ひょうきちの疑問

新聞・テレビ報道はおかしい。
2020年のアメリカ大統領選以後はムチャクチャ

重大ニュース2010 国際面でも偏向報道が続いた10年だった

2010-12-31 21:42:36 | 国際・外交(日米関係)
毎日新聞 2010.12.30 より
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20101230ddm010040006000c.html


◇北朝鮮が韓国砲撃 哨戒艦も攻撃、米韓は対抗演習

 3月26日、韓国海軍の哨戒艦「天安(チョンアン)」が海上の南北境界線である「北方限界線」(NLL)に近い黄海を航行中に突然爆発して沈没し46人の死者・行方不明者を出した。
現場海域の海底から回収された魚雷の部品が北朝鮮が武器輸出用に作成したカタログの図面と一致したことなどから、韓国を中心とした軍・民間合同調査団は5月、
「北朝鮮製魚雷による外部での水中爆発により沈没した」
と断定した。

 しかし、北朝鮮は「事件とは無関係」と主張し、国連安全保障理事会は7月、北朝鮮の名指しを避けつつ事件を非難する玉虫色の議長声明を採択した。
また、米韓は黄海での合同軍事演習を計画。中国近海に米空母が近づくことを嫌がる中国が反発し、事態は米中対立にも発展した。

 さらに11月23日、韓国の砲撃演習に反発した北朝鮮は黄海の延坪島(ヨンピョンド)を砲撃。
軍人2人、民間人2人が死亡した。
北朝鮮が韓国領土を砲撃し、人的被害が出たのは1953年の朝鮮戦争休戦以来初めてだった。
米韓は対抗措置として、7月は見送った米空母の黄海派遣に踏み切り、大規模な合同軍事演習を行った。
中国は北朝鮮の核問題をめぐる6カ国協議首席代表による緊急会合を提案するなど事態沈静化を図ったが、日米韓の3カ国は消極姿勢を示した。

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【私のコメント】

前の事件は米韓による捏造、
後の事件は米韓による挑発の疑いが濃い。

メディアの偏向報道は、国内政治だけではなく、このような国際政治においても行われている。

今日で2000年代最初の10年が終わるが、この10年は2001年の9.11テロから始まった。
ニューヨーク貿易センタービルの同時多発テロである。
国際事件におけるメディアの捏造報道はこの事件から本格的に始まった。
その後のアメリカによるアフガン攻撃、そしてイラク戦争。
日本の大手マスコミが真実を報道したことはない。

アメリカ寄りの非常に偏った報道しかしてこなかった。
この傾向はここ10年間ついに変わらなかった。

次の10年も国民に真実を知らせない偏向報道が行われる危険性がある。
大手マスコミの報道はそういう目で見たほうがよい。


『龍馬の黒幕』   加治 将一

2010-12-31 17:18:54 | 歴史
龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン (祥伝社文庫)
加治 将一
祥伝社

石の扉―フリーメーソンで読み解く世界 (新潮文庫)
加治 将一
新潮社



龍馬の背後にグラバーあり。
今でも観光名所として知られる長崎のグラバー邸のトーマス・グラバーである。

このグラバーはイギリスの武器商人というのが表の顔である。
しかし彼のもう一つの顔はフリーメーソンであった可能性が強い。

坂本龍馬はこのグラバーの代理人として使われた可能性が強い。
龍馬が設立した亀山社中(のちの海援隊)はグラバー商会のダミー会社として利用されていた。

グラバーは当然日本に開国を求めている。
しかしそれに対して反対する急先鋒の藩が長州藩である。

1 ペリーの来航以来日本はまず最初に、開国するかどうかで割れた。
2 次に開国した幕府を支えるかどうかで割れた。

1から開国派と攘夷派が分かれた。
2から佐幕派と倒幕派が分かれた。

この2つの分裂から次の4つの対立ができる。

1 佐幕開国派……幕府を支え、開国する立場。
              (幕府、薩摩、坂本龍馬)
2 佐幕攘夷派……幕府を支えるが、開国に反対する立場。
              (幕臣小栗忠順ら)
3 倒幕攘夷派……幕府を倒して、開国に反対する立場。
              (長州藩)
4 倒幕開国派……幕府を倒して、開国する立場。
              (グラバー 明治新政府)

幕末史は佐幕開国(1)で始まり、倒幕開国(4)で終わる。

龍馬は佐幕開国派(1)である。薩摩藩ももともとはそうであった。
ところが長州藩は倒幕攘夷派(3)である。
佐幕攘夷派(2)は、幕末史の最初で幕府によって粛正され、小栗忠順は自害させられているため、表だった活動はなかった。

ということは、幕末史の大きな柱は、
佐幕開国派(1)の薩摩と、
倒幕攘夷派(3)の長州の対立である。

グラバーは開国に反対する長州藩が目障りでしかたがなかった。
だから龍馬を使って、長州藩を攘夷派から開国派に転向させた。長州は倒幕開国派(4)になったのである。
これが1966年の薩長同盟(薩長連合)である。
このときに龍馬が社長を務める亀山社中がグラバーから長州への武器輸送に利用された。

その際に薩摩は、佐幕派から倒幕派に変わった。薩摩も倒幕開国派(4)になった。
つまり薩長同盟は倒幕開国(4)の旗印の下に成立した。

これがグラバーの狙いである。
しかしそれを仲介した坂本龍馬はあくまでも、佐幕開国派(1)である。
龍馬は幕府と薩長の対立が避けられなくなった後も、大政奉還を献策してどうにか徳川の延命を図った。
(大政奉還とは幕府は潰れても、徳川が日本最大の大名として生き残ろうとするものである。)
薩摩と長州が倒幕に向けて走り出すなかで、幕府と薩長の武力衝突を避けようとする龍馬は、次第に孤立していった。
そして1867年、何者かによって暗殺されたのである。

私は坂本龍馬の考え方は穏健でバランスの取れたものだと思うが、明治維新は龍馬の思惑を超えて、幕府の滅亡どころか徳川の消滅にまで進んでいった。

もし龍馬の構想が実現していたら、戊辰戦争といういくさも起こらずにすんだ。
そうなれば日本はもっと穏健な近代国家としての改革を進めていったと思う。

ところがそうはならなかった。
なぜなのか。
そこにはフリーメーソンという背景を持つ武器商人トーマス・グラバーの存在が隠されている。
グラバーは武器商人である。戦争を起こすのが商売である。

長州の伊藤博文や井上馨が幕末のどさくさのなかでイギリスに密航していたことはよく知られている。
その密航の段取りを調えたのがトーマス・グラバーである。
坂本龍馬も極秘のうちに海外に密航していたのではないかと思われる。
当然トーマス・グラバーの手によってである。

それ以後龍馬はトーマス・グラバーの代理人として活躍する。
日本で最初の会社組織といわれる亀山社中もグラバーの援助によって設立されたものである。
今年の大河ドラマ『龍馬伝』にはそのような視点がなかった。
龍馬はグラバーを巧く利用したように描かれている。
しかし事実は逆である。


『スパイに選ばれるのは決まって最下層のにわか侍たちである。龍馬も同じ出である。』

『当時の日本ほど、完全にスパイ活動を行った国はないだろう。……その技術は芸術の域に達していた。』

その後の日本は伊藤博文や井上馨などのグラバーの息のかかった、またフリーメーソンの息のかかった政治家たちによって運営されていく。


歴史ミステリー 『 龍馬の黒幕 』 Vol.1  作家 加治将一


歴史ミステリー 『 龍馬の黒幕 』 Vol.2  作家 加治将一

『くじけないで』 柴田トヨ 99歳

2010-12-31 09:27:19 | その他
くじけないで
柴田 トヨ
飛鳥新社



私ね
人からやさしさをもらったら
心に貯金しておくの
さびしくなった時は 
それを引き出して元気になる 
あなたも今から積んでおきなさい 
年金よりいいわよ



2010.3.28  産経新聞 より
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100328/acd1003280917003-n1.htm
 

【書評】『くじけないで』柴田トヨ著

 ■眼をさました詩の天使

 すばらしい詩集です。今まで詩に興味のなかったひともこの柴田トヨさんの「くじけないで」はぜひ読んでみてください。
人生いつだってこれから、何をはじめるにもおそ過ぎるということはないと元気がでてきます。

