goo blog サービス終了のお知らせ 

ひょうきちの疑問

新聞・テレビ報道はおかしい

新「授業でいえない日本史」 33話 20C前半 日露戦争~明治の文化

2020-10-24 09:19:37 | 新日本史5 20C前半
【桂園時代1】
では日露戦争に行きます。1800年代が終わって1900年代です。ここで区切りです。同時に前に言ったように、ボス2人、山県有朋伊藤博文が引退した。そこで次の世代にバトンタッチした。ただ彼らは本当に引退したのかというと、最高顧問みたいな形になるんですよ。こういうのは制度上はないけれども、実際はあって、元老と呼ばれます。こういう隠然とした力を持つ。お互いにやっぱりリーダーシップを争うんです。伊藤系と山県系が。

山県有朋は陸軍出身ですから、彼の子分の陸軍大将の桂太郎、これが次の総理大臣になる。やはり長州です。桂太郎は木戸孝允と同じ一族です。木戸孝允は若い頃は桂小五郎といって桂家の出身です。木戸孝允は同じ一族の桂太郎を若い時から支援していました。そういうことを考えると長州閥の本流は伊藤博文からこの山県有朋系に変わっています。


それに対して、伊藤博文は政党政治家に転身したから、その子分は西園寺公望(きんもち)です。この人は、名前からわかるように京都のお公家さんです。政治家として有能でもある。だから長州閥は伊藤系ではなく、山県系に受け継がれていきます。
これから十数年、桂と西園寺が交代交代に内閣を何回もつくっていく。だからこの十数年を桂の桂と西園寺の園をとって、桂園時代といいます。伊藤博文は長州閥に対立する存在となったのです。



【桂太郎内閣①】(1901.6~06.1)
伊藤博文内閣のあとは、それに対立する山県系の桂太郎内閣です。1901.6月からです。山県有朋の子分の桂太郎です。長州の人間です。今の安倍首相も長州です。山口県人です。長州閥というのは戦後も続いています。日本の総理大臣の出身県でだんとつ多いのは長州です。



【日英同盟】 内閣成立から3ヶ月後の1901.9月に、北清事変後の北京議定書を結びますが、ロシアは満州を占領し続けた、ということはすでに言いました。その2ヶ月後の1901.11月に、イギリスの外相から、日本に対して日英同盟を締結したいとの申し出があります。この時のイギリスは世界のナンバーワン国家で、どこの国とも同盟を結ばず、それを「光栄ある孤立」として誇っていました。そんなナンバーワン国家がなぜ後進国の日本と自分から進んで同盟を結ぼうとするのか。それにはちゃんと理由があるということもすでに言いました。
なぜちょんまげ国家だった日本が、あの大英帝国のイギリスと対等同盟を結べるのか。本当は結べないんです。イギリスは日本にやらせたいわけです。

それ以前の中国情勢は、中国で義和団事件が起こって、北清事変になった。そこに列強が軍隊を中国に派遣する。そして義和団を鎮圧する。では国に戻りましょうといいながら、ロシアはそのまま満州の占領を続ける。日本は、朝鮮からもっと北に行きたかったけど、そこを先にロシアが取る。その前には、日清戦争後の三国干渉で、日本に遼東半島を返せといったあと、そこをロシアが取っている。

ではどうするか。伊藤博文はロシアには勝てないと思う。ここは涙をのんで手を組むしかない。これが日露協商論です。これが伊藤博文です。ここで伊藤博文は、イギリスの意向と逆の方向に動いたことになります。
このころイギリスで賭けが流行ったといいます。日露戦争でロシアが勝つか、日本が勝つか。掛け率は10対1で、圧倒的にロシアの勝ちです。ほとんどの人は日本が勝てるとは思っていない。私はこれが世界の常識だと思います。伊藤博文のこの判断は、世界の常識をふまえた非常に適切なものだったと思います。


しかし日露戦争の勝利のあと、これはあとでも言いますが、1905年に伊藤博文は韓国統監府の初代長官となり朝鮮の経営にあたりますが、日英同盟に反対していた元老の伊藤博文が日本の最前線である朝鮮経営の現地責任者になるというのも意外なことです。さらにそのあとの1909年に満州のハルビン駅で暗殺されたことも含めると、何か不自然なものを感じます。

伊藤の日露協商論に対して、軍部はそうじゃない、戦うべきだという。そのためにはイギリスを味方につけることが必要だという。日英同盟というのはロシアと戦うための条件です。これが山県有朋とその子分の桂太郎です。その桂太郎がこの時の総理大臣です。

ずっと日本の頭にあるのは朝鮮です。日清戦争もそうでした。今から起こる日露戦争も朝鮮です。朝鮮の奪い合いです。なぜ朝鮮にこだわるかというのは、以前黒板に絵を描きました。剣先が喉元に突き刺さっているような。ミサイルがないときにはそうなんです。
さらにその北方は今は中国の東北地方というけれども、この当時は満州という。

結局、山県有朋系の桂太郎総理大臣が勝って、日本は1902年日英同盟を結ぶ。この意味は限りなく日露戦争に近づいたということです。
イギリスにとっては、どういうことか。ここにトリックがあるんです。日本が一国と交戦した場合には、当然イギリスは日本に味方すると思うでしょう。味方しないんですよ。中立を守るとだけ書いてある。では何のための同盟かというと、ロシアにどこかが味方した場合、つまりロシアに味方する国がでてきた場合にだけ、イギリスは日本に味方するというものです。
しかし世界のナンバーワン国家のイギリスを敵に回して、ロシアに味方する国があるかと考えたときに、まずこれはないです。ナンバーワン国家はイギリスです。イギリスを敵に回して戦おうという国はこの時代にありません。
ロシアと日本が戦っている間は、イギリスは中立を守る。つまり日本とロシアをサシで戦わせるわけです。だからイギリスは無傷なんですよ。日本は負けるだろう、仮にロシアが負ければ、めっけものです。ロシアが体力を消耗したところで叩けばよい。日本は負けたらどうなるか。イギリスのリスクよりも、日本のリスクが大きい。日本にとってはとても危険な賭です。このことに伊藤博文は反対していくわけです。ずっとイギリスとの協調を続けてきた伊藤にはそのことがよく分かったのでしょう。


【日露戦争】 1904.2月日露戦争が起こる。さっきもいったように原因は、ロシアと日本は、満州をめぐって対立している。日本もロシアも、どっちも満州が欲しい。日本は単独では勝てないから、イギリスの政治的な応援が欲しい。でもイギリスは戦わない。しかしロシア側に応援する国はこれでまずなくなった。


【アメリカの資金援助】 では勝てるのか。イヤお金が足りない。そこで出てくるのが、ニューヨークのウォール街の金融家が出てくる。政治的にはイギリスが応援し、資金面ではアメリカが応援する。でもこれは借金です。お金を貸すよ、お金をやるよじゃない。そうアメリカが言う。日本はアメリカからお金を借りて、日露戦争を戦います。日本にお金を貸したのは、ジェイコブ・シフというアメリカの銀行家です。政府の人間ではないです。後ろにイギリスを中心に活動するヨーロッパの最大の銀行家ロスチャイルド家とのつながりをもつ人です。

このきっかけは、戦争資金の借り入れを求めてロンドンに来ていた横浜正金銀行副頭取の高橋是清が・・・・・・この人はのち総理大臣や大蔵大臣になる人ですが・・・・・・たまたまアメリカからそこに来ていたジェイコブ・シフとパーティーの席で出会い、資金の借り入れの話をまとめたという話になっています。まるで映画にでも出てくるような話です。
そのアメリカのジェイコブ・シフを通じて、イギリスのロスチャイルド家のお金が日本に流れ込んでいるわけです。日本銀行をつくった松方正義も、このロスチャイルド家とのつながりを持っていました。

(日露戦争の構図)




【英仏協商】 ではそれまでロシア側にはどこが応援していたかというと、ドイツとフランスです。日本への三国干渉はこの3ヶ国で行われました。
日露戦争が始まる1904年に、何ができたか。英仏協商ができた。それまでロシア寄りだったフランスが、イギリスと組んだのです。1898年、アフリカで植民地競争を繰り広げていたイギリス軍とフランス軍がアフリカのファショダで衝突しそうになったファショダ事件が起こります。これを回避することにより、それまで対立していた両軍が急速に接近します。その結果むすばれたのが1904年の英仏協商です。

政治力はイギリスが上です。イギリスはフランスという敵を味方につけた。取り残されたのは、ロシアとドイツです。これはもう半分は第一次大戦の説明になります。世界史でやりましたけど、第一次世界大戦のメインは、どことどこの対立であったか。イギリスとドイツの対立でした。
日本はこのことに重要な役割をしています。世界史的にみると、日露戦争というのは、日本が勝っただけの戦争じゃない。ロシアを押さえ、そのロシアをイギリス側につけます。これでイギリス・フランス・ロシアの三国協商ができます。そういう意味で第一次世界大戦につながっていきます。


【非戦論】 日本にも伊藤博文と同じように、これは危ないぞ、と思う人はいる。なぜこんな日英同盟を結んで、危険を犯して戦わないといけないのか。これが非戦論です。
その急先鋒が幸徳秋水です。さっき殺された人です。生き返ったわけでないです。あれは1910年だった。ここで政府ににらまれたんです。もともと新聞社の社員だったんですけれども、社長が日露戦争を批判しないことを決定すると、その新聞社を退社して、自分で別の新聞社、平民社というのを結成して言論活動をやっていきます。
もう一人は、国語でも出てくる与謝野晶子という人です。この人も反戦歌をつくる。弟が兵隊にとられて、「君死にたまうことなかれ」という歌を作って非常に有名になります。数年前に亡くなった与謝野馨財務大臣は、その孫です。彼は変な死に方をしましたけど。


【203高地】 実際の戦い、陸軍と海軍に分かれます。陸軍はこの時の首相である桂太郎をはじめ、幹部はほとんど長州閥です。それに対して海軍は、このあとで首相になる山本権兵衛を筆頭にほとんどが薩摩閥で占められています。長州の陸軍、薩摩の海軍という構図は、このあとの政治にも微妙な影を落とします。この時もすでに仲はあまりよくありません。

