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ひょうきちの疑問

新聞・テレビ報道はおかしい

「授業でいえない世界史」 1話 人類の誕生

2019-01-27 22:39:20 | 旧世界史1 古代中国

このファイルは旧バージョンです。
修正版は「授業でいえない世界史」としてアップしています。カテゴリーの「新世界史1~17」の中にあります。


修正版
 ↓

https://blog.goo.ne.jp/akiko_019/c/552c28b2ae140fd2f08c1d5121856f5c




【はじめに】
 いま高校で教えられている「世界史」は何かもの足りません。
 高校世界史を、高校生に実際に授業しているつもりで書いてみました。
 
 ※は、出典や補足です。面倒であれば、読み飛ばしてもらって結構です。





【人類の出現】

 【直立歩行】 700万年前、猿が直立歩行をし始めました。
それまでは木の上に住んでいた猿がなぜ、地上に降りてきて直立したのか。木が枯れて森がなくなったから、仕方なく地上に降りたとも言われます。でもよく分かりません。しかしなぜ直立したのでしょうか。そのまま四つん這いで歩いてもよかったはずなのに。
 きっと外敵に襲われるのが怖かったのでしょう。だから四つん這いで歩くよりも、敵がいないかどうか確かめるために直立せざるをえなかった。直立した方が、遠くの敵がよく見えますからね。我々の直立姿勢はそういう不安の表れなのです。どこに敵が隠れているか、怖くて怖くて仕方がない。だから遠くの敵を素早く見つけるために、立たざるをえなかったのです。そうした方が生存する確率が高くなって、直立した猿たちの子孫だけが生き延びることができたのです。
我々人間は弱いものです。足も遅いし、ライオンと比べたらキバもない。大した取り柄もなかったはずなのです。だからどうやったら敵に襲われないか、そればかり考えて逃げ延びてきた。それが直立姿勢なのです。


【脳の発達】 でも直立というのは、鉛筆の芯を横にすればすぐ折れますが、まっすぐ立てれば折れないし、どうかすると指を貫きます。そのくらい強いものです。直立の重みの負担と、動物のように頭を横から支えているのでは、頭の重みの負担が全然違います。だからいくらでも頭は大きくなっていく。それが頭の脳味噌の発達、知能の発達をもたらします。


【手】 同時に手が発生しました。前足が手になりました。前足がものをつくるためのになります。動くためではありません。それで道具の使用ができます。指の動き、ロボット工学でも人間のような複雑な指は作れません。ミカンの皮をむける指のロボットはまだできません。リンゴの皮をナイフでむくのはもっと複雑です。それほど複雑な動きを、我々の指はほとんど自覚なしにやっています。そういう知能ができます。


【猿人】 最初の人類は猿の人と書いて、猿人といいます。人類の進化は、アフリカのオラウ一タンがアフリカ人になり、ニホンザルが日本人になったと考えると、訳がわからなくなります。オランウータンとニホンザルは別種で、かけ合わせても子供できません。犬と猫がかけ合わせても、子どもが生まれないように。アランウータンとニホンザルという別種から進化したアフリカ人と日本人が同種になり、子供ができるということは理屈上ありえません。


【一地点発生】 ということは、アフリカ人と日本人はご先祖が一緒であって、同じ種から発生したということになります。どこかの1地点で発生したのです。
 どこから発生したのか。日本ではありません。ヨーロッパでもありません。アフリカです。アフリカで人類が発生しました。すべての動植物には原産地があります。人間もそうです。人間はアフリカで発生しました。
 人間が発生して、我々はホモ・サピエンスという動物学上の分類にはいります。小学生に聞いたら、人間は動物じゃないと思ってる人がたまにいるみたいですけど、我々は紛れもなく動物です。ホモ・サピエンスという種です。人間というのは何種類かいたらしいです。700万年の間には。そのたびに滅んだんです。最終的に我々1種類が生き残っています。
ということは、二度あることは三度ある。我々もいつ滅びるか分かりません。我々の先輩の人類がたどった後を見ると、そういうことも考えられます。


【原人】 次が150万年前の原人です。原人になると、アフリカを脱出するようになります。アフリカのどこから脱出するか。いまのスエズ運河のある地峡帯だと言われますけれども、異説としてはもっと南、紅海が最も狭まっているところからだとも言われます。前者であれば脱出するときは、道幅の狭いところを通ります。難題はここに行くには世界最大のサハラ砂漠を渡らなければならないということです。ここは人間は越えられません。


【出アフリカ】 砂漠に迷ったら人間は死にます。どうやって砂漠を越えたか。そしてアフリカを脱出してどこまで行ったか。
ジャワ原人は少なくともジャワ島まで行きました。北京原人は北京あたりまで行きました。
でも猿人も原人も絶滅します。絶滅したということは我々の祖先ではないということです。

我々新人はというと、また振り出しに戻って、同じようにアフリカから発生しました。そして、アフリカを脱出し、ユーラシア大陸を移動し、北のベーリング海峡を渡って、北アメリカへ行き、それから南アメリカまで達しました。つまり全世界に広がったのです。


【旧人】 それ以前の人類は残念ながら死にました。我々に一番近い人は、ネアンデルタール人といいますが、ネアンデルタール人はヨーロッパまで行って絶滅しました。そのネアンデルタール人の存在は20万年前です。彼らは旧人といいます。我々は新人といいます。
 この四段階、猿人、原人、旧人、新人。化石が見つかっていないだけで、この他にもいたかも知れないけど、われわれ新人以外はすべて絶滅したといわれます。


【言語】 まず原人段階になると、火の使用が始まります。
言葉もこの原人段階からあります。この言葉の複雑さというのも、ノドの声帯を微妙に何百通りにも変化させていくことによって生まれます。そして我々はその複雑な発音を聞き取ることができます。
外国人の言葉を聞いても、例えば英語を日本人が分からないのを見ても、この聞き取りの難しさを感じます。我々は生まれてながらに日本語に慣れ親しんで、それをほぼ完壁に身につけていますが、いったん我々の言葉ではない英語にふれると、なかなかわからない。英語の勉強で悩んでいる人は多いのです。それくらい複雑なことです。そういう難しい言語を判別できる能力が自然に備わっているということは大変な能力です。


【火の使用】 もう一つはです。動物は火を使わないどころか火を見ると逃げていきます。オオカミがいるようなところで野宿するとき、野宿の方法として最低限しなければならないことは何か。そのまま寝て良いかというと、必ず火を焚かなければいけません。火を見てオオカミは逃げますから。火を焚かずに寝ると、我々はオオカミに餌食になって、食いちぎられてボロボロにされます。一昼夜で骨と皮だけになる。しかし火を焚いておくとオオカミは恐がって逃げていく。
 しかし人間は子供の頃から「子供の火遊び」で、楽しそうに火で遊びます。だからときどき火事が起こる。しかしこんなことは絶体動物にはおこりません。おまけに人間は自分で火をおこしたりする。
これによって煮炊きができるようになります。生で食えないものでも、火を通せば食えるようになります。これによって、食料として食えるものの範囲が飛躍的に広がったのです。魚を生で食うには、刺身のようにしてその日しか食べられませんが、火があれば2~3日後でも煮たり焼いたりして食べられます。こうやって、か弱かった人間の生存能力は高まります。


【死者の埋葬】 それからもう一つ、旧人、つまりネアンデルタール人になると、死者を埋葬するようになります。死んだ人間をなぜ手厚く葬るのか。ここで多分、彼らは目に見えないものを頭の中で見ている。この世で自分が生きていることはみんな知っています。しかし人間はもうあの世を考えている。すでに子供のころから。自然に。
 人の死を見て、どこにいくんだろうか、と思う。あの世があるのかどうか、それを証明した人は1人もいませんが、しかしほとんどの人間はそれを想定している。
 そうでないと葬式などできません。ホントに無宗教な人間は人が死んだって葬式なんかしないのです。葬式をすること自体、死後の世界を想定しています。これは宗教の発生です。


【見えないもの】 目に見えないもの、誰も見たことがないもの、死を想定すること、さらに死後の世界を想定すること、これが役に立つのか立たないのかわからないけれども、人間というのはずっとそうしてきました。
 宗教を信じない人、自分で信じないと言う人はいますけれども、人の死を見て悲しまない人はいません。そして葬式をやっていく。墓をつくって祀っていく。
 これは宗教の発生です。日本人は自分が宗教的であることを、あまり自覚していませんが、信じていないわけではないです。日本にも宗教は根づいています。このことを勘違いすると大変なことになります。
 宗教を信じないという人はいますけど、宗教のない社会はありません。人間がいるところ、必ず宗教があります。


【新人】 次に新人クロマニョン人ですけれど、この時代になるとアメリカ大陸でまで広がります。世界に1種類の人間が満遍なく分布する。こんな動物は他にありません。ニホンザルはヨーロッパにいませんし、オランウータンは日本にいません。ライオンだって、キリンだって生息地は限られています。世界中に生息している哺乳類って、ほかにいますか。
 そういう動物はそのものすごい進化をしている。いろんな環境に適応しなければならないから。1種類の人間が全世界にいるというのは動物界では異常なことです。普通は、動物種には原産地というのがあって、一定の環境の狭い地域でしか生息できないです。その条件に合った場所でしか暮らせません。
 アフリカから発生したのが人間です。なぜ氷に閉ざされた北極にイヌイットといわれる人たちが住んでいるのか。オーストラリア大陸というアフリカという全然別の大陸に、アボリジニーという人が住んでいるのか。そういう原産地とは異なった地域に人間が適応できたのはなぜなのか。そういう意味ではかなり大変なことが起こっていたんです。


【認識する力】 もう一つ、我々は新人ですけれども、20万年前のネアンデルタール人と比べると、さぞかし今の人間がネアンデルタール人よりも、頭の脳味噌は大きかっただろうと思いがちですけど、違うんです。
 ネアンデルタール人と我々は、脳味噌の重さ自体は変わりません。ではネアンデルタール人がなぜ滅んで、なぜ我々新人は世界的に分布するほど繁栄しているのか。
 これは脳の容量じゃなくて構造なんです。脳の構造が変わってる。どう変わったのかというのは、まだ半年以上は謎ですが、ネアンデルタール人はどうも目に見えるものだけで生きていたようなんです。しかし我々は目に見えないものを見ているんです。宗教というのはその最たるものです。宗教的想像力が一体何を生み出していくか、ということはものすごく大きな問題です。


【似たもの】 我々はいろんな似たものを集めて、これとこれは同じとか、これとこれは違うとか、まとめる力や総合する力、さらにそれを統一する力を持っています。こういったことと、ああいったことがあって、それを経験していくにつれて、この経験をもとに別の結論を導いたりする。
 人間は若いときこそ価値があるという若者文化もいいですけれども、ふつう人間は経験を重ねるに従って賢くなる。過去のことを覚えていて、その経験をもとに新たな結論を導いていく。これは総合する力なんです。この総合する力というのは、別の言い方をすれば抽象力です。
 ネアンデルタール人は目に見えるものだけです。具体的なモノに対する対応力だけです。ネズミがいると、それをどうやって捕まえるか。われわれ人間はその能力よりも、まとめる抽象力に長けています。これがあるとまずだまされなくなります。世の中には非常に似たものがありますけれども、一見似ているけれども違うもの、つまり偽物だというものもある。逆に一見非常に違うように見えるけれども、実は同じだというものもある。
 例えば「山」というのがあって、これをこういうふうに「山」(草書体)と書く人がいる。経験すれば、これはおんなじものを表現していることが、日本の高校生ぐらいだとわかる。しかし、それが同じものか違うものかというのは、文字を知らない人間には分からない。違うと言えば違う。しかし似ているといえば似てる。
 では逆に、ひらがなの「り」と、カタカナの「ソ」。これも似てるといえば似てる。でも我々はこれを読み分けられる。このひらがなの「り」と、カタカナの「ソ」の判別。機械の能力ではものすごく微妙なプログラムを組まないと分かりません。人間は無意識のうちに、これは同じ、これは違う、と見分けている。そういう能力があって、文字を書けるし、読める。違っても同じ、似ていても違う、そを識別する能力を持っています。
 これは悪い例ですけど、詐欺師はこういう能力に長けていて、違うんだけど、似たものを同じに見せかけて人をだましたりする。しかしまともな人間は、それを嘘だと見抜く能力をもっている。これはどうもおかしいぞ、と疑う能力、これがわれわれの脳味噌です。旧人はネアンデルタール人です。我々はホモサピエンスです。その一種がクロマニョン人です。この二つの人間は脳の容量は1500ccと変わらない。でも構造が違う。
 この違いは多分、前頭葉だと言われています。総合する力というのは前頭葉あたりにある。脳の容量は20万年前から1500ccで変わらないけど、どこか構造が変化している。


【共存】 しかもこういうネアンデルタール人とクロマニョン人が一時期、共存していたということが分かってきました。クロマニョン人がヨーロッパに行ったら、自分たちと違うネアンデルタール人がいたという時期がある。互いにどういうリアクションしたんでしょうか。互いに同種として扱うんだろうか。別種として扱うんだろうか。

 長いこと別種だから関係なかったと言われてきましたが、DNAの解析が進んで、3年前に我々ホモサピエンスの遺伝子の中には、実はネアンデルタール人の遺伝子が少数ながら混じっている、と発表されました。これどういうことなんでしょう。
早い話が交配してた、ということです。クロマニョン人は、それが男か女か分からないけど、たぶん女でしょうけど、我々の祖先はネアンデルタール人と交配していたんです。だからネアンデルタール人の遺伝子が我々にも残っている。ちょっとミステリアスな展開なのです。

 そのネアンデルタール人は、さっき言ったように死者に花を手向けて埋葬していた。何でこんなことが分かるのか。考古学者も土を掘り起こしているだけじゃない。何を採取したか。ネアンデルタール人の骨が見つかった。
次にした事は、回りの土を採集したんです。その中から自然界の数百倍の、何が発見されたんでしょう。花粉の化石です。ネアンデルタール人の骨の周辺の土から、自然界の何百倍もの花粉の化石が発見された。顕微鏡で調べたんですね。
 ということは、そのネアンデルタール人はお花畑の中で死んだと考えてることもできるけど、普通の類推としては、死ぬときには目立たないように普通の草むらのなかで死ぬだろうから、そこに死んだあとに、生き残った人が花を持って来て手向けたと考えないといけない。そういうことをしないと、自然界の何百倍もの花粉が出てくるようなことは起こらないのです。
 しかしこうなると彼らは今の人間とほとんど変わらない感情を持っていたことになります。一週間前に私の知り合いに不幸があって、葬儀に参列しました。そして死に化粧の顔の横に花を手向けてきました。こういうことを我々は20万前からやってきたんです。
 一時、我々はネアンデルタール人と共存した時期があります。その遺伝子も入っている。その新人もアフリカで出現し、他の人類が繰り返し何百万前からやったように「出アフリカ」を行なった。しかしアフリカを出て全世界にまで広まることができたのは我々だけです。ホモ・サピエンスだけです。


【食料生産の開始】
 そういう時代が約700万年続きました。文化が変わるのは699万年後です。もうアッという間に699万年過ぎました。
 1万年前に来ました。1万年前に何が起こったか。氷河時代が終わって、地球が温暖化していったんです。
その間、新人はアフリカを脱出して、ユーラシア大陸に渡り、そこから北上してシベリアに至ります。当時は氷河期で海面が沈下して陸地が広がっていましたから、今のベーリング海峡はアラスカと陸続きでした。その陸橋を渡って北米大陸に渡ります。それからまた南下し中米にいたり、赤道を越えて南アメリカ大陸の南端にまで到達します。それが今から約1万年前です。
ここで我々はオーストラリアも含めて全世界に分布したことになります。世界中どこに行っても新人がいるわけです。いわば地球が新人によって満杯になったのです。

 それと同時に新たなルールが発生します。新人が全世界に広がると同時に、気候の温暖化も手伝って農耕・牧畜が始まります。これが1万年前です。人間の力によって植物を育てることを農耕といいます。それと同じように人間の力で動物を育てていくことを牧畜といいます。
 今までは狩猟・採集の生活でしたが、ここからは農耕・牧畜という新しいルールの生活に入ります。ここでルールが変わったのです。


【牧畜】 この2つは全然違うようでいて、自然界のものを人間の作業によって作っているという点では同じです。植物を作るものを農耕といいます。動物を育てることを牧畜といいます。植物か動物かの違いだけで、どちらも人間が作っていくという点では同じです。人間が手を加えて作っている。自然界のものを自分の都合に合わせてつくっていく。そういうことが始まると、飛躍的に生産量が上がります。
 我々は飽食の時代といって、本当に腹が減ってひもじい思いをしたことがない人間が大半を占めていますが、人間は昔から、食い物の怨みは恐ろしいといいます。まずは食い物なんです。
 スマートフォンが壊れても死にはしません。でも食い物がなければ3日で死にます。その食い物をどうやって確保するか。人間のように全世界に散らばっている哺乳類は、他にはいないんです。
乾燥したところでは、水は生き残るために必要不可欠で余分な水はありません。日本のように湿ったところでは、稲のようなものが、地域限定で自生しているんです。地域によって違うんですね、育つものが。
 何が育つのかによって、その後の文明の形が違うんです。
代表的なのは、古代文明メソポタミアです。ここから発生して東西に行くもの、その代表は小麦です。ヨーロッパ人は小麦、パン。アラビアではナン。パンとナンはほぼ同じです。これは小麦粉にして、こね上げて、火にかけて、それを膨らまして食う。手間暇かかります。


【原産地】 新大陸はじゃがいもトウモロコシです。もし日本の鎌倉時代のドラマにじゃがいもを煮るシーンがあったらそれはウソです。その頃の日本にはないのですから。
 じゃがいもも、今では当たり前のように食べていますが、これはアメリカにしかない。じゃがいもの原産地はアメリカだから、戦国時代まで日本人は知りません。インディアンはすでに住んでいます。こういう食べ物が、ヨーロッパ人による新大陸発見後、全世界に広がっていきます。


【稲】 小麦人口は多いです。しかし稲人口はそれに変わらないぐらい多い。は中国南部原産です。長江流域、そこから日本、東南アジア、インドへ広がっていく。
 なぜこれが大事かというと、稲の穂は実ると頭を垂れます。それに対して麦の穂は実ってもまっすぐに立っています。なぜ稲穂が頭を垂れるか。それだけ重たいからです。何を言いたいかというと、どっちが収穫が多くて、どっちが人口収容力が大きいかです。ダントツで稲なんです。ということは稲のある東アジアが豊かなんです。
 土地がぬかるんでいないといけないから、栽培しにくいけど。それさえクリアーすれば、麦の実る西アジアよりも、稲の実る東アジアの方が人口収容力が大きく、より豊かです。今でも東アジアの人口密度が西アジアよりも圧倒的に高いのです。
 水田は人工的に作ったものです。水田は人間の手が加わらないと、今のような水田はできません。しかも斜面では水田はできない。稲を植えるときには、田植えをしますが、水田に高低差が10センチあれば水田はできません。水は均等に水平にしか張らないから、水が偏ってしまうんです。水田ができるためには、完壁に水平な地ならしが必要です。だから昔の水田というのは、それほどの土木工事できなくて、狭くて小さいです。
 今のような一辺50メートルもある水田なんか我々が小さい頃にはなかった。今のようになった最近の大圃場整備の結果です。これで大きな水田ができた。一気に一枚の水田面積が広がった。高い土木技術が必要です。稲は収穫量が高い。だから人口収容力が多いのです。


【文明の誕生】
 ここで4つの文明が誕生する。インダス文明、メソポタミア文明、中国文明、エジプト文明です。

【東が豊か】 モノは2000年間一貫して、約200年前にイギリスが勃興して産業革命が始まるまでは 東が豊かです。人口が一番多い国は中国です。今13億人です。次はインドでしょう。今12億人です。地球の中で人口は圧倒的に東が多い。西は麦だから、食糧は乏しいです。
 だからモノの流れは200年前まで、一貫して豊富な東から乏しい西に流れていました。西の人間は東のモノが欲しかった。中国のモノが欲しかったんです。インドのモノが欲しかった。ヨーロッパが進んでいたというのは、最近のことです。200年前までヨーロッパは田舎です。それが歴史の基本です。モノの流れもそうです。


【シルクロード】 シルクロードがあります。ローマの絹を中国がもらうと思っている人がいますが、逆ですよ。シルクロードのシルクは絹です。絹はどこでつくられたか。中国です。それを誰が欲しがったか。ヨーロッパ人が欲しがったのです。これがシルクロードです。こういう大きな2000年の流れがあります。
 これちょっと自覚しておかないと、ヨーロッパ人がなぜインドに行こうとしたのか、よくわからなくなるんですよ。マルコ・ポーロというイタリア人がなぜ中国の元朝に行ったのか、わからなくなるんですよ。唐の都長安になぜペルシア人がいっぱい来たのか、わからなくなるんですよ。東のほうが豊かなんです。


