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「授業でいえない世界史」 7話 古代インド インダス文明~クシャーナ朝

2019-06-05 10:43:47 | 旧世界史2 古代インド

※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


【インダス文明】

 ここからはガラッと変わって、お隣の地域に行きます。
インドは東と西から川に囲まれた地域です。西のインダス川、東のガンジス川。今はこのガンジス川がヒンドゥー教の聖なる川として有名です。しかし文明はここからではなくて、西のインダス川から発生しました。ここも四大文明の一つです。
 インド文明のことをインド文明とは言わない。インダス文明という。インダスとは、インドのという意味です。

 これが今から紀元前2500年というと、約2000年足して、今から4500年ぐらい前に文明が栄える。約700年間ぐらい。
 なんでそんなことがわかるか。文字はないから、土の中から掘り起こす。その遺跡がモヘンジョ=ダロです。それからハラッパーです。東側ではなくて、西のインダス川周辺です。

 そこの遺跡を見ると、どういったことがわかるか。普通は文明ができると王が出てくるんですよ。中国でも出てきたでしょう。神権政治という、神様と繋がっている王権が。
 でもここには、王がいた気配がない。王の宮殿のような跡がないんです。なぜなのか、うまく説明した学者はまだいない。
 では、どういう人たちがここに住んでいたのか。民族でいうとドラヴィダ系の人、これが有力です。どういう人か。今のインド半島の南の方に住んでいる人たちです。


【アーリア人】 これが紀元前1500年頃、突如、滅亡する。なぜかよくわからない。とにかく都市があったということはわかる。
 いろんな噂があります。急に寒くなったとか、急に洪水が来たとか、異民族がやってきたとか、いろんな話があるんだけれども決定打がない。

 ただ、なぜ滅んだかはわからなくても、異民族がインドに侵入してきたというのは本当です。ドラヴィダ人が住んでいた所に、新しく別の言葉を操る顔かたちが違う人たちがやってきた。彼らをアーリア人という。これがちょうど滅んだ頃なんですね。

 彼らが今のインド人の中心になっていく。もともとどこに住んでいたかというと、インドの北西です。中国史でも、中国のずっと西のほうとしてでてきた、中央アジアというところです。今はカザフスタンとか、トルキスタンとか、カスピ海の東あたりです。
 そういったところから、半分は農業し、半分は牧畜をやっている、牛とか馬を飼っている、そういうやや気性が荒い人たちが侵入して来て、ドラヴィダ系の先住民を征服していった。そして奴隷にしていった。


▼アーリア人の侵入


 それが今に至るまでインドの社会構造をつくっています。インドは今でも強い階級社会です。これがいわゆるカーストです。今でも政治問題になっています。


【リグ=ヴェーダ】 彼ら、アーリア人がどういう宗教、神様を信じていたかというのは一つの文献が残っている。彼らが神を祭る儀式の方法とかを書き留めている。これを「リグ=ヴェーダ」といいます。
 神様の祭り方、やっぱり政治に神様は欠かせないですね。個人の信仰よりも、この時代は政治とか国家に神様は絡んでくる。
 イメージとしては、もともとはドラヴィダ人が住んでいたところに、中央アジア方面から、北西のカイバー峠を通ってアーリア人が侵入してくる。地図の斜め左上からインド半島へ侵入した。
 では昔からそこにいた人は誰か。これがドラヴィダ人なんです。彼らはところてん式に押し出されて南に移動する。だから彼らは今もインド南部にいるんです。彼らが南のドラヴィダ人です。
 北がアーリア人です。アーリア人は白人です。もともとはイギリス人やドイツ人と同じ人たちです。インド人とヨーロッパ人はちがうじゃないかと思うけど、実はご先祖はいっしょです。

 今もインド人は公用語の一つとして英語を使ってますが、それはイギリスの植民地支配という不幸な歴史があるからなのですが、それとは別に、もともとのアーリア人の言葉がヨーロッパの言葉と近かったということもあるのでしょう。だから根付きやすかった。
 日本人に英語を根付かせようとするのとは、わけが違うと思います。我々の言葉は、英語とはまったく違った言語体系をもってますから。語順からして違います。

 ただドラヴィダ人が肌の色が黒かったから、両者が混血して何千年と過ぎるうちに、インド人はヨーロッパ人よりも肌の色は黒くなる。しかも、インドでは南に行けば行くほど肌の色は黒くなります。逆に北に行けば行くほど白いです。かなり肌の色の違いがある。
 インド人は肌が黒い人とばかり思わないでください。侵入してきたアーリア人はもともと白人です。

 彼らが、ドラヴィダ人を征服して奴隷化していき、インドに根付く社会制度を作っていきます。これがカースト制度です。あとで言いますが、今も残っています。決して過去のことではない。現在に結びついています。

 そういう新しいアーリア人が、次にはどこに移るか。そのまま東の方のガンジス川流域へ進出していく。
 これが紀元前1000年頃、紀元前1500年前から500年過ぎた頃です。そうすると自分たちは白い。もともと住んでいた人たちは黒い。白と黒で差別していく。こういう階級社会、階級制度のことを現在では、ヴァルナ制度という。もともとの意味は、肌ののことです。肌の色で差別が発生します。


【バラモン教】 インドの宗教は、今はヒンドゥー教ですけれども、その前の段階がある。彼らアーリア人が信仰していた宗教はバラモン教です。

 インド人の宗教の特徴は、墓がないんです。
 仏教の空の思想、人間が死ねば無になるとか、そういうこと聞いたことないですか。般若心経の「色即是空」、「空即是色」の「空」です。 
 仏教思想は空だから、人間死ねば空っぽになる。エジプト人のように再生を願って復活するためにミイラをつくったりしない。だから火葬する。火葬したら何も残らないでしょう。または墓をつくらずにガンジス川に流す。
 さすがに今は衛生上よくないということで、あまりしないようですけど、我々が小さい頃、そんな写真をよく本で見ていた。人が体を洗っているガンジス川で、死体がプカーっと浮いて流れている。殺人だ、と日本人だったら驚きそうなシーンを、インドの人たちは、また聖なる川に死体が流れているな、と平然としている。それで終わりです。だからインドには墓がない。
 日本も火葬しますけど、遺骨を残します。そしてそれを墓に入れる。だから日本の仏教思想は完全に「空」ではない。別にそれがいけないと言っているわけではありません。ただ違いを言っているだけです。

 インド人の考え方は、宇宙の神様はブラフマン、自分の神様はアートマン、この二つです。バラモン教のバラモンは、このブラフマンが訛ったものです。BRAHMAN → BARAMONとなります。ブラフマンとアートマン、なんかウルトラマンみたいな名前ですが、漢字でいうとです。中国人がこういう字を当てはめたのです。
 人生の目標は、こういう宇宙の神と自分の心というのを合体できれば、それで人生は成功なんだ。でもそれはタダではできない。そこに修行という考え方も出てくる。
 これはヨーロッパのキリスト教徒ともだいぶ違う。中国から日本に仏教は伝わるから、そういうのを漢字で梵我一如という。これは中国人がインド思想を漢字で表したものです。
 梵我一如とは、我が梵と合体して完全に消えてなくなることです。インド人にとって理想の死に方は、無になることです。これは命の再生を願ってミイラをつくった古代エジプト人とも違いますし、復活を願うキリスト教とも違います。
 これができる人は、世の中の自分のいろんな欲求、これを煩悩といいますが、その煩悩から解き放たれて、すがすがしい心が解放された状態になることができる。その状態を解脱といいます。日本流にいうと悟りです。これが人生の最終目標です。
 そうなるためには生きているうちから修行を積み重ねる必要があるのです。そういう修行をしないつまらない人間ほど、何度でも生き返ってしまう。それを輪廻というのですが、最高の死に方はその輪廻の悪循環から解き放たれて、二度と生き返らない状態、つまり無になることなのです。
 そのためには修行しなければならない。修行せずにアンポンタンのように暮らしている人間は、幾ら年を取っても自分の欲望に押しつぶされて、苦しみの中に生きるしかない。しかもそれを何度でも永遠に繰り返す。これが一番恐ろしいことです。

