍隊の指揮能力に優れた人物が、王位につくことが望まれた。 血統の原則は全く棄てさられたわけではなかったが、背景に退く。 戦士であった部族民を率いて戦い、定着するための豊かな土地を彼らに与えることができた王のみが、成功した指導者として生き残った。(世界の歴史5 ローマ帝国とキリスト教 弓削達 河出書房新社 P53)


●原始社会にあっては闘争が絶えず繰り返され、また武力的な統一によって、国が形成せられてきたことを説いているが、私はそれのみで国家が統一されていったとは思わない。むしろ戦争によらずして社会の拡大が見られていった場合も多いかと思う。(開拓の歴史 宮本常一 未来社 P80)


・大和朝廷の国家統一には今一つの変わった方法が採られている。「古事記」や「日本書紀」の記すところによると、天皇や皇子はしばしば地方を巡幸し、その間に地方豪族の娘と婚を通じている。 「日本書紀」の記事は崇神天皇のころから史実に近いとみられているが、皇后および妃の出身が地方豪族の家である場合が多いのは注目に値する。かくて一種の婚姻政策によって国家の主権が確立していっていることの中にも、稲作を中心にした農業国家のあり方を見ることができる。(開拓の歴史 宮本常一 未来社 P82)


●シンクレティズム 
多種多様な宗教が混在し融合したり離反したりしていたのである。こうした諸宗教の融合や重層関係は、しばしばシンクレティズムと呼ばれる。シンクレティズムは古来さまざまな時代や地域に見られる現象である。 (世界の歴史 5 ギリシアとローマ 桜井万里子・本村凌二 中央公論社 P416)


●神殿建立 
ギリシャの大規模な神殿は、特定個人に所属するものでも特定個人の権力を誇示するものでもない。それは、あくまでも建立の当事者である共同体の成員たちが、神の信仰に基づいて進めた共同体の営為であった。つまり神殿建立は極めてポリス的な性格をもつものだったのである。 (世界の歴史 5 ギリシアとローマ 桜井万里子・本村凌二 中央公論社 P53)

 

 


【2】王の消滅


1)ギリシア 
●王権の消滅 
叙事詩の中の王たちは、線文字B文書(ミケーネ時代)にうかがえるような貢納を課す王とは違い、それほど強い権力を持ってはいない。(世界の歴史 5 ギリシアとローマ 桜井万里子・本村凌二 中央公論社 P42)


●アテネ 
紀元前8世紀になると、王制は退けられて、多くの国が貴族制に移っている。 王権は次第に小さくなって、王という名称は残るけれども、実権はなくなり、主として、宗教上の役目だけが残された高官にすぎなくなる。彼は、実際の政治や軍事権を委任されている他の高官たちとともに選挙される役人である。 (世界の歴史4 ギリシア 村田数之亮・衣笠茂 河出書房新社 P88)


●平民の台頭と貧富の差の拡大 
貴族も商工業に従事したけれども、他の平民たちも富の所有者となれば社会の上層に入り込んでくる。土地所有のみに頼る貴族の富は相対的に低くなる。そうなると、貴族だけの特権は独占的に維持しにくくなり、社会には新しい秩序が必要になってくる。一方では、農民の没落が激しくなる。こうして、貴族と平民との差は縮まるが、今度は富者と貧者との差が大きくなる。(世界の歴史4 ギリシア 村田数之亮・衣笠茂 河出書房新社 P122)


●民会とロゴス 
民主政の進んだアテネでは、一般の市民も、公衆の前で弁論をふるう能力を要求されるようになっていった。民会や評議会はもちろん、法廷などでも、まず自分の主張を明らかにし、また聴衆を沸かすことが、何よりも自分自身も他人に認めさせ、同時に我が身を守る不可欠の条件だった。 (世界の歴史4 ギリシア 村田数之亮・衣笠茂 河出書房新社 P256)


●プラトンの哲人政治 
現実の民主政を、無知な大衆の支配するものと落胆していたプラトンは、「国家論」の中で、理想国家の姿を描いた。それによれば、国歌や人類一般の悪を根絶するためには、哲学者が君主になるか、あるいは現在の支配者が本当の意味の哲学をなして、政治と哲学を結合させなければならない。その国家の究極の使命は、善のイデアを実現することにあり、個人はその国家目的に全く適用しなくてはならない。財産も妻も共有であり、教育、身分および職業の選択、芸術や科学活動すべてが支配者の指導によって行われる。結婚をして子供産む年齢までが、その指導者によって定められる。 (世界の歴史4 ギリシア 村田数之亮・衣笠茂 河出書房新社 P324)



2) ローマ
 ●王・元老院・市民集会 
紀元前753年、ローマを建国し、初代の王となったロムルスは、何もかも自分1人で行う王にはならなかった。 国政を、三つの機関に分けたのだ。王と元老院と市民集会。この3本の柱が、ローマを支えていくわけだった。宗教行事と軍事と政治の最高責任者である王は、市民集会で投票によって選ばれると決まった。 羊飼いや農民の頭領であったロムルス自身、自分で勝手に王になったのではなくて、彼らから選ばれて王になったのだと思っていたのに違いない。市民集会による王様の選出という、あまり王政的ではないこの制度も、当時のローマではごく自然な選択であったろう。(ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず 塩野七生 新潮文庫 P52)


●ローマのプリンケプス 
崩御の年にアウグストゥスの正式の肩書は「最高司令官・カエサル・神の子・アウグストゥス・大神祇官・コンスル13回・最高司令官の歓呼20回・護民官職権行使37年・国父」であった。これらの肩書は名誉称号を除けば、いずれも共和政の公職として慣例に従っているにすぎない。元首はただそれを兼任しているだけなのだ。元首つまり皇帝に呼びかけるのには、最初の最高司令官と訳されたインペラトルか、次の称号カエサルが用いられるようになる。英語のエンペラーはインペラトールに由来し、ドイツ語のカイザーはカエサルに由来する。 (世界の歴史 5 ギリシアとローマ 桜井万里子・本村凌二 中央公論社 P325)


・オクタウイアヌスはプリンケプスと称えられたが、何のことはない、元老院議員名簿の最初にあげられるだけ、つまり筆頭ローマ市民であるにすぎないのである。 (世界の歴史 5 ギリシアとローマ 桜井万里子・本村凌二 中央公論社 P323)