陸軍は攻防戦は局地戦です。日清戦争でせっかく日本が取ったのに、ロシアに奪われたところがあった。旅順です。遼東半島の先端です。そこによい軍港がある。その軍港を奪いとろうと、裏山の高地、これを戦略上、203高地と名づけて奪い取ろうとします。むかし映画にもなりましたけど、私が若い頃だったから君たちは知らないかもしれない。203高地の戦いです。
ここで、ロシア軍は203高地の上から、ドカンと大砲を撃つんです。日本は何も持たないから、歩兵を何万人も突撃させるしかない。突撃、突撃、何度も突撃作戦をやる。日本軍は死屍累々です。何回も突撃作戦をやって、もうこれが限界だというところで、やっと203高地を取った。どっちが勝ったか、わからないような状態です。この総大将が乃木希典です。ただその代わり自分の3人の息子全部をこの戦いで失います。こうやって日本もヘトヘトなんです。


【日本海海戦】 海軍は、ロシアのバルチック艦隊がロシアから出発する。大西洋からインド洋を通って、日本のどこに来るか。ペリーは浦賀に来た。レーダーも何もないから、どこに向かっているかまったく分からないです。東郷平八郎は対馬海峡に来ると読んで、ずっと待ち伏せする。来そうですか。日本海側にウラジオストクというロシアの軍港があるから、まずそこに立ち寄ろうとするはずだとの読みです。本当はそれが当たるかどうか恐かったと思う。それがまんまと来る、来なかったら、どうなっていたか。ここで待っていたら、日本はガラ空きです。

相手の動きを盗むのはイギリスも得意です。実はこのとき日本海軍の動きを指揮していたのはイギリス海軍だという話もあります。イギリスは海軍の国です。イギリス海軍の将校が日本海軍に出入りし、実質的に日本海軍を指揮していたとも言われます。日本海海戦当日も、イギリスの海軍将校が観戦武官として日本の軍艦に乗り込んでいます。この戦いで日本の連合艦隊がとった「T字戦法」は日本独自の作戦のように言われますが、実はイギリス海軍にもとから取っていた戦法です。日本海軍はそれをイギリス海軍から教わったのです。それにこの日本海の海戦で活躍した日本の主力艦はすべてイギリス製軍艦です。


1880年代には、日本は裁判所の裁判官に外国人を任用しようとしたことがありました。これは日本の司法権を外国に譲り渡すことだとして強い反対運動が起こり、阻止されました。しかしこれと同じようなことは起こりえます。日本の軍事権の中に、イギリス軍部が入り込んでいたことは十分に考えられることです。しかも軍事機密は特に厳重に守られますから、そのことはなかなか分かりません。

結果は日本の勝利です。これが非ヨーロッパ諸国が、ヨーロッパの国に勝った世界史上初の出来事です。まず喜んだのはトルコです。トルコはそれまでロシアに痛めつけられているから。トルコには今でもトーゴー通りがある。そしてフィンランドにはトーゴービールが今でもある。これは東郷平八郎にあやかったものです。
ただロシア本土を叩いたわけでもなくて、ロシアは別にまだ戦力に余裕があります。逆に日本に余裕がない。お金も弾薬も。なぜこれで勝てたのか。


【ロシアの内乱】 ロシアは足元から崩れていく。1905年に、血の日曜日事件ともいわれる第一次ロシア革命が起こります。民衆が暴動を起こしていくんです。ロシアは内部から崩壊していく。それでロシアの戦争継続が困難になる。
だからロシアは日本に負けたと思ってない。日本は勝ったと思っている。この交渉はまとまらないです。戦局では、日本が勝ってしまった。


 世界は、日露戦争はロシア帝国から迫害されていたユダヤ人たちが、ロシア皇帝を倒して共産主義革命を起こすための戦いの一環だったと考えている。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 P71)




【ポーツマス条約】 日本の手柄にする前に、早く終わらせたい。これがアメリカです。それでアメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトが日本とロシアを仲介して講和条約を結ばせる。これがポーツマス条約です。アメリカも自分の利益を考えています。

それで講和条約の場所が、アメリカのポーツマスという軍港です。それをアメリカの大統領が、私に任せなさい、という。これは日本に、これ以上勝たせたくない、というのがホンネです。この後からアメリカと日本は対立する。君たちが小学生だったら、これ以上話すつもりがないのは、味方だったら対立するわけがないと、小学生は思ってますが、それでは説明できないことです。
仲介したのは、これ以上日本で勝たせたくないからです。アメリカ大統領は。はやく仲裁して、終わらせないといけない。そのアメリカ大統領はセオドア・ルーズベルトです。第二次世界大戦のルーズベルトじゃない。そのおじさんです。ルーズヴェルト一族です。
ここに出向いていく日本全権が外務大臣の小村寿太郎です。ロシア側はウイッテです。名があるけど、通常ウイッテといいますね。日本には戦争継続の余力はなかった。ロシアは負けたとは思っていない。この小村寿太郎はかわいそうです。日本では勝った勝ったと宣伝している。でも相手は負けたと思っていない。よくて引き分けなんです。しかしそれでは帰れないんですね。
これを話をどうつけるか、交渉が失敗したら、また戦争になる。それで日本は戦えるか。戦えない。こういう交渉はしたくない。日本に不利です。

韓国に対する指導権をまずもらった。
次に、ロシアから領土を割譲した。全部じゃないけれども、樺太の南半分です。北緯50度以南の樺太です。今のサハリンです。今はロシア人が住んでいます。
そして次には日清戦争で分捕られた旅順・大連を取り戻した。これ考えてみれば当たり前よね。もともと日本が日清戦争でとったものだから。
それで4番目が一番かな。日本は、朝鮮を取って、北の満州に行きたいんです。満州に行くのは列車なんです。飛行機はないから、その鉄道を作る権利を獲得します。この会社が南満州鉄道、略して満鉄といいます。戦前で、満鉄というと日本最大の大企業です。のち原爆が落ちて日本が負けて、消滅したけど。
これに比べたら、賠償金とか、あまり関係ないと思うけど、素人受けするのはやっぱりお金なんです。これがなかった。なにやっているんだ、賠償金もとってないのか、と。この人は帰れない。帰ってきたら石投げられる。私はよく頑張ったと思うんです。よくここまでもってきたと思いますけど、素人目には、賠償金も取らずに何しているんだ、うちの親父は戦争で死んで、兄ちゃんは片足失って、何のために戦ったのかと、石投げられる。


【国際社会への影響】 その前に、日露戦争がヨーロッパ諸国に与えた影響です。白人社会では、あのちょんまげ国家が白人国家に勝ったなんて考えられない。そういう衝撃が走る。
さらにアジアの地域は、白人には勝てないと思っていたけれども、勝った国があるんだ、俺たちにもできるかも、と思います。ここから独立運動がおこる。この時はアジアのほとんどはヨーロッパの植民地になっています。


【黄禍論】 ヨーロッパでは、黄色い人間が白人社会に悪さをするという黄禍論(こうかろん)が巻き起こります。黄色は日本です。禍は災いです。イエローペリルという。ここから日本人排斥というのも起こってくる。この時代にから。
そのメインがアメリカです。移民の国のアメリカで、なぜか日本人だけは来るな、と言われる。こうやって日本とアメリカの対立が表面化していく。この話は第二次世界大戦に結びついていきます。その芽はここらへんから出てきます。
アメリカは、日露戦争までは、敵はロシアだと思っていたけれど、日本が勝ってしまった。すると今度は日本を警戒しだす。このあとずっと警戒し続けます。ここからそれが始まります。
日露戦争の世界史的意味は、白くない人間が、初めて白い人たちに勝った。白くない人たちは、それまで植民地にされていたけど、おれたちもやれば独立できるんじゃないか、と思いはじめたということです。


【日比谷焼打事件】 ただし、小村寿太郎は賠償金が取れなかったから、帰ってくるなり石投げられて、これが暴動になっていく。これを日比谷焼き討ち事件という。日比谷は東京の地名です。東京駅の目の前に日比谷公園という大きい公園がある。都会の一等地、皇居のすぐ横にある。そこでの交番が焼き打ちされたりして、民衆が暴動化していく。日本には昔、戒厳令というのがある。家から出るな、という。家から出たら、しょっぴかれるから出られなくなる。こうやって暴動を抑える。

こういうときに本当のことをマスコミが語らない癖がつきはじめるんです。日本は、勝ちましたけど、大勝ちしているんじゃないんだぞ、ということを言わないです。勝った、勝ったと、ちょうちん行列しているんです。各地でバンザイ、バンザイで、ちょうちん行列している。そんな中で、何も本当のことを報道しない。これの繰り返しが、第二次世界大戦の日本のマスコミの姿勢に通じます。ということは、今のマスコミと違う、ではないですよ。
この暴動によって、総理大臣の桂太郎は、政権担当能力を失って総辞職した。責任をとって。戦争に勝ってやめたんです。
ここでもう一つの意味は、庶民の不満によって内閣をつぶすことができた、という意味がある。戦争の戦後処理で、国民の暴動によって内閣が潰れた、ということです。べつに暴動を起こしなさいとか、そういう意味じゃないけど。民衆の力が盛り上がっていくんです。




【第二次産業革命】
今度は社会です。産業面です。第二次産業革命というのが日露戦争後に起こる。日清戦争のころの第一次産業革命は軽工業でした。第二次産業革命は重工業に移ります。
鉄ができてくる。1901年、北九州に八幡製鉄所ができる。鉄にのりだす。鉄ができればビルができる。軍艦ができる。大砲ができる。このころ飛び始めた飛行機ができる。戦争に強くなる。綿は戦争に強くならない。この八幡製鉄所は官営です。国家が半分、お金を投入する。この南は福岡県の筑豊です。そこに炭鉱がある。石炭がでる。だから北九州の八幡にできる。いまの新日鉄です。最近合併して、住友金属と合体して新日鉄住金という。

それから、船もつくるようになって、海運業が新興して、こういう造船奨励法とか航海奨励法を出して、貿易にも乗り出していくことです。

それから金融面では1897年に、金本位制を確立する。松方正義の第2次内閣の時です。これがヨーロッパ流です。本物のお金は金です。日本それまでは銀しかもたなかった。2回戦争に勝って、日清戦争では賠償金もとって、それを基にしてどうにか確立できた。ただ日本に財政的余裕があるわけではなく、このあと日本は増税しなければならなくなり苦しむことになります。この制度はヨーロッパにならったものです。