 92歳から詩を書きはじめて、100歳近くなった現在までの詩を読んでいくと、詩の質が進歩していることにも感動します。

 生きてるということは本当にすばらしいとうれしくなる。

 「私が詩を書くきっかけは倅のすすめでした。腰を痛めて趣味の日本舞踊が踊れなくなり、気落ちしていた私をなぐさめるためでした」

と、あとがきにありますが、それが天の声で、トヨさんの心の中でねむっていた詩の天使が眼をさまして、人生の晩年に歌いだしたのだと思います。
少しも枯れていない少女のような愛らしい声で。

 詩はおもいついた時にノートに鉛筆で書き朗読しながら何度も書きなおして完成するので、1作品に1週間以上の時間がかかるそうですが、これは正しい詩のつくりかただと思います。

 全部の詩がなめらかで読みやすい。耳にやさしくひびきます。

 読んでいてひとりでにメロディが生まれて思わず歌ってしまった詩もありました。

 ぼくは詩の楽しさはこういうところにもあると思っています。

 読んでもなんのことやらよく解らず、相当な知識がないと理解できない難解な詩も、それはそれでそんな詩を愛するひとたちにはいいのだと理解していますが、誰でもがわかる詩で、イージーリスニングであるほうが、むしろぼくは好きです。

 もし詩のボクシングで、柴田トヨさんとぼくがリングで対戦することになったら、たたかう前にぼくはギブアップして平伏してしまいます。

 詩集の最後に「秘密」という詩があります。

 九十八歳でも

 恋はするのよ

 夢だってみるの

 雲にだって乗りたいわ

 「ぼくもそうだ」と心の中でトヨさんにさけびました。(飛鳥新社・1000円) 
評・
やなせ たかし(漫画家)

おわり


しばた・とよ 
1911(明治44)年、現栃木市生まれ。
裕福な米穀商だった実家が10代のころに傾き、料理屋などへ奉公に出る。
33歳で結婚。
翌年、一人息子の健一さん誕生。
92年に夫と死別以来、一人暮らし。
腰を痛めて趣味の日本舞踊をあきらめたのを心配した健一さんの勧めで、92歳から詩作を始める。

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【私のコメント】

決して生への執着ではない。
『生かされている』という気持ちが、99歳になって感謝の気持ちとなって自然にあふれ出ている。

それが人々に勇気を与える。
大地の恵みのような詩だ。

この詩は自我を歌っているのではない。
それよりもっと大きなものがあることを日常の言葉で歌っている。

本来、年をとるということはそういうことなのだろう。


今年流行った『トイレの神さま』(歌 植村花菜)

トイレにはそれはそれはきれいな
女神様がいるんやで
だから毎日 きれいにしたら女神様みたいに
べっぴんさんになれるんやで

そういうことを孫に伝えようとしたおばあちゃんの気持ちを思いだした。


『日本人の神はどこにいるか』  島田 裕巳

2010-12-30 21:33:31 | 歴史
日本人の神はどこにいるか (ちくま新書)
島田 裕巳
筑摩書房


『仏教では、人ははるか彼方に存在する浄土に生まれ変わると考えられている。
だが柳田國男は、「先祖の話」のなかで力をいれて説きたいと思うのは、日本人は、死後霊となってこの国土のうちにとどまるのであり、決して遠方へ行ってしまわない点であると述べている。』

『聖母マリアへの信仰は、じつは、一神教としてのキリスト教を否定しかねないものをもっている。』

『この聖母マリアの信仰は、キリスト教の外の世界からは、キリスト教が多神教である証拠とみなされる。』


「トイレの神様」(歌 植村花菜)への信仰も決して日本だけに限られたものではなく、他の多神教世界にも、そしてもしかしたらキリスト教のような一神教世界にも通じる考え方かもしれない。
日本的な多神教が古臭くて、西洋的な一神教が進歩的だと考える必要はない。

死んだ「おばあちゃん」は今もこの国土のうちにとどまり、「トイレの神様」となって、孫の姿を見守っている、そのような考え方は日本に限る必要はないのである。
そこに人間の普遍的な信仰の姿をみることは不思議なことではない。

数年前に流行った『千の風になって』も、あれは西洋の歌でありながら一神教の歌ではない。
千の風になるほどの多くの神様の歌である。

『トイレの神様』  歌 植村花菜

2010-12-30 19:59:30 | 教育もろもろ
『トイレの神さま』               歌 植村花菜




おばあちゃんがこう言った

トイレにはそれはそれはきれいな
女神様がいるんやで
だから毎日 きれいにしたら女神様みたいに
べっぴんさんになれるんやで

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【私のコメント】

今年の歌謡曲で一番の驚きはこの歌詞だな。
若い女性がこんな歌詞を歌うなんて想像もしていなかった。

人間は嬉しいときには歌い、悲しいときには歌ってきた。

言葉の持つ力が十万馬力だとすれば、
歌の持つ力は百万馬力だな。

今年一年あまりいい年ではなかったが、
この厳しい世相のなかで、次の世代の新しい力を感じた。

日本もまだまだ捨てたものではないと思えて、はげまされた。

おばあちゃん 本当にありがとう。

小沢一郎氏抹殺の「政治謀略」の流れ

2010-12-30 14:07:33 | 教育もろもろ
杉並からの情報発信です より
http://blog.goo.ne.jp/yampr7/e/abb13714b12e31523e972f1dceae5e3f


主権者国民が売国勢力を打倒し「日本の独立」を達成しなければ「良い年」は決して来ない

2010-12-30 12:00:30 | 政治・社会
2010年もあと1日で終わり2011年が始まります。

日本人は毎年暮れには「良いお年をお迎えください」とお互いにあいさつをしお正月には明治神宮はじめとする全国の神社、仏閣にお参りして「良い年 になりますよう」と祈願します。

善男善女が「良いお年を!」と神様や仏様にお賽銭を投げて祈っただけでは「良い年」は決して来ません。

主権者国民が対米完全従属の売国勢力に勝利し「日本の独立」を達成しない限り「良い年」は決して来ない事を肝に銘じるべきでしょう。

▼ 米国支配層と日本人エージェントによる日本支配

敗戦後米国支配層は「日米安保条約」と「日米地位協定」を唯一の法的根拠にして日本を支配し搾取する強固な仕組みを構築してきました。

米国支配層は植民地支配の常として、自民党清和会政治家、検察をトップとする霞が関特権官僚、大手マスコミ、経団連に結集する大企業、裁判所など の「売国6大勢力」を日本人エージェントとして

買収し日本人の資産を収奪し日本人から独立、権利、人権を剥奪してきたのです。

評論家副島隆彦氏によりますと
「日本が官民で米国に貢いだ金額はもうすぐ1000兆円」(「日米地獄への道ずれ経済」祥伝社刊)
とのことですの で、我々がいくらまじめに働いても豊かになれないはずです。

我々は長い間米国と日本人エージェントが支配し収奪するカラクリを正面から捉えることができませんでした。

「日本は独立国家であり独自に予算と政策を決定している」
「日本は三権分立が徹底している民主国家である」
と嘘の教育を学校で受けて来たからであ り、
「日本の首相は米国の承認がなければ選ばれない」
事実を大手マスコミは国民に知らせなかったからです。

世界第二位の経済大国の割には個人の生活や労働条件や社会保障のレベルが低いことに気付いていましたが、
その原因を真剣に追求するには至らなかっ たのです。

米国支配層と日本人エージェントによる日本支配のカラクリに気付いて批判活動や反対運動に決起した勇気ある少数の市民、政治家、官僚、ジャーナリ スト、経済人、学者は、
米国CIAや日本の公安警察によってスキャンダルを仕掛けられ失脚するか失業するか逮捕・起訴されるかあるいは容赦なく命を狙われてきたのです。

▼ 主権者国民は「小泉竹中構造改革」の大失敗でようやく覚醒した

小泉純一郎首相が米国ブッシュ政権のエージェントとして2001年から5年半にわたって
「構造改革なくして経済成長なし」
「官より民へ」
「自己責 任」
のスローガンで強行した「小泉竹中構造改革」は、
日本社会にかつてなかったほどの貧富の差と金権主義と社会的分断を持ち込みました。

「小泉竹中構造改革」は「改革」の美名のもとに米国支配層の対日要求を100%実現させて日本人から富を奪い貧困化させ、医療・年金・介護・生活 保護のセフテイーネットを破壊して
市場原理主義の競争の中に国民を丸裸で放り込んだのです。

