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ひょうきちの疑問

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新「授業でいえない世界史」 34話 19C後半 共産党宣言・アロー戦争・インド大反乱

2019-08-25 09:35:34 | 新世界史13 19C後半
【ヴィクトリア朝時代】 この時代、支配する側はいい時代です。イギリスは全盛時代ですから。王様は約60年間、このヴィクトリア女王です。1837年~1901年まで、約60年間の女王です。日本でも昭和が63年まであった。これが最長です。ビクトリア女王は、10代で即位して女王になって80歳すぎまで女王です。ここで起こっているアヘン戦争でも、このインド大反乱も、このヴィクトリア女王の時代です。

 いろんなことがイギリスでもおこっています。イギリスは議会を持つ民主国家として国内を治めていますが、選挙権はまだ労働者に行き渡っていません。「オレたちにも選挙権をくれ」と労働者たちが言いはじめたのが1838年です。この運動をチャーチスト運動といいます。貧乏人には選挙させないではなくて、「貧乏人であろうが金持ちであろうが同じ人間じゃないか」と。そんなことは今では当たり前のことですが、当時は当たり前ではなかった。

 その6年後の1844年になると・・・・・・株式会社は危険な組織だということで約100年間禁止されていた・・・・・・株式会社が解禁された。株式会社が設立オーケーとなった。
 またさっき言ったように1857年は、世界恐慌が起こった。その震源地はアメリカです。恐慌は何度も起こります。アメリカが植民地から独立したら、どんどんイギリスを追いかけていって経済成長する。その代わり、経済成長が早い分もろい経済です。イギリスの金融資本に頼った成長で、危ない成長です。この1857年の恐慌の裏にもイギリスの存在があります。イギリスは大きくなりすぎたアメリカを分断したいと考えています。それが4年後に起こる1861年からのアメリカの南北戦争につながります。
 イギリスは1867年にも2回目の選挙法改正があって、選挙権が貧しい都市労働者にも拡大されていきました。



【社会主義の発展】 資本主義は戦争と結びついています。「資本主義が発展していくにつれて戦争がいっぱいおこった」ことはここ100年の歴史を見ると明らかです。「資本主義は危険だ」という見方は昔からある。
 だから資本主義ではなくて社会主義を実現しようとする動きが出てくる。「経済を国家によって管理して行こう」、つまり「計画経済にしていこう」と。こういうことを初めて空想物語じゃなくて経済学的に理論化したのが、ドイツ人のマルクスエンゲルスです。
 そのためには政策を実現するための政党をつくらないといけない。1848年共産党宣言を出します。共産党とは社会主義の実現を目指す政党です。

 ユダヤ教徒を両親に持つマルクスの共産主義研究に資金援助をしたのはロスチャイルド家でした。(世界を操る支配者の正体 馬渕睦夫 講談社 2014.10月 P95)

※ 祖父にラビを持つユダヤ人マルクスは・・・・・・ロスチャイルド家に注目していました。マルクスの祖母のいとこがロンドン・ロスチャイルド家の創設者ネイサンの妻であり、マルクスはロスチャイルド家と親戚関係にあったのです。マルクスの父ハインリッヒはネイサンと同世代で、1814年にイギリスのユダヤ人大富豪コーエン家ゆかりのヘンリッタと結婚しています。弁護士となり、ナポレオン戦争後に経済的に大成功し、マルクスが生まれました。ヘンリッタの母(マルクスの祖母)のいとこがコーエン家当主の娘でネイサンの妻でした。マルクスの祖父はオランダの繊維商でネイサンらと連携していました。・・・・・・ハイネ(ドイツ・ユダヤの亡命詩人)は、1843年から45年にかけてのパリで、21歳年下で20代半ばのマルクスと頻繁に会い、マルクスの指導者的な立場にありました。・・・・・・ハイネは、パリ・ロスチャイルド家の創業者ジェームズの腹心とも言える存在であり、ジェームズ邸に入りびたりながら、一方でマルクスを訪ねて話し込んでいたといいます。彼はジェームズの動静をマルクスに伝えていたでしょうし、マルクスの動静をジェームズの耳に入れていたことでしょう。・・・・・・マルクスは、30年間定職を持たず、毎日のように大英博物館図書館(リーディングルーム)に行き、・・・・・・「資本論」1,2巻を書き上げました。秘書として文献学者を雇い続けていましたが、資金の出所は不明です。(ザ・ロスチャイルド 林千勝 経営科学出版 P94)


 その理論的な本として「資本論」があります。500ページの本が30巻ぐらいある。読むだけでも1年かかる。社会主義をつくるための組織を1864年につくります。これが第1インターナショナルです。国際労働者協会といいます。

 社会主義の特徴は、世界革命を起こさないといけないことです。世界革命というとドラマチックすぎて、どこかの漫画の世界みたいですけど、これを本気でやります。「世界全体で社会主義革命をやらないと資本主義には勝てない」という論理です。実際、このあとソ連は一国社会主義路線をとり「一国だけでも資本主義に勝てる」といったが勝てなかった。
 社会主義はもともと「世界全体でやらないといけない」という発想でやるから、「それじゃ、うちも狙われるのか」とアメリカとか日本も非常に警戒するようになる。



太平天国】 1840年のアヘン戦争のことは言いました。こうやってイギリスによって清がかき乱されていく。そうすると「こんな国はもうダメだ」と中国人も腹を立てて反乱を起こす。そして別の国を作ろうということになる。1851年太平天国という国ができるんです。最大領域はこれです。大きいです。中国の三分の一ぐらいを占めている。こういう国が13年間、1864年まで続きます。 
 さらに1856年から1860年まで4年間、第2次アヘン戦争ともいわれるアロー戦争が起こる。イギリスがアロー戦争を起こした時は、実は中国では天下を動かす大乱が発生しています。これが1851年から14年間続く、太平天国の乱です。この最中に・・・・・・これを狙うかのごとく・・・・・・イギリスは中国を攻撃する。これをアロー戦争といいます。

 まず太平天国のことです。誰が起こしたか。洪秀全という人です。不満があるわけです。不満というのは、イギリスから攻められ、アヘンを売りつけられ、アヘン戦争でも勝てない。イギリスを追い払らうことができない中国政府に対して、つまり清朝政府に対して不満がある。その不満の高まりが、こういう中国の国内に別の国を作ろうという反乱にまで盛り上がっていく。
 その主導者が洪秀全です。きっかけになったのは彼が作った団体、これを上帝会といいます。これはイギリスから入ってきたばかりのキリスト教の影響が非常に強い団体です。それが中国の民間宗教と結合していきます。太平天国というのは一種の宗教団です。これが国までつくる。

 まず1851年
に「滅満興漢」を目指して蜂起する。満州の満です。この清朝政府は、実は中国人じゃなかったんですね。300年前に朝鮮北方の満州というところから中国に侵入してきた異民族の国なんです。彼らを満州族という。これが中国人つまり漢民族を支配している。それを滅ぼそうという「滅満」です。そして、中国人つまり漢民族の国を興そうという「興漢」です。
 その漢民族の国が太平天国だということです。その中心領域が、中国の主要部の大半、半分ぐらい。この領域はかなり広い。日本よりも広い。首都をこの南京とする。北京はもっと北です。最大都市はやや東の海沿いの上海。有名な港はずっと南の香港。南京を首都として占領する。そして天京と名づける。

▼ 太平天国の勢力範囲


 これに対して清朝政府は反撃する。地方の義勇軍も反撃に加わる。それからイギリスなどの外国人の軍隊もこれに加わります。反撃されて太平天国は、14年の動乱の後に滅亡していく。それが1864年です。
 その14年のあいだに、次に言うアロー戦争でまた中国はイギリスからやられます。中国政府はこのとき、内部からの動乱によってもやられるし、外部からイギリスによってもやられる。もう踏んだり蹴ったりの状態になっていく。

※ 太平天国と清が2000万人の死者を出す悲惨な内戦を繰り広げたことにより大運河が寸断されて穀物輸送が滞り、海上輸送の拠点の上海が急成長しました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P209)


 では中国側の軍隊を率いて、太平天国を潰したのに功績のあった人、これが李鴻章です。ここで偉くなる。実はこの清朝政府がつぶれずにこの後も残って、日本の明治政府と戦っていく。これが日清戦争です。その時に日本の内閣総理大臣伊藤博文と交渉していく人物がこの李鴻章です。日本史でも出てきます。
 それから外国人傭兵・・・・・・傭兵とはお金で雇われた兵隊のこと・・・・・・を指揮したゴードンというイギリス人、こういうイギリス人も加わっている。軍事面で外国の力を借りれば、内政面で外国の干渉を許すことになります。実際中国はその通りになります。



【アロー戦争】 これと同時にイギリスがまた攻撃してくる。これがさっき言ったアロー戦争です。アロー号というのはイギリスの船の名前です。1856年からです。太平天国の乱の最中です。そこを狙うかのように、イギリスがいちゃもんつけたんです。この船で、運んではいけないものを輸入していたから、中国政府がこれを差し止める。それに対してまたいちゃもんをつける。理屈はメチャクチャですが、イギリスが勝ちます。
 なぜイギリスはこんなことをしたか。自由貿易をして輸出を伸ばそうとした。そのために10年前にアヘン戦争をふっかけて中国に勝って、自由貿易をしようという了解まで取りつけたんですが、中国は豊かです。だからイギリスから輸入するといっても特に欲しいものはない。この頃まで世界最大のGDP(国内総生産)を誇るのは中国です。イギリスはその中国を潰して、大英帝国になっていきます。

 結局イギリスの輸出は伸びない。「もっと本格的に売りつけてやろう」とする。それがアヘンなんです。アヘン戦争でアヘンを売りつけようとしましたが、「買い方がまだ足りない。もっと買わせよう」というんです。アロー号事件で因縁をつけて、フランスを誘って、英仏軍つまりイギリスとフランス軍が出兵する。そして中国を攻める。攻められたらイギリスは近代兵器を持っているから、この時代の中国は軍事的に勝てない。それで清は敗北します。

 ほぼ同時に翌年の1857年には、アメリカで世界恐慌が起こる。資本主義というのは景気がブレるんですね。物が売れなくて困っている。「売れるものは何でも売ってやれ」とますます売り込む。あたり構わず暴力的な貿易をする。

※ 国際銀行家は、再び金融を引き締め、1857年恐慌を引き起こさせた。しかし、アメリカの国力は20年前と同じではなかった。意外にも1857年の恐慌はアメリカ経済に大したダメージを与えず、わずか1年で景気が回復した。アメリカの経済力は日増しに強くなり、金融をコントロールすることが難しくなってきたため、今度は、内戦(1861年からの南北戦争)を引き起こし、アメリカを分断することが国際銀行家たちの急務となった。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P72)


 そしてイギリスはこの戦争に勝って、ますます不平等条約を押し付けていく。これが1858年、中国の都市に天津(てんしん)という都市がある。そこで結ばれたのが天津条約です。中国はイギリス・フランスの言うとおりに条約に印鑑を押す。何か買うときでも、ホイホイ印鑑押したらダメですよ。印鑑は恐いです。
 ここで認めたのは、「外国人は中国にいていい。北京に駐在していい」、それから「港も香港だけでなく、南京のほか10港も開港する」ことです。そして何でも買わせられる。その中で最大のものがアヘンです。「アヘンだって買うよね」、「えっ、アヘンですか、麻薬じゃないですか」、「文句あるのか」、「ありません」と。
 「これではあんまりだ」ということで、いったん清はもう一回戦おうと再度決起する。そしたらまた負ける。軍事力の差です。

 「そんなことしていいんですか」と聞いた生徒が昔いましたが、良いも悪いも、戦争というのは悪の暴力です。どうしようもありません。世の中には善もあれば悪もあるということです。良いものは良い、悪いものは悪いのです。歴史が、悪いものをごまかして良くいうことだけは避けねばなりません。歴史がそういうことをすると、とたんにおもしろくなくなるのです。おもしろくないことをわざわざ言う意味はありません。
 科学的な発明だって、みんなおもしろいからやっているのです。私はそれは大事なことだと思いますけどね。それが何の役に立つかは「神のみぞ知る」というところでしょう。でも文科省のお役人は大学の研究者に、「そんなことをして何の役に立つのか」と要求しているようです。そんなこと分かるわけないでしょう。「歴史なんか勉強して何の役に立つのか」と問う人があれば、「何の役にも立たないかもしれない」とだけ答えておきましょう。でもそれは自分や世界に意味を与えてくれます。何の意味もない世界で生きたいとは思わないでしょう。自分が何をすべきかは、世界の意味が分かればおのずとそこから導かれるのです。

 話を戻すと、勝ったものが支配するというルールだけが支配する。無理がとおれば道理が引っ込みます。誰もこんな世界に戻りたくはない。でも歴史は繰り返すことがあるんです。
 天津条約の翌年1859年には、中国に足がかりを得たイギリスが、今度は日本に進出しようとする。日本の貿易港は長崎です。「おまえ長崎に行ってこい」と言われて日本に上陸したのがトーマス・グラバーです。長崎のグラバー邸の主です。明治維新の裏で大きな影響を与えました。この人の正体は、このアヘンの売上代金を中国に送金する会社であるジャーディン・マセソン商会の社員です。だから日本に武器も売っている。
 薩摩・長州に「幕府を滅ぼせ」と、リボルバー式機関銃を7000挺も売る。そういう動きをして幕府を倒していく。このお先棒を担いだのが土佐の浪人坂本龍馬です。戦後なぜか日本人は大の龍馬好きになりました。これは司馬遼太郎の影響ですね。

 中国では1860年に再度、不利な条約が結ばされる。北京条約です。何を認めさせられたか。九龍半島の南端を割譲します。ここは香港島の対岸です。これで香港の領域が広がったんです。香港は島です。
 その香港に、イギリスが作ったアヘンの売上代金を送るための会社、香港上海銀行1865年にできます。名前は中国の銀行みたいですけど、これは今でもイギリスの巨大銀行です。れっきとしたイギリスの銀行です。これで中国で売り上げたアヘン代金をイギリス本国に送る。そのための銀行です。この銀行は今でも香港の通貨である香港ドルを発行しています。
 長崎に来たトーマス・グラバーはこの香港上海銀行の長崎代理店を務めています。今でも長崎のグラバー邸の坂の下には香港上海銀行の長崎支店跡があります。今は博物館になっていますが。

 もう一つ、ロシアも中国に接近しています。今でも中国とロシアは国境を接してます。領域が重なって国境をちゃんと決めようと、国境問題が発生してくる。朝鮮北方のところで国境を決める。中国名は黒竜江、ロシア名はアムール川という。「その川を国境にしよう」と、それが1858年のアイグン条約です。アイグンというのは中国の地名です。
 2年後には、さらに日本海側にロシアが進出してきて北京条約を1860年に結ぶ。そこでロシアが手に入れたのが沿海州です。これは日本海を挟んで、新潟の対岸です。そこにウラディボストークという都市をつくる。ここは今でも極東最大のロシアの軍港です。ここにロシアの軍港があることを、日本人はなかなか知りません。



【洋務運動】 その後、中国の清は「このままじゃいかん、このままではイギリスに勝てない、ヨーロッパ流も取り入れないといかん」と考えるようになる。これが1860年代です。この運動を洋務運動といいます。しかしちょっとだけ取り入れただけなんです。日本の明治維新の場合は、政治的にも経済的にも根本から180度変えていく。それが良いか悪いかは別問題です。しかしそれに比べると、中国は軍事面だけです。政治体制は変えない。軍隊を一部西洋化して「中体西用」といって、体は中国のまま、技術面だけ取り入れて行こうとした。抜本的な改革には至らなかった。

 一旦ここでイギリスの侵略は止まって、中国の1870年代は一時的な安定期にはいります。ただイギリスは甘い顔をしながら経済支配を強めようとする。1874年、中国は初めてイギリスから融資を受けます。中国はお金を借りる。イギリスは貸したがっています。しかしお金を借りてそれをちゃんと返せたらいいのですが、返せなかったら身ぐるみ剥がされる。それは国でも個人でも同じです。強い国がお金を借りると「そのうちに返すから」と言って返さなければいいけど、弱い国がお金を借りて返せないとイチコロです。今も日本がアメリカに貸しているお金、アメリカは「そのうち返すから」と言っているけど、まったく返さないでしょ。アメリカは返すつもりがないのです。

 中国は初めて融資を受ける。それを返せなくなる。そして焦げつく。それを条件にイギリスはますます中国に進出していく。貸した銀行は、香港上海銀行HSBC)です。もう一つがジャーディン・マセソン商会という長崎のグラバーの親会社です。こうやって中国の裏にはイギリスが根深く入り込んでいきます。

※ 中国清朝政府は1874年に初めて海外からの融資を受けて以来、イギリス系の香港上海銀行ジャーディン・マセソンを頼っていた。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P115)



【イギリスのインド侵略】 イギリスは中国だけではなく、いろんなところに食指を伸ばしてる。ほぼ同時にインドです。実はインドの方が早いのです。300年前からイギリスは東インド会社をつくって、インドに乗り出している。
 この話はすでにしたと思いますが、インドには綿があった。いま我々が当たり前に着ているこういう綿、これはイギリスにはなかった。この着心地のよさに惚れる。この貿易取引をやっていく。
 この時インドには帝国があった。ムガール帝国という。これが邪魔だった。ちょうどこの国が分裂して弱まっている。攻め時です。このムガール帝国と戦うのが1757年です。インドの場所の名前でプラッシーの戦いという。これはこの時から100年ばかり前の話です。インドを欲しがったのはイギリスばかりではない。この時代の100年前は、イギリスとフランスもインドが欲しくて激しく戦っている。

 この構図は、アメリカでもいっしょだった。独立する前のアメリカでは、やはりイギリスとフランスが戦ってました。1754年から何が起こっていたか。フレンチ=インディアン戦争が起こっていた。これとほぼ同時です。3年アメリカでの戦争が早いだけです。
 アメリカではフレンチ=インディアン戦争、インドではプラッシーの戦い、ともに勝ったのはイギリスです。負けたのはどっちもフランスです。

 フランスはこの後、インドから撤退する。アメリカからも撤退する。こうやってアメリカでもインドでも勝ったイギリスが、このあともインドでチョコチョコ戦争をふっかけながら領土を広げていく。
 このプラッシーの戦いで、イギリスの植民地となったところがベンガル地方です。このあと全土支配に向けて戦争を仕掛けていく。そして植民地を広げていきます。こうやって侵略されていくのがインドです。

▼18世紀後半のインド



 そんななかでインドは、イギリスによって土地を奪われて農村社会が強制的に変えられていきます。インド人も米を作ったり、麦を作ったり、いろいろしている。しかしイギリスが欲しいのは、米とか麦ではなくて、とにかく綿花なんです。これが高く売れるからです。インド人のことは考えていません。あくまで自分たちイギリス人のことだけを考えている。「これだけつくれ」という。こういう栽培方法を、モノカルチャー栽培という。「一つだけ作れ、オレが全部買い取るから」と。それを高く売って儲けようということです。

 20~30年経って18世紀の後半になると、イギリスはこのインド産綿花を原料として輸入して、製品である綿布国内生産することに成功していく。これが安くて飛ぶように売れていく。そしてあっという間にイギリスとインドの綿布生産は逆転していきます。もともとは綿布はインドからヨーロッパに輸出されていた。それがガタッと落ちいてる。それを図に赤でラインを引いてください。1810年を境に、イギリスからアジアに輸出された綿布がグッと伸びる。インドと逆転していく。
 こういうふうに綿布は、もともとインド産だった。それがイギリス産の綿製品に追い抜かれて逆転されていく。これがイギリスの産業革命なんです。戦って土地を奪って、原料の綿花を作らせて、それを加工して高く売るのがイギリスなんです。

※ 近代以降の戦争は、「消費強要戦争」あるいは「過剰在庫戦争」である。・・・・・・イギリスが、18世紀から19世紀にかけて、インドや中国を相手に戦争を起こして政治的にも直接支配して、植民地にした。その本質は、実は、それらの地域の天然資源の強奪が最大の目的なのではなく、反対に、イギリス本国の工場地帯で過剰に生産されて余ってしまった綿製品などの過剰在庫のはけ口を見つけるためのものだったのである。イギリス本国が当時の「世界の工場」だったという事実がそのことを物語っている。だからアジア、アフリカ、南米の諸地域を植民地にしたのは過剰在庫をダンピングする先を欲しかったからだ、という考えが一番優れた考えであろう。(やがてアメリカ発の大恐慌が襲いくる 副島隆彦 ビジネス社 2004.4月 P114)


▼インド綿布とイギリス綿布

▼19世紀前半の世界



【シパーヒーの乱】 中国でアロー号戦争が起こったのが1856年です。イギリスが、中国に難癖つけてアヘンを売り込んだ。
 インドでもその翌年の1857年シパーヒーの乱が起こります。別名はインド大反乱と言います。植民化されようとしているインド人が腹を立てた。「おまえ、いいかげんしろよ」と大反乱が起こる。イギリスに対してです。その中心がシパーヒーです。昔セポイといっていた。発音の違いです。イギリス政府に雇われたインド人の兵隊のことです。金で雇われていたから、仕方なく「ハイハイ」と言っていましたが、あんまりイギリス人がむごいことするから、雇われた兵隊も腹を立てた。イギリスに雇われた兵隊でさえ腹を立てたんだから、まわりのインド人の民衆も加わって大反乱になっていく。これが1857年です。

 同時に1857年アメリカでは世界恐慌が起こった。景気がガクンと落ちた時期です。ついでに言うと、幕末の日本が貿易を始めるのは、この翌年の1858年です。ヨーロッパは景気が悪くなるとどこか別のところから搾り取ろうとします。こうやって日本も世界経済の中に巻き込まれていきます。

 しかし戦ってみると、やはりイギリス軍が強い。イギリス軍がまた勝ちます。イギリス軍が勝つと、反乱鎮圧だけではなく、もっとイギリスの勢力をインドに拡大する。もともとインドには王がいる。帝国がある。この帝国自体が邪魔なんです。だからつぶしてしまう。1858年ムガール帝国滅亡です。これで本格的にイギリス政府がインドを支配するようになります。

 19世紀半ばは、日本にペリーが来た頃です。貿易方法も今までは東インド会社に任せていましたが、国家が自由貿易に乗りだす。ムガール帝国滅亡と同年の1858年に、貿易を独占していた東インド会社は解散し、「イギリス人で貿易したい人間は誰でも貿易していいぞ、何でも売っていいぞ」という自由貿易を進め、インドをイギリスの市場にしていくのです。
 「政治・経済」でも言いましたが、自由貿易というのは強い者が好むものです。イギリスは強いんです。何でも売りつける。

 インドという国は潰した。ではインドは誰が支配するか。イギリスが直接支配する。直接統治といいます。どういうことか。インド人の王はいなくなった。イギリス人の女王・・・・・・この時はヴィクトリア女王です・・・・・・「この人がおまえたちの女王だ。拝め」という。
 イギリスの女王様がインドの王様になった。これでインドはイギリスのものになってしまう。言葉も奪われてしまう。「英語でしゃべれ」と。だからインド人は今も英語をしゃべれる。インドでは英語が公用語の一つになっています。もともと押しつけられた言葉です。これでイギリスのインド支配が、このあと100年、第二次世界大戦後まで続いていきます。
 ちなみにこの間、中国では太平天国の乱が続いています。終結するのは1864年です。中国では兵隊が足りないからお金で傭兵を雇って、その部隊をゴードンに率いらせます。



【反乱後のインド】 これでインドという国はつぶれましたが、その中の藩王国、日本でいう県、これは残った。日本の明治維新と逆です。日本は明治維新で藩がつぶれる代わりに、国が生き残ったんです。インドは逆です。国がつぶれて、地方のローカルな藩だけが残った。こういうことはイギリス人にはお手のものです。強い人間はいなくなって、小粒の人間ばっかりしかいないから、命令したら何でもできる。イギリスにとっては、敵は分裂させて小さくしたほうがいいんです。敵は分裂させたほうがいい。「分割して統治せよ」、ローマ帝国以来の手法ですね。

 インドには宗教が二つあります。メインはヒンドゥー教ですが、もう一つはイスラーム教です。この分裂を利用します。これで分断させます。ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒がいがみ合うように。
 さらにもう一つは、インドにはカーストがあった。バラモン、クシャトリア、バイシャ、シュードラ、これも国を分裂させるには好条件です。「しめしめ」です。このカーストをさらに徹底して分断させる。敵は分断させる。宗教の分断に加え、階級の分断です。このことが今でもインドに深い対立と溝を残しています。

 インドのムガール帝国はインドでは例外的なイスラム教国家で、少数派のイスラーム教徒が多数派のヒンドゥー教徒を支配していた。イギリスはこの国を支配するときに、どちら側を応援しようとするか。敵を潰したい場合は、その敵に支配されている側と手を組む。これが常套手段です。強い相手を弱らせるためには、相手の中の弱い方と手を組む。だからヒンドゥー教徒を優遇する。「イスラーム教徒はイヤだねー、オレも嫌いだ、よしいっしょに潰そう」と。それでヒンドゥー教徒とイスラーム教徒との対立が本格化する。
 それまでインドでは宗教間の対立はそれほど酷くなかった。しかしのちにインドが植民地支配から独立するときに、イスラーム教徒は「ヒンドゥー教徒とはいっしょになれない、オレたちは別の国つくる」といって別の国をつくった。これが今のパキスタンです。イギリスがこれを後押しします。インドで反英運動が高まる中で、イギリスにとっては、敵であるインドのそのまた敵は味方です。これがパキスタンです。
 今でも、インドとパキスタンは仲が悪い。どこまで仲が悪いか。お互いを持っている。核を持ちながら国境を接している。怖いところです。なぜ隣同士でこうなるか。イギリスが植民地支配のために、それを煽ったからです。

 さらにカーストの対立も煽る。カーストは昔からありましたが、今ほど身分の差別が厳しくなかったんです。これが本当に4身分で、結婚もできない、同じ学校にも通えないような厳しい対立になったのは、イギリス植民地時代の100年間です。ここで決定的に階級対立が深まった。
 これで終わります。ではまた。



新「授業でいえない世界史」 35話の1 19C後半 日本、イタリア、アメリカ、フランス

2019-08-25 09:34:10 | 新世界史13 19C後半
 【幕末の日本】
 では日本です。日本には、アメリカ南北戦争の前の1853年ペリーが浦賀にやってきた。この時代は、イギリスがインドに乗り込み、さらに中国に手を伸ばしている頃です。中国では太平天国の乱が起こっています。このペリーは娘を通じて米民主党党首のオーガスト・ベルモントとつながっています。そしてそのベルモントの後ろにはヨーロッパ最大の資本家、イギリスのロスチャイルドがいます。