松方正義は、日本銀行もつくったし、金本位制度も作った。ヨーロッパ流の金融制度を、そのまま日本に導入した。これができるとヨーロッパと貿易しやすくなるし、ヨーロッパと資本的にも結びつきやすくなる。このヨーロッパと共通する金本位制度の上に立って、日露戦争ではアメリカやイギリスの資金が日本に流入してきたわけです。そこにはヨーロッパ最大の金融家であるロスチャイルド家の存在が見え隠れします。松方正義は政治的には目立たない首相ですが、よく分からないところで日本のお金の流れをつくっています。


【財閥形成】 その一方で、お金はお金のあるところに集まる。会社はお金のあるところに集まって、だんだん会社は大きくなっていく。財閥が形成されていくのもこの明治時代です。
財閥の実体は持ち株会社です。日本でも10数年前に復活しました。会社が会社の株をもっていい。そういう会社グループを管理する会社を持ち株会社といいます。英語で書くと、HDという。ハードディスクじゃない。ホールディングスという。これが持ち株会社なんです。戦前はこれが認められていて、これによって財閥が形成された。
三大財閥は、三井・三菱・住友です。これは今でもあるグループ企業です。では四大財閥は何か、安田です。明治末頃に形成されます。


【市場の狭さ】 では明治の産業の特徴ですけど。財閥は大きくなって、物はつくれても、買う人間がいない。国民が貧しい。農村では、貧しい土地を持たない人たちが増えていく。田舎では生活できなくなる。
だから当てもなく都会に出て行くという流れができます。起業家にとっては、シメシメです。彼らは低賃金で働いてくれる。長時間労働もしてくれる。1日8時間労働とか、最低賃金法とかない時代です。

地方では寄生地主制というのが発展している。都会の大金持ちが地方の土地を買い占めていたりする。ということは、つくる力があっても、買う人がいないということです。
買う人がいないということは、国内市場が狭いということです。買ってくれないんですよ。ではどこに売るか。海外市場に売ろうとなる。しかしまだヨーロッパには勝てない。ではどこに売りたいか。それが、満州、それから朝鮮です。ヨーロッパにならって、ということです。イギリスもこうやって植民地獲得をやっていった。

このあと日本は朝鮮を植民地化しますが、このことは今でも韓国との賠償問題で取り上げられます。長崎に原爆が落ちた。あれは誰が賠償しなければならなくなったか。誰が落としたのか。アメリカが落としたんでしょ。韓国が、被爆して賠償金を請求した先は、日本政府に請求した。日本に賠償金を払えと言ったんです。日本は原爆を落とした国なんですか。落とされた国なんですよ。原爆は落とされた国が悪いんですか。外務大臣が珍しくエキサイトしてしました。これ以上言うと、アメリカが腹を立てるから言えない。のど元まで出ていた感じですけど。そういう政治問題まで、今でも繋がってるということです。




【明治の文化】
【思想】
 ちょっと政治を外れて、産業をいっていましたが、今回は文化にいきます。
1番目、明治の中期、1890年ごろ、日清戦争ごろになると、どういう思想の流れが出てくるか。

国粋主義という考え方です。今も国粋主義という言葉はあるけれども、それとちょっと違って、明治の初めというのは、とにかくヨーロッパ文化を取り入れようとする。日本文化は古いんだ、今からは日本でなくヨーロッパ一辺倒、学問のススメとか、そういうものが出てきた。
しかし、明治から20~30年経つと、いや日本はそんなにバカだったのか、それはちがうんじゃないの、という考えも出てくる。そういう意味で日本思想の復活です。最近あまり言わないけれども、我々が小さい頃は、知識はヨーロッパ流でも、心は日本流でいくという「和魂洋才」という言い方もよくありました。三宅雪嶺という人です。雑誌は日本人という。こういう雑誌も出てくる。

それからもう一つが平民主義です。これも雑誌の名前でいうと、ヨーロッパだ、ヨーロッパだ、ではなくて国民です。国民というのは日本人ことです。日本人はバカじゃなかったんじゃないの、バカじゃないんですよ。実はそれは、ヨーロッパ人が先に言った。日本人はバカじゃない、と。日本の文化は優れている、と。
ヨーロッパ人はいろいろな日本の文化をもちかえっている。日本人は明治のはじめは、こんなもんガラクタだと思っていた。しかしヨーロッパ人には、これは価値がある、と分かる。だから日本の文化財はもちろん日本にもあるけれど、大英博物館とか、ルーブル美術館とかにもいっぱいある。


【教育】 次は教育です。今は教育基本法というのがありますが、この時代には、そういう法律はないんです。ただそれに代わるものとして、教育に関する基本的な考え方として、1890年に発布された教育勅語があります。よくでてくる勅の字です。これは何を意味したか。天皇ですよね。ということは、天皇のお言葉として出されたものです。そこで重視されたのは、戦後教育が個人や個性というものであるとすると、まず「忠」「孝」です。孝というのは親孝行の孝です。家族関係を基本にして、それを広げて国家に対する「忠」を重んじ国家社会を築いていこうという考え方です。
教育勅語の冒頭は、「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ」とある。うちの親父の小学校の時の記念写真が残っていて、80年ぐらい前のクラス写真ですが、そこに何が写っているか。これなに、と聞くと、うしろに小さな社のようなものがある。奉安殿だ、という。この中に教育勅語が収められている。全校集会のときには、校長先生が、毎回まず教育勅語を読む。バシッとスーツで決めて。これをおろそかに読むと、校長のクビが飛んだという話もある。非常に強い教育の基本性があったということです。

この授業が日本史だから言うけれども、本当は自分の国の歴史を日本史という名前でやってる国は珍しいです。自分の国の言葉を学ぶ教科を日本語とは言わないでしょう。国語というでしょう。それと同じで日本の歴史を学ぶ教科は国史といったんです。どこの国の歴史とか言わない。日本人が国史といったら、日本史に決まっている。日本人が国語といったら日本語に決まっているのといっしょです。
それが原爆が落ちて戦争に負けたでしょ。それから6年間はアメリカの占領下にあって、国史という言い方はよくない、日本史にしなさい、ということになった。だから今の名前になったのが日本史という科目です。


【文学】 文学では、まず小説です。それまでは小説というと戯作文学といって、まともな人間がやる職業じゃない、と思われていた。それをちゃんとした文学にしていく。
その第一歩が坪内逍遥が1885年に刊行した「小説神髄」です。これは小説の書き方です。近代小説の書き方です。そういうのを読んで、そういうものなのか、とこのあと小説家や文学者が出てくる。
それまで日本語は、話し言葉と書き言葉は別だったんです。江戸時代までは、文で書くときには文語体、いわゆる候文です。これを小説で撤廃した。口語と文語、これを一致させた。ふつうの話し言葉で小説を書く。二葉亭四迷という。落語家みたいですけれど、落語家ではないです。二葉亭四迷は武士の出です。父上、私は小説家になりたい。小説家なんて戯作者じゃないか、そんなものは認めん、それでも言うこときかんなら、おまえなんか、「くたばってしめえ」、と言った。なんか反応悪いね。「ふたばってしめえ」です。「ふたばていしめい」、だから二葉亭四迷です。まあそういう自虐ネタですね。自分のペンネームを、くたばってしめえ、をもじって二葉亭四迷とした。

それから与謝野晶子、これ一度出てきた。日露戦争に反対した歌人ですね。みだれ髪という非常に艶っぽい、今読んでもゾクゾクくるような歌を詠んでいます。歌は575ですか、57577ですか。77の方です。

明治の末から、今でも読まれてるのは、夏目漱石です。代表作は「坊っちゃん」というのが一番人気です。この人は、イギリスに留学してけど、こんな国のどこがいいのかと、まったくイギリスになじめなかった。こんな国の何がいいんやろか、日本のエリートの中でそういう疑問をもった初めての人です。ヨーロッパの個人主義をまねて、ホントにそんなことでいいのか、と疑問をもった人です。


【音楽】 次は芸能です。音楽も日本音階でなく、ドレミの西洋音階を取り入れて歌を作る。
学校は東京音楽学校です。いまの東京芸大という大学になっている。滝廉太郎は、代表作は「荒城の月」です。荒城というのは、ふるさとの荒れ果てたお城のことです。明治維新後、多くのお城が荒れ果てている。この近くの城も東堀は埋め立てられて今はありません。これを復興しようと、今の知事さんが言っていますが。荒れ果てたふるさとの城、大分県の竹田の岡城を思い浮かべながら作った曲です。


【美術】 それから美術です。美術は明治の初めはヨーロッパ絵画一色で、日本画なんかっていうのはもうゴミだ、がらくただ、と思われていた。しかし、イヤーこれは素晴らしい、といったのが、アメリカ人のフェノロサです。外国人が日本人の良さに気づく、当の日本人は、ヨーロッパ、ヨーロッパだ、日本なんかもう古い、と思っていた。そうじゃないと、外国人から気づかされる。オレもそうだと思う、といって彼についていったのが岡倉天心です。この人がフェノロサの指導を受けながら、日本の美術のよさを再発見して、そのための学校をつくっていく。これが東京美術学校です。これも今の東京芸大です。さっきの東京音楽学校、東京美術学校、ともに今の東京芸大となる。

その一方で西洋画も、だいぶ発展していって、「湖畔」、湖にたたずむ美女を描く。黒田清輝という人です。この美女が実は自分の奥さんだったというオチがつく。こういう自分の奥さんをモデルにするという感覚、日本人にはあまりないですけど、確かにきれいな絵です。
その他として福岡県の久留米出身の青木繁の「海の幸」です。

医学の分野とか、物理学の分野では、世界の最高水準に、はやくも50年間で達する。例えば野口英世の黄熱病という風土病の研究とか、でもノーベル賞取ってない。有色人種だからです。水準に関係なく、有色人種は対象外なんです。しかしレベル的にはそうだったということです。