・無宗教時代の元首政 
オクタウィアヌスが紀元前27年にアウグストゥスとして元首政を始めたとき、宗教は存在しないも同然であった。 (ローマ帝国の神々 小川英雄 中公新書 P27)


●血のつながりのない元首政 
ネルウァはすでに70歳近い老人だった。軍隊にも元老院にも気に入ってもらえそうな後継者を探しておかなければならなかった。白羽の矢はその頃、ゲルマニアに遠征中のトラヤヌスに立つ。たまたまネルウァに実子がなかったこともあるが、優れた人物を後継者として養子にするという先例が生まれた。ネルウァに始まる5人の元首は五賢帝と呼ばれた。98年、老齢のネルウァが亡くなると、トラヤヌスが帝位に就く。トラヤヌスはスペイン南部の名家に生まれ、属州出身者としては最初の皇帝である。 (世界の歴史 5 ギリシアとローマ 桜井万里子・本村凌二 中央公論社 P362)


・捨て子の奴隷化 
紀元前2世紀の歴史家ポリュビオスは「人々は結婚したがらず、結婚しても子供を育てたがらない」と嘆いている。平和で繁栄した時代が訪れても、嬰児遺棄の風習は衰えるどころか、さらに広がった形跡すらある。捨て子は奴隷人口のかっこうの供給源でもあった。こうした捨て子が奴隷商人の手で集められ、奴隷として訓練される。 (世界の歴史 5 ギリシアとローマ 桜井万里子・本村凌二 中央公論社 P374)


・神の声の聞こえない社会 
ローマ帝政期の地中海世界にあって大きな潮流、何かしら現世を軽視し肉体を憎悪するとでもいえる衝動が広がっていたのではないだろうか。これこそが人々が自己の中に漠然と罪として感じていたものの別称ではないだろうか。かつて神々の声は人々にあれこれの示唆を与えてくれた。今やそれらの声が聞こえなくなったところに内なる世界がぽっかり姿を見せる。(多神教と一神教 本村俊二 岩波新書 P196)

 


 

【3】ヘブライズム世界

1) イクナートンの一神教

 ●一神教というのは最初は多神教 エジプトの例でも分かるように、一神教というのは最初は多神教であったのが、1つの神が特別に尊崇されるようになり、それと同時に他の神様が整理されていくという形で作られていく。 「古代ユダヤ教」を著したM・ウェーバーも、最初の頃はイスラエルの民がさまざまな神様を拝んでいたことを旧約聖書の記述の中から指摘している。(イスラム原論 小室直樹 集英社 P205)


・エジプト人たちは相互に矛盾する色々な伝承、神話があっても気にしなかった。後に述べるが、全国各地に散らばった宗教的中心地には、それぞれの神話体系があり、神々があったらしい。 ただ1人それに挑んで、日輪のアトン神以外を認めずに、一神教宗教革命を起こしたのが第18王朝のイクナートンである。(古代エジプト 笈川博一 中公新書 P45)


●アメン神官団 
・原則として祭祀はファラオによって行わなければならないが、彼はその役割を諸神殿の神官たちに委任した。 (世界宗教史1 エリアーデ ちくま書房)


・王権の強化と平行して、首都テーベの市神アメンの神殿や神官も富強となり、政治や社会に重大な影響を及ぼすようになった(チャート世界史 数研)


●唯一神 
第18王朝のもと、オン(ヘリオポリス)の太陽神の祭司たちの影響のもとで、さらにおそらくはアジアからの刺激によって強化されて、特定の地域や特定の民族との結びつきにはもはやこだわらない普遍的なアートン神の理念が突出してくる。若いアメンホーテプ4世はアートン教を国教にまで高め、この若い王によって普遍的な神は唯一神とされる。この若い王は徹底した厳格さでもってあらゆる魔術的思考の誘惑に対抗し、エジプト民衆にとって特別に大切であった死後の生命という幻想を切り捨てる。これは人類史上における最初にしてもっとも純粋な一神教の例である。この宗教が成立した歴史学的ならびに心理学的な諸条件をさらにふかく洞察することは、はかりしれない価値を持つだろうと思われる。(モーセと一神教 フロイト著 ちくま学芸文庫 P104)


・ユダヤ教への影響 
ユダヤ教がエジプトの影響を受けているとすれば、エジプトで生まれたモーセによるらしいことは想像できる。 (古代エジプト 笈川博一 中公新書 P31)


・あの世の消滅 
エジプト文化は現代のわれわれには信じられないほど、死と死後の世界に真剣に取り組んでいたようだ。それは時代こそ少し下がるものの、すぐ隣のヘブライ文化が死を全く無視したのとよい対応を示している。古代のユダヤ人の世界観には、「あの世」は存在しない。しかもエジプト人は、後のキリスト教徒のように死を霊の問題とはみなかった。エジプト人にとって死後の世界は生前の世界と全く変わらない。(古代エジプト 笈川博一 中公新書 P74)


・部族神との断絶 
ヘブライ人の宗教的伝統と族長の部族神とのあいだには断絶があり、前者はむしろ紀元前14世紀前半のエジプトのイクナートン王の宗教改革に発するアマルナ時代に行きつく。 (世界の歴史 4 オリエント世界の発展 小川英雄執筆 中央公論社 P63)


●契約による解放 
神と人とが契約するという発想は何とも独特であり異様ではないだろうか。現実には多神教世界の中でデキモノのように突起した一神教信仰だった。神との契約が結ばれ、人々は永遠の義務を負わされることになる。しかし、その契約によって彼らは抑圧と差別からの解放を得ることができるのである。(多神教と一神教 本村俊二 岩波新書 P74)

 


宗教の世界史(参考文献2)

2019-07-22 01:00:00 | 宗教の世界史
宗教の世界史(参考文献2)


2)ユダヤ教

a)下層の宗教 

●出エジプト 
広い意味でのユダヤ教が成立したのは前13世紀である。このときに「出エジプト」という事件が生じた。当時のエジプト(第19王朝)のもとで奴隷状態にあって苦しんでいた者たちが、モーセという指導者の下、大挙してエジプトから脱走したという事件である。もう一つの重要な事件は「カナンヘの定着」である。エジプトから脱走した者たちの次の世代の者たちがカナンに侵入した。(一神教の誕生 加藤隆著 講談社現代新書  P46)