 ロスチャイルドを中核とするユダヤ国際金融資本権力が、まずペリー提督米艦隊を指揮したのである。この米海軍最古参のペリーは、筋金入りのフリーメーソンであった(加治将一 あやつられた龍馬 祥伝社)。のみならず、ペリーは米国におけるロスチャイルドの代理人とごく親しい関係で結ばれている。グラバーが幕末フリーメーソン革命(明治維新)の裏の主役であったことはもはや明確だが、このグラバーを動かしたのは上海のサスーン財閥であり、そしてこのサスーンはロスチャイルドの「極東」代理人である。(ロスチャイルドの密謀 太田龍 成甲書房 P314)


 ペリーが大砲向けてやってくる。これは大砲向けてやって来たんです。平和の使者として来たんじゃないですよ。日本は大砲向けられても、勝てないことを知っています。日本は海外情報を持っているからです。鎖国の間も、幕府は「オランダ風説書」という海外情報を手に入れています。中国がアヘン戦争で負けたことを知っている。だから戦わない。

 次の年の1854年には日米和親条約を結んで開港する。長崎の出島以外の港として、下田・函館を開く。まだ貿易は始まりません。
 貿易は4年後の1858年から始まります。これが日米修好通商条約です。ここから幕末の動乱、西郷隆盛とか、大河ドラマで良くやるあの世界に本格的に入ってくる。この条約は通商というのがポイントですね。貿易です。貿易が始まって、日本の経済が混乱していく。
 経済が混乱すると庶民が苦しんで反乱が起こる。その最大の貿易港が神奈川ですが、実際はもっと限定される。横浜です。横浜という名前は、「横の浜」だから、そういう地名は全国にいっぱいある。もともと小さな寒村です。数百人ぐらいの村です。それが今や日本最大の貿易港です。ここから発展します。

 ただ同時に、アメリカは他の国と同様に不平等条約を押し付けていきます。アメリカ人が日本でリンゴを盗んだらどうなるか。通常、海外旅行で犯罪を犯した場合、リンゴを盗んでも、日本人だから日本の法律で裁かれると思っている人がいますが、とんでもないことです。
 裁判は現地主義です。シンガポールで日本人がツバはいたら、シンガポールの法律で罰金10万円です。そうしないと日本に来た外国人はやりたい放題になる。しかしそれをアメリカに認める。外国人は日本で裁判できない。これが領事裁判権です。日本は、罪を犯した外国人を裁判できないということです。
 領事というのはアメリカ人で日本に来ている人の親分です。この親分さんが、悪さをしたアメリカ人を裁判をする。しかし実際は裁判しない。したことにして叩かれる前に「早くアメリカに帰れ」と言う。
 今の日本でも時々ある。沖縄の米軍の兵士が犯罪を犯しても、日本は彼らを裁判できないでしょう。彼らはすぐにアメリカに帰る。日米行政協定でそうなっている。ひどい場合には翌日返したりする。日本は何も処罰することができない。そのことを「仕方がない」などと思ったら、国際ルールは理解できません。

 それから、貿易で輸入する場合は、日本の国内産業の保護のために輸入品に関税を自由にかけるのが普通です。しかしそれがかけられない。つまり関税自主権がない。そういう当たり前の権利が欠如しています。だから不平等条約です。これを撤廃するのに日本はこのあと約50年の時間を要します。

 明治初期の日本では銀貨が優勢で、日本経済は東アジアの銀経済圏に属していたといえます。・・・・・・1897年に日本は、700ミリグラムの純金を1円とする金本位制に移行しました。東アジアの外れの日本も、イギリスのポンド経済圏に加わることになったのです。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P214)


 1859年には、イギリスのジャーディン・マセソン商会が、トーマス・グラバーを長崎に派遣します。観光名所のグラバー邸の主です。彼は1866年に土佐の浪人坂本龍馬を使って密かに薩長同盟を結ばせ、武器を長州に運ばせます。また長州の伊藤博文らを密かにイギリスに密航させます。伊藤博文はのち首相になりますが、坂本龍馬は使い捨てられて暗殺されます。
 そして1868年に明治維新となる。幕府が滅んで、長州・薩摩を中心とする新しい明治政府ができます。天皇を中心とする国家ですが、実権は長州と薩摩にあります。でも本当に実権を持つのは伊藤博文を中心とする長州政権です。この人には血のにおいがします。明治政府とイギリスの関係は深いものがあります。


映画「長州ファイブchosyu five」予告編




【イタリア】 
【イタリア統一】 ではイタリアです。イタリアでも、まだイタリアという国はありません。ローマ帝国以来、ここには中小国家ばかりで、まとまった国がなかった。フランス革命以後、1800年代の初めに国を作ろうとした。
 でもこれがブラックなんです。秘密結社ができます。カルボナリ党という。炭焼き党ともいいます。こういう裏の世界の秘密結社から独立運動を始めた。秘密結社だから詳しくわからない。わからないけれども、そういう裏で活動していた組織の影響を受けて、1831年に表の政治結社としてできたのが青年イタリアという団体です。これを結成したのが、カルボナリ党の一員だったマッツィーニという人です。残念ながら、若いころ何をしていたかよくわからない人です。こういう人が運動の中心になっていく。ずっと秘密結社と繋がりがあったということです。秘密結社だから、名前以外には何も教科書では触れていません。

 (カルボナリ党から)ジョゼッペ・マッツィーニが登場する。なぜ、イタリアからひょっこりと、全世界のイルミナティを主導する最高幹部が出現するのか。・・・・・・マッツィーニがなぜ、若い頃から終生、そのような高い位置にあり続け得たのか。これは大きな疑問である。しかし、ミラノのカール・ロスチャイルドの存在とその役割を理解するならばこの疑問は氷解するであろう。(ロスチャイルドの密謀 太田龍 成甲書房 P340)

 イタリアではユダヤ人はイタリア統一運動に積極的に参加した。この運動は、イタリアに統一と自由をもたらそうとするものであった。彼らの要求は、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の下で総理大臣をつとめたマッシモ・ダゼグリオやダゼグリオの後継者カボウルのような要人から支持された。(ユダヤ人の2000年 歴史篇 市川裕 同朋舎出版 P170)


 一旦1849年に、瞬間的にローマ共和国というのを作りますが、「こんなの認めない」というローマ教皇の要請を受けて、フランスが介入する。
 しかし「やっぱり国をつくらないといけない」と言って、中心になるのは今度は地中海に浮かぶこの島です。この島、サルディニアという。ここが中心になる。今でもここはイタリアですよ。この島が本土をまとめていく。サルディニア王国による統一です。首相はカブールという。彼はフランスのナポレオン3世と手を組んで、本土ロンバルディアという地方、ローマのちょっと北の方を手に入れる。だからサルディニアは、北の方からイタリアを統一していきます。

 しかし、そこにこんどは南側から統一しようという別組織があるんです。これがガリバルディという人。この人も秘密結社がらみでよくわからない。若いとき何をしていたのか。ただ真っ赤なシャツを着る。派手好きかというと、「真っ白だったら血が目立つ」というんですね。「真っ赤なシャツだったら、いくら血が流れても目立たない」と。だから赤いシャツにした。血みどろで戦い、「赤シャツで血を隠す」ということです。そういう「赤シャツ隊」をつくる。彼は南イタリアを征服する。

▼イタリアの統一



 そして北と南で、北からはサルディニア、南からはガリバルディです。それでこの二つがぶつかって戦争になるかという寸前のところで、このガリバルディは・・・・・・脅されたのか何なのか、話ができすぎているけど・・・・・・「南部はあなたに差し上げます」といって、サルディニア王に征服地を献上する。

 1860年にガリバルディがナポリを占拠した際には、イギリスのフリーメイソンの一団が彼を支援した。(カナンの呪い ユースタス・マリンズ 成甲書房 P223)
 1861年のイタリア統一というフリーメイソンの蜂起は、イギリス秘密諜報部で計画され、資金提供されたものであり、イギリス外相パーマストンによって指揮されていた。(カナンの呪い ユースタス・マリンズ 成甲書房 P254)


  それによってイタリア王国誕生です。これが1861年です。このイタリアが統一されるのと同じ年に、海の向こうのアメリカでは南北戦争が始まります。ちなみに日本の明治維新は7年後の1868年です。 ドイツの統一はこの9年後の1870年です。1860年代にほぼいっせいに、イタリア、アメリカ、日本、ドイツが次々と形を表していくわけです。

 このときの1860年のイタリアの領域はここまでです。1860年の段階ではローマ教皇がこの統一に反対して入っていません。ローマ教皇が入ってないのは痛いけど、無理に統一する。今でもローマ教会の敷地は独立国です。いわゆるヴァチカンです。上の地図の緑の部分が1860年でのイタリア領土です。サルディニアがこの中心です。ここから今のイタリアが始まります。



【アメリカ】
南部と北部】 フランス革命後、19世紀前半のアメリカの動きは言いました。イギリスはアメリカの独立戦争で負けたあとも、金融面からアメリカを支配しようとしていました。その手段としてイギリスはアメリカに自分たちの息のかかった中央銀行を設立しようとしていました。

 そういう動きのなかで19世紀後半、アメリカ内部での利害対立が深まって、南部と北部が対立します。考え方が違うようになります。
 工業が進んでいるのは北部ですが、アメリカはまだ工業面ではイギリスには勝てない。世界ナンバーワン工業国家はイギリスです。貿易では勝てないから、自由貿易なんてとんでもないです。自由貿易にしたらイギリス製品が入ってくる。アメリカはそれを防ぐために保護貿易を取ります。

 余談ですが、のちにアメリカは第二次世界大戦に勝つと自由貿易に変わる。そしてそれから70年経って物が売れなくなると、今のトランプさんのようにまた保護貿易に変わるんです。
 その時その時の自国の都合で変わるんです。どちらが正しいというものではありません。アメリカが儲かるように保護貿易になったり自由貿易になったりするだけです。日本は工業面ではまだ強いから自由貿易です。でも農業面では保護貿易です。

 アメリカはもともと東の13の小さな植民地だった。それが13全部まとまっているかといえば、そうではない。バラバラになって小さい国がいっぱい乱立する可能性もあった。でも北部は大きい国にしたい。これを連邦主義といいます。北部が支持する政党は共和党です。
 南部はその反対です。南部は農業地域です。綿花を作ってる。土地が広いからインド産の綿花より安くて売れるんです。でもその綿花を白人が自分でつくっているのかといえば、とんでもない。アフリカから連れてきた奴隷に働かせています。だから安く作れるんです。それで自由貿易を主張する。それを支える奴隷制度には大賛成です。そして自分たちが自由にやれるように小さくまとまろうという州権主義です。政党支持は民主党です。綿花を売るためにイギリスとのつながりを保ちたいのです。

 1853年 ペリー来航・・・・・・日本


「風と共に去りぬ」01 裕福な日々 英和対訳字幕




 このような時、1856年民主党の党首になったのが、イギリスのロスチャイルドから派遣されたオーガスト・ベルモントです。

 1856年 アロー戦争・・・・・・イギリス VS 中国

 1856年 イギリス株式会社法・・・・・・株主の有限責任が一般化


 オーガスト・ベルモントの後ろにはイギリスの金融資本家がいますから、イギリスの本音はオーガスト・ベルモントの民主党支持です。つまり南部支持です。南部はイギリスの利益と合致しているのです。しかしイギリスはそうは言えない。なぜか。それは南部が奴隷制度だからです。ここに北部出身の大統領リンカーンの打つ手があるのです。
 このように同じアメリカでも南部と北部は全く違う。まとまらない。だから戦争になる。 

 今では世界帝国みたいなアメリカですが、この時にはまだ新興国で、もともとはイギリスの植民地です。独立したものの北部と南部で利害の対立がある。向かうところは1861年からの南北戦争です。
 この時代に今の二大政党制、つまり共和党と民主党の原型ができます。ちなみに今の大統領はどちらですか。今のトランプ大統領は。政党の主張がわからないと、政治は分かりません。現大統領は共和党です。では前のオバマ大統領はどちらですか。反対の民主党です。

 「政治・経済」で言ったように、アメリカ人は時々、日本人にできないことをやります。大統領は共和党を選び、議会では民主党を選ぶ。今回もそうです。これが得意技です。わざと停滞させる。進むのを遅らせる。今のアメリカは中身は2つという話があって、どっちに行くかわからないですね。
 共和党のトランプが大統領選に勝ちましたが、そのことは日本政府も読めなかった。安倍政権はもともとそう思ってなかった。ヒラリー・クリントンという民主党の女性候補が楽勝すると信じていた。しかし共和党のトランプが勝った。首相の安倍さんは真っ青です。それで外務省に「何をしてるんだ、おまえたちの情報なんか2度と信用しないぞ」と言ったとかいう話がある。日本の政府も今のアメリカを読めてないということです。

 この時代にも、こういうふうに2つの利害の対立がある。これが北部と南部です。この時に自由貿易を主張している南部で、イギリスは南部びいきです。綿花の取引でイギリスと関係が深いのが南部です。
 向かうところは南北戦争ですが、これは何の対立か。表面的には奴隷州と自由州の対立ということになっています。奴隷州とは奴隷を認める南部の州、自由州とは奴隷を認めない北部の州です。これが表面なテーマになりますが、本当のことをいうとリンカンが奴隷解放宣言を出したのは、奴隷解放そのものよりもヨーロッパを味方につけたかったからなんです。
 一番のメインは、自由貿易か保護貿易かの対立です。そのことはイギリスに近づくか、イギリスを遠ざけるかの対立です。つまりイギリスとの関係をどうするかというのが一番の対立点です。

※ 南北戦争は、綿花の生産でイギリスの綿工業と密接な関係を持ち、自由貿易を主張する南部11州が、連邦から離脱するための戦争です。イギリスも、南部諸州に連邦から離れることを働きかけました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P228)
 

 ▼南部と北部の地域差


 その前に、カリフォルニアまで領有して今のアメリカの領土の形になり、太平洋まで領土が達すると、ペリーが日本にやってきた。それが1853年です。でも本当に行きたかったのは中国です。このことは今も昔も変わりません。アメリカにとってメインは中国です。日本ではありませんよ。

 その4年後の1857年には世界恐慌が起きて株が大暴落します。この時のアメリカのお札は、アメリカの各地の民間銀行が勝手に発行していたものです。アメリカには銀行が1万6000銀行ぐらいあって、アメリカのお札つまり今のドル紙幣は一種類じゃない。銀行が勝手に、福岡銀行券みたいな形で発行するから、約7000種類もある。もう訳がわからない。熊本では熊本銀行券、長崎では長崎銀行券をそれぞれ使っているようなものです。お金の種類が多すぎて、経済も混乱している。
 この時ナンバーワン国家はアメリカではありません。イギリスです。「アメリカがこれ以上大きくなったら、俺たちは追い越される」とイギリスは警戒しています。

 国際銀行家は、再び金融を引き締め、1857年恐慌を引き起こさせた。しかし、アメリカの国力は20年前と同じではなかった。意外にも1857年の恐慌はアメリカ経済に大したダメージを与えず、わずか1年で景気が回復した。アメリカの経済力は日増しに強くなり、金融をコントロールすることが難しくなってきたため、今度は、内戦を引き起こし、アメリカを分断することが国際銀行家たちの急務となった。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P72)

 ロスチャイルド家と親交のあったドイツの鉄血宰相ビスマルクは、こう断言した。「アメリカを経済力の弱い南北二つの連邦体に分裂させることは、内戦勃発前にヨーロッパの金融勢力によって決められたことである。これに疑問をはさむ余地はない
 実際、ロンドンとパリとフランクフルトの銀行家たちがアメリカ南北戦争を引き起こした黒幕であった。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P74)

 1857年、イギリスののちの首相ディズレーリは言った。「我々で合衆国を二つの部分に分け、一つをジェームズ、あなたに。そしてもう一つをライオネル、あなたに差し上げましょう」
 これが南北戦争の政治的な始まりであった。ロスチャイルドは、急速な成長を遂げますます繁栄する自由なアメリカ共和国に恐れを抱いていた。そこでもしこの国を二つの弱小国家に分割すれば、世界にまたがる彼らの利害にとって危険がより少なくなるだろうと内密に決定したのである。(世界権力構造の秘密 ユースタス・マリンズ 日本文芸社 P44)

 1857年、1870年、1907年と、国際銀行家たちは、アメリカ政府に私有中央銀行を設立させるため、3度にわたる不況を引き起こした。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P180)


 (1857年の恐慌の翌年の)1858年、イギリスでユダヤ人解放法が成立する。これによりユダヤ人が公職につけるようになる。ディズレーリがライオネル・ロスチャイルドを委員に加えることによって成立した。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P252)


 1856年、アロー戦争

 1857年、インド大反乱



新「授業でいえない世界史」 35話の2 19C後半 南北戦争、普仏戦争

2019-08-25 09:33:23 | 新世界史13 19C後半
【南北戦争】
 こういう中で1861年に、北部と南部を分断する戦争、南北戦争が起こる。この年はイタリアが統一された年でもあります。ペリーが来てからアメリカがしばらく日本史には出てこないのは、アメリカがこの戦争で分裂しそうになって、日本どころじゃなくなったからです。しかし、もともとペリーの背後にはイギリスがありましたから、アメリカが日本に来なくなった後は、直接イギリスが日本に接近してきます。

 イギリスは自由貿易をしたいから南部を支援します。イギリスは、今のような大きなアメリカになって欲しくなかった。アメリカは小さな国に分かれていたほうがいいと思っていた。
 この南部を支援する民主党の党首には、ヨーロッパのロスチャイルド家から派遣されたオーガスト・ベルモント1856年に就任しています。この人は・・・・・・前にも言ったように・・・・・・アメリカ第二銀行が廃止された翌年の1837年、21才の時にフランクフルトのロスチャイルド商会の代理人としてアメリカにやってきた人で、このオーガスト・ベルモントの奥さんであるキャロラインの父親が日本を開国させたペリー提督です。

※ (ロスチャイルド一族は)1861年奴隷解放問題を契機とした内戦、南北戦争が起こると、その裏で一気に暗躍を始めたのだ。まずは戦費を必要としている北軍南軍にそれぞれ軍資金を貸し出した。両陣営に融資することで戦果を拡大させたのだ。そして、内戦が終結するころには、疲弊し尽くしたアメリカの資産の多くは借金のカタとしてロスチャイルド一族に奪われてしまっていた。(マネーカースト B・フルフォード かや書房 2018.5月 P84)


 南北戦争の時の大統領は共和党のリンカンです。彼は北部支持です。北部の利益を代表しています。すると南部が腹を立て「それならオレたちは独立する」と南部に別の国を建てた。これをアメリカ連合国と言います。南部11州が連合したもので、南北戦争中の1861年から1865年まで存続します。だからこれはアメリカの内乱ではなく、正式な国と国との戦争です。
 この南部のアメリカ連合国を支援したのがイギリスです。イギリスの後ろには、ヨーロッパの大金融資本家であるロスチャイルドがついています。そして南部勢力の中心である民主党の党首が、1837年にロスチャイルド商会の代理人としてアメリカにやってきたオーガスト・ベルモントなのです。そのベルモントの後ろ盾で日本にやって来たのがペリーです。ということはペリーの後ろにはイギリスの金融勢力がいるのです。

 実際ペリーが日本を開国させたあと、日本に乗り込んでくるのはアメリカではなく、イギリスです。江戸幕府を倒していくのも、よく見ていくとその背後にはトーマス・グラバーなどのイギリスの力があります。
 日本が幕末の動乱で真っ二つに割れて戦うのとほぼ同時に、アメリカでも国が真っ二つに割れて、北部と南部が戦うのです。

 ちなみに、この時のイギリス首相はホイッグ党のパーマストンです。1855年から約10年間、イギリスの首相を務めています。ホイッグ党はのちに自由党と名前を変えます。彼は自由貿易を盾に1840年のアヘン戦争をしかけた時のイギリスの外相でもあります。これほど重要な時期の首相であるにもかかわらず、この人の名前はほとんど出てきません。このこともこの時期のイギリス史をよく分からないものにさせています。でもこの時期のイギリスの動きが分からないと世界は分かりません。


 (南北戦争当時の)米国有価証券の世界最大の取扱業者であったジョージ ・ピーボディーは、リンカン政府に圧力を加えるため、アメリカの有価証券を大量に売り、価格を下落させた。その共同経営者の J.P.モルガンは、金(キン)をイギリスに郵送し、アメリカの金(キン)を涸渇させようとした。(世界権力構造の秘密 ユースタス・マリンズ 日本文芸社 P56)
 モルガンはアレクサンダー・ハミルトンの直系の子孫である。(世界権力構造の秘密 ユースタス・マリンズ 日本文芸社 P57)




【奴隷解放宣言】 1861年に南北戦争が始まり、その2年後の1863年にリンカンが発表したのが、奴隷解放宣言です。これはさっき言ったように、人道的に「奴隷はかわいそうだから廃止しよう」としたのではありません。イギリスはすでに「奴隷制度はやめよう、人権の観点からこれはまずいぞ」ということで、1833年に奴隷制度を廃止していました。しかしアメリカ南部は奴隷に綿花栽培の労働を担わせているから、奴隷制度をやめるわけにはいかなかった。

 リンカンは、南部と戦うなかでヨーロッパを北部の味方につけようとして、ヨーロッパの風潮に合わせて奴隷解放を宣言したわけです。これによってヨーロッパの支持を得ようとした。「北部に味方して欲しい」、これが本当の狙いです。
 これが功を奏した。ヨーロッパを北部の味方につけ・・・・・・お金の力からいえばイギリスがついている南部が強かったのですが・・・・・・逆転して北部が勝った。この時アメリカの北部の工業はまだ弱ったにもかかわらず、北部が勝ったのです。イギリスにとっては誤算です。

※ 戦争が始まるとリンカーンは、1863年に奴隷解放宣言を出してイギリスの介入を阻止する戦略をとりました。奴隷制を非人道的とみなすと宣言していたイギリスは、奴隷の解放に反対する南部の側に加担できなくなります。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P229)



【グリーンバックス】 もう一つは、戦争にはお金がかかるからリンカンは、それまで銀行が勝手に発行していたお金を政府が発行することにした。これを・・・・・・緑のインクで刷っていたから・・・・・・グリーンバックスといいます。つまり政府紙幣を発行したのです。これで北部は、大砲とか鉄砲とか弾薬とかを買えるようになり北軍が勝った。
 別の面から見ると、こうやってリンカンは、アメリカ独自の通貨発行権を握ったのです。このころイギリスの金融資本家ロスチャイルドはアメリカに、通貨発行権を持つ中央銀行の設立を働きかけていましたが、リンカンのグリーンバックス発行はその動きを封じるものでした。

 南北戦争の際に国債を引き受けて大儲けをしたのが、イギリスの金融業者でした。戦争中にロスチャイルドは戦費の貸付利子を36%というべらぼうな率にまで吊り上げています。・・・・・・そこで1862年、リンカーンはロスチャイルドからの借金を中止し、「グリーンバック」と呼ばれる財務省紙幣(財務省発行の金に裏打ちされない不換紙幣)の発行に踏み切りました。その際に7000種類もあったドル紙幣が、政府発行の紙幣に統一されます。・・・・・・貨幣の発行券が銀行から国家へ移ることに対して、ヨーロッパの金融業者やニューヨークの銀行は猛烈に反対しました。・・・・・・通貨の発行益は銀行の最大の権益であり、国家に最大の儲け口を奪われてしまうことになるからです。リンカーン大統領は南北戦争を利用して、通貨の発行権を政府が回収する政策を一挙に実現したわけです。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P230)


 南北戦争でアメリカとイギリスが対立するなかで、アメリカを応援した国があります。それがロシアです。このときのロシア皇帝アレクサンドル2世は、南北戦争と同年の1861年農奴解放令を出しています。それだけではなく彼は、民間の金融勢力によるロシアの中央銀行設立に反対していた人物です。その点、民間中央銀行による紙幣ではなく、政府による紙幣を発行したリンカンと同じ立場です。しかしロシアのアレクサンドル2世は20年後の1881年に暗殺されます。
 お金の発行に触れた政治家は、なぜか非常な危険にさらされます。このあとリンカンも暗殺されます。

 北軍が勝利した理由の一つは、実はロシアのアレクサンドル2世リンカーンを支援したことです。しかし、この点についてはほとんど語られていません。ロシアが北軍を支援した理由は、一言で言うなら、世界を金融支配しようとするロスチャイルド家に対する戦いです。ロシアは南北戦争で実際の戦闘はしていませんが、ロシア艦隊をサンフランシスコとニューヨークに派遣しています。このデモンストレーションが南部に対する大きな圧力となりました。
 一方、南部を支援したのは、軍費の面ではロスチャイルド家であり、国家としてはイギリスフランスが組んで南部連合を支援しました。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 2015.12月 P57)

 リンカン大統領がイギリスとフランスによる南部支援への対応に苦慮しているとき、リンカンに援助の手を差し伸べたのはロシアのアレクサンドル2世でした。アレクサンドル2世はイギリスとフランスが南軍を支援するならば、それをロシアに対する宣戦布告とみなして、北軍側について参戦すると警告を発しました。・・・・・・アレクサンドル2世はリンカンと同じく、民間の中央銀行設立には応じず、1860年に国立の中央銀行を設立しました。・・・・・・南北戦争に際し、ロスチャイルド家が敵対していた北軍への支援の姿勢を明らかにしたアレクサンドル2世は、ロスチャイルド家などの国際金融資本家たちから恨まれることになったのです。・・・・・・アレクサンドル2世は、1881年首都サンクトペテルブルクで、社会主義革命をめざす人民主義者(ナロードニキ)に暗殺されました。彼らナロードニキがロスチャイルド家などの国際金融資本家の支援を受けていたことは想像に難くありません。(世界を操る支配者の正体 馬渕睦夫 講談社 P101)



 リンカンも南北戦争に勝ったその年の1865年、劇場で劇を見ていたところを、後ろから銃でバーンとやられて暗殺されます。犯人はジョン・ブースという役者で、彼は約10日後、農場の小屋に隠れていたところを発見されて殺され、秘密裏に埋葬されています。だからリンカンの暗殺理由は詳しく分かりません。ただこの政府紙幣の発行が関係している、という話しはあります。


 南北戦争直後にリンカーンは、合衆国政府は紙幣を発行する制度を永続させるという声明を出しますが、リンカーンが暗殺されたことで制度は旧に復しました。民間銀行が発行したドル紙幣を、合衆国政府が利子を払って借りるというやり方です。1875年、正貨兌換復活法が成立して、グリーンバックが回収されることになり、民間銀行に紙幣発行券が戻されました。南北戦争を舞台に、政府と金融業者との間では貨幣の発行をめぐる暗闘が展開されたのです。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P231)

※ ジョン・ブースの持っていた暗号文の解読キーが、ユダ・ベンジャミンというロスチャイルドの親戚で、南部連邦の財務長官を務めたことのあるユダヤ人から発見された。(マリンズ)