これで終わります。

新「授業でいえない日本史」 34話 20C前半 日露戦争後の外交~大正政変

2020-10-24 09:18:36 | 新日本史5 20C前半
【日露戦争後の外交】
日露戦争後の外交にいきます。桂太郎内閣まで行って日露戦争、そこでロシアに勝った。
日露戦争のねらいはどこか。日清戦争もですけど、朝鮮をめぐってなんです。日本が北から攻められる。これ何回も言うけれども、ミサイルがない時代です。

日本を攻める場合、一番攻めやすいのはこの朝鮮半島からです。だからここは日本の生命線で、もう一つ安全策をとろうとすると、やっぱりここまで必要だというのが満州です。「満州は日本の生命線」とよく言われるようになります。


【韓国】 まず韓国です。日本は、日露戦争中の1904年から第1次日韓協約を結び、朝鮮に対して日本の軍事顧問、外交顧問、財政顧問を派遣する。
その翌年1905年には、第2次日韓協約を結びます。日露戦争で勝って、日本はまず韓国の外交権を掌握する。内政面では、朝鮮の統治のために日本の役所を朝鮮に置く。これを韓国統監府といいます。その初代長官に着いたのが伊藤博文です。このとき伊藤はすでに60才を超え、政治の第一線から退いて元老といわれる立場にあります。いわば隠居に近い立場にあります。こういう人が外地の第一戦に出て行くということは、かなり異例な人事です。
これに対して、朝鮮側が反発した事件が起こります。オランダのハーグで開かれた国際会議に、オレたちの国に日本はこう乗り込んで来ているというのを、訴えに行ったハーグ密使事件が起こり、これで日韓関係また悪くなる。
その2年後の1907年には、第3次日韓協約が結ばれて、正式に朝鮮の内政権つまり行政権まで、日本は手に入れます。

この頃から日本に対する反対運動も朝鮮国内で起こります。荒っぽい人たちが武装化して、日本に対して闘争を行う。これを義兵闘争という。
1909年に韓国統監府の初代長官伊藤博文が、ハルピン駅に降り立ったところを朝鮮人によって暗殺されます。伊藤博文暗殺です。こうやって伊藤は最後は暗殺されます。その犯人が安重根です。安重根は逮捕されて死刑になりますが、伊藤暗殺の理由として述べた裁判での法廷証言で、ここでは言いませんが、不思議なことを言っています。

朝鮮では、安重根は今では歴史上の英雄です。伊藤博文は極悪人です。日本では、伊藤博文は、4回も総理大臣になった明治の元勲です。彼を殺した安重根は殺人犯です。教えられることが逆なんですよ。この伊藤暗殺をきっかけにして、朝鮮を併合しないと、ちゃんとした朝鮮の統治はできなくなる、という意見が高まってくる。

翌年1910年日韓併合条約が結ばれる。これは日本が勝手にやったんじゃなくて、それを中国、ヨーロッパ、アメリカなどの国際社会が承認します。これで国際社会に認められている。植民地なんか認めない、そんなこと言うとヨーロッパ自体がアジアやアフリカなどにいっぱい植民地を持っているから、これをダメとは言えないわけです。
朝鮮国内の統治機関も名前を変えて、1910年に朝鮮総督府とする。長官には、寺内正毅という陸軍大将がなります。この人は国内に戻って、このあと内閣総理大臣になります。朝鮮・満州は、日本の重要地点と位置づけられます。


【満州】 さらに、朝鮮だけだと軍事面で不安が残る。その北方の満州も支配下に置きたい。そこで1906年に、満州に関東都督府を置きます。この関東は、日本の関東じゃない。満州の関東です。たまたま満州に関東地域というのがあった。
これが1906年で、約10年後に、この関東都督府は行政部門と軍事部門に分かれます。行政部門は関東庁になり、軍事部門は関東軍になる。ここは日本のエリート軍人の集まりになります。先のことを言うと、日本が中国それからアメリカと戦争に突っ走っていくのは、このエリート軍人の関東軍です。内閣の意向など聞かない。しかも統帥権の独立があるから。内閣から命令されたら、こら誰に向かって言っているのか、という。

経済面では、日本の東海道本線より長いような鉄道をつくる。これが南満州鉄道という大鉄道です。それを運営する南満州鉄道株式会社を設立する。資本の半分は日本政府の出資です。こういうのを半官半民という。しかも単なる鉄道会社じゃなくて、製鉄会社とか、いろんな会社を併合した大財閥です。一大コンツェルンです。日本の産業界のトップ企業にまで成長していく。満鉄本社は大連につくられます。日本は、旅順・大連をまず取ったんです。


【アメリカ】 日本がこうやって、急速に朝鮮・満州に勢力を及ぼしていく一方で、これに不満をもったのがアメリカです。
まずアメリカは、イギリスと同じで、日本が勝つなんて思ってなかった。日本が勝ってしまった。これがまず番狂わせです。予定としては日本が負けて、ロシアが勝つ。しかし、日本もそこそこ戦おうから、ロシアが弱るだろう。弱ったところでイギリスがロシアを叩けばロシアは負ける。日本の勝利で、その予定がくずれた。
日本が勝ったら、はやくストップさせて早く戦争をやめさせないといけない、となる。それがポーツマス条約です。
日本がこうやって朝鮮・満州に進出していくと、アメリカはこの満州問題で日本と対立する。そこから日米関係が悪化していきます。

前にも言ったから、サラッと行くけど、実はアメリカも中国に進出したいのです。とくに満州に。太平洋を西へ西へと進み、ハワイに進出してここを植民地にする。ハワイにはカメハメハ王朝という王国がありました。このカメハメハ王朝は、日本の天皇陛下に会いに来て、どうにか救ってもらえないかと頼みに来ます。天皇陛下は、ごめんなさい、助けたいけれども、日本にはその力がない、というんです。だから無念ですが、ハワイはアメリカの領土になります。
次がグァム、今の沖縄米軍基地の東の島です。そこにも米軍基地があります。
そしてフィリピンを領有する。このフィリピン総督がマッカーサー一族です。戦後日本を180度作りかえていく総督です。この時は父親です。40年後に日本に乗り込んできたのは息子です。ダグラス・マッカーサーです。もともとフィリピン総督なんです。
1899年には、門戸開放宣言を出しています。みんなで分けあいましょう、と。本当はアメリカが取りたいわけです。こういう中で、日米対立が深まっていく。
このことが日本でピカドンと原爆が落ちることの説明の半分と思っていいです。満州問題で日米対立が起こります。

1905年に、移民の国アメリカで唯一、お前たちは移民とは認めない、と指定されたのが日本人です。日本人移民排斥問題です。アメリカは、お父さんお母さんが子供産んで人口を増やした国じゃない。ヨーロッパからの移民、東南アジアからの移民、中国からの移民ですよ。アメリカのサンフランシスコにはチャイナタウンもある。なぜか日本人だけは移民はダメ、来るな、となる。それは日本の満州政策への反発からです。

それをどうにか取り持とうと、アメリカさん、日本さん、手を組みましょう、という一時的な解決が、桂太郎首相とアメリカの国務長官タフトという人のあいだで、協定が結ばれた。アメリカは日本の韓国領有を認める。その代わり、日本はアメリカのフィリピンは認める。これでお相子じゃないの、ということで一旦手を握る。
しかしこれに反発したのが、アメリカの大鉄道王ハリマンです。ハリマンは、満州に鉄道を敷きたくてたまらないんです。ここは儲かると。それを日本が先に手を打って南満州鉄道を通した。ここでハリマンが腹を立てる。ハリマンの計画ができなくなったから。

その後のアメリカの国防総省は、オレンジ計画という・・・・・・オレンジジュースみたいですが・・・・・・実は日本侵略計画を立てる。太平洋戦争の40年も前の段階でです。アメリカには、こういう計画がすでにできあがっていた、ということが戦後に分かります。

さらにこの1924年には、アメリカで日本人を排斥する法律がつくられる。排日移民法の成立です。これはアメリカの法律です。排日移民法というのは。日本人のアメリカへの移民はダメということです。アメリカは移民の国だから、どこからの移民もオーケーのはずなのに。


【ロシア】 ではロシアです。ロシアとは決着ついた。日露戦争に負けて、ロシアは満州から撤退した。撤退してもう敵意がない国とは手を組んだほうが早い。日本は早々と手を組みます。日露協約を結ぶ。ポーツマス条約の2年後、1907年です。これで日露関係は改善されます。だから10年もたたずに、コロコロ国際情勢が変わる。変わって、そういう変化に頭のなかがついていかないと、外国に取り残されていく。

あとは、宿敵だったイギリスとロシアが、日露戦争でロシアが負けることによって、手を組む。この対立はグレートゲームといわれてきた。1800年代の後半、イギリスとロシアというのはずっと対立していた。これが日露戦争をきっかけに協商を組んだ。1907年英露協商の成立です。

前に半分いったけど、これが世界を揺るがす第一次世界大戦のほぼ半分の説明です。
あと、ここにフランスが加わりさえすればいいですが、すでにフランスは加わっている。ロシアとフランスの間には、すでに1891年に露仏同盟があります。1891年の露仏同盟、1904年の英仏協商、1907年の英露協商、この3つの条約によってイギリスを中心とする三国協商が成立します。


(三国協商)


ドイツだけが取り残される。第一次大戦というのは、イギリス対ドイツの対立です。イギリスの三国協商とドイツの三国同盟の戦いです。日本はこの時、日英同盟でイギリス側、勝つ側に回ります。


しかし20年後の1920年代には、ドイツと同じように外されていく、ことになります。


【中国】 そういった時に、お隣の中国、眠れる獅子といわれた清朝が、1911年に滅んだ。これが辛亥の年だったから、辛亥革命(しんがいかくめい)という。指導した人は孫文です。本業は医者なんですけど、嫁さんが宋慶麗という大財閥のお嬢様です。だから資金源はたっぷりです。浙江財閥といって、中国一の財閥のお嬢さんです。
日本が清と戦った日清戦争以降、この人は医者もそっちのけで、清朝を倒すための政治結社をつくり始めた。日清戦争が起こった年の1894年に興中会をつくります。そして日本がロシアにまで勝った1905年には、名前を中国革命同盟会と変える。これで一目で目的がはっきりした。興中会では見ただけでは何なのか分からない。中国革命という意味は、反清朝です。この中国革命同盟会は、どこで結成されたか。このとき東洋の中心は東京です。アジアで日本だけが近代化に成功している。その近代化のモデルになっている。