「小泉竹中構造改革」の強行の結果悲惨な現実を目のあたりにした多くの国民は2009年8月30日の総選挙で
「対米従属」
「大企業優先」
「官僚支 配」
の自公政権にレッドカードを突きつけたのです。

ようやく覚醒したは3000万人の主権者国民は
「国民生活が第一」
を掲げる鳩山・小沢民主党を支持して戦後初めての本格的な「政権交代」を実現さ せたのです。

戦後65年間続いた米国支配層と日本人エージェントによる対米従属の政治が初めて否定され
「国民生活が第一」と「日本の独立」が
希求されたので す。

政権交代を実現した主権者国民はこの政権交代が米国支配層と日本人エージェントにどれほどの打撃を与えたのかが良く理解できず、
彼らの手段を択ば ない猛反撃に対する有効な「新政権保護」の体制をほとんど取らなかったのです。

「売国6大勢力」は「政治革命」を主導する「小沢一郎氏抹殺」に目標を絞って下記のような連続的な「政治謀略」を仕掛けてきたのです。

▼ 小沢一郎氏抹殺の「政治謀略」

(1)2009年3月「西松建設偽装献金事件」強制捜査

東京地検特捜部(佐久間特捜部長)は「西松建設偽装献金事件」をでっち上げて小沢一郎民主党代表(当時)の大久保公設第一秘書を「政治資金規正法 違反・虚偽記載容儀」で逮捕し起訴した。

検察の目的は大久保秘書の「自供」で小沢一郎氏を「受託収賄罪容儀」で逮捕・起訴することだったが、自供も証拠も得られず逮捕も起訴もできず検察 の完全敗北となった。

(2)2009年6月「凛の会郵便不正使用事件」強制捜査

大阪地検特捜部(大坪特捜部長)は「凛の会郵便不正使用事件」をでっち上げて厚労省村木厚子局長を「虚偽公文書作成・同行使容疑」で逮捕・起訴し た。

検察の目的は村木局長の「自供」で石井一民主党副代表(当時)を「斡旋利得罪」で逮捕・起訴して民主党の政権交代を阻止することだった。
村木局長 の否認と前田主任検事の証拠捏造などが発覚し無罪となり検察の完全敗北となった。
     
(3)2009年11月「世論を正す会」が刑事告発

市民団体「世論を正す会」が
小沢一郎民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」が2004年に約3億4000 万円で土地を購入したにもかかわらず土地の所有権移転登記を2005年の政治資金収支報告書に記載していた問題で
陸山会の事務担当だった小沢氏の元秘書民主党石川知裕衆院議員と陸山会の元会計責任者で小沢氏の公設第1秘書大久保隆規被告と私設秘書池田氏ら3名を東京地検特捜部に刑事告発した。

(4)2010年1月「真実を求める会」が刑事告発


市民団体「真実を求める会」(山際澄夫代表)が小沢一郎民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」が土地の購入原資4億円を政治資金収支報告書に記載 しなかった件で
小沢一郎氏と秘書ら3名に対する「政治資金規正法違反・虚偽記載容疑」などで東京地検特捜部に刑事告発した。

(5)2010年1月「陸山会土地購入事件」強制捜査

東京地検特捜部((佐久間特捜部長)は市民団体「世論を正す会」の刑事告発を受けて、
「陸山会土地購入事件」をでっち上げて小沢氏の元秘書民主党石川知裕衆院議員と
陸山会の元会計責任者で小沢一郎氏の公設第1秘書大久保隆規被告と元私設秘書池田光智氏ら3名を
「政治資金規正法虚偽記載容 儀」で逮捕・起訴した。

検察の目的は小沢氏が土地購入の際一時期立て替えた4億円の中に水谷建設からの賄賂が含まれており小沢一郎氏を「受託収賄罪容儀」で逮捕・起訴す ることだったが
供述も証拠も出ず小沢一郎氏を起訴出来なかった。

(6)2010年2月「東京第五検察審査会」への不服審査申し立て

市民団体「真実を求める会」(山際澄夫代表)は
東京地検特捜部が「政治資金規正法違反・虚偽記載容疑」で小沢一郎幹事長を不起訴にした事を不服として
「東京第五検察審査会」に審査申し立てをして受理される。

(7)2010年4月「東京第五検察審査会」第一回「起訴相当」議決

「東京第五検察審査会」は小沢一郎氏の「政治資金規正法違反・虚偽記載容疑」の審査結果を「起訴相当」とする第一回議決を出した。
こ審査補助員の 米澤敏雄弁護士は
小沢一郎氏と秘書との関係は暴力団の親分と子分の関係と全く同じであると審査委員を「起訴相当」議決に誘導した疑いが指摘されている。

(8)2010年9月14日「東京第五検察審査会」第二回「起訴相当」議決

「東京第五検察審査会」は小沢一郎氏の「政治資金規正法違反・虚偽記載容疑」の審査結果を民主党代表選の開票日と同じ2010年9月14日に「起訴相当」とする第二回議決を出した。

しかし9月7日に審査補助の吉田繁實弁護士が選任されたばかりで審査を行った形跡も審査員が実在したのかも疑問。

民主党代表選で小沢一郎氏が菅首相に勝利した場合、小沢一郎氏の当選を無効とするためにわざわざ開票当日に「起訴相当」議決を出させた疑い。

(9)2010年9月14日民主党代表選の不正

民主党代表選において菅首相が小沢一郎氏に「圧勝」した形となった。
しかし候補者を書き込む投票用紙に「保護シール」がなく誰でも見られる状態で
事前に小沢票を破棄する不正工作が可能な状態であった。
開票当日午前中「菅首相圧勝」の情報が中間派の国会議員が流された結果
266対140で小 沢票が有利な状況が
200対206と菅首相票に逆転された。
民主党菅執行部のやらせの可能性大。

(10)2010年12月政治倫理審査会招致を強要

民主党菅執行部5人組(菅、仙原、岡田、前原、野田)は小沢一郎氏に対して「政治倫理審査会」への出席を執拗に要求し「大連立」の前提条件である 「小沢一郎氏完全排除」になりふり構わない暴走を始めたが
一昨日(12月28日)小沢一郎氏が「政治倫理審査会」への出席を記者会見で表明したため彼らのシナリオが完全 に破綻した。

▼2011年、主権者国民は「小沢一郎氏抹殺」の「政治謀略」を跳ね返し「反転大攻勢」を かけて売国勢力を打倒し「小沢民主党政権」樹立・「日本の独立」の「良い年」とすべきである。

自見金融相が小泉改革の検証に意欲=竹中氏追及の声高まる中で

2010-12-30 00:28:13 | 小泉竹中改革
PJニュース より
http://www.pjnews.net/news/490/20101224_6

自見金融相が小泉改革の検証に意欲=竹中氏追及の声高まる中で

2010年12月26日 08:02 JST


【PJニュース 2010年12月26日】自見庄三郎郵政改革・金融担当相は24日、
ネットや書籍を中心に竹中平蔵元金融相の責任を問う声が広がっていることについて
「国民のいろんな声があるのはいいこと」
と歓迎するとともに、
日本振興銀行の検証委員会を通じて小泉構造改革時代の責任を追及する意欲を示した。

書籍の世界では
『竹中平蔵こそ証人喚問を』佐高信(七つ森書館)
元金融庁顧問の木村剛氏を糾弾する
『日銀エリートの「挫折と転落」』有森隆(講談社)
従米属国政治の象徴である小泉・竹中改革の闇を暴く
『日本の独立』植草一秀(飛鳥新社)
などが立て続けに出て、話題を呼んでいる。

この風潮に対しての認識を記者から尋ねられた自見大臣は
「小泉さんがした過度の規制改革、市場原理主義が非常に国民の生活に不安定をもたらした。これが連立政権の基本で、三党合意に明記してある。そういう線にのっとって、いろいろな国民の声があることはいいこと」
との認識を示した。

その上で、
「日本振興銀行に対する行政対応等検証委員会」
の設置を決めたことについて
「台風一過というか、台風が行ってしまったと申し上げないが、そのたびに大きなことはきちっと検証していくことは必要だと思う」
との考えを述べた。