・国外に追放 
ユダヤ教法典の研究者の中にも、唯一神を信奉する人々のエジプト脱出を裏づけようとする動きがある。彼らはイクナアトン死後のエジプト社会の混乱を指摘する。伝来の多神教と新興の一神教との亀裂は深まるばかりであった。この分裂と混乱を回避するには、唯一神の信徒を異端として国外に追放するよりほか手段はなかった。 (多神教と一神教 本村俊二 岩波新書 P69)


●ヘブライ人 
ヘブライ人は人種的には雑多で、どの国家にも所属せず、その最もましな生業は砂漠でろばをあやつる隊商であった。時と場合によっては、彼らは砂漠から定住地に侵入する盗賊か掠奪者たち、エジプトのブドウ園の収穫人などと記録されている。また、傭兵隊としても働いた。アマルナ書簡の伝えるところでは、彼らは紀元前14世紀のパレスティナでは、エジプトの支配下にあるエルサレムなどの都市国家を襲う無法者であった。 (世界の歴史 4 オリエント世界の発展 小川英雄・山本由美子 中央公論社 P58)


●奴隷の宗教 
ユダヤ人とは一つのパーリア民族(賤民)であった。(古代ユダヤ教 上 マックス・ヴェーバー 岩波文庫 P19)


・かつてエジプトにあったときの彼らは、隷従を強いられた。いわば奴隷であった。その奴隷体験の記憶はこのさまよえる人々を一体となったイスラエルの民として鍛えあげていた。それはモーセの十戒を遵守し唯一神ヤーヴェに仕える者として団結することであった。無力な民には唯一神と契約して硬く団結する以外に砂漠の中で生きのびる術はなかった。(多神教と一神教 本村俊二 岩波新書 P91)


・復讐する全能の神 
一神教は虐げられ抑圧された被差別民の宗教になりやすい。不正に憤り、侵犯者に復讐する、全能にして唯一無二の神こそが社会の底辺であえぐ人々にとってあがめられるべき神となるからだ。 (多神教と一神教 本村俊二 岩波新書 P68)


多神教は上層階級がつくった宗教で、一神教は差別されている下級階級がつくった宗教です。 一神教はまさに戦争の宗教なんです。(一神教VS多神教 岸田秀 新書館 P201)


・奴隷と一神教 
一神教というのは被差別階級というか奴隷階級というか、いわば被抑圧者の宗教です。 当然それは打破されなくてはならないわけですから、必然的に戦争と結びついています。 一神教が奴隷の宗教だということと戦争の宗教だということは同じことです。 (一神教VS多神教 岸田秀 新書館 P170)


・エジプト滞在中のヘブライ人 
ハビル(ヘブライ人)たちは文明世界と接触を持ちつつ、各地を自由に転々と移動する集団であったので、彼らがエジプト滞在中にこの様な唯一神・創造神の思想に触れたことは、十分に考えられる。 他方、モーセに率いられたハビルの集団がエジプトを出て、シナイ半島のミディアン人や、ケニ人のような半遊牧の人々の住むところにきて滞在したとき、モーセに対する啓示という形でその地の神ヤーヴェが知られることになった。 この地はエジプトと境を接しており、これらの牧人たちは単なる砂漠の民の部族宗教の信奉者であったというよりは、アマルナ的な普遍神に接したことがあったであろう。従って、モーセと彼に率いられたハビルは、もともと一神教徒であったばかりでなく、彼らがシナイ半島で採用したヤーヴェ神の神観念もまた一神教的なものであったろう。 (世界の歴史 4 オリエント世界の発展 小川英雄・山本由美子 中央公論社 P64)


●血のつながらない神 
イスラエルの神はユダヤ人との血のつながりがない。信者との血のつながりの否定というところにユダヤ教の独自性がある。天照大神は神々の一番トップにいるが、だからといって一神教の神へと転化していかない。人間との血のつながりの幻想をあくまで残す。(一神教VS多神教 岸田秀 新書館 P78)


・ユダヤ教は民族宗教、キリスト教は世界宗教と言われるわけですが、(ヤーヴェがユダヤ民族と血のつながらない神であるということは)ユダヤ教には最初から世界宗教へと展開する可能性があった。 (一神教VS多神教 岸田秀 新書館 P84)


b)戦争神 
●戦争神 ヤーヴェは、戦争神である。または軍神である。(古代ユダヤ教 上 マックス・ヴェーバー 岩波文庫 P212)


●旧約聖書は戦争の記録 
旧約聖書はある意味で戦争の記録です。 モーセに連れ出されて約束の土地カナンに向かったイスラエル軍は、ヤハウェの守護のもとに都市という都市を全部殲滅していく。(一神教VS多神教 岸田秀 新書館 P173)


●アダムとイブ 
君が妻の言う声に聞き従い、わたしが食べてはいけないと命じておいた樹から(リンゴを)取って食べたから、君のために土地は呪われる。(旧約聖書 創世記 岩波文庫 P15~16)


・アダムの息子のカイン 『今や君はこの土地から呪われねばならない。』 『君がこの土地を耕しても、地はもはやその力を君に提供しないだろう。君は地上の放浪者にならねばならない。』 (旧約聖書 創世記 岩波文庫 P16~17)


●「危機と抑圧」から一神教へ 
一神教が生まれる背景には、「危機と抑圧」があった。そのような雰囲気のなかで唯一神を崇めるユダヤ教が成立した。「危機と抑圧」にさいなまれた地中海世界で、人々は神々の声を見失ってしまった。 前1千年期に人々の心性をおそった神々の沈黙こそは、人類史の大転換ともいえる出来事であったのではないだろうか。(多神教と一神教 本村俊二 岩波新書 P198)


c) 一神教の成立 
●排除する神 一神教と多神教の違いは、ただ単に、信ずる神の数にあるのではない。他者の神を認めるか認めないかにある。 (ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず 塩野七生 新潮文庫 P75)


●ヘブライ王国 
イスラエル民族が成立する「出エジプト」「カナンヘの定着」の時期は厳しい経験の連続であり、民としての団結と、その反映であるヤーヴェ崇拝は自ずと強固なものであった。また部族連合時代からダビデによる王国成立までの時期は、外からの敵がだんだんと大きな脅威となる中で、ますます民族的統一を固める時期だった。 しかしソロモンの時代になると、こうした努力がいわば実を結んで、安定と繁栄が訪れる。またそれまで敵でしかなかった外国の諸勢力との共存の道も模索されるようになる。そうした中で、安定した生活の追求のために、ヤーヴェ以外の神の崇拝が平気で行われるようになった。(一神教の誕生 加藤隆著 講談社現代新書  P57)