【西暦】 最初の文明として、ここではメソポタミアから。
 今のイラク、ペルシア湾あたりです。紀元前3000年だから、今から5000年前です。紀元というのは西暦です。これはキリスト紀元です。
 ヨーロッパはキリスト教だから、キリストさんが生まれた年が紀元0年と信じられてきた。しかしこれ間違っていたというのが最近分かった。数年ずれている。長いことそれがわからなかったんです。
12月25日はクリスマスですが、キリストという生まれた年もわからなかった人間の誕生日がなぜ分かるのか。12月25日が、キリストの誕生日というのは大嘘です。生まれた年がわからないイエス・キリストの誕生日が分かるわけがありません。
 あれはもともと冬至の祭りです。冬至には1年で太陽が一番短い日、そこから太陽が復活する。それを世界的にみんなが祝う。それがルーツだと言われます。


【富】 ここで豊富な生産物は小麦です。西アジアは砂漠が広がっていて、日本のように水が豊かではありません。そのなかで比較的水が要らない小麦、これが自生していた地域です。肉と違って小麦というのは1~2年間は貯めることができる。肉は2~3日で臭くなって食えない。貯めることができるもの、これは富になるんです。
 そうすると貯めるのがうまい人と下手な人ができて、貧富の差ができる。それが人間の階級になっていく。金を持っている人が今も昔も強い。生活に困っている人、お金を貸してと言う人が弱い。貸してやるぞという人が強い。食い物を貸してやる人が強い。それが数百年続くと、あの家は代々立派な家だとか言われて階級ができる。彼らが支配階級になっていく。


【祭り】 それだけではなくて、人が集まって住むところ、日本もそう何ですけど、多くの村々には神社がある。鎮守の神様です。日本のあちこちにある。そこでお祭りをするんです。みんなで祝う。春祭り、秋祭りをする。人が集まるところには決まって神を祭る場所、神殿や神社ができます。

 人間が移動の生活から、定住の生活に移行するとき、最初に定住した人は怖かっただろうと思う。自分の周りにはいっぱいその日の糧を求めて移動している集団がいる中で、自分たちだけ定住して穀物を貯蔵していれば、いつ敵から襲われるか分からない。
しかも定住していてそこから動かないとなれば、なおさら狙われやすいんです。
 だから村の周囲には立派な城壁を築いて、敵の侵入を防ぐんです。

▼国家の成立


【都市国家】
 そうやってできたのが都市国家です。紀元前3000年、今から約5000年前。その早い地域がメソポタミアです。
 彼らにとっては、定住そのものは恐いことです。だから村を守ってくれる神様を祀る。たぶん真っ先にやったことはそれでしょう。神様が守ってくれないようなところは、恐くて恐くてとても住めなかったでしょうから。
 だから多くの都市国家では神殿が作られます。
 神殿ができると神主さんも必要になる。すると彼らを養う必要がある。それが税です。そして彼ら神官に神の声を聞いてもらうようになります。その神の声に従って村の動きが決められていくわけです。


【神殿】 メソポタミア地域では、ここで栽培される農産物は、米、麦のどっちか。麦です。そういったものが余ると神殿への貢納を行う。余ると神殿への貢納、神殿は政治とは関係ないと思うかもしれませんけど、大ありです。
 多くの場合、神殿で一番偉い神主や神官が、王になります。彼らは神の声を聞き、それを皆の衆に伝えます。皆の衆はその神の声に従うわけです。ということは、その神の声を伝える神官は、皆の衆に対して命令権を持っていることになります。ここから「」が発生します。
 一方で彼ら神官や王は、彼らが聞いた神の声が効果がなかったり、失敗すると責任を取らされます。雨乞いをしたのに、雨が降らないのはなぜなんだ、というふうに。
 神は間違うことはないわけですから、間違ったのは、神の声を聞きそこなった神官や王なのです。交代するだけでは済まないこともあったでしょう。

 古代の政治は、神様を祭ることと切っても切り離せません。これは変な政治ではなくて、日本の江戸時代も……今はあまり時代劇を見ないかも知れませんが……政治のことを時代用語でいうと、政治という言葉はなかったんです。政治のことは何といっていたのか。「政りごと」と書いて「まつりごと」と言っていた。政治とは神様を祭ることだったんです。こういう言い方はずっとある。政治というのは「祭りごと」だったんです。
 神様を祭ることによって、人が集まって、政治ができるんです。神殿ができると神主ができる、その神主が王になる。神のもとに人間が集まれば、神に一番近くに使える人が力を持つことは自然なことです。


【神主】 神主は非常に力をもっていく。文明発生の地域によって若干違いはあるけれども、日本もその例外ではありません。
 そういう中から小さな国の中心として、人が集まる都市ができる。これを都市国家といいます。日本のイメージでいうと、30年前に九州に典型的な遺跡が出ました。佐賀県の吉野ヶ里遺跡です。そういうところの人口密度は、他の地域から比べるとダントツ多い。


【記録】 あれがちょっと大きくなったものと思えば良い。そうすると、そこで税金を取るようになる。人が多いから誰から税金を取ったか分からなくなる。記憶には限界があるので、それを記録しておくことが必要になる。それが文字です。
 だから国が発生すると文字が生まれる。当初は粘土板、パピルス、ダントツ保存力が良いのが中国の紙です。まず書ける文字、次にそれを何に書くか、それが紙です。紙はあとで出てくる。そうやって強くなった国は、小さな領土からどんどん周りに広げていく。


【征服の4段階】 それは征服という過程を取ります。この征服の過程に4段階あって、
1つめに、戦わずに逃げる。
2つめに、戦って負けて殺される。
3つめに、戦って殺されなかったら奴隷にされて働かされる。
4つめに、税を取られる。
 税金はお金で支払うものと捉えがちですが、ここには何がないんですか、今を基準に考えると分からないんですよ。お金がないんです。では税は何で払うか、体で払うんです。ここ掘れ、ここ耕せ、と言われたら、体を使って言われたとおりにする。こういうのを人頭税という。今はない形です。これは昔、労役という形で日本にもありました。
 そこにお金が発生すると、10日働く代わりに10万円支払うようになる。それが今の税金です。


【遊牧民】 もう一つは、日本には遊牧民はいないけれども、中国にもヨーロッパのあんなに広い大陸では、日本列島と違って100倍ぐらいの面積がある。そこには土地を耕さない遊牧民がいるんです。
 文明の発生は2つ、1つは植物を育てる。もう1つは動物を育てる。この2種類なんです。我々は植物を育てる文化をもつ農耕民です。植物を育てるのも技術なら、動物を育てるのも技術です。これが遊牧民です。
 この段階では戦争してもどっちが強いということはないけれども、遊牧民が馬に乗り出すとこれがダントツに強くなる。鉄砲もないこの時代には。ただここでは喧嘩ばかりしてるんではなくて、世界レベルで見れば、時に喧嘩し、時に物々交換をして交流をしていく。
 戦いはじめると国ができます。これはあまり書かれてないけれども、戦う必要がでてくると、人は人数が多くないと勝てないことに気づく。だから多くの人間が集まるようにするためには国が必要になる。国というのは戦うための組織だという一面がある。
 それは、この後、いくつかの文明を見ることによって触れていきますが、そうやって四大文明といわれるものが生まれます。

 近いところから中国文明、黄河のほとりにできたから黄河文明ともいう。次、インドにできた。インドを流れる川、インダス川、これはインドの川という意味です。インドの西側を流れる川です。それからピラミッドのあるエジプト文明。その次は、最近アメリカに爆弾落とされたりして混乱が続いている地帯ですけれども、メソポタミア文明です。それからアフリカの入り口にあるエジプト文明です。


【民族】 世界史をやるときに我々日本人が意外と理解が弱いのは、民族のことです。というのは、日本ではどこに行ったって日本語が通じるし、どこに行ったって日本にいる人のほとんどは日本人だから、それを当たり前と思っている。しかし他の国はそうじゃない。ちょっと川をまたげば、川の向こうは顔も形も違う、言葉も違う、そういうの違う異なった民族がいるんです。そしてその民族同士が時としてぶつかり合うんです。
 言葉が違えば、文化が違い、宗教が違い、食習慣や生活習慣が違う。彼らが一緒に暮らすのは、我々のようなどこも同じ言語や習慣を持った日本人と違って非常に困難です。だから喧嘩が起こりやすい。
 民族を分けるときに、一番のポイントは、習慣とかいろいろあるけれども、一番には言語です。言語が違うと、文化も違うことが圧倒的に多いです。


【言語】 主に三つの言語集団があります。言語が同じ集団を語族という。世界史で1番ででてくるのは、インド=ヨーロッパ語族といいます。ヨーロッパ人グループのことです。インド人とヨーロッパ人は違うようですけど、確かに一見すれば肌の色が違いますが、しかし言葉的には同じです。親戚です。英語、フランス語、ドイツ語などは、もっと近くて、方言の差が大きくなったようなものです。

 これに対し、我々日本人はアルタイ語族です。文法的には韓国語と日本語は似てる。我々が全然違う種類の英語を学ぶのは、フランス人が英語を学ぶのとかなり難しさが違う。我々にはとってはかなりハードルの高い言語です。韓国の新聞は、漢字で書いたものを、その漢字をなぞっていくと、だいたいわかります。語順は日本語と同じです。これをアルタイ語といいます。ただしこれについては異説がありますからよく分かりません。これに対して英語は語順が全く違いますね。

 それからメソポタミアあたり、エジプトあたり、セム語族
この三つ、この順番によく出てきます。こういうのを語族といいます。
これで終わります。ではまた。




「授業でいえない世界史」 2話 古代中国 殷~春秋戦国

2019-01-26 00:50:23 | 旧世界史1 古代中国

※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


【中国】

 まず中国からいきます。どこから行くかは、エジプトから行ってもいいし、メソポタミアから行ってもいい。決まりはありません。


【都市国家】 中国も、九州の吉野ヶ里遺跡と同じような都市国家から生まれてきます。ただ中国には漢字があって、都市国家と4文字で書かずに一文字で書きます。それをといいます。日本ではほとんど書かない字です。都市国家のことです。

 吉野ヶ里遺跡と同じように回りに堀を巡らしたり、城壁を作ったりする。日本のお城もそうです。周りにはお堀があり、城壁がある。それで敵から守るんです。それがだんだんと領地を広げて領域国家になる。
 ギリシアのように、そうならない場合もあります。ギリシアは都市国家のままで広がらない。しかし中国は広げていきます。この違いがなぜなのか、まだ明確には分かりません。しかしこの違いは大事なことです。



【殷】

 まず最初の国家についてです。その領域を図で確認してください。今の中国は北はモンゴル高原の南まで、西はテンシャン山脈まで、全部、中国ですけれども、最初の国家はもっと小さいです。
 これをという。紀元前1600年ぐらいにできる。
 それを滅ぼして、新しい国家にしていくのが・・・今度はもうちょっと広がって・・・これがという。殷と周という国ができる。このことを見ていきます。
 中国は広くて目印がないから、山とか湖とか川とかは頭に入れておかないと、場所がどこだったかわからなくなります。


▼殷と周の勢力範囲


 最初の国はです。紀元前1600年頃から紀元前1050年頃まで。これももともとは都市国家です。といっても村の大きなものです。これを中国ではといいます。
 ギリシャは都市国家同士がずっと戦争していくんですが、中国はこの中で有力な都市国家が互いに連合して、手を握ることに成功していきます。「オレの子分になってくれれば、あとは任せるよ」という感じです。
 連合した邑はそのまま生き残っていきます。王も生き残ります。王が拝んでいた神様も生き残ります。連合した新しい国家の王は、他の地方の神様を拝むことを禁止しませんから、国内にいくつもの神様が生き残っていきます。だから多神教です。
ここがヨーロッパと違うところです。ヨーロッパの都市国家は連合するのではなく征服していきます。そして負けた王を殺します。人々は奴隷にされます。それとともに彼らが拝んでいた神様も滅びます。だから一神教になります。

 殷は最初はその連合体です。仲間になろうと言ってグループ作りに成功し、友達になった。その邑のグループが国といえば国なんです。それが殷です。
 その王様はそのリーダーで、そのリーダーはもともと邑の支配者のままで、そして村連合のリーダーとなります。緩やかな連合の王かなという感じです。
 後期の都として殷墟がありますが、首都は王が替わるごとに移動していたようです。ヨーロッパ中世もそうで、神聖ローマ皇帝の戴冠を受けた10世紀のオットー大帝もその宮廷はいつも移動しています。こういうのを移動宮廷といいます。それに比べたら、中国は次の周の時代には固定した首都を定めます。王様はそこから動きません。これは安定した統治組織がないとできないことです。


【神権政治】 王になってグループをまとめていくときに、この時代には、神様と繋がりがあるのは当たり前です。神様と繋がって何がおもしろいか、くだらない、と言ってしまうと古代史はわからないです。
 日本でも、江戸時代まで政治のことを「まつりごと」と言っていたぐらいです。これを神権政治といいます。自分は神様に近づく能力がある、そういうことを王はアピールしていく。

 そしてその宗教的権威によって、自分の言葉で従わせる場合もあるし、俺は神のお告げを聞いたと言って納得させる場合もある。その納得させるやり方が、いろんな占いです。だから占いの技術が発達します。
 当たる時もあれば、当たらない時もある訳ですが、当たらないときは王は責任を取らされて殺されたりする。危険な仕事です。
 そういう危機感の中で、頭のいい王は占いに見せかけて、自分の考えを神のお告げに託して言ったりするわけです。


 その証拠として甲骨文字があります。この時代には紙がありません。文字があるけど紙がないから、それを何に書くかというと、動物の骨、それから亀の甲羅などです。そういうものに刃先のとがったようなものでこすりつけて、文字を刻んでいく。
 この当時は絵みたいな変な文字ですけども、これが我々が使う文字のルーツ、つまり漢字になっていく。これを甲骨文字といいます。亀の甲羅や動物の骨に書かれた文字のことです。これが漢字のもとです。
なぜ記録を残すのか。証拠を残しておくためです。もし占いどおりの結果が出なかったら、王も責任を問われます。雨乞いをしたのに雨が降らなかったら、王は責任を問われます。交代させられるだけでは済まなかったかも知れません。だから王も必死です。



【周】

 こういう政治が約500~600年続いた後に、西の方から、どうもこれは農耕民ではなくてパカパカ馬に乗るような、牛を追うような、羊を追うような人たちがやってくる。
 中国は農耕社会だけではなく、真ん中は農耕社会ですけど、その北方にモンゴルがあるように、その周辺は農耕地帯じゃない。水が足らずに乾いています。そこにいるのは遊牧民です。その遊牧民がどうも殷を乗っ取ったようです。

 そして新しい国を立てた。紀元前1050年頃です。これがです。首都は鎬京という。前に言ったようにここで移動宮廷の段階を早くも脱しているわけです。でも中国の都は国が変わるごとに名前を変えます。800年後の漢の時代には長安になります。これと同じ都市です。
 今どうなってるかというと、西安という都市になっています。今の沿岸部が発達している中国から見ると、かなり西の方です。
 黄河が流れている。分流の渭水がある。そのほとりです。黄河を目印にとらえてください。
 江戸も政権が変われば東京に名前が変わる、それといっしょです。
 ここもやはり邑の連合体をつくる。これが喧嘩しないで、手を組んでグループになる。大きな村連合だと思ってください。


【封建制】 最初は、それぞれの邑は自分の土地を支配する。村連合のリーダーである王もそのことを認めます。ここでも「オレの子分になってくれれば、あとは任せると」という感じです。
 しかしそれがだんだんと、土地によって結びついた国家連合、つまり封建制に変わります。封筒の封ですけれど、左側は土ふたつです。意味は土地なんです。
 この封建制度というのは、農業社会は土地がまず第一の社会です。封建制度という言葉は日本にもでてくるし、ヨーロッパにもでてきます。
 しかしそれが同じかというと中国の封建制は特徴があって、とにかく血縁が強い。特に父方の。母方はそうでもない。父方の血縁が強い。


【血縁】 今の中国人は海外への移民が多いです。宋さんという中国人がアメリカのニューヨークに出稼ぎに行って、そこで皿洗いに雇われたとします。
 そしたらそこの店長がたまたま中国人で、名前を聞いたら同じ宋さんで、地域も同じ一族というのがわかったとしたら、その瞬間に今まで会ったこともなかった二人が突然、家族づきあいをしだす。俺たちは一族なんだ、他人じゃないんだ、そういう繋がりがある。それを宗族といいます。
 こういうつながりが今でも非常に強い。だから宗族の中から1人偉い政府の高官とか大臣がでたら、見たこともないような親戚が集まって、仕事ちょうだいと頼みに来る。そういうマイナスの面もでてくる。
 それでも断れない。それが社会の基盤になっているからです。血のつながりがあるから、一族をまず大事にする。

 裏を返せば、一族の誰かが死んだら祀る。父親が死んだらそれを祀って、息子が丁寧に墓参りをして、祖先祭祀を行う。そういう宗教性があります。
 ただメソポタミアのような高くて大きなの神殿のようなものは発生しない。代わりに、宗廟というご先祖のお墓のようなものが発達する。
 この宗族は、目にはなかなか見えないけれども、今も中国の社会の基礎を成しています。
 ここで大事なのは、一族のご先祖様を祭る儀式は・・・これは女はできないです・・・男しかできないという決まりがある。これは日本の相撲界で、土俵には男しか上がれないのと似た感覚です。
 ご先祖様を祀るのは、男しか祀れないという考え方は定着しているし、長男が相続して、祖先の祭祀、日本でいえば供養を行う。これは日本の比じゃない。大々的に何百人も呼んでやる。


【夫婦別姓】 こういう一族の価値の繋がりの濃さがあるから、中国人の姓は不変です。
 男はあまり意識しないかも知れないけれども、多くの場合、日本では女性のAさんが男性のBさんと結婚したら、AさんはBに姓が変わる。でも中国人は変わらない。
 A姓で生まれた女性は、Bさんと結婚しようが誰と結婚しようが、一生死ぬまでAのままです。これが夫婦別姓です。そして、死ぬまで、生まれたA一族の一員である権利を保有します。

 少し前、日本で夫婦別姓を認めよう、という話がありました。でも日本の場合、女性のAさんは結婚してBさんになれば、自分の身分もBさん一族になれるんです。
 夫婦別姓の場合、結婚した女性が姓をAのままで変えないということは、Bさんと結婚しても所属する一族はもとのままで、Aさん一族の集会があったときも、Bを名乗っているお嫁さんはA一族ではないから、A一族の会議には入れてもらえないのです。
 つまりよそ者扱いなんです。何の権利もありません。
 その代わり実家のA一族に対しては様々な権利を引き続き持っている。だから夫婦別姓なんです。それはそれで理屈は通っている。夫婦別姓とはそういう社会制度なのです。

 結婚しても姓を変えず夫婦別姓のままでありながら、結婚したら今までのように、結婚相手の男性一族の権利を全部もらう、そんなことが通るのかどうか。
 中国はそんな都合の良い社会ではありません。夫婦別姓の裏には、どこまでも生まれ育った一族に対する権利があります。強い血縁意識があります。
 相続にしても、Aさんと結婚してたからと言って、A一族の財産もらえません。結婚相手は一族にとっては外部から来た部外者でのけ者なのです。
 夫婦別姓は、そういう社会制度から作りかえなければならないことなのです。日本人が本当にそのことを望んでいるのならいいのですが、私にはそうは思えません。
 そこは一族の団結が固い代わりに、他の一族の者がその中に入ることを許さない社会なのです。

 日本の夫婦別姓は、血縁よりも個人を重視する考え方です。しかし本来の中国の夫婦別姓は、個人よりも血縁を重視する考えです。そのことを理解していない人が日本人には多いのです。
 そういう夫婦別姓から日本にはない、いろんな問題が起こります。政治に対してもです。


【宗族】 周はこの血縁組織つまり宗族と合体して、地方の土地の支配者は、血縁者つまりこの宗族の中から任命します。一族の者が一番信用できるからです。
 だから血縁者を諸侯にする。諸侯とは日本の大名みたいなものです。例えば、私が王であれば、私の弟を県知事に任命する。そして任命した以上はその領地の支配は弟に任せる。
 ただ一つ、私が敵から攻められた時には、弟は軍隊率いて応援しなければならない。これが条件です。軍隊を引いてくる義務と、土地からの富をもらえる権利とが、交換条件になっています。これが周の時代の封建制です。

 しかしこれは私と弟の関係であれば、非常に信頼関係が強い結びつきなんですけれど、欠点が1つあります。
 私が死んで弟も死んで、その息子たちの代に変わっていくと結びつきが弱くなる。そしてまた30年経って孫の代になっていくと、孫同士は顔もみたこともない遠い親戚になっていく。誰だあれ、知るものか、そういうふうに信頼関係がなくなっていく。
 それを防ぐために壮大な祖先祭祀を行うわけですが、それにも限界があります。だから時間が経つと国が崩壊する。それで国が長くもたない。そういう欠点があります。