※ 1865年、南北戦争に勝利した直後リンカン大統領はピストルで射殺されます。犯人はジョン・ウィルキス・ブースだとされていますが、最近ではブースは南部連合の財務長官であったユダ・ベンジャミンに雇われたことが明らかになっています。このベンジャミンはイギリスのディズレリー首相の側近であり、ロンドンのロスチャイルド家とも親しかったのです。・・・・・・リンカン暗殺の背後にイギリスがいたことは間違いないと思われます。とすればリンカンが暗殺された理由が明らかになってきます。
 リンカンはイギリスのロスチャイルドたち銀行家の意向に反することを行ったのです。それは、南北戦争の戦費をまかなうためにロスチャイルドなど銀行家たちからの融資を断り、アメリカ財務省の法定通貨を発行したことが挙げられます。(国難の正体 馬渕睦夫 ビジネス社 P104)

※ 「米国(北軍)の諜報機関の捜査によれば、リンカーン暗殺陰謀の主犯はロスチャイルドの代理人テキサス州出身のトーマス・W・ハウスであったという。そして実にこのトーマス・W・ハウスの甥(おい)が20世紀前半、約半世紀にわたって、ロスチャイルドの代理人として(ウィルソン大統領下の)米国政治を動かしたエドワード・マンデル・ハウスなのである。(クシマン・カニンガム 秘密の帝国 第2巻より)」(ロスチャイルドの密謀 太田龍 成甲書房 P405)


 アメリカの南北戦争が終わった1865年に、ロスチャイルドは、同じ家に住んでいたジェイコブ・シフを渡米させて、クーン・ローブ商会を設立させています。そこを通じてアメリカへの資金提供を行います。
 
 のちのことですが、このあとの日露戦争でも、日本はお金が足りないから、アメリカから借ります。ではアメリカの誰が貸したのか。その資金源はヨーロッパのロスチャイルド財閥です。その橋渡しをしたのが、今いった1865年にアメリカに渡米したジェイコブ・シフです。こうやって日本はイギリス資本と結びついていく。これが表面的には、日本がアメリカからお金を借りたように見えるのです。

※ 1871年、コロンビアは特別区基本法が可決、政府所在地であるワシントン市を特別区に統合した特別都市「ワシントンDC」が誕生する。ワシントンDCにはアメリカ国内にありながらアメリカとは異なる法制度が敷かれている。・・・・・・ロスチャイルド一族は、イギリスでは金融独立区「シティ」、アメリカでは政治的独立区「ワシントンDC」を成立させたのだ。・・・・・・さらにワシントン DC に、アメリカの支配を一括にするために、政治家や国家中枢機関を統括する「株式会社USA」という民間企業を創設する。いわばワシントンDCのオーナー企業である株式会社USAは、もともとは自治領プエルトリコで法人登記されて、アメリカ大手信用調査会社のデータベースにも載っている、れっきとした法人企業である。そして株式会社である以上、この会社には株主がいる。そこに名を連ねているのが、ロスチャイルド一族やヨーロッパ貴族、ロックフェラー一族ブッシュ一族といったハザールマフィアなのである。・・・・・・つまり現在のアメリカ政府は、アメリカ国民のためにあるのではなく、ハザールマフィアのためにあると言っても過言ではない。例えばIRS(国内国歳入庁)はワシントンDCに本部を置く、日本の国税庁に該当する機関であるが、ここも完全に株式会社USAの一部である。私の得た情報によれば、IRSに納められた税金は、国家予算や州予算には計上されず、67%がイギリス王室を中心としたヨーロッパ貴族、23%がワシントンDCの株主に渡され、残る10%はIRSの経費になるという驚くべき報告もある。(マネーカースト B・フルフォード かや書房 2018.5月 P85)


  またこのあとも、ポイント、ポイントでアメリカの大統領はよく殺されます。
 第2次大戦後は1963年ケネディが暗殺されます。犯人とされたオズワルトは逮捕され2日後に、こともあろうにダラス警察署内でジャック・ルビーに殺された。ケネディ暗殺の本当の犯人はわかっていませんが、なぜかアメリカ政府は「2035年には公表する」と言っています。つまりすでに分かっているということです。
 アメリカの歴代大統領で暗殺されたのは全部で4人。
  1865年 リンカン   ・・・・・・グリーンバックという政府紙幣を発行
  1881年 ガーフィールド・・・・・・民間中央銀行の創設に反対していた
  1901年 マッキンリー ・・・・・・負傷した傷の回復後、急死
  1963年 ケネディ   ・・・・・・政府紙幣発行を計画

 さらに暗殺未遂事件はあと二つあります。アメリカ大統領の不審死を加えるともっとあります。
 それ以前、1835年には7代大統領ジャクソンの暗殺未遂事件が起こっています。殺人犯の拳銃から弾が出なかったので命拾いします。
 その6年後の1841年、9代大統領ハリソン(ホイッグ党)は、カゼ?をひいて死んでしまいます。
 その9年後の1850年には、今度は12代大統領テーラー(ホイッグ党)がお腹をこわして?死んでしまいます。本当の死因はヒ素中毒、つまり毒を盛られた、という話があります。
 彼らの共通点はアメリカの中央銀行設立に反対していたことです。このテーラーの次の大統領がペリー来航時の大統領フィルモアです。
 最近では1981年のレーガン大統領の暗殺未遂事件があります。彼も中央銀行に疑問を持っていました。
 アメリカで起こった恐慌との関係をまとめると次のようになります。

    1835年、7代大統領ジャクソンの暗殺未遂事件 → 1836年、アメリカ第二銀行廃止
 1837年の恐慌・・・・・・初の恐慌。
    1841年、9代大統領ハリソン(民主党)の死。
    1850年、12代大統領テーラー(民主党)の死。
   (1856年 オーガスト・ベルモントが民主党党首になる)
 1857年の恐慌 → 1861年、南北戦争
    1865年 リンカン大統領暗殺。
 1873年の恐慌 → 約20年の世界不況 → 帝国主義
    1881年 ガーフィールド大統領暗殺。
    1901年 マッキンリー大統領暗殺。
 1907年の恐慌 → 1913年、アメリカ中央銀行(FRB)創設。



【フランス】
【フランス第二帝政】 ではフランスです。結論をいうと、この国はドイツに抜かれる。フランス革命のあとのフランスはけっこう混乱しています。
 1852年から第二帝政になる。皇帝になったのは・・・・・・ナポレオン1世の子供は若くして死亡しています・・・・・・ナポレオン1世の甥っ子であるルイ・ナポレオンが国民選挙でまず大統領になる。
 しかし「大統領よりももっと上に登りたい。皇帝になりたい」と思う。それで国民投票で皇帝になって、1852年にはナポレオン3世と名乗る。イギリスに負けまいと、戦争好きです。しょっちゅう戦争する。

 まず東南アジアのベトナムです。ベトナムでは地形的に、インドと中国に挟まれている。中国はシナです。そのインドとシナの中間にあるからインドシナという。
 1858年
、フランスはそこに出兵する。今のベトナムあたり。ついでカンボジアも支配する。こうやってまず植民地の第一歩をつくる。

 しかしこれを急速に追い上げてくるドイツがあります。ナポレオン3世はこのドイツの統一を妨げたい。ドイツのビスマルクは、アメリカの南北戦争が終わった5年後の1870年、南ドイツ地方を扇動するナポレオン3世を挑発して戦争を仕掛ける。これを普仏戦争といいます。ドイツはこの当時プロシアまたはプロイセンで「普」、フランスは「仏」です。まだドイツという国はありません。今からできてきます。この戦争にフランスは負けた。ナポレオン3世は捕らわれる。「助けてください」、「それなら辞めろ」、「ハイ辞めます」。これでフランスの第二帝政は崩壊します。

※ 「ビスマルクを支えた銀行家ブライヒレーダーは、ロスチャイルドの代理人であり、ベルリン最大の富豪と言われた。彼はビスマルクにとってオーストリア、フランスに対する独裁者(ビスマルク)の戦争の資金源として、計り知れないほど貴重な存在であった。(スプリングマイヤー増補第3版 P358)」
 プロシアの対オーストリア対フランス戦争における勝利とは、ロスチャイルド家によって演出されていた。(ロスチャイルドの密謀 太田龍 成甲書房  P341) 


 このあとフランスはまた混乱します。市民が「負けた政府のいうことなんか聞けるか」と怒る。戦争に負けると不満が爆発する。戦争に負けて皇居前で泣いた日本人との国家観の違いです。
 1871年、敗戦と連続して事件が起こります。パリで起こった暴動だから、パリ・コミューンといいます。王がいない国、そればかりではなくて市民が国家管理をしていこうという一種の社会主義政権です。でも一瞬だけです。すぐドイツの支援を受けたフランスの臨時政府軍によって潰されます。

※ (パリ・コミューンの)パリ包囲の間、なんとビスマルクとモルトケ将軍は、ロスチャイルド家のフェリエールの館を接収して最高司令部を置いた。フェリエールの館の主はそのころジェームズから息子のアルフォンス・ド・ロスチャイルドに移っていて、ビスマルクとの賠償交渉などにあたった。パリは徹底抗戦を叫ぶパリ・コミューンのプロレタリア政権の支配下にあったが、アルフォンスはこれを非現実的だとして、ティエール首相の国防政府を支持した。(ロスチャイルド家 横山三四郎 講談社現代新書 P98)




【フランス第三共和政】 その後、社会主義政権にはなりませんでしたが、王様のいない政治が続きます。パリ・コミューンの時期を除いて1870年からです。王がいない政治を共和制といいます。これが3回目ですから第三共和政という。フランス革命からまだ100年も経ってないのに、帝政になったり、共和制になったり、帝政になったり、また共和制になったり、こんなコロコロ変わる。まだフランスは混乱のさなかにあります。

※ ロスチャイルド家をはじめとするユダヤ銀行家たちはフランスの第三共和制を支持した主要勢力であり、他方、清教徒やカトリック系銀行家は第三共和政に反対していた。ロスチャイルド家をはじめとするユダヤ銀行家たちは、フランスの最大かつ最重要な投資銀行であるパリバ銀行を抑えたため、その後、巨額の富を手に入れた。・・・・・・1931年時点で、ロスチャイルド家がコントロールしていたパリバ銀行は357の上場企業の株式を保有し、一族のメンバーや一族の銀行の幹部で180の企業の取締役会を抑えていた。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P156)


 しかしこの間、イギリスに負けまいと、フランスも植民地に乗り出していく。さっき言ったナポレオン3世時代には、すでにインドシナを保護国化し半植民地化しています。
 第三共和政になったあと、1873年にはアメリカからまた世界恐慌が起こります。過剰生産になり、モノが売れないから力ずくでモノを売る場所、つまり市場を求める。これが植民地です。早い者勝ちで植民地合戦をしていく。

 フランスは東南アジアを狙う。ベトナムまで広げる。これが1883年。実はベトナムは、ずっと中国の子分だった。「オレの子分に何をするか」と中国が乗り出していく。この時の中国は清朝です。しかし清はフランスと戦って負ける。ベトナムはフランスのものになる。清はアヘン戦争ではイギリスに負ける。ベトナムではフランスに負ける。
 今度2回目、1884年、「今度は勝つぞ」と、清はまた大規模な戦争を起こす。清仏戦争です。ちなみにこのとき日本は明治維新になって20年ぐらい経っているときです。しかし清はフランスに勝てない、ベトナムを手放さざるを得ない。ベトナムは完璧にフランスのものになる。ベトナムはフランス植民地になります。ここにはフランス資本がかなり入っている。ベトナム、カンボジアはフランスの植民地です。
 それを日本では仏印という言い方をする。フランス領インドシナのことです。1887年の成立です。さらにフランスはカンボジアの北方まで手を広げる。その隣にはラオスという国がある。そこまでフランスのものになる。今でいうと、ベトナム、カンボジア、ラオスが、フランスのものになる。

※ (ロスチャイルド家パリ分家の)アルフォンスが目指したのは、当時の最先端産業である石油である。・・・・・・まだ中東の油田が見つかっていなかったころで、ヨーロッパではカスピ海のバクー周辺の油田が最大のものだった。アルフォンスは1883年、コーカサス地方のバクーでも最大級のバニト油田を入手した。バクー油田にはそのころスウェーデン人の科学者であるとともに企業家であるアルフレッド・ノーベルも進出していた。石油から抽出したニトログリセリンを材料とするダイナマイトや無煙火薬を発明して、後に莫大な遺産でノーベル賞を設けるその人である。ノーベルは、そのころは資金繰りに困っていて、ロスチャイルド家の融資を仰ぎ、ロスチャイルド・ノーベル企業連合が誕生した。今日、世界で最も権威あるとされるノーベル賞はその資金の源を探るならばロスチャイルド・ノーベル賞なのである。・・・・・・ロイヤル・ダッチ・シェル石油は、販売する石油の確保のために1914年、ロスチャイルド家のバクーの油田を買い取った。こうしたヨーロッパ石油業界の再編を演出したのが実はロスチャイルド家だった。ロックフェラーの進出を阻止し、迎撃するために自らの油田さえ売ったのである。(ロスチャイルド家 横山三四郎 講談社現代新書 P109)


 弱いところに進出していくのはイギリスもフランスも同じです。 ただフランスでは政治が安定してなくて、1つの事件が起こる。
 この時代、ユダヤ人金融の支配力が強まっていて、フランス国内でユダヤ人が非常に嫌われだす。その中でもあるエリート軍人として出世していった軍人がフランスにいた。ドレフュスという人です。しかし、「おまえユダヤ人だろう」・・・・・・ドイツとフランスは仲が悪くて・・・・・・「おまえ探偵じゃないか、ドイツのスパイじゃないか」、「とんでもないですよ」と否定しますが、証拠不十分のまま降格されていく。実はスパイでも何でもなかった。そういう冤罪事件が起こっていきます。1894年です。
 これで終わります。ではまた。


新「授業でいえない世界史」 36話 19C後半 ドイツ統一、ロシアの南下、社会主義思想

2019-08-25 09:32:32 | 新世界史13 19C後半
【ドイツ】
【ドイツ統一】 ドイツ人は工業生産力はどんどん上げている。国よりも先に経済が発展する。国を作ろうという動きは、1848年に三月革命が起こりましたが、うまくいかなかった。失敗したとはいえ、国家統一の動きはフランクフルトから始まる。ソーセージが名産だったから、フランクフルトソーセージとして世界に知れ渡っています。フランクフルトはドイツの大都市です。
 1848年、フランクフルト国民議会ができて、統一ドイツを作ろうという運動をし始めます。しかし失敗して挫折した。

 その後は、1857年世界恐慌がアメリカから起こって株が暴落していくような時代になります。
 国を代表する議会は無くて、それぞれの小さな王国が次の中心になっていく。
 その中心になる国がオーストリアではなくて、プロイセンです。北にある主要な国家で・・・・・・明治維新で言えば長州藩みたいなものです・・・・・・プロイセンまたはプロシアともいう。
 その首相がビスマルクです。アメリカの南北戦争が始まった翌年の1862年から首相を務めます。伊藤博文のお師匠さんみたいな人で、伊藤博文が理想とした人です。「首相はこうあるべきだ」と。アメも与えるし、同時に軍隊の重要性も知っている。「アメとムチ」です。「決めるのは最終的には軍事力だ」と。別に戦争を賛美しているわけではないですが、実際、戦争で決まっていく。

※ ワーテルローの戦いでのナポレオンの敗北は、スルト元帥の裏切りによる。スルトはビスマルクの母の愛人であった。スルトはその後、フランスの要職に就く。スルトはビスマルクの実の父親だと噂されている。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P102)

※ 1833年、ビスマルクは困難に直面して財産を失い、激怒していた。ディズレーリを通じて、若き18歳のビスマルクと親交を結んだジェームズ・ロスチャイルドは彼をヨーロッパの未来の「保守系」指導者にしようと考えた。そしてビスマルクは、妹ルヴィーの結婚によって、完全にライオネル・ロスチャイルドの指揮下に入った。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P103)



 アメリカの南北戦争が終わった翌年の1866年に、領地争いから同じドイツ人のプロシアとオーストリアが戦います。これが普墺戦争です。「普」はプロシア、「墺」はオーストリアです。そしてそれにプロシアが勝つ。これでドイツ統一の主導権をプロシアが握る。

※ (普墺戦争で)フランクフルトのロスチャイルド家はすでにビスマルクとの関係を深めてその融資要請に応じていた。・・・・・・オーストリアに対しては、起債の要請には遠慮する姿勢をみせ、プロシアとの戦争に備える公債発行を頼まれると「戦争のためならロスチャイルド家は融資しない」ときっぱり拒絶して怒りさえ買った。(ロスチャイルド家 横山三四郎 講談社現代新書 P97)


 負けたオーストリアは統一から排除される。どっちもドイツ語をしゃべるドイツ人ですが、今もオーストリアはドイツから除外されて別の国になっている。プロシアはそのオーストリアを除外して、1867年に北ドイツ連邦という小国の連合国家をつくり、ドイツ統一の準備を進めていきます。

 ビスマルクはその3年後の1870年に、隣の仲が悪い国フランスをけしかけて、これと戦う。これがさっきフランスでも言った普仏戦争です。アメリカの南北戦争が終わって5年後です。プロシアとフランスの戦いです。負けたのはのはフランスのナポレオン3世です。捕虜に捕らえられ「おまえ皇帝を辞めろ」と辞めさせられる。これでフランスの帝政は終わり、第三共和政に入っていきます。
 1860年代の約10年間で、イタリア、アメリカ、日本、フランス、ドイツの国のかたちが一斉にできあがりました。

 イタリアではローマ教会がイタリア統一から取り残され、南北戦争を戦ったリンカンは暗殺され、日本では幕府が滅び、フランスではナポレオン3世が皇帝の地位を引きずり下ろされました。そして神聖ローマ帝国の王家だったハプスブルク家のオーストリアはドイツ統一から廃除されました。
 イギリスだけが国内で戦争が起こりません。その間イギリスは、シパーヒーの反乱後のインドや、アロー戦争後の中国などに、着々と国外で手を広げています。

※ 「ビスマルクを支えた銀行家ブライヒレーダーは、ロスチャイルドの代理人であり、ベルリン最大の富豪と言われた。彼はビスマルクにとってオーストリア、フランスに対する独裁者(ビスマルク)の戦争の資金源として、計り知れないほど貴重な存在であった。(スプリングマイヤー増補第3版 P358)」
 プロシアの対オーストリア、対フランス戦争における勝利とは、ロスチャイルド家によって演出されていた。(ロスチャイルドの密謀 太田龍 成甲書房  P341) 


 オーストリアに勝ち、フランスにも勝って、プロイセンが中心となってドイツをまとめていく。これが1871年ドイツ帝国の成立です。
  ビスマルクが王様になったのではないです。彼はあくまで家臣です。ビスマルクは、王の第一の家来の首相です。皇帝はヴィルヘルム1世です。この人は物わかりのいい人ですが、1888年に彼を受け継いだ孫のヴィルヘルム2世になると反発しだす。そして1890年にビスマルクは首相を辞める。そこまであと約20年です。第一次世界大戦まであと約30年です。

 余計なことをいうと、このドイツ帝国の国家成立の式典をどこでやったか。負けたフランスに乗り込んでいって、フランス王の別荘であったベルサイユ宮殿で、ドイツ帝国成立の式典を盛大にやるんです。フランス人にとっては「このやろー、ふざけるな」という感じです。「ドイツ人なんか大嫌いだ、絶対仲間にならないぞ」と。これが第一次世界大戦にも結びついていく。
 敵陣のフランスに乗り込んでいって、「ドイツ帝国ができたぞ」と式典をやる。すごいことです。その式典の場所が、戦争に負けた国フランスのベルサイユ宮殿です。

 もう一つの普墺戦争に負けたオーストリアは、それ以後は反対に東方のハンガリーに勢力を伸ばします。このオーストリア王家はかつて神聖ローマ帝国の王家だったですね。ハプスブルク家です。このハプスブルク家はこうやってどんどんヨーロッパの片隅に追いやられていきます。首都のウィーンは美しい町ですが、ちょっと悲しい響きがあります。今は過去の栄光と芸術の都です。そこにはヨーロッパの大きな政治的変化のなかで力を失っていく過程があります。しかし第一次世界大戦はこの国から起こります。
 中世以来、約800年間ヨーロッパの中心であったのはドイツですが、それは神聖ローマ帝国といっていた。しかしこの神聖ローマ帝国はドイツ帝国から除外された。それがオーストリアです。今は小さな国になっていますが、この時はまだかなり大きい国です。この国は西方に行くのではなく、プロイセンからストップかけられて、逆の東方に領土をのばして東のハンガリーを併合します。オーストリアは1867年にハンガリーを併合して、オーストリア=ハンガリー二重帝国を形成した。

 ドイツ人は、ドイツとオーストリアの二つに分裂したんです。中心はプロシアが作ったドイツ帝国になる。これが今のドイツの原型です。その中心人物は皇帝ではなく首相のビスマルクです。このビスマルクが1870年代から約20年間、首相を務めヨーロッパ世界に乗り出していく。このときの皇帝はヴィルヘルム1世です。この人は穏健なんですが、ただ次の孫になるとちょっと違う。次の皇帝は孫のヴィルヘルム2世です。
 ドイツ帝国は、アメリカの南北戦争後、日本の明治維新よりも3年あとの1871年に誕生します。日本の明治維新が1868年です。日本の近代化は遅れていると言われますが、そんなに遅くはありません。短時間で近代国家に変化した日本の明治維新は、ヨーロッパと一連の動きであって、そこには強力なヨーロッパの力が働いています。
 


【ビスマルクの政策】 ちょうどこの頃は第二次産業革命の時期で、それまで約100年間、産業界をリードしてきた国が出遅れていく。それがイギリスです。
 イギリスの工業生産力が低下していく。逆に急速にドイツが工業生産力を伸ばしていく。そうするとイギリスとドイツはライバル関係になって、利害が対立していく。

※ 重工業という最も利益率の高いセクターをドイツが掌握するという構造が出来上がっていきました。植民地獲得に成功したイギリスやフランスは、その成功ゆえに従来型の軽工業のビジネスモデルに依存し、そこから脱却することができず、ドイツに経済覇権を奪われてしまいます。・・・・・・イギリスやフランスは、ドイツ産業資本の進出を放置することができず、ロシアとも協調しながら、ドイツを軍事的に包囲していき、1914年、第1次世界大戦となります。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P228)


 アメリカの南北戦争後、イギリスの力が再度アメリカに及んでいくなかで、1873年
には世界恐慌がおこります。これは工業生産力を急速に伸ばしてイギリスを追い越そうとしているアメリカのニューヨークから起こります。この「恐慌がアメリカで発生する」というパターンは、前回の2008年のリーマン・ショックに至るまで変わりません。

※ ドイツの反ユダヤ主義は、ビスマルクの第2帝国下の1873年におこった株式市場の大暴落と、それにつづく経済危機や住宅難、社会的な困窮が原因となってとくに激しくなった。(ユダヤ人 上田和夫 講談社現代新書 P173)


 確かにこのちょっと前までは、作れば売れるという時代がありました。しかし作り過ぎていくんです。それに一部の金持ちだけが豊かになって・・・・・・資本主義というのは貧富の差が発生して貧しい人を豊かにしない・・・・・・だから取り残された貧しい人たちは物を買えない。
 ということは、売れ残る。すると今までウハウハ儲けていた人たちも儲からなくなる。だから利益を生む場所、これを海外に求める。これが植民地です。弱いところが次々にヨーロッパの植民地になっていく時代になります。

 このような世界のなかで、ドイツはどうなのか。
 その前に地図から行きましょう。下の地図です。1871年に成立したドイツ帝国の領域です。どうですか。今のドイツと比べると、えらく広いです。これがこの時のドイツ帝国です。
 
▼ ドイツの統一
 
 今のドイツはベルリンの少し東の川のオーデル・ナイセ線が現在の国境です。なぜ今のドイツはこんなに小さくなるか。第一次世界大戦でドイツは負ける。第二次世界大戦でもドイツは負ける。だから領土を削られて小さくなっていく。
 だからドイツ人としては・・・・・・これが原型だとすれば・・・・・・ドイツのもともとの領域は、今のポーランドを含むのです。だからドイツ人には「ドイツの東はオレたちドイツの土地だ」という意識がある。だから第二次世界大戦でドイツはポーランドに侵攻する。・・・・・・第一次世界大戦はちょっと飛ばして・・・・・・これをイギリスとアメリカから見ると「ドイツが侵略した、ドイツを潰そう」となる。これが第二次世界大戦のきっかけです。
 しかしイギリスがやっていることは、弱い国を侵略して、そこから利益を奪うということをしているんですけど。
 そのドイツはこのとき工業生産力が高まっている。イギリスを追い越そうとしている。

 実はドイツは、社会主義の発祥の地です。マルクスが社会主義を考えた国です。
 社会主義運動が盛んになることは、ビスマルクにとってはありがたくないことです。だから1878年に法律を出して鎮圧する。「資本主義がいいんだ」と。これを社会主義鎮圧法といいます。「社会主義なんてバカなこというな、デモを起こすな、革命を起こすな」という。革命によって社会主義政権が誕生するのは、このあとのロシア革命です。
 これが「アメとムチ」のムチです。きびしい政策です。しかし同時にアメ玉を与えて、労働者の給料や労働時間を一方では保護していく。こういう巧妙なバランスのいい政治を内政面でやっていく。外交面はこのあとの国を見ていく中で言っていきます。
 そういうのが30年間続いたのですが、30年経てば40才だって70才になる。このビスマルクは、1890年に辞任します。

 そして祖父ヴィルヘルム1世のあとを継いだ孫のヴィルヘルム2世が、祖父と父が相次いで死去したため・・・・・・これもちょっと変ですが・・・・・・急きょ1888年に新しい皇帝になる。この新しい皇帝はイギリスと積極的に対抗していこうとする。ビスマルクが、「あのう皇帝さん、イギリスの向こうを張ったらダメですぞ」というと、新しい皇帝は「何でだ」と反発する。皇帝を操れなくなったビスマルクは「もうオレは首相を辞める」と言う。ビスマルクは辞任していく。それでドイツはイギリスとますます対立していくようになります。結果はビスマルクの予感が的中してドイツ帝国は崩壊する。ビスマルクは何かを知っていたんですね。

 というより、ビスマルクはもともとイギリスの金融資本家と結びついていました。だからビスマルクの時代はうまくいったのです。しかしヴィルヘルム2世というドイツの新しい皇帝は、自分で直接、政治を行おうとします。ビスマルクのようにイギリスの言いなりにはなりません。イギリスはこういう皇帝政治が嫌いなのです。イギリスには王様がいますけど、その王様が黙っているときはいいんです。しかし王様が政治の実権を握ろうとすると王を殺していったという歴史があります。それはどうも変わっていないようです。
 先のことをいうと、このあと世界中で王様が滅んでいきます。ドイツもそうです。ロシアもそうです。ヨーロッパ以外の大国では、オスマン帝国もそうです。中国もそうです。すべてイギリスと対立した国です。広い意味では日本もそうです。日本の天皇も、戦後は、政治的な発言をすることが許されない象徴天皇になりました。
 1871年ではドイツ帝国はこんなに大きかったんですけど、このあと王政は崩壊し、小さくなっていきます。