そして、清朝が倒れて成立した国が、翌年1912年成立の中華民国です。臨時大総統に孫文が就任します。でもこれが今の中国ではない。中華民国は今どこにありますか。今の台湾です。台湾はいま中国とは別の国として中華民国を名乗っています。いま2つの中国とか、台中関係とかいう問題がありますが、ここらへんから発生します。この事情が分からないと中国関係はなかなか分からない。

ただ孫文は中華民国の臨時大総統になりますが、軍事を持たなかった。軍事を持っていたのは、清朝の家来の軍閥です。孫文に、オレと交代してくれ、大総統はオレがやる、という。これが袁世凱です。そうなると、イヤ袁世凱じゃなくてオレだろ、という軍閥がいっぱい出てきて、この国はまとまらない。軍閥割拠の状態になります。このように国がまとまらないなかで、この中国に介入しようとしたのが、日本、イギリス、アメリカです。しかしそれぞれ応援するところが違う。それでまた喧嘩する。仲が悪くなっていく。





【桂園時代2】
いま外交だったけれど、こういうことが起こったときの内閣を見ていきます。この時代は、桂太郎と西園寺公望が、約12年間、交代交代で内閣総理大臣をつとめた時代で桂園時代といいます。日露戦争時の内閣は、山県有朋系の桂太郎内閣だった。それが日比谷焼き討ち事件でつぶれた。



【西園寺公望内閣】(1906.1~08.7)
その後をうけて、1906年西園寺公望内閣が成立します。この内閣は伊藤博文系です。西園寺公望は、伊藤博文の後を引き継いだ立憲政友会の総裁です。だから与党は立憲政友会です。この内閣は、1年半で潰れます。どちらかというと、軍隊をバックにもつ軍人の桂太郎が強いです。


このとき副首相格の内務大臣になるのが、のちに首相として本格的な政党政治をはじめる原敬(はらたかし)です。原敬はこのあと立憲政友会の幹部として、また西園寺公望の右腕として、存在感を強めていきます。

大隈重信系の憲政本党は、立憲政友会をしのぐことができず、このあとしばらくは政権を取ることができません。

時代は薩摩・長州の藩閥政府から、山県系の桂と伊藤系の西園寺の長州系同士の対立となり桂園時代へと移っています。薩摩閥は長州勢に追い出される形で、勢力を弱めていきます。



【桂太郎内閣②】(1908.7~11.8)
1908年第2次桂太郎内閣が成立します。日露戦争から4年後です。
さっきの外交面では、内閣をとばして言ったたけれども、1909年に伊藤博文が暗殺されたのも、そのあとの1910年の日韓併合条約も、この桂太郎内閣の時です。

その年に朝鮮総督府を設置した。この朝鮮総督府の建物は、戦後もずっと韓国に残っていた。国会議事堂みたいな、立派な建物でした。これがつぶされたのは、戦後50年も経った1995年です。それがなんで取り壊されたか。今の日韓関係は良くないからです。現在の政治にも尾を引いています。

それから、この内閣、1911年に長年の不平等条約であった関税自主権の回復を行う。今の自由貿易のルールと違って、この時代は、輸入する側は自国産業の保護のために外国製品に対して自由に関税をかけるのが普通です。そのことをまず理解してください。しかし、戦後になって、自由貿易にして関税なくそうという流れが50~60年続き、それがまたトランプ大統領になって、アメリカは国内産業の保護のためにまた関税をかけると言っています。
そこまではいいですけど、自由に関税をかけてよかったら、中国だって自由に関税をかけたいでしょ。トランプはなぜ関税をかけるのかと言う。ここが合わないです。これで米中関係が、いま悪くなっている。一歩違うと景気が悪くなる。そんな短絡的な問題ではなくても、なんかいま変化しています。少なくとも、50年ぶりぐらいの戦後の変節期ではあります。でもこれはここでの話ではありません。

その関税自主権回復の条約が1911年の日米通商航海条約です。これは小村寿太郎です。一生懸命にポーツマス条約を結んだ人です。今の政治家だったら自己弁護をするけれども、この人は、賠償金が取れなくて石投げられても、それでも内情を明かさないんです。日本には余力がなかった。金庫の中もすっからかんだった。でもそれを言うと、国民が不安がって日本がどうなるか分からないから、グッと我慢して言わないんですよ。そして自分が悪者になる。そこらへんが泣けるところです。昔の人は偉かった、と思うところです。

これとはまったく違った話ですが、この桂太郎内閣時の1911年に、天皇家の正統性に関する南北朝正閏論で、意外なことに政府は南朝を正統とします。南北朝というのは、室町期の南北朝時代のことです。今の天皇家は北朝なんです。しかし政府は逆に南朝を歴史的に正統だとしました。しかしこのことはずっとくすぶっていた問題で、今まで触れてきませんでしたが、明治政府は早くから南朝を正統だとしてきました。それが表面化したのがこの時で、政府はやはり南朝を正統だとしました。これは不思議なことです。1911年、明治天皇みずからも南朝を正統とし、その翌年の1912年の7月に亡くなります。



【西園寺公望内閣②】(1911.8~12.12)
桂太郎の次に、1911.8月に2回目の西園寺公望内閣が成立します。同じ年の1911.10月に中国に大激変が起こり、300年続いた清朝が倒れた。辛亥革命の勃発です。
この辛亥革命に対して、軍部は、満州まで進出したい。実際このあと30~40年かかって、そのとおりなっていく。しかしそうするためには、まず軍隊を増員しないといけない。軍隊を増員するためには、お金がかかる。
そういう軍隊増設の要求を陸軍がするんです。軍隊の数え方は、1個師団、2個師団という。陸軍は2個師団、増やしてくれ、という。二個師団増設要求を西園寺内閣に対して、陸軍が行う。
しかし西園寺は、お金がない、と断る。すると軍部は、こんなチャンスを逃していいのか、と言う。これに対して西園寺は、先立つものがない、お金がない、このあいだまでロシアと戦って金庫には何もない、と拒否するんです。
これ以上したら、日本がひからびてしまう。まず国内の行政をきちっと行い、財政拡充が優先だ、という。

ここから内閣と陸軍と対立していきます。軍部と対立して、内閣の大臣、陸軍大臣がオレは辞める、という。辞めていいよ、何の関係もないじゃないか。ところが、どういう制度があったか。軍部大臣現役武官制という非常に政治的なトリックがあるんですね。
軍部大臣というのは、陸軍大臣と海軍大臣です。そこに座れるのは、現役つまり定年退職してない武官、今でいう自衛官です。軍人です。それでないといけない。軍部は軍部で、独自の組織があって、そのなかのドンが、おまえ陸軍大臣になっておけ、と命令する。

しかし陸軍が腹を立てたら、おまえたち分かってるな、オレの前で椅子に座ったら承知しないぞ、という。すると内閣総理大臣から、陸軍大臣なってください、と言われても、直属の軍部の親分が怖くて誰も座れない。イスが埋まらなかったら、総理大臣は組閣能力がない、ということでクビになる。1912年、これで西園寺内閣はつぶれた。

軍部大臣現役武官制のために、西園寺公望内閣は総辞職せざるを得なくなった。つまり軍部が腹を立てると、内閣がつぶれるという事態になった。つまり最高権力者であるはずの内閣総理大臣の上に軍部があることになる。軍部が内閣をつぶすことができる制度になっているんです。ただこれが民主的なのかな、という疑問は残ります。



【桂太郎内閣③】(1912.12~13.2)
それでその陸軍のドンが出てくる。桂太郎が陸軍のドンです。同じ1912.12月です。第3次桂太郎内閣です。これに対して、これはおかしいんじゃないか、という反対運動が当初から起こる。そこに民衆も気づいたんです。当時の民衆は政治を理解しているんですね。この民衆の疑問があったから、政治家が成功するんです。逆に政治家が無理に焚きつけようとしても、民衆が踊らなかったら、うまくいかないです。ここで政治家が、第一次護憲運動というのをキャッチフレーズとして打ち出す。言葉通りとらえれば、憲法を守ろうという運動です。1912.12月からの動きです。


この目的は、この軍部のやり方が本当に大日本帝国憲法の趣旨に沿っているのか。これを国民に問う、ということです。当時の有権者は、ここで内閣がつぶれることの政治の意味を分かっていた。
この運動の指導者は、前に政党系図でやったけれども、そして日本の政党政治には二つの政党がある。立憲国民党立憲政友会です。憲政本党は立憲国民党と名前を変えています。これはライバル同士だから、めったに手を組まないんだけれども、共通の敵である軍部に対しては、対立を乗り越えて手を組もうじゃないかと、話がまとまったんです。このまとめた政治家が二人います。
一人は立憲国民党犬養毅です。この人は、このあと昭和になって首相になり暗殺されたことで有名になります。もう一人は、立憲政友会尾崎行雄という人物です。

立憲政友会総裁の西園寺公望はこの時、大正天皇から「内閣に反対するのをやめるように」と言われますが、それを断るために、立憲政友会総裁を辞職します。その後任として立憲政友会総裁の職に就いたのが原敬です。

(政党系図)


この2人が手を組むことによって国民運動が盛り上がる。スローガンは、閥族打破です。閥族は軍部です。それともう一つが憲政擁護です。憲法による政治、つまり政党政治を目指すと言うことです。この時代の憲法も運用次第によってはこういうことがができる。それを目指そうということです。二つ合わせて、閥族打破、憲政擁護、です。


さらにこれを応援したのが、薩摩出身の海軍軍人、山本権兵衛です。勢力を弱めていた薩摩閥の海軍は、ここで政党に近づくことになります。この人は次の首相になります。海軍は薩摩の勢力の強いところで「薩の海軍」と呼ばれていますが、薩摩出身の首相はこの人が最後になります。
その前の薩摩出身の首相としては日本銀行や金本位制をつくった金融関係に強かった松方正義がいますが、そのあと松方自身は元老となって力を保持しますが、松方系の政治家が首相になることはありません。それよりも薩摩閥は海軍を拠点としていきます。

陸軍を拠点とする政府側の桂太郎は、立憲国民党を切り崩して、仲間割れさせようとします。立憲国民党を離れてオレに着かないか、ということで、新しい政党をつくるんです。これを立憲同志会といいます。正式な成立は、のちの1913.12月です。