【儒教】 中国では昔も今も、結婚しても姓を変えない夫婦別姓です。このように中国では父方、つまり男の血統が強い社会です。
 これは論理上は女方の系列で行ってもいいわけですが・・・実際にそういう女系社会も世の中にはまれにありますが・・・中国は男系なんです。

 日本も男が強い社会だと言われます。しかし日本は養子もできるし、男系・女系が混合している面もあります。しかし中国では男系の血縁関係が非常に重視されて、この考え方が中国独自の宗教にもなります。

 中国で生まれた宗教は仏教ではありません。儒教です。儒教についてはあとでいいます。儒教は血縁関係を非常に大事します。
 そういう血縁の強い社会組織だから、それに基づいた宗教が生まれるんです。両者は繋がってるんです。開祖の孔子が勝手に考えたんじゃない。その背景があるんだということです。



【東周】
 その周は、200~300年で、一旦、西からの敵に攻撃されます。攻撃したのは犬戎といいます。名前だけわかっている民族です。
 もっともこれも中国人が勝手に名づけた名前で、漢民族ではない。中国語を話す民族ではない。

 それで攻撃された周は東に引っ越した。国は小さくなって東にずれる。東にずれたからこれを東周という。前770年、都を洛邑に移します。ここはあとで洛陽という名前に変わります。


【混血】 東周の時代は約500年ぐらい続きます。入ってきた犬戎はその後、どうなったか分かりません。
 多分中国人のほうが人口が多いから、その中に混血していって子孫は中国人として生きていったのでしょう。彼らが中国を支配したわけではありません。



【春秋時代】
 そのあと約300年間を春秋時代といいます。東周が成立した紀元前770年から紀元前403年までです。この時代は周王は滅びはしないけれども、家来たちがだんだん強くなってくる。最終的に五人が強くなるから、春秋の五覇という。全国制覇の覇です。
 春秋の五覇という五つの国、五つの家来たちの国が強くなる。五つの国というのは、斉・秦・楚・呉・越という国です。それでも王の家来という考えは捨てなかった。

 この時代に鉄製農具が使われ出し、農地の深耕が可能になります。それによって農業生産力が高まります。それを支えるのが村々の小農です。小農というのは小規模な自作農のことです。自立できる農民が生まれたのです。しっかりした家族制度ができて、しっかりした農業ができるようになります。農業は技術です。そういう技術を持った家族というのは、家族のレベルの高さを感じます。
決して大土地所有制度が中国の農業生産力の向上を生んだのではありません。この点は古代のヨーロッパとは違います。
中国の家族制度の裏には強い父系血縁で結びついた宗族があります。ここで中国はそのような血縁組織を背景に、小農を基礎とする社会が成立したのです。
彼らを怒らせると国が潰れます。中国で国が潰れるとき何が起こるか。決まって農民反乱が起こります。これが何回も起こります。



【戦国時代】
 しかし次、戦国時代です。名前からして物々しい。この時代になると、王とか知ったことかという感じです。力で争う時代になる。これを戦国の七雄という。紀元前403年から200年ぐらい、紀元前221年までです。

 国の名前は1文字で書く慣例がある。そのなかではじめて中国を統一していくのは、一番西のはずれにあったです。一番弱小だったんですけどね。



【天命】 戦国時代にはどういった政治の考え方があったか。王となるには、天が認めたという形を取ります。人から嫌われ、なんだあいつ、ヤクザみたいだ、そんな人はなれない。人間的に立派でないと天は認めない。
 日本にもこの考え方があって、お天道様というのはこの天命に近い。「天道様が見てるぞ」とか言うでしょう。
 その天命を受けたものが天子なんです。力にまかせて、金の力だけで成り上がりであっても王ではない。単なる成り上がりだという考え方です。

 王になるためには、権力プラスが必要です。徳という考えかたが出てきます。人徳とか聞いたことないかな。徳のある人だとか、あの人は人徳があるとか言われるのは、ものすごい褒め言葉です。
 それが備わって初めて天命を受けたということが認められていく社会になっていきます。

 これで終わります。ではまた。




「授業でいえない世界史」 3話 古代中国 戦国~前漢

2019-01-25 11:06:09 | 旧世界史1 古代中国

※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


【戦国時代】
 古代中国、戦国時代の続きです。中国の紀元前500年あたりです。今から2500年ぐらい前、時代は戦国時代です。日本にも同じ名前がありますがもともとは中国の名称です。
そこで戦国の七雄が、お互いに覇を競う。オレが全国統一にむけて一番の名乗りを上げるんだとして相争う。そういう時代です。


【貨幣】 中国では、すでにこの時代お金なるものが出てきます。それまで各地方がバラバラに発行していたものを最初に統一しようとした国が、七雄の中では一番西のはずれにあった田舎の国、です。これが最初の統一国家をつくっていく。
 お金を統一しようとして、決めたお金を半両銭という。ここからお金の統一事業というのがまず始まっていく。その結果、その国の国家の統一事業に成功していきます。ただこのあたりの因果関係はまだよく分かっていない。ただお金は要注意です。

※ コインは、小アジアで生み出された「刻印貨幣」と、中国で生み出された「鋳造貨幣」の二つのグループに大別される。前者は金または銀という貴金属の価値を保証する刻印を支配者が刻んだお金であり、多くの文明がそうした立場に立つ。後者は青銅、銅などを地金とし、さほど価値を持たない素材を、神の代理人とされる皇帝の権威によって価値づけたお金であり、抽象度が高い。前者は交易の中で作られたお金、後者は政治的に作られたお金とみなされる。中国のお金は、統治者の信用に依存する。(宮崎正勝 お金の世界史)

※ 春秋戦国時代に都市が成長して商業が盛んになると、各都市の商人が取引を円滑にするために地方ごとに刀、クワなどの形の異なる青銅製のお金を発行し、秦の統一とともに皇帝の権威・権力とお金が結びつけられた。中国ではお金の価値については政府が責任を持ったが、実際にコインを鋳造したのは地方であり、時代によっては有力な私人だった。そのために偽造されたお金が多く出回ることになった。(宮崎正勝 お金の世界史)

 その時の中国を支配したのが、戦国の七雄です。斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙の七雄です。七雄の一番西のはずれ、これがです。一番はずれの一番勝ちそうにない国が勝っていく。その秦がいち早くやっていたのが通貨の統一です。

▼戦国時代の中国


【万里の長城】 中国は農耕民ですけれど、その北方には遊牧民がいます。この時代は匈奴ですけど、これが名前をコロコロ変えてきた。実体は変わらないけど、時代によって名前がコロコロ変わっていきます。
 中国はこの遊牧民と農耕民の争いなんです。それでグジャグジャになっていく。
 それをどうにか防ごうとした痕跡が、人工衛星から唯一肉眼で見える建造物、これが万里の長城です。この時代にはまだ国ごとにつくっています。今の万里の長城はこの時代から作り始めています。ただ目的は一貫している。匈奴対策つまり遊牧民対策です。
 そういう中国で、戦国の七雄の時代から現れてくるのが、国家を統一するためには、同じ考えで国を統一するという作業です。


【諸子百家】
 考え方が変わってくるんです。思想なんて役に立たないではない。ある考え方をみんな共有できた時に国が固まっていく。この時代にはいろんな考え方が出てくる。その中でナンバーワン思想になっていくのが儒教です。仏教ではありません。
勘違いの1点目、日本の仏教は日本思想である、これは基本的な間違いです。次の勘違い、仏教は中国思想だ、これも間違いです。仏教はインド思想です。儒教と仏教は中国では対立する思想です。


【儒教】 中国思想は儒教です。国語の漢文で扱う論語は、孔子という人が言った教えです。ここに国の統一につながる考え方が現れます。
 1番わかりやすいのが、天下を平和にするためには、まず修身です。これは各人が努力して身を修めるということです。そして各人が独立するということです。次は家です。
 身を修め、家を治め、国を治めれば、おのずから天下は平らになる。「修身、斉家、治国、平天下」という考え方です。ポイントは家です。
 儒教の核には「」があります。親孝行の孝です。これは日本にも定着しています。親を敬う、生きている親だけではなく、死んだ親まで敬う。そうすると何になるか。これが祖先崇拝です。
 この考え方は日本人に非常に近い。一回忌、三回忌、7回忌、13回忌、33回忌、50回忌で弔い上げとか日本人はします。50回忌まで行うのは、すでに孫の代です。私も何度か親戚の法事の50回忌に出席したことがあるけど、少なくとも50歳以上でないと故人のことは知らないんです。40代ではまだ生まれてないから。
 親を大切にして生きている親だけではなく、死んだあとまでその親を敬う。それが「孝」です。これが家族道徳の基本になる。家族がしっかりしていれば、国がしっかりし、天下は平和になる、という考え方です。社会の核は家です。
 ヨーロッパはちょっと違う。中国に比べればヨーロッパの家族関係は希薄です。個人重視です。
 中国では家族が国までつながっていく、という考え方があります。
 儒教の底には、親が死んだ後まで敬う、という宗教観があります。そうなると祖先崇拝になっていく。それが強い前に言った家族意識、血縁意識、一族意識を生んでいきます。
 祖先崇拝は日本人にもわかりやすい。簡単にいうと墓参りですよ。
 これをもっと大々的に行うのです。父方の一族で構成される「宗族」というのがあって、50~60人、場合によっては100人超えて盛大に祖先の法事を行う。
 ただこの祖先崇拝をするときの条件は、赤の他人がやってはダメなんです。これは血を受け継いだ直系の子孫の仕事なんです。それも父方の子孫でなければならない。娘はダメです。男の仕事です。そうでないと祖先の御霊は喜ばない。だから祖先の霊を呼び戻すことができない。
 ホントですかと聞かないでください。ホントかどうかという話をしていません。中国人はそう信じてきた、そしてこれが社会を動かすエネルギーにまで高まってきた、ことを言っています。
 このことを守っていれば、自分もいずれは死んで、ご先祖様になってもちゃんと祀ってもらえる、という安心感になる。これが死に対する不安を解消してくれる。ちゃんと祀ってもらえる、という安心感につながる。祀られない魂は成仏できない。祀られて初めて、死んだあと幸せになれる。
 現代人はそうは思わないかも知れないけれど、昔はそうではない。そのことを軽く見ると歴史は分かりません。歴史は小説と同じです。登場人物の気持ちにならないと面白くない。


【霊魂】 エジプトの古代人を見ても、死んだあとの世界のためにどれだけのエネルギーを費やしたか。そのことがピラミッドです。
 今のブルドーザーやトラックを持ってきても、あれだけのものはつくれない。日本の大手の建設会社でも、あんなものをどうやって作ったのかわからない。そんなものを何千年も前に作っている。あれは死後の世界とつながっています。そのことが分からないと、なぜ古代人がこれほどのエネルギーを注ぎ込んだのか分かりません。死後の世界のためにエネルギーを費やすのは、古代人にとっては何の不思議もないことです。考え方としては、生きているのは一瞬で、死んだ後のほうがダントツに長いんです。
 我々は死ねば終わりで、あとどうなってかまわない、と思うかも知れませんが、彼らはそうは考えない。というよりも、何万年もの間、人間はそういうふうには思ってきていないのです。人生のメインは生きたあとの後生です。そうでないとピラミッドを作った発想は理解できない。
 だから、中国ではその祖先崇拝の儀式を行うための神主・・・これをシャーマンといって霊を呼ぶ人です・・・そういう技術を持った人たちの力を借りながら祖先の霊を呼びます。
 宗教も一つの技術です。そういう技術を持った人の存在が、もともと儒教の核にあります。


【法家】 その孔子の教えを請いに弟子たちが集まって来ます。この弟子が大きく二つに分かれます。一人は孟子という。彼は人間は善だという。
 しかしもう一つの考え方があって、それが人間はもともと悪だという考え方です。

 徳という考え方があります。これは人徳の徳です。徳そのものが何なのか、これは説明しにくいですけど、人徳という言葉があります。人柄がみたいなものです。
 人間が善だとすれば、人間は修行を積んで努力をすれば、天から与えられた徳を持つことができる。人格を高めることができるんだ。そういう発想です。こう考えた人が孟子です。
 それに対して人間はもともと悪だという発想がある。これは筍子という人です。人間は悪だ。ほっておけば悪いことをする。だから礼儀作法を教えないと、とんでもないやつになる。もともと悪だから。そういう教えです。
 この二つのうち、中国に根付くのは人間は善だという性善説です。これは徳を大事にし、徳治主義の考え方を生みます。
 しかし、中国初の統一国家である秦は、逆に人間は悪だという性悪説を採用します。人間は悪だから、厳しく礼を教えなければならないと。
 これが発展して、秦では法家というのが力をもつ。決まりをつくって、それを守らせる。礼は自発的なものですけれど、これがもっと発展していくと、こうしなければならないという決まりになる。それを国が制定する。それに違反したら厳しく処罰をする。
 これを大成した人物が、秦の家来であった商鞅という人、それともう1人は韓非という人です。
 国を治めるには、礼から発展した礼儀作法をしっかり教えて、その決まりつまり法をきちんと理解させて、それにしたがって人を動かすことだ。この考えをこの後、中国初の統一国家の秦が採用する。
 このように中国という国は性悪説で完成しますが、庶民が求めるロマンは性善説です。その食い違いがずっと残ります。



【秦】
 約500年もの間ごたごた戦ったあと、やっとが国土を統一することに成功します。紀元前221年のことです。
 秦の王は政さんだった。しかし王になった時に、自分のことをこれからは始皇帝と呼びなさいと言った。これが彼の名前になる。初めて皇帝という言葉を使った。これが秦の始皇帝です。

▼秦・前漢時代の中国


【チャイナ】 中国のことをチャイナというのは、この秦のなまりです。秦はCHINです。日本は戦前まで中国のことをシナといっていた。CHINAです。こっちほうが実際の発音に近いです。
 英語は書かれていない発音をよく入れる。CHINAは文字通りに読めばシナです。英語はなまりだらけです。だから英語流のチャイナはシナのなまりです。秦を英語流に読むとチャイナですが、もともとの発音はシナです。
 秦が潰れた後に、漢が登場します。地図の外側のラインが漢の領域です。漢が一気に西の方の砂漠や異民族の領地まで領土を広げます。
 この時代にも、やっぱり騎馬遊牧民は虎視耽々と中国をねらっています。それが匈奴です。ここには別種の騎馬遊牧民、いろいろ部族があって、鮮卑とかもいる。いろいろな騎馬遊牧民がまだ渾然一体となっています。


【易姓革命】 この法家の思想の一方で、人は善だとする性善説はどうなったか。人間は徳がないといけない。徳は努力して得ることができる。皇帝であればなおさらだ。徳のない人間が皇帝になっても国が治まるわけがない。そんな人間つまり徳のない人間は絶対に王になるべきではないんだ。もっと言うと、そんな人間が王になったら潰していい。殺していい。国を潰していい。
 これが中国の革命思想です。易姓革命と言います。姓が易(かわ)って、天命が革(あらた)まる、という意味です。そのときに革命が起こります。こうやって中国は、このあと何度も王朝が崩壊しては、新しい王朝が出現します。
 だから王朝がいくつも分立して、中国がバラバラになっていきます。しかし中国がすごいのは長い動乱のあとには、必ず国が統一されるということです。
 このことは、ヨーロッパとは対照的です。ヨーロッパはローマ帝国の崩壊のあと、それに変わる帝国は登場しません。今に至るまでそうです。逆に今でも小さく分裂していく傾向が見られます。
 ただドイツを中心とするヨーロッパ連合(EU)は、この動きに歯止めをかけて、再度ヨーロッパを統一しようとしているのかも知れません。この試みが成功するかどうかは未知数です。今も揺れています。ドイツに対するアメリカの動きも不透明です。イギリスはEUから離脱しようとしています。

 日本は儒教によってこの易姓革命の考えを知っていましたが、それを受け入れませんでした。それと違って、独自に万世一系の天皇によって国を維持するという方法を選びます。万世一系の天皇と易姓革命は両立しません。
 よく武家政権である鎌倉幕府樹立によって天皇は滅んだと思っている人がいますが、そんなことはありません。天皇家はその間もずっと続いています。天皇家は世界最長の王権です。 
 易姓革命を唱えた中国に起こることは、度重なる農民一揆です。農民が王を殺します。コロコロと農民が国を倒していく。


【農民反乱】 中国の農民反乱は半端ではありません。日本の江戸時代の百姓一揆どころではないです。本当に国を潰していく。何回も何回も。中国は激動です。
 徳のない人間は許さない。徳のない人間が王になって権力を振るったら徹底して潰す。それが易姓革命です。
 これは徳のない人間は天の神様も許さないから、と考えるからです。神様は、天命をその人から引き上げてしまうからです。徳がないからです。そういう人間は王であっても潰していい。
 そんな時は別に徳のある人間が、新たに王になっていい。徳さえあれば農民だって王になっていいわけです。そして本当に農民が皇帝になったりする。
 日本で農民から天下人になったのは豊臣秀吉だけです。しかも秀吉は農民反乱によって天下人になったわけではありません。どこまでも天皇の権威のもとで天下人になります。
 中国では王朝も交代は当たり前です。しかしその代償は、大乱が起きて多くの人間が死ぬということです。




【天命】 王の上に天がある。天が与えた徳を身につけるかどうか、そこがポイントです。だから天命を重視しない人間は徳がない。徳がない人間は殺される。権力を持った人間ならなおさらです。
 中国社会はもともと父親方の血筋がきいている社会だから、強い父方の血縁組織があります。そこに天命の思想が発生して、その天が与えた徳を身につけているかどうかが加わります。
 この二つが条件です。血縁と徳です。
 徳とは人柄みたいなもの。徳とは何かを言葉でいうと難しいけど、人徳の徳として、日本語にもなってます。徳がある人というのは、ものすごい褒め言葉です。徳があるという言い方は・・・残念ながら私は言われたことないけれども・・・素晴らしい言い方なんです。
 地位も権力も金で買えたりするけれど、徳だけはお金で買えない。お金で徳を手に入れた人はいません。


【皇帝】 その皇帝も徳があって初めて皇帝になれる。では皇帝という言葉の意味はなにか。皇帝の皇は下が王です。下は王、上は白です。王の上に白く輝くものがある。こういう人でないとダメです。これが徳です。
 では帝はなにか。これは神を祀るときのその儀式の台座です。これがないとうまく儀式ができない。権力だけではダメだ。
 こういうことで従来からの父方の血統を否定することなく、血統の上にさらに天の徳が付け加わる。この二つを持たないと皇帝にはなれない。
 この血統があるから、このあと王様は世襲ルールはオーケーです。世襲とは親から子、子から孫へと王位が受け継がれていくことです。古代の王権はだいたいそうです。日本の江戸時代の将軍様も世襲制です。
 世襲の襲は字が難しいですが、考え方はそんなに難しいことではありません。親が偉くても子どもはぼんくら、孫の代になるとプータロー、そういう人間が王になると国が行き詰まる。
 ここで天が出てくる。天がおまえは首だという。そうすると国が潰れて、徳を備えた新たな王が生まれる。そうやって新たな国ができる。そういうルールが確立していく。
 でも王朝の滅亡は本当は人間がやるんです。そういう人間の合意ができれば国が滅びるということです。


【郡県制】 秦の始皇帝がやったことを見ていきます。中央の力を強くして郡県制というのをやる。郡や県は日本にもある。県というのは中央の支配下にある地方組織です。
 その独立性は非常に低い。この県を治めるのは中央からやってくる役人です。彼らは地元民の言うことは聞かないです。王様の言うことしか聞かない。
 今の日本の県とはちょっと違います。今の日本の県知事は首相の部下が県にやってきているんではない。日本の県知事は県民から選ばれた人です。これは戦後そうなったんであって、戦前の日本では中央の官僚が地方に県知事として来ていました。
 だから今の県と昔の県では県のとらえ方が違うんですが、「県」という言葉をそのまま使っています。
 戦前の日本の県と同じように、この時代の中国の県は王が選んだ。俺の言うとうりにやれ、と。


【度量衡】 こういう強い力で、始皇帝は度量衡も統一します。度量衡は、長さ、体積、重さ、です。度量衡の統一は、強い政治力がないとできないことです。基準の変更は、最初は庶民は嫌がります。一時混乱しますから。しかし長い目で見ると必要なことです。
それから以前から行っていた半両銭の統一も、全国的に推し進めます。


【中央集権】 こういうのが中央集権です。中央の力が強いのが中央集権です。この言葉もよく出てくる。中央が強いか、地方が強いか。
 中央集権の反対の言葉はなにか。これも政治用語として覚えておいたほうがいい。中央が強いのは中央集権です。日本は県の独立性が強まったとはいっても、今度は財政面で独立できていないから、今でも中央集権的です。
逆に地方が強いのは地方分権という。アメリカの州というのは、日本よりも強い地方組織です。中央集権を目指すのか、地方分権を目指すのか、というのは今の政治でも大きなテーマです。