自見大臣は10日の記者会見で、業務停止処分を受けた外為どっとコムの研究所の主席理事に就いたままの竹中平蔵氏を非難し、日本振興銀行の検証委員会設置を表明。
以来、インターネット上では自見氏や国民新党、亀井代表に期待する声が高まっている。【了】

米ニューヨークタイムズが、小沢事件の真相(国策捜査と、メディア操作)を世界に報道

2010-12-29 20:57:13 | 小沢一郎
2009年05月31日(日)   Aobadai Life より
http://ameblo.jp/aobadai0301/entry-10271350479.html



米ニューヨークタイムズが、小沢事件の真相(国策捜査と、メディア操作)を世界に報道


今日、
美爾依さんの「カナダ de 日本語」 を読んで、

私もこの事実を知ったのだが、


自公政権や、官僚、マスコミによって、

マインドコントロールされている日本人を目覚めさせるには、

海外で日本がどのように報道されているか、

ということを伝えるのが一番だから、

転載のかたちになって、恐縮だが、

この事実を私も広めていくことに一役かいたい。


5月28日付のニューヨークタイムズ が、

小沢事件が、

民主党を次期総選挙で敗北に追い込むための

国策捜査である可能性が高く、

官僚権力(ここでは検察)と結託するマスコミもそれにのって、

野党第一党の党首を辞任に追い込んだ。

ということを世界に報道してくれているのである。


こういう事実は、中国や、北朝鮮のニュースが、

政権にとって不利なものは国内で報道されないのと

同様に、日本では絶対に報道されないが、


日本人のマインドコントロールを解くためには、

とても大事なニュースであるので、

私もこのニュースを広めるうえで、一役買いたいのである。


以下、「カナダ de 日本語」さんの訳文を転載

------------

スキャンダル報道で、メディアは情報を流すだけ
マーティン・フェックラー (By MARTIN FACKLER)
2009年5月28日

東京 — 東京検察官が3月に次期総理候補の野党党首小沢一郎の秘書を逮捕したとき、次期選挙で敗北するのが確実視されていた
自由民主党 を延命させるかのごとく、民主党にダメージを与えるスキャンダルを誘発させた。
多くの日本人が権力の不正行使に抗議したが、大手新聞社やテレビの報道が国民の真の声を覆い隠してしまった。

その代わりに、メディアはほとんど建設会社から野党党首、小沢一郎に渡った違法献金についての検察からのリークに薄くベールをかけた匿名による証言の流れを次から次へと額面どおりに垂れ流した。
このような否定的な報道が何週間か続いた後、小沢氏は、
民主党 の代表を辞任した。

小沢氏の辞任は又、さまざまな検察への批判を引き起こした。
政治関係者や、普段はめったに公で検察のやり方を批判しない一部の元検察官からさえも批判の声があがった。
検察への苦情は、政治的干渉を責めたものから、検察官が単に逮捕のタイミングに配慮が欠けていたことを批判するものまで広範囲にわたった。

しかし、警告として、学者や元検察官らは、検察の情報をこの事件の答えとして流すニュース・メディアの失敗を指摘した。
特に、国が半世紀にわたる自民党政治から二大政党制に変わろうとしている日本の民主主義にとって大切なときに、このようなことが行われるとは。

京都大学で国際政治学を教えている保守派学者の中西輝政教授は、
「マスメディアは、何が危うくなっているのか、人々に告げるのに失敗した。それは、日本が政府を変えて、政治的閉塞感を打ち破る最高のチャンスを逃そうとしているということだ。それも、国民が全く気づかないうちに」
と語った。

今回の逮捕は、有権者の間にベテランの政治的なボスである小沢氏が、政権交代を切望していた自民党に比べて、少しもきれいでなかったのではないかという恐れを確認させることになった。
又、それは、9月初旬までに実施されなければならない選挙に先駆けて、一時的に野党を脱線させたように見えた。
世論調査での民主党の支持率も下がった。
だが、その支持率は、スタンフォードで教育を受けたエンジニアの鳩山由起夫新代表が今月、代表選で選出された後、わずかにはね返った。

確かに新聞は検察を非難する意見も一部載せたが、日本のジャーナリストは彼らの報道が小沢氏にとっては厳しく、検察の捜査に対しては一般に好意的だったことを認めている。
しかし、彼らは、ちょうど検察の言いなりになったり、リークされた情報を繰り返し報道しているのではないかという指摘に憤慨する。

ザ・ニューヨーク・タイムズが日本の大手新聞社である朝日新聞に質問したところ、
「朝日新聞は検察のリークをそのまま記事にすることは決してありえない。」
という返事が書面で届いた。


しかし、ジャーナリストは、報道が、過去にも何度も問われた日本のニュース・メディアの独立性についての問題を認めている。
日本の大手報道機関は、国家権力と親密でありすぎることを長い間問題視されてきた。


実際、学者たちは小沢事件の報道のおかげで、例えば、因習打破主義的なインターネット起業家堀江貴文のような、少し前にあえて新しい会社の設立に挑んで逮捕された人々を肯定的に報道することにもつながっていると言う。

上智大学でジャーナリズムの教鞭をとる田島康彦教授は、
「ニュース・メディアは権力の監視者であるべきだが、彼らはむしろ、権力の番犬のように振舞っている」
と述べた。

米国でも、どこでも、ニュースメディアは政府に近すぎるとの似たような批判に直面しているが、問題は日本でより大きなものとなっている。
政府との居心地のいい絆が、「記者クラブ」という仕組みをつくり、一般に、大手メディアのメンバーだけが出入りできるようになっている。

このシステムが、大手報道機関に政府報道を鵜呑みにした記事をかかせることにつながると、長い間批判されている。
ジャーナリスト達は、「記者クラブ」にかかわらず、独立性を保っているといっているが
、情報へのアクセスを失うことを脅しに、時々、政府寄りの記事を強制して書かせられているとも言われている。

先月、日本の大きな全国紙に比べて小さな日刊紙であるが、しばしば
全国紙より政府に批判的である報道で知られている東京新聞  は、小沢氏に献金した同じ会社から寄付を受け取った与党議員についての調査の記事を載せた後、3週間、東京検察官と話すのを禁止された。

東京新聞によれば、単に検察が公表されることを望まなかった何かを報道したことが理由で罰されたと伝えた。
「検察官に逆らうことは、最後のメディアタブーのうちの1つ」
と、東京検察官の記者クラブの新聞担当報道長官、瀬口晴義は言った。


チェックの働きを怠ったニュースメディアは、検察が説明することなく自由に行動するのを許した、と野党社会民主党衆院議員の保坂展人議員は語った。
保坂議員は、今回の検察による調査について、
彼のブログ で広範囲にわたって書いている。

保坂展人氏は
「小沢氏がターゲットとなったのは、民主党が検察庁を含む官僚機構の簡素化をスローガンに掲げていたからだ」
と信じていると述べた。
(東京地方検察署は、タイムズが記者クラブのメンバーでないことを理由にインタビューの申し出を断った。)

日本のジャーナリストは、日本の次の首相になる予定だった男について、国民が知る必要があったという理由を挙げて、小沢氏に対するネガティブ・キャンペーンに的を絞り続けた

そして又、ジャーナリストは、リポーターの間では、彼らが調査の焦点である人々についてスクープを得るとより多くの料金をもらえるために、小沢氏についてより多くの記事が書かれたと言う。

「我々がスキャンダルについて書けるだけ書く競争が始まった」
と朝日新聞の東京地方検察署担当者、市田嵩氏は語った。
しかし、このことは、西松建設が自由党民主党の議員に献金したことに関して深く調査したのが、なぜ非常に限られた記者だけだったのかという説明にはならない。

答えは、ほとんどの日本人記者が承知しているように、検察の言うとおりに書くほうが、独自の記事を書くことによって検察を怒らせるという危険を冒すことより簡単だったからだ。

ニュースメディアは、小沢氏に関する調査についての記事に見られるように、無慈悲に協力しあうので、以前はそんな報道から利益を得ていた元検察官らさえそんなメディアを批判し始めた。

「私が検察官だったときは気分がよかった。」
と36年間検察官を勤めて、今は退職している宗像紀夫氏は言った。「
でも、今は1人の市民として、騙されたように感じる。」


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私が購読しているNews Weekでも、小沢事件の直後に、