・原理主義の危険 
どこにも純粋な一神教など存在しない。純粋な一神教を強調し、多神教的な偶像崇拝を真っ向から否定するのは、「原理主義」と喚ばれる立場をとる人間たちだけである。 逆に純粋な多神教も存在しない。八百万の神々への信仰の奥に、超越的な神への信仰が存在することをみていかないと、信仰の実際の姿をとらえるとはできない。(日本人の神はどこにいるのか P218)


●義務の発生 
契約の概念をあてはめると、神に対する民の義務がきちんと果たされていたかという問題が出てくる。 ところがアッシリアに滅ぼされる前の北王国の民の態度は、神の前で適切なものだったとはとても言えないようなものだった。ヤーヴェ以外の神を崇拝していたのである。神に対する民の義務が実現されていてこそ、神は民に恵みを与える。買い手が百円を出していないのならば、売り手がリンゴを渡さないのは当然である。 このような論理を採用することで、ヤーヴェは駄目な神だとしなければならないといった事態を回避できることになる。この論理によって神は救われたのである。(一神教の誕生 加藤隆著 講談社現代新書  P65)


・北王国滅亡のあとの『契約の概念』
・『罪の概念』の導入によって、ヤーヴェが沈黙していてもそれでヤーヴェを駄目な神だとせずに済む考え方が成立した。(一神教の誕生 加藤隆著 講談社現代新書  P78)

d)契約の発生

e)動かない神 
●言葉の呪術的価値 神の名を知ることは、その神に一定の力を及ぼせるということにひとしい。名前、一般的には言葉の呪術的価値は、先史時代から知られていた。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ著 ちくま学芸文庫 P167)


●ザビエルへの問い 
日本人は反駁した。どういう反駁をしたか。ザビエルの手紙には、子細にそのことが書かれています。 「神が天地を創造し、そんなに情け深い存在だというなら、なぜ地獄などというものがあるのか、これは大矛盾であると。キリストを信じ、神の洗礼を受けなければ救われないというならば、自分たちの先祖はどうなっているのだ。洗礼を受けていない先祖は、やはり地獄に行ったのか」、と聞いたといいます。ザビエルは「先祖であろうが、地獄へ行った」と答えました。それを聞いて、日本人は非常に悲しんで泣いたといいます。 ザビエルはイエズス会の同僚たちとの往復書簡の中で、もう精魂つきはてたと述べています。自分の能力の限界を試されたと、正直に告白しています。そして、日本に進歩を派遣するときは、よほど学問のある神父にしてほしい、できれば経験のある神父がいいと言っています。若い神父では日本人に打ち負かされてしまうからだというのです。 (聖書と甘え 土居健郎 PHP新書 P105)


●「信じる者は救われる」と「神はすべてを決定する」との間には、非常に深刻な対立がある。 (イスラム原論 小室直樹 集英社 P235)


f)厳しい弾圧 
●粗末に改宗させられたゲルマン人 流血の惨をみる強制によってキリスト教徒に改宗させられた事実が忘れられてはなるまい。これらの民族はみな「粗末に改宗させられた」のであり、キリスト教という薄いうわべ飾りの下で、彼らは野蛮な多神教に忠誠を誓っていた彼らの先祖と何ら変わらないままであった。(モーセと一神教 フロイト著 ちくま学芸文庫 P156)


・生き残る神々 
農村の深部では依然として古来の異教崇拝が深く根を下ろしていた。 (世界の歴史5 ローマ帝国とキリスト教 弓削達 河出書房新社 P80)


・強制的な改宗としての洗礼儀式 
693年にイングランドのウェセックス王国で成立した「イネ法典」は、新生児に30日以内に洗礼を受けさせなかった両親から、全財産を没収するという厳しい定めを設けている。 (世界の歴史5 ローマ帝国とキリスト教 弓削達 河出書房新社 P82)


3)キリスト教

a)厳しすぎる一神教への反動 
●動かない神への疑問 
神が久しく動かないことは、人間にとって耐えきれない現実である。契約の神を神とすることは、動かない神を正当だとすることなので、人間にとっては神がいないのと同然ではないだろうか。 (一神教の誕生 加藤隆著 講談社現代新書  P144)


●ユダヤはシリア属州の1部 
紀元前63年になると、ユダヤはシリア属州の1部となった。 紀元前37年、ヘロデは正式に王位に就いた。彼はアラブ系の人物であり、ユダヤ人の目から見れば、成り上がりの外国人にすぎなかった。ヘロデを指示したのはサドカイ派である。 もう一つは、救世主が近い将来に来臨するという期待がますます高まったことで、これはやがてローマの支配からの解放と同一視され、ヘロデの死後には反ローマの独立運動とも結び付いた。キリストが現れたのは、この潮流の中からであった。(世界の歴史 4 オリエント世界の発展 小川英雄・山本由美子 中央公論社 P252)


●十字架の死は、全人類を救う贖罪の行為(新世界史B 山川 P49)


・三位一体は多神教 
三位一体は、父と子と精霊から構成されている。ということは、この教義は、神が一つであることを強調しているのではなく、むしろ神が複数存在することを示しているのではないか。ならば、キリスト教とは、じつは多神教ではないのか。(日本人の神はどこにいるか 島田裕己著 ちくま新書 P51)


・聖母マリアの危険性 
聖母マリアへの信仰は、じつは、一神教としてのキリスト教を否定しかねないものをもっている。 (日本人の神はどこにいるか 島田裕己著 ちくま新書 P107)


・聖母マリアへの信仰は、キリスト教の外の世界からは、キリスト教が多神教である証拠とみなされれる。 (日本人の神はどこにいるか 島田裕己著 ちくま新書 P110)

 


 