 そのインドの宗教が日本に伝わってくる中で、もともとのインドの神様も日本の仏教の中に入ってきています。
 さっき言った全宇宙の神、ブラフマンは日本では梵天という。奈良の東大寺の大仏は、このブラフマンが仏教化したものです。
 その他にもいろんな神様がいて、インドは多神教の世界です。生きている間に時に応じていろんな神様を拝んでいいんです。
 そこに他の地域に見られるような、神様同士の戦いは起こらなかったようです。あとで見るオリエントのように、神様同士の間に厳密な序列化は起こらないし、他の神様を殺して一つの神様だけを拝めということも起こりません。たぶんオリエントに比べて平和で、部族同士の血で血を洗うような戦いも少なかったのでしょう。だからいろいろな神様に対する信仰が発生します。
 征服されていくドラヴィダ人も、徹底して戦ったわけではなく、南に逃げるか、半ばあきらめてアーリア人の支配下に入ったようです。
 ただ死後の世界に対する関心は深く、死後、個体は無になっても、個人のアートマンは全宇宙の神ブラフマンとの合体すると考えられていた。しかしそれはヨガのような厳しい肉体的修行をともなうと思われていた。

 インドの戦争の神様は帝釈天といいます。戦争神つまり人を殺す神様というのは不思議な気もしますが、戦いの前に「ご武運を」と祈ることはどの社会にも見られる自然なことです。君たちは、「男はつらいよ」シリーズの映画とか知らないかな。「帝釈天で産湯を使い」という超人気の映画、最長の連作映画、渥美清の「男はつらいよ」シリーズがありました。あの帝釈天です。日本の戦争神、つまり部門の神様は八幡神です。鎌倉将軍家である源氏一族の守り神は、鎌倉の鶴岡八幡宮です。八幡神は武門の神様です。八幡さまは日本全国どこにでもあります。

 また死の世界を支配するヤマという神さまは、日本の閻魔(エンマ)大王です。生きている間に悪いことすると、死んで三途の川を渡るとき、天国に行くか地獄に行くかというとき、閻魔大王に地獄に行けと言われて、そのときに針千本飲まされたり、舌を抜かれたりする恐い神様です。これは民間信仰ですけど、その舌を抜く神様の閻魔(エンマ)大王は、もともとインドのヤマという神様です。死後の世界を支配する神様です。

 それから、コンピラ船ふね ♪ で有名な神社がある。日本の金比羅神です。これはインドではクンビーラという神様です。このクンビーラがコンピーラになる。これももともとインドの神様です。

 それからアスラ神という怒ったら恐ろしい神様がいるんですけれども、日本史では奈良の興福寺の阿修羅(アシュラ)像として有名です。顔が3つ、手が6本、三面六臂の神様です。真っ赤な顔して非常に人気がある神様です。これももともとはインドのアスラ神です。さらに遡れば、このアスラ神は、隣のイランのゾロアスター教の神様であるアフラ・マズダがインド化したものです。AFURA → ASURAというふうに訛ったものです。
 そういう神様を持っていた白い肌の人たちが、黒い肌のドラヴィダ人を支配していくうちに階級社会をつくっていく。


【ヴァルナ制度】 俗にカースト制と言ったほうが通りがよいかもしれない。カーストが違うと、同じ教室ですら勉強できない、結婚するなどとんでもない、一緒に飯も食えない。そんなに根強い。カーストはポルトガル語だから、最近はこれを現地流にヴァルナ制度という。ヴァルナは色という意味です。白い人間が黒い人間を征服したから。これには4階級ある。


 一番上は、日本でいえばお坊さん、バラモンです。インドではお坊さんが一番偉いんです。アレッ、と思いませんか。王様はその下なんですよ。
 王様はクシャトリアといって、バラモンの下です。王様よりもお坊さんが偉い。普通は逆ですよね。王様は普通は一番偉い。でもその王様の上にバラモンがいる。でもこのことはイスラーム教と似ていて、イスラーム教も国家の頂点の大統領の上にはさらに宗教指導者がいます。だから王様の政治力によってではなくて、バラモンの宗教力によって社会が秩序づけられています。だから宗教国家です。
 ただバラモン教はイスラーム教のように強い一神教ではないから、バラモンの支配は緩やかです。ということはバラモン教による国家統一は難しい。国家を統一するほどの強い強制力は持ちません。

 そういうバラモン教の世界で、なぜ仏教という新しい宗教が出てきたか。仏教はバラモン教による階級社会がイヤだったからです。
 そうすると王様は、そうだそうだ、バラモンは威張っている。そう言って仏教になびいていく。王様と仏教はこの関係で良好です。バラモンは王様の上にいるんだから、王様にとっては目の上のたんこぶです。王様にとってはその権威は邪魔になる。
 そうやって広まったのが仏教です。仏教の平等思想はバラモン否定です。さらにその下の商人や農民はヴァイシャという。ここまでが白い人です。特に農耕社会ではなく、新しい都市社会で生きる商人は仏教になびいていく。
 さらにその下がある。昔からいた、肌の黒いドラヴィダ人はシュードラ、これは奴隷です。

 バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラ、この4つです。なくそうと今も憲法でつとめているけど、なかなかなくならない。

 インドの王は力を持ちにくい。上にバラモンがいるから。インダス文明もそうだった。王がいなかった。バラモン教もそうです。ヒンドゥー教もそうです。だからインドの古代王権は弱いんです。
 だから、のち15世紀にインドに帝国が復活するときは、支配層はヒンドゥー教ではなく、別の宗教つまりイスラーム教になっていきます。


【仏教】 仏教はどこの宗教ですか。日本古来の宗教だと思っている人が時々いますが、そうじゃない。ちょっと勉強したつもりで、仏教は中国の宗教という人がいますが、これも間違いです。仏教はインドの宗教です。
 では日本古来の宗教はなかったのか。そんなことはない。日本には神道という日本古来の宗教があります。これがお寺と神社の違いです。この中にもお寺と神社の区別がつかない人がいるはずです。
 地図でも、神社はトリイのマークで、お寺は卍です。神社では力強く両手で柏手(かしわで)を打つけど、お寺では静かに合掌(がっしょう)です。お正月は神社に三社参りをするけど、お盆にはお寺参りをする。結婚式は神道で、お葬式は仏教です。
 お葬式で若いお姉さんが間違って柏手を打ったのを見たことがあるけど、あれだけはやっちゃあいけないな。


 バラモン教に反発して出てくるのが仏教です。バラモンに対抗する宗教だから、王様やそれと結んだ商人に人気がでます。ちょうどこのころお金が発生し、インドにも都市が誕生して金持ちが出てきているころなんです。
 これと歩調を合わせてバラモン教はおかしい、という仏教がでてくる。そうだそうだ、と王や商人がそれになびいていく。基本はバラモン教批判です。

 あと一つ、仏教だけではなくて、バラモン教批判をしたインドの宗教、ジャイナ教というのがある。これも信者は少ないけれども、まだインドに残っています。

 紀元前5世紀、今から2500年前頃、中国では孔子が出た頃です。このあと言うけど、ギリシャではそのころソクラテスが出てくる。ここらへんは、歴史に残る頭のいい人たちが一気に申し合わせたように出てくる。一つの歴史的転換点です。
 紀元前5世紀、そのころ出てきたのが仏教です。インドの宗教です。始めたのはお釈迦様です。これはあだ名です。本名があるんです。ガウタマ=シッダールタという。インド語だから言いにくいです。でもこれが本名です。お釈迦さんは空想上の人物じゃない。実際にいた人、生身の人間です。