【思想統制】 次に、郡県制という強い中央集権体制によって、法家思想の徹底をはかろうとします。
 秦が採用したのは法家思想ですから、中国の始皇帝は法家思想によって全国を統一しようとします。秦は徳が嫌いです。つまり儒教が嫌いです。儒教の書物を焼いて、儒教の学者を埋める。これを焚書坑儒という。
 そういうふうにして、国民に人気があった学問、儒教を無視した。秦がたった20年で滅びたのはこれが原因だと言われる。
 秦は短命です。儒教を無視し、法律で決まりをつくって、あまりに厳しいことを守らせようとした。
 そこには徳がない、徳がなかったら潰れろ、ということで、すぐ農民反乱が起こる。これが紀元前209年の陳勝・呉広の乱です。そして紀元前206年に滅びます。武力では勝てても、思想面では儒教に勝てなかったということです。
 日本では農民反乱は百姓一揆といってすぐに鎮圧されますが、中国では農民反乱が起これば最後、国が滅びます。


【匈奴】 その農民反乱が起こる前に、秦は北方の騎馬遊牧民族である匈奴(きょうど)、これを撃とうとした、追い払おうとしています。匈奴征討を行った
 匈奴のことは前にちょっと言いましたが、200年ごとぐらいにそのグループ名が変わる。共通しているのは、馬に乗った北方の騎馬遊牧民です。
 しかしこれが強すぎてうまく追い払えない。中国の農耕民軍隊よりこっちが強いです。
 最初に馬に乗った男というのは、たいがい荒くれ男か、運動神経がよかった人だろうと思う。馬の後ろ足で蹴られたら内臓破裂で一発です。馬の後ろ足の破壊力は人間の100倍、蹴られただけで内臓破裂です。ヘビー級のボディブローどころじゃない。
 そんな馬の横から馬にまたがってその馬を操って走らせる。そしてこれを民族みんなでやる。すごいことです。
 そしてこれが世界中に広がる。つい100年前の日露戦争のときまで、日本の陸軍は馬に乗れることを将校の条件にしていた。馬に乗れない陸軍将校なんてつい100年前までいなかったんです。
 強い匈奴だから征討はうまくいかない。だから万里の長城というのをここから本格的に作り始めた。それまであった各地の長城をつなぎ始めた。
 今の長城が一瞬でできたわけではありません。このあと何百年もかけて作り続けていくんです。それだけ中国には騎馬遊牧民の脅威が続いた。
 紀元前3世紀にはモンゴル高原などの今のモンゴル共和国には匈奴がいて、それまで分散していた民族を統一した人物が出た。彼を冒頓単干(ぼくとつぜんう)といいます。
 これ本当の発音はなんというかわからない。これも中国がこう呼んだだけで、中国流に漢字を当てただけです。宛て字です。しかも漢字に意味はありません。
これに苦しみます。

 さらに秦は法家思想が強すぎて、おまえには徳がないから潰れろといわれて、すぐに農民反乱が起こった。これが陳勝・呉広の乱です。それであっけなく20年で滅んだ。



【前漢】
 しかし秦が初めて中国を統一したということが受け継がれて、次に成立するのがです。紀元前202年成立です。これは前に200年、後に200年、途中で一旦滅びるから、二つに分けてここでは前漢といいます。
 ここで使われていた文字が漢字になる。我々が今も使っている漢字です。これが日本に入ってくる。この漢の都が長安です。今はちょっと寂れて西安といいますが、今も大きな都として生き残っている。
 世界史上で、捨てられて死んだ都はいっばいあります。土を掘り起こして、穴を掘らないと出てこない都市は。でもこの長安は名前を変えて生き残っています。
 陳勝・呉広の乱、これは農民反乱です。そこからいろんな人たちが抗争していって、最終的に生き残ったのもやはり農民です。
 それが農民出身の劉邦です。中国人で劉さんというのは、日本の鈴木さんとか田中さんみたいにありふれた名前らしい。普通のそこら辺の農民は劉さんです。名前は邦さんです。
 それと戦ったのが有力軍人であった項羽。劉邦と項羽が戦う。ふつうは有力軍人が勝ちそうだけど、中国は農民が勝つんです。
 そして皇帝になる。これが漢の高祖です。この高祖の悩みの種が匈奴です。この匈奴は強いんです。秦の始皇帝でも勝てなかった匈奴に圧迫され続けます。


【武帝】 この代には無理だったけれども、その後、武帝が紀元前141年に即位すると、これが前漢の武帝ですが、匈奴討伐を何回も行い、匈奴を挟み撃ちにしようと画策する。
 そのための手段が、西の方に別の遊牧民族で大月氏というのがいるんですが、これも大きい月とかそういう意味ないですよ、匈奴の言葉を中国語の漢字に当てただけでもともと何と発音していたのか分からない。
 その大月氏に、部下の張騫を西方に派遣して、挟み撃ちにしようとする。これはうまくいかなかったけれども、それほど大規模な軍隊を率いて、今まで勝てなかった匈奴を追い払う。


【匈奴の西遷】 この匈奴は逃げてどこまで行くか、西へ西へと逃げて、よく分からなくなる。
 しかし数百年後に、ローマ帝国に侵入してこれを滅ぼしている。ヨーロッパに現れたときには、ヨーロッパではフン族になったと言われる。
 名前が違うじゃないかと思うかも知れませんが、この当時ヨーロッパ人と中国人はお互い全然知らないから、もともと何なのかはお互いに分からない。今2000年経ってこれを歴史的に見ると、東の匈奴と西のフン族は同じ民族じゃないかといわれています。
 ヨーロッパではフン族となって、ローマ帝国に侵入していく。または東から来た匈奴に追い出されてローマ帝国に侵入したのがフン族だったのではないか、と言われています。
 何千キロも100年間で移動していく。遊牧民は移動民族だから移動は速い。速いと言っても、100年間で1000キロぐらい行きます。
 200年前に、こんなに東にいたのが、いま何でこんな西にいるのか、自分の代、親父の代、爺さんの代の3代かければ、1000キロぐらい簡単に移動していきます。
 このようにして国は移動する。彼ら遊牧民の考え方は、国は土地ではないのです。人の移動したところが国になる。土地はどこでもいい、オレたちがいるところがオレたちの国だという考え方です。
 フン族は誰でもいいのですが、遊牧民が西から押し出されて東に移動したということが大事です。
 こういう遊牧民の西への移動は、このあとトルコ人の移動に見るように、歴史を貫く一本の柱として続きます。


【大土地所有制限】 紀元前7年、哀帝は大土地所有の制限を目指して限田法を制定します。これは大土地所有者の反対が強くて実施されませんが、古代の中国で、大土地所有をどうするか、そのことの裏側にある小農民の保護をどうするか、ということは、このあとも一貫して現れてくる課題です。小農が本気で腹を立てると国が滅んでしまうからです。
にもかかわらず大土地所有は進みます。お金はお金のあるところに集まります。それと同じように土地も土地を持つ者のところに集まります。これは中国独自の現象というよりも、資本の論理です。
しかし中国はこれを食い止めようとしていきます。ほおって置くと貧富の差が拡大するばかりで、多くの農民が潰れていくからです。
だから大土地所有を制限し、農民の土地を保護するばかりか、農民へ国家自ら土地を分配しようとしてきました。
それがのちの西晋の占田・課田法であり、北魏の均田制です。その均田制は隋・唐の時代に完成されて、日本にも取り入れられ、奈良時代の班田収授法となります。
日本では山上憶良の貧窮問答歌により、奈良時代の農民の貧困にあえぐ姿が強調されますが、もともとこれは大土地所有制度を防ぎ、農民の生活を保護するためのものだったのです。
そしてそれはヨーロッパのような奴隷社会ではなく、家族が成立しその家族のもとに農業経営を行う小規模な自作農が、社会の基礎になっている社会だからこそ、目指されたものなのです。



【新】
 約200年経って漢は途中一旦潰れます。そこで新しい国です。たった十数年ですけど。これがです。紀元8年の建国です。
 始皇帝の秦と発音は一緒ですけど、漢字が違う。別の国です。シンという国は、このあとも漢字を変えただけで、同じ発音の国がよく出てきます。
 中国人はシンという国名にこだわりがあるのでしょう。建国者は王葬という人。


【外戚】 ポジションは、漢の外戚です。王葬という名前よりも、この外戚という言葉が大事です。皇帝の嫁さんを皇后といいますが、この皇后の親戚が力を持つんです。これが外戚です。
 なぜか。中国の女性は結婚しても姓を変えないことはすでに言いました。ということは、嫁ぎ先よりも、生まれた育った実家の方との縁がずっと強い。
 そうすると嫁さんの実家グループが、お嫁さんの親戚という立場で、旦那の王様一族を乗っ取っていく。外戚一族が国を乗っ取っていく。夫婦別姓とはこういうことです。
 男のAさんと、女のBさんが結婚して、男3人子供が生まれたら、子供はみんなAさん、Aさん、Aさんです。嫁さんだけがBさんでA一族には入れない。姓は別だからです。結婚しても自分の子どもとグループが違う。
 政治争いになると、子供を殺す母親が出てくる。我が子が王になると、B一族の力で我が子を殺す母親が出てくる。夫婦別姓というのはこんな社会です。息子と母親は別の一族だからです。
 でも最近の日本では人気があるんです。特に女性に人気なんです。私はこれがよくわからない。知っているのかな、中国の夫婦別姓がどういう家族を生んでいくのか、夫婦が別の姓を名乗るというのはどういうことなのか、本当に知っているのかな。
 夫婦別姓にしても家族は今までどおり融合する、そんなに都合のいい家族形態があるんだろうか。一族が違う、権利も違う、財産相続もできない、そこには父と母の、そして母と子の厳しい利害の対立が生まれます。

 新の建国がちょうど紀元前後ごろです。この時代にインドから伝わった宗教が仏教です。中国からさらに日本に伝わるのは、このまた500年ぐらい後です。
この新もまた、18年に起こった赤眉の乱という農民反乱で滅びます。その5年後の23年のことです。
これで終わります。ではまた。




「授業でいえない世界史」 4話 古代中国 後漢~三国時代

2019-01-24 09:24:31 | 旧世界史1 古代中国

※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


【後漢】

 反乱の中で、前漢の末裔で豪族であった劉秀が即位し、後漢25~220)を建てます。彼が光武帝です。
 57年に日本の奴国に「漢の委の奴の国王」の金印を送っています。そしてこれがずっと後の江戸時代に福岡県の志賀島から発見されます。そういうふうに日本史と関係します。
 後漢になると匈奴を蹴散らしていく。家来は班超という人物です。

 それからこの後漢の文化水準についていうと、がすでにあったということです。なにがそんなに不思議か。ヨーロッパではあと千年も紙がないんです。これは蔡倫という人です。
 それから、だんだんと農民の土地をお金持ちがガメて大土地所有していく。ヨーロッパは徹底的に大土地所有ばかりになるんだけれども、中国がちょっと違うのは、ある限界超えると、農民が本当に腹を立てる。限界超えた瞬間に、農民が国を潰す。
 また農民反乱です。184年黄巾の乱。黄色い鉢巻きです。黄巾の巾とは鉢巻きです。目印に黄色い鉢巻きをして本気でやる。鉢巻きは本気の証です。この農民反乱で一国の王が殺される。
 こういう農民反乱が頻繁に起こるのは、中国だけです。たまにヨーロッパでもおこるけど、起こすのは農民じゃない。貴族です。でも中国は農民です。ということは、中国ではすでにこの段階で社会の基盤として、小さな土地を持った小農民、彼らが力を持った社会が成立していたということです。これを怒らせるととんでもないことになる。国がひっくりかえる。
 そこに民間宗教が加わる。
 この黄巾の乱は、なぜ死を恐れなかったか。宗教です。太平道とか五斗米道(ごとべいどう)という民間信仰、これらがのちの道教になりますが、こういう宗教が農民反乱と結びつく。
 反乱と宗教はよく結びつきます。それは日本の戦国時代でも見られることです。宗教と結びついた反乱は死を恐れなくなります。
後漢は220年に滅びます。


【宦官】 それで、この漢の時代の文化です。
 秦の始皇帝は法家思想を重視して儒教嫌いだったけれども、普通は儒学です。中国の学問は儒学です。孔子の教えです。
 中国ほど歴史を詳しく書いていった国はない。まだ歴史家というのは、この時代にはいないけど、今の歴史に匹敵するような歴史の本を書いた人物がいる。彼を司馬遷という。司馬が名字、司馬の遷さんです。この歴史書が史記です。
 この司馬遷、本当はいい男だった。役人だった。しかし、この人は上に反発して宦官にさせられる。中国にはこれがある。日本にはない刑です。玉を切られる。上に逆らって、王が罰としてタマを切る。つまり虚勢する。そして王の嫁さんたちの世話をさせる。
 中国にはこういう人がいっぱいいる。彼らは政治犯とか、頭がいい人たちです。
 だから宦官が力を持つ。中国で力を持つのは二つの勢力です。
 一つは嫁さんの親戚。もう一つがタマを切られた男。つまり外戚宦官です。これは覚えてください。
 王に逆らって、宮刑といってタマを切られて、宦官にさせられる。その屈辱の中で、それでもオレは正しいことをちゃんと書くんだ、と言って完成させた歴史書です。
 これがすばらしいのは、王様のいうとおりに書いていない、ということです。嫌いなものは嫌い、ダメなことはダメと、自分が思ったとおり書いている。
 そこが非常に優れた歴史書だと、2000年経った今でも言われます。これが司馬遷の「史記」です。
 歴史は勝てば官軍で、ふつう勝者によって書かれますが、それでも本当に歴史を勉強した人は、命をかけて本当のことを書こうとしてきた。
 だから歴史家とは本当は危険な職業です。それを承知でやむにやまれず、本当の歴史を書こうとした人がいる。それをバカだと思うか、男のロマンだと思うか、そこが人間の分かれ目です。
 正義とは何か、そんな難しいことは私には分からないけど、ここには確かに自分の利害を超えた正義が発生しています。
 権力に逆らうと殺される。その前に男はタマを切られる。非常に屈辱的な罰ですね。この屈辱がいかに大変なものか、感覚的にわかるでしょう。当たり前のごとくついていて、時々邪魔になったりするけれども、これがないと男は非常に困ったことになる。これに打ち勝つには強い精神力が必要です。中国には伝統的にそういう刑罰がある。
 もう一つ要らないことを言うと、宮刑つまりタマを切るというのは、農耕民の伝統ではない。馬を飼ったり、牛を飼ったり、豚を飼ったりしている家畜農家というのは、家畜のタマ切りがうまい。これは遊牧民の伝統です。
 中国にはこうやって遊牧民の伝統が入っている。タマを切る刑は農耕民は思いつかない。雄の暴れ馬とか暴れ牛、そういう気の荒い動物はタマを切るとおとなしくなる。遊牧民族とか動物を飼っている人は、それを知ってる。噛みついてばかりいるような動物は危険です。それでひと思いにタマを切る。
 日本人のような農耕民は、子供のときから、子犬でもちゃんとしつけて、噛まないようにしつけるけど、彼らはエイ面倒だ、タマ切ってしまえです。そうするとおとなしくなる。
 でもこの司馬遷はおとなしくならなかった。悔しさをバネに、一生懸命に歴史を書いた。人間というのはそういうことができますね。
 これは歴史を書いて名を残すとか、そういうこととはまったく違った次元の問題です。男にとってタマ以上に大事なものを見つけられるかどうか、それは人生の大きなテーマだと思いますね。


【シルクロード】
 そのタマ切りをする遊牧民です。遊牧民の活動するアジア大陸は・・・アジア大陸の北の方は言ってないけど・・・ここは三つに分かれて、東西に3つの帯があります。
 1番目にはです。針葉樹林の松がずっとある。これをタイガといいます。
 2番目にはです。草の道、がここにある。遊牧民はどこで活躍するか。この2番目です。草原です。
 3番目に、その南になると砂漠です。砂漠には人が住まないじゃなくて、ところどころオアシスがあって人が住めるんです。山からずっと水を引いてきて、これがカナートとかフォガラとかいいます。水路を地下にずっと通すんです。
 ヘリコプターから見るとところどころに穴がボコボコと空いていて、何だろうかと思ってみると地下水路なのです。すごい土木工事と維持管理です。何十キロと水を通すための地下トンネルを掘らなければならない。こんなことをやる人たちもいる。
 しかし、ここでのメインはこの2番目の草原です。


【草原】 そういう意味で、中央部は三つにわかれている。森林、草原、オアシスの3つです。
 遊牧民の活躍するところは、そのうちの草原です。ここに、かなり古くから遊牧民が暮らしています。この時代に突然できたんじゃない。
 しかし彼らは、農耕民と違って、文字を発明しなかったから古いことはわからない。
 彼らは、ただ馬のあとをついて行くんじゃなくて、馬の背中に荒くれ男の誰かが乗った。そしたらみんな真似して乗り出した。それが遊牧の技術になって、それが戦闘に使うまでに高められていく。
 そうすると、軍事的に圧倒的に強くなる。中国人の比じゃなくなる。そういう人たちがこの草原地帯にいる。
 西から東まで、西に行けば行くほど、肌の色はヨーロッパ人に近づいていきますが、肌の色には関係なく、草原で暮らす生活の技術というのはこの騎馬民族に繋がっていくんです。


▼ユーラシア大陸の東西交易路


 前6Cにロシア近くで現れたスキタイ人という騎馬民族が出てくる。名前からして白い肌の人でしょう。ヨーロッパ人に近い。彼らが最初の騎馬遊牧民だといわれています。
 中国に近づくとオアシスの民がいる。砂漠の中にはところどころオアシスがあって、そこで農耕を営んでいる。
 農耕民は家を建てて定住するから物を貯められる。でも騎馬民族は移動しなくてはならないから蓄えられない。
 春の草を1年かけて馬が全部食ってしまったら、草原はパーになって再生できない。チョッと残しておくのがミソです。何でもそうですね。全部取り尽くしてはダメです。だから馬が草を食い尽くす前に移動して、別の場所を探さないといけない。1年のうちに最低2回は移動しないといけない。
 家に物を貯めていても持って行けない。だから貯めない。だから完全に自給できないのです。
 何か必要なものは、このオアシス農民の世話になるしかない。交換してくれ、乳をいっぱい持ってきたから、交換してくれ。こういう交易が出てくる。
 そこでその商売上手な人たちも、この地域にはいっぱい出てきて、これがソグド人という人たちなんです。


【シルク】 ただ一番最初に言ったように、アジア大陸の西と東で、西のヨーロッパが進んでいると思ったらわからなくなる。
 どっちが人口収容力があるか。どちらが物が豊かだったのか。東の中国が米作りで物が豊かなんです。
 豊かなところはいろんな余剰生産物、高価なものを作ることができる。これがシルクです。シルクは絹です。
 絹といってもわからない人もいるからいいますけど、これは何からつくるか。これは動物性繊維です。シルクというのは何の糸か。糸を出す動物はいっぱいいる。蜘蛛でも糸を出すでしょう。これなんです、蚕です。
 こう書いたら、テントウムシ、天と虫、なんて読む人がいる。これはカイコと読みます。このカイコの糸を束ねて、太くすると生糸になる。この生糸を、縦糸と横糸を折り合わせる技術を持つと布になる。それを絹という。非常に美しい布になる。
 英語でシルクといって、ヨーロッパ人が欲しくて欲しくてたまらない。自分たちでは作れない。すごい技術だ。欲しくて欲しくて、これを延々と東の中国に求めた。その道をシルクロードといいいます。
 モノの流れはヨーロッパからアジアじゃなくて、逆にアジアからヨーロッパに流れる。これは昔からずっとです。ヨーロッパ人がアジアのものを欲しがった。
 では中国人は、ヨーロッパに何か欲しいものあるかというと、ありはしない。十分足りている。ずっとこれです。買ってよ、と言われても、買いたいものがない。
 でも2000年後、武力で脅して、買わないか、と言う。何を持ってきたか。これが麻薬、アヘンです。これがアヘン戦争です。2000年後、要らないのに売りつけていく。これはずっと後の話です。

 何千キロの荷物を1匹のラクダが運んだりしませんよ。100キロごとぐらいに、リレー式で行くんです。その過程を繰り返していくと途方もなく高くなっている。それでも欲しがったということです。
 そのシルクロードの道は5~6本あるけど、その中心をいうと、シルクロードはこの道、この道が中心です。ここらへんは中国史によくでてくるけど、込み入っていてよくわからなくなる。
 一番わかりにくいのは、アジアの真ん中、これを中央アジアといいます。中央アジアの目印は、今は水が干上がってだんだん小さくなっていますが、そのアラル海に流れるアム川、シル川です。これが目印です。
 これを中心にして、この地域を中央アジアという。もともと肌の白い白人が住んでいたらしいけど、今は東の中国方面から来た騎馬民族が住んでる。千年間で血がまじり合って、いろんな顔の人たちが住んでいるところです。これが陸の道です。