【4】インド

1) 多神教との共存 
●インドには墓がない 
インド人は生と死のすべてを自然の大きなめぐりと観じ、霊魂は肉体の死後も生きつづけ、天界の楽土に赴き、祖霊たちと再開したのち、やがて再びこの世に生まれかわるのだ。そして自分は、少なくとも今生で、あれこれ善い行いをしてきたのだから、来世はきっと現世より幸多く生まれるに違いない、そうした期待と信念を胸に抱いているのである。したがって、魂のぬけた亡骸に彼らは何の未練ももたない。死体は空の器にすぎないのであり、蛇の抜け殻のように不要である。こうして周知のように、ヒンドゥー教徒は墓をつくらず、死者は荼毘に付し、遺骨は砕いて灰とともに天国に通ずる聖なる川に流すのである。(ヒンドゥー教 森本達雄 中公新書 P15)


(インド人には)祖霊に対する供養という感情は存しない。(比較文明社会論 シュー著 培風館 P40)


●バラモン教のブラフマン 
・「ウパニシャッド」では、宇宙の根本原理(ブラフマン)と自己(アートマン)を合一すれば、輪廻からときはなたれ解脱することができると説かれた。(教科書 世界史B 東京書籍・実教出版)


・宇宙の中心生命であるブラフマン(梵)と個人の中心生命であるアートマン(我)との究極的一致を説く。(梵我一如)(チャート世界史 数研)


・ブラフマンとアートマンはその深き意味においては非人格的なる創造原理である。 (風土 和辻哲郎 岩波文庫 P39)


・ヒンドゥー哲学は属性が存在する基体、すなわちブラフマンは存在するという。しかし、この基体としてのブラフマンは決してキリスト教的な創造主ではない。キリスト教の場合は、神が世界そのものとなることはない。ヒンドゥー教あるいはバラモン正統派の場合には、ブラフマンはそこから世界が展開し、顕現する根本物質となる。しばしば、それが世界そのものになるのである。(空の思想 立川武蔵 講談社学術文庫 P42)


・サンスクリットでは、この究極実在としてのブラフマンとヒンドゥー教の創造神ブラフマー(梵天)は同じ語だが、前者は中性名詞で主格形もブラフマンであるのに対し、後者は男性名詞のため主格形はブラフマーとなる。またブラフマンの力をつかさどる祭官のことをブラーフマナ(バラモン)という。(エンカルタ百科事典)


●阿修羅のルーツ 
アッシリア王アッシュルバニパル(前700頃)の書庫の『アッサラ・マザス』 ゾロアスター教の『アフラ・マズダ』、インドの『アスラ』(世界の歴史6 古代インド 河出書房 P64)


・アフラ・マズダの姿は、ゾロアスターが考えたものよりも、インド最古の聖典ベーダに登場するバルナ(ときにアスラとよばれる)に似ている。(エンカルタ百科事典)


2)日本の神観念 
●日本に究極の神はいない 日本の神話には、絶対的な究極の神は登場しない。確かに神とは人間一般の通常の尺度を超えた能力を備えた存在であるが、しかしそれらはいずれも、全知全能の絶対的に超越した神としてはえがかれていない。例えば、『古事記』では、イザナギノミコト、イザナミノミコトの二神は、最初にこの国や神々を生んだ神であるが、この二神も自らの意志でそうしたのではなく、より上位の『上つ神』の命令で生んだのである。さらに、その『上つ神』もいったん事のおこるや、占いなどでより上位の神々の意志を問うたり、他の神々と相談したりしてものごとを決定しているのである。このことは、日本神話ではもっとも尊いとされている天照大神の場合も例外ではない。天照大神は、太陽を神格化した最高神として祭られる神でありながら、この神もまた、他の何ものかの神を祭る司祭者のような性格を帯びており、世界を専制的に支配する神としてはえがかれていない。 このように、日本の神話には、キリスト教などで説くような唯一絶対の究極の神は登場しないのであり、いかに尊い神であろうと、常にその背後に何らかの神(のようなもの)が想定されている。つまりそこには、この世界や宇宙の究極を特定するような発想を見いだすことはできないのである。(教科書 倫理 東京書籍 P73)


●仏像 (日本では)仏教伝来後に、仏像の影響を受けて、神像が刻まれた。(教科書 倫理 清水書院 P69)

 


 

【5】中国

1)儒教の「孝」 
●親に対する「孝」といった家族道徳を社会秩序の基本におく(詳説世界史B 山川 P66)


●祖先の魂を呼び戻す行為の主催者は子孫 中国人は、生きて在る親に対してだけではなくて、死せる親に対してつくすことをも孝としたのである。すなわち具体的には、親の命日に、親の魂を霊界から呼び戻す行為を行う。いわゆる招魂儀礼である。これを職業的に行っていたのが、原儒というシャーマン集団であり、孔子の母は、この集団の出身であると考えられる。そうなると、このように祖先の魂を呼び戻す行為の主催者が必要となる。誰がそれを担当するのかといえば、子孫以外にしてくれる者はいない。(「論語」を読む 加地伸行 講談社現代新書 p77)


●子孫の存在・シャーマンの存在 招魂を行うためには、二つの条件が必要である。まず第一は、死者の招魂儀礼を行おうとする遺族、子孫が存在する必要がある。第二には、その魂降ろしをする主祭者(シャーマン)が必要である。・・・・そしてこの招魂儀礼をきちんと行うことを、(中国人は)孝の中に含めたのである。父母亡き後も、祭祀する事を賢明に行うことは、実は自分の死後の霊魂に対するあり方のモデルなのである。自分が死せる父母を祭祀して亡き父母がこのなつかしい現世に再び帰ってくることができるようにそのように、自分の死後、子孫が自分に対して招魂してくれれば、再び自分もこのなつかしい現世に帰ってくることができることを期待するのである。 父母の招魂も、あるいはその鎮魂も、ともに実は、自分の死にたいする恐怖や不安を解消する方法なのである。 (「論語」を読む 加地伸行 講談社現代新書 p116)


2) 天皇家の血筋の尊重 
●シャマンとしての卑弥呼 
其の国、本亦男子を以って王となし、住まること七、八十年。倭国乱れ、相功伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼といふ。鬼道に事え、能く衆を惑はす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて国を治む。・・・・卑弥呼以て死す。・・・・更に男王を立てしも、国中服せず。更々相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。(魏志倭人伝)


・卑弥呼には、霊的存在と直接交流する巫女(シャマン)の性格がうかがえる。霊をよびよせるという宗教者を中心とする呪術的・宗教的民族は、シャマニズムとよばれ、シベリアや朝鮮などひろく世界各地に認められるが、こうした原初的民族が邪馬台国にも見られたといえる。(教科書 倫理 実教出版 P51)