こうやって政党の動きを政府が切り崩そうとした時に、決めては民衆です。軍部はちょっとおかしくないかと、民衆が暴動をおこしていく。東京中心に暴動が拡がり、石投げていく、ということが起こる。別に石を投げろといってるわけじゃないんだけれども、これで、おさまりがつかなくなる。これをおさめるためには、一つには中国流に戦車を出動させて、警官隊に発砲させて鎮圧するという方法もある。これ君たちが生まれ前の、中国の天安門事件というのは、これだった。

しかし日本はそこまでしない。桂太郎は、これは自分が辞めるしかない、ということで辞任します。1913.2月のことです。1912.7月に大正と改元されて、まだ1年も経ちません。これを大正政変といいます。このことの政治的な意味は、国民の運動によって、つまり民意によって、政権を変えることができた、ということです。この内閣は最短記録53日で終わります。

これを世界史的に見るとどうか。中国の辛亥革命に乗り込むために、陸軍を二個師団増設させようとした陸軍の意図は、これによって失敗した。つまりこの段階では、日本は中国に干渉していないということです。

1年ずれたけれども、ここまでがほぼ明治の終わりです。明治は1911年までです。
次から大正時代に入っていきます。世界史で言うと、1910年代のビックイベントは第1次世界大戦です。1914年です。基本は、1894年、1904年、1914年、この順に日清、日露、第1次大戦です。これ以上覚えやすい戦争の起こり方はないですね。
第2次世界大戦は1939年です。頭の整理てもしておいてください。どっちみち戦争への道は複雑極まりないです。たどればたどるほど、わけが分からなくなっていっていくようなところがあります。しっかり見ないとだまされたりもします。
太平洋戦争というのは日米戦争とのことで、第二次世界大戦の地域戦です。これは2年遅れで1941年から始まります。この1939年と1941年を混乱する人もいて、頭の中の序列が混乱していく。そういうところに入って行きます。



【内閣覚え方】 「カサカサカ
カ 桂太郎内閣①
サ 西園寺公望内閣①
カ 桂太郎内閣②
サ 西園寺公望内閣②
カ 桂太郎内閣③





【アメリカの状況】 
ここでアメリカの状況を見ると、いま世界は第一次世界大戦に向かっています。1914年、いよいよ第一次世界大戦が勃発します。
 そのころアメリカでは中央銀行をつくろうとする計画が密かに進んでいます。金融資本家たちはこの中央銀行の設立のため、人目をはばかるように密議をこらしていたという話もあります。彼ら金融資本家たちの中心にいたのが欧州のユダヤ人財閥ロスチャイルド家です。しかし今まで言ったとおり、アメリカ人の多くは中央銀行の設立をのぞんではいません。
 そこで1907年にアメリカにまた恐慌が発生します。



 1907年アメリカの恐慌は、仕組まれたものであった。それはニューヨークの準備銀行が、彼らの預金者である地方銀行に通貨を支払うことを拒否したことから起こり、そのためこれらの地方銀行は、今度は自分たちの顧客の預金引き出しを拒否する必要が生じたのである。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P244)

 1907年、ニューヨークの中堅銀行のニッカ-・ボッカーがモルガンたちの仕組んだ風評によって倒産に追い込まれて、銀行恐慌が勃発します。これらの一連の動きの中で、モルガンやロックフェラーと気脈を通じたセオドア・ルーズベルト大統領が財閥の市場独占を禁止する反トラスト法の停止を宣言すると恐慌はおさまり、銀行業務は正常化されます。モルガンやロックフェラー財閥は反トラスト法停止の下で、ライバル会社を倒産させたり買収したりして独占的地位を強化します。(国難の正体 馬渕睦夫 ビジネス社 P109)



 1912年には、アメリカの大統領が共和党のタフトから民主党のウィルソンに変わります。ウィルソンの本業は学者であって、政治家ではありません。彼は大統領になるため、イギリス系の金融資本家から援助を受け、そのことによって大統領に当選します。
 その前の大統領は共和党のタフトでした。この大統領選で、共和党の大統領タフトの対抗馬として、同じ共和党の元大統領セオドア・ルーズベルトが第3政党として進歩党をつくり、共和党の票を分裂させました。このような不自然な動きの中で民主党のウィルソンが勝利し、大統領に就任します。


 ロシア政府は、村落在住のユダヤ人の活動が、田舎の人々を搾取していると考えていた。アメリカのユダヤ人銀行家たちは、ロシアに対して宣戦布告することをアメリカ大統領に要求したが、大統領のタフトは拒否した。彼らは次の大統領選で共和党を分裂させ、民主党のウィルソンを選出した。(世界権力構造の秘密 ユースタス・マリンズ 日本文芸社 P190) 


 第一次世界大戦の1年前、1913年に・・・・・・「たまたまだ」とアメリカは言うけれど・・・・・・アメリカは中央銀行をつくります。これで紙のお金が自由に印刷できるようになった。金貨と違い、紙のお金はいくらでも印刷できます。戦争で一番必要なのは何か。大砲とかミサイルとかはもちろん必要ですが、それは軍人に任せておけばよいことです。政治家にとって戦争で一番必要なものは何か。お金です。そのお金を作る場所、これがアメリカの中央銀行FRB)です。
 しかもこれが銀行という名前になってない。連邦準備制度という訳のわからない名前になってる。「わざと」そういう名前にしたという話さえあります。これは日本で言えば日本銀行のことです。アメリカ版の日本銀行です。
 我々の1万円札は正式名称は「お金」ではありません。「日本銀行券」です。これは政府がつくったお金ではありません。中央銀行という民間銀行が作ったお金です。この銀行は民間の金持ちがつくったものであって、政府がつくったものではありません。2大財閥として、ロックフェラー財閥、それからモルガン財閥です。これは今でもあるアメリカの財閥です。FRBは彼らの民間資本によってつくられた銀行です。こうやって国家の裏にドカンと金融資本家が居座わります。

 この中央銀行によって第一次世界大戦の資金が湯水のようにヨーロッパに供給されます。 

 連邦準備制度理事会というアメリカの中央銀行(FRB)設立の署名をしたのは、この新しい大統領のウィルソン大統領です。のちに彼はこのことを「うかつだった」と後悔しています。


 ウッドロー・ウィルソンは、晩年になって連邦準備制度設立に加担したことを後悔して、こう言い残しています。

私はうっかりして、自分の国を滅亡させてしまいました。大きな産業国家は、その国自身のクレジットシステムによって管理されています。私たちのクレジットシステムは一点に集結しました。したがって国家の成長と私たちのすべての活動は、ほんのわずかな人たちの手の中にあります。私たちは文明開化した世界においての支配された政治、ほとんど完全に管理された最悪の統治の国に陥ったのです。」(金融の仕組みは全部ロスチャイルドが作った 安部芳裕 徳間書店 P140)

 1900年初頭、ロスチャイルド家は、ハウスをヨーロッパに送って銀行家が政治家を支配する実情を学ばせた。・・・・・・ ハウスは、最初ウィルソンを大統領選で勝利させることを任務としていたが、のち外交関係に関わった。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P226)



FRBの株主構成



 1913.12.23日というクリスマスの前日に、多くの議員がクリスマス休暇で欠席している中、この中央銀行設立の法案は議会を通過します。
 中央銀行は発券銀行です。つまりお金をつくるところです。お金をつくるのは国家ではありません。中央銀行です。お金をつくる力を手に入れた者は、巨万の富を手に入れます。お金を人に貸すことによって人を操るのです。


 そもそも FRS(連邦準備制度) が生まれた理由の一つは、議会が税を徴収していると市民に悟られずに財政資金を手に入れるためだったことを忘れてはならない。この搾取にアメリカ人が驚くほど無関心なのは、マンドレーク・メカニズムの仕組みが全くわかっていないからだろう。・・・・・・政府は FRS を通じて国債を貨幣化するだけで、必要な資金を手に入れられる。(マネーを生みだす怪物 G・エドワード・グリフィン 草思社 P253~254)

 ユースタス・マリンズ著「連邦準備制度の秘密」(邦訳「民間が保有する中央銀行」面影橋出版)は、ロスチャイルド家イングランド銀行を支配し、イングランド銀行を通じて「シティ」を支配し、イングランド銀行=シティを通して米国 FRB を支配し、 FRBを通して米国の通貨=マネーを支配する構造を完成したことを詳しく論評している。(ロスチャイルドの密謀 太田龍 成甲書房 P402)

 憲法を無視した犯罪的法案、つまり連邦準備法案の可決によって、ロスチャイルド家ウィルソンを介してアメリカを第一次世界大戦に引き入れることに成功した。(ロスチャイルドの滅亡 ジョン・コールマン 成甲書房 P246)

 アメリカ連邦準備制度がなければ、第一次大戦は起きなかった。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P133)

 FRBの設立でアメリカは大量のドルを刷って戦費を捻出し、また他国へ貸し出しすることができるようになりました。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 P64)


 (アメリカが)ヨーロッパの戦争を援護するために大規模な連邦債を発行したことで、国内で流通する通貨量が激減した。ここで中央銀行がその威力を現した。アメリカ政府は連邦債務を大量に発行し、それをまた FRB が驚くほどの貪欲さでのみ込み、その後は巨額の連邦準備券、つまりドル紙幣が洪水のように市場に溢れ出たのだ。こうして、ヨーロッパのための戦争債券によってもたらされたデフレは補われたが、その代償として、連邦債は一直線に増加し、 FRS が発足してからわずか4年(1916~20年)の間に、10億ドルから250億ドルへと25倍にまで膨らんでいった。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P139) 


 戦争するときにはお金が必要になります。そのお金をつくる力がユダヤ人財閥を中心とするアメリカの金融資本家の手に入ったのです。

これで終わります。

新「授業でいえない日本史」 35話 20C前半 第一次世界大戦~大戦景気

2020-10-24 09:17:29 | 新日本史5 20C前半
【大正時代の内閣】
ここからは、桂太郎を倒した政治が始まっていく。ここから大正時代です。その大正時代のイメージは、一言で言うと、大正デモクラシーと言われます。政党政治が花開きます。
大正は短いけれども、気分としては明るい。ただ15年で終わるだけに、あだ花に終わります。昭和になって、また軍部が復活し、外国からもいじめられて、また戦争していくことになります。大正時代の第一次世界大戦、昭和に入っての第二次世界大戦と、2回の戦争をしていきます。