【オランダ】 ちょっと落としがたいのはオランダです。オランダは東南アジアで最大の人口を持つ地域を征服して植民地にしています。インドネシアです。いま人口2億、日本の倍です。ここはオランダ領です。このオランダのインドネシア支配には500年の歴史があります。



【ロシア】
 
【ロシアの南下政策】 
今1800年代後半です。フランス革命が起こったあとの世界を、イタリアをみて、アメリカに行き、そしてフランスに行き、ドイツに行きました。
 このあともロシアに行ったり、アメリカに行ったり、中国に行ったり、日本に行ったり・・・・・・日本もこれ以降は世界史に絡んできます・・・・・・そういったところを言っていきます。ドイツが終わって、またあっちこっち行きます。世界史の宿命です。

 こんどはロシアです。日本もこのロシアとは日露戦争を戦いました。ロシアは・・・・・・イギリスは海軍で強くなった国です・・・・・・これがうらやましくて仕方がない。
 ロシアは、世界地図を見たらわかりますが、非常に海軍に不向きなんです。北には北極海があるのに、なぜ不向きか。この海は冬場は氷に閉ざされてしまうんです。するといくら強い軍艦を持っていても、氷には勝てない。冬場の間、足止めされてしまう。1年の半分の夏場しか動けない。1年の半分しか動けない軍隊は屁のツッパリにもならない。いつでも動ける軍隊でないと役に立たない。動けないときは、そこをちゃんと狙われるから。だから南下したいんです。北の海はダメだから、南の海を求める。

 このあとのことを簡単にいうと、北はまず氷でダメです。南への南下はイギリスが妨害する。だから今度は東に行くんです。ここを極東という。東には何があるか。日本があります。その日本と戦ったのが日露戦争です。しかし日本に負ける。だから八方ふさがりです。そこにロシア革命が起こって、皇帝は殺され、ロシア帝国は崩壊し、ソ連になる。
 先のことを言うとザッとこんな感じですけど、その間にいろいろ戦争が起こる。その過程をこれから見ていきます。

 まず黒海に出たい。湖みたいですけど海です。黒海に出たら、こんな狭い海峡・・・・・・ボスポラス海峡といいますが・・・・・・を通らないと地中海に出られない。
 でもここを通る戦艦は、海峡が狭くて狙い撃ちされる。両岸が敵であれば、陸地から集中砲火される。本当は地中海まで出たいんですよ。でも出られない。だからその両岸を支配するオスマン帝国を支配したい。
 そうすると困るのがイギリスです。「ロシアみたいなあんな大きい国が地中海に出てもらってはオレの立つ瀬がない」というのがイギリスなんです。

 ただロシアとしては、1年中凍らない港を求めたい。これを不凍港という。凍らない港のことです。それは南にあるから、ロシアは南下政策をとっていく。南下政策をとると、その南にある国は、さっき言ったオスマン帝国です。オスマン帝国は・・・・・・下の地図は実はロシアに負けたあとの地図ですけど・・・・・・ここまで全部オスマン帝国なんです。これと戦わないといけなくなる。この半島をバルカン半島といいますが、そのバルカン半島には・・・・・・ロシア人のことをスラブ人といいますが・・・・・・同じスラブ人がいっぱい住んでいる。このことが「バルカン半島に南下してオレのものにする」という理由になる。
 本当は軍港をつくりたいんです。南下政策を取り、バルカン半島に乗り出す。でもバルカン半島はこの時、オスマン帝国の領土です。だからこれと戦うことになる。
 ロシアとしては、オスマン帝国の中にいる少数民族のスラブ民族・・・・・・これがロシア人と同じ民族です・・・・・・これを保護するという名目ですね。

 そのロシアとオスマン帝国のトルコとの戦いが1853年から始まる。実はこれには前哨戦があって、100年近く前、1768年からちょこちょこと、ロシアとトルコの戦いが4回もあってる。これを露土戦争といいます。ロシアの「露」、トルコの「土」です。これが決着がつかずに本格的になる。4回目の露土戦争のあとは、第5回とはいわない。

 攻防戦になった地域の名前をつけてクリミア戦争という。1853年からです。内容はロシアとトルコの戦争です。クリミア半島のクリミアはどこか。黒海の北側に突き出たクリミア半島です。ここには今でもロシア最大の黒海艦隊の基地、セバストポリという軍港があります。

 つい今から数年前の2014年、ここをロシアが軍事占領した。ソ連崩壊後はウクライナの一部になっていた。アメリカは当然反ロシアです。そのウクライナがアメリカ寄りになった。今でも係争の地です。
 このへんの事情は新聞でも、どっちも自分の都合のいいようにしか言わない。本当に歴史的にどうなのか、よくよく考えてみないと双方に言い分があります。

 ロシアとトルコが戦う。ロシアが強い。西洋の軍隊は、近代兵器を持っているから強い。トルコはその点、遅れてるんです。
 しかし「ロシアに勝ってもらっちゃいけない」のがイギリスです。イギリスは、フランスも誘ってトルコを応援する。その結果、ロシアはトルコに負けた。というよりもトルコを応援したイギリスに負けたんです。

 クリミア戦争で、ロスチャイルド家はトルコ側に立って戦争公債の起債に協力した。・・・・・・かねてからロシアのユダヤ人弾圧政策に反発していたロンドン、パリの分家はそれぞれ総力を挙げてイギリス、フランス両軍の遠征費の調達を行い、トルコにも借款を行った。・・・・・・戦争はトルコ英仏連合の勝利に終わり、ロスチャイルド家は久しぶりに大きな利益を上げた。(ロスチャイルド家 横山三四郎 講談社現代新書 P95)

 3年続いたクリミア戦争のお陰で、ロスチャイルド家の公債引受業務はさらに拡大した。・・・・・・フランス政府が1854年と1855年にクリミア戦争債券を発行した時、ロスチャイルド銀行はそれを引き受ける主幹事の引受銀行となった。・・・・・・トルコの戦争債権も、ロスチャイルド家がコンスタンチノープルに代理人を送り込んでいたために、ロスチャイルド家のものとなった。・・・・・・プロイセンの戦争債権も、ビスマルクの一存ですべてロスチャイルド・フランクフルト銀行が引き受けていた。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P151)


 ビスマルクのほかにロスチャイルド家に援助された政治家に、ディズレーリ。ロスチャイルド家の婿で首相になったローズベリー。そしてチャーチルがいる。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P42) 



【ロシアの改革】 こうやってロシアの南下政策はうまくいかない。近代化もロシアは遅れてます。それをどうにか近代化しようとします。しかしロシアの農民は半分は奴隷状態です。彼らは土地に縛られた農民で農奴といいます。
 「農奴を解放しよう」、皇帝がみずからこう言う。これが1861年農奴解放令です。ロシア皇帝はアレクサンドル2世です。しかしこれは農奴自身が要求したことではなくて、上から頭越しに「自由にしていいぞ」といわれたのです。でもそう言われても農奴は「何を自由にしていいか」分からない。それでうまくいかない。
 同じ年の1861年、海の向こうのアメリカでは南北戦争が始まります。

 リンカン大統領がイギリスとフランスによる南部支援への対応に苦慮しているとき、リンカンに援助の手を差し伸べたのはロシアのアレクサンドル2世でした。アレクサンドル2世はイギリスとフランスが南軍を支援するならば、それをロシアに対する宣戦布告とみなして、北軍側について参戦すると警告を発しました。・・・・・・アレクサンドル2世はリンカンと同じく、民間の中央銀行設立には応じず、1860年に国立の中央銀行を設立しました。・・・・・・南北戦争に際し、ロスチャイルド家が敵対していた北軍への支援の姿勢を明らかにしたアレクサンドル2世は、ロスチャイルド家などの国際金融資本家たちから恨まれることになったのです。・・・・・・アレクサンドル2世は、1881年首都サンクトペテルブルクで、社会主義革命をめざす人民主義者(ナロードニキ)に暗殺されました。彼らナロードニキがロスチャイルド家などの国際金融資本家の支援を受けていたことは想像に難くありません。
 この頃、ロシアにおけるユダヤ人迫害が顕著になっていました。・・・・・・最大のロシア人人口を抱えるロシアにおいては、ポグロムと呼ばれるユダヤ人虐殺事件が頻発するようになっていました。ユダヤ人たちの対応は社会主義革命によって皇帝政府を転覆する以外にないとの方向に向かっていったのです。このように、ロシアの社会主義革命運動の中心にあったのはユダヤ人でした。ユダヤ人に対する迫害を阻止するためにはロマノフ王朝そのものを打倒しなければならないとする急進的革命思想であり、ユダヤ人たちが自民族の解放のために大挙して社会主義革命運動に邁進するようになったのです。・・・・・・
 社会主義は国際主義のイデオロギーです。この国際主義がユダヤ人の心情にマッチしたのです。なぜなら、祖国を持たず各国に離散しているユダヤ人にとって国際主義、すなわち民族主義を否定するイデオロギーは自らの境遇に適していたからです。(世界を操る支配者の正体 馬渕睦夫 講談社 P101)

 1881年にロシアの首都サンクト・ペテルブルグでアレクサンドル二世がナロードニキ(人民主義者)に暗殺されますが、その事件にユダヤ人の女性がからんでいたことから、ポグロムと言われるユダヤ人への大弾圧が続き、ヨーロッパ諸国でロシア革命が「ユダヤ革命」と呼ばれることがあるように多くのユダヤ人がロシアの革命運動に参加したために、ユダヤ人への激しい弾圧が続きました。・・・・・・ロシア、東欧のユダヤ人が難民として大挙してアメリカに移住する動きが、19世紀末から20世紀の初頭にかけて起こりました。・・・・・・19世紀末には約500万人を数えたロシアのユダヤ人(アシュケナージム)ですが、現在はロシアとウクライナ合わせて30万人、ポーランドでは数千人に過ぎません。ですからウクライナ、ロシアのユダヤ人の多くが、ごっそりアメリカ、イスラエルに移住してしまったことになります。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P242)

 
 アメリカの南北戦争後、1870年代にはロシア貴族の中にも「どうにかロシアを近代化しないといけない」という動きが出てくる。これはロシア語でナロードニキ運動といいます。日本語に訳すと「人民の中へ」という意味です。でもロシアは身分社会です。貴族と農民に今まで接点はなく、農民は貴族を信用してない。貴族たちは「俺たちは信用されてないから、自分たちがまず農民や人民の中に入って、理解してもらわないといけない」と考えた。
 こういう、どちらかというと頭でっかちの秀才型の改革を目指しますが、農民は「貴族なんか信用できるか」と思う。階級社会が強くて300年ずっと痛められ続けてきて、急に甘い顔されても信用できない。それで一部はこの運動に失望して、暴力革命やテロに走ったりする。

 こういう不安定な状態がロシアです。こういう貴族たちの失望を描いた文学とかも出てくる。ロシア人の絶望感はすさまじいです。ほんとに地の底をのぞくような絶望感を文学として描いたりもする。近代化にはある種の絶望があります。人間が本能的に持つ愛情さえ壊していくようなところがあります。

 1879年、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」発表。「神がいなければ、すべてが許される」



【ベルリン会議】 今度はベルリン会議のことです。
 やっぱりロシアは南に行きたい。オスマン帝国を押しのけてでも南下したい。地中海まで行きたい。
 クリミア戦争から約20年後の1877年にまた戦争が起こります。これが同名の露土戦争です。この戦争が一番のメインですね。バルカン半島にはロシア人と同じスラブ人が住んでる。「彼らを支援するぞ」と言って、ロシアはオスマン帝国の領土を取る。今度はイギリスが応援しなかったから勝つんです。ロシアが勝って、スラブ系の民族の国を立てた。

 1つがセルビアです。長いことなかったのですが、できたり、消滅したりする国です。
 それからルーマニアが独立する。
 ブルガリアも半独立です。ブルガリアはロシアの支援によって、オスマン帝国から自治権を獲得しました。これが1878年のサン=ステファノ条約です。
 それが下の地図です。もともとオスマン帝国の領土であったところから、まずセルビアが独立です。それからルーマニア、ブルガリアです。いろいろ複雑で領土も動きますが、一応この3つが独立した。イスラーム教徒のオスマン帝国からヨーロッパ系民族が独立した。しかし「それはいいけど、ロシアに南下されたら困る」というのがイギリスです。

 そこでイギリスが中心になってどうにかロシアの南下を阻止しようとする。これにドイツが加わる。イギリスとドイツは仲が悪くて、このあと第一次世界大戦で戦いますが、この時はビスマルクが首相です。ビスマルクは「イギリスにはゴマすっておかないといけない」という政治判断をする。それで「うちで話し合いましょう」とドイツで会議を開く。ドイツの首都で開かれるから、これをベルリン会議と言います。1878年です。
 「イギリスさん、不肖私ビスマルクが一肌脱ぎますよ。これからもよろしくです」。ビスマルクがうまく調停して、ロシアには「ダメ」と言う。「戦争に勝ったからと言って、人のものを勝手に取ったらダメじゃないか」と言う。イギリスもフランスも弱い国と戦っては人のものをさんざん取ってばかりいますけど、ロシアには「ダメ」と言う。
 国際政治というのは理屈よりも、力が優先する血も涙もない世界ですね。あまり美談じゃない。
 これが1878年のベルリン条約です。この条約によってブルガリアの領域は削減され、ロシアの南下政策はまた挫折します。

 この時にドイツとイギリスが仲良くなった。するとこのあと、挫折したロシアは仲間を求めてフランスと仲良くなっていく。これが13年後の1891年露仏同盟です。ここから国際条約の時代です。国同士のいろいろな条約が結ばれて行きます。
 結局は仲間探しです。自分1人じゃムリだから仲間の力に頼る。難しくいうとこれが集団安全保障です。

 ロシアはフランスに「お金がないから貸してください」と言う。フランスもお金がないけど貸します。「南がダメだったら、東に行きましょう」と。これがシベリア鉄道です。西から東まで何千キロ、1週間かかる。そんな鉄道を延々と作ります。そうやってロシアが中国・朝鮮に進出してくる。
 しかし、こうなるとまたイギリスとロシアの英露対立が激化していきます。イギリスは、東に行くロシアを食い止めないといけない。

 しかしイギリスが頭のいいところは、自分で手を下さないで、他の国を使ってロシアをストップさせることです。これが日本です。1904年日露戦争です。日本にロシアと戦わせるのです。
 日本にとってはかなりリスクの高い戦いです。日本は、もしここで負けていたらどうなったか分からない。他のアジア諸国を見ると、1800年代にはほぼ植民地にされていますからね。でも日本の明治維新をよく見てみると、長崎のイギリス人トーマス・グラバーから始まって、日本とイギリスは見えない糸でつながっています。伊藤博文は、あれだけ有名な首相でありながら、ほとんど小説やドラマには描かれませんね。彼の動きは肝心なところが見えません。見えない糸は、そこら辺をのぞくと何か見えてくるかも知れません。
 
▼ベルリン会議後のバルカン半島



【バルカン半島図】 さっきも言ったけど、このベルリン会議で独立した国。それがまずセルビアです。それからルーマニアここでできます。ブルガリアはまだ半独立です。こうやってオスマン帝国の領土がヨーロッパ側にどんどん奪われていった。

 でもそれほど単純じゃない。ロシアがここに進出しようとすると、これを止めようとするイギリスがいる。イギリスがロシアを食い止めようとするのは、オスマン帝国が好きだからじゃないです。ロシアが強くなるのが嫌だからです。
  これで終わります。ではまた。

新「授業でいえない世界史」 37話の1 19C後半 アメリカの金ピカ時代

2019-08-25 09:30:55 | 新世界史13 19C後半
【南北戦争後のアメリカ】 南北戦争で北部が勝って、北部中心にアメリカはまとまりを取り戻していきます。分裂を防ぎます。分裂を防いだあと発展期に入ります。
 インディアンが住んでいた広大な土地が西部に残っています。そこでインディアンを迫害すると同時に、「そこのけ、そこのけ」でまず鉄道を通します。1869年大陸横断鉄道といいます。飛行機がなく、クルマもない時代ですから、人間の足として鉄道に勝るものはありません。
 ただ鉄道にはレール1本引くにも莫大な資本がかかります。アメリカだけではできません。これにはイギリス資本が投入されます。こうやってイギリスは支援していた戦争で南部が敗れた後も、経済的にアメリカに影響を及ぼしていきます。

 19世紀末にアメリカは世界第一の工業国となった。石炭・石油・鉄鋼などを中心とした重工業の分野では巨額の資金が必要であったため、イギリスなどからの投資や株式会社による資金調達も進み、独占企業が登場した。最初は鉄鋼王とよばれたカーネギーのように特定部門を独占する大企業であったが、次第に J・P・モルガン商会などの金融業が多くのグループを統合して巨大なグループが形成されていった。(詳説 世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P357)

 ヨーロッパで1870年代から90年代にかけて20年間も「大不況」が続いていた時代に、成長著しいアメリカ西部はヨーロッパの余剰資本と余剰労働力の受け皿となり、大発展しました。・・・・・・イギリスからの厖大な資本の流入と、イギリスやドイツなどからの大量の移民が、アメリカ経済躍進の源でした。ヨーロッパの余剰資本はロンドンの金融市場に集められ、ロスチャイルドと結びつくJPモルガン商会などが資本の受け入れ窓口になりました。経済急伸期のアメリカは、ユダヤ資金の格好の投資先になったのです。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P233)

※ JPモルガン商会は、ヨーロッパ金融を支配していたロスチャイルドの支援を受け、イギリス資本のアメリカへの投資の窓口として成長します。・・・・・・JPモルガンは、イギリスからもたらされた豊富な資金により鉄道会社を次々に買収し、「鉄道王」の異名をとります。それだけでなく彼は、1892年にゼネラル・エレクトリック(GE)を創設して電気事業に乗り出し、1907年にはアメリカの電話事業を独占する AT&Tを買収し、加えて全国の水道会社も傘下に収めました。さらに鉄鋼業界の再編にも取り組み、「鉄鋼王」カーネギーの鉄鋼会社を買収して、1901年、資本金14億ドル、従業員16万8000人という、アメリカの鉄鋼生産の6割以上を支配する世界最大のUSスティールを設立します。・・・・・・ロスチャイルドの資金がJPモルガンに流れ、債券、株式の購入によるM&Aで巨大財閥が作り上げられていたのです。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P235)

 新興国のアメリカ経済が成長すると、ロスチャイルド家はアメリカの金融業者J・P・モルガンと提携してニューヨークに進出し、アメリカ経済を動かすようになります。(商業から読み解く新世界史 宮崎正勝 原書房 P184)

 積極的にアメリカに資本進出したのは、厖大な資金を持つロスチャイルドなどのユダヤ系の金融業者でしたが、受け入れの窓口になったのが、アメリカの金融業者のJ・P・モルガンでした。モルガンはロスチャイルドの豊富な資金を背景に金融、鉄道産業、製鉄業などを支配して、大財閥を築きます。モルガンを通じて、ロスチャイルドはアメリカ経済に大きな影響力を発揮したわけです。(商業から読み解く新世界史 宮崎正勝 原書房 P210)

 1856年から1913年の57年間に、当時のイギリスの投資家は、海外投資額に対してその130%の利子・配当を受け取っていた計算になる。・・・・・・イギリスの債券投資は、対ヨーロッパに始まり、国際的な工業化の進展にともない、植民地インドのプランテーション、そして新大陸アメリカへと展開した。これらの地域では、工業化にともなう鉄道等のインフラストラクチャー整備、さらには農業開発などで、イギリスにとって投資機会が大きく、ピーク時の1913年にはアメリカ、カナダ、アルゼンチンの三国向けで、全投資額の4割近くを占めるに至っている。(マネー敗戦 吉川元忠 文春新書 P17)

 イギリスの投資家が大西洋を隔てたアメリカ企業に投資する際には、信頼できる正確な企業情報が必要になりました。そうした特殊な事情に支えられてアメリカで成長したのが、格付け会社です。・・・・・・投資情報会社を引き継いだスタンダード&プアーズムーディーズは、20世紀のアメリカ経済の急成長に伴い世界の二大格付会社に成長しました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P240)



 リンカン暗殺後、アメリカ議会はイギリスを中心とする国際銀行家に操られるようになります。リンカンが発行した政府紙幣も廃止されます。リンカンの死によって、南北戦争の勝者はアメリカではなくなったのです。
 世界の金持ちはやっぱりイギリスです。産業で負けても、お金は持っている。だからお金を貸すという商売に乗り出します。

 ジェイコブ・シフロスチャイルド家のドイツの銀行で修業した後、1865年に、弱冠18歳でアメリカに渡った。リンカーン大統領が暗殺されたアメリカで、彼ば、アメリカにいるヨーロッパの銀行家の代理人を取りまとめ、アメリカの私有中央銀行の設立を推し進めていた。
 1875年1月1日、ジェイコブはクーン・ローブ商会のパートナーとなった。クーン・ローブ商会は、やがてロスチャイルド財閥の強大な支援を受けることとなり、19世紀末から20世紀初頭にかけて合衆国最強の投資銀行の一つに成長した。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P102)

 ジェイコブ・シフクーン・ロブ商会は、フランクフルトのロスチャイルド一族と強いつながりがありました。同商会は、1850年代にドイツからアメリカに移住したユダヤ人アブラハム・クーンとソロモン・ローブによって創始されます。1865年、フランクフルトのゲットーでロスチャイルド家と一緒に生活していたジェイコブ・シフが、アメリカに渡ってクーンの娘と結婚し、1870年にはクーン・ロブ商会の頭取になりました。・・・・・・クーン・ロブ商会は、1870年代以降、鉄道に積極的に投資し、モルガン財閥との間で投資競争を繰り広げました。また1870年スタンダード・オイルを創業してアメリカの石油市場を支配した「石油王」ジョン・ロックフェラーのメインバンクおよび財務アドバイザーとなり、ほかにも後に南満州鉄道の日米共同経営を提唱する「鉄道王」ハリマン「鉄鋼王」カーネギーの事業もバックアップしています。シフはかつてゲットーで一緒に住んでいたことからロスチャイルド家との関係が密で、ロスチャイルドの「アメリカでの代理人」とも称していました。ウォール街では、モルガン家・・・・・・ビドル家・・・・・・ドレクセル家・・・・・・クーン・ロブ商会のクーン家というように、ロスチャイルドと結びつく四大家族が金融を支配するようになります。・・・・・・シフは日露戦争の際に、日本政府が発行した戦時国債8200万ドルのうち、3925万ポンドを、アメリカに渡った高橋是清日銀副総裁の求めに応じて引き受けました。シフはその功で、後に日本政府から勲一等旭日大綬章を授与されています。・・・・・・クーン・ロブ商会は後に・・・・・・投資会社リーマン・ブラザーズ(2008年倒産)に統合されています。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P236)

 ジェイコブ・シフはボルシェビキ革命や1904年から1905年の日露戦争に財政援助を行う一助を担った人物である。ウォール街の銀行家ジェイコブ・シフの金はロスチャイルド一族から提供されていた。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P222)

 今の「アメリカ」の姿は1776年にイギリスから独立して誕生したアメリカ共和国とは程遠く、その実体は1871年に詐欺まがいの手法で設立された「株式会社アメリカ」という民間会社である。「株式会社アメリカ」は、ワシントンD.C.という特区に内在し、その敷地内で運営される米国政府は、連邦法によりアメリカ合衆国連邦から独立した地位を与えられて国家中枢機関を統括している民間会社の所有物なのである。・・・・・・1871年、すでに国際銀行団によって買収されていた米国議会は、アメリカ共和国とは別の法制度を持つ「ワシントンD.C.」(ワシントン・コロンビア特別区)というたった100平方マイル(一辺10マイル=16km )の特区に新たな連邦政府を形成する法案を可決させた。・・・・・・ワシントンD.C.に特権を与え、そこに連邦政府を形成することを認める法案が議会で可決された1871年、アメリカ共和国の憲法は加筆や修正よりひそかに変質させられ、その際には以下の文言も加えられている。
「法律により認可されるアメリカ政府の公的債務、例えば暴動や反乱を抑制するための年金や報奨金の支払いのために発生する借金の妥当性が疑問視されてはならない。」
 つまりは、アメリカ政府が欧州ロスチャイルドなどを含む国際銀行団に対して、いかなる借金をすることも正当化する文言が法律に追加されているのだ。こうして、アメリカ国民とその財産はワシントンD.C.の国際銀行団に握られ、アメリカ国民の自由は徐々に奪われていった。(トランプと「アメリカ1%寡頭権力」との戦い ベンジャミン・フルフォード他 ヒカルランド P125)


 そういう時に、アメリカでも資本家が成長していきます。その代表格がロックフェラーという人です。今アメリカのナンバーワン財閥といえば、ロックフェラーです。
 彼は何に目をつけたか。石油です。スタンダード石油という石油の独占企業を作りあげます。これはあまり巨大企業になりすぎて独占禁止法に引っかかり、今は分割させられて、エクソン・モービル石油になってますが、今も巨大企業であることに変わりはありません。

 ジェイコブ・シフを通じてロスチャイルドは、ロックフェラー(石油)、ハリマン(鉄道)、カーネギー(鉄鋼)に資金を提供して、これらを巨大財閥に育成した。(ロスチャイルドの密謀 太田龍 成甲書房 P380)

 1860年代の南北戦争で、北部の産業ブルジョワ層が、南部の農業地主層に勝利し、主導権を握り、工業化と資本の集中化が進められます。鉄鋼業の基盤が形成され、1869年に大陸横断鉄道が完成します。アメリカ議会は保護貿易主義を取り、関税率の引き上げによって産業を育成します。
  こうした政府と産業の一体化の中で、
石油産業のスタンダード石油会社(ジョン・ロックフェラー創立)、製鉄業の US スチール(アンドリュー・カーネギー創立)、電気業のジェネラル・エレクトリック(トーマス・エジソン創立)、金融業のモルガン(ジョン・ピュアモント・モルガン創立)、
通信業の AT & T( グラハム・ベル創立)などの独占資本会社が形成されます。しかし、アメリカはドイツと異なり、自由競争を尊重する立場から、このような独占資本の活動を規制しました。・・・・・・その結果、アメリカでは一定のバランスのとれた市場の発展が可能となり、新規企業の参入も増大しました。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P225)


人類史上最大の富豪ロックフェラー



 アメリカにはお金がまだ何千種類もあります。
 そんな中でアメリカは1873年に「貨幣鋳造法」を制定し、銀貨を排除し金貨のみを本物の流通貨幣にします。南北戦争という内戦で疲弊した国家が復興を目指しているときに、通貨緊縮政策を行うことほどバカげたことはありません。そうなると流通するお金の量が減ってモノが買えなくなります。それで世界恐慌がおこります。これはヨーロッパにも及びます。