・血のつながり 
「其の国、本亦男子を以って王となし、住まること七、八十年」 男性が王位を継承する社会で、その王の地位が不安定な時代に、巫女が王として擁立されたわけである。 たとえ男性が王であっても、神託をおろす巫女の存在が必要であった。 ヒミコには男弟がおり、女王をたすけて国を治めるという。本来は王が聞くべき託宣を、巫女が王になって、王に代わって弟がこれを聞き、政治の実務を行っているのである。したがってこの男性が事実上は王の立場にあったと見ることができる。(日本民族文化大系4 小学館 P136)


3)中国の宗族 
●殷と周の血統 殷の武丁はまた、祖先の祀りをとても大切にしていた。 (世界の歴史3 中国のあけぼの 貝塚茂樹 河出書房新社 P90)


4)中国の封建制 ●周の封建制 周の政治組織は「封建」とよばれるが、中世ヨーロッパのフューダリズムや日本の封建制度と違って、氏族制の秩序が強くもりこまれていた。(新世界史B  山川 P69)


・周の場合は、王室と同族の諸侯とは本家と分家の関係であり、氏族制度の名残である血族的な団結力によって結ばれていたのである。(世界の歴史3 中国のあけぼの 貝塚茂樹 河出書房新社 P130)


5)天の思想 
●血統を補強する天の思想 戦国時代には、伝統的血統を誇った一族にかわって、成り上がり者が台頭し、王を称するに至った。追王は、従来血統誇る頂点であった。ところが、彼ら成り上がり者は血統を誇ることができない。このいかんともしがたい弱みを抱えつつ、当時の政権を支える世論を納得させるには、「正統とは何か」について、新たな理論を用意する必要に迫られたのであった。彼らは、自らに王たるの徳が備わっている、ということを示すことで、王としての正統化をはたそうとした。 (世界の歴史 2 中華文明の誕生 尾形勇・平勢隆郎 中央公論社 P28)


 

 

【6】日本

1)神との血のつながり 
●西洋の『God』 
西洋の『God』は、日本語で『神』と翻訳されている。しかし、その内容まで同一と思いこむと、異文化についての理解がすれ違い、文化の相互理解のさまたげになる。(教科書 倫理 山川出版 P69)


●皇祖神 
イスラエルの神はユダヤ人との血のつながりがない。信者との血のつながりの否定というところにユダヤ教の独自性がある。天照大神は神々の一番トップにいるが、だからといって一神教の神へと転化していかない。人間との血のつながりの幻想をあくまで残す。(一神教VS多神教 岸田秀 新書館 P78)


●神々の編入 
神話を合理化する際に、例えば日本では、日本書紀のように、大和朝廷による統一を正当化するために、異部族の神々を、血統的な関係に組み入れている。これに対して中国では、各部族の祖神を、古代統一帝国の帝王の臣下の関係に組み入れているのである。(世界の歴史3 中国のあけぼの 貝塚茂樹 河出書房新社 P45)


●先祖の話 
柳田国男は、日本人の死生観について考察し、『霊は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方へはいってしまわないという信仰』が古代からあり、これが仏教などの外来宗教と非常に異なる点だと述べた。(『先祖の話』) (教科書 倫理 実教出版 P51)


2)死のケガレ 
●ケガレVSハラエ 
そもそも死は日本人にとって扱いの困難な対象であった。死は最大のケガレであり、ケガレとはまがまがしい非日常性の侵入にほかならない。アラタマ(荒魂)の跳梁に対して、ミソギやハラエだけではあまりに弱すぎる。そんな時、仏教は新たに強力な呪力をもって現れた。 葬式仏教がどれほど、仏教の本旨からはずれていても、それだけの必然性があって発展してきたものであれば、将来的にも決して簡単にはなくならないであろう。(日本仏教史 末木文美士 新潮文庫 P288)


●死はケガレ 
不幸な死をとげた人の霊魂が、その祟りとして、疫病の流行や火災・落雷などの変災をもたらすと考え、その霊魂、すなわち怨霊を鎮めるための祭祀を行うようになったのも、平安時代に入ってからのことであった。・・・・一面からすれば、仏教の普及により、死者の霊魂の存在が信じられるようになったことと関係があろう。・・・・その最初は、863年に、平安宮の東南にある神泉苑で行われた御霊会であり、読経とともに、歌舞や相撲などが催されたという。 (日本文化の歴史 尾藤正英 岩波新書 P71)


・孤独死の恐怖 
人の死のうち孤独な死は最も忌まれた。周囲に見取るものがなくて死んでいくことは死者自体も最もさびしいことであったが、そういう死者の魂は多くの場合、人に災いをもたらすものであると考えられた。それは仏教渡来以前から日本人の中にあった民族的な感情であった。行路病者の死を村人が極度に嫌った話が日本書紀に見えている。 日本で仏教者が尊ばれるようになったのは、この死の処理にあたることになったからである。 しかも、生死の問題を人間個人の問題として最も真剣に考えたのが、念仏行者たちであった。 (村のなりたち 宮本常一 未来社 P189)


・御霊会は、はじめ早良親王ら政治的敗者をなぐさめる行事として、9世紀半ばにはじまったが、やがて疫病の流行を防ぐ祭礼となった。北野神社や祇園社(八坂神社)の祭りなどは、元来は御霊信仰から生まれたものである。 (教科書 日本史B 山川出版 P66)


3)アニミズム 
●アニミズムと仏教 日本仏教はそもそもの始まりから如来蔵思想を重視してきた。このような日本仏教の方向性を定めたのは聖徳太子である。仏教伝来機の最重要人物たる聖徳太子に如来蔵思想を選び取らせたものに、日本古来の霊崇拝があったであろう。山や川、樹木や人に霊が宿るというアニミスティックな考え方は、衆生の一人一人に仏性が宿るという考え方と軌を一にしている。インド仏教において、「一切の衆生に悉く仏性有り」(「一切衆生、悉有仏性」・・・・涅槃経)というときの衆生は人間であった。しかし、日本では衆生の中に生命あるものすべて、さらには山川草木をも含めてしまった。樹や石も仏性を備えており、やがて成仏するという日本仏教の考え方は、自然のものの一つ一つに霊が宿るという神道の考え方と合流して、神仏習合の理念的基礎となった。(日本仏教の思想 立川武蔵 講談社現代新書 P32)