この逮捕が国策捜査である可能性を指摘していた。


客観的な立場にある海外のまともなジャーナリズムは、

日本の民主主義の危機をよくわかっているのである。


われわれは、韓国の前大統領の他殺陰謀論は、

マスコミがそのように報道するから、

そうかなあ、と疑問に思うが、

他国を心配する前に、まず自分の国で、

このような戦後最大の政治スキャンダルが起こっている現実を直視すべきだ。


この記事は、


「検察は正しい」
「マスコミは政権側を批判する立場にある」


というようなマインドコントロールにかかってしまっている日本人を、

解放してくれる助けになってくれるだろう。


日本人は海外で、自分たちがどのように見られているか、

ということには敏感だし、


それになんといってもニューヨークタイムズは、

世界で一番、日本人が信頼している海外メディアである。


政倫審出席を表明した小沢一郎氏提言に合理性

2010-12-29 20:39:10 | 小沢一郎

2010年12月29日 (水) 植草一秀の『知られざる真実』 より
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-8fbe.html


政倫審出席を表明した小沢一郎氏提言に合理性

 

マスゴミの小沢一郎氏攻撃には大きな裏がある。この点を認識することが、菅-仙谷-岡田執行部の狂気の行動と一連の過剰報道を理解する鍵である。
 
 問題を正確に捉えるには、昨年9月に成立した政権交代の意味を正しく認識し、この政権交代に至るまでの小沢一郎氏攻撃とつなげて現実を把握する必要がある。
 
 この問題を、歴史的経緯を踏まえて明らかにしたのが拙著『日本の独立-主権者国民と「米・官・業・政・電」利権複合体の死闘』であり、ぜひ、ご高読賜りたく思う。
 

 

昨年9月に実現した政権交代は、日本の歴史上初めて、民衆が政治権力を奪取した画期的な意味を有するものだった。
 
 日本政治を支配し続けてきたのは、米官業のトライアングル勢力である。官僚による専制=有司専制の制度を確立したのは大久保利通であり、日本政治の分岐点になったのが明治六年政変であった。
 
 議会政治、三権分立、人民の権利擁護、政治とカネの問題に対する厳しい追及を主張する勢力が、政治的謀略に敗れ下野した。この明治六年政変以降、長州閥を軸とする有司専制政治が跋扈し、政治が私的利益を追求する悪弊が日本政治の底流を流れ続けることになった。
 
 第二次大戦後、日本の民主化措置が実行されたが、GHQは日本の官僚制度に抜本的なメスを入れなかった。戦前の高文試験は上級公務員試験として温存され、支配者としての官僚機構が温存されたのである。
 
 戦後日本を支配し続けたのは米国である。米国は日本の国政選挙にまで介入し、傀儡政権を支え、米国と距離を置こうとする政権をあらゆる手段を用いて攻撃し続けた。米国は戦犯容疑者の一部を釈放し、戦後日本を米国が支配するために釈放した戦犯容疑者を積極活用したのである。
 
 米官業による日本支配の手先となり続けてきたのが利権政治屋と電波=マスゴミである。この五者を米官業政電=悪徳ペンタゴンと称している。
 
 小沢一郎氏が激しい攻撃を受け続けているのは、悪徳ペンタゴンが小沢一郎氏を「米・官・業・政・電」利権複合体による日本政治支配構造を破壊しかねない、最高度に危険な人物だと認定してきたことに理由があると考えるべきである。
 
 私が激しい攻撃を受け続けてきたのも、文脈としては同じ系列に属するのだと認識する。
 
 小沢一郎氏に対する狂気とも言える攻撃は、この1、2年に始まったことではない。2006年に小沢一郎氏が民主党代表に就任して以来、小沢氏に対する激しい攻撃、小沢氏を失脚させようとする工作活動は一貫して実行されてきた。
 
 小沢一郎氏を標的とするマスゴミ談合組織「三宝会」を竹下登元首相が組織したのは橋本龍太郎氏が首相に就任した1996年のことである。マスゴミによる小沢氏攻撃の系譜は15年の歴史を保持しているのだ。
 
 小沢一郎氏に対する激しい攻撃にもかかわらず、昨年8月30日の総選挙で悪徳ペンタゴン勢力に対峙する主権者国民勢力が大勝利を果たした。その結果、樹立されたのが鳩山由紀夫政権だった。

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このときに小沢一郎政権が誕生していたなら、その後の歴史はまったく違うものになっただろう。本来は小沢一郎氏が内閣総理大臣に就任するはずであった。ところが、悪徳ペンタゴンは昨年3月3日に、小沢一郎氏の公設第一秘書大久保隆規氏を不当に逮捕、起訴してしまった。この裁判では、本年1月13日の第二回公判で、大久保氏逮捕が誤認逮捕であったことが明らかになった。検察は史上空前の大失態を演じたことになる。逆に言えば、小沢一郎政権を阻止するために、悪徳ペンタゴンがまさに常軌を逸した行動を取ったことが明らかにされたのだ。
 
 悪徳ペンタゴンは民主党にもその手先を多数送り込んでいた。鳩山由紀夫前首相は、悪徳ペンタゴン勢力を要職に付け過ぎた。その結果、6月2日に鳩山前首相が辞意を表明した間隙を縫って、悪徳ペンタゴン勢力による権力奪還を許してしまったのだ。
 
 「庇(ひさし)を貸して母屋を取られる」とはこのことを言う。
 
 しかし、クーデーター政権の菅直人政権は、7月11日の参院選で惨敗した。菅直人氏自身が菅直人政権に対する信任投票であると位置付けた参院選で民主党が大敗したのだから、参院選で菅直人氏が辞任するのは当然のことであった。
 
 ところが菅直人氏は総理の椅子にしがみついた。総理の椅子にしがみつく菅直人氏に適正な対応を取ることが9月14日民主党代表選の目的だったが、民主党執行部は不正選挙を指揮した疑いが濃く、またマスゴミは狂気とも言える小沢一郎氏攻撃の報道を展開した。その結果、菅直人氏が総理に居座ったまま年を越えることになった。
 
 政権交代実現最大の功労者である小沢一郎氏をせん滅しようとする悪徳民主党執行部は、小沢氏の政倫審出席や証人喚問で小沢一郎氏をさらに激しく攻撃し続けているが、囲碁の名手である小沢一郎氏に一本取られてしまったようだ。
 
 小沢一郎氏は国会審議正常化が確約されるなら通常国会冒頭で政倫審での説明を行うことを明言した。審議正常化が確約されない場合は、予算成立後に説明を行うことを表明した。
 
 菅-岡田執行部はもごもご言っているが、小沢一郎氏の提言に理がある。政倫審出席は民主党単独でも決定できる。野党が証人喚問を求めても、民主党が単独で政倫審での説明を求め、小沢氏が政倫審で説明を行えば、一件落着である。
 
 民主党執行部が政倫審での説明以上のものを求めるなら、それは国会審議正常化のための方策の範囲を超える。単なる小沢氏攻撃の行動であることが明白になってしまい、正当性を失うことになる。

 

 
 主権者国民勢力は一刻も早く菅直人政権を退場させ、主権者国民政権を再樹立しなければならない。


選挙運動は山奥の寒村から、ここに小沢一郎の本質がある

2010-12-29 20:05:38 | 小沢一郎
2010-12-29 山崎行太郎の政治ブログ より
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20101229/1293550079


小沢一郎の政治戦略と政治哲学とは何か?