 それからもう一つ、海の道というのがある。港として有名なのは広州です。この広州に香港がある。広州に入り口の、入りやすいところにイギリスがつくったのが香港です。そして植民地にした。これは19世紀のことです。こういうルートで海でも行けるということです。

 この陸の道の険しさは、中国の山は日本の比じゃなくて、世界で一番高いヒマラヤ山脈、これはまず越えられない。山は、酸素ボンベをつけないと越えられない。
 あとテンシャン山脈というのがある。この山は避けていく。山越えして行くと高すぎて高山病になる。普通の人間にはできない。
 そういったところを、200~300年ごとに騎馬遊牧民が移り変わって、そのたびに名前が変わります。


▼2世紀の世界


【騎馬遊牧民】
 中国を見るときに、農耕民と騎馬民族のこの関係を頭に入れておかないと、グチャグチャになる。
 中国人の本当の敵はこっちなんです。2番手に国内のライバルがいる。国内の敵に手を焼いていると、外からバカッとやられる。その代表的なものがモンゴルです。
 モンゴルの強さ、あれほど広大な帝国を築いたのはモンゴル以外にない。いまだかつてあれほど大きな国をつくった民族はない。ロシアだっておよばない。
 漢の時代には、北方騎馬民族は匈奴だった。南の秦とまず戦った。秦がすぐつぶれて漢になっても負けなかったが、しかし武帝の時代に敗れて衰退した。
 それが西の方でフン族となり、ローマ帝国を滅ぼした。そのことはすでに言いました。


▼騎馬遊牧民の変遷


【鮮卑】 ではその次、このあと出て来る民族がいます。匈奴がいなくなったからといって人がいなくなったわけではなくて、また別のグループがモンゴル高原に来る。これを鮮卑(せんぴ)といいます。
 これも中国人が呼んだ名前だから、卑しいとか、ちょっと蔑んだ名前をつけていくんです。
 しかしこれが一度強くなって中国に入るとダントツ強いんです。それで中国に侵入して自分たちの国をつくる。遊牧民の国です。漢字になっているから中国人みたいですけど。
 中国人の国はこういう北方遊牧民がつくった国というのはいっぱいある。名前だけ中国風にするから、我々日本人は中国人だと勘違いするけど、彼らは遊牧民です。
 彼らが中国の支配者層になっていく。彼らは政治力は弱いけど、戦いになると強い。
 実はこのあと出てくる隋と唐。日本が遣隋使、遣唐使を送った国です。これも遊牧民の国で、彼らの血の半分は鮮卑族です。


【突厥】 その唐の北方に、突厥というグループが出る。「とっけつ」と中国人が呼んだ。どうもトルコという発音みたいです。
 トルコと言えば、西のヨーロッパの入口にある国です。1000年の間にそこまで何千キロも移動する。東から西にずっと移動していく。
 そしていまトルコ共和国になっている。トルコ人はもともとモンゴル高原出身です。
 それからウイグル。これもトルコ人の一派で、これはまだ中国にいる。独立運動している。新疆ウイグル自治区というのが中国内にある。
 こうやってトルコが西に移動した。中央アジアは白人の世界だったのが、だんだんとトルコ人の地域になっていく。
 最初は匈奴、次は鮮卑、柔然は飛ばして、次が突厥、これはトルコです。ウイグル、彼らは今も中国国内にいる。漢民族じゃない。
 彼らは荒らし回る脇役というより、ある意味主役です。このあと、ジンギスカンのモンゴル帝国が出てくる。彼らがアジア大陸の主役です。



【三国時代】
 漢が潰れたあと、中国はどうなるか。漢が潰れて、中国は三つに分裂します。北の、南の、西の外れの、これを三国時代といいます。
 この時代の歴史は日本の漫画でも有名です。「三国志」です。劉備玄徳とかいろいろ出てきますが、それはカットです。三国の名前は、魏、呉、蜀です。
 これだけが主役じゃなくて、もう一つの主役に騎馬民族がいる。匈奴がいる、鮮卑がいる、ということです。


▼三国時代の中国


【邪馬台国】 それから、日本との関係で言えば、日本は女王がここに使いを出した。
 女王とは誰か。女王卑弥呼です。国は邪馬台国です。
 昔、カステラのコマーシャルだったか、なんだか忘れたけど、「魏志倭人伝の昔から」というフレーズのコマーシャルがあった。
 魏志倭人伝です。邪馬台国のことは、中国の魏の歴史書に書いてあるんです。日本にはまだ文字がないです。日本の邪馬台国がなぜ分かるかというと、中国の魏に書かれているからです。日本から王様の使いが来たと。この時代のことです。紀元3世紀、200年代です。
 魏も呉も蜀も、約50年間争ったあと結局は国家統一に失敗して、別の統一国家ができた。
 これがです。あとで移動して東晋になるから、区別して西晋という。建国は265年、建国者は魏の家来の司馬炎です。
これで終わります。ではまた。




「授業でいえない世界史」 5話 古代中国 晋~隋・唐

2019-01-23 09:26:15 | 旧世界史1 古代中国

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 いま中国です。中国は、殷から始まって、周になって、次は秦の始皇帝の秦になって、前漢、後漢となります。
 紀元後200年代は何世紀ですか。3世紀です。3世紀は三国。三国は3世紀、覚えやすいです。三国志で有名なの三国ということです。

 ただ本当の隠し味は、北方に騎馬遊牧民がいるんだということです。中国の歴史はこれに悩まされる歴史です。今の中国人は結局、この騎馬遊牧民と農耕民が混じり合っているんです。その混じり合う歴史です。
 これを必死で食い止めようと、人工衛星から唯一肉眼で見えるものは何でしたか。これが万里の長城です。その願いむなしく、中国に異民族が入ってくる。年中行事のように。



【晋】
 三国時代が約50年続いて、魏の家来司馬炎が統一国家をつくるのが265年。これがです。
 しかしこの後、北方民族から追われて晋は東に逃げた。だからをその逃げた晋と区別するために西晋という。シンという国がよく出てくるけれども、字が全部違う。シンは全部チャイナ、シナなんですよ。始皇帝の秦、王莽の新、それからこの晋、全部シンなんです。これが英語流に靴ると、我々はCHINAと書いてチャイナと英語流に読まされている。でも戦前の日本のようにシナと言うほうが本当の発音に近い。
 建国者は、魏の家来の司馬炎という武将です。20年ばかりで、すぐ反乱が起きてこの西晋は短命です。約50年後の316年に滅びます。


【八王の乱】 一発目の反乱、8人の王の子分たちがそろって290年八王の乱を起こす。
 持ちきれなくなって、晋は誰に助けを求めたか。頼ったらいけない相手、万里の長城の向こうの北方騎馬民族に頼ったんです、助けてくれと。そしたら彼らが八王の乱を鎮圧して、中国に入ってくる。西晋は自分から異民族を呼び込むんです。この八王の乱に勝つために、異民族を呼び込む。
 その結果、万里の長城の南の中国本土に、馬に乗った騎馬遊牧民がわんさか入ってくるようになる。それで結局、316年、約50年でこの西晋は滅ぶんです。
 そして南の方に逃げるから、南の方といっても、東の方にもかかっているから、これを東晋という。東というけど、我々のイメージでは南です。






【五胡十六国時代】

 では、北半分はどうなったか。騎馬遊牧民が次々に国を立てては潰れ、国を立てては潰れ、相戦うこと約百数十年、混乱の極みです。この時代を五胡十六国時代といいます。
 五はわかる。胡は何か。異民族です。中国人から見た異民族。場所は華北、黄河流域です。5つの異民族が国をつくっては潰れ、国をつくっては潰れ、16の国が130年間これを繰り返す。だから五胡十六国時代といいます。
 その五胡とは五つの異民族です。まずそれ以前の漢の時代からいた匈奴、これが弱った。弱ってバンザイじゃないです。いくらでも代わりがいるんです。強くなるのは別の騎馬民族、鮮卑(せんぴ)です。これがメインになる。ついでに残り三つ。羯・氐・羌と中国人が呼んだ民族。本当の発音は分からない。
 ここで鮮卑がでてきた。馬に乗った人たちです。畑を耕す人ではない。遊牧民です。こういうふうに、中国人から見たら外国人が入ってきた。この時代が約100年続きます。
 外国人が好きなのは外国の宗教、つまり仏教です。これは中国の宗教じゃないです。インドの宗教です。インドと中国は当然違う。中国で、インドの宗教がますます流行していくようになる。

 五胡十六国時代が終わったあとも、ずっと中国は北と南の二つにわかれて相争う時代になっていく。北と南は別の国と思ってください。
 北は次々と国が現れる。それを全部ふくめて北朝といいます。同じ時期の南は南朝というけれども、これはあとで言います。


【北朝】
 日本でいえば戦国時代のようなものです。小さな大名たちが相争い合う。中国の北半分をやっとまとめたのは、やはり異民族です。馬に乗った人たちがまた国を建てた。
 これを北魏といいます。これが約150年続く。386年から534年、400年代が中心です。5Cのことです。


 ついでにいうと、このころの日本の天皇が・・・まだできたてのほやほやですが・・・この北魏と対立している南朝の宋という国におつきあいください、と来るんです。一人、二人、三人、四人、五人の天皇がつぎつぎと。彼らを「倭の五王」と言います。日本では巨大古墳ができるころです。五王だから五世紀です。
 この中国を統一した異民族が、匈奴の代わりに勢力を持って来た民族、鮮卑です。鮮卑族による華北統一が、439年です。


【漢化政策】 普通ヨーロッパの歴史だったら、支配者が負けた側に自分たちの文化を押しつけていく。言葉からなにから使うなと、今までの風習をするなと、騎馬民族の文化を強制していくんですけど、彼らは逆です。
 軍事力で勝っても、文化の水準、漢字の水準、料理の水準、すべて中国が上だとわかる。だから自分たちからすすんで中国文化を真似ていくんです。そうやって中国文化に馴染んでいく。これを漢化政策といいます。ヨーロッパは逆です。勝った側が自分たちの文化を押しつけていく。言葉でも、習慣でもなんでも。
 ところが彼ら鮮卑族は、髪型から、服装から、自分から中国人の服装をしていく。だから見た目では中国人と区別がつかなくなる。


【達磨】 それからついでにいうと、日本でも有名なお坊さん、人形になっているお坊さんに、何がありますか。達磨さんです。
 ダルマさんはたんなる人形ではなくて、実在のお坊さんです。北魏の時代に、インドから中国に来たお坊さんです。
 なんでダルマさんになっているかというと、この人は黙って座り続けているうちに、手足がなくなってしまったからです。イヤ、そういう言い伝えがあるからです。彼の教えが禅宗です。そして日本にも、その仏教の教えである禅宗が伝わる。悟りを得るため、とにかく座るんです。ツベコベ言わずに座れ、分かるまで座っていろ、という感じです。
 禅宗というと、無念夢想で黙想する。座禅を組んで黙想する。ちょっとでも動くと、雲水という棒を持った人が、1メーター尺みたいなもので背中をバシッと叩くというイメージがあって痛くて恐そうですけど、バシッと後ろから背中を叩かれると、あれ本当はものすごく気持ちいいです。
 私は若いとき、1週間ばかり禅寺に連れて行かれたことがあって、数時間ずっと座禅組んでいると、首の筋といい、背中の筋といい、それがコチンコチンに針金のように堅くなるのが分かるんです。痛くて痛くて、動かしたくてたまらなくなる。
 そのときに助け船のように、バシバシバシと5~6回叩かれると、本当に気持ちいいんです。もっとやって、と言いたいぐらい。一度やってみてください。叩かれると、こんなに気持ちいいものなのか、というぐらい気持ちいいものなんです。叩かれて、助けてもらっているんです。別に変な世界じゃないですよ。そういう修行の方法が座禅ですね。
 でも痛くなって、叩かれるのを待つようでは悟りじゃない。叩かれなくても、いつまでも座って座って、微動だに動かなくなるまで座るのが悟りです。
 叩かれるのはまだ下手です。下手だからいじめられているのではない。下手だから叩いて助けてもらっているんです。叩かれて叩かれて助けてもらって、気持ち良くなる。そういう達磨の禅、雪だるまにもなる達磨さんです。

 異民族の北魏では仏教が保護され、雲崗竜門などの石窟寺院がつくられます。中国の伝統宗教は儒教であって、仏教はやはり外来宗教というイメージです。


【均田制】 北では漢化政策です。それにより遊牧社会と農耕社会が融合していく。融合といえば聞こえはいいけど、実際はどんぶりの中でゴチャゴチャになっていく。
 この北方騎馬民族は、中国人のお金持ちが嫌いだったんです。お金持ちは、この時代は土地をいくらでも持っています。これを全部没収する。
 自分でガメるじゃない。それを貧しい農民に分配するんです。これが均田制です。ヨーロッパの歴史ではこんな制度は現れません。こうやって小農民を育てるんです。
 これを真似したのが奈良時代の日本です。すべての土地を天皇のものである公地にして、それを農民に貸す。そうすれば農民たちも生きていけるし、そこから税金を取れば国家も成り立つ。
 これは中国人の発案というより、騎馬遊牧民の発案です。こうやって農民に土地を与えるという制度が、日本に影響している。

この北魏は534年に分裂して滅びます。あとは西魏東魏になります。さらにそれぞれ北周北斉になります。約50年間です。北魏からの約150年間を、まとめて北朝といいます。


【南朝】
 では南朝はどうかというと、長江流域を支配しています。この地域を江南といいます。昔の揚子江、つまり長江の流域です。
 北を流れる川は黄河ですね。木が昔あったんだけれど、伐採したあと植林しなかったから今では土がむき出しになって、雨が降ると土がドロドロ流れこむ。そこに西の雪解け水がどんどん流れこむ。だから洪水も起きます。雨が降らなければ降らないで、土埃が舞い上がる。それが上空に舞い上がって、西風にあおられて、日本にまで飛んでくる。これが黄砂です。
 南の方は長江、ここは江南という。ここに騎馬民族から押し出された漢民族が下っていく。中国文明は北からです。
 南朝になって初めて、長江流域の開発が本格的に進む。南がこの時代から開けてくる。
 そこで420年東晋が滅んだ後も、次々に王朝が移り変わっていく。約160年間で4つの国が変わる。約40年ごとぐらいに、宋・斉・梁・陳という4つの国がコロコロと変わる。

 さっき言った倭の五王が使いを出したのは、この宋という国です。この国の歴史書に「宋書倭国伝」というのがあって、その中に「倭王武の上表文」というのがあります。日本の天皇である倭王武が国内を統一するさまをアピールしている文です。日本史では有名です。


【騎馬民族の移動】 こうやって長続きしない国が続く。そうすると北の遊牧民族族が力を持つんです。
 新たに起こってきたのは・・・中国情勢というのは目まぐるしく変わります・・・突厥(とっけつ)という。これだけでもいいですが、この間にチョコっと出てくる柔然もあります。いろんな民族が蠢いているんです。
 この突厥も騎馬民族で、馬に乗ってるから100年で1000キロ、200年で2000キロ、300~400年経てば、アジア大陸の東から西までサーッと移動していく。
 彼らは今ヨーロッパの東の入口で国つくっているトルコ人です。突厥はトルコのことです。
 いつの間に移動したか。匈奴だってヨーロッパの入口でローマ帝国を滅ぼすフン族になったという話がある。アジア大陸ぐらい、馬に乗って数百年の間には簡単に走破する。移動するんです。
 彼らもまた移動のたびに文化を運び、国をつくっていく。おまけにペストまで運ぶ。ペストというのは伝染病です。これでヨーロッパは3人に1人が死ぬ。1億2000万の今の日本の人口で3分の1が死んだら4000万人が死ぬことになる。1000年後のヨーロッパでは、こんな病気が起こる。遊牧民は良くも悪くもいろんなものを運びます。


【日本】
 前後しますが、この頃の日本列島は、中国の後漢の歴史書が書いてくれています。57年に、福岡県の国、小さな奴の国の王様が、「漢の委の奴の国王」(かんのわのなのこくおう)の金の印鑑をもらった。
 それで後漢の光武帝から王にしてもらった。中国は皇帝です。そのワンランク下が王様です。王に任命するのは中国の皇帝です。任命してくださいと、かたち上は家来になる。
 こういう体制を中国周辺の国はとります。これを冊封体制といいます。日本は当初、中国の家来という立場をとる。これは日本に限ったことではないです。
 この頃に日本は初めて国らしい国、3Cに邪馬台国ができます。これは場所さえ不明で、どこにあったのかわからないけれども、王の名前だけわかってる。王は男ではなかった。これが女王卑弥呼です。邪馬台国は、九州人だったらやっぱり北九州説をとりたいところです。北部九州説と畿内説、この二つが対立しています。
 でもその約100年後に、畿内の奈良県に大和政権ができる。これが4Cのころの日本です。そのあとに出てくるのがさっき言った5Cの「倭の五王」です。
 この朝貢形式をイヤだと言ったのが、これが昔の一万円札の聖徳太子です。7Cの人です。今は名前を変えて厩戸(うまやどの)皇子といっています。冊封体制はイヤだ。家来になんかならないぞ。対等につきあうぞ。遣隋使をおくるぞ。それで有名な人です。



【隋】
 三国時代の魏・呉・蜀から見て、約400年ぶりに中国をまとめた国、これがです。581年です。
 聖徳太子はこの国と対等につきあおうと船で使いを出した。これが遣隋使です。その遣隋使の隋です。しかし隋は20~30年ですぐに滅ぶ。
 すると次が長い。約300年ぐらい続く唐になる。唐になるとますます大きくなって、この図が唐です。
 これは連結してやります。隋唐時代といって。


▼隋唐時代の中国


 この隋の時代に大土木工事を行う。長江と黄河を結びつける堀を掘る。運河です。巨大な堀。何のためか。船を浮かべて遊ぶためですか。物を運送するためです。これで儲かるんです。
 隋を建国したのは楊堅といって、これも北朝の最後の王朝である北周の外戚です。外戚というのは前に説明しました。
 漢民族の南朝ではなく、北方民族の北朝が中国を統一しました。このことを見ても北方民族が中国の脇役ではないことが分かると思います。

 中国は夫婦別姓で結婚しても王一族と嫁一族が対立する。外戚はその王の嫁さんの親戚のことです。これが国を乗っ取ったりする。新の王莽もそうでした。嫁さんの親戚から国を乗っ取られた。夫婦別姓はそういうリスクを省みずやる。夫婦別姓というのは、日本のようには家族が宥和しないんですよ。


【煬帝】 その息子。彼は親を殺す。そして自分が皇帝になる。煬帝といいます。聖徳太子が対等貿易やろうじゃないか、と言ったのはこの王様に対してです。
そしてさっき言った長江と黄河を結ぶ堀を作る。大運河を掘る。物の流通が良くなる。商業が活発になる。


【混血】 もう一つ。この人は中国人かというと、母親は騎馬民族です。だからハーフです。
 混血しながら騎馬民族の血が、王様の血に流れ込んでいく。
 それから朝鮮半島に遠征する。朝鮮半島のこの時の国は高句麗という。


【農民反乱】 しかし、運河は掘るわ、戦争はするわ、何様かお前は、と腹を立てたのは、これが腹を立てると怖い。農民反乱です。一発で滅亡する。
 隋はあっという間だった。しかし隋は300年ぶりぐらいに国を統一した。その統一したことが受け継がれていく。
 それから煬帝は、北方の騎馬民族である鮮卑族とのハーフです。お母さんが騎馬民族です。
 隋があっけなく滅んだのは、隋から攻められそうな高句麗は・・・これも頭がいいですね・・・この北方騎馬民族と手を組む。北方騎馬民族は戦略的になくてはならないです。
 それを見透かしたように、聖徳太子は隋の煬帝に対等貿易を持ちかけたと言われます。だから煬帝は、最初は「無礼もの」と真っ赤になって怒ったけど、断り切れなくてOKした。
 本当にそうならたいしたものだと思いまが、たまたまそうだった可能性もあります。
 誰と仲間になるか、その駆け引きで中国は揺れ動いていきます。



【唐】
 隋は滅んで、唐に行きます。という国。この図が唐の都の長安です。都は長安。国は唐。618年から300年間、907年まで。
 成立は、日本の奈良時代よりも約100年も前です。だから奈良時代に日本がまねするのがこの都です。縦横きれいに道割りして、回りは壁で囲んだ。それが奈良の都の平城京です。規模は一回り小さいけど。
 この国を建てたのが、李淵という人。隋の武将だった。しかし皇帝を倒すために手を組んだのが北方騎馬民族の突厥、トルコ族と手を組む。
 ということは、唐が勝ってもトルコ族の力は強くなる。この李淵自身もまた、母方は北方騎馬民族の鮮卑族の血を引いてる。ここも騎馬民族の血が流れてます。ハーフです。
 しかも李淵の母は、先に滅んだ隋の煬帝の母の姉です。その母は鮮卑族です。鮮卑族の中の拓跋部族の出身です。これを拓跋部といいます。この拓跋部から見ると、隋も唐もおなじ拓跋部の国家なのです。だから隋と唐をまとめて、拓跋国家ということもあります。中国を漢民族の立場だけから見たらダメなんだということです。