※ インド最古のコインは、ペルシャ人のアケメネス帝国の東部諸州で紀元前5世紀から前4世紀に発行されたコインとされている。コインは模倣されコピーされてインドの各地に広まった。そのコインは両面ではなく片面だけに刻印を打つ銀貨であり、その形も様々だった。同時にインドでは、鋳型に入れて鋳造する四角の銅のコインが作られ、それを変形させ打刻したコインも作られた。
 ・・・インドでは地域ごとに異なる300種類以上のお金が流通していたが、1835年にイギリス東インド会社がルピー銀貨を標準的なお金としてインド各地に流通させ、貨幣制度を統一した。(宮崎正勝 お金の世界史)


【出家】 なんでおシャカさまというかというと、彼はシャカ族の王子であったからです。シャカというのは、その一族の名前です。だからお釈迦様です。
 ただ王子だから王になったのかというと、オレは王になるのは嫌だ、と言って、それで嫁さん捨てて、子供も捨てて、父ちゃんは家出する。それでは格好悪いから、俗人がお坊さんになることを字をひっくり返して、出家という。出家とは、坊さんになることです。でも字を逆にすると家出です。嫁さん・子供を捨てて、救いの道を求めたと言えばカッコいいけど、捨てられた方は悲しみますよね。
 一昔前、オーム真理教という世間を騒がせた宗教がありましたが、それにハマって出家した人の親は悲しみましたね。宗教にはそういうところがあります。
 でも人間に宗教はつきものです。宗教のない歴史はない、と言ってもいいくらいです。

 その救いを求めるうちに、お釈迦様がたどり着いたのは、バラモン中心じゃない、カースト制度ではない平等観です。
 我々のような仏教の平等観に親しんだ人間から見ると、差別とか階級とか奴隷とか、何でそんなことがあるのかと逆に不思議に思うかもしれませんが、世界史を見ると、負けた人間はふつう奴隷になっていく。そして当たり前のごとく階級が発生する。差別が生まれる。けっこう怖い社会です。
 日本は世界の中でも平和な国じゃないかな。内側から見ているだけでは、なかなか分からないけどね。他のところではもっと簡単に殺されたり、奴隷になったりします。


【四苦】 仏教では、世の苦しみ、生きる苦しみとして、四つの大きな苦しみがある。生・老・病・死、これが人生の四大苦です。四苦と言います。
 これ見て驚くのは、死がイヤというのはわかる、病気がイヤもわかる、老つまり老いていくはイヤというのもわかるんです。でも「生」つまり生まれたこと、これが苦しみの最大のもので、これが四大苦の最初に来る。生は苦しみである、と仏教はとらえた。


 仏教の特徴は、生きることはすばらしいなんて、口当たりのいいことを言わない。生きることは苦しみなんです。産まれた瞬間に苦しみを背負って来る、という発想です。
 生きることは苦しみなんだ。そこからいかに離れるか、脱出するか、そこに修行という考え方がでてくる。今までの宗教とだいぶ違うんです。

 その苦しみから脱出することを「解脱」といいます。わかりやすくいうと、これが「悟り」です。それは自分だけではできなくて、全宇宙を支配するブラフマンと合体しなければならない。自分が自分が、と言っている限りはダメなんです。そこから無我がでてくる。「無我の境地」とか「無念無想」とかよく言うでしょう。自分が無くなることが理想なわけです。西洋流の自己主張の考え方とは正反対です。西洋はどこまでも自己を拡大させていきます。

 この無我という考え方に強く惹かれるのがインド人です。このようなお釈迦様の考えに多くのインド人が惹かれました。
 でもお釈迦様が自分のことを神様だと言ったことは一度もありません。お釈迦様は神様ではなくあくまでも一人の人間です。神様はどこにいるかといえば、それはお釈迦様ではなく、インドに古くからいる他の神々です。お釈迦様はそういう神様に近づくための方法を説いたのです。神様に近づいて合体する、そうすることによって「解脱」できる。つまり「悟り」の境地に達することができる。お釈迦様はその悟るための方法を説いたのです。
 それが修行です。修行をしなければ人間は何度でも生き返って、輪廻転生の無間地獄から抜け出すことができないのです。キリスト教のような復活の思想と違って、仏教はダメな奴ほど、生き返るのです。逆にいうと、完全に生きなければ、人間は完全に死ねないのです。完全にであって、完璧にではありません。完全に生きることができないから、完全に死ぬこともできず、何回も何回も生き返ってしまう。仏教が最も恐れたのはそういう生き方です。
 先日亡くなった樹木希林が、「この体をすり切れるまで使って、使い切って死にたい」と言って亡くなりましたが、そんなイメージでしょうか。樹木希林は年を取るごとにいい女優になりました。あんなふうに年を取りたいですね。

 釈迦はそういう教えを無理矢理に説いたのではなく、教えてくれという人が集まってきたから、その方法を教えてやったのです。イエスという人間が神様になったキリスト教・・・こう言うとキリスト教徒は怒りますが・・・とはここが大きく違います。その教えて欲しいという人たちがお釈迦様の弟子になって、やがて仏教教団が形成されていきます。これをサンガといいます。

 ただこれが広まったのは、お金持ちが住む都市だけ、そこのお金持ちとは商人です。地方の田舎にはあまり浸透しなかった。商人は、勝ち気で、派手な人間が多いのに、なぜ生が苦しみであるという仏教の信者になるのか、感覚的にはまだちょっと私にもわからない。
 ただよく説明されるのは、王様から見たら、バラモンが王様よりも上にあることが気にくわない。それを否定してくれる宗教が便利だ。
 だから仏教が、王様の保護を受けていくようになる。その王権を商業が支えていく、という説明です。
 確かに仏教は、権力とか、富とか、お金については何も言ってませんね。生業とは関係なく、心の問題だと言っているようにも思われます。商人もお金儲けには関係なく、心の問題として仏教を信仰していたようです。



【アレクサンドロス】
 インドに初めて国らしい大きな国ができていくきっかけは、紀元前4世紀です。仏教が発生してから約100年後です。
 これもまだ言ってないけれども、今は地域ごとに縦に言っているからヨーロッパのことはまだ言ってないけれども、時々こういうことが起こるんです。どうしても言ってない人物に登場してもらわないと先に話が進まないことがある。
 ギリシャ人のアレクサンドロスという王様が、ギリシアから世界征服を企てる。まだモンゴル帝国が出現していない時代ですから、当時としては世界最大の帝国を築いていく。西の方のギリシャからインドまで征服して行こうとする。
 そしてインドの手前まで来て、大きな川があって食い止められた。これがインドの入り口のインダス川です。これを超えていたらインドは征服されていたかもしれません。
 アーリア人たちは、こういう危機を目の前にすると、俺たちもウカウカしていたら征服されるぞ、強い国をつくらないととんでもないことになるぞ、という危機感を持つ。そこで一気に国を興そうという機運が盛り上がってくる。



【マウリヤ朝】
 そこでその直後の紀元前4世紀、インドにマウリヤ朝ができます。その前に小さな国、マガダ国というのがありましたが、そこの王様が領土を広げていった。
 これがインド初の統一王朝です。インド全部じゃないけども70~80%ぐらいは支配下に治めた。王様はチャンドラグプタという。変な名前ですね。チャンドラとかグプタとかよく出てくる。一世、二世とかも。
 首都はパータリプトラというところです。これは北東部です。北西部か北東部かの違いは大きいです。北西部だと隣のイラン系になります。