※ 急速な工業化、世界規模での植民地の拡大は、ヨーロッパ経済の長期の不況という形の調整をもたらしました。それが、1873年から1896年にかけて、オーストリアのウィーン発の金融危機がヨーロッパ・アメリカに波及して長期化した「大不況」です。(商業から読み解く新世界史 宮崎正勝 原書房 P198)

※ 1870年代から1971年にニクソン・ショックでドルが不換紙幣になるまでの約1世紀は、ユダヤ商人がポンドとドルの発行権を握り、イギリス帝国の金庫番となり、アメリカのパートナーとして金融をリードした時代だったと見なせるのです。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P6)

※ 1873年世界恐慌は、ウィーンでの株価暴落とニューヨークでの銀行の倒産から発生します。この後、1890年代の半ばまで、デフレーション傾向が続きます。
 この間に、列強は保護貿易へ転換し、帝国主義の時代へと繋がっていきます。特にアメリカでは企業の独占が進展し、議会を支配するようになり、国家政策に影響力を持ちます。
 ロスチャイルドから派遣されたジェイコブ・シフクーン・ローブ商会を通じて、アメリカのロックフェラーJP モルガン、カーネギー、ハリマンたちが、欧州のロスチャイルドから融資を受けて事業を拡大していきます。

※ 1873年から1877年にかけて、ロスチャイルド・ロンドン銀行は、アメリカ国債を引き受けています。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P112)


 日本ではすでに1868年に明治新政府ができています。明治維新の直後は世界的には不況の時代です。日本も開国後、金銀比価の違いから大量の金(キン)がヨーロッパに流出しています。
 それまで東アジアの主要通貨は銀でした。それは中国の地丁銀制にもみられるとおりです。しかしヨーロッパはその銀を本物の貨幣とは認めないようにしていきます。それはヨーロッパが、自分たちの持つ金(キン)だけを貨幣だとすることで、莫大な利益が転がり込んでくるからです。

 それまでの金銀比価はおよそ1対10でした。つまり金1グラムと銀10グラムが同じ価値でした。それが今はどうなっているか。最近大きく変動していますが、おおまかにいうと現在、金1グラムが5000円に対し、銀1グラムは50円です。1対100です。銀の凋落は明らかです。これもここ100年あまりの歴史のなかで、ヨーロッパによって政治的につくられたものです。
 このあとは、いかに多くの(キン)を持つか、それが大きな国際的政治的課題になっていきます。

※ 1850年にヨーロッパでは金貨の約3倍の銀貨が流通していましたが、10年後の60年代になると、金貨と銀貨の発行量が拮抗するようになります。それは、銀貨の流通量が減少し、金貨により価値を担保される紙幣の発行量が激増したことを意味しています。・・・・・・金本位制ですから、紙幣の発行量が増加すると今度は金の量が間にあわなくなります。・・・・・・見せ金となる大量の「」がなければ、金本位制の維持も、銀貨からポンド紙幣への転換も不可能です。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P178)

※ 1823年の通貨法で金の保有高によりイングランド銀行のポンド発行額が抑えられていたことから、世界の厖大なポンド紙幣の発行を担保するための金が大幅に不足するイギリスでは、南アフリカの金の獲得が至上命令になりました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P199)

※ 国際的に流通する貨幣から銀貨を排除したのは、国際銀行家が世界の貨幣供給量の絶対的支配権を確保するためであった。つまり、年々深鉱され増えていく銀鉱に比べ、金鉱はその探査も金の生産量も少なかったため、彼らは金鉱の採掘を完全に支配することができた。だが、コントロールしがたい銀貨の大量流通によって、自分たちの世界金融の覇者としての立場が脅かされることを恐れたのである。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P86)

※ 1870年代、世界の通貨は金銀複本位制(金貨と銀貨の両方を本位貨幣とし、固定化した金銀比価を保持する通貨制度)から金本位制に変わり、かつ世界の備蓄通貨であるポンドとリンクしていた。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン  P112)

※ ポンドの基軸通貨としての影響力が強まると、ロスチャイルド家との関係が深いフランクフルトの金融街ドイツ帝国、日清戦争後の日本アメリカなどが次々に銀本位制を金本位制に切り替え、19世紀後半には金貨(ポンド)の銀貨に対する優位が確立されていきます。イギリスは静かに世界経済の覇権を握ったわけです。(商業から読み解く新世界史 宮崎正勝 原書房 P208)

※ 覇権国の経済力はもっとも端的には国際マネー循環に現れる。世界経済をリードするマネー循環を形成し、その中心軸に位置できるか否か。そうした存在になるためには、対外純資産を擁し、それを背景に自国通貨を基軸通貨として世界に信任させる必要がある。(マネー敗戦 吉川元忠 文春新書 P19)


 前にも言いましたが不況はモノを作る力があっても、買う人がいないということです。過剰生産になってモノが余るんです。物価はモノが余ると安くなる。それでも売れ残る。売れ残るから強制的にでも売れる場所を求める。
 これを市場と言いますが、これをわかりやすくいうと植民地です。そういう植民地獲得時代に入る。そしてその植民地に売るんです。この植民地獲得のナンバーワンがイギリスです。ただイギリスの場合はモノを売るためではなく、金融資本が持つ余ったお金を投入する場所を確保するためです。

 工業面でグッとイギリスを追い抜いていくのがアメリカです。19世紀の終わりにはイギリスを追い抜きます。アメリカが工業生産力で世界一になります。国土も広い。
 だからアメリカには多くの大金持ち、日本でいう成金が誕生します。アメリカはもともとキリスト教の信仰が非常に強い国で、真面目な人が多かった。しかしお金を持つとどうも人間が変わる。
 非常に軽い人たちがお金持ちになって、この1880年代以降は俗に金メッキ時代、または金ピカ時代といいます。この時代はこういうふうに蔑まれるんですよ。「神様の教えとかクソくらえ、金さえ儲ければいいんだ」と、そういう成金は蔑まれています。しかしそういうアメリカ人が多く誕生していく。

※ 1870年代に構造不況である「大不況」(1873~96)がヨーロッパを覆うと、イギリスをはじめとするヨーロッパが、余剰資本のアメリカへの投資を積極化させました。当時のアメリカは南北戦争(1861~65)のあとで、西部の開拓と大陸横断鉄道の建設が進んでいました。1870年代は、
①大西洋の蒸気船航路の実用化による移民の増加
②大不況によるヨーロッパでの失業者の激増
③南北戦争中にリンカーンが出したホームステッド法(5年間、西部の開拓に従事した者には無償で約65ヘクタールの土地を無償で供与する法 西部諸州を味方につけるため)
④黒人奴隷の解放に伴う、アメリカで生まれた者にアメリカ国籍を与える憲法の修正
⑤政府の工業育成政策、などの有利な条件が重なっていたのです。
1870年代から90年代にかけてアメリカは、「トムソーヤの冒険」を書いた小説化マーク・トウェインが「金メッキ時代」と揶揄したように、カネまみれ汚職まみれの経済成長の時代に入ります。(商業から読み解く新世界史 宮崎正勝 原書房 P209)

※ (ロシアからのユダヤ人の移民先で)なかでも多かったのはアメリカ合衆国である。1880年から1920年にかけて新大陸へやってきたユダヤ人の数は200万人にものぼったという。(ユダヤ人 上田和夫 講談社現代新書 P120)


 こういう風潮のなかで、多数あるお金を整理して中央銀行を作ろうというイギリスの意向が働きます。それに対して「それはダメだ、そんなことをすれば貧富の差が激しくなる」と反対したのがさっき言ったガーフィールド大統領です。しかし彼はそのあとすぐ1881年暗殺される。謎です。まだ分からない。

 20年後の1901年には、マッキンリー大統領暗殺されています。一命を取り留め受けた傷は回復しつつあったが、なぜか8日後に死亡しています。
 その次の大統領になったのが、副大統領であったセオドア・ルーズベルトです。ルーズベルトという名前はあとでも出てきます。注意して下さい。
 あと1人が、1963年に暗殺されたケネディーです。アメリカ大統領で暗殺されたのは4人です。
 そのあと最近では、1981年レーガン大統領暗殺未遂事件も起きています。犯人はヒンクリーと言われますが、これもよく分かりません。ただレーガンは、アメリカの中央銀行であるFRBの利益がどうなっているかを調べようとしていた、という話はあります。



【人種のるつぼ】 アメリカはどのように人口が増えるか。お母さんがいっぱい子供を産んだからではないですよ。移民の流入です。外国からの移民を受け入れる。他所(よそ)から来た人たちの人口で増えていく。

※ 19世紀には4000万人を超える人々が、移民船や客船航路によりヨーロッパからアメリカ大陸に移住しました。アメリカ大陸のヨーロッパ化が一気に進んだのです。約3600万のイギリス、ドイツなどの庶民が北アメリカに移住します。アメリカ合衆国の経済が、ヨーロッパの大不況を背景にして一気に膨張したのです。(商業から読み解く新世界史 宮崎正勝 原書房 P201)


 その一方で、奴隷解放令が出たからといって、黒人差別がなくなったわけではありません。
 奴隷解放は、もともとは南北戦争でヨーロッパの支持を取り付けるためのものだったから、奴隷は解放されても、このあとも黒人差別はずっと続きます。これは第一次大戦後も続くし、第二次世界大戦後も続きます。黒人差別が解消され、黒人が選挙権を持つのは、私が生まれたあとの戦後です。ずっと後のことです。
 アメリカの西部には何万年も前からどういう人が住んでるか。我々と同じモンゴロイドのインディアンが住んでいた。そこを「どけ、どけ」と彼らの土地を奪うんです。
 それで彼らは今は狭い居留地に住んでいる。「ここに住め」と言われて、閉じ込められている。これがインディアン迫害です。こういう明と暗が歴史にはあります。だから今でもこのことを人から言われるのを、アメリカ人は嫌がります。
 これでアメリカは終わります。
 続く。


新「授業でいえない世界史」 37話の2 19C後半 イギリス、イスラーム地域

2019-08-25 09:27:22 | 新世界史13 19C後半
【イギリス】
 アメリカの南北戦争後、イギリスでは1870年代に二大政党制がほぼ完成します。
 ちなみに、アメリカ南北戦争時のイギリス首相はパーマストンです。1855年から約10年間、首相を務めます。この人物は1840年のアヘン戦争を引き起こしたときのイギリスの外相です。

※ 19世紀中葉、英国外相、首相の職にあったパーマストンフリーメーソン第33階級)がマッチーニ、フリードリヒ・エンゲルス、カール・マルクスをイルミナティのアジェンダを推進する革命家として作成した、という。(ロスチャイルドの密謀 太田龍 成甲書房 P404)

※ 当時の英国フリーメイソンの最高幹部は、パーマストン卿であり、そしてパーマストン卿は英国首相であった。(クシマン・カニンガム 秘密の帝国 第2巻 P57)(ロスチャイルドの密謀 太田龍 成甲書房 P405)


 イギリスの二大政党の一つは今でもある保守党です。もう一つは今は弱小政党になっている自由党です。ちなみに今は自由党の代わりに労働党です。これはまた別の政党です。
 100年前は保守党と自由党です。この中心人物が、保守党ディズレーリ、この人はユダヤ人です。後ろについていてるのはユダヤ人の大金持ち、ロスチャイルド家です。困った時にはここに「お金を貸してください」という。教科書にも書いてありますが、これで買ったのがエジプトのスエズ運河です。

 これに対して自由党の中心人物はグラッドストーンといいます。このころは、軍事面でも経済面でもイギリスが断トツに強いです。だから同盟を組む必要がない。イギリス人はそれを誇らしく思っている。「オレは1人で何でもできるんだ」と。これを「光栄ある孤立」と言っている。
 ただこの先30年のことをいうと、これが保てなくなってイギリスも同盟を組み出す。しかも同盟を組むのがうまい。同盟を組んでドイツを孤立させ、孤立したところで戦争する。これが第一次世界大戦です。



【植民地合戦】 ではイギリスはどのような植民地をつくっていくか。まずインドとエジプトです。・・・・・・でもその他にもいっぱい植民地を持っています・・・・・・まず1882年エジプトを占領します。エジプトは、それまで独立国ではなく、オスマン帝国の領土だった。イギリスは、そのオスマン帝国からエジプトを奪い、植民地化してきます。

※ イギリスは、18世紀にインドを植民地化し、19世紀にはアフリカ東南アジアをも植民地化し、アヘン戦争により中国を屈服させて半植民地化します。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P226)


 6年後、1888年の東南アジアのボルネオ島というのは今のインドネシアです。そこで何が出たか。石油が出た。そこを即取ります。その場所は、今はインドネシアと切り離された小さな国になっています。小さいですががっぽりお金持ちです。ボルネオ島にある今のブルネイです。ここを植民地化する。
 次は今のマレーシアです。まず植民地として1895年、英領にする。イギリス領にします。英領マレーになる。
 それから100年後の1991年の湾岸戦争で出てきますが、イラクの先端のペルシャ湾のところに、クウェートという小さな国があります。ここにも石油が出た。1899年です。イギリスはこれも即取ります。ここをイラクから切り離して保護国化してクウェートという国にする。 保護国化というのは外交権を奪って、ほぼ植民地にすることです。植民地のちょっと軽い植民地、こういうのを保護国という。こういうふうに巨大資本と政治が結託しているような状態になる。

 
▼議会を支配する独占資本


【議会を支配する独占資本の図】 上の絵は国会の様子です。うしろの腹のふくれた金持ちたちはオプションです。漫画家が想像して描いている。漫画家というのはいいですね。絵が上手だと。これ、分からない人には分からない。分かる人は「ははーん」とわかる。漫画家というのは、有名な政治家の似顔絵を描けますから、誰だか分かるんです。名前はわざと書かないです。名前書くと名誉毀損になったりするから。
 例えば今のトランプ大統領の似顔絵を描いて何か悪いことしてるところを書いても、似顔絵を見ただけでは、トランプだとは書いてないから、言い逃れできる。 ここに名前を書くと裁判になったりするんです。だから似顔絵というのは便利なんです。そういう意味ですよ。なぜこういうのを似顔絵で描くかというのは。名前を書いてしまうと名誉毀損で負ける。「これは空想を書いただけですよ」、「いや、トランプじゃないか」、「違いますよ、他人の空似ですよ」と言えば罪にならない。これは新聞がよくやってる。似顔絵で批評するということを。だからネットでも、実名でやったらダメですよ。実名でやると名誉毀損になる。だからといって似顔絵を描けとも、ネットで他人を批判しろとも勧めてるわけじゃないけど、まあそういう風刺画です。

 実際は、これは国会の様子なんです。国会議員には選挙がある。選挙にお金がかかったらいけないけど、実際問題としてお金がかかるんです。「貸して」という。後ろは資本家です。つまり大企業家です。「お金貸したら、俺の言うことを聞いてくれるか」、「もちろんです、ハイ」と。それで当選する。持ちつ持たれつの関係です。政治家の裏に資本家がいる。こういう構図が早くも成り立っている。
 「今とは違うなぁ」ではないですよ。今も言わないだけです。政治とカネの問題はずっと続いています。 資本主義というのは、貧しい人を豊かにするという発想は残念ながら持たないです。儲けたい人が儲けなさいという発想なんです。「儲けた金で貧しい人を幸せにしなさい」という発想はない。だから富が偏在していくんです。
 しかしイスラームにはそれがある。イスラーム教には、「貧しい人たちに喜んで寄付をしなさい」という喜捨の教えがある。そこらへんがヨーロッパのキリスト教と違うところです。もともとはキリスト教にもあったんですけど、16世紀の宗教改革期に富の重視に変わってしまったんです。



【エジプトの植民地化】 ではイギリスの植民地。まずエジプトです。1869年。ここのスエズ運河は、ユーラシア大陸とアフリカ大陸の間です。スエズ運河というのは・・・・・・イギリスが行きたいのはインドです・・・・・・アフリカ大陸を回ってインドに行くと2ヶ月かかる。しかし、ここを通れば1ヶ月で行ける。「掘ろうじゃないか、ここに運河を」。この運河が世界史の1つの的になる。これがスエズ運河です。
 スエズ運河はイギリスのものになりますが、掘ったのは実はフランスです。レセップスというフランスの外交官です。フランスがエジプトを手なずけて特許を取り、エジプトと共同で掘ったんです。しかしエジプトは莫大な金をつぎ込んだためお金が足らなくなる。

 それで6年後の1875年にイギリスが「お金が足らなかったらオレがその会社の株を買おう」といい出す。この時の首相が、さっき言った保守党のディズレーリです。これには莫大なお金が必要です。でもイギリス政府にもそれを買うお金がなかった。それで、ロスチャイルドに頼む。「貸してください」、「わかった」で即決です。
 これ以上言ったらいけないけど、「で担保は?」とロスチャイルドが言うと、「イギリス国家です」とディズレーリは答えたという。不気味な話ですね。そういう裏話がある。

※ スエズ運河会社株が大量に売り出されているという情報を得たディズレーリは、保守党にも休会中の議会にも相談せず、個人的に親しいロスチャイルド家の当主ライオネルから独断で400万ポンド(2000万ドル)の購入資金を借り入れた。・・・・・・議会の承認を得ずに厖大な額の購入資金をロスチャイルド家から借り入れたことを、自由党のグラッドストーンは後に憲法違反として告訴しています。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P206)

※ (スエズ運河買収資金を提供したあと)ライオネル(ロスチャイルド)にはもう一つの狙いがあった。スエズ運河買収のための財政融資を通して、ロスチャイルド家はその立場をさらに一段押し上げ、イギリスの内政外交の中枢にさらに一歩近づき、政府との関係をより強固なものにできるからであった。・・・・・・イギリスの力がエジプトに浸透するに伴い、ロスチャイルド家もその追い風に乗りエジプトでの融資教務を拡大させていった。1885年から1893年の間に、ロスチャイルド銀行は・・・・・・エジプトの4つの大型国債を引き受けた。・・・・・・ロスチャイルド家とユダヤ銀行家たちはイギリス自由党を応援し、自由党の「帝国主義」海外膨張政策を強力にバックアップした。
イギリスが19世紀に海外に勢力を拡張したのもユダヤ系大富豪の協力があったためにできたことであった。一方、ロスチャイルド家を代表とするユダヤ銀行家たちはイギリスの植民地拡張に便乗して、巨額の利益を獲得しただけでなく、「工作員」を世界各地の金融の中心地に送り込んだのであった。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P108)


 イギリスが欲しかったのは、まず第一にインドを手中におさめたい。1857年のシパーヒーの乱以降、イギリスはインドへの本格的な直接統治を始めています。そのインドに半分の時間で行ける。目指すはインドです。 このスエズ運河の利権を手に入れることによって、イギリスはエジプトへの介入を強めていく。実質的にエジプト政府はイギリスのものになっていく。
 この背景にはイギリスの軍事力があります。日本は今アメリカにお金を貸していますが、しかしアメリカのほうが軍事力が断然強い。だから軍事力がないと「貸したお金を返せ」とも言えない。お金よりも、最終的には軍事力ですね。「戦争しなさい」と言ってるつもりはさらさらないですが、軍事力というのはすごいものです。軍事力とお金があれば、鬼に金棒です。アメリカの軍事力と、日本のお金、これで今の日米同盟はできています。でも日本政府にもお金がない。だから国民から1000兆円も借金しています。ということは我々のお金がアメリカの軍事力に使われているということです。

 しかし「これでいいのか」というエジプト人もいる。「こんなことを白人にされていいのか」、それで立ち上がって反乱を起こした。1881年です。アラービー・パシャという人、アラービー・パシャの乱です。「エジプト人のエジプトを作ろう、今はイギリス人のエジプトになっている」と。しかしイギリスは強力な軍隊を持っているから、いとも簡単に鎮圧してしまう。軍事力というのはすごいものです。そして1882年には、エジプトはイギリスの軍事支配を受けていく。エジプト人はもうモノが言えない。イギリスはここを押さえると、すぐ目指すインドに行ける。



 【インドの植民地化】 エジプトを手に入れて、インド支配が本格化していく。このとき実は、イギリスは工業生産力が低下して焦ってる。だから強制的にでも売れるところを求めています。
 スエズ運河株を買収した2年後の1877年には、イギリスのヴィクトリア女王がインド人の王様を兼ねて、インド帝国を成立させます。スエズ運河でインドにすぐ行けるようにもなりました。今から思うと船で時間かかるけど、それ以前アフリカの南端を回って行っていたのと比べると半分以下の時間ですぐに行ける。イギリスのヴィクトリア女王は約70年間、女王の地位にあります。この時代をヴィクトリア時代といいます。
 こういう形で支配された後にインド人も、「これでいいのか」・・・・・・反乱までは起こしませんでしたが・・・・・・「イヤだな」と思う。インド人によるインド国民会議派1885年にできる。

 最初は、イギリス人が怖かったから「イギリスに協力します」と言っていましたが、あんまりイギリス人が無理難題をふっかけてくるから、だんだんと、反英つまりイギリス反対の立場に変化していきます。10年、20年、30年のうちに反英の気分が高まって、これが独立運動に発展していく。
 しかしあと50年以上、イギリスはインドを独立させません。インドの独立は1947年、第二次世界大戦後です。



【オスマン帝国の衰退】 次はオスマン帝国にいきます。あっちこっち頭を切り替えてください。ここからはオスマン帝国です。
 1600年代以降の約200年間は世界の中心であった国です。今はトルコになっています。小さな国になっていますが昔は大帝国であった。この大帝国がだんだんとヨーロッパ勢に押されて衰退していきます。
 1699年には領土だったハンガリーを奪われた。神聖ローマ帝国のオーストリアに。それからポーンと200年ぐらい飛びます。その間のことは一部すでに言いました。
 オスマン帝国が弱くなると、そこで支配されてる異民族が強くなる。「オレたち独立しよう」と独立運動が起こる。自立化が進んでいく。これを下の地図からいきます。色がついているところが、もともとのオスマン帝国の領土です。

 しかし第一次大戦直前の1912年のオスマン帝国は、たったこれだけになる。あとは全部独立するんです。いま言ったのは、ハンガリーが独立した。そのあとは東ヨーロッパが全部独立して、さらにギリシアも独立していく。ギリシアはもともとオスマン帝国の領土だった。
 このギリシアが次に出てきます。その次に独立するのはエジプトです。これもオスマン帝国の領土です。ここも独立する。どんどん独立されて、オスマン帝国は最終的には小さな国になる。こうやって20世紀の頭までには小さくなっていく。それと同時にヨーロッパから侵略されていく。こういうことを今から説明します。

 ナポレオンが敗れたあと、1821年からはギリシアが独立するためにオスマン帝国と戦争していきます。これがギリシャ独立戦争です。その結果ギリシアは独立を達成する。そしてヨーロッパの仲間にはいっていく。
 1831年になると今度はエジプトが独立しようとする。これがエジプト・トルコ戦争です。ヨーロッパはどっちの味方か。「トルコなんかつぶせ」です。エジプトをトルコから切り離したいわけです。
 だからイギリスはエジプトの味方になります。こうやってイギリスに支援されたエジプトは、最終的にはイギリスの植民地になる。一方オスマン・トルコ帝国はどんどん衰退していく。トルコもエジプトも共倒れです。
 
▼オスマン帝国の縮小

 
 「これじゃいかん」と思ったトルコも改革しようと1839年から頑張ります。これをタンジマートといいます。改革という意味です。しかしこれがうまくいかない。うまくいかない割には借金ばかり増える。外国からの借金です。これを外債といいます。
 お金を貸すのはイギリスです。イギリスのような軍事力を持つ国からお金を借りると、末路は悲惨ですよ。ヤミ金から金を借りるようなものです。それで借金を返せなくなると追い詰められて身ぐるみ剥がされていく。

 ただその後も改革の努力は続いて、「ヨーロッパ流も取り入れよう、ヨーロッパは憲法というものがあるんだから、ウチでも作ろう」と、ミドハトという大臣が憲法を作る。名前を取ってミドハト憲法といいます。1876年です。
 日本は1868年に明治維新を達成しています。トルコはアジア人です。これがアジア初の憲法と言われています。日本よりも10年ほど早い。つくった人はミドハト・パシャという。パシャは大臣という意味です。これがアジア初の憲法です。

 しかし憲法さえつくれば成功すると決まったわけではない。これは失敗します。成功するのは、次に憲法を作った日本です。だからトルコ人は日本人には好意的です。日本の成功を見習おうとした。
 しかし、これをつくった次の年にロシアがまたトルコに戦争をふっかける。トルコはそれに負ける。戦争の混乱のなかで憲法どころじゃなくなる。
 この戦争が1877年からの露土戦争です。露はロシア、土はトルコです。
 それで憲法どころではなくなってこれを廃止し、昔の政治スタイルに戻す。結局憲法による政治は失敗する。この戦争でロシアが奪ったところは、バルカン半島のここです。これは先に言いました。オスマン帝国は戦争のたびに領土は小さくなっている。緑で囲んだ部分です。
 このページではここまでですが、次の第一次世界大戦では、かすかに残った西アジアのパレスチナまでイギリスが取ります。第一次世界大戦でもトルコは敗れます。



【アラブの改革】 次はアラビアに行きます。アラビアというのは、このサウジアラビアを中心とした地域です。
 ここではイスラーム教徒が「もともとのイスラームの姿に立ち返ろう、俺たちの誇りを取り戻そう」、そういう運動が起こる。これがワッハーブ運動です。ワッハーブというのは人の名前です。でも名前より中身が大事です。「イスラーム本来の姿に戻ろう、正しいイスラームの姿に戻ろう」、こういう動きは早く18世紀からすでに起こっています。100年ぐらい前からジワジワと起こっています。
 それに火がついていくのが砂漠地帯のアラビア半島です。今のサウジアラビアです。ここが一番運動の盛んな地域です。今でもサウジアラビアはイスラームの厳格な教えを守っている国です。
 この運動の中心になっていくアラビア地方の親分・・・・・・ちょっと暴力っぽいですけど・・・・・・この親分をサウード家という。結論をいうと、サウジアラビアとは何か。このサウード家のアラビアという意味です。サウードのアラビアです。だからサウジアラビアです。サウード家が今の王家になります。ワッハーブ運動を経て厳格なイスラーム国家になります。

 その始まりは100年ぐらい前です。1744年に国を一旦つくります。ワッハーブ運動だからワッハーブ王国という国をつくりますが、これはすぐ滅亡します。滅亡したかと思うと、再建されたり、また潰れたりを繰り返す。これはヨーロッパが介入するからです。ヨーロッパは、アラブの国家統一の動きを妨害するんです。そこで「なぜ妨害するのか、ヨーロッパは信用ならない」とアラブに反ヨーロッパの動きが出てくる。
 これを始めた人がアフガーニーという人です。目標は反帝国主義です。反帝国主義というのは反ヨーロッパ主義です。「ヨーロッパは俺たちを食い物にしようとしている、口車に乗せられたらいけない、イスラーム主義こそ大事なんだ」という考え方です。
 この考え方はのちにエジプトの運動にも影響し・・・・・・エジプトはイギリスの半植民地にされてますから・・・・・・イギリスから独立しようという動きにも結びついていきます。しかし、この時にはイギリスが鎮圧します。押さえ込むんです。