 

▼隋唐の婚姻関係


 次の息子、李世民といいます。皇帝になると太宗という。本格的に法律を整備する。律と令を兼ね備えた法律です。これに政治のやり方がすべて書いてある。


【律令】 律令の令は命令です。こうしろ、ということが書いてある。しかしこれで完成ではない。100人のうち99人は従っても、必ずl人従わない人間がいる。よかよかでは、国が治まらない。
 従わなかったらどうするか。捕まえて処罰する。その罰し方、ここまできちんと書いとかないと法律は効かないんですよ。これがないのを今でもザル法という。すみませんで、処罰されなかったら、守らないほうがましだ、ということになる。
 罰し方と合わせて律令体制という。これで律令体制が完成する。律は罰し方、令は命令、こうしなさいということです。こういう政治をする。やはり法家思想ですね。

 その中心は土地制度です。土地は貧しい農民に分ける。北魏の均田制を受け継ぐ。小さな農民を基本にすえようとする。ここはヨーロッパと違うところです。ヨーロッパではまだ農民が自立すらしていません。ヨーロッパで独立自営農民というのが出てくるのはもっとずっと後のことです。
 代わりに豪族の土地は全部取り上げる。この制度は実施されて、徐々に崩壊するんだけれども、農民は生き残る。中国の農民は強い。日本の農民も強い。ヨーロッパとはどうもそこら辺が違うんです。日本も基本的に農民が社会の基本にある国です。
 これですべての土地は皇帝のものです。その皇帝が土地を農民に貸す。今と違うのは、死んだら土地は子供のものにならずにまた国に戻すということ。つまり土地は相続できない、ということです。
 しかし生きている間は、借りて耕すことができる。ただこれを行うためには、どこに土地がいくらあって、どこに人が何人いて、誰が死んで、誰が生まれて、そういうことをずっと管理しないといけない。戸籍がベースにあるわけです。ちなみにヨーロッパでは戸籍もありません。
 今はコンピューターですぐにできるかもしれないけど、紙が貴重品であるこの時代に、どこに誰が住んで、毎年誰が死んで、誰が生まれて、というのを管理するのは大変で、結局これは失敗していく。


【小農民】 均田制ができなくなると、土地の合併がすすんでいくんです。結果的には大地主がこのあと現れてくる。しかし、この時代に小農民が社会の基礎に座ったということが大事です。
 土地を貸してそこから税金を取る。租庸調です。これは丸ごと奈良時代の日本が真似します。そして彼ら農民が兵隊になる。これも日本に取り入れられます。つまり彼ら農民が社会の中核です。


【科挙】 では行政官や、エリート役人はというと、地方の有力者じゃないんです。科挙を行う。ペーパー試験です。
 この実施にはいろんな社会的条件がある。ヨーロッパや日本には紙がない。試験するためには何が必要か。まず紙が必要なんです。今も昔もそうです。中国は紙をもっていたからそれができた。紙がないと試験できない。紙がないと文字も読めないんです。
 しかし、試験に合格して偉いお役人さんになっても、息子にその地位を息子に譲ることができるかというと、これは譲れないんですよ。科挙は一代限りです。徹底した能力主義です。親が偉くても息子はボンクラ、それだともうダメです。親が偉ければ子供も自動的に偉くなること、これを世襲というけど、ほかの国の多くはこの世襲です。
 しかしその世襲ができない。親がいくら大臣であっても、子どもはまた1からスタートして試験に通るしかない。こういう形はこの時代にはないですね。特にヨーロッパには。


【則天武后】 それから、また夫婦別姓がでてきた。王の一族とその嫁の一族は喧嘩する。
 息子が皇帝であっても、この則天武后という皇帝の母親は、自分の子供を押しのけるて自分が皇帝になる。
 夫婦別姓は、息子がA一族であっても、母親はB一族です。それでB一族が、A一族の王朝を潰す。そして自分が国を乗っ取って、自分のB一族の国に変える。国の名前も変える。これがという国です。これで中国初の女帝です。
 夫婦別姓はこうなる。これもヨーロッパにはないし、日本にもありません。外戚一族が乗っ取って別の国をつくる。そこで政治的な混乱が起こって、また元に戻りはするんですけど、非常に混乱する。


【楊貴妃】 この混乱を収束させたのが玄宗皇帝です。若い時は有能だったけど、年取ると若い女性に溺れ始めた。
 それが絶世の美女の楊貴妃です。楊貴妃が美人かどうか、そんなことは実はどうでもよくて、大事なことは別にあります。中国では皇帝が女に溺れると必ず外戚一族、つまりここでは楊貴妃一族が力を持つということです。楊一族という外戚勢力が力を持つわけです。そしてそれがまた政治的な混乱を生んでいきます。


【安史の乱】 それが安史の乱です。
 今のように新幹線、車もない時代だから、目の届かない遠く200キロも300キロも遠くのことはよく分からない。そこでどんどん力を持つ人たちがいっぱい現れてきて、辺境地帯や国境地帯には力をもった豪族が出てくる。彼らを節度使という。彼らが土地を持つ。お金も持つ。軍隊も持つ。
 彼らは中央政界でも力を持つようになる。そのとき彼らのライバルが楊貴妃の一族です。だから楊一族を除こうとして反乱を起こす。これが755年安史の乱です。安禄山と史思明、安史とはその名字を取ったものです。これで中国は混乱していく。「国破れて山河あり」という杜甫の詩『春望』はこの時のものです。
 きっかけは則天武后という外戚の乗っ取り、さらにそれを治めた玄宗皇帝の外戚楊一族の台頭、こういう外戚一族による混乱があって、唐は急速につぶれていく。

 しかも唐王朝は、この安史の乱を自力では鎮圧できずに、騎馬遊牧民のウイグルの支援を受けてどうにか鎮圧する。このあとはウイグル頼みになります。そのウイグルが力を失うと、唐も滅んでいきます。


▼8世紀の世界


【仏教】 やっぱり外国宗教が流行ます。この時代にインドのヴァルダナ朝まで行き、仏教の本場で学び、お経をいっぱい持って帰った坊さん、これが玄奘です。
 こういっても日本人はあまり知らない。あだ名で通っています。三蔵法師という。三蔵法師というと聞いたことないですか。ある猿のお話があります。
 中国の猿といえば孫悟空ですよね。孫悟空は架空のお話ですよ。作り話です。
 でもその中に出てくる孫悟空が守ろうとした偉いお坊さん、それは実在の人です。それがこの玄奘です。
 中国から、山越え、谷越え、インドまで行き、往復した。そのときの道中記に話を借りて、孫悟空という猿が活躍する。自分の体の毛から自分の分身を何百人もつくって戦った、という話になったりもしている。そういう孫悟空はウソです。でも残り半分は本当です。

 ただ中国では800年代になると仏教が流行りすぎて、仏教は外国宗教じゃないか、中国の宗教に立ち返ろう。そういう動きが出て弾圧もされる。だからこの後、仏教がさかんなのは日本であって、中国では廃れます。
 中国のオリジナル宗教は孔子の教え、儒教です。中国オリジナルは儒教です。仏教はインド宗教です。


【ウイグル】 それから、突厥が応援して唐ができたんですね。
その突厥の別の一族がまだ744年に内モンゴルを統一しウイグル帝国をつくる。唐と組んでさっき言った756年の安史の乱を鎮圧するんだけども、これが840年キルギスに攻められ崩壊する。
 ウイグル自治区は今でも中国の地名にある。これに戦いを挑んだキルギスの名は、キルギス共和国といって中央アジアにあります。
 この遊牧民同士の戦いですよね。そして唐は仲間のウイグルを失って滅んでいく。


【農民反乱】 弱くなったら滅ぶ、不満を持つ人たちによって。これを黄巣の乱という。875年です。
 黄巣は人の名前です。塩の密売商人をしていた人ですが、やはり農民反乱です。農民が腹を立てる。生活がきつい、社会はガチャガチャだな、この王朝ダメかな、天が見放したんだ、天が見放したら王を交代させよう。ういうことを徹底的にやる。
 907年には、黄巣の家来でもと節度使であった朱全忠によって、寝返りの中で唐が滅ぼされていきます。このとき北方民族の突厥を味方に引き入れます。朱全忠は新しい国、後梁という国をつくります。これが五代十国の始まりです。
 これで終わります。ではまた。




「授業でいえない世界史」 6話 古代中国 五代十国~元

2019-01-22 09:26:57 | 旧世界史1 古代中国

※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


 いま中国史、この中国史をいうときに問題なのは、たんに万里の長城の南が中国と思うんではなくて、万里の長城の北で馬に乗っている人たち、農耕民じゃない人たち、騎馬遊牧民族、または逆にして遊牧騎馬民族、こういった人たちがいることです。
 たぶん顔形は東洋人の顔なんだろうけれど、言葉は中国語じゃないんですね。言葉が違うということは民族も違う、文化が違う。こう言った人たちが中国の周辺にうごめいてくるんです。
 その相互作用というのが、中国史なんです。全部わかろうとすると大変なんだけど、ポイントは難しくありません。騎馬遊牧民といっても、その時代時代でメインは一つです。



【五代十国時代】
 唐が滅んだあと、300年間の唐が滅んで、また中国は約50年間の分裂時代になります。五つの国が次々に変わる。これを五代十国時代といいます。
 北の方では五つの国が変わり、南の方で十国がバラバラです。また戦国時代です。
 中国は、まとまってはバラバラに、まとまってはバラバラに、これを繰り返します。こういう戦国時代になるのは、北にいる騎馬民族がいつでも攻めてくるから、材料には事欠かないです。
  この国はすべて後をつけて、後梁・後唐・後晋・後漢・後周、と漢字でいうけれども、これらの国の中心は突厥、つまりトルコ人です。後をはずして梁・唐・晋・漢・周と覚えたら楽です。



【ウイグル】
 この時代、唐が滅んだのは907年ですけれども、その前から行くと、唐の時代のモンゴル高原は突厥だった。
 その後、これも同じトルコ族の一種なんですが、別のグループとしてウイグルが活動しだした。しかしこのウイグルも、唐の滅亡の前に、別の仲間で敵対していたキルギスという部族に840年に攻められてモンゴル高原を出ていかざるを得なかった。
 彼らは西へ西へと移動します。これをウイグルの西遷という。西遷とは西に引っ越すことです。


【中央アジア】 中国の西方、砂漠地帯から、パミール高原、アジア大陸の真ん中あたり、そこを中央アジアという。そこは超大国はないけれども、アジア大陸のへソみたいなところで、西から東からいろんな民族がうごめくんです。意外と注意です。
 ウイグルというトルコ族の一種がまず西に動いて中央アジアに行く。もともとそこは白人が住んでいた。白人といってもイラン系、ペルシア人です。
 ウイグルというのはトルコ族です。だからトルコ人の土地という意味で、そこは別名トルキスタンと呼ばれていくようになる。トルコ人が住んでいる地域という意味です。  それまではイラン人、ペルシア人が住んでいた。イラン人とペルシア人はだいたい同じです。ペルシア帝国があったところが今のイランという国になっている。
 そこに我々と同じ黄色い顔のウイグル人が来て、そこはもうすでに・・・まだ言ってないけど・・・イスラム教が広まっていた地域なんです。
 そこに入ってきたウイグル人はイスラム教を信仰していくんです。モンゴルにいたウイグル人が移動してイスラム教徒になっていく。
 これが10世紀ごろに起こったことです。この場所が中央アジアというところ、インドのちょっと北西あたりです。
 


【キタイ】
 ウイグルが移動によって、モンゴル高原は空いた。空いたら誰も住まなかったかというと、その代わりには事欠かない。
 いっぱい別のグループがいる。似たような人たちがいるんですよ。彼らがまたそのモンゴル高原に入ってくる。
 彼らを、キタイ族という。これを中国人は漢字に当てはめて、なるべく似た名前にした。契丹(きったん)という。キタイ、キッタン、なにか似ている。
 漢字はもともと音を表す言葉でなくて、意味を表す言葉だから、正確な発音を表せないんです。この契丹が乗り込んできて国を建てる。
 彼らは中国文化が上だと知っているから中国風な国をつくる。漢字一文字を当てるんですね。これを「」という。建国者は耶律阿保機(やりつあぼき)。発音は正確には分からない。
 これが戦うと強いんです。文化的には中国が上なんだけど、喧嘩するとこちらが強い。勉強しないけど、喧嘩は強い、そういう人いるでしょう。全然、不思議なことではない。


【燕雲十六州】 そこで彼らは中国の一部であった地域、万里の長城の南、ここの部分を936年に占領する。全体から見るとそんなに大きな地域ではないけれども、中国内の土地が異民族に取られたということで、非常にインパクトが強い。中国人はこのことに強い危機感を覚えた。この地域を燕雲十六州といいます。
 中国にまた異民族が入ってきた。戦争で勝つのは決して文化的に栄えた所ではありません。文化水準が低いところは逆に野蛮だから、野蛮な人間が、高い文化を滅ぼすことはよくある。
 中国とヨーロッパの関係もそうです。ヨーロッパと中国を比べると、ヨーロッパが伝統的に進んでると考えたらダメですよ。
 まだヨーロッパにはお金も流通してない。中国にはすでに1000年前からお金が流通している。ヨーロッパにはまだ紙すらない。中国にはすでに1000年前から紙がある。文字は当然ある。多くの人が文字を書ける。ヨーロッパはほとんど文字を書けない。
 江戸時代だって、ヨーロッパの先端文化は進んでいたかも知れないけれど、識字率、つまり国民がどれくらい字を書けるかというと、日本人の識字率が高い。江戸時代の日本人は学校がなくても、誰から命令されなくても、寺子屋に行き出す。だから識字率は非常に高い。
 そういう平和な国にペリーが大砲向けて来ると、ひとたまりもないわけです。



【宋】
 中国の唐が滅んだあとはどうなったか。これがという国です。960年に建国です。
 5Cの南北朝時代にも南朝に「宋」という同じ名前の国がありましたが、それとは別の国です。


▼北宋と遼


 隋のあとの順番は、隋・唐・五代十国・宋・金・南宋・元とくる。
 モンゴル帝国まであとちょっとです。秦の始皇帝からもう1000年過ぎました。
 上の図が宋です。都は開封といって、横に川が流れてる。これが黄河です。黄河のほとり、そこに隋が運河を掘った。ちょうどその運河と黄河がつながっているところです。


【文治主義】 この宋という国を作った人は、字がえらく難しいて趙匡胤(ちょうきょういん)という。五代の最後の王朝である後周の軍人です。もっというと、もとは辺境を守って自分の軍隊を持っていた親分、つまり節度使です。
 軍人なんだけれども、彼は自分が軍人だから、自分の国を建てた瞬間に軍人の恐ろしさを知ってる。武力で国がコロコロ変わるような社会にはうんざりした。
  それで文治主義です。勉強しなさいという。中国にはすでに試験がある。ヨーロッパは紙がないから試験できない。中国は紙があるから試験ができる。それが科挙です。その科挙を強化する。
 勉強したやつは役人に取り立てる。政府に抱えるぞ。今までは節度使のような地方の親分に地方政治を任せっぱなしだった。しかしこれからは地方に中央から役人を派遣し、地方行政を行おうとした。そのために頭のいいやつを登用するぞ、そういう方針を打ち出していく。
 しかしこれはお金がかかりすぎて、お金が足らなくなるんです。いままでは地方のことは地方の親分に任せていた。しかしこれからは中央政府の役人が地方政治を行うことになる。政府の資金で地方政治を行うんです。だからお金が足りない。
 それで1万円札を刷るんです。これが世界初の紙幣です。1万円札を刷る意味は、国家の信用でお金をつくるということです。そうやって紙のお金を作り出す。金貨とはまったく発想が違います。
 では今の1万円札も国家が発行しているかというと、ちょっと違いますね。今の1万円札は、国家が発行しているのではありません。日本銀行が発行しています。日本銀行で働いている人は公務員ではありません。だから今の1万円札は、政府紙幣とは別の何かです。お札は日本銀行券といいます。そう1万円札に書いてあります。この銀行券という今のお金の謎は深いです。単純な足し算・引き算と、微分・積分ほどの違いがあります。 


【商業重視】 さっき首都が開封に移ったといいましたが、これは何を意味するか。中国はもともと農業中心国家だったんですけれども、水上交通の便のいいところに初めて首都をおいたということです。
 1番大事なものは、農業ではなくなりつつある。商業重視の国家になりつつある。
 商業が栄えるということは、商業の同類に貿易がありますから、外国との取引の港として出てくるのが、この図の広州です。1000年前から広州はあります。
 これが伝統的な港で、今から約200年前にイギリスがここに行きたいけれども、その入り口にある小さな島を手に入れたくて、中国に戦争ふっかけて自分たちのものにした。アヘン、つまり麻薬を売りつけて。これが今の香港です。
 香港は中国でもずっと南のほうです。北京は当然北方です。北の京は北京。南の京は南京という。南京のそのまたずっと南に香港がある。もともと広州という。


【西夏】 ただこの宋という国は、軍事に力を入れなかったから戦争が弱い。弱いと周辺の人間が暴れまわる。異民族がいろいろ動き出して国をつくっていくんです。
 今度はチベット系異民族、騎馬民族とちょっと違って・・・チベットは西のほうにある・・・西夏という国をつくり出す。王様は李元昊という。李元昊の昊はめったに使わない字です。彼が王様です。
 宋はこの西夏にも圧迫されます。それ以前からある契丹の遼にも圧迫されています。毎年、銀や絹などの貢ぎ物を送らなければなりません。戦っても勝てないのです。この貢ぎ物の額が莫大なのです。


【交子】 さらに文治主義にはお金がかかる。学校も実はお金がかかるんです。そのお金がないから、世界初の紙でお金を印刷する。すでに印刷技術があったんです。
 ヨーロッパは印刷技術がないし、紙もない。中国には紙がある。印刷技術がある。これでお金にすれば簡単だ。
 これが世界初の紙幣です。この紙幣を交子という。紙幣の発行をやる。世界で初めての1万円札のルーツは中国です。ヨーロッパではありません。
 ヨーロッパでの紙幣発行は、のちにまた別のところから発生します。そこには銀行がからむんです。もうちょっとあとで言います。お金は説明し出すとキリがないです、簡単に見えてトリックに騙されます。
 もともとこの紙幣というのは、預り証です。預り証というのは、ズボンを買ってスソを曲げのため、1週間後にズボンを取りにきてくださいと言われると、その引換券として紙を切ってもらう。1週間後にその紙を渡せばズボンがもらえる。そのときのズボンの引換券といっしょです。その預り証です。
 では紙幣は何の預り証か? 本当のお金は中国は銅銭です。銅は重いから、紙で預り証を切る。紙は軽くて便利だから、本物のお金のようにそれが流通していく。
 預り証を発行する業者によっていろんなお金がある。国中に何百種類ものお金があって不便だったから、それをまとめて政府が発行する。
 中国の通貨の基本は、政府がお金を発行します。今の中国銀行も、政府が実権を握っています。それに対して今の日本は、政府がお金を発行していません。日本銀行が発行している。

 どっちが発行するした方がいいか。これが大問題で決着ついてない。アメリカ型・ヨーロッパ型は銀行券です。日本は明治初期にヨーロッパ型をまねて、それから100年以上、銀行券を発行しています。
 しかし江戸時代は違う。江戸時代の金座・銀座は、幕府のものです。東京の銀座は、銀貨を発行する幕府の座があったところです。今の銀座はその銀座があったところです。
 その銀座を管轄しているのは・・・その頃は銀行なんてなくて・・・民間商人もそこまで力を持たない。発行したのは幕府です。

 ところが明治になると、政府はお金を発行しなくなった。その代わりに三井という民間銀行を母体にした日本銀行が発行しだした。それはヨーロッパのマネです。

 ここではとにかく宋が国家として紙幣を発行したということです。政府は官だからその紙幣を官交子という。政府が紙幣を発行していたんです。

※ 四川の交子鋪が事業に失敗し、銅銭の準備高不足で不払いに起こしました。宋王朝は1023年、交子鋪の救済を行うと同時に、交子両替のビジネスを民間の交子鋪から取り上げ、朝廷の専売ビジネスとします。朝廷が交子を発行しはじめたことによって、交子は公的な兌換紙幣となり、全国に普及しました。これが史上初の兌換紙幣です。(宇山卓栄 経済)