【山本権兵衛内閣①】(1913.2~14.4)
桂太郎第一次護憲運動により総辞職して、次の総理大臣は、桂園時代の順番としては西園寺公望の番ですが、西園寺は立憲政友会の総裁を辞めていますので、自分の代わりに海軍の山本権兵衛を天皇に推薦します。
この時代の首相は、議会の決定がそのまま通るのではなく、議会の意向を尊重しつつ、元老といわれる明治の功労者たちの会議を経て、最終的には天皇の判断で任命されることになっています。
山本権兵衛は天皇から首相を任命されると、立憲政友会の協力を条件として総理大臣の任を引き受けます。これが1913.2月に成立した山本権兵衛内閣です。だからこの内閣を支える与党は立憲政友会になります。この内閣の副首相格である内務大臣には立憲政友会総裁の原敬が就任します。
政党というのは、もともと政府に反対する立場で生まれたのですが、ここでは明らかに政府に賛成する側になっています。それが与党です。反対は野党です。しかし政党が政府を支えるというこの構造は、初の政党内閣である大隈重信内閣以降、桂園時代の西園寺内閣の時代から成立していたものです。ただここでは首相が政党員ではなく、軍人であるというだけで、立憲政友会が政府の与党になっていることには違いはありません。

この山本権兵衛は、陸軍ではなくて、海軍の軍人です。久々の薩摩出身です。その前の首相の桂太郎は長州出身だった。しかし薩摩勢力はかなり小さくなっています。この人が最後の薩摩出身の内閣総理大臣です。あとでもう一度ピンチヒッター的に総理大臣になりますが。

それに対して長州出身の内閣総理大臣は、このあとも出てきます。現在の総理大臣の安倍晋三も長州出身です。しかも2019年に史上最長の内閣になりました。この人の叔父さんも佐藤栄作といって内閣総理大臣だったし、この人のお爺さんも岸信介といって内閣総理大臣でした。一族から何人もの総理大臣を出しています。すべて長州出身です。

海軍の大まかなイメージをいうと、海軍は話せば分かる、という感じです。それに対して陸軍のイメージは明治のガンコ親父、という感じです。そういう意味でちょっと海軍のほうが民主的には受けがよかった。

まず陸軍がこだわっていた軍部大臣現役武官制という制度は、やっぱりいかんよね、ということで、軍部大臣現役武官制を廃止します。ちょっと裏話をいうと、法律として軍部大臣現役武官法があったんじゃないです。いろいろある小さな制度上のなかの、1条、2条、3条、4条とずっとあって、その但し書きに小さく、軍部大臣は現役武官とすると、サラッと書いてある。油断も隙もないです。教科書でいうと、本文ではなく欄外の小さなところに一行だけ書いてある。これが決定的に重要なことになる。この手は、現在の政府でもやります。本当に油断も隙もないです。
ただこの山本権兵衛は、ドイツの武器会社で、ジーメンス社というのがあって、ここから武器を輸入した時に、袖の下をもらった役人がいて、それを理由に内閣不信任を出されて、すぐ潰されていく。これがジーメンス事件です。たった1年後の1914.4月です。この事件も不透明なところがあって、ちょっとヤラセっぽい感じもあります。




【大隈重信内閣②】(1914.4~16.10)
立憲政友会を与党とした西園寺公望の代わりの山本権兵衛が倒れると、次は桂太郎の順番ですが、桂太郎は、山本権兵衛内閣中の1913.10月に脳血栓で死去します。それで、どうしていいか分からないということになる。次の総理大臣は誰か。いったんオレは政治家辞めたという人、すでに70歳を超えています。もうアンタしかおらん、ということで元老の井上馨に推されて登場するのが大隈重信です。1914.4月です。
そんなに簡単に総理大臣になっていいのか。ここが今と違うところです。国会議員でなくても、天皇が、おまえ総理大臣になれ、と任命すれば、総理大臣になれるんです。

余談ですが、大隈が首相に推薦される前、元老会議は、次期首相として、徳川家当主で貴族院議長の徳川家達(いえさと)を推薦しています。しかし徳川家達はこれを辞退します。明治維新から50年近く経っているとはいえ、明治政府の敵であった徳川家がこうやって新政府の中にはいり、首相になれる地位にまで登りつめ、かつての敵である明治の元老たちから推薦を受けていることには驚きます。もし彼が辞退していなければ、徳川将軍家の首相が誕生していたことになります。

大隈重信の動きは複雑で、非常に理解しにくいところがあります。この前年1913年に桂太郎に対立する政党を寝返えらせようとして、新しく政党ができました。その政党が大隈内閣を支えます。立憲同志会です。
本来、大隈重信が党首を務めていたのは憲政本党です。その憲政本党が立憲国民党と名前を変えたのですから、大隈重信は立憲国民党を与党とするかと思ったら、その立憲国民党を飛び出した人たちでつくられた立憲同志会を与党とします。
主要政党は、ここで2本から、立憲政友会立憲国民党立憲同志会の3本になりました。


(政党系図)


ちょっと確認します。政党系図、1910年の立憲国民党まで言ってますが、この立憲国民党から分離させた政党、おまえ立憲国民党を裏切ってオレたちに寝返ってくれよ、といわれた政党、これが立憲同志会です。これは陸軍寄り、長州寄りです。その政党によって支えられた内閣が、この第2次大隈重信内閣です。


【第一次世界大戦】 世界史に目を転じると、ここで何が起こったか。この年1914.7月に、第一次世界大戦が起こる。
これに日本は直接は関係ないんだけど、第一次世界大戦が起こった。どういうふうに起こったかというのは、世界史でやりました。基本はイギリスとドイツの対立です。ドイツが狙われます。日本はこの時には日英同盟によりイギリス側につく。そしてイギリスが勝つ。
しかしその後20年経って、第二次世界大戦の時には、日本はドイツ側に追いやられてしまうんです。ドイツはしょっちゅう叩かれます。

もうひとつ、ここで、イギリスと今にいたるまで鉄壁なタッグを組んでる国がある。民族的にも言語的にもイギリスと同じアングロサクソンのアメリカです。これが、いいところでイギリスに味方していきます。これが世界の流れです。
きっかけはサラエボ事件です。ここでドイツの仲間のオーストリアの皇太子・・・・・・次の皇帝になる人・・・・・・が暗殺される。誰からかというと、これがスラブ系の青年、つまりロシア系のセルビアという国の一青年によって。


【日本の参戦】 日本の外務大臣はこのことを悲しんだか、喜んだか。「大正の天佑」と言った。これ、どうですか。天佑とは、天の恵みです。チャンスだ。なぜチャンスか。中国に行きたいからです。陸軍は、辛亥革命のあと、二個師団の増設を要求していた。それで揉めていたのが日本の状況だった。それが中国に行くんだったら今だ、となる。ドイツも中国に植民地を持っている。ドイツに宣戦すれば、そこを取れるじゃないか。実際、ドイツの植民地を取っていきます。日本は勝つ側だから。


 教科書では、日英同盟を理由として日本が積極的に第1次世界大戦に参戦したかのように書かれています。混乱のドサクサに紛れて参戦し、ドイツの租借地である青島と山東省の権益、ドイツ領南洋諸島を奪ったかのような書き方です。事実は全く逆ですイギリスが参戦を要請してきたのに対して、日本としては関わりのないヨーロッパ地域のことなのでずっと断り続けていました。それでも「参加して欲しい」と強く頼まれたために、日英同盟の信義を守ってやむなく参加したのです。
 山東省のドイツの権益と南洋諸島のドイツの権益を日本が引き受けることになったのは、参戦する前からイギリスと話し合っていた条件であり、どさくさに紛れて日本が奪い取った権益ではありません。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 2015.12月 P91)


すると、のちのことですが、なぜおまえが取るのか、とアメリカが言う。取り過ぎだろう、と言う。これも世界史でやりました。これが1921年のワシントン会議です。そういう流れになっていく。そこまで言うと第二次世界大戦の説明の半分になる。ここは日本史だから世界史とは関係ない、で済ませるかというと、1900年代になると世界史の動きと日本史はリンクしていきます。世界の動き抜きでは日本史は説明するのが難しくなります。

日本が参戦する理由は、日本がイギリスと結んでする日英同盟です。ドイツに参戦して、ドイツの中国植民地を奪う。それが同時に中国進出です。すでに日本は、朝鮮を領有してます。100年以上たった今でも、中国・朝鮮と日本は関係が悪い。

君たちが生まれたころまでは、従軍慰安婦問題だった。去年の暮れから新たに起こっている問題が徴用工問題です。このまま行けばキリがない。それがもし本当だとしたら、謝っていいんだけれども、ただこの時代に植民地でそういったことやっているのは、日本だけではないということは、公平な世界史理解のためには知っておかないといけない。300年前からのイギリスの奴隷貿易とか、いったい何なのかという話になる。そこらへんの歴史的公平性というのは正しく世界的に理解しないといけないと思う。

世界では、第一次大戦に勝つ側がイギリスです。メインはイギリスです。世界の一等国もまだイギリスです。このイギリスと組むのがロシアフランスです。これが三国協商です。
それに対して、ドイツオーストリアイタリアと組んだ三国同盟です。といってもこれは親戚づきあいのようなものです。ドイツとオーストリアはもともと国が別れているのが不思議なくらいで、どっちもドイツ人でドイツ語をしゃべっています。ホントいうなら、民族自決でいうなら、ドイツ・オーストリア連合帝国で、一つの国でまとまったほうがすっきりするぐらいのものです。
それに加えてイタリアです。でもイタリアはすぐに裏切ります。当てにならない。



(第一次世界大戦にいたる世界状況については、下記を参照)



【参戦理由】 日本には日英同盟がある。しかしこれに書いてないのがアメリカです。これは書けないです。アメリカはこの段階で、何の軍事同盟は何もないのに、つまり参戦する正当性がないのに、うまく参戦してくるんです。この時には、ルシタニア号というアメリカ船が、ドイツの潜水艦によって沈没させられた、ことを理由に参戦してくる。