【エジプトの改革】 ではそのエジプトです。エジプトは一旦はオスマン帝国から独立しました。しかし、これは完全な独立ではなくて、正式な国ではなく半独立の状態だった。そのエジプトの中心人物がムハンマド・アリーです。エジプトの総督です。形的にはまだオスマン帝国領です。しかしオスマン帝国もエジプトにはとやかく言わない。だから半独立状態です。
 半独立状態の前から改革運動が起こっています。近代化を進めようとする運動です。やっぱりオスマン帝国から独立したい。

 そこで1831年に戦争が起こる。順番が逆になりましたが、これがさっき言ったエジプト・トルコ戦争です。イギリスはエジプトをオスマン帝国(トルコ)から独立させて、自分だけのものにしたいんです。だからイギリス中心に、列強つまりヨーロッパが干渉します。結果としてエジプトはオスマン帝国(トルコ)から自立する。イギリスの狙いは、「エジプトを独立させてから、裸にさせてから侵略したい」ということです。
 イギリスがエジプトを欲しいのはなぜか。イギリスが行きたいところはインドです。しかしここに運河をつくれば半分の距離で行ける。この運河の名前がスエズ運河です。「これを掘ろう」とまずフランスがもちかける。もちかけたのはフランスです。そして半分はエジプトに金を出させる。でもエジプトはお金がないからお金を借りて資金を出す。この借りたお金が返済できなくなったんです。
 エジプトはお金が足らなくなる。そこにイギリスの甘いささやきです。「オレが買ってやるよ」と。お金持ってるのはイギリスです。1875年にイギリスがエジプトからスエズ運河を買収する。イギリスの狙いはインドです。ここを通ればイギリスはインドまで半分の距離で行けるからです。

 でもこのお金の出所にはさらに奥があって、前にも言いましたが、実はこの時イギリスは十分なお金はありませんでした。イギリス一の大金持ちに「お金貸してください」と頼む。これがロスチャイルドです。「担保は?」と聞かれて・・・・・・担保とは借金のカタのことです・・・・・・首相のディズレーリは「イギリス国家です」と言ったという。ちょっと怖い話です。相手はロスチャイルドです。

 こういうイギリスの侵略に対してエジプト人が腹を立てたのが、1881年アラービー・パシャの乱です。「オレたちはエジプト人のエジプトをつくるんだ、今はイギリス人のためのエジプトになっている、おかしいじゃないか」と。
 しかし鎮圧される。軍事力ではイギリスに勝てない。もうイギリスの思う壺です。イギリス軍がエジプトに乗り込んでくる。外国軍の国内への侵入を許せば、もう国として何もできません。戦後の日本と同じです。戦後ずっと日本国内に米軍がいるでしょう。誰でですか、「へーそうなんですか」と言っている人は。だから日本はアメリカに頭が上がらない。そういう状態です。



【イランの動向】 次はイランです。昔のペルシャです。ここには150年ばかり王朝があった。カージャール朝といいます。
 イギリスは中国に対して麻薬のアヘンを売りつけた。カージャール朝に対してはタバコを売りつけた。そこでタバコボイコット運動がおこる。ボイコット運動が起これば、軍事力のある国はしめしめです。「おまえたちが先に手を出したんだからな」、そう言ってイギリスが攻めてくる。

 その前に、イランは北の方ではロシアと国境を接してますから、ロシアも攻めてくる。ロシアとイギリスにねらい撃ちされて、踏んだり蹴ったりです。

 このように今のイランは、イギリスとロシアの草刈場のようになって半植民地化されていきます。形だけは独立していますが何をするにも干渉される。「ああするな、こうするな」と言って。
 イラン人のなかには、「こんなことでいいのか」と腹を立てる人たちが出てくる。彼らも反乱を起こします。バーブ教徒の乱といいます。しかし軍事力が弱い。鎮圧されて逆に押さえ付けられてしまいます。ほとんどのアジアはこのパターンです。
 これで終わります。ではまた。



新「授業でいえない世界史」 38話の1 19C後半 日清戦争と列強

2019-08-25 09:26:33 | 新世界史13 19C後半
【明治維新後の日本】
 外交問題としては琉球つまり沖縄がどうなるか。江戸時代、沖縄県だけは別の国だった。ここは王国です。琉球王国です。しかし日本のようでもあり、中国のようでもある。中国にも服属している。どこの国にするかという時に、琉球の漁民の船が台湾に漂着したんです。そこで琉球人が殺された。
 この時に日本はすかさず台湾に出兵した。そこで中国は「ごめん」と言った。これで決定です。中国がもし琉球を中国だと思っていたら、自分の国の国民が殺されたんだから、日本が文句いう筋合いないでしょう。中国が「ごめん」と言ったということは、琉球は日本領土だと認めたことになる。だから琉球は日本に帰属する。

 現在、日本の政府と琉球知事はとても仲が悪い。こういう経緯があるから、「普天間基地などの米軍基地問題で日本と沖縄の関係がこれ以上悪くなると、中国が沖縄に応援して中国の領有権を主張するんじゃないか」という話は潜在的にある。
 沖縄の米軍基地を、中国は大嫌いです。あれはどこを向いているか。中国なんです。沖縄に米軍基地があれば、アメリカは中国をすぐ攻撃できる。その隣にはグァムがあるけど、グァムよりも沖縄の米軍基地が中国に近くて、中国は嫌なんです。

 では次は朝鮮です。江戸時代の鎖国は日本だけじゃない。朝鮮も鎖国です。日本は開国した。それと同じようにイギリスは朝鮮に「開国しろ」という。しかし開国しません。逆に日本に「おまえは戦いもしないで白旗あげた。そんな開国をして恥ずかしくないのか」という。どちらが正しいとはいいません。ただ日本と外交方針が違う。日本は開国したが、朝鮮は開国しなかった。
 「このままだと朝鮮は外国から取られてしまう。植民地になってしまう」、それが日本はイヤだった。
 朝鮮と日本の地理関係は、朝鮮半島は、寝転んだ赤ん坊の・・・・・・日本をその赤ん坊だとすると・・・・・・ノド元に短剣が突き刺さるような形になっています。もし朝鮮が敵に取られたら、そのノド元を刺される。ここが敵に取られること・・・・・・この時の脅威はロシアに取られることを・・・・・・日本は非常に軍事的に恐れた。
 だから、朝鮮はどうしても日本の仲間であってくれないと困る。それで日本は朝鮮を侵略して、朝鮮半島は約50年間、日本の領土になる。そういうことがあって韓国と日本はいまだに仲が悪い。

 この時の朝鮮の実力者を・・・・・・王様の父親なんですが・・・・・・大院君といいます。日本は軍隊を朝鮮に派遣し、軍事衝突を起こし・・・・・・これを江華島事件といいますが・・・・・・そのあと半ば強引に条約を結ばせる。
 この条約を日朝修好条規といいます。条約と同じ意味なんですが、名前としては条規という。こういう形で日本は朝鮮に不平等条約を押しつけた。
 こういう日本と朝鮮の行き違い、対立関係はその後も続いて、日本が朝鮮を植民地化するまでの間、1880年代に軍事衝突が起こります。1882年壬午軍乱です。日本と朝鮮の軍事衝突です。そこに中国も絡むのですが、ここらへん詳しくは日本史で言います。
 さらに2年後の1884年甲申事変が起こる。壬午とか甲申とかは西暦ではなく、中国流の年の数え方です。この事件は、日本に好意的な朝鮮人である金玉均という人物が、日本と仲間になろうとしてクーデタを起こしたが失敗した。それで日本と朝鮮との関係がますます悪くなったという事件です。

 こういう動乱の時代に朝鮮で流行った一つの宗教が東学です。学問のような名前ですが、一種の新興宗教です。崔済愚(さいせいぐ)という人が始めた新しい宗教です。これが広まって反乱を起こす。この東学グループの反乱が、朝鮮国内で戦争にまで発展していく。これが1894年甲午農民戦争です。
 この反乱に日本が干渉して朝鮮半島に軍隊を派遣する。そうすると・・・・・・朝鮮の親分は伝統的に中国です・・・・・・中国も軍隊を朝鮮に派遣する。それで日本と中国が戦う。これが1894年日清戦争です。これは朝鮮をめぐる戦いです。今も日本は韓国と仲が悪い。中国とも仲が悪い。日本は東アジアで特異な地位を占めています。まっ先に開国して西洋化した国です。この日清戦争の講和条約が下関条約です。



【下関条約】 日清戦争までいきました。日清戦争は1894年です。清という中国は大国です。とてもチョンマゲ国家の日本が勝てるとは誰も思っていなかった。しかし勝ってしまった。その講和条約が翌年の1895年に首相伊藤博文のお膝元山口県下関で結ばれる。これが下関条約です。
 ここで日本はすぐ朝鮮を植民地にするのではなく、それまで朝鮮の親分が中国だったから、まず中国と朝鮮の関係を切るんです。清の宗主権、つまり親分の権利を否定する。ということは朝鮮を一人にして孤立させる。それが言葉を変えれば「独立させる」ということになる。その十数年後の1910年に日本は朝鮮を併合していくわけです。
 このとき日本が中国から得た領土は、一つは遼東半島、ここは朝鮮半島北方にある小さな半島です。
 それからもう一つ、朝鮮での争いと全然関係ないところを日本は領有する。これが台湾です。ここから台湾は、太平洋戦争終了までの約60年間、日本の領土になります。そして中国から賠償金2億テールを得る。

 ただこの時、実は朝鮮をもう一つの国が狙っている。それがロシアです。この遼東半島というのは、朝鮮半島の北の付け根にある小さな半島です。こんなところがなぜ必要か。ここに旅順という最大の軍港があるからです。良い港が。ロシアはこの凍らない港が欲しいんです。それでロシアは日本に言いがかりをつけるんです。
 ロシアが、フランスとドイツを誘って・・・・・・これで三国です・・・・・・日本に内政干渉する。これを三国干渉といいます。独立国は自分のことを自分で決めていいんですね。他の国からとやかくいわれる筋合いはないのですが、「遼東半島を返せ、中国のものを奪ったらダメじゃないか」とロシアは言って、遼東半島を中国に返還させる。そういう内政干渉です。
 そして日本が返したところでどうするか。ロシアが自分のものにしてしまう。ロシアは遼東半島を領有します。日本は「このやろう」と思う。これが10年後の日露戦争の説明の半分です。
 こうやってロシア・フランス・ドイツで日本に三国干渉を行う。「遼東半島を返せ」ということです。そんなこと無視したらいい。しかし無視したらどうなるか。ロシアと戦うことになる。この時にはロシアにはとても勝てない。
 アジア諸国でヨーロッパに勝った国はまだないです。「あのチョンマゲ国家が、大国ロシアに勝てるものか」とみんな思っている。この10年後に日露戦争が始まってもみんなそう思っています。



【中国】
【中国の変法運動】 戦争に負けた国は悲惨なものです。日本が戦争で負けたら日本もそうなるはずですが、日本に負けた中国も、弱い国だとヨーロッパから目をつけられたら最後です。次から次に侵略される。  
 まずイギリスです。イギリスが領有した所は上海です。中国を潰しはしませんが中国は虫食い状態です。いま中国で最大の人口をもつ上海、それを中心にその内陸に支配地を伸ばしていく。これがイギリス領です。
 もう一つは香港です。香港は島です。香港の対岸の半島、これを九龍半島といいます。このあと香港と一体化します。ここもイギリス領になります。この時代は国が弱いとこうなります。

 ロシアはここです。ポイントはここに軍港がある。これがさっき言った遼東半島です。軍港が先端の旅順です。ロシアはこの凍らない港が欲しかった。だから日本に返還させたうえで、自分がもらった。

 もう一つがフランスです。フランスはベトナム中心に中国南部を取ります。ここはフランス領です。ちなみに約50年後の1940年、日本がここに軍事侵攻していくことになります。これが太平洋戦争でアメリカと戦うきっかけになっていきます。フランス領に進駐してフランスと戦うのではありません。アメリカと戦います。これも不思議なことです。

 こういうふうに中国は国があっても無きがごときもので、形だけです。ヨーロッパ勢がどんどんそこに進出していきます。
 日清戦争での日本の勝利は、こうやって西洋列強の東アジア支配を強めることになります。きっかけは朝鮮をめぐる日本と中国の対立でしたが、結果は西洋列強が中国に乗り込んでくることになってしまいます。
 このことは大きく見ると、ヨーロッパ流の「分割して統治せよ」がアジアで実現したことになります。ヨーロッパ、特に当時の覇権国イギリスから見ると、アジアは分裂していたほうが進出しやすい。敵は敵同士で戦わせたほうがいい。つまりイギリスが中国と直接戦うよりも、日本を中国と戦わせたほうがいい、ということです。日本の意図とは別に、日清戦争での日本の勝利によって、ヨーロッパ列強による中国進出が進んでいきます。このパターンはこのあとも現れます。

 日清戦争は1894年8月に始まりますが、その1ヶ月前の1894年7月には日英通商航海条約が調印され、イギリスは日本での治外法権を撤廃しています。しかしここにはイギリスの意図が隠されています。
 その50年前の1840年にイギリスはアヘン戦争を起こして、露骨に中国侵略を始めたわけですが、50年後の日清戦争ではいつの間にかその役割を日本が担っています。しかしそれはイギリスが日本の近代化を応援したいからではありません。イギリスが欲しいのはあくまで中国です。

 これは日本の近代史の問題でもあるのですが、それ以上にイギリスを中心とする世界史上の問題です。日本の近代史ではアメリカのペリーの来航ばかりが言われますが、実は日本はイギリスとの結びつきが大きいのです。アメリカはペリーのあとは来ません。来たのはイギリスです。
 それは明治維新前の1859年に長崎にやって来たイギリス人トーマス・グラバーから始まります。しかしこの話をすると、すぐ坂本龍馬と結びついて「坂本龍馬は偉かった」で終わってしまいます。そんな話ではないのです。そんな小さな話ではないのです。

 つまりこの日清戦争は、西洋列強にとって日本が中国に勝ったことが大事なのではなくて、中国が日本に負けたことが重要なのです。メインは中国です。
 西洋列強は自分たちの手を汚さず、日本を中国というアジアの国同士を戦わせて、中国を弱体化することに成功しました。そして中国が弱体化したあとは、中国を植民地化していくのです。
 日本をそういうふうに仕向けたのはイギリスです。イギリスは日清戦争の始まる1ヶ月前に、日英通商航海条約を結び、日本に対して治外法権を撤廃します。
 日本はイギリスをバックにつけて日清戦争を戦ったといわれますが、世界史的に見ると逆にイギリスが日本への治外法権を撤廃する見返りとして、日本を中国と戦わせたのです。
 日本が欲しかったのは朝鮮です。欲しかったというよりも、朝鮮がロシアに領有されることを恐れたのです。ところが戦争が終わると、ロシアが三国干渉を行って遼東半島を領有した。これに続いて、フランス、ドイツも中国に進出します。

 香港中心に中国に進出していたイギリスは焦ります。イギリスは「敵の中心はロシアだ。ロシアの中国進出を食い止めなければ」と、そういう思いに駆られます。
 この時ロシアはドイツと組んでいます。イギリスにとっては、ロシアもドイツも恐い敵です。イギリスは「敵同士を戦わせる」作戦に出ます。これはイギリスの得意技です。このあと、やはりロシアとドイツが対立し、ロシアがイギリス側について、ドイツを孤立させます。そしてイギリスと孤立したドイツが対立したところで、第一次世界大戦が起こります。そこまであと20年です。どういうことが起こるか、よく意味を考えながら見ていてください。
 結論だけいうと、第一次世界大戦によってロシア帝国もドイツ帝国も崩壊しました。 

 ところで中国も「これじゃいかん」といって、国を変えようとします。この運動を変法運動といいます。1898年のことです。日清戦争に敗れた4年後から改革を進めていこうとする。その中心人物が康有為です。皇帝を説得し、光緒帝という皇帝を担いで改革を目指しました。しかしそれに反対する人がいる。
 それがもと皇帝の第二婦人の西太后です。女傑ですね。自分の敵は情け容赦なく、むごい殺し方をしていく。しかし政治力がある。皇帝であろうと自分の意見と違えば、皇帝を辞めさせたりする。それで康有為を失脚させて、変法運動をやめさせる。
 だから同じ年に、変法運動はすぐストップさせられます。これを戊戌の政変といいます。戊戌(ぼじゅつ)は年の数え方です。皇帝の光緒帝を幽閉して牢屋に閉じ込め、康有為は命をねらわれて日本に亡命する。国を追われる。中国はなかなか改革ができない状態が続きます。



【列強の中国進出】 その一方でヨーロッパは、さっきも言った通り、中国が狙い目です。
 ロシアを中心に日本に三国干渉をし、「そんな弱い者いじめをしたらダメじゃないか、中国から奪ったらダメじゃないか」と言って、遼東半島を返還させたあと、ちゃっかりとロシアがそこをもらう。
 この時、日本に干渉した三国は、ロシア・フランス・ドイツです。第一次世界大戦に結びつく国際関係がこのあと結ばれていきます。ロシア・フランス・ドイツがこの時には仲間ですけど、このあとはイギリスが入ってきて、ロシアもフランスもイギリス側につきます。

 簡単にいうと、第一次世界大戦はドイツだけが仲間から外されるんです。そしてみんなでドイツを潰す。これが第一次世界大戦です。その前に日本が日露戦争で一枚噛むことになります。
 このドイツが何を恐れているか。ロシアの南下です。ヨーロッパの南東のオスマン帝国方面、つまりロシアがバルカン半島に南下することを恐れています。まず「南に行くな」と言う。
 するとロシアは今度は東に行こうとする。そこでロシアは、アジアの東の中国の遼東半島、旅順という軍港を手に入れた。
 次にやることは、そこに物資を運ぶための鉄道をつくることです。これをシベリア鉄道といいます。この何千キロもの鉄道、世界最長の鉄道を引いていく。そのことにドイツが「東だったらいい。行け行け」と支持する。
 しかし「ロシアにそんないい軍港を与えたらダメだ、そこに行くためのシベリア鉄道はダメだ」というのがイギリスです。そして同じように「ロシアに朝鮮に来られたらダメだ」というのが日本です。だからこのあと日本とイギリスが結びつく。
  フランスも「ロシアが中国に行くのだったらオレも行く」という。アメリカを含めて中国進出がどんどん激化していく。

 その結果、さっき言った地図のようになります。「中国は弱い、簡単に取れるぞ」と。1898年、日清戦争の4年後にはドイツは膠州湾を取る。膠州湾は山東半島の南です。それからロシアも朝鮮北方に乗り出す。早いもの勝ちです。1年の間に一気に変わる。彼らの動きはアッという間です。
 日本が取ろうとしたのは、旅順それから大連。遼東半島にある二つの都市を取る。旅順は軍港です。しかしすぐ三国干渉で返還します。
 それからイギリスもロシアに対抗して素早く動く。広い地域ですが、ポイントは九竜半島です。ここは香港島の対岸です。ここはイギリスが取ります。
 そのずっと南はフランスが取った。このことはすでに説明しました。

※ 1896年、香港上海銀行が中国政府に3200万ポンドの資金を提供する。

※ 1898年、イギリス外務省の支援のもと、中国の中英公司に香港上海銀行ジャーデン・マセソン商会ロスチャイルド商会、ベアリング商会が関与する。


  中国はこうやって西洋列強の虫食い状態です。国家は看板のみ、形だけしか残っていません。これに出遅れたのがアメリカです。アメリカはペリーが日本に来てから・・・・・・本当は日本なんか目じゃなかった・・・・・・中国に行きたかったんです。日本はそのための足がかりに過ぎなかった。しかしアメリカは南北戦争で出遅れた。
 するとアメリカは中国に対して1899年に門戸開放宣言を出す。つまり「みんなに窓を開きましょう」と言う。「自分だけで独占したらダメじゃないか」と言う。なぜか。出遅れたからです。自分も欲しいということです。アメリカはその間に南北戦争があって、日本どころじゃなくなり中国進出に出遅れたのです。
 この門戸開放宣言は、大統領に次ぐナンバー2のポストの国務長官ジョン=ヘイが発表した。本当はアメリカも中国が欲しいんです。

 その頃アメリカは同時にスペインと戦っています。南北アメリカ大陸のメキシコから南はほぼ全部スペイン領です。覚えていますか、コロンブスはスペインの資金でアメリカ大陸を発見したのです。そのメキシコの一部、ニューメキシコ州をアメリカは併合しようとする。そういう戦いをやっている。これが1898米西戦争です。西はスペインのことです。米は言うまでもないでしょう。
 
▼列強の中国進出
 

 話を中国に戻します。日本から見ると、やっと中国から手に入れた遼東半島をロシアが「返せ」と言ったから返したのに、ロシアは自分の懐に入れた。「これズルいじゃないか」と思う。
 だから日露対立が激化して深刻化していく。そして10年後には日露戦争になる。これはまたあとでいいます。
 「日本はこのときなぜノーと言えなかったのか」と疑問に思うなら、それは弱かったからです。国を強くするためにはまず産業をヨーロッパなみに上げないといけない。だから「もっと上げよう、上げよう」とした。もう少し時間がかかるけど、一方では近代化に成功していく。

 それがうまくいかない国がアジアではほとんどです。中国もうまくいかない。だから中国も焦って「ではどこがうまくいってるか」と見てみると、この時点では日本だけなんです。
 だからよく東京に中国人が勉強しに来る。遣唐使の時代から見ると全く逆です。昔は日本人が中国に学びにいっていた。
 この時代から中国人が東京に学びに来る。または東南アジアからの留学生が東京に学びに来る。日本はアジアから注目されていく。「あの中国に勝ったぞ」と、10年後には「あのロシアに勝ったぞ」と、みんなびっくり仰天なんです。日本を応援していたイギリス自体が驚く。

 イギリスはすごい国で、このあと日本と日英同盟を結んで日本とロシアを戦わせておいて、その一方で賭けをする。どちらが勝つかと。1対9だったという。日本が1です。勝つなんて思ってないんです。
 それをなぜ戦わせるのか。ロシアを消耗させるのが目的です。変な意味ですごい国です。この時代のナンバーワン国家はアメリカではない。このイギリスです。当時は大英帝国です。




新「授業でいえない世界史」 38話の2 19C後半 第二次産業革命

2019-08-25 09:26:00 | 新世界史13 19C後半
【第二次産業革命】 1868年が日本の明治維新です。ではその1860年代は、イギリス以外に産業革命が全く起こらなかったのか。100年前からイギリスは産業革命、機械化が進んでいる。それを急速に追い上げてくるのが、アメリカです。イギリスから独立したアメリカです。その次の3番手がドイツです。ちょっと遅れて日本です。日本は早いほうです。ただイギリス・アメリカに比べると遅れてる。

 1861年にアメリカでは南北戦争が起こります。ちょうどその1860年代になると、今まで軽工業中心に発達したのが、重化学工業に変わってくる。軽工業から重工業への変化は世界中のルールですね。その次は第三次産業、つまり情報とか、通信とか、テレビ・ラジオ、今はパソコン・スマホのソフト面です。そういう情報産業に変わっていきます。

 この重工業への変化とは何か。鉄、武器です。これを第二次産業革命という。しかしこれにイギリスは出遅れ始める。成功するのはアメリカです。それとドイツです。イギリスの焦りはここにある。
 アメリカではこのころ大財閥ロックフェラーが出てくる。これは今でも強い企業です。世界最大の石油会社エクソン・モービルは、実はこのロックフェラーです。今でも財閥を形成しています。最初は石油です、オイルです。ロックフェラーはこれをまず握る。石油は今でも最大のエネルギー源です。
 第一次産業革命は1700年代の後半です。それから100年経って1860年代になると、産業革命が別のバージョンに入っていく。これを第二次産業革命といいます。

 これにナンバーワン国家イギリスが出遅れはじめるんです。イギリスは焦るんです。結論いうと、焦って何を狙うか。これが植民地なんです。焦った結果、「植民地を早く取ろう」となっていく。

 1720年の南海泡沫事件が災いし、イギリスでは株式会社の設立が法律で厳しく制限されていました。・・・・・・1860年代から70年代になって、やっとイギリスで株式会社の設立ブームが起こります。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P188)

 イギリスは、1880年、工業生産のシェアでアメリカに1位の座を奪われ、20世紀に入るとドイツにも抜かれてきます。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P220)



 その第二次産業革命の中身というのは重化学工業です。それまでは綿だった。たかが綿、されど綿です。
 もう一つ言うと、お茶、中国茶です。ぼろ茶だったから、それに何を入れようとするか。そこが日本人にない発想です。お茶に砂糖入れて飲もうとする。お茶に砂糖を入れて、これが紅茶になる。その砂糖はアメリカの黒人奴隷にサトウキビを強制労働をさせてそこから取ったものです。そういうのが第一次産業革命だった。

 それが第二次産業革命になると、武器・弾薬です。まずは鉄です。造船、鉄道、機関車、大砲、そういうものが第二次産業革命です。
 ここで急速に成長していくのがアメリカです。南北戦争後の1870年代から、もともとイギリスの植民地であったアメリカが急速に伸びていく。そして19世紀の終わりにはイギリスを追い越すまでになる。でもその資金源はイギリスの金融資本家たちです。
 アメリカの中心企業がロックフェラーです。世界最大の石油会社になります。石油、ガソリンなど、ロックフェラーは石油です。歴史的にはスタンダード石油を作るんですが、あんまり巨大独占企業になったため分割させられて、今はエクソン・モービルという、これも世界最大の石油会社になっている。

※ 1875年ロスチャイルド財閥は合衆国での最重要戦略パートナーであるクーン・ローブ商会ジェイコブ・シフをクリーブランド(アメリカ合衆国北東部のオハイオ州の都市)に派遣し、ロックフェラーの拡張計画を指導した。当時、ロスチャイルド財閥はモルガン銀行とクーン・ローブ商会を通じて、合衆国鉄道の95%を傘下に収めていたため、シフはサウス・インプルーブメント社というダミー会社を使い、非常に低価格でスタンダードオイル社の輸送を請け負った。・・・ロックフェラーは「石油王」となった。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P101)


 その他、金融業ではモルガン財閥。鉄鋼業はカーネギー、これはUSスティールといって今でもアメリカにある製鉄会社です。今のトランプ大統領はこれが大好きです。トランプが保護しようとしているのは、こういうアメリカの産業です。
 また鉄道事業はハリマン。飛行機はまだ飛んでいません。だから距離移動で最も早いのは鉄道です。自動車はあと20~30年経たないとでてこない。

※ ジェイコブ・シフを通じてロスチャイルドは、ロックフェラー(石油)、ハリマン(鉄道)、カーネギー(鉄鋼)に資金を提供して、これらを巨大財閥に育成した。(ロスチャイルドの密謀 太田龍 成甲書房 P380)