小沢一郎は決して潰れない。
何回も裏切られ、満身創痍となり、もうお仕舞いという絶体絶命の窮境に追い込まれてからも、不死鳥のように甦り、政治の表舞台に復帰するというパターンを繰り返してきた。
人は、小沢一郎が政治の表舞台で活躍する、いわゆる「光の部分」ばかりを見て、その「豪腕」にのみ注目するが、
僕は、小沢一郎の小沢一郎たる所以は、「光の部分」よりも、いかに不遇時代に、くじけることなく努力を積み重ねていき、表舞台への復権を成し遂げるかという「影の部分」にあると思っている。
おそらく多くの人が、民主党と合流した後でも、すでに「小沢一郎の時代は終わった」と思ったはずであり、小沢一郎主導の「政権交代」など、夢想だにしなかったはずである。

小沢一郎の方法に「川上作戦」というものがある。
よく知られているように、「川上作戦」とは選挙運動を始めるのに、まず山奥の寒村から始めるというものだが、ここに政治家・小沢一郎の本質がある。
何もやらないというのではない。
むやみに走り回り、叫び続けるというのでもない。
小沢一郎には戦略がある。
小沢一郎は選挙民の心理構造をよく知っている。
小沢一郎が不遇時代にくじける気配を見せないのは、先が読めているからだろう。
先が読めているから、慌てない。
小沢一郎の民衆、あるいは国民への深い信頼が、小沢一郎の強さである。

おそらく目端のきいた子分達が、小沢の元から去っていくのは、小沢の「戦略」に不安を感じるからである。
小沢の元から去っていった子分達が、その後、どーなったかは、言うまでもない。
小沢が、新しく集まって来た仲間達とともに「復権」を成し遂げるのに対して、小沢の元から去っていった子分達は、ほぼ世の中から消えているか、政界のはぐれカラスになるかである。
幹事長の岡田克也は、マスコミの小沢評を受け売りして、「小沢さんの元に人は集まるが、すぐに去っていく」と、小沢に人間的欠陥があり、政治的欠陥があるかのように批判している。
むろん、岡田やマスコミが間違っている。
小沢の近くにいると、どんな無能政治家も、小沢の「目に見えない政治的パワー」の余波で、実力以上に過大評価され、持て囃されているうちに自分を見失う。
小沢はそこを見ている。
船田元は、かつて小沢の第一の子分として注目され、海外メディアから、「21世紀の世界的リーダー」にまで選ばれたほどだが、突然、小沢からの連絡が途絶えたと泣き言を言っている。
船田と同様に勘違いした政治家は少なくない。
最近の例では、渡部恒三、藤井裕久、石井一……。
彼等は、最初は小沢の子分として注目され、次に小沢を裏切った政治家として、そして最後に敵側に寝返り、「小沢潰し」に狂奔する政治家として、注目されているにすぎない。
僕は勘違いしていたが、菅直人が、小沢邸の「新年会」で、卑屈な笑顔を振り撒きつつ、乾杯の音頭をとったのは、今年の正月元旦だった。
変われば変わるものだが、菅直人の顔が見るも無惨というか、醜悪な顔に変わったのは、小沢や国民への裏切りと嘘を繰り返して来た結果と思えば、不思議でも何でもない。
それに対して小沢の顔は、好き嫌いは別として、いつもスッキリしている。

王道と覇道ということばがあるが、小沢が王道の人であるのは間違いない。
それに対して菅直人は……

前原外相:年明けに訪米

2010-12-29 19:47:53 | 国際・外交(日米関係)
毎日新聞 2010年12月28日 より
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20101229k0000m010023000c.html


前原外相:年明けに訪米 新幹線売り込みも

 前原誠司外相は28日の記者会見で、来年1月6日から10日まで米国を訪問する、と発表した。
訪米は9月の外相就任以降4回目。
ワシントンでクリントン国務長官と会談し、来春に予定される菅直人首相とオバマ大統領の会談に向けた準備を進める。
また、日米同盟をテーマに講演するほか、高速鉄道建設が計画されている南部のフロリダ州も訪れ、スコット次期州知事に日本の新幹線を売り込む予定だ。

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【私のコメント】

日本最大の親米政治家。
また何か指示を仰ぎに行くのだろう。
小沢対策を聞きに行くのではないか。

>訪米は9月の外相就任以降4回目

月に一度訪米していることになる。
明らかに異常だ。
これではアメリカ政府の外交官と変わりない。

新幹線売り込みなど隠れ蓑だ。


『日本の独立』  植草一秀

2010-12-29 16:21:59 | 民主党、維新の会
日本の独立
植草一秀
飛鳥新社



■『菅直人氏は立身出世に目がくらんで、一番大事なことを見落とした。』

『菅氏が反小沢勢力と手を結び、政権を奪取したのが6月4日の民主党代表選だった。』

『小沢一郎氏、鳩山由紀夫氏が主導した政権交代は、日本政治の基本構造を一新することに最大の狙いがあった。対米隷属外交を排し、米国に対しても言うべきことを言う外交を確立すること、市場原理主義を排し、セーフティネット重視、共生重視の経済政策を実行すること、そして官僚利権を根絶することが目標に掲げられた。』

『ところが、菅直人新首相は基本政策理念がまったく異なる人々と手を結んだ。民主党内反小沢勢力議員は、対米隷属と市場原理主義を基礎に据えている可能性が極めて高い。』

『日本政治全体が広い意味で、米国に支配され続けてきたことを知らなければならない。この意味で、日本は真の独立を果たしていない。』

『6・2クーデター(2010.6.2)によって樹立された菅直人政権は、主権者国民政権とは異質の悪徳ペンタゴン(米・官・業・政・電)政権に回帰したと言わざるを得ない。』


■『小泉竹中政治の日本経済破壊活動は、外国資本に巨大な利益を獲得させることを目的に実行された疑いが濃厚である。』

『(田中角栄内閣のように)自主外交をめざした政権は、確実に米国からの攻撃を受けてきた。吉田政権、岸政権、小泉政権のように、身も心も対米隷属色に染め抜いた政権は、米国から全面支援を受けた。』

『米国の産軍複合体は、産軍複合体自身が生存し続けるために、常に世界各地での戦争を必要としている。』

『日本の自衛隊は、完全に米国の軍事戦略にすべて従う体制に組み込まれている。』


■『メディアは、検察審査会をあたかも最終的な司法判断を下す最高機関であるかのように報道するが、検察審査会はそもそも犯罪被害者が検察庁の不起訴確定に不服を申し立てるための機関であって、事案に対する最終的な司法判断を示す機関ではない。』

『警察・検察・裁判所が政治的に不正利用されているのが、残念ながら日本の現状である。』


■『岸信介の流れをくむ自民党保守本流と位置づけられてきたのが、清和政策研究会=旧福田派であり、その牙城が財務相、警察庁、検察庁である。東京地検特捜部がこれまで摘発し失脚させた政治家リストを見ると、圧倒的に清和会の政敵である田中角栄元首相の流れをくむ「経世会」政治家が多い。』


■『2010年9月の民主党代表選は異様な選挙であった。』

『メディアはメディアが調査したという世論なるものを前面に掲げ、この世論を原動力に政治論調を形成する。』

『9月14日の代表選は、米・官・業トライアングルによる小沢一郎氏せん滅作戦だったと言ってよい。』

『(9月14日の)党員・サポーター票集計作業に疑惑が生じた最大の理由は、投票用紙にプライバシー・シールが使用されなかったことにある。』

『プライバシー・シールを貼り付けていないから、この段階で投票の一部が廃棄されたのではないかとの疑惑が払拭されていない。』

『党員・サポーター有権者数は34万人だったが、有効投票数は22万票だった。11万人が棄権したことになる。あまりにも多い棄権者数が廃棄処分疑惑の根拠にされている。』

『民主党代表選に際して激しい偏向報道が展開された最大の背景は、米国が小沢一郎氏を激しく警戒していることに尽きると思われる。』

『メディアは記者クラブ制度によって霞ヶ関官庁からの情報入手を独占し、メディアと官僚機構が根深い癒着構造を形成している。そして、これら全体が米国の支配下に置かれている。』


■『(尖閣問題について)米国は日中間の領土問題に関与しない姿勢を示すと同時に、日本政府に対して中国人船長を釈放することを指揮したと見られる。米国にとって、日米関係よりも米中関係が重要であることを示した米国の対応だった。』

『東アジアの集団安全保障体制が確立されれば日米同盟は不要になる。米国はこの事態を何よりも恐れている。日米同盟が廃棄されれば、米国は日本領土を基地として使用できなくなるからだ。』


■『小沢一郎氏は日本の対米隷属を根本から修正するとの意志を示し続けているがために、激しい攻撃の対象とされている。』

『メディアは、一貫して菅直人政権全面擁護の姿勢を貫いた。』

『日本における対米隷属の力、言い換えれば、米国による日本支配の力は、想像を絶するほどに強い。政治家が損得を基準に行動するなら、間違いなく強い米国に隷従する道を選択するだろう。現に小泉純一郎氏はその道を選択し、5年半にも及ぶ長期政権を維持した。』

菅直人氏は、小泉純一郎氏を師と見立て、米国に隷従する道を選んだのだと思われる。』


ウクライナでも日本と同じようなことが起こっている

2010-12-29 09:24:13 | 国際・外交(日米関係)