※ 中国では歴代のコインをはじめ、多種多様のコインが流通しており、極めて不便だった。そこで、四川の成都の金融業者は、「交子」という手形を発行することで、かさばる鉄銭の不便を避けようとした。
 やがて「交子」の利便性が知れ渡ると、宋は商人組合から手形の発行権を奪い、紙幣としての「交子」を発行するようになった。もともとは銅銭の価値を示し、銅銭と交換することができるとされた手形を、皇帝が価値を保証する紙幣にかえたのである。
 元来、中国の「お金」は素材としてはあまり価値のない銅を用いており、皇帝の権威により価値を付加されていたために、紙幣への移行が比較的円滑に行われたと考えられる。(宮崎正勝 お金の世界史)

 金(キン)と違って、お金がないとき紙幣はいくらでも印刷できます。それが癖になると歯止めがきかなくなって印刷しすぎる。すると、物の値段は・・・ここは現代の経済といっしょです・・・どうなるか。
 物の量が一定なのに、お金ばかり印刷したら、物の値段は上がるんです。これが1倍、2倍だったら普通のインフレだけども、すぐに100倍を超えるとハイパーインフレとなって、そうなると宋が潰れる。
 そこまで行くと、そんな紙切れをいくら持っていても何の役にも立ちません。


【王安石】 そういうふうに紙幣が流通して貨幣経済が発展すると、貧富の差が大きくなっていく。お金を儲けた人間が土地を買い占めていき、大土地所有制が広がっていく。農民の生活が苦しくなっていく。
 中国はこの貧富の差を無くそうと努力します。努力した改革者を王安石といいます。
 これは結果的にうまくいかないけれど、ヨーロッパはもともとこういう発想がないです。お金はお金のあるところに集まる傾向がある。えらく金持ちと、えらく貧しい人に分かれる。中国には、こういう社会はよくないという考え方が前提としてある。
 ヨーロッパは、自由競争は仕方ない、その結果、富める者と貧しい者が分かれるのは仕方がない、という考え方です。そこらへんも、西と東でだいぶ違います。



【金】
 今度は、万里の長城の北で暴れまわる民族が出てくる。これは本当はジュルチン族というんですけど、中国では漢字で書くからこれを女真(じょしん)族と書いた。女のグループじゃない。中国人が発音をまねてこう書いただけです。
 この女真族が1115年に国をつくる。これがという国です。金を建国した王様は、ここでも中国人はでたらめな漢字を当てますが、完顔阿骨打(わんやんあぐだ)という。そう読むんです。王様の名前です。
 実は中国人の宋はこの金に圧迫される。金は強くなって1125年にまずを滅ぼす。そして翌年の1126年宋を滅ぼす
 遼は逃げて西のほうで別の国、西遼を1132年に作っります。そのときの王様は耶律阿保機ではなくて、その一族の子孫、耶律大石といいますが、彼らは中国からは姿を消します。



【南宋】
 金に滅ぼされた宋は南に逃げて、翌年の1127年に別の国を作ります。南に逃げた宋だから、これを南宋という。都は臨安(杭州)です。


▼南宋と金


 この国が1279年までこのあと150年ぐらい続く。これを地図で見ると、12~13世紀の中国は上の図の状態です。南が南宋、北は金です。その国境が淮水(わいすい)です。南宋は北方民族にだいぶ押された形になります。
 南宋は金に対して、中国史上初めて臣下の礼をとり、つまり金の子分となって、毎年、銀や絹の多額の貢ぎ物をしなければならないことになります。


【宋学】 彼らは北方騎馬民族に頭が上がらない。毎年多くの貢ぎ物をします。その経済的負担は大変なものです。だから紙幣を発行したということは前に言いました。
 しかしそれだけではありません。漢民族としてのプライドを捨てて、異民族に頭を下げ続けることが人間として正しいことなのか、という疑問がわいてきます。人間として生きるためには何が正しいことなのか。どういう社会が正しい社会なのか。そういう疑問がわいてきます。
 それに応えたのが朱子学です。宋学ともいいます。これをとなえたのが南宋朱熹です。朱子ともいいます。仏教などの外来文化ではなく、中国の伝統文化に立ち返り、その正しさを周囲の国にもちゃんと主張すべきなんだ。そしてそれによって、中国を中心とした国際秩序を作るべきなんだと主張します。
 正しさを主張するのなら、その正しさを内にこもって守るのではなく、堂々と外に向かって主張し、その正しさで国外の秩序も維持するべきだ。ところが今はそうなっていない。こういうのを大義名分論といいます。
 これが儒教の正統とされ、このあと日本にも大きな影響を与えます。日本の江戸時代の武士の学問といえば、一言でいうと、この朱子学です。


【12世紀のアジア大陸】 この12世紀をアジア大陸全体で見ると、どういう事が起こってるか。
 宋は軍事は弱いけれども、経済優先なんです。ものを交換したい。
ではこの時の西のヨーロッパはどうかというと、これもあとでいいますが、十字軍という遠征軍を東のイスラム世界に差し向けて戦う。
 それで人が何万人と移動したついでに、貿易を活発化していく。これで西と東が通じる。

 その取引の中心で、ヨーロッパ人が一番欲しがったものが何か。ヨーロッパは絶体つくれなかったもの、それは蚕です。何と読みますか。昔テントウムシと読んだ人がいました。「カイコ」です。蚕が口から吐いた糸を織って布になる。この布が絹ですね。絹は今でも高級繊維です。絹の背広とか着ている老紳士とかにタマにいるけど、やっぱりきれいですね。私は買ったことがないけど、一度は着てみたいです。でもお金がないから生糸のパンツぐらいかな。
 絹は英語でシルクといいます。その交易路をなんといいますか。こうやってシルクロードが活発化していく。

 そして中国の南宋が潰れると、ユーラシア全体を配下に治めた者がシルクロードの支配者になる。これがモンゴルなんです。チンギス=ハーンです。大世界帝国、面積は過去最大です。
 今でもモンゴル帝国以上に大きい国はない。チンギスハーンのモンゴル帝国が成立していく。



【モンゴル帝国】
 国を作ったのは1206年です。モンゴル帝国という。もともと弱小グループだったけれども、こういうのは偉大なリーダーが出ると急速に戦争に強くなる。リーダー次第です。

 そのリーダーとして選ばれたのがチンギス=ハーン。誤ってジンギスカンとか、焼肉料理の名前になっていたりする。もともと人の名前です。
 この騎馬民族はどこか民主的で、リーダーを話し合いで決めるという風習がある。モンゴル語で会議または集会、これをクリルタイといいます。会議です。ここで重要事項を決定する。
 今の日本でも国会で一番重要で、まず行うことは内閣総理大臣を決めることです。この会議でモンゴル帝国のリーダーにチンギスが選ばれます。

 そしたら周辺の部族をあっという間に統一し、2000キロ先まで行く。大遠征です。
 まず西にいたさっき出てきた西夏、これを1211年に潰す。
 さらに1231年にホラズムを潰す。次々に潰していく。向かうところ敵なし。今度は北に行く。
 宋よりも強かったも1234年に潰していく。金のことを女真族という。要注意は、この女真族が、忘れた頃の400年後、また復活して中国に大帝国つくる。これがです。400年間、鳴りを潜めて生き残っている。
 この清は何かというと、日本が1894年、中国と戦ったんです。この戦争を日清戦争という。そのときの清です。これは強い国家です。300年ぐらい中国を支配する。ここではちょい役だった女真族、それがこうしてまたあとで出てきます、400年後に。
こういうグループが万里の長城の北にいっぱいいる。

 ここではモンゴルの話、チンギス=ハーンの子孫、バトゥ、彼は西へ西へと行ってヨーロッパまで攻める。ヨーロッパのドイツ・フランスまでは行かなかったけれど、その直前まで行く。そしてこのあとロシアを支配する。
 世界史というのは、戦争のことを2回言うことがある。勝った国を説明して、今度また地域ごとに別の国を説明するときに負けた国を説明して、2回同じことを説明する構造がある。
 地域ごとにやると日清戦争でも、日本のことをやるときに1回出てきて、中国のことをやるときに1回出てきて、同じ日清戦争でも2回説明するということがよく起こる、説明の仕方として。
 ロシア側からはまだ見てないけれども、ロシアが誕生するご先祖の国がある。これがキエフ公国という。キエフは地名です。これがロシアの元です。
 1240年、これは滅ぼされる。だから、ロシア人はこのあと200年間、国も持たず、国はあったけど被支配者層として、誰に支配されたかというと、モンゴル人に支配される。
 今と逆です。モンゴルが強かった。ロシア人はこのことを「タタールのくびき」といって怨んでいます。
 モンゴルは、さらにロシアからドイツまで攻めようとして、ドイツの手前のポーランドで戦う。これがワールシュタットの戦い1241年です。これも地名です。
 この戦いでモンゴルがまた勝利する。しかしモンゴルは勝ったところで引き返す。ここから西には行かなかった。だからドイツは助かった。

 今度は、南西地方、今のイスラム圏、今のイラクあたり。そこには、これもまだ言ってないけど、イスラム国家でアッバース朝というのがあった。1258年、これにも勝つ。
 地理的にはアジア大陸総ナメです。しかしあまり広すぎて、中国本土をボスとして、国が分裂していくんです。ただ親戚づき合いみたいな微妙な繋がりがある分裂の仕方ですけどね。
 中国の本家はという国号に変える。これが日本にも攻めてくる、鎌倉時代に。元寇といって。
 福岡県の西の方の玄界灘沿いに行くと、このときの防塁の跡、防ぐための石がゴロゴロしてるところが残っています。

 

▼モンゴル帝国の発展


【フビライ】 この元の初代皇帝がチンギス=ハーン、2代はオゴタイ=ハーン、3代、4代を飛ばして、有名なのは、5代フビライ=ハーン。これが元気者で暴れ回る。日本に攻めてきたのはこの5代フビライです。広すぎて国が4つに分裂します。
 ロシア地方でキプチャク=ハン国
 西アジア地方ではイル=ハン国
 中央アジアではチャガタイ=ハン国
 もう一つオゴタイ=ハン国というのがあったといわれていましたが、最近これは国ではなかったとされています。
 そのボスにがいる。それらが緩やかな連合をする。

 

▼モンゴル帝国の系図


 これを人の系図でみると、国が●印です。これは親戚の国なのだという事がわかればいいです。その本家が中国の元です。
 西アジアはイル=ハン国です。中央アジアはチャガタイ=ハン国です。これがぜんぶ連合しているとみれば、これだけ大きな国はここでしか出てこない。いくらロシアが大きいといってもこれにはかなわない。史上最大国家です。
 モンゴル人は気が荒い。朝青龍、白鵬を見ていても、相撲が荒い。モンゴル人の相撲は、喧嘩させたら強かっただろうという相撲をとる。朝青龍とか気性が荒くて、イメージが重なります。
 でもそれが好きかと言われると、そうでもないですけど。


【元寇】 中国本土ではです。本当はこのモンゴル高原にカラコルムというのがある。パオというテントがある首都だった。しかし中国に首都を移した。これを大都という。のちに名前を変えて、これが今の中国の首都、北京です。北京はモンゴル人がつくったんです。中国人ではなく、モンゴル人ですよ。
 そして南の南宋も滅ぼす。1276年です。ベトナムも攻める。
 日本も攻める。これを日本では元寇という。元寇の寇は難しい字ですけど。2回来る。とても勝てない。なのになぜ勝てたか。台風が来たから、2回とも。日本人はこの台風を神風と呼んだ。日本は神に守られてる国だ、という考え方が出てきたりする。日本の神様のカブが上がった。

 モンゴルは最初に言ったシルクロードを支配するんです。シルクロードは延々と続きます。こう書くと短い感じがするけど、山越え、谷越え、砂漠越え、ラクダを使いながら、何年もかかって行く。

※ モンゴルはシルクロードを完全支配し、それがもたらす富を背景に急成長します。(宇山卓栄 経済)



▼13世紀の世界



【交鈔】
 このモンゴル帝国、中国では元という。やはり宋の真似をして紙幣を発行する。この紙幣を宋では交子と呼んだ。今度は交鈔という。
 紙の紙幣、ヨーロッパ人、これを見て、中国では何の価値も紙が金貨の代わりになっているといって不思議で不思議で仕方がない。

※ マルコ・ポーロを驚かせたのは、フビライが発行する紙幣、つまり交鈔だった。イタリア商人のマルコ・ポーロには、紙切れが金、銀と同等に扱われることが信じられなかったのである。(宮崎正勝 お金の世界史)

※ 清王朝は紙幣を発行しない。(宇山卓栄 経済)

 なんでこれが価値があるのか。これは国の信用なんです。紙幣がここで登場する。これは、国の信用力としては中国が高かったということです。ヨーロッパの中世はまだ混乱しています。
 中国にはすでに紙がある。これは当たり前じゃない。ヨーロッパではないんですよ。印刷技術があるということ。これも当たり前じゃない。ヨーロッパではないんですよ。
 交鈔、これが1万円札のルーツです。もともとお金は、金か、銀か、銅か、そういう貴金属だったけれど、紙幣を発行した。前の宋の時代からです。
 ヨーロッパ人がこれを見て、紙切れがなぜ1万円の価値があるのか、非常に不思議がったという記録があります。
 今ではあたりまえですが、紙幣というのは難しい。お金は、考えるとよく分からないという現代のブラックボックスです。


【紅巾の乱】 元は漢民族ではない。漢民族の学問、儒学、これは軽視する。
 お役人を試験する、これを科挙といいますが、これも元の時代には中止される。
 もうちょっと言うと、中国と北方騎馬民族の境界を分ける万里の長城、この万里の長城は、モンゴル自体が北方騎馬民族で、中国に押し寄せて来ているわけですから、いったん破壊される。自分たちを通らせないものは障害物だから破壊される。
 それをこの次の明が、再度構築して、今の大々的な万里の長城を作っていくわけです。
 1351年になると宗教反乱です。基本は農民反乱と思ってください。それでつぶれる。この反乱は宗教がらみです。白蓮教徒という民間宗教です。階層からいうと農民です。中国は農民によって王朝が滅ぶ国です。
 日本の百姓一揆は、逆につぶされるわけですけれども、私は今でもこういう農民反乱を動かしていくその原動力というか、その組織力というか、それが不思議でならない。こんな力を持つ農民がたびたび歴史に登場するというのは他の国にないことです。これが紅巾の乱という。赤い頭巾をかぶるから、紅巾の乱です。


【イスラム化】 これによって一気にモンゴル大帝国は瓦解していきます。このモンゴル大帝国の地図を見ると、こんな大きい国というのは、あとにも先にもないです。
 しかし、西アジアにイル=ハン国があるけれども、ここはイスラム教国になります。ここにはすでにイスラム教がある。モンゴル人によって、このイスラム教がつぶされていったのかというと、逆にここに来たモンゴル人たちはイスラム教に染まっていくんです。
 自分たちが、逆に征服された側の宗教に馴染んでいきますので、今もここがイスラム圏であることには変わりがない。
 そうやってイル=ハン国は逆にイスラム化していく。そしてその東の中央アジアにあったチャガタイ=ハン国もイスラム化していく。こうやって西に移動したモンゴル人たちはイスラム教徒になっていくんです。
 彼らがイスラム教徒になったあとに、チャガタイ=ハン国のあと、彼らの子孫でまた国を建てる人物、ティムールというのが出てくる。この国をティムール帝国といいます。この国はモンゴル人の国ですけど、すでにイスラム国家です。


【東西交流】 このユーラシア全体にまたがるモンゴル帝国によって何が盛んになるかというと、東西交流です。
 ヨーロッパと中国との間にはシルクロード、絹の道というのがあって、そこに何千キロにも渡って、ラクダの商隊を組む。リレー式でものを運んで行くんですけれども、そういう商人たちが交易をして非常に大きな利益を上げていく。そうやって交易が盛んになるということです。
 欲しいのは西の人間が、東の中国の商品を欲しがるんです。絹も中国ですよ。ヨーロッパに絹があるんじゃない。ヨーロッパが進んでいるじゃない。中国が進んでいる。ヨーロッパ人が欲しいんです。
 それで中国にヨーロッパ人が来るんです。これがマルコ=ポーロです。ベネチアの商人、イタリア人です。
 ベネチアは不思議な都で、海の中に浮かぶ都市です。それで有名です。人工の島が100ぐらいあって、小さな島の中にまたいくつもの小さな島、その島と島とを結ぶ橋が何百とある。そこの商人です。「世界の記述」というのをあとで書きます。
 それからムスリムも来ます。ムスリムとはイスラム教徒のことです。イブン=バトゥータというアラビア人も来ます。中国の元にはそういったイスラム教徒も来ます。いろんな国を旅して「三大陸周遊記」を書きます。
 一旦13世紀、中国はここまでにします。世界史はあっちに行ったり、こっちにいったりしないと世界史にならないからね。中国は一気に千年以上行きました。
これで終わります。ではまた。




家畜社会から奴隷社会へ 2

2019-01-07 16:18:26 | 旧世界史1 古代中国

日曜日

中央銀行のもとに、国民すべてを支配するという発想は、一神教的である。
しかしこの時の一神教は悪魔的である。
悪魔は一神教の裏側にいる。
このような悪魔は農耕社会では発生しにくい。家畜社会に特有のものである。

悪魔は監視されなければならない。
しかし、紙幣を発行する者が国王でない場合、その悪魔は姿が見えなくなる。
ここに中央銀行の最大の問題がある。

中央銀行は、国王のものではない。
中央銀行の所有者は、国王以外の何者かである。

アメリカほどではないにしても、日本の日本銀行も国有銀行ではない。
その証拠には、日本銀行の株は誰でも買える。
しかし、そのことを知っている人は少ない。
新聞の株価欄には、「日銀」の株価が載っている。
しかし、それを見つけるのは困難である。
一国の中央銀行でありながら、日本銀行は、東証一部ではない、東証二部でもない。さらにマザーズ市場でもない。一番目立たない、新興市場のジャスダック市場である。
なぜ、日本銀行ほどの会社の株が、こんな一番目立たないところで売り買いされているか。
人に知られたくないからである。そしてその利益がどうなっているのか、それを世間から注視されたくないからである。

ほとんどの国の中央銀行はそうである。
その利益がどうなっているか、誰も関心を持たない。

悪魔は日の光を避ける。
光の当たらないところを好む。
悪魔の特徴は、人目のつかないところに隠れることである。
彼らが一番嫌うことは、自分の隠れ家を見つけられることである。
彼らがどこにいるかが知れ渡れば、彼らは何もできない。
だから住みかを移動する。

人間が、彼らを見つける努力を怠ったとき、彼らは増殖する。

そして人間社会にとんでもない不幸をもたらす。
前の世紀に起こったことはそういうことである。

一神教がある限り、悪魔は必ず存在する。
我々にできることは、悪魔の居場所を見つけることだけである。
人間が悪魔を殺すことはできない。それは神のみができることである。

日本人は性善説を好むが、世界は性悪説で動いている。
アベノミクスから7年目、いかにもそれが成功したかのように装っているが、中央銀行の持つこのような性格を、最大限利用しているのが安倍政権である。
そのことは日本が本格的に性悪説で動き出したということではないか。

ゲーテの「ファウスト」も悪魔(メフィストフェレス)の存在を前提としている。


家畜社会から奴隷社会へ 1

2019-01-07 09:22:57 | 旧世界史1 古代中国

日曜日

人間社会が、狩猟採集経済から、生産経済に移行するとき、二つの道が分岐する。
一つは、農耕社会である。
もう一つは、遊牧社会である。
ここから野生動物の家畜化が始まる。
奴隷社会はこの起源を持つという。

農耕社会では、奴隷がいたとしても、それが社会制度にまではならない。
しかし、家畜社会は奴隷社会を生んでいくという。
ヨーロッパ社会は、このタイプである。

しかしすべての遊牧社会が、必ず奴隷社会を生んでいくわけではない。
そこにはもう一つの要素が付加されなければならない。
それが一神教である。
一つの神のもとにすべての人間が仕えるという観念がなければ、奴隷社会は発生しない。


国家と領土 遊牧国家の場合

2018-01-06 09:52:21 | 旧世界史1 古代中国

土曜

日本人の感覚では、国家は領土と結びつくが、
モンゴル人などの遊牧民の場合、国家は領土とは関係なく、人の集団が移動すればその移動したところが国家になる。
つまり遊牧国家は領土とは関係なく、国家を形成する集団が動き、その構成員が居住するところがそのまま国家になる。

遊牧民の場合、土地は共有のものであり、誰のものでもない。
いわば土地は借り物である。

近代国家の場合、A国がBという領土を併合すればそこに住んでいる人はA国の国民になるが、
遊牧国家の場合はそうはならない。
国家とは土地ではなく、あくまで人である。
こう考えると、我々がふつう国家の三要素と呼んでいる領土・国民・主権という考え方も近代のものだということがわかる。
我々は国家を領土と結びつける発想になじんでしまっているが、歴史的にはそうとばかりは言えない国家があった。
しかも我々は領土を最初に国家と結びつける。
しかしそれは違うのではないか。
国とは最初に人である。
人の住むところが国家である。