▼マウリヤ朝



 次の次の王様が仏教に深く帰依し、仏教を保護していく。バラモン教ではありません。バラモン教は王の上にバラモンがいて、王の権威を認めないからダメなんです。
 その仏教を保護した王様がアショーカ王です。紀元前3世紀です。
 キリスト教の聖典は聖書一つなんですけれども、仏教の本つまりお経は何万冊もある。弟子たちがずっと教えを深めて書いていくからです。そこに微妙に教えの違いが出てきて、どれが本当だかわからなくなる。
 だから仏教にはいろんな宗派が出てくる。これじゃ分かりにくいから、教えをまとめようという作業が行われます。これを仏典結集といいます。それを国家プロジェクトとしてやっていく。しかも王様が。だからこれは国家プロジェクトです。でもだからといって他の宗教を禁止したわけではありません。他の宗教も保護していく中で、特に仏教を保護したということです。ここがのちにいう一神教と違うところです。 
 インドは多神教だから、仏教だけ保護して他の宗教を禁止したら、他の宗教からの反発が大きくてとてもできません。逆にいうと一神教というのはそれをやるんです。それは徹底して弾圧し、多くの血が流れるということです。仏教ではそういうことは起こりません。
 ヴァルナ制というバラモンが最上位にある中で、王様としてこうやって宗教の教えをまとめようとすることは、宗教の上に立とうとすることで、帝国を形成する上で非常に大事です。


【バクトリア王国】 次に、これとほぼ同時期に、あのアレクサンドロス大王の大遠征があったでしょう。彼は何万人というギリシャ人の兵隊を引き連れている。彼らの一部がそこに留まり、その地を征服して、インドの北西部に国を建てる。彼らはギリシア人です。その国をバクトリア王国という。紀元前3~前2世紀です。これはギリシャ人の国です。
 1000キロ、2000キロ、人間は軽く移動します。モンゴル人は、3000キロ、5000キロ、平気で移動する。
 だから、同じところに1000年後に同じ顔をした人間が住んでいるなんて思わないでください。100年経てば、ごそっと1000キロぐらい、2000キロぐらい人間は移動します。10年で100キロ、福岡県人が10年後には大分県あたりに住む。そう考えるとそんなに不思議なことではない。



【クシャーナ朝】
 そういうギリシャ文化の影響を受けながら、西北の方からインドに入ってきた新しい国がクシャーナ朝です。1~3世紀です。


▼クシャーナ朝


 インド史をやっているのに、主人公はインド人じゃないです。そんなに簡単じゃない。いろんな民族が入ってくる。逆にいうと、今たまたまそこにインド人が住んでいるだけと思った方がいい。国が変われば民族がまた動いて、支配者になっているかも知れないし、もしかしたら奴隷にされているかも知れない。
 このクシャーナ朝はイラン系です。バクトリアはギリシア系、このクシャーナ朝はイラン系です。だからだいぶ西寄りで、インド全域を支配したわけではないです。でもインドの王朝に数えられます。
 このときのインドの首都はプルシャプラです。だからこれもインド北西部にあります。というよりインドをはずれて今のパキスタンの領域です。さっき言ったバクトリア王国はこのやや北側です。ここはギリシア人の国です。

 だからいまインド史をやっていますが、その主人公はインド人ではないです。イラン人です。この頃イランではパルティアという国が成立しています。イランでは別の宗教、ゾロアスター教が成立しています。でもこのイラン人たちは、ゾロアスター教ではなく、仏教を信仰していきます。

 中国史では言わなかったけれども、さらにここには大月氏という国もありました。バクトリアとクシャーナ朝の間に大月氏という中国系の騎馬遊牧民の国があったんです。
 本当は、バクトリア → 大月氏 → クシャーナ朝、となります。ここらへんはいろんなところから、四方八方から人が来ます。


【大乗仏教】 このクシャーナ朝のころ、新しい仏教が成立する。これを大乗仏教といいます。大きな乗り物という意味です。これはドラヴィダ系のインド南部から発生します。ナーガールジュナという人・・・この人は中国では龍樹と呼ばれますが・・・この人が3世紀に大成します。
 お釈迦様は何を求めたか。この500年前に仏教が生まれたときは、自分個人の救済だった。だから嫁さん捨てて、子ども捨てて家出したんです。しかしそれでいいのか、という疑問はずっと前からある。
 自分だけ救われて、それでおまえ満足なのか。満足だという人もいるかも知れませんが、それはおかしいじゃないか、という考えも出てくる。
 自分だけ救われて、あとの者はどうなるのか。みんな救われないといかんのじゃないか。インド人はこの思想に近づいていく。そうだ、そうだと。
 オレは救われていない。金持ちばかり救いの道を求めて、オレたちはそんな暇はない。毎日汗水垂らして働かないといけない。そんなに瞑想にふける暇はない。俺たちは救われなくていいのか。
 そんなことはないはずだ。すべての人が救われないといけないのではないか。こういう考えの対立から出てきて、すべての人間を救うための宗教が発生する。
 だから家出したり出家したりする必要はない。普通の生活をしながら、心さえ磨いておけば、出家せずに解脱することができる。悟りに達して、欲望を離れることができる、という教えです。

 実は日本に伝わったのは、お釈迦の生の教えではない。その500年後に出てきたこの教えです。日本仏教はこの大乗仏教です。
 自分ばかり救われて何が楽しいのか、自分ばかりいい思いをして、それでおもしろいのか。日本人にはこういう思い、ありませんか。
 これがインドから、中央アジアへ、そして北の方に伝わって、中国までたどり着く。そして中国から朝鮮半島へ、朝鮮半島から日本へと伝わる。それがだいたい6世紀のことです。500年代の日本に伝わります。


▼仏教の伝播


【上座部仏教】 では、もともとのお釈迦様の教えはどこに行ったのか。これは逆に南に、東南アジアあたりに伝わっている。この教えは呼び方が違う。上座部仏教といいます。
 これは従来の教えどおりに出家しなければならない。だから東南アジアの若い青年、頭のいい人ほど、若い頃に2~3年、お坊さんになって修行するんです。
 そして托鉢(たくはつ)といって、どうぞめぐんでください、といいながら、米一合めぐんでくださいと、田舎を回りながら、家のお母さんたちは喜んで布施を行う。それで、ありがとうございました、という。
 そういう苦しい時期があったことを忘れるなよ、という思いも入っている。だからお坊さんに1度はならないと、立派な大人とは認められない。
 しかし日本はならなくてもいい。きちんと自分で勉強して、心を磨いてさえいれば。ふだんの日常生活そのものが修行なんだ。そういう仏教の違いがあります。


【ガンダーラ美術】 それから、このクシャーナ朝時代には仏教美術が栄えていく。これを発生地帯の名前をとって、ガンダーラ仏教美術といいます。3世紀頃です。ガンダーラとはインド北西部です。ギリシア系の地域です。
 今の仏教には、仏さんの像があるのが当たり前みたいですけど、それまでの仏教には仏さんの像はなかった。お釈迦様は神様じゃないです。生身の人間です。キリスト教のような一神教から見ると、仏教は宗教ではない、という人もヨーロッパにはいるようです。
 お釈迦様が、神様じゃないということはわかります。ガウタマ=シッダールタという本名を持つ生身の人間だから、確かに神様じゃない。偉いのは偉いんでしょうけど神様じゃない。
 でもその点は、キリストさんも同じなんです。キリストさんも実在した生身の人間です。でもキリスト教は、イエスを神様にしていきます。日本人から見ると、生身の人間が神様になるという感覚は、なかなか分かりづらいです。
 しかし日本でも菅原道真が、北野天神や太宰府天満宮に祀られて神様になっていることを考えると、そういうこともあるかも知れません。徳川家康だって、日光東照宮に祀られて神様になっていますからね。でもこれは、人間は死ねば仏になる、という感覚に近い気がします。
 それに対してキリストさんは、もともと神様が人間の姿となって現れたという感覚らしいです。遠い国から来たスーパーマンが人間に化けているようなものです。