【大不況と金本位制】 南北戦争後の1873年になるとまた、アメリカで世界恐慌が起こる。この恐慌の原因は物がつくれなくなるというよりも、通貨制度がけっこう問題なんです。通貨制度をちょっといじって、「このくらいはよかろう」と思ったのが失敗する。「わざと」という話もありますが。すると経済全体がガクッと落ちる。
 銀貨をやめようとして・・・・・・ここらへんは教科書外ですけど・・・・・・通貨量が激減して、それで恐慌が始まった。金本位制にしたかったのです。「通貨の秘密」はけっこう恐ろしい。

 1870年代、世界の通貨は金銀複本位制(金貨と銀貨の両方を本位貨幣とし、固定化した金銀比価を保持する通貨制度)から金本位制に変わり、かつ世界の備蓄通貨であるポンドとリンクしていた。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン  P112)

 1873年、アメリカは「1873年の悪法」と呼ばれる「貨幣鋳造法」を成立させた。この法案は銀貨を流通市場から排除し、金貨を唯一の流通貨幣にするものであり、すでに陥っていた貨幣の流通不足にさらに追い打ちをかけた。 年々深鉱され増えていく銀鉱に比べ、金鉱はその探査も金の生産量も少なかったため、彼ら国際銀行は金鉱の採掘を完全に支配することができた。
 1871年から、ドイツ、イギリス、オランダ、オーストリア、スカンジナビアと相次いで銀貨廃止させた。各国の貨幣流通量は大幅に減少し、後に20年も続くヨーロッパ大不況(1873年~96年)へとのめり込んでいった。
 アメリカでは「通貨緊縮法」(66年)と「貨幣鋳造法」(73年)が経済を衰退させた。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P86)

 1873年から96年にかけて、オーストリアのウィーン証券取引所の株の暴落に端を発する金融危機がヨーロッパからアメリカに波及し、「大不況」となりました。・・・・・・大不況は22年もの間続き、物価が30%以上も下落します。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P190)

 1873年から1877年にかけて、ロスチャイルド・ロンドン銀行はウォールストリートの銀行家たちと共に、2億6700ドルのアメリカ国債を引き受けていた。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P112)


 1873年に起こった世界的恐慌は1890年代まで続く世界的な低成長期(大不況)に繋がり、イギリスにも深刻な打撃を与えたが、そのため植民地の意義が再認識され、帝国拡大路線も支持されるようになった。(詳説 世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P337)

※ (1870年代の金本位制) ドイツは1871年、フランスは1878年、ロシアは1897年、イタリアは1881年にそれぞれ金本位制を採用した。ロスチャイルド家はこの流れのなかで決定的な役割を果たした。・・・・・・彼らは、彼らの主要業務である公債取引で、各国の通貨を自由に兌換できるようにする必要があり、事業展開のためにも各国に金本位制を採用させる必要があった。そして、ロスチャイルド家が黄金市場を独占していることにより、間接的に各国の中央銀行に対する支配力が生まれた。ロスチャイルド家が19世紀の後半に全力をかけて各国に金本位制を促したのも、こういう意図があった。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P112)

※ 第三の合衆国銀行(中央銀行)設立への工作は入念に行われました。・・・・・・第1は、アメリカをロンドンの金本位制に縛り付けようとの動きです。1875年に、正貨回復法が成立しますが、この法律はそれまでアメリカで正貨として金(ゴールド)と共に通用していた銀を廃止し、金のみを正貨とすることを目指したものです。ニューヨークの銀行家たちはロンドンの銀行家たちと共謀して、保有していた財務省証券を売却して支払いに金(ゴールド)を要求して財務省の固有基金をショートさせて、1883年金融パニックを発生させます。銀行が貸し出しを縮小し、また融資を引揚げたため、アメリカ史上最悪の経済恐慌が生じます。そして、イギリス植民地のインドがコイン鋳造用の銀の受け取りを拒否したため、銀はついに正貨の地位を失います
 そしてついに、1900年金本位制法が成立し、ここにリンカーンの法定通貨が金を保有するイギリスの銀行家たちのコントロール下に置かれます。(国難の正体・新装版 馬渕睦夫 ビジネス社 2014.11月 P108)


 最大の恐慌は約50年後の1929年世界恐慌ですが、こういうふうに恐慌は何回も起こる。20年に一度ぐらい。これは今もそうです。最近起こったのは2008年のリーマン・ショックだった。アメリカ第3位のリーマンブラザースという証券会社が倒産した。倒産したら潰れて終わりかというと、アメリカはそのぶんの貸した金を全部ヨーロッパに転売していたんです。そのお金が回収できなくなります。それでヨーロッパが苦しみ世界全体が不況になった。

 この時代は工業生産力が伸びた割には、その富を一部の金持ちたちが一人占めしてしまって、貧しい人たちにお金は行き渡りません。だからモノをつくっても、購買力がなくて売れないのです。モノを作ればいいという時代は終わったんです。作ったら、売らないと儲からないけど、しかし売れない。買う人がいないんです。
 そのように物が余ると・・・・・・これは今の社会といっしょで・・・・・・物が余ると、夕方6時過ぎのスーパーの食料品売り場は、売れ残りを「300円の弁当を270円で売ります」となる。値段が下がるんです。物価が下落するんです。

 イギリスの貿易収支は一貫して赤字で、19世紀後半にはその額は増大した。にもかかわらず、対外収支全体が黒字であったのは、巨額の貿易外収入があったからである。19世紀前半ではおもにイギリスの船舶による海運業や保険サービスなどの収入が、19世紀後半では海外投資からの利子・配当収入などが、貿易収支の赤字をカバーした。ロンドンの金融街シティは国際金融の中心で、イギリスは「世界の銀行」として世界経済の司令塔の地位にあり、さらに世界最大の植民地帝国でもあった。(詳説 世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P335)

 当時のイギリスの投資家は、1856年から1913年の57年間に、海外投資額に対してその130%の利子・配当を受け取っていた計算になる。・・・・・・イギリスの債券投資は、対ヨーロッパに始まり、国際的な工業化の進展にともない、植民地インドのプランテーション、そして新大陸アメリカへと展開した。これらの地域では、工業化にともなう鉄道等のインフラストラクチャー整備、さらには農業開発などで、イギリスにとって投資機会が大きく、ピーク時の1913年にはアメリカ、カナダ、アルゼンチンの三国向けで、全投資額の4割近くを占めるに至っている。(マネー敗戦 吉川元忠 文春新書 P17)

 (19世紀後半以降)当時のイギリスにおいて、低金利の貯蓄や国内投資を避け、高金利の新興国・植民地への対外投資へと向かう動きが活発でした。・・・特にイギリスは植民地領で積極的に起債をして、本国の投資マネーを植民地に呼び込みました。カナダ債とインド債が人気でした。・・・イギリスは自国の産業輸出によって稼ぐ国ではなく、対外資本投資で稼ぐ金利生活者の国家となります。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P226)

 産業革命によって「世界の工場」とよばれるほど製造工業がさかんになったイギリスは、まもなく工業製品の輸出から、外国の政府や企業への融資(資本輸出)の収益にたよるようになった。このため、ロスチャイルドなどの銀行や保険会社が集中するロンドンのシティが、世界経済の中心になった。(高校教科書 新詳 世界史B 帝国書院 P235)




【植民地】 それでも売れないと、強制的にでも売る市場を求めていく。これが植民地です。植民地獲得は早い者勝ちです。狙われたのは一番弱いアフリカです。アフリカはほとんど無法地帯となり、力のみで奪われていく。早い者勝ちです。だから植民地を巡る戦いになっていく。

 世界規模の植民地体制と第2次産業革命下の大不況は、ヨーロッパ諸国の植民地獲得競争を激化させました。植民地がなければ、経済競争に勝てないと欧米諸国が血眼になったのです。そこで、不幸にも草刈場になってしまったのがアフリカ大陸でした。日本の面積の60倍のアフリカ大陸は、1880年代から20年間の間にヨーロッパ列強に分割され尽くしました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P191)

 イギリス政府は1867年のカナダ連邦成立に見られるように、現地の白人入植者の自治政府に管理を委ねて本国の負担を軽減させ、また直接支配より経済的浸透・市場制覇などの間接支配による「非公式帝国主義」で対応した。なお、自治領は20世紀にはいってオーストラリア(1901)、ニュージーランド(1907)、南アフリカ連邦(1910)にも認められた。(詳説 世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P337)



 こういうことが1890年代から本格化します。これが一体何につながるか。第一次世界大戦です。そこで何百万人と人が死ぬ。果てしない殺し合いが始まります。
 こういう時代を帝国主義といいます。自分の国の外に領地を広げ、他の民族を支配していく。これを率先してやったのがイギリスです。中心はイギリスです。こういうのを帝国という。「そんな悪いことしたらダメじゃないか」とイギリス国民は思ったか。そうではなくて、逆に「これで景気が良くなる」と喜んだ。イギリス人は「帝国主義、いいんじゃない」という。売れて儲かるならそれがいいわけです。



【技術の発達】 どんどん技術も発展して、今の電話とか、電信機はモールス。無線電信は言葉ではなくて、ツートンツートンとやる、そういう電信機も生まれる。それから電話、人の声が有線で伝わる。まだ無線電話はない。なんで電話のベルと言うか。発明した人がベルです。1876年です。電信機の発明は1830年代ぐらいで、音信のツートンツートンが早い。私は無線になると電波のことはよくわからないけど、そんなことができるようになる。これがマルコーニです。1895年です。日清戦争頃です。
 それから音を貯める。この音を貯めるというのが今のレコードとかCDのもとですが、発明されたときには「なぜ音を貯めなければならないのか、そんなもの何の役に立ちのか、バカじゃないか」という話があって、利用価値がわからなかった。しかしなんでも特許をとっておくと、世の中の発展次第でどうなるか分からない。「何の役に立つのか、音を貯めて何するのか、手紙で書けばいいじゃないか」、でもこれが蓄音機になる。今では欠かせないものです。
 それから白熱電球です。明るいからすぐ売れたみたいですけど。これはエディソンです。アメリカ人です。小学校しか出てない。このエディソンの企業というのが、アメリカ最大の電機メーカーになる。アメリカもこうやって産業革命がどんどん進んでいく。

 あといろんな学問で世界観を変えていくのは、「人間は万物の霊長で神に近い」とか思われていたけど「猿から進化した」というダーウィンの進化論。それを書いた本が「種の起源」。人間は猿であった。神じゃない。子供は「人間が動物だ」と思っていなかったりしますが、人間は動物です。

 さらに鉄が空を飛ぶ。これも1903年です。ライト兄弟の飛行機です。
 それから自動車。それまで自動車は金持ちの道楽だったのが、庶民にも普及し始めるのが1920年代のアメリカです。これをやったのがフォードです。庶民が買える値段で発売する。T型フォードという。Tを逆にして、こういう車になる。金持ちの道楽ではなくなる。



【社会の変化】 それから、こういう無線とか電話とかの通信技術が発達すると、情報産業やマスメディアというものも同時に発達していって、これが現代社会の隠れた権力になる。「政治・経済」でも出てきますが、これが社会に与える影響は大きい。テレビ・ラジオ・新聞、今はネットなど。第四の権力です。
 鉄も飛ぶし、音も飛ぶ。ラジオです。何もないところから、人間がはいってないのに箱の機械から人の声が出る。そしてニュースがとどく。しかも即時で。

※ 近代的な経済情報の通信社の先駆けは、ユダヤ系フランス人のシャルル・ルイ・アヴァスでした。彼は七月革命後の1835年に、パリアヴァス通信社を創設します。..アヴァス通信社はそれぞれの都市から送られてくる情報を翻訳するために3人の事務員を採用しました。・・・・・・
アヴァス社から出てイギリスの世界的通信社を育てたのが、ドイツのカッセルのユダヤ人ラビの息子、パウエル・ユリウス・ロイターでした。・・・・・・1848年、三月革命家のベルリンでロイターは出版業を始めますが、その後自由を求めてパリに移住。・・・・・・翌年(1849年)にはイギリスの株式市場の情報、商品価格を配信するロイター通信社ロンドンで創設しました。・・・・・・
1859年、ロイターが中心になってフランスのアヴァス社、ドイツのヴォルフ社との間で通信市場の分割協定が結ばれ、3社が独占的に取材・配信できる地域を、アヴァス社がフランスとイタリアとスペイン、ヴォルフ社がドイツとロシアと東欧と北欧、ロイター社イギリスヨーロッパ以外の地域というように分割しました。当時はアメリカ経済が急成長し、アジア・アフリカの植民地化が急速に進んだ時代ですから、ロイターが圧倒的な優位に立ったことはいうまでもありません。・・・・・・
ちなみに現在、ロイターと肩を並べるニューヨークの経済通信社ブルームバーグユダヤ人による創業です。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P179)


 こういう技術の変化と同時に、政治的には植民地合戦が起こります。それを帝国主義といいます。これはあとで詳しく言いますけど。土地を求めて、植民地を求めて、強い国同士がどんどん競争していく。これが第一次世界大戦の原因の大半です。世界を巻き込む大戦争になっていく。

 こういう戦争の時代と同時に民主主義が発展します。民主主義は戦争をしない体制だと思っている人いませんか。それはウソです。ここ100年の歴史から見ると、民主主義が発展するに従って戦争が拡大した。
 人類が一番悲惨な戦争をしたのは、この20世紀です。この時代が一番悲惨な戦争をやって、一番多くの人が死んだ。それは同時に民主主義が拡大していった時代です。その民主主義の母体となっているのが選挙権の拡大です。ここらへんは、まだ詳しく解明されてないけど、ちょっと怖いところです。戦争と民主主義、それとマスメディアの発達、ここらへんは何か関係がありそうです。

 この民主主義にも、当初は何の政治的知識もない人に選挙権を与えて良いのかという話があって、「ちゃんと政治知識を持った人が、政治を行うべきでないのか」という意見もある一定の支持を集めていました。
 選挙権は拡大していきます。それと同時に独裁政治も20世紀には誕生します。代表格としてよく言われるのがドイツのヒトラーです。これはあと50年ぐらい先です。政党としてはドイツのナチス党です。ファシスト党はイタリアです。
 これで終わります。ではまた。



新「授業でいえない世界史」 39話の1 19C後半 帝国主義と金融資本

2019-08-25 09:25:06 | 新世界史13 19C後半
【帝国主義】 では帝国主義です。1880年代になると帝国主義の時代に入る。一言でいうと植民地争奪合戦の時代です。なぜ植民地が必要なのか。物がかなり大量につくれるようになった19世紀の後半、1870年代ころからは、木綿などの軽工業ではなくて、鉄とか大砲とか軍艦とか第二次産業革命が起こっていく。こういうのを重工業といいます。
 これはすぐ軍事力に結びつく産業です。大砲がつくれる、戦車がつくれる、軍艦がつくれる。その一方で、こういう会社を経営する巨大企業が現れるようになります。
 自由競争は、強い人間が弱い人間をつぶしていく過程でもあります。または大きい会社が小さい会社を合併していく過程でもある。そうやって成長し、市場の半分以上を占めるような大企業を独占資本といいます。 
 また、そのためのお金を持ってるところは銀行です。その銀行にあるお金を企業が借りて、規模を大きくしていく。こうやって金融と企業が結びついていきます。

 そして次には、これが国家が結びついていく。結びつくとはどういうことか。
 企業が仲が良い人を資金援助して選挙応援をし、国会議員に通せばいいんです。これで自分たちの仲間が国会議員の半分以上を占めれば、議会を支配できる。
 企業は儲けるために、作ったものを売らないといけない。売れるところを市場といいます。景気が良い時には国内でも売れますが、景気が悪くなると国内では売れなくなって国外で売ることになる。その市場を独占するために植民地という形をとる。植民地にすることによって、他国の商品がその植民地に入って来れなくする。こういうことを国家が後押ししていくようになります。
 モノが売れないと植民地をもつ。そこにはルールがなくて早い者勝ちです。西から東からどんどん早い者勝ちで植民地にしていくと、どこかでゴッツンコする。そしたら戦争になる。こういう争いが起こるのが帝国主義の時代です。このぶんどり合戦の結果、第一次大戦が起こるといっても過言ではない。

 そういう中で、新興国のアメリカが急速にのし上がっていく。アメリカナンバーワンの大富豪といえば、今でも健在な大財閥のロックフェラー一族です。ニューヨークのウォール街にロックフェラーセンターというビルもある。石油で儲けた一族です。今は巨大財閥化しています。母体はスタンダード石油です。

※ 1890年ロックフェラーはなんとアメリカ石油市場の90%を独占する。・・・・・・実は、ロックフェラーによる「スタンダード・オイル」は、1911年、アメリカの独占禁止法「シャーマン反トラスト法」で34の会社に解体された。だが、この法律はザル法で、34にバラバラにされたというより、34に分社化されたに過ぎない。(勃発!第3次世界大戦 B・フルフォード KKベストセラーズ 2011.4月 P154)


 ちょっと前に言いましたが、あまり巨大すぎたため分割されて、今はエクソン・モービルという石油会社になっていますが、それでも巨大石油会社です。そのロックフェラーが活躍しだして、アメリカ経済を支配し始めていくのがこの時代です。アメリカがのし上がっていくと、今までナンバーワンだったイギリスは、それに押されていく。
 イギリスの工業生産の割合の図を見ると、30%、20%、19%、15%と減っている。代わりにアメリカは、23%、28%、30%、35%と増えていく。1906年にはイギリスの倍以上になる。 
 
▼工業生産の各国割合
 
 
▼工業生産と植民地
 

 ではこの間、イギリスは植民地を減らしていったのか。1900年頃、工業生産力はすでに圧倒的にアメリカです。しかし植民地支配で圧倒的なのはどこか。アメリカではなくイギリスです。経済が衰えていけばいくほど、イギリスは植民地を獲得していく。
  これよく逆にとらえる人がいます。イギリスは経済を大きくしていったから、それに比例して植民地を拡大していったと。そうではない。逆です。イギリスは経済が縮小していくにつれて、それをカバーするために植民地を広げていったのです。では植民地にされる側はどうなるのか。そんなことはどうでもいいことだったのです。恐いですね、こんな社会は。

 イギリスは景気が良いなかで植民地を一人占めしていったんじゃない。この時代は景気が悪いんですよ。1873年世界恐慌が起こる。この原因は前にもいったけど、モノの作りすぎです。確かに作る能力は大きくなった。しかしお金を一部の人間が独占しているから、買う人がいない。だから作っても売れない。そうするとモノの値段は落ちて、儲からなくなる。だからその余ったモノを売るための場所を求める。これが市場です。そしてこれを国家が後押しして植民地にする。

※ 19世紀末・・・・・・イングランド銀行が発行を管理するポンド紙幣が、イギリス以外の各地でそれまで流通していた銀貨に換わり、世界経済の「血液」になります。・・・・・・19世紀末のイギリスは、利子や配当収入に依存する「世界の銀行」に転換していきます。もともとイギリス経済は貴族やジェントリーなどによる金融、商業に依存しており、「物づくりの国」とは言えなかったのですが、一挙に宮廷ユダヤ人をパートナーにする金融国家に転身したのです。その結果、イギリスでは新興国投資が盛んになり、アメリカ、オーストラリア、カナダ、インド、アルゼンチンなどに向けての証券投資が急増しました。・・・・・・イギリス経済は、世界各地への投資の利子・配当金の収入と、アジアのインド・東アジア諸国・オスマン帝国との貿易黒字が大きく、それによりヨーロッパやアメリカでの巨額の貿易赤字が補われて収支の均衡が保たれました。そうしたことから大量のポンド紙幣の発行が必要になり、ポンド紙幣の価値を担保するに足る「」がイングランド銀行に備蓄されているように見せることが必要になりました。その際に、宮廷ユダヤ人の金融技術が生かされたのです。・・・・・・
ポンド紙幣の素材は安価な紙ですから、ポンドの発行自体がべらぼうな発行益をイングランド銀行にもたらしました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P192)

※ 19世紀後半のイギリス経済は、大西洋貿易で年間1億2000万ポンドの赤字を出していましたが、インドの植民地支配と中国貿易(アジアの三角貿易)で得た厖大な黒字によりそれを補いました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P207)

※ フランスのナポレオン三世は・・・・・・1867年、パリにヨーロッパ主要国の代表を集めて世界初の国際通貨会議を開催。銀貨の復権を目指しました。・・・・・・しかし、イギリスの圧倒的な経済力がフランスの提案を葬り去りました。・・・・・・1871年、ドイツ帝国が金貨との兌換に裏付けされた紙幣マルクの発行を宣言したのに続いて、アメリカ(73年)も、日本(97年)も金本位制に移行していきます。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P194)

※ アメリカに銀貨経済圏を作り上げる構想は立ち消え、アメリカでは経済の混乱が続きました。中西部の農業州を中心にして「金本位制は、東部と外国資本が結託した陰謀」というウォール街イギリスユダヤ資本の経済支配に反対する声が根強く、1896年の大統領選挙では、73年に採用した金本位制をどうするかが改めて議論の中心になりました。・・・・・・しかし選挙では僅差で共和党が勝利し、アメリカでは金本位制が存続されました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P195)


 1800年代の後半で景気がよかったのはイギリスではなくてアメリカです。さっき言ったロックフェラー、銀行界ではモルガン、鉄ではカーネギー、鉄道ではハリマン、こういう人たちがアメリカの経済を牛耳るようになります。そしてどんどん事業を拡大する。

 もう一つ、なぜアメリカはそんなに急速に成長できたのか。この資金源はどこか。どうもイギリスのロスチャイルド家、それとの関係が見え隠れします。ロスチャイルドとは、あのスエズ運河買収の資金をイギリスにポンと貸した一族です。そのことは教科書にも出ています。
 ロスチャイルドは、子分に「おまえアメリカに行って商売してこい」と言って、名前を変えた支店を出させている。そこらへんと結びつく。前にも言いましたが、アメリカの南北戦争が終わった1865年に、ロスチャイルドは、同じ家に住んでいたジェイコブ・シフを渡米させて、クーン・ローブ商会を設立させている。そこを通じてアメリカへの資金提供を行っています。

 イギリスとしては、今までは工業生産力が強かったから自由貿易でよかったのですが、アメリカが追い越されると、イギリスは自由貿易から保護貿易に180度方向転換する。今のトランプのアメリカが自由貿易から保護貿易に変わろうとしていることとは、向きが違うだけで同じことです。
 アメリカがトランプ大統領に変わってから、何が変わろうとしているか。中国との貿易交渉、とくに関税引き上げ交渉で、いま非常にもめています。この時代と非常に似ています。

 アメリカの工業生産力に負けたイギリスは物作りはあきらめて、金貸し商売をやる。「世界の銀行」となっていく。これも今のアメリカがたどっている道と非常に似ています。今のアメリカは1980年代から金貸し商売に力を入れだしましたが、うまく行っていたのは2000年代初頭までです。これが失敗して世界中が一気に不況になったのが、2008年の「リーマン・ショック」です。日本でもその年はほとんど就職の採用がなかった。
 そういう恐慌の発生と同時に、「資本主義はやっぱりまずいんじゃないか」という話もあって、「政治・経済」でも言ったように、ここから社会主義思想が出てくる。
 


【帝国主義と社会主義】 イギリスの産業はもう落ち目になっています。アメリカに抜かれている。それと反比例してイギリスは植民地獲得に乗り出して、世界で一番大きい植民地帝国になっている。こういう時代を帝国主義といいます。
 この帝国主義というのは、モノを作って売りたい社長・・・・・・これを資本家という・・・・・・この資本家の資金と国家の動きが結びついている。本当は、資本家のお金によって国が動かされている。植民地をつくれと言っているのは資本家なんです。

 この資本家と対立するのが、社会主義という考え方です。資本主義は一部の人間に富が集まるから良くないという考えです。帝国主義が盛んになるに従って、この社会主義運動も激しくなっていきます。
  その代表的な政党がドイツに生まれたドイツ社会主義労働者党です。これは今は名前を変えて社会民主党となって、今でも非常にドイツで勢力を持ってる政党です。
 もう一つは、今でもイギリスの二大政党制の一つである労働党、これも社会主義政党です。イギリスでは自由党に代わって労働党が強くなっていく。今のイギリスはこの労働党と保守党の二大政党制です。この1890年頃にこういう労働党という社会主義政党が現れます。

 ではイギリスの多くの国民はそのことをどう思っていたか。「アフリカとかアジアの人たちを苦しめたらダメだ」と思っていたかというと、イギリスが植民地を増やせば景気が良くなるから、「やれ、やれ、やってくれ、オレたちの生活がよくなるからやってくれ」と言う。踏み台にされたアジアの人間はどうなるか、そういうことはあまり考えない。国民は帝国主義には反対していない。民主主義国家では、どんな政策も国民が賛成しないとできない。イギリス国民は「植民地をもっと取ってくれ」と思っている。



【社会主義政党】 資本主義に対する社会主義の広まりの中心になったのがドイツ社会主義労働者党です。これが1890年に社会民主党という政党に名前を変える。この時のドイツ帝国の中心人物はこの時までビスマルクなんですが、彼は資本主義側だから、この社会主義を弾圧していく。
 しかし社会主義思想側は「こんな弾圧に負けるものか、俺たちは世界革命をやるんだ」という社会主義組織を作っていく。それが第2インターナショナルです。インターというのは「相互の」という意味、ナショナルは「国」です。国家同士を結びつけて、全世界で社会主義革命をやるんだということです。世界革命などというと漫画の世界みたいですけど、これを大まじめでやる。これは世界革命組織です。一見失敗したようにみえますけど、この時代には大まじめです。この動きは、まだ続いているという話もあります。



【国際組織】 社会主義が世界組織を作るんだったら、「オレたちも世界組織をつくろう」という動きが出てくる。国際赤十字社です。これは病人を助けようという慈善事業から発生したのですが、言いたいのは「世界規模」ということです。世界規模の組織がこの頃からできはじめる。国際赤十字社は1864年です。

 世界規模の組織と言えば、いまのスポーツ業界というのも、一種の産業どころか巨大産業になっています。力を持っているんです。そのはじまりが第1回オリンピック大会です。近代オリンピックが始まります。古代オリンピックはギリシャで行われていた。それをマネしたんです。これが1896年からです。19世紀の後半から、こういう世界を動かす組織ができ始めます。
 今でもオリンピック組織委員会などは、日本の首相が頭を下げて飛んでいくぐらい、一国の力よりもっと力を持っています。「今度はどこで開催しようか」、その開催地を取るために、あの日本のバカ騒ぎよう。国ぐらい吹っ飛ばす勢いです。スポーツは見ていて楽しいから、テレビも放映権を欲しがるし、その放映権を莫大なお金を使って買おうとする。そしてそれを十分取り戻すだけの利益が出る。オリンピックはお金になる。そういう政治力を持っているわけです。政治と無関係に見えて、とても政治的なのです。
続く。