遊牧民はそうやって国家を広げてきた。
大事なのは領土ではなく、まずそこに住む人である。そして次にはその人々をどう組織化するかということである。その手段として領土があるにすぎない。
その証拠には、史上最大のモンゴル帝国をつくったチンギス・ハンは、ほとんどモンゴル高原にはいなかった。その1000年以上前、史上初の帝国であるアケメネス朝ペルシャのダリウス大王も、首都のペルセポリスにはほとんどいなかった。両者とも生涯のほとんどを旅に暮らしていた。

王とその軍団が動く範囲、それが国家の範囲であった。
そしてそれは税金の徴収のためというより、そこの住民の組織化のためであった。
徴税はそれに付随するものである。
組織化なしに徴税した場合、国家はすぐに瓦解する。
それはたんなる暴力団のみかじめ料にすぎない。
みかじめ料と税金の違いはそういうところにある。
合法性の根拠もそこにある。


羈縻(キビ)政策 冊封体制 国郡里制 封建制

2009-06-24 22:44:26 | 旧世界史1 古代中国

古代中国は領土を広げ異民族を支配するとき、敵対した異民族を滅ぼそうとはせず、その地域の長官には現地人の部族長を任命して世襲させて統治した。
これを羈縻(キビ)政策という。

それよりも遠隔の地方に支配を及ぼすときは、現地の王をそのまま王として認め、自分の子分として朝貢(貢ぎ物をもってくること)させた。
そういう地域は中国の一部だと見なした。
朝鮮は長らくこれであったし、5世紀の日本もこの枠の中に入った。
これを冊封体制という。

他地域を滅ぼさず、そのまま自分の子分にして支配下に入れるという方法は東洋社会特有の方法である。

日本の律令制下の国郡里制もそうである。
よく教科書では国郡里制によって中央集権国家が完成したと説明されるが、
ではヤマト政権はそれまでの地方豪族を滅ぼして中央から役人を派遣したのかというとそうではなく、
郡司にはそのまま地方豪族の氏上(長官)を任命して、実質的な地方政治を任せたのである。
彼らは中央から派遣された国司を敬っていればそれで良かった。
実質的な地方支配は郡司の手にあったのである。

武士の時代になって発達する封建制度というのもこの延長線上にある。
鎌倉幕府も室町幕府も封建制度であるが、最も強力な幕府であった江戸幕府でさえ、関ヶ原の戦いのあと中央武士を地方に派遣して彼らによって地方政治を統括したのかというとそうではなく、戦国時代の大名の多くをそのままその地に存続させ、彼らに地方統治を任せた。

日本の封建制度はこのような東洋社会の伝統のうえに築かれたものである。

ヨーロッパにも地方豪族による土地支配の時代があり、それをフェーダリズムというが、それは日本語では封建制度と訳されている。
しかし日本の封建制度と西洋の封建制度ではそのもとになっている考え方が根本的に違っている。

前者が争いを避けるのが前提になっているのに対し、
後者は覇権を争うことが前提になっている。

前者が争いを避けて国家としてまとまるのを目標としているのに対し、
後者は争いを続けて国家が細分化する結果になっている。

前者が子分になれば滅ぼさないのに対し、
後者はとことん争って相手を滅ぼす。

このような社会の原理の違う社会の制度を、同じ封建制度と訳すことは多くの混乱を生む。

東洋社会は地方勢力を残存させるという点では地方分権的であり、
1つの国家としてまとまるという点では中央集権的である。

日本では地方分権と中央集権は相対立するもののように受け取られがちであるが、
それは二者択一すべきものではなく、あくまでもバランスの問題である。

経済がこれだけ東京一極集中しているときに、安直に政治面だけの地方分権を叫ぶのは危険でもある。

ただ小泉政権下の自民党は、大都市で稼いだ金を地方に環流させなかったばかりか、地方を大企業の草刈り場にしてますます地方を疲弊させた。
そういう意味で今経済面での地方分権は壊滅的な打撃を受けている。

小泉・竹中改革は地方にとっては血も涙もない改革であった。
民主党が地方政策をどのように考えているかはまだよく分からないが、
少なくとも地方では自民党はすでに見限られている。

宗族と儒教

2009-06-10 16:12:43 | 旧世界史1 古代中国

中国には宗族という強い血縁集団があるが、
そういう血縁集団の強い社会のなかで、
親と子という家族ルールを発展させ、それを社会ルールにまで高めたのが儒教である。

それは親孝行の『孝』という観念を中心にしたものだが、
その『孝』の観念は親が生きている間にだけなされるものではなく、親が死んだ後までも続けられなければならないものであった。

従ってそれは死んだ親に対して子孫が行う祭祀となる。
それはいずれ自分が死んだあとも、自分も子孫によって祭祀を行ってもらえることになり、死後の世界を救済する宗教にまで発展した。

中国の社会ルールは血縁関係のルールをもとにして築かれる。
祖先の祭祀を行うことが人としての正しい道であり、
その正しい道を行える人には人としての『徳』が備わっているということになる。

この徳のある人によって天下が治められれば天下太平になるのである。

では天下を治める人が人としての徳を失った場合にはどうなるか。
天は、そういう人が天下を治めることを認めないのである。
その場合、民衆はそういう徳を失った為政者の政治を否定することができる。
だから中国にはしょっちゅう農民反乱が起きて王朝を崩壊させる。
農民反乱によって王朝が倒されることは、日本に見られないだけでなく、西洋でも見られないことで、中国独自のものである。

それほど『徳』というものが重視されたのである。

そうすると徳というものはどこから出てくるのかという話になって、
一つは、人間には自然なかたちで徳が備わっているという考えが出てくる。性善説というものである。

しかしそうではないという考え方もある。人間はもともと邪悪な心を持っていて、人間が徳を得るためにはその邪悪な心を抑えなければならないという考えである。これが性悪説である。
そのためには正しいことを形で表すことが大切だとされ、その形が『礼』となって現れるとした。
つまり形を強制するわけである。
これが後に『法家』の思想となる。

秦の始皇帝がこの法家思想を取り入れることによって全国を統一したことはよく知られている。

しかし秦は、法律によって人を縛るという考え方の行き過ぎによって民衆の支持を失いすぐに滅亡する。

ここでいえることは法律という一見儒教と無関係に見えるものでも、中国の場合には、人間の徳というものを導き出すための手段と考えられていることである。
つまり法律でさえ儒教思想から出てくるのである。
だから法治主義と徳治主義という一見矛盾するものが、共存できるのである。
それは儒教という一枚のコインの裏と表である。
儒教という枠組みのなかで矛盾なく共存しているのである。

ここに中国と西洋の法律に対する考え方の違いがある。
西洋では法律とは社会のルールであって、それが人間の人格と結びつくことはない。
だから西洋では時の為政者に人格を求めるということはない。
中国では為政者が徳を失えば天に見放されると考えたこととは大きな違いである。

中国では為政者ばかりではなく官僚にいたるまで徳が要求されるようになる。

法律を執行するのは官僚であるが、その官僚になるための試験である科挙は儒教の知識が要求された。
(このことと中国の官僚が本当に徳を備えていたかは別問題である。)

西洋では官僚に対して試験をすることも、また人間としての人格を求めることもなかった。

そのような違いがどこから発生するかを考えるとき、
中国が血縁集団の非常に強い国家であったのに対して、西洋では血縁組織が発展しなかったという違いが、大きな相違点として考えられるのではないかと思う。

宗族と外戚

2009-06-09 22:02:35 | 旧世界史1 古代中国

中国には宗族という血縁集団がある。
同一の祖先を持つ姓を同じくする集団である。
一度その宗族として生まれたからには一生その宗族の一員である。
だから中国人は一生姓が変わらない。
毛さんは一生毛さんだし、江さんは一生江さんである。
結婚しても変わらない。だから中国人は夫婦別姓である。

夫婦別姓は本来その血縁集団の強さを意味するものである。
日本では一頃そのことが逆に受け取られて議論されていた。

中国はこの血縁集団によって政治制度を作り上げていった。
今から3000年前、周王室はこの血縁制度を利用して封建制度を作り上げていった。
中国の封建制度はこの血縁関係を利用した制度である。
王室と封建諸侯は血縁関係によって結ばれていた。

中国は西洋に比べると血縁関係が強い。
この血縁関係の強さが強い王朝を生み出していく。

確かに西洋にも王朝は発生するが、西洋の王朝はその世襲原理が中国に比べて弱いし、それは常に選挙原理に脅かされる。
そのため西洋の王朝はその王権の受け継ぎが不安定である。

中国ではこの血縁組織の強さゆえに、一つの王朝が母方の血縁集団に乗っ取られることがよくある。

新を起こした王莽は前漢の皇帝の外戚(母方の親戚)であった。
唐の玄宗皇帝は楊貴妃を溺愛したために、楊氏の台頭をまねいた。
また唐の高宗の皇后は自ら帝位につき、唐を中絶して周を建国し、則天武后と名乗った。
それ以前、南北朝時代を終わらせ、隋を建てた楊堅は北朝の北周の外戚であった。

このような母方の血縁集団の強さは西洋の王朝には見られないことである。

私はそのことが良いとか悪いとか言いたいわけではない。
非常に重大な違いではないかということを言いたいだけである。

ただこのようなことは教科書では全く触れられていない。
歴史における血縁集団の重要性というものが教科書から消えているように思う。

そのことが夫婦別姓を血縁関係の否定や個人の尊重の視点から導くような変な議論を巻き起こす要因にもなっているのではないかと思う。

アマテラスによる神々の共存

2009-05-16 14:51:01 | 旧世界史1 古代中国

古代日本では、地方を政治的に支配することは、直接人を支配することではなく、その前に地方の神々を支配することであった。

中央政府から地方に派遣された国司の最初の仕事は、まず地方の神々を祭ることであった。
天皇家の神が地方の神々のうえに君臨するという形を取って初めて地方支配が可能であった。

このように古代においては中央政府による地方支配、つまり国土の統一というのはまず宗教権の吸収という形を取る。
各々の地域で祭られていた神々を中央政府が地方に代わって祭るということが、地方支配の第一歩だった。

日本は多神教の国であるから、天皇家の神であるアマテラスを全国に植え付け、全国をアマテラス一色にすることは出来なかった。
アマテラスと地方の神々の共存をはかるには、アマテラスを頂点とする神々の序列化を行うことにより、アマテラスと地方神との共存をはからなければならなかった。
地方神を滅ぼすことなくあくまで共存の道を探ったことが日本の古代政治の大きな特徴である。
それまでの地方豪族を滅ぼすことなく、彼らにも生きる道を残し、郡司という地方のかなめとなる官職を与えた中央政府は、地方の郡司たちの神々を決して滅ぼそうとはしなかった。
そうなるまでには長い時間を要した。

アマテラスと天皇は血でつながっており、一体のものであった。
アマテラスは天皇にだけ政治支配の正当性を与える神であり、アマテラスが天皇以外のものに支配の正当性を与えることは考えられなかったし、アマテラスを祭る伊勢神宮が宗教組織として直接日本の政治支配をねらうこともなかった。


ところが西洋の場合だいぶ事情が違っている。
ローマ帝国が崩壊した後ゲルマン民族が跋扈した西ヨーロッパには、政治的統一よりも先にキリスト教が浸透していった。

ゲルマン民族は固有の神々をもっており、部族ごとにそれら異教の神々をを祭る寺院をもっていたのだが、彼らがキリスト教に改宗するとそれらの寺院はそのままキリスト教の教会となっていった。

多神教の日本では神々を統合するのに多くの時間を要したが、一神教の場合には宗教の浸透と同時にすべてが同じキリスト教の神となり、神々の統合に苦労することはなかった。

当時西ヨーロッパを支配していたフランク王国は、軍事活動により領域を広げたが、まだ地方支配のための組織は十分でなく、地方がまたすぐにバラバラに分解していく危険をはらんでいた。
そこで考え出されたのが、当時地方の拠点として力を拡大していたキリスト教会をフランク王の統制下に置こうとするものであった。
そして地方のキリスト教会を通して地方政治を行おうとしたのである。

日本でもヨーロッパでも政治的統一をねらうものは、その前に宗教的統一を手に入れようとする。
日本では天皇から派遣された国司が地方の神々の祭祀権を手に入れたが、ヨーロッパではフランクの王が地方のキリスト教会の司教の任命権を握ろうとしたのである。
どちらも宗教的統一を実現することが政治的統一につながることを理解していた点では共通している。

古代の王権と宗教は切っても切れない関係にある。

ところがここに新たな問題が発生する。
多神教の日本ではアマテラスを祭る伊勢神宮が全国の神社を傘下におさめて全国支配をねらうようなことはなかったのだが、
キリスト教は教会という組織をもち、地方の教会はすべてローマ教会のもとに支配されなければならないからである。

この状況はフランク王国が神聖ローマ帝国となってからも変わらず、皇帝とローマ法王が地方のキリスト教会の支配権を巡って相争う事態になった。これが叙任権闘争といわれるものである。
この闘争が神聖ローマ帝国(ドイツ)の全国統一を阻んでいくことになる。

その原因は一神教と多神教の違いにある。
つまり一神教では、ローマ教会という宗教組織そのものが王権と競合するかたちで、王権とは別に政治的統一に乗り出そうとするのである。
そのことは典型的な一神教であるイスラム教が大帝国を作り上げたのを見るとよく分かる。
初期のイスラム帝国には王はいない。その政治指導者はカリフである。そのカリフは本来的には宗教指導者である。
イスラム世界は宗教によって国家が形作られた典型である。
一神教には多かれ少なかれこのような傾向をもつ。

ヨーロッパの歴史からいえることは、宗教的統一に失敗した国は政治的統一にも失敗するということである。
その後のヨーロッパはルターによる宗教改革によってますますこの傾向を強めていった。

政治的統一とは宗教的統一と一体のものである。

日本は多神教であり、地方ごとに崇める神が違うという地方分権的な要素をもちながら、アマテラスを中心とする神々の共存という独自な発想によって政治的統一をなしえたのである。

その中には歴史の知恵が込められている。
そこには戦いの前に、『考え方の違った相手と共存しながら統一する』という日本独自の政治思想がある。
それは日本の伝統的な教育にも一脈通じるものがある。
平成の政治や教育改革にはその知恵が失われている。

南北朝時代の中国

2008-09-20 00:26:57 | 旧世界史1 古代中国

3世紀初頭の漢の滅亡から、6世紀後半の隋の建国までの約400年間、
中国は長い混乱の時代を迎える。いわゆる南北朝時代である。

この時代には、五胡十六国時代が含まれる。それは五胡という5つの異民族が中国に侵入してきた時代である。

その混乱のなかで5世紀に中国の北半分を統一したのが北魏である。北魏は鮮卑族という異民族が建てた国である。
漢民族(中国人)とは言葉も文化も違う鮮卑族という異民族が中国に建国したのであるから、
当然、漢民族は、征服者である鮮卑族の言葉や文化を強制され、漢民族の文化は廃れてしまったと思うかもしれないが、事実は全く逆である。

実は、支配者である鮮卑族のほうが、自分たちの文化や言語を捨て、自らすすんで漢民族の中国文化に同化していったのである。

そういう意味では鮮卑族は政治的には漢民族を征服したのかもしれないが、文化的には漢民族に支配されてしまった。鮮卑族の文化は消え去り、鮮卑族は歴史から姿を消していった。

中国文化というのはそれほど圧倒的な力を持っていた。

日本では古代中国文化よりも古代ローマ文化のほうが人気があるようだが、
周辺諸民族に対する同化力という点では中国文化はローマ文化を圧倒的にしのいでいる。



中国に鮮卑族が北魏を建てたのと同じ5世紀、
ヨーロッパではフランク王国が建国されていた。
ローマ帝国はすでに滅んでいるが、そのローマ帝国滅亡の原因になったのがゲルマン民族の侵入であり、フランク王国とはそのゲルマン民族の建てた国である。

野蛮なフランク王国はローマ帝国の文化を仰ぎ見て、その文化のなかに吸収されていく。
その過程は、ゲルマン人たちが自分たちの崇める古来からの神々を捨て、ローマ帝国が国教としていたキリスト教の信仰を受け入れていく過程である。
496年、フランク王クローヴィスは、異端であるアリウス派のキリスト教を捨てて、正統であるアタナシウス派のキリスト教に改宗する。
つまりローマ人と同じ宗派のキリスト教を信仰しようとしたわけである。
そういう意味ではゲルマン民族はローマ文化のなかに吸収されてしまったかのように見える。



ならばゲルマン文化は消えてしまったのかというと、ドイツを中心としてゲルマン民族としての自覚は今でもヨーロッパ人のあいだに根強く残っている。

ゲルマン民族は、中国の鮮卑族のように歴史のなかに消えてはいかなかった。
彼らゲルマン民族は、ローマ文化を受け入れながらも、完全にはローマ文化に同化してはいかなかった。ゲルマン民族としての自覚を持ち続けた。

クリスマスにしても、今ではキリスト教の祭りの外見をとっているが、本当はゲルマン人が信仰していた異教の神の祭りである。太陽が復活してくるのを祝う冬至の祭りである。
そういうなかでゲルマン人のキリスト教化は、多くの抵抗をともないながら、なかば強制的に行われていった。


中国ではそこに侵入してくる異民族が完全に中国文化に同化されてしまったのに対して、
ヨーロッパではローマ帝国の外側にいたゲルマン人たちは、ローマ文化を吸収しながらも完全にそれに同化はしなかった。
現在のヨーロッパ文化はローマ文化とゲルマン文化との対立の上に成り立っている。

教科書ではよく、ギリシア文化・キリスト教文化・ゲルマン文化の融合によってヨーロッパ文化が成立したと書かれているが、
その中身をよく見てみるとそれは決して融合といえるものではなく、この3者の激しい相克の上にかろうじて成り立っているにすぎない。

その後のヨーロッパの歴史が、いかに激しい戦争の歴史であるかはそのことを如実に表している。ローマ法王と王権も厳しく対立している。

このようなヨーロッパの歴史と比べると、鮮卑族が中国を征服しながらも、なぜ易々と中国文化に同化されてしまったのかが、不思議に思えるほどである。
そこに古代中国帝国と古代ローマ帝国の決定的な違いがあるような気がする。

中国文化のもつこの圧倒的な同化力の正体がなんなのか、
そのことが西洋と東洋の歴史を分ける鍵であると思う。

中国の農民反乱

2008-09-06 17:41:54 | 旧世界史1 古代中国

中国には農民反乱が多い。
しかもそれはたんに鎮圧されるのではなく、王朝を破壊するところにまでいってしまう。

秦を滅ぼした陳勝・呉広の乱(前209~208)、
新を滅ぼした赤眉の乱(18~27)、
後漢を滅ぼした黄巾の乱(184)、
唐を滅ぼした黄巣の乱(875~884)、
元を滅ぼした紅巾の乱(1351~66)、
明を滅ぼした李自成の乱(1631)、
清時代に起こった白蓮教徒の乱(1796~1805)、
同じく太平天国の乱(1851~64)、

これほど農民の反乱の起こった国は他にはない。しかもその農民反乱によって国が滅んでしまう。

これらは歴史上の名称は乱であって革命にはなっていないが、
王朝を破壊する要素をもっているところから見ると革命的要素をもっている。

ヨーロッパ流の歴史観からすれば、社会構造の変革ではないから革命ではないとするのだろうが、王朝を変えるという観点からすれば革命である。

ヨーロッパでは民衆による革命が起こることは広く知られたことであるが、民衆には農民は含まれないのだろうか。
東洋的見地からすれば農民こそ民衆である。
その農民によって王朝が滅びるのであるから、この農民反乱はたんに乱というべきものではなく、明らかに革命といってよいものである。

このように考えると、革命が起こるのはヨーロッパにおいてだけではなく、東洋においてもそうであったということができる。

であるならば、日本ではなぜそれが起こらなかったか。
そう考える方が適当であるような気がする。
それはそれだけ日本の政治が安定していたということである。
ところが日本に革命が起こらないことがなぜか日本の後進性を意味するような受け取られ方がある。
そういうふうに考えては日本の歴史の特質は分からないのではないだろうか。
そう考えると『構造改革』というのは日本の歴史のなかでは例外的な発想だということができる。



(ずっと農民反乱を起こしてきたのはむしろ中国であって、ヨーロッパの革命は近世になって起こったに過ぎない。中国こそ古代から革命が起こっている革命の本場ということができるのではないだろうか。ただしここでいう革命とは社会構造の改革まではおよばない革命であって、天命が革まって王朝の交代がおこるという、いわゆる易姓革命である。易姓革命は革命ではないするヨーロッパ流の考え方よりも、革命の種類として易姓革命と市民革命の2つのパターンがあると考える方が、日本人の感覚に合っているように思われる。)