ウクライナ:前首相派を一斉摘発 政権が徹底排除か

 【モスクワ田中洋之】ウクライナでティモシェンコ前首相や前内閣の閣僚らが相次いで逮捕・起訴され、国を揺るがすスキャンダルに発展している。
2月の大統領選でティモシェンコ氏に勝利したヤヌコビッチ大統領が、前首相派の徹底排除に乗り出したとの見方が出ており、同派は「政治弾圧だ」と反発を強めている。

 ティモシェンコ氏については、首相時代に京都議定書に基づき温室効果ガスの排出枠を日本に売って得た代金を不正流用した疑いで最高検察庁が4月に捜査を開始。
今月20日に正式起訴され、逮捕は免れたものの旅行が禁止され、今も検察の事情聴取が続いている。
ティモシェンコ氏は
「(容疑は)まったくのナンセンス。主要なライバルに対する大統領の報復だ」
と厳しく抗議している。

 26日にはティモシェンコ氏とともに04年の民主化運動「オレンジ革命」を指導したルツェンコ前内相が逮捕された。
前内相は息子と犬を連れて散歩中、覆面姿のウクライナ保安庁要員にいきなり車で連行されたという。
在任中に自分の運転手に不正な手段で住宅を与えた公金横領の容疑がもたれているが、前内相は否定している。

 また、国際手配されていたダニリシン前経済相が10月に逃亡先のプラハで拘束されたほか、
前政府の環境相や第1法務次官、第1国防次官らが今夏以降、さまざまな容疑で逮捕され、
トゥルチノフ前第1副首相も旅行禁止措置を受けている。

 ヤヌコビッチ大統領は26日のテレビ番組に出演し、今回の「一斉摘発」が政治的なものであることを否定したうえで、
「取り調べや裁判は合法性と透明性が保障される。私はティモシェンコ氏が自分を弁護する機会を見つけることを望む」
と語った。

 親欧米派のティモシェンコ氏は、ロシア黒海艦隊の駐留延長に同意するなど親露路線を進めるヤヌコビッチ大統領への批判を強めている。
政権側は、根強い人気を持つティモシェンコ氏が「第2のオレンジ革命」につながるような影響力をもつことを警戒しているとされる。
政権側の攻勢でティモシェンコ派は窮地に追い込まれつつあり、同派の分裂につながる可能性も指摘されている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【私のコメント】

毎日新聞はこの記事によって、ロシア寄りのウクライナはこれほど悪い国だということを言いたいのだろうが、
ロシアをアメリカに、ウクライナを日本に代えれば、
ここで起こっていることは日本と同じであることに気づかないだろうか。

ティモシェンコ前首相を小沢一郎前幹事長に、
ヤヌコビッチ大統領を菅直人首相になぞらえれば、
日本の構図とまったく同じになる。

前政権の担当者が現政権によって非合法に排除されている。
それがウクライナではティモシェンコ前首相であり、
日本では小沢一郎前幹事長であるということだ。

小沢一郎前幹事長の強制起訴の理由など、そんなことの合法性などどうでもいいのだ。
理由などはどうでもよく、政治的に排除することが大事なのである。
そのこともウクライナと同じである。

日本人が、日本やアメリカが優れた民主国家だと思っているとしたら、それはウクライナやロシアが民主国家であるのと同じ程度の『優れた』(?)民主国家にすぎない。

日本人は、ウクライナのこの騒動をみて、旧共産圏ではまだこんなことをやっているのかという程度の認識しかないのかもしれないが、ここで行われていることは今まさに日本で起こっていることと同じである。

違いは、親米か、親露かの違いだけである。
親米がいいか、親露がいいか、そんな問題ではない。
親米政権であろうと、親露政権であろうと、
政治権力はいつの時代もこういう非合法的なことを行う危険性があるということだ。
親米政権の日本で、親露政権のウクライナを批判するのは、天に唾するようなものだ。やってることは同じなのだ。

もしウクライナで起こっていることが民主主義の危機、法治国家の危機であるとしたら、それと同じことが日本についても当てはまる。

毎日新聞自体がそのことに気づかないまま、親米政権擁護のスタンスに何の疑いも持たず上の記事を書いているところが残念であり、日本のメディア報道の偏りと底の浅さを感じる。

まさに、人のふり見て何とやら、である。


甘えの語彙

2010-12-28 21:23:22 | 歴史
「甘え」の構造 [増補普及版]
土居 健郎
弘文堂


 ある日、私が授業に向かっていると、女子生徒が廊下の反対側から急いで走ってきていた。たぶん移動教室で急いでいるのだろう。私とすれ違いざま、肩と肩が触れた。私の手からバサリとノートが落ちた。
 女子生徒は「ごめんなさーい」といって、通り過ぎていった。何か変だと思った。女子生徒が通り過ぎていったことばかりではない。その前に私にはその女子生徒が発した「ごめんなさーい」という言語感覚が気になった。
こういう場合、普通は「すみません」なのではなかろうか。それがいつから「ごめんなさい」になったのだろうか。そんなことが気になるのは歳のせいなのだろうか。

「ごめんなさい」は普通は幼児言葉である。幼児言葉でないとしたら、友達言葉である。

 「ごめんなさい」という言葉は、文字通り「御免なさい」であって、はじめから責任を免除してもらってるという気持ちが含まれている。そこにはすでに許されているという前提があり、「済まない」(責任を取ろう)という気持ちはない。それが許されるのは、「自己責任」能力の問えない幼児だけか、気を使う必要のないごく親しい間柄だけである。だから幼児言葉であり、友達言葉である。少なくともそれは目上の者に対して使う言葉ではない。

 それに対して「すみません」は「済みません」であり、簡単に「済ませて」はならないという誠意が込められている。しかし今は何でも許される時代だから、ほとんどの人はそこで「済ませて」しまっている。それほど言葉が上滑りしている時代である。言葉の怖さを感じられない時代である。

 私は「すみません」といわれて、「どう落とし前をつけてくれるのか」とすごんだほうがよいとか、そんなヤクザなことをいっているのではない。

しかし何をしてでも許されるという感覚が「御免なさい」という言葉を使わせているのだとすると、これはかなり異常なことなのではないか。

 ところがこの「ごめんなさい」という言葉を最近の女子高校生の間でよく聞くようになった。今の高校生にとっては「済みません」というよりも、「御免なさーい」といって通り抜けていくことがオシャレでスマートなのかもしれない。しかし高校生というのは社会人の一歩手前ではないか。

本来高校生というのは、大人ほどの責任能力はないものの、多少背伸びしてでも自己責任能力を高めていく必要のある時期である。こんなことをいうと私も今流行りの「自己責任」論が好きな一人かと思われるかもしれない。

本来私は「自己責任」という言葉が好きではない。それは、完全に自己責任の問われる社会は、自分の非を認めたとたんに百%自分が悪くなってしまい、しかも誰もそれを助けない社会であり、そんな怖くて冷たい社会では「済みません」どころか「御免なさい」という言葉さえ誰も使わなくなっていくはずだと思うからである。

 確かに世の中は、あやまれば何でも許されるわけではない。しかし本気であやまる者がいれば、たとえ自分が少しばかり損をしても、それを許そうとするのが世の中だと、私は思っている。社会の秩序はその微妙なバランスの上に成り立っているような気がする。 そのような中で、最初から社会にあぐらをかいたような「御免なさーい」といって通り抜けていく感覚が充満すれば、みんな心の中で「何だあれは」という不満が溜まっていくはずである。

手から落ちたノートを拾うことぐらいは誰にでもできる。誰が拾うかは大したことではない。

 しかし、人の心は微妙なもので、最初から「御免なさーい」(責任を免除してくれ)と言われれば「そんな簡単に済ませられるものか、どうしてくれるんだ」と思い、逆に「済みません」(何かさせてください)と言われれば「どういたしまして」ということになる。そこにあるのは自分の失敗を許すのは他人であって、自分ではないというルールだと思う。

 私は、ぶつかりざまに女子生徒の発した「御免なさーい」(責任を免除してくれ)という言葉と、その生徒が立ち止まりもせず通り抜けていったことが無関係には思えなかった。 彼女がもし「済みません」と言って、立ち止まって私の手から落ちたノートを拾い上げたら、私はなんと言うだろうか。「ありがとう」ではなかろうか。そういう誠意ある行動に対して人は必ず「ありがとう」というのではなかろうか。