 確かにお釈迦様は、心が救われる道を考え続けて、もがき苦しんだ生身の人間です。だからもともと仏像はなかったんです。
 しかし、ここにアレクサンドロス以降ギリシア人が住んだ。ギリシャ人は彫刻するの大好きです。そして目に見えない神様を人間と同じ姿に彫っていく。
 これもまだ言ってないけど、ギリシャ彫刻は、女性でも裸にしておっぱい出して、男でもあそこをむき出しにして、ありのままの人間の姿を彫って、これが神様だと言ってはばからない。これは偶像禁止の考えからすると、神様を人間におとしめることです。

 そういうギリシャ人の影響で、お釈迦さんもそうしよう、彫ろう、となる。そうやって仏像ができてくる。発生地点がガンダーラです。ガンダーラというのは、クシャーナ朝の首都プルシャプラのちょっと北西です。仏像は西北インドから発生する。そこにギリシア人の文化があった。だからギリシア彫刻の影響があります。この頃のお釈迦様の顔はギリシャ人の顔をしています。

 このクシャーナ朝に、2世紀に出てきた王様がまた仏教に帰依します。カニシカ王といいます。仏教を中心にして、統一的な国の宗教にして行こう。みんな幸せになるためには、国を幸せにすればみんなが幸せになる。そうやって国家と結びついていくのです。そのための教えを統一していきます。また仏典結集を行います。でもアショーカ王のところで言ったように、他の宗教を禁止したわけではありません。神様を一つに限定する一神教世界とはかなり違います。
 このカニシカ王はイラン人です。イラン人が仏教を信仰している。この時代の仏教は国際色豊かです。ギリシャ文化の影響も受けている。南では大乗仏教も発生する。イラン人も信仰する。我々が今見る仏教とはかなり違ったものだと思われますが、それは逆に言うと、日本の仏教がそれを丸呑みするのではなく、いろいろ手を加えながら、日本化することに成功した姿だと思います。猿まねではないということです。



【サータヴァーハナ朝】

 今までは北インドです。ではそのころのインドの南の方はというと、別の王朝があります。これをサータヴァーハナ朝という。紀元前1世紀~紀元後3世紀です。これはアーリア人に征服された側のドラヴィダ系の国家です。大乗仏教はこの地域で発生しました。

 そこに面している南の海はインド洋という。ここでは早くから季節風が気づかれていました。日本にも季節風が吹きます。横文字でいうとモンスーンです。夏と冬で風向きが違う。
 これは早くから気づかれていて、これを何に利用するか。帆掛け船です。船で貿易すれば金になるんですよ。珍しいものを、100キロ、200キロ、500キロ、ずっと遠くに持って行けば行くほど、1万円のものが100万円になる。そういう貿易に命をかける男たちが早くから出てくる。
 このインド洋交易でこの国は儲ける。だから、1000年の間に、アラビア人も来れば、イラン人も来る。彼らの多くはイスラム教徒です。中国人だって東からやって来る。

 日本に伝わってきた仏教は大乗仏教です。仏教伝来の日本へのルートは、北から伝わったから、別名は北伝仏教という。仏教に2種類あって、一つは南に行った仏教、もう一つは北に行った仏教です。日本は北です。
 中身は、自分だけ救われて何のつもりか、自分だけ救われて何の意味があるんだ、という教えなんです。

これで終わります。ではまた。



「授業でいえない世界史」 8話 古代インド グプタ朝~イスラーム化、東南アジア

2019-06-04 17:39:43 | 旧世界史2 古代インド

※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


 古代インドは、インダス文明から始まってクシャーナ朝まで、紀元3世紀まで来ました。王朝名はマウリヤ朝、バクトリア、サータバーハナ朝、クシャーナ朝と来たきたところです。日本関係でいうと、仏教はインド宗教であって、インドから日本に伝わった経路は、北の方から伝わったということを前回言いました。
 そのクシャーナ朝が滅びました。クシャーナ朝はインドにおこった国だといっても、民族的にはインド人ではなかった。イラン系の人たちが支配者層だった国でしたが、次に土着のインド人が巻き返します。




【グプタ朝】
 彼らが作った新しい王朝、これがグプタ朝です。紀元4世紀から6世紀にかけてできました。それまでは紀元前4世紀に、ギリシャ人のアレクサンダー大王、アレクサンドロス大王ともいいますが、別の読み方ではイスカンダルというのもアレキサンダーのアラビア語読みです。
 そのアレキサンダー大王の影響でギリシャ文化がインドまで及んできましたが、ここでギリシア文化・・・ギリシア人のことをヘレナというからこれをヘレニズム文化といいますが・・・そのギリシャ文化は消滅します。そして純粋インド文化に変わっていく。ギリシア風からインド風へという大きな流れです。
 この国で使われているインドの言葉というのは、サンスクリット語という仏教の経典が書かれている言葉で、今は誰も使わない死語になっていますが、この言葉はインド=ヨーロッパ語であって、このインド語とヨーロッパ語は親戚同士なんです。

▼グプタ朝


 このグプタ朝の王様がチャンドラグプタ2世です。前にマウリヤ朝のチャンドラグプタという王様がいましたが、今度はチャンドラグプタ2世というのがグプタ朝の王様です。
 このグプタ朝も5世紀になると、また異民族の侵入を受けます。エフタルという異民族が中央アジアから侵入し、このグプタ朝は衰退していく。そしてしばらくは小さい国が乱立している状態が続いていきます。

 このグプタ朝で、これがインドだ、という純粋のインド文化が栄えていく。インドのことはヒンドゥーという。ヒンドゥー教というのは、H音は鼻に抜けるので、本当はインドゥー教なんです。インドゥーというのはインドのことです。


【ヒンドゥー教】 この時代にヒンドゥー教が成立します。バラモン教の中に、ドラヴィダ系のインドの土着文化、民間信仰が入ってくる。そのヒンドゥー教というのは誰が発明したのでもない自然宗教なんですけれども、その祈り方一式をまとめたのが「マヌの法典」です。このグプタ朝時代に、そういう純インド洋式が復活します。
 さっき言ったアレキサンダー遠征以降、ギリシャ文化の影響を受けていたこの地域に、インド様式が復活するということです。
 しかしそれと同時に、ヒンドゥー教に押されて、仏教は衰退していきます。


【空の概念】 この時代のインドの偉大な発見というのはなにか。数学上の何を発見したか。無いものを発見した。無いものはふつう意識しないんだけれども、インド人が初めて無いということは、どういうことかを考えた。そしてこれをゼロと名づけた。
 数学の世界では、このゼロが有るか無いかによって、数学の水準は格段に進歩したといわれます。言葉でいうと、無いものを発見したということですが、無いものを考えるというゼロの観念はかなり抽象度の高いものです。ふつうは無いものは考えられないのです。
 これはインド人の発見です。なぜインド人はゼロを発見したか。インドの仏教思想の中には一番大事な核になる思想として「」の観念がある。そのことは前にも言いました。だから何もないとはどういうことか、これをずっと考えてきた。
 「色即是空」「空即是色」という般若心経の「空」です。