新「授業でいえない世界史」 39話の2 19C後半 アフリカ分割と米西戦争

2019-08-25 09:24:07 | 新世界史13 19C後半
【アフリカ分割】 植民地の狙い目はどこか。狙われたのがアフリカです。アフリカの奥地はまだ未知の土地だったのですが、この1800年代後半になると、好んで探検に行く人たちが出てくる。これがリビングストンです。イギリス人です。もともとは宣教師です。アフリカ人にキリスト教を教えてやろうとする。しかし結果的にはイギリスが植民地化していく。
 彼は探検途中で行方不明になります。その行方不明になったリビングストンを救助しにいった人、これがスタンリーです。あの広大なアフリカで、よくまたまた会えたものだと思う。奇跡的にと教科書にも書いてあるけど、どこにいるか分からない人間を探しに行って、あの広いアフリカでたまたま会うなんてことがあるのかな、不思議なことです。彼はそこで救出されます。

 アフリカ最初の植民地として狙われたのはコンゴです。アフリカの真ん中あたりにある国です。そこを狙ったのはイギリスではない。ベルギーという小さな国です。1883年、ベルギーの王様が「ここはオレの土地だ」と突然宣言する。「えっ、それでいいの」と。「それなら早い者勝ちだ。オレもオレも」と、一気にそうになる。
 「それではまずい」ということで、1884年にビスマルクが出てきて、「大変なことになる前に、ルールを決めておきましょう、皆さん集まってください。ウチでやりましょう」と言う。ドイツの首都はベルリンです。ここでコンゴの領有をめぐってベルリン会議を開く。ヨーロッパ各国を集めて会議を行う。中心はビスマルクです。

 でもアフリカを取るのはドイツが中心ではない。やはりイギリス、それからフランスです。ルールは早い者勝ちです。きれいな言葉で書かれているけど、けっきょく早い者勝ちです。ルールなんてないんですよ。「取ったと言ってくれればいい、俺のものと宣言してくれればいい」とする。これは強者の論理ですね。
 そこには何が抜けているか。そこに人は住んでないのか。ちゃんと住んでる人がいる。そんなこと全く無視です。ヨーロッパ人にとっては、アフリカ人は人間ではないかのようです。

 そのあとは、イギリスがどんどんアフリカに進出していく。イギリスはアフリカの北と南を結ぼうと縦に進んで行きます。これをアフリカ縦断政策といいます。まず北のエジプト、南の南アフリカをまず取るんです。そして縦につなげようとする。
 あと一つの国がある。「オレは横から進んで行こう」、これがフランスです。縦と横ははいずれぶつかる。これが1898年ファショダ事件です。しかしこれが第一次世界大戦ではありません。逆にここで両国は手を結ぶんです。あの英仏が手を結んだ。もともと仲が悪い二つの国が手を組む。

 取り残されたのはドイツです。ドイツはなぜ取り残されたのか。ドイツでは切れ者のビスマルクが引退する。若造の皇帝とは意見が会わない。この若造皇帝はビスマルクの言うことを聞かない。これから向かうところを一言でいうと、イギリスドイツの戦いです。これが第一次世界大戦です。
 そのあとの第二次世界大戦は、これにアメリカが加わってまたイギリスとドイツと戦う。日本は第一次世界大戦はイギリス側について勝ち組になったけど、第二次世界大戦ではドイツ側についてコテンパンにやられる。ピカドンは落ちる、空襲はある、何百万人死んだかわからない。君たちの身内にも亡くなられている方がいるはずです。
 以上が概略ですが、このことを見ていきます。

 イギリスがエジプトを支配した。そのエジプトの拠点として、その約20年前にイギリスは早々とスエズ運河を押さえていた。スエズ運河というのは、エジプトの入り口にある運河です。人間が切り開いた河、これが運河です。そこが拠点となっていた。そうするとエジプト人が腹を立てる。「なんでこんなことをされるのか、俺たちの国じゃないか」と1881年に反乱が起こる。これがアラビー・パシャの乱です。「エジプト人のエジプトをつくろう」と言うことです。前にも言ったけど、「今はイギリス人のためのエジプトになっている、おかしいじゃないか」ということです。

 そうするとこの南にまた別の国がある。ここも貧しい国です。スーダンという。そこでもまた同じ1881年に反英運動が起こる。マフディーの乱という。イギリスはこれも一気に潰していく。彼らはちゃんと抵抗したんです。「そうですか」と言って黙ってみていたわけじゃない。ちゃんと抵抗したが、しっかり潰される。潰したのはイギリスです。


 セシル・ブロックの中心的存在であったソールズベリー卿はイギリス首相を史上最長の任期となる三期14年間務めた。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P365)

ソールズベリー内閣(イギリス)・・・・・・1885~1892 1895~1902 イギリス史上最長14年間

 1891年イギリス円卓会議グループが結成されます。この背景を説明すれば、ロスチャイルドの融資を受けて、セシル・ローズデビアス社が全世界のダイヤモンドをほぼ独占的に支配しました。ローズは南アフリカの鉄道・電信・新聞行をも支配下に入れ、1890年にはケープ植民地の首相となり、南アフリカの政治・経済の実権を一手に握った人物です。セシル・ローズは、英語圏の人々を結集して世界中の全居住地を彼らの支配下に置くという野望を持っており、この野望を達成するために秘密ネットワークを組織しました。これが円卓グループです。創始者グループの幹部は、ロスチャイルド卿、バルフォア卿、グレー卿、イッシャー卿、ミルナー卿でした。ローズの死後は、アルフレッド・ミルナー卿が遺志を継いで秘密ネットワークを担う人材を育成しました(1901年)。アルフレッド・ミルナーは、ミルナー・キンダーガーデン(ミルナー幼稚園)という組織を持っていて、このミルナー幼稚園は黒人を奴隷にして酷使し、挙句にアパルトヘイトをつくったグループです。(金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った 安部芳裕 徳間書店 P122)

 この円卓会議グループが発展して、1919年には英国に王立国際問題研究所(通称チャタムハウス RIIA)が設立されます。このチャタムハウスの創設者はミルナー幼稚園出身のライオネル・カーティスです。
1921年には米国で外交問題評議会CFR)が設立されます。 CFRは米国を英国の影響下に置き続けることを目的に設立されました。
1925年には太平洋問題調査会(IPR)が設立されます。ここは国際連盟脱退後、日本唯一の国際窓口となった NGO (非政府組織)で、太平洋戦争時にはこの機関を通して対日工作がおこなわれました。・・・・・・
1954年にはビルダーバーグ会議が開催されます。・・・・・・1973年には日米欧三極委員会が設立されています。提唱者はデイビット・ロックフェラーとズビグニュ-・ブレジンスキーです。(金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った 安部芳裕 徳間書店 P122)

 ローズ会社はアメリカ、カナダ、インド、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカなどの英領、植民地と元植民地に支社を開設した。かの有名なアメリカの「外交問題評議会」もアメリカ・ブランチである。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P365)

 ローズ会社の一人、ウォルター・リップマンは20世紀のアメリカ社会と外交政策に大きな影響を与えていた。・・・・・・彼はウィルソン大統領の時には随員としてパリ講和会議にも参加した。そしてその会議の期間中にアメリカ外交問題評議会を創設した。アメリカ外交問題評議会は、その構成員の背景からその使命、さらに世論操作の方法からアメリカ外交政策への影響に至るまで、どう見てもアメリカの「陰の政府」であり、アメリカにおけるローズ会社のコピーと言ってもよいだろう。1919年のパリ講和会議で、イギリスもアメリカも戦勝国の地位を利用して自分たちが主導する国際社会体制の構築を試みた。講和会議終了後、ローズ会社のメンバーでもあるリップマンとその他のアメリカ参加者がパリのあるホテルで「王立国際問題研究所」を立ち上げた。外交問題評議会は、元々「王立国際問題研究所」アメリカ支部の名義で、ニューヨークの銀行家と国際弁護士らが1918年に創設し、戦時のビジネスや銀行間の問題を議論する「外交問題評議会(現行の組織と同盟)」と1921年に合流して今日に至っている。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P372)

 1919年から1939年の間、イギリス閣僚の5分の1から3分の1ミルナー・グループのメンバーであった。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P369)


 次に、さっき言ったように、西からはフランスがアフリカ横断策を取って進んでいる。ここでイギリスとゴッツンと突き当たる。あわや戦争かというところまで行く。この事件を、さっきも言いましたけど、この地点の名前をとってファショダ事件といいます。1898年です。縦に行っているのがイギリスです。横に行っているのがフランスです。これがぶつかる。あわや戦争かというところまでいく。
 しかしそこをうまくイギリスが交渉して、イギリス有利のうちに、お互い刀のさやをおさめる。「まあ仲良くしようじゃないか」と。それであの仲の悪かったイギリスとフランスが手を組む。これが英仏協商です。1904年です。もう20世紀にはいりました。
 その3年後には、あの仲の悪かったイギリスとロシア・・・・・・これが本当に一番仲が悪かったんですが・・・・・・そのロシアが1904年日露戦争に負けて、その後イギリスと手を組む。これが1907年英露協商です。

 ここでも取り残されのがドイツです。ドイツはイギリスに囲まれ、フランスにも囲まれ、ロシアにも囲まれ、もう逃げ場がなくなる。蛇がじわりじわりと獲物を締め殺すような感じで取り囲まれていく。なぜそんなことになるか。1890年、さっき言ったように、ビスマルクは「こんな皇帝とはやっとられん」と言って首相をやめている。そのとたんに外交ベタになる。でもそれはドイツのお家事情であって、それだけではありません。イギリスは初めからドイツ外しを狙っていたようなところがあります。それに乗ってしまうのです。

 もう一つ、アフリカの一番南は今の南アフリカ共和国ですが、そこにケープタウンという都市がある。当時はケープ植民地と言っていた。そこがイギリスの重要拠点になります。しかし、最初からイギリスの植民地だったわけではありません。当初はブール人・・・・・・これはオランダ人です・・・・・・彼らが200年も前からそこに進出して植民地にしていたのです。ブール人とは、イギリス人がオランダ人を蔑んで呼んだ名です。日本人が「ジャップ」と呼ばれるようなものです。「豚やろう」という意味です。「ジャップ」と言われて、頭かいて「ヘヘッー」と笑っていたらダメですよ。そんなことすればどこまでも国際社会からバカにされる。


 南アフリカおよびオーストラリアにおけるイギリス植民地の創設へのユダヤ人の関与は、比較的はっきりとわかっているし、またこうした土地(とくにケープ植民地)では、ほとんどすべての経済的発展がユダヤ人に帰せられることも判明している。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P63)

 1891年、セシル・ローズ(のちのイギリスの植民地相)が円卓会議を結成する。

1901年、セシル・ローズが主導する秘密結社が名称変更し、ミルナー・グループとなる。ミルナーとはイギリス貴族アルフレッド・ミルナーのこと。
1920年、円卓会議が発展して、イギリスに王立国際問題研究所RIIA、通商チャタムハウス)が設立される。
1921年、同じく、アメリカで外交問題評議会CFR)が設立される。



 オランダ人はイギリスと戦ったら負けるから、そこから逃げてトランスバール共和国、それからオレンジ自由国という別の国をつくる。しかしその逃げた国から金が出てきた。ダイヤが出てきた。イギリス人がこれを見過ごすわけはない。追いかけて行って、それをつぶして併合し、南アフリカ連邦になる。この戦いが1899年から起こっていた。これをブール戦争といいます。1902年まで続きます。

※ 帝国主義者として知られるイギリスの政治家セシル・ローズは、1870年以降、南アフリカ地域でダイヤモンドの採掘を独占し、80年にはロスチャイルド家からの融資を受けてダイヤモンドの採掘に当たるデビアス鉱山会社を創設し、世界のダイヤモンドの9割を独占しました。・・・・・・金本位制を維持しなければならないイギリスは、世界中から浴びせかけられた「侵略」という非難を尻目に、なりふり構わずブーア人のトランスバール共和国、オレンジ自由国に対する南ア戦争(ブーア戦争、1899~1902)を続行さざるをえなかったのです。・・・・・・イギリスは・・・・・・強引に両国を併合してしまいました。つまり見せかけは安定を装っていた金本位制が実際には金不足で火の車であり、何としても南アフリカの豊富な金を獲得しなければならなかったのです。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P199)


 だからイギリスはこの時はブール戦争で忙しく、ロシアのことまで手が回らない。ロシアはロシアでシベリア鉄道をつくって東へ進み、朝鮮北方にまで進出している。イギリスはロシアの進出を誰かに食い止てもらいたい。それが日本です。これが1904年日露戦争です。ここでもイギリスは戦争で勝っている。日本を使って。南アフリカでも勝っている。
 これが南アフリカ連邦、今の南アフリカ共和国です。ここは圧倒的に黒人が多い。しかしほんの数%の白人が支配層です。長い間この体制が続いて、これがくつがえったのは君たちが生まれるほんのちょっと前のことです。初の黒人大統領ネルソン・マンデラが出る。これは「政治・経済」の教科書にも書いてあることです。それまでは徹底した黒人差別をしていた。これをアパルトヘイトといいます。トイレだって白人専用、黒人は使えない。学校だって、食堂だって、白人と黒人を分けて、すごい差別をしていた。つい最近までです。200年前のことではない、たった20年前までそんなことをやっていた。

 ではフランスです。フランスはアフリカ横断政策をとっていた。しかしファショダ事件で、イギリスに譲歩した。そこで1904年英仏協商を結んで、イギリスと手を組んだ。
 では出遅れたドイツは・・・・・・ベルリン会議を行ったが出遅れた・・・・・・ドイツはどこに進出したか。アフリカの西の方にあるモロッコです。モロッコを拠点に、軍艦を率いてここに上陸しましたが、この時にはイギリスとフランスが手を組んでいて「通せんぼ」された。それでみすみす帰った。ドイツは「このやろー」と思う。これが1905年第一次モロッコ事件です。

 次はイタリアです。イタリアはイタリアで「みんなが植民地を取るんだったらオレも取ろう」と、イタリア半島の向かい側のリビアを取る。最近、ここの指導者カダフィ大佐がアメリカによって殺されました。それまでは豊かだったのに、今は混乱の極みで国が分裂しています。あれから10年経っても。

 アフリカが植民地化される先鞭をつけたのは、小さな国ベルギーです。このベルギーの王様が1883年に「コンゴをオレの土地にする」と勝手に言い始めてから、一気に「オレもオレも」となった。罪深いところです。ここまで来るのに・・・・・・ベルリン会議が1890年ですから・・・・・・やり始めてわずか10年ぐらいで一気にやる。
 ふと気づけば、1910年で独立していたのは二つだけです。侵略を受けなかったのは、一つはエチオピア、もう一つはリベリアだけです。

 それから東南アジアでも、独立している国はない。日本以外には。わずかに独立している国はどこか。東南アジアで日本以外で独立しているのは、タイだけです。その他はほとんど西欧列強の植民地です。アフリカの状況と大して変わりません。
 
▼アフリカ分割


 帝国主義の植民地地図の色分けを、ここでやります。19世紀の後半、アフリカがヨーロッパ列強によって植民地にされていく。イギリス領はに行く。赤で囲んでください。南は一部ちょっとつながってないけれどもほぼ縦に繋がってる。これがイギリス植民地です。
  それから青でフランス領を囲んでください。フランスは西から東ににいく。これがフランス領です。そしてポーンと飛んでマダガスカル島、ここもフランス領です。

 わずかに残った独立国を、黄色で印をつけてください。エチオピアとリベリアだけです。ここしかない。ほぼすべて植民地になる。
  あとドイツ領とか、ポルトガル領とか、ベルギー領コンゴとか、イタリア領とかに分割される。早い者勝ちです。




【東南アジア分割】 これは東南アジアも同じです。下の図が東南アジアです。
 イギリス領はインドからずっと東へ延びています。インドから東の方、今のミャンマー、それからマレーシア、マレーシアの飛び地もイギリス領です。

▼東南アジア分割

 
 それからフランス領は、中国南部から、今のベトナム、ラオス、カンボジア、ここはフランス領です。ここは、このあと日本が第二次世界大戦で最初に進駐するところとして関係してきます。
 オランダ領東インド、ここもです。今のインドネシア一帯はオランダ領です。
 フィリピンはアメリカ領です。独立国はほぼありません。
 太平洋の島まで取っている。ここはドイツ領です。


欧米植民地主義の凄まじい実態─学校が教えてくれない戦争の真実



 唯一残った独立国はタイだけです。タイが強かったからではありません。一つ残しの原則、東のフランスが手を出すと、西のイギリスが腹を立てる。逆にイギリスが手を出すと、フランスが腹を立てる。大ごとになる。だからまんじゅうの一つ残しで、まんじゅうの最後の一つには手を出さない。東南アジアもアフリカとあまり変わらない。その結論が何かというと、第一次世界大戦になっていく。 



【太平洋地域の分割】 イギリスはまだまだやります。今度はどこに行くか。オーストラリアです。ここもイギリスの植民地だった。オーストラリア連邦です。オーストリアじゃない。カンガルーがいるところです。ではそこには人は住んでいなかったのか。ちゃんと住んでいます。「どけ」と言う。アフリカ人といっしょです。彼らをアボリジニーといいます。彼らは今は非常に不便なところに住んでいる。なぜこんな不便なところに住んでいるか。好き好んで住んでないです。追いやられたんです。アメリカインディアンもそうです。インディアンは今辺鄙な居住区に追いやられています。

 オーストラリアの東の方には、南北に分かれた島国がある。ニュージーランドです。そこもイギリスの植民地になる。やはり同じように人も住んでいる。彼らはマオリ族です。先住民マオリです。やはり追い払われていく。「100年前にオレたちは住んでいた土地を奪われたんだ、返してくれ」と原住民たちが言い始めたのは、ほんのここ10年ばかりです。

 しかしイギリスの影に隠れて、意外と分からないのがアメリカです。アメリカは、東海岸から西海岸へ、つまりカリフォルニアについた。そしたら目の前に太平洋が広がってる。どこに行きたいか。やっぱり中国なんです。太平洋を渡って。そのためには拠点が必要です。そのための島がいくつかある。日本の沖縄もその一つです。沖縄は戦略的には今でも重要です。アメリカはどんどん占領していきます。
 まずハワイ領有です。ここにはカメハメハ王国という別の王国があった。それを滅ぼして領有します。それから南方のグァム、ここも領有する。今はここに米軍基地がある。
 ハワイに米軍基地があることは知っていますか。軍港がある。日本が攻めたのは何というところですか。真珠湾です。パールハーバーという。今ハワイといえばリゾート地のイメージだけになっていますが、ここはアメリカの軍事的な拠点です。
 それからフィリピンも米西戦争でアメリカがスペインから取ります。アメリカはこういうところを次々に領有していきます。



【ラテンアメリカ】 ラインアメリカも、ちょっと言います。アメリカがイギリスによって領有されるまでは、一番最初のコロンブスの時代にここを植民地にしていったのはどこだったか。スペインだった。ほとんどスペイン領だった。メキシコもです。ただ例外的に一つだけ、ブラジルだけがポルトガル領だった。

 スペインとポルトガルのうち、メインはスペインです。しかしこの南北アメリカ大陸を支配し、のし上がっていくのがアメリカなんです。どこをまず叩くか。スペインです。アメリカを米と書くように、スペインを西と書く。1898年米西戦争です。
 その南アメリカ社会では支配層は誰か。黒人じゃない。原住民でもない。白人です。またはその子孫です。南アメリカ生まれの白人の子孫、肌は白い。彼らをクリオーリョという。彼らが巨大な土地を持っている。そこで黒人や原住民を働かせている。 彼らに工業製品を売りたいのがイギリスです。そこをイギリスが狙っている。



【メキシコ】 アメリカの一番近くにあるメキシコはどうか。メキシコももとスペイン領だった。メキシコ語はないです。メキシコ人は何語をしゃべってるか。スペイン語です。もともともうちょっとメキシコは大きかった。北の方に伸びていた。テキサスもカリフォルニアもメキシコ領だった。

 アメリカはスペインから、どさくさにまぎれてテキサスをぶんどります。
 もっと取りたいから1846年には、アメリカ・メキシコ戦争をふっかけて、カリフォルニアを取る。今ニューヨークに次ぐ全米2番目の都市、ロサンゼルスもここにあります。ここがアメリカものになる。これが1848年です。こうやってアメリカは太平洋に面する西海岸までたどり着いた。そこで起こるのが国内の戦争です。1861年、アメリカが北と南に真っ二つに割れて、血で血を洗う戦争が起こる。これが南北戦争です。
 そういうアメリカが国内の戦争で手がふさがっているときに、フランスがそこをねらう。これがフランスのナポレオン3世によるメキシコ出兵です。1861年です。油断も隙もないけど、これは失敗する。失敗したから、メキシコは国を維持できた。

 しかしお金もないし、メキシコは独裁政権になります。これをディアス政権といいます。そこに甘い汁を吸おうと思って「お金貸しますよ」とイギリスが言う。こうやってイギリスの金融資本が入ってくると、お金持ちしか儲からない国になる。庶民の生活は非常に苦しい。
 それで1910年メキシコ革命が起こります。「一部のお金持ちしか豊かになれない国はおかしいじゃないか」と。マデロとサパタという人が中心です。これが1910年までの南北アメリカ大陸の動きです。ロシア革命が1917年ですが、その7年前にすでにメキシコ革命が起こっています。



【カナダ】 イギリスはアメリカ大陸でカナダも支配しています。ここはイギリス領です。イギリスはどれだけ植民地を持っているか。インドを手始めに、アフリカ、アジア、オーストラリアにも、そしてカナダまで植民地です。
 ただこのカナダは、それ以前に手をつけていたのがフランスです。今でもカナダにはフランス語をしゃべる人と、イギリス語をしゃべる人がいて、お互いに仲が悪い。こういう植民地です。そこをイギリスが取る。だから公用語はイギリス語です。

 それから、未開の土地、寒いアラスカ。ここはロシア領だったのですが、ロシアは「こんな不便なところは要らない」と言って1867年にアメリカに売るんです。そしたらそこから石油が出てくる。ロシアは歯ぎしりして悔しがったけど後の祭りです。
 
▼アメリカの海外進出




【米西戦争】 ではアメリカはその後どういう動きをするか。南北戦争のあとは領地を増やして、次には南米、スペインの植民地を奪う。これが、さっきちょっと言った、1898年から起こる米西戦争です。「西」はスペインです。中南アメリカはほとんどスペイン領です。メキシコもキューバも。キューバはアメリカの目と鼻の先、アメリカのすぐ南にあるところです。
 今では世界帝国になっている世界ナンバーワン国家のアメリカですが、19世紀の終わりの南北アメリカ大陸は、どこの植民地だったか。ブラジル以外はほとんどスペイン領なんです。

 アメリカはそのスペイン領を虎視眈々と狙う。それを狙って戦争をしていく。
 まずどこが欲しいか。キューバです。アメリカのすぐ南のキューバ、ここもスペイン領だった。ここを米西戦争で取る。
  もう一つのスペイン領は東南アジアのフィリピンです。ここもアメリカが取る。だからフィリピンの公用語は英語です。宗教はスペイン植民地が200~300年続いていたから、キリスト教のカトリックです。アジアで唯一のキリスト教国です。
 それから、今でもアメリカ空軍最大の米軍基地があるのはグァムです。沖縄からちょっと東に行けばすぐグァムです。ここを取る。
 そしてどさくさにまぎれてハワイを取る。ここに太平洋艦隊最大の軍港を築く。これが真珠湾です。英語でいうとパールバーバーです。
 約50年後に日本が太平洋戦争で最初に攻撃するのはここです。ハワイに海水浴に行ってケッコウですが、そういう軍港があること、アメリカの軍事基地があることも知っておいてください。
 そしてもう一つはアラスカです。ここはロシア領であった。ロシアは「こんな不便なところいらない」と言ってアメリカに売る。するとそこからがっぽり石油が出てきたというのは、いま言ったとおりです。19世紀終わりにアメリカはこれだけの領土を取っていく。

 この米西戦争で、アメリカが取ったのがまずキューバ。ここもスペイン領だったところです。キューバも長らくスペインの植民地にされていて、それに嫌気がさしてる。そこで独立運動が起こると、アメリカは「いいぞいいぞ、独立したほうがいいぞ」とたきつけて応援するふりをしながら、いざ独立したらアメリカの半植民地にしていく。
 この時にはアメリカとスペインが、キューバをめぐって対立している。アメリカはキューバに対して、砂糖産業や工場にいっぱいお金をつぎ込んでる。そういう経済的な利害関係もある。

 それからさっき言ったフィリピン。ここもスペイン領だった。米西戦争はスペインとの戦争ですから、敵対国スペインの領土をアメリカが次々に押さえていく。フィリピンでもスペインから独立したいという独立運動が起こっている。その指導者の1人がホセリサール、もう1人がアギナルドという。アギナルドは一時革命政府を樹立してその大統領になりますが、スペインから独立したあと対アメリカ戦争が起こり、アメリカが上から押さえつけてしまう。この米西戦争はアメリカの勝利です。アジアでアメリカの植民地になったのがフィリピンです。
 それから今もアメリカの軍事基地として大事なところにグァムがあります。軍事基地として重要な地点です。沖縄は沖縄で大事なアメリカ軍基地です。
 そしてどさくさの中で、太平洋の真ん中のハワイもアメリカが領有する。ハワイとアメリカは地理関係からいって何の関係もなく、アメリカの領土である必要はないです。それなのにハワイはアメリカの領土になる。

 アメリカの目の前の海はカリブ海です。ジョニー・デップの10年ばかり前の映画「パイレーツオブ・カリビアン」のカリビアンというのは、カリブ海ですね。アメリカはそこが欲しいわけです。そこにいろいろアメリカがちょっかいを出していく。これをアメリカのカリブ海政策といいます。
 アメリカの狙いは、目の前のカリブ海、次に南米、そして太平洋の向こうの中国です。これはペリーの来航の時から一貫して変わらない。どうにか中国に進出して、中国の利権を取りたい。これは今も変わりません。中国企業のファーウェイがこの間、アメリカから押さえられました。
 アメリカはそれでスペインから独立したかに見えたキューバを植民地とまではいかないけれど、半植民地状態にする。これを保護国化といいます。保護国化されたら、キューバは自由な外交ができません。

 そしてもう一つはパナマ運河をつくる。これはパナマという国が最初からあったわけではなくて、もともとコロンビアの一部でその一つの地方県だった。そこにアメリカは「おまえたち、独立させてやるぞ」と言って独立させる。するとそのとたんに「オレの言うこと聞け、運河をとおせ」と言う。それでパナマ運河を建設する。
 その利権はアメリカのものです。アメリカの領土じゃなくても、勝手に借りるんです。半永久的に「借りるよ」と言って、90年ばかり借りていた。返したのは君たちが生まれた頃です。1999年だから。私にとってはついこの間みたいなものです。
 エジプトのスエズ運河はエジプトにあってもイギリスのものです。パナマ運河はパナマにあってもアメリカのものです。


▼20世紀初頭の世界


これで終わります。ではまた。