 人はちょっとした行き違いが起こっても、それを「ありがとう」で終わらせる技術を日常生活の中にふんだんに持っている。その入口が言葉にあるのだと思う。日本の社会はそのような高い人間関係の技術を生む感性の豊かさをずっと維持してきた。昔はそのことをもっと簡単に「思いやり」とか「こころ配り」とかいう言葉で表現できた。

 社会がそのような豊かな感性の中で動いていることは、めったにないほど高いレベルのことであって、それが「有り難い」(めったにない)という言葉の語源であると思う。「ありがとう」という言葉には、そのような人の好意につつまれて自分がここまで成長できたことへの感謝がある。

 自分が人からもらった恵みを感じることのできる人は、「人からもらった好意を、死ぬまでに人に返したい」と思わないだろうか。それは損得ではなく、人に返すことができて初めて自分も人間として大きくなれるという人生の価値に関わる感覚である。

 人と人の間と書いて「人間」と読むように、人生の価値は人と人、あるいは人と社会の間にある。返さなければならないから返すのではなく、返したいから返すのである。返すつもりがなければ、人の好意に対しては「すまない」気持ちのままで、かえって受け取れなくなる。いつか返すつもりがあるからこそ、人の好意も「ありがたく」受け取ることができる。それは、自分のことは自分でやるという「自己責任」のルールや、人に迷惑をかけないかぎり人は自由だとする「自己決定」のルールよりももっと大きな広がりを持つものだ。それが感謝の意味である。




『権利』も『責任』も『人に要求する』というベクトルを放っている。
『御恩』と『奉公』が『自ら与える』というベクトルを持っていることと強いコントラストを示している。




歴史的に見ても、鎌倉時代に将軍の『御恩』が発生したことと、同時代の鎌倉新仏教の開祖たちが庶民の救済を大きな宗教的テーマとしてとらえたこととは別々のことではないと思う。
それどころか両者は分かちがたく結びついている。
日本の文化はそのことを考えることなしには理解できないのではないか。





『すまない』というのは、『御恩』に対して『奉公』がまだ『済んでいない』からである。

日本人は御恩を与える人に対して『頼る』ことを当然としてきた。
『頼りがい』のある人は尊敬されてもきた。

自分を頼らせてくれる人は、かけがえのない人で、そこには水入らずの濃密な人間関係が存在した。

土居健郎のいう『甘え』というのはそういう雰囲気の中で成立する。

日本人は自分を頼らせてくれる人を絶えず求め、その人にすべてを『おまかせ』することを最高の人間関係だと捉えてきた。

島田裕巳氏のいう『おまかせ』の心理もこのようなものである。
すべてを『おまかせ』にできる人間関係は、日本人にとって非常に心地よいものであった。

このような人間心理は、『御恩』と『奉公』の関係に慣れ親しんだ社会であったからこそ生まれることである。

鎌倉仏教の庶民救済の思想にしても、いかにして仏の御恩を広く庶民にまで届けることができるかというところに、最大の力点があったと思う。

『感謝』の念もそのような社会の中ではじめてでてくる。
英語のサンキューではいかにも軽い。
日本語の『ありがとう』はもうちょっと心のこもった感じがする。

ところがこれを『ご免なさい』で済まそうとしてしまう多くの大人が発生している。

本当は、ご免なさいで『済まして』はならないのである。

御恩を受けたあとは『奉公』の義務を支払うことが社会から期待されているからである。
それは義務というよりも礼儀といったほうがよいような社会のルールである。
それを免除してもらって、何もしないで済ましてしまう人が多くなっている。

しかし一方では、リストラの横行などを見ていると、今の社会が十分に『御恩』が行き渡った社会であるようには思われない。

そういう意味では今の日本は、伝統的な『御恩』と『奉公』の人間関係が両方向から崩れているのかもしれない。



その結果、人に対して『すまない』と思う気持ちは失われ、後は知らないよといわんばかりの『ご免なさい』が横行する。
『御恩』がないということは、それに対する『奉公』の気持ちも発生しないということである。日本社会の中ではそれは義務というよりも相互に自発的なものとして発生してきた。
自然にわいてくる感情である。
そういう感情が可能であるためには、相互に信頼しあえる濃密な人間関係が必要である。それはまず『保護』のなかで発生したように思える。

幕府の将軍は自分を見捨てることはない。
仏教の仏様は自分を見捨てることはなく、どんな人間でも救ってくださろうとする。
そのような社会のなかで人々の安心感も増大し、
人を信頼しあうという社会の雰囲気もはぐくまれ、
人に『おまかせ』できる居心地の良さもできてくる。
土居健郎のいう『甘え』とは、このような社会システム(それは御恩と奉公に見られるように、たんに社会システムとしてではなく、政治システムにまで高められたものであったが)のなかで発生する国民的な感情である。
そしてそれは宗教的な感情でもある。

『感謝』の念というのはこのような保護の体系のなかで暮らす人々のなかに発生する感情であり、『すまない』という気持ちがあるから『感謝』の念もわいてくるのであり、そこには保護に対してその返礼がまだ『済んでいない』にもかかわらず、そのことを許してもらうこと(またはそれを要求されないこと)に対する感謝の念である。

御恩と奉公の関係は一般には政治的互酬の関係にあるが、その原初形態には報酬を求めない無償性がある。
この無償性は一面では『無私の精神』にも通じるものがある。
だから『俺の恩を忘れるなよ』などといったとすれば感謝の念は台無しになる。

感謝の根っこには『甘え』がある。それは悪い意味ではなく、甘えながらおまかせできる居心地の良さがある。そのことにふだん人は気づかないが、御恩と奉公の関係のように政治システム化されることもある。
しかし政治システム化されなくても、日本社会のなかにもともとそれは目に見えない形で存在しているのであり、それが『すまない』気持ちや『感謝』の念をはぐくむ下地になっている。



とすればこのような人間関係が崩れるということは、それまでの日本人の基本的な人間関係が崩れるということであり、その被害を一番被っているのは子どもたちである。

甘えや感謝、そして頼りたいという気持ちやおまかせしたいという感情が、保護に裏打ちされているものだとすれば、今流行りのオンリーワンの風潮とはそれは全く性質を異にするものである。

オンリーワン思想は自分がこの世の中心であり、自分が一番輝いているとする考え方であり、このような考え方は従来の日本の中ではありえないどころか、逆に厳しく戒められてきた考え方である。
というよりもどこか『気持ち悪い』考え方であった。

このオンリーワンを起点にして日本人の人間関係を考えていくと、
今まで言ったような、感謝の念や甘えの感情、おまかせの感情は排除されてしまうのである。

甘えの感情や感謝の念には自分が弱い人間であることを前提にしているところがあるが、
オンリーワンという発想には自己の全能感が前面に出てきて、自分の不完全さを自覚するという視点がない。その結果、誰かに頼りたいという感情も厳しく排除されてしまう。

そして自分は誰かに頼るべき存在だという感覚がなくなり、逆に他人は自分のために利用すべき存在に変わっていく。世界の中心に自分が存在するという感覚だけが肥大して、社会のなかでの客観的な自分の位置付けができなくなってしまう。

子どもという本来保護されるべき存在が、その幼児的全能感から脱却することができずに、その自己中心性を抱いたまま成長していくことは、社会全体にとってもかなり危険なことであるばかりでなく、子ども本人にとっても決してよい影響を与えない。

かれらはまず甘えの支配する緊密な人間関係を築けなくなる恐れがある。
周りの人間を自分に奉仕すべき人間だと考えているから、人を支配するという感覚だけが異常に発達して、人に対して感謝の念をもつことができなくなる。

人と人との関係を力関係で捉えてしまう。
力は強制であるが、甘えや感謝は自発性によって成り立っている。

『おまかせ』になると自己の領域はもっと小さくなり、自己の領域が小さくなればなるほどその居心地の良さは高まるという構造になっている。

オンリーワンの考え方ではこのような居心地の良さは味わえない。
オンリーワンの考え方はナルシシズムへと結びついている。
ナルシシズムはいかに自分への愛を高めようと決して満足することはできない。いや、自分への愛を高めようとすればするほど居心地の悪さは増大する。