【ヴァルダナ朝】
 このグプタ朝の後、統一王朝としてはこれが最後になります。ヴァルダナ朝です。短い王朝ですけれども、ヴァルダナ朝が7世紀。グプタ朝が4、5、6世紀。このヴァルダナ朝は全インド統一というよりも、北インド中心です。

▼ヴァルダナ朝


 中国では、このとき仏教が外国の新しい宗教として流行ってるんですが、仏教の本場はインドです。だから中国のお坊さんで、この時代のインドを遠路はるばる訪ねてきたお坊さんがいる。
 これが中国史でもやった唐の玄奘です。仏典を求めて。仏典というのは仏教の本です。つまりお経です。中国史のところでもやったこの玄奘というのは、あだ名が有名です。三蔵法師という。三蔵法師といえば、孫悟空のお話をちょっとしましたね。孫悟空は空想上の話ですけど、孫悟空が仕えた三蔵法師というのは実在の人物で、この中国の偉いお坊さんです。本名は玄奘です。その話が変わり変わって孫悟空の話になっています。それが「西遊記」という明の時代の物語です。500年以上後になって書かれたものです。
 しかしこのヴァルダナ朝は約50年間という短期間で崩壊し、647年に滅びます。
 その後は今まで言ったような大きなインド国家というのは発生しません。
 これでインドの古代史は終わりますが、このあとのことまで行きます。




【インド中世】
【ラージプート諸王国】
 このあとは、ずっと小国分裂の状態が約500年~600年ぐらい続きます。この長い小国分裂の時代の国々をラージプート諸王国といいます。8世紀から13世紀まで、長いです。インドは戦国時代のようになっていく。
 このラージプートの意味は新しい土豪という意味です。土豪は地方の親分さんです。彼らが小さな国をいっぱい建てていった。
 もともと小さい田舎の親分さんだから、オレが王だというのには、いかにも権威がない。この権威を何によってカバーするか、それが重要になっていきます。彼らは、ヒンドゥー教の神様によって、オレは王に任命されたんだというアピールをしていく。
 しかし、ヒンドゥー教はバラモンの力が強い。王よりもバラモンの権威を認めることになる。しかしバラモンの力では大帝国をつくれない。だから小国分立が続きます。その一方でバラモンは親分の協力を得て社会に根づいていきます。

 この時代には仏教よりもヒンドゥー教の神様の方がもてはやされていく。ということは、今まで流行ってきた仏教はだんだん廃れていって、ついにインドから消滅してしまいます。別に仏教が弾圧されたわけではなくて、仏教が感覚的に本質をとらえようとする密教化していって、ヒンドゥー教との見分けがつかなくなり、ヒンドゥー教の一つとして取り込まれていきます。
 インドで発生した仏教は今のインドにはありません。仏教は、インドの周辺の中国や東南アジアや日本に残っています。仏教は日本の宗教ではありません。中国の宗教でもありません。インドの宗教です。では今のインドは仏教国かというと、インドでは仏教は消滅している。仏教はそういう複雑な動きをしています。
 もう一つ、このラージプート諸王国の500~600年の間に、インドの文化が強まって一つの社会制度が定着していきます。これがいわゆるカースト制というものです。ヴァルナという4つの身分、それがジャーティという職業集団と結びついていくんです。そして身分制度と職業がセットになった社会になっていく。だからカースト制は最近ではヴァルナ・ジャーティ制と言うようになっています。
 こうやって職業の世襲制が完成していきます。世襲というのは、親から子、子から孫へ、と受け継がれることです。


【インドのイスラーム化】 この時代のインドは、ヒンドゥー教では大国家を作ることができずに小国に分かれたままですが、次にインドに大帝国を作っていく宗教が何かというと、それはヒンドゥー教ではなくイスラム教です。
 しかしそれはインドがイスラーム化してからです。イスラム教のことは、またあとで言いますが、7世紀にすでにイスラム教が発生しています。
 そのあと約500年かけて、インドの近くにできた最初のイスラム国家といえば、1148年ゴール朝です。今のアフガニスタンあたりの国です。
 今までインド人はイスラム教徒ではなかった。ヒンドゥー教徒だった。または仏教徒だった。ゴール朝はイスラム教国です。北西インドから発生して、デリーというところまで進出してくる。インドに乗り込んできた王朝です。その後、こういうイスラム教国家がコロコロ変わって、5つ続いていく。
 そのゴール朝の武将アイバクがゴール朝を倒して、自分が王様になってインドに君臨する。このイスラム王朝の武将というのが、イスラム教の場合にはわかりにくいんですが、武将は奴隷なんです。
 この奴隷のイメージが日本と違っていて、奴隷がなぜ武将になれるのか、日本人の感覚ではわかにりくいですが、イスラム教の兵隊は、もともと他民族から連れてきた奴隷なんです。そのうち有力な奴隷が兵隊をまとめて武力をもち、親分を倒して次の王様になったりする。こういうことは他の地域でも、このあともよく出てきます。
 奴隷という訳し方が間違ってるという言い方もあるんだけども、結婚の自由がなかったりするから、やはり奴隷だという見方もある。それで奴隷が王様になる。そうやって1206年奴隷王朝ができる。建国者はゴール朝の武将だったアイバクです。
 そしてこの後も、名前を変え、王様を変え、5つのイスラム国家がコロコロ変わる。奴隷王朝から、ハルジー朝、ツゥグルク朝、サイイド朝、ロディー朝、これで約300年間。この300年間をデリー=スルタン王朝という。すべてイスラム教の国です。ここで共通するのは、すべてデリーを拠点とし、北インドを押さえたということです。
 その次に全インドを含む大帝国ができる。それがムガール帝国というイスラム国家です。
 インドはここまでです。


【東南アジア】  ここからは、東南アジアです。ベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマー、マレーシア、シンガポール、インドネシア、これを一気にやっていきます。1000年ぐらいを。
  この地域には、多くの民族、多くの国家が乱立していく。この東南アジアは、数千年前から、人の流れは北から南に南下する。主に中国系の人々です。だから顔つきも似ている。何千年も前から、こういう人の移動が見られた地域です。
  それから東南アジアというと文化的には、中国インドという二大文明の影響を二つとも受けている。どちらかというと、影響が早いのはインド文明ですね。最初に入ってくるのはインド文明。民族的には中国人の南下ですけど、文化的にはインド文明です。だからここは統一性がないんです。顔かたちは似ているけれども、言葉は違うし、文化も宗教も違う。多くの民族がごちゃごちゃ混じりあっている。
 ただここは海に島がいっぱい点在して、船が往来するんです。東西に、東から西に、貴重品がいっぱい、珍しいものが船に揺られていく。物は陸を行くんじゃない。今のようにトラックで行くのはここ数十年ぐらいのもので、物を運ぶのは大八車引いてとか行かない。だから船に乗せて運びます。日本でもそうです。陸を動くのは人間ぐらいのものです。物を輸送するときにはみんな船です。だから船を使った東西交易が非常に盛んです。
 ここをねらって世界征服を企てていくのがヨーロッパです。こんなところまであと500年経つとヨーロッパ人が進出してくるんです。そしてごっそり金目のものを持って行く。

  まずスマトラ島にできた国、7世紀頃、早いですね。スマトラ島は、これね。インドネシアで一番中心は、大きいから偉いんじゃない。これです、ジャワ島です、中心は。ジャワ島のジャカルタという都市。これは一番大きな島にあるんじゃない。中心はここ。ここに人口が密集している。現在はこのジャワ島です。しかしこのスマトラ島、ここにできた7世紀にできた国は、シュリーヴィジャヤ国。まずインドの文化、仏教が広まる。
  次です。人口が多いといったこのジャワ島の中部では、シャイレーンドラ朝。ちょっと遅くできて、早くつぶれた。シャイレーンドラ朝。ここも大乗仏教です。ここに壮大な仏教の世界をかたどった建物がある。建築物があるんですよ。これがボロブドゥールという仏教寺院の跡です。ボロブドゥール寺院。写真があった、これです。ボロブドゥール寺院、ジャワ島にある。これは仏の世界の建築物です。
  ジャワ島の東の方に行くと、マジャパヒト王国。日本語では変な名前ですけれど、マジャパヒト王国という。これは長く続く、1200年代から1500年代まで。