・宮崎駿監督のアニメには、原生林をつかさどるシシ神(「もののけ姫」)など、アニミズム的な色彩がしばしば見られる。(教科書 倫理 実教出版 P51)


●三斎市の例  
中世の地方市場は、毎日市が立てられていたのではなく、三斎市・六斎市というように、ある決まった日に市が立てられました。この日は、三斎・六斎という斎日でありまして、この日には、天界から四天王またはその使者が下界に降りてくる日とされていた。中世以前においては、物は単なる物として存在していたのではなく、その所有者の魂を含みこんだものとして存在しておりました。ですから、このような物の交換は、交換者相互を物を媒介として規定すると信じられていたのであり、この物を媒介にした関係を絶つためには、神に捧げ、神の物(誰のものでもない)にする必要があったわけであり、そのような機能を持つ市で交換が行われたのであります。 (日本中世史像の再検討 勝俣鎮夫 P156 )


4)鎮魂 
●仏教の縁起 
仏教思想の大きな特徴は、縁起にあるといわれる。縁起というのはあらゆる現象世界の事物は種々の原因や条件がより集まって成立しているということで、それゆえにこそ一切万物は変転きわまりない。これが無常と言われることである。このように万物が変化し、縁起によって成立しているということは裏からいえば、他によらずして自存し、永遠に存在するようなものは何もないということである。他によらずして自存し、永遠に存在するものは哲学の用語で実体と呼ばれる。したがって縁起の原理は実体が存在しない、無実体であるということにほかならない。またインド哲学の用語では、このような実体はアートマン(我)と言われるので、縁起の原理はまたアートマン否定ということになり、これはアナートマン(無我)の原理ともいわれる。大乗仏教で主張される空も基本的には同じ原理をいっているものである。(日本仏教史 末木文美士 新潮文庫 P175)


5)密教 
●空 
原始仏教以来の根本原理の1つに無我の原理がある。一切の存在は自我のような固定的な実体を持たないというものである。言いかえれば、因果性を離れた永遠の存在はあり得ないということである。この原理が大乗仏教では空とよばれ、もはや最も中心の原理とされる。ところが、密教の絶対者大日如来は永遠の宇宙的実体であり、それまでの仏教の仏が究極的には風に帰するのと根本的に異なっている。瞑想の中で自我がこの宇宙的な大日如来と一体化することにより、自我も絶対性を獲得できるというのである。そこにはウパニシャッドに見られる、ブラフマン(宇宙原理)とアートマン(自我の原理)の一致の理論との近似性もうかがえる。空海によるこのような密教の理論化は後で見ることとして、ともかくも従来の仏教の無我・空のもつ現世否定性が消えて、密教においては顕著な現実肯定性が支配するようになっている。(日本仏教史 末木文美士 新潮文庫 P109)


●山川草木がすべて実相であり、成仏するという本覚思想と、すべてのものが念仏によって救われるという専修念仏とは、理論的には軌を一にしている。(日本仏教の思想 立川武蔵 講談社 現代新書 P127)


●一切衆生、悉有仏性 
すべての衆生に悟りの可能性があるという考え方は、如来蔵思想・仏性思想などとよばれ、インドの中期の大乗仏教において主張されるようになってきたものである。(日本仏教史 末木文美士 新潮文庫 P158)


●最長と空海の共通点 
最澄によれば、すべての人は成仏する可能性をもち、さらにこの身体のまま仏になることができ、諸法は実相である。このような考え方は法相・三論等の古典的仏教の教学とは相反するものであった。最澄と空海という二人の巨人が行ったことは奇妙なほどに似かよっている。この二人が現れるまでは、仏教僧たちは自分自身という実験場において、仏教という異国の思想を自信をもって開いてみせることができなかった。つまり、この二人によってはじめて仏教が日本で咀嚼されたのである。この共通点にくらべるならば、二人の相違点は取るに足らない。平安仏教を通じての特色としては、神道との習合があげられる。(日本仏教の思想 立川武蔵 講談社現代新書 P92)


・人はすでに救われている 
親鸞の願力回向の説とは、人はすでに仏によって救われており、ただその事実を知ればよい、とするものであるから、天台本覚思想と共通した立場である。(日本文化の歴史 尾藤正英 岩波新書 P98)


・古代から中世への継承 
古代における人間の慈愛の尊重は、鎌倉幕府の時代に、力強い鎌倉仏教の勃興において、慈悲の道徳として現れた。 (風土 和辻哲郎 岩波文庫 P184)


6)浄土教 
●死者供養 
・阿弥陀仏による死者成仏 法然の念仏は、それまでの念仏とは異なり、死者の鎮魂慰霊の呪文ではなく、阿弥陀仏の救済原理を明らかにして、生きている人間の救済を対象とした。しかし次第に、広大な阿弥陀仏の慈悲にすがって、死者の成仏も願うという風潮が生まれるようになった。葬式仏教では教義に対する各人の決断よりは、死者への思いやりが、重要だと考えられたのである。(日本人はなぜ無宗教なのか 阿満利麿 ちくま新書 P54)


7)村の守護神 
●鎮守の社 
民間の神社の成立は、それぞれの村や町が、共同体としての性格をもつ地域集団となったことを示している。 (日本文化の歴史 尾藤正英 岩波新書 P121)


●宮座 宮座の特色は祭りの日に村の者がお宮の拝殿に集合して祭典を行い、それぞれ座席を決めて神酒をいただき、食事をともにして帰ってくることにある。(村のなりたち 宮本常一 未来社 P148)


・近世の村は異姓集団 郷や保からの分村には特別に勢力のある家は少なく、そういう村が名田の周囲に分散し、数からいえば名田よりもずっと多かったと見られる。つまり近世の村は天正・慶長の検地によって突然現れるのではなく、古い郷や保の外側に出作・開墾によって無数に増えていき、しかもそれが異姓集団であることを一般としていた。 (村のなりたち 宮本常一 未来社 P115)


8)葬式仏教 
●祖先供養 
人は言う。先祖供養や墓は、江戸時代の寺請制度や家父長制による家制度から来たものであり、封建制の名残であると。愚かな解釈である。寺請制度や家制度があって、先祖供養や墓が生まれたのではない。先祖供養や墓への本質的要求は、江戸時代よりもはるか以前の昔からずっとあったのである。(沈黙の宗教 加地伸行 筑摩書房 P72)