  次です。島ではなくて今度は、大陸部です。カンボジアです。カンボジアにはアンコール朝。600年間、9世紀から15世紀まで。ここにはインドの文化でヒンドゥー教寺院が建てられた。アンコール=ワットという。最近に非常に人気が高い観光地で、これも、上の写真、アンコール=ワット。ヒンドゥー教寺院です。しかしこの後、仏教勢力を盛んになってきて、これはこのあと仏教寺院に変わっていく。覚えにくいけど、こういうふうにいろんな人たちが覆い被さっていて、日本のように2000年の昔から日本民族が一ついるという歴史ではない。いって見れば日本民族が500年いて、次の騎馬民族が船で押し寄せてきて、さらに元のモンゴルの大軍の元寇が押し寄せてきて、日本が負けて支配されて、モンゴル帝国になって、そのあとまた北方の騎馬民族が日本を征服しにやってきて、そういうふうに何重にも人々が積み重なってる。ここらへんは。
  それから、ベトナム、ベトナム南部チャンパー、古いね、2世紀から17世紀の1000年以上。
  それから、ミャンマーはパガン朝。インドの東にある。
  それから、タイはスコータイ朝、13世紀、14~15世紀。タイは今でも仏教の敬虔あらたかな、熱心な国家です。
  マレー半島、細長いひょうたんみたいなマラッカ王国。14・15・16世紀。この地域が最初にイスラーム化していくのは、このマラッカ王国が15世紀にイスラーム化してからです。ここから東南アジアのイスラーム化が始まる。世界最大の人口を持つイスラム教の国というのはここにある。西南アジアじゃないです。サウジアラビアでもない。世界最大の人口、2億の人口がいるイスラム国家というのはインドネシアです。この地域にあるインドネシアだとこういうことです。
  それからこの時代、ここで重要なのは、海峡の名前を○をしていてください。マラッカ海峡です。このマレー半島とスマトラ島を抜けるためには、船はインド洋からここを抜けて、中国の沿岸の南シナ海に行く。このルートが一番近いです。ここを塞がれたら商売上がったりなんです。重要なんです。マラッカ海峡は、日本の石油も運ぶ。石油止まったら、日本はパーです。その石油をアラビアから運んでくるタンカーは今でもここを通る。我々はさほど意識しないけれども、このマラッカ海峡は非常に大事なところです。ここを押さえているのがこの半島の先端にある小さな島、シンガポールですよ。
 シンガポールというのはそれはそれは大事な場所です。目立たないが。シンガポールを取ればこのマラッカ海峡を押さえることができる。そういう国です。面積は日本の小さな県ぐらいしかない。しかしがっぽりお金を持っている。
 以上で、インドが終わりました。中国が終わって、インドが終わりました。
 これで終わります。ではまた。




衆生とカースト

2019-03-19 05:50:39 | 旧世界史2 古代インド

インドに生まれた仏教には、驚くほど身分や職業に関する記述がない。
あれほど徹底した身分制度(カースト制度)を発生させた国でありながら、である。
そこに仏教の存在意義があり、それがまたインドで仏教が生き残れなかった理由でもある。

仏教の持つこの平等観は、キリスト教の隣人愛にも似て、世界宗教としての性質を持っている。
仏教の「衆生」と、キリスト教の「隣人愛」は同じことである。
しかしこのことに注目する仏教徒は少ない。

そして仏教のいう「衆生」がインドで生き残れなかったのと同じように、ヨーロッパでもキリスト教のいう「隣人愛」は崩壊の危機にある。

もともと仏教もキリスト教も「個人救済」であり、「経世済民」ではない。

日本的な仏教の「一切衆生、悉有仏性」(いっさいしゅじょう、しつうぶっしょう)の考えたかが、生き残れるかどうか。
それともヨーロッパ的な階級社会になっていくか。

グローバリズムは平等性を担保しない思想であることに、どれほどの人が気づいているであろうか。


インドの王権と仏教

2008-08-31 17:46:14 | 旧世界史2 古代インド

インドの古代王権は仏教の興隆とともに栄え、その衰退とともに消滅する。

紀元前4世紀から紀元後7世紀までの1000年間に栄える古代インドの王国は、アショーカ王をはじめ仏教の興隆に努めた。

そこでは仏教はインドの王権を聖化する宗教としての勤めを果たした。

ところが紀元後7世紀のヴァルダナ朝の滅亡を境として、仏教はその誕生の地インドを追われていく。代わりにインド古来からの宗教であるバラモン教が復活し、土着の民間信仰を取り入れながらヒンドゥー教として広まっていく。

その後のインドでは約500年間、ラージプート諸王朝というクシャトリア階級(王族)の国家が興亡を繰り返し混乱の時代に入っていく。

彼らラージプート諸族は仏教勢力と結びつくことはせず、逆にバラモン勢力と結びついていく。
しかしそのとたんに王たちはインド古来のヴァルナ制度(のちのカースト制度)に組み込まれ、バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラという秩序に従わざるをえなくなる。ここでの第1権力はバラモン階級なのであり、王族であるクシャトリア階級はそのバラモンの権威の下に置かれることとなる。

つまりラージプート諸王朝の王たちはバラモンによっては神に最も近い第1権力としての力を手に入れることができず、その結果どこまでも俗なる権力としての力しかもつことができず、国内を統一することができないのである。

つまり王権が仏教と袂を分かった結果、自らの政治的地位を聖化することができなくなったのである。

その証拠にはラージプート諸王朝のあとに再びインドを統一するのは、王権と宗教が強く結びついたイスラム国家であった。
このようにしてインドはイスラム勢力によって支配される国になるのである。


世界のはじまり

2008-08-29 19:58:59 | 旧世界史2 古代インド

世界のはじまりに思想がある。
それは西洋でのことである。
日本では
世界のはじまりに思想はない。
思想はあとからついてくる。



西洋ではこの世からの『救済』を求め、
日本ではこの世での『永生』を願う。

西洋では『救済』のために特別な『思想』を必要とする。
ところが日本では、この世での『永生』のために特別な『思想』は必要としない。


仏教はこの世を『苦』ととらえたが、あの世での『救済』を必要としたのではない。
あくまでもこの世での『悟り』を求めたのである。
この世での『悟り』こそが、『解脱』であり、この世での最高の幸福なのである。

そのためには修行が必要なのであって、特別な思想は必要ない。

『西洋思想に対して東洋思想を主張しようとする場合、思想とは何かという認識論的問題から吟味してかかることが必要である。』
(人生論ノート 三木清 新潮文庫 P10)


東洋では世界を変えるような思想は必要とされなかった。
その代わりこの世を生き抜くための思想が必要とされたのである。

世の中を変えるための思想と、
世の中で生き抜くための思想。

西洋思想と東洋思想の違いは、このようなところにある。

東洋思想の場合、それによって世の中の秩序が変わるということはありえないことであった。

世の中の秩序は自然と決まっているものであり、『天』に刃向かうようなことは誰もすべきではなかったのである。
それはこの世の中が生きるに価するものと考えられていたからであろう。