●永続性を目指そうとする組織 
12世紀を画期とする古代から中世への移行は、「氏」の時代から「家」の時代への移行として理解することができる。・・・・家の形成が始まった12世紀のころから、いわば家の原理にもとづく新しい文化の発展があったことに注目しなければならない。家の原理とは何か。・・・・家は、それを構成する人々が、血縁の有無にかかわらず、相互に信頼し、その家業のために必要な役割を、それぞれが分担して遂行することにより、永続性を目指そうとする組織であった。 (日本文化の歴史 尾藤正英 岩波新書 P89)


・庶民の家の形成 
武士だけが家名をもったということは、庶民社会にはまだ家が成立していなかったため、とみられることもあるが、それは誤りであって、百姓や町人の社会には、家号(屋号)があって、それで家名を表示していた。・・・・庶民のあいだで家が形成されたのは、14、15世紀ごろ以降であった。(日本文化の歴史 尾藤正英 岩波新書 P144)


●死霊の鎮め 
死者のケガレをはらううえで、また横死者の祟る霊を鎮める上で、仏教が絶大な力を発揮すると信じられていたことが、後の葬式仏教の基盤となったといえる。(日本人はなぜ無宗教なのか 阿満利麿 ちくま新書 P54)


●鎮魂から家意識へ 
村々において、家という意識が明瞭となり、人は死んでも、家の一員として祭られ続けるという信念が姿を見せてはじめて、葬式仏教成立の条件が整うことになる。家は家族とは全く異なる社会制度である。家族は自然発生的な集団であるが、家はあくまでも特定の歴史的条件の下で成立する制度なのであり、14世紀から16世紀にかけて成立したといわれる。こうした家意識の発生を待って、あるいはそれと不可分の関係において、いわゆる寺請檀家制度というものが登場する。この制度こそが、葬式仏教を完成、定着させることになった。 (日本人はなぜ無宗教なのか 阿満利麿 ちくま新書 P56)


・民間寺院の8割が鎖国前に成立 
民間寺院の80%が、鎖国直後の1643年までに成立している。この事実からすれば、檀家制度や本末制度は、権力による人為的なものではなく、それ自体としては自然発生的に成立し、江戸幕府はただ、それを政治的に利用しただけであったとみるのが妥当であろう。(日本文化の歴史 尾藤正英 岩波新書 P129)


●四十九日の法要 
業の思想は輪廻と結び付いている。今日でもこの思想を採用したが、部派仏教以来、通常人が死んで四十九日を経て新たな生命を受けると考えられている。この期間が中陰と呼ばれる。四十九日の間、特に追善の法要が盛んに行われるのも、この時期に善行を廻向(えこう、善行をある目的のために振り向けること)してよい来世の生存を得させようという目的である。しかし、それならば中陰の時期を過ぎてしまえば、もはや、追善廻向は意味を持たないのではないか。この点、どうもすっきりした理論的な回答は難しそうである。(日本仏教史 末木文美士 新潮文庫 P282)


●強制力が失われてもなお持続する葬式仏教 
葬式仏教を固定化させた寺請制度にしても、一面では日本人の宗教感覚に合致するところがあり、それゆえにこそ、それが日本の社会に定着し、強制力が失われた近代になってもなお持続することが可能であったと考えられる。 (日本仏教史 末木文美士 新潮文庫 P242)


9)仏教と儒教の併存 
●輪廻転生と招魂再生 
私は、日本の家庭において仏壇の持つ意味は重要であると思っている。輪廻転生と招魂再生の矛盾を問う必要はない。・・・・ただし、輪廻転生のインド仏教と招魂再生の儒教との併立、併存であることは、知的に理解しておくべきである。(沈黙の宗教・加地伸行・P82)


・自然宗教の祖先崇拝や霊魂観をそっくり認めたうえで、仏教的色彩を施したのが葬式仏教にほかならない。葬式仏教とは、自然宗教に仏教の衣を着せたものなのだ。(日本人はなぜ無宗教なのか 阿満利麿 ちくま新書 P66)


●葬式仏教の形において天台本覚論が現実化 死ねば仏式の葬式をしてもらえて、必ず仏の世界へ行くことができるのであれば、個人としてこれほど安心なことはない。その安心感に支えられて、現実の社会生活は充実したものとなるであろう。それが日本の葬式仏教のもつ本来の意味であり、そのような形において天台本覚論が現実のものになったといえよう。 (日本文化の歴史 尾藤正英 岩波新書 P130)


●「我を捨てる」 
宗教家が悟りを求めるとき、哲学者が思索の壁に突き当たったとき、武道の達人がその奥義を求めているとき、芸道の達人がその芸を極めるとき、彼らが故郷のごとく立ち帰っていく境地は、「自己を捨てる」ことである。 デカルトのあの有名な「我思う故に我あり」という言葉といかに大きな隔たりがあることか。 剣法の道においても理想とするところは一つであった。それは「大きなる所」「空」すなわち「大我」の世界であった。 (敬語日本人論 荒木博之 PHP P98)


●慈悲の貫徹 
仏教が葬式仏教という形でしか浸透できなかったということは、表面的には仏教側の敗北のように見えても、実は、仏教の理想である慈悲行が貫徹されたといってもよいのではないか。 民衆の側も、自分たちの自然宗教の足らないところを補うものが、仏教、特にその儀礼にあると考えたからこそ仏教儀礼を受け入れたのである。(日本人はなぜ無宗教なのか 阿満利麿 ちくま新書 P67)


 

 

【7】終わりに

1)日本の無宗教性 
●創唱宗教 
宗教が怖いという場合の宗教は、ほとんどが自然宗教というよりも、創唱宗教に属する。 特定の教祖や教義、教団が怖いのである。(日本人はなぜ無宗教なのか 阿満利麿 ちくま新書 P26)


・自然宗教と創唱宗教 
こうした創唱宗教への恐怖心や警戒感は、ある意味では正常な反応だといえる。 なぜなら、創唱宗教の本質は、日常普通の生活とは異なる考え方に立脚点があるからだ。 (日本人はなぜ無宗教なのか 阿満利麿 ちくま新書 P26)


・自然宗教 
日本人の無宗教は、創唱宗教の否定ではなく、むしろ自然宗教の信奉を意味する。 (日本人はなぜ無宗教なのか 阿満利麿 ちくま新書 P12)