古代インドの王権と宗教

2008-07-04 18:47:02 | 旧世界史2 古代インド

古代インドの王権に宗教的権威を与えてきたのは、バラモン教ではなく、仏教である。

お釈迦様はシャカ族の王子として紀元前6世紀に誕生し、仏教をひらいていくが、仏教の広まりと国家の統一は歩調を合わせるかたちで進行していく。
仏教成立から約200年後、紀元前4世紀にインドの統一王朝としてマウリヤ朝が誕生する。
マウリヤ朝のアショーカ王は仏教を厚く保護し、仏典のとりまとめを行って、仏教の発展に寄与する。
しかし当時インドはカースト制により、社会の頂点に立つのは王ではなく、バラモン階級であった。すべての人々の平等を説く仏教は、そのようなバラモンの信仰するバラモン教に対する反動として起こった一面がある。
その点でバラモン階級と対立する王は、仏教と利害を一にしていた。

その後、紀元後1世紀に起こったクシャーナ朝も仏教を保護し、カニシカ王は第4回仏典結集を行い、仏教の発展に寄与している。
またこの王朝ではガンダーラ美術が栄え、ギリシア彫刻の影響を受けて、それまで仏像をもたなかった仏教界に仏像が刻まれるようになった。
このようなかたちで仏教文化が花開く。

しかしその後、グプタ朝(紀元4世紀成立)時代になると、一時仏教勢力に押され気味であったバラモン教が息を吹き返し、インドの土着宗教と融合してヒンドゥー教が成立する。ここでインド古典文化が完成する。つまり『これがインドだ』という文化が完成するのである。

古代インド最後の統一王朝はヴァルダナ朝(紀元7世紀)であるが、それ以後はインドは分裂していき、それまでのような統一王朝は見られなくなる。
次に登場するのはラージプート諸王朝であるが、ラージプートとはクシャトリア(王族)階級を意味する言葉である。宗教的権威をまとわないクシャトリア階級からは、インドを統一する王朝はついに出現できなかったのである。

そしてその後もヒンドゥー教はインドの庶民のあいだに根づいていき、インドを代表する宗教になっていく。

その一方で仏教は衰退していく。
つまり、古代インドでは、仏教の衰退にともなって王権が衰退する。

その後、インドに再度、統一王権をもたらすのは、ヒンドゥー教ではなく、イスラム教である。
その成立はイスラム教徒によってムガル帝国が成立する16世紀を待たなければならない。
ヴァルダナ朝の滅亡からムガル帝国の成立まで、約900年のひらきがある。

900年後のインドは、ヒンドゥー教の国としてではなく、イスラム教の国として統一される。

ということはヒンドゥー教を国民的な宗教としたインドでは統一政権は生まれなかったということであり、インドを再び統一するためにはイスラム教という新たな西方宗教を必要としたということである。

ところが現在のインドはヒンドゥー教の国家である。イスラム教が主に支配者層の宗教であったのに対し、多くの民衆はヒンドゥー教徒だったからである。
インドを支配したイスラム教徒は現在は隣の国にパキスタンを建国している。
だからパキスタンとインドは仲が悪い。

それはともかく、900年間のあいだインドの統一国家の形成に寄与しなかったヒンドゥー教が、ムガル帝国後、また息を吹き返し、現在のインドを代表する宗教になっている。



インドでは、仏教の発展と古代インドの統一国家の進展が歩調を合わせていたように、仏教の衰退と統一国家の衰退も歩調を合わせている。

その後のインド宗教の中心になったのはヒンドゥー教である。
ヒンドゥー教はバラモン階級を温存した宗教である。
バラモン階級は王族をうわまわる最上級の階級として、インド社会に君臨し続けた。
もっともバラモンと王が対立していたわけではなく、バラモンは王族の要求に従って王権を神聖化することに協力していくが、
もともとカースト制の枠組みのなかでは王族はバラモンに次ぐ2番目の階級として位置づけられているため、王権の権威はバラモンの権威を超えることはできなかった。

一般に王権は武力的権力だけではなく、宗教的権威とも結びついているものであるが、インドの王権の場合にはこの宗教的権威がなく、バラモン階級による宗教的権威の独占の前には王の権威は無力であった。
このようなところに、ヴァルダナ朝以後インドに強力な王権が誕生しなかった原因があるのではなかろうか。

一方でバラモン階級もその宗教的権威を利用して政治的権力を手に入れようとはしなかった。
古代国家では宗教的権威を身にまとったものはよく政治的権力者としても振る舞うものであるが、インドのバラモンにはそのような要素がない。

そういう意味ではインドという国は純粋な意味での宗教国家であり、その宗教的秩序によって社会の安定が保たれていたのであった。
政治的権力者である王は、バラモンによるその宗教的秩序のなかに混入するかたちでしか国家を形成することができなかったのであり、そういう意味でインドの王権は宗教的権威を身にまとうことができなかったのである。

そういう時代が900年も続いたのちに現れたのがイスラム教であり、ムガル帝国はこのイスラム教徒によってインドに久々の統一をもたらした。

イスラム教では政治と宗教は最初から一致している。
イスラム教は典型的な一神教だといわれるが、一神教は政教一致を原則とする宗教である。
キリスト教も一神教であるが、キリスト教はイスラム教に比べるとかなり変則的であり、キリスト教を基本に一神教を考えると多くの誤りを犯しがちである。

政教一致の一神教に対して、多神教のヒンドゥー教は政教分離である。
ここで政教分離という意味は、政治的権威は王が受け持ち、宗教的権威はバラモンが受け持つという意味である。
王がバラモンによって神聖化されることはあるが、王が宗教的権威をバラモンから奪おうとしたり、逆にバラモンが政治的権威を王から奪おうとすることはない。

そのようななかで、政治的秩序の前に宗教的秩序ができあがっているのがインドである。

いかに王であっても宗教的秩序に手を加えることは許されない。

『(インドの)王は法の制定者ではなく、バラモンの伝持する聖なる法(ダルマ)に従って統治するものとみられた』のである。
(世界の歴史 3 古代インドの文明と社会 山崎元一著 中央公論社 P77)

この点インド社会はイスラム社会と似た特質を持っている。
イスラム社会も王は法を制定するものではなく、法(シャリーア)はウラマーと呼ばれるイスラム法学者たちの手によって解釈されるに過ぎないのである。
イスラムの法は王の恣意的な意志によって制定されるのではなく、コーランやムハンマドの言行によって決められているのである。

ただムハンマドの後継者であるカリフは宗教的指導者であるとともに政治的軍事的指導者でもあった。
これと比較してみた場合に、インドの王には宗教的指導者であるという側面は全くない。
一つの例外として、紀元前3世紀に仏教を保護したアショーカ王は、征服戦争という手段を放棄して、非暴力的なダルマの政治をおこなう決意をし、『帝国統一の理念としてダルマを掲げたのであるが、その目的を達成することはできなかった』のである。
(世界の歴史 3 古代インドの文明と社会 山崎元一著 中央公論社 P174)

このアショーカ王の試みは、王が宗教的権威をも手に入れることによって、それまでのバラモン階級による宗教的秩序に変更を加えようとして試みだととらえることができるが、インドではその試みは成功しなかった。

それはバラモン教やヒンドゥー教のような多神教には、一神教世界のような『この世のすべてを支配する神』の代理人としての聖俗両権に渡る権限が発生しなかったためである。

このような国に政治的統一をもたらすためには、他の宗教の力を借りねばならない。
それが仏教であったり、イスラム教であったりしたわけである。





(仏教は日本の宗教でもあるが、そういう意味では仏教はその教義とは別に、インドで発生した当時から国家と結びつきながら発展してきたという性格をもっている。
日本の仏教が奈良時代に国家仏教として発展した理由は仏教のもつこのような性格にあるのではなかろうか。)