【経過】 それで日本は、中国のドイツ領を奪いに行く。山東半島です。ここは重要な地点です。中国でみると狭いみたいですけど、日本の四国より大きい。あとのドイツ領は、こういう南洋諸島です。がばっと南洋諸島を取っていく。
その説明ですけれども、その山東半島の一部に青島(チンタオ)という、ドイツの拠点だったところを取る。それからもう一つは南洋諸島をとる。


【中国政策】 中国に対しては、1915.1月対華二十一ヵ条要求を出します。対華の「華」は中華の華です。「華」とは世界のことです。中華というのは、世界の中心のことです。だから中華どんぶりというのは、世界のまん中を食べる食べ物です。そこに21もの要求をしていく。
孫文は、軍隊を持たなかった、という話はしました。実力者は孫文ではなく、袁世凱です。この袁世凱も、なにか気の毒な点もあって、これは教科書にも書いてあるけれども、孫文は理想化されすぎてるんですね。袁世凱は悪人化されすぎているんです。水戸黄門さんと悪人みたいです。袁世凱には、最初、孫文を追い払った時には、後ろにイギリスがついていたんですけれども、そのイギリスは袁世凱に登らせたハシゴをはずします。そして失意のうちに、次の年1916年に死んでいきます。中国はバラバラになるように、なるように仕向けられるようなところがあって、これで中国はますます混乱していく。

翌年の1917.9月、孫文は広東軍政府を樹立し、中国では南北両政権が対立するようになります。つまり中華民国というのは看板だけで、日本の戦国時代のように、あちこちに親分さんがいて、勢力争いをしている軍閥割拠の状態になっていく。

そういったなかで、日本は、まずさっきいったドイツ権益です。
次に日露戦争でとっていた朝鮮北方の旅順・大連の租借権を99ヶ年に延長します。99ヶ年というのは正確でなくて、半永久的という意味です。
そこを拠点に、東海道新幹線よりも長い距離の南満州鉄道を敷く。

そして、会社の名前、公司(こんす)というのは中国流の株式会社、漢冶萍公司(かんやひょうこんす)という。漢冶というのは地名、萍公司というのが会社です。これは製鉄会社です。
21ヵ条を大きく4つ言うと、これなんです。これを、屈辱だと思いながらも、中国はイギリスからもハシゴを外されて、どうしようもなくて受け入れざるを得ない。
しかし受け入れた日の5月9日を民衆たちは、国の恥の記念日だとして祝った。国恥記念日といいます。こういう祝い方は歴史に残るんです。だから日中関係は今でも悪い。


【日本の領土】 このころの地図を見ます。日本が第一次世界大戦中にやったこととして、対華二十一ヵ条の要求、それから山東半島、青島占領。ドイツ領の南洋諸島まで取った。戦前の日本は領土は大きいです。もう一つは台湾です。
要らないことを一つ言うと、グァムはいってない。なぜか。ここは米軍です。今もです。米軍のここら辺の基地で、中国に1番近いところは、沖縄基地でしょ。次がグァムです。ここの米軍ミサイルは、中国を向いてます。中国にとっては今の沖縄の米軍基地は脅威です。


(第一次大戦時の日本領土)




【総選挙】 そして大隈重信は、一度ダメになった二個師団増設をするために、軍隊を増強するために、1915.3月に総選挙をうつ。結果は与党の立憲同志会の圧勝です。立憲同志会が153議席、立憲政友会が108議席です。この圧勝で陸軍の二個師団増設要求が通ります。
桂太郎の死によって桂内閣の代わりとして登場した大隈重信は、桂太郎の肝いりで結成された立憲同志会を議会の第一党にのし上げます。ここで立憲同志会は、立憲政友会を圧倒します。

実はこの時、第一次世界大戦が起こると、ヨーロッパは戦争で、物資が不足する。だから日本に大量に注文が来るんです。日本はウハウハ作るんです。売れ、売れと言って。どんどん輸出をのばして日本は景気がよくなります。これを大戦景気といいます。それで大隈さんはいい人だ、ということで選挙に圧勝する。
この時代、日本は景気がいい。この好景気が戦争いっぱい続く。戦争は足かけ5年が続きます。こんなに長い戦いというのは、近代史上は初です。これを大戦景気といいます。
どういうふうに日本の景気が変わったか。それは後述します。




【寺内正毅内閣】(1916.10~18.9)
ここまで、二個師団増設をしたあと、大隈内閣は野党である立憲政友会や陸軍のドンで元老の山県有朋と対立するようになります。

大隈首相が辞表を提出すると、長州と陸軍のドンである元老の山県有朋は、同じ長州出身で陸軍大将の寺内正毅を次期首相に推薦します。それが受け入れられて寺内正毅内閣の成立となります。これが1916.10月です。

議会対策としては、最大政党の立憲同志会の協力を得られなかったため、その対立政党である立憲政友会の了解を取り付けます。立憲同志会はこの1916年に憲政会と名前を変えます。

1917.4月に総選挙(衆議院議員選挙)が行われ、寺内内閣と対立した憲政会は敗れ、内閣に協力的な立憲政友会が議席を伸ばして第一党になります。

この寺内正毅は、前に朝鮮を守っていた人です。朝鮮総督府の長官です。あそこはエリートコースです。朝鮮に行くという人はエリートコースです。あい変わらず景気はいい。大戦景気は続いています。


【西原借款】 中国は軍閥割拠の状態です。袁世凱は北京を拠点にして南方の勢力と対立していましたが、1916年に死にます。

この袁世凱の後継者に二派閥あって、仮にA派とB派とすると、A派の段祺瑞(だんきずい)を資金面で応援したのが日本です。もう一方のB派はイギリスとアメリカが資金面で応援します。ここですでに日本とイギリスとの対立関係が発生しています。
このあとのことを言うと、段祺瑞は失脚し、A派は満州を拠点とする張作霖に受け継がれますが、張作霖がB派に勝利し、北京を押さえることになります。日本は段祺瑞から張作霖へと続くA派を応援していきます。しかしこれはまだ序盤戦です。

日本がここで段祺瑞を応援したというのは、単にがんばれ、がんばれじゃなくて、お金を援助したということです。中国へお金を貸したのは寺内首相の秘書の西原亀三という人です。国会承認には関係なく、独断で貸します。これを西原借款(しゃっかん)といいます。借款というのは貸付金のことです。


【アメリカとの対立】 ただ、このころから日本の中国進出を喜ばないのが、さっき言ったアメリカです。アメリカも実は、中国北方の満州を狙っている。日露戦争後、アメリカの鉄道王ハリマンが、鉄道を敷きたいと申し出てくる。しかし資本参加させないと、日本は断るんです。
そこでいろいろアメリカと対立してくるなかで、一応手を打とうねじゃないかと、調節を行います。日本の石井菊次郎という人とアメリカのランシングという人が、1917年に一応の手打ちをする。これを石井・ランシング協定といいます。日本には朝鮮支配を認めましょう。その代わりではアメリカには、フィリピン支配を認めます。お互い、朝鮮とフィリピンを認め合って、これで手を打とうじゃないか。しかしアメリカンは、まだまだ不満です。


【ロシア革命】 第一次世界大戦はフェイントがあります。1917年に何が起こるか。ロマノフ王朝滅亡です。これがロシア革命です。日露戦争で日本が勝ったのも実は、第1次ロシア革命のおかげだった。その13年後、第一次世界大戦中の1917年に、第2次ロシア革命が起こります。この第2次ロシア革命のほうが、本当のロシア革命です。ここでロシアに初の社会主義国家が誕生した。
それまでロシアはイギリス側について戦っていた。ということはドイツに有利なんです。イギリスに不利です。これが1917.3月です。



【アメリカの参戦】 その翌月の1917.4月に、アメリカは突然、イギリスに味方して参戦する。
しかし教科書には、そう書いてないです。この2年前の1915年にアメリカの客船ルシタニア号が、ドイツの無制限潜水艦作戦であるUボート作戦によって撃沈されたから、その仕返しだという。教科書にはそう書いてある。しかしそれは2年前です。
本当は、1917.3月にロシア革命でロシアが滅び、翌月の1917.4月にアメリカがイギリスに味方して参戦したというのが歴史の流れです。
しかもこれが決定打です。ドイツはそれまで五分五分以上に戦っていたのですが、アメリカが参戦すると、急速にイギリス側が有利になって、イギリスを勝利に導きます。そしてそのあとはアメリカがイギリスをも追い抜いて世界の一等国になっていく。


【アメリカFRBの設置】 世界の基軸通貨がそれまではイギリスのポンドだったのが、いつから今のようにドルとなったか。それはここからです。第一次世界大戦後から、アメリカのドルが世界の基軸通貨になった。そのドルを発行しているのがFRBという・・・・・・今でもよく新聞に出てくる・・・・・・アメリカの中央銀行です。これを連邦準備制度理事会といいます。日本でいう日本銀行なのですが、銀行と名前がついてないから非常にわかりにくい。連邦準備制度理事会という、わけの分からない不思議な名前になっている。これは単純にアメリカの中央銀行だと思ってください。FRBとは何か。日本銀行と同じアメリカの中央銀行です。ここが今もアメリカのドルを発行しています。


ただこれができるまでには、アメリカはすったもんだを繰り返しています。その理由は、中央銀行はもともと政府の力の及ばない民間の銀行で、ここに金融力の強いイギリスの資本が入りこめばアメリカの利益が失われる、という強い反対論があったからです。この点は今の日本銀行も同じで、日本銀行は民間企業と同じように東京証券取引所に上場されている企業で、その株式も民間企業と同じようにそこで売買されています。政府組織ならこんなことはできません。

しかもFRBができたのは第一次世界大戦のほんの1年前の1913.12月です。しかもクリスマスで多くの議員が欠席する中でアメリカ議会を通過した、といういわく付きのものです。


【シベリア出兵】 まだ第一次世界大戦は続いています。日本はこのロシアという社会主義国家の誕生に対して、何を行ったか。ロシア革命の最終目標は何だったか。一国革命だったですか。世界革命ですよね。世界革命というと、タチの悪い漫画みたいな話だと感じますけど、しかし本気です。世界革命だったら、一番近い国が日本です。日本にも革命が起こる。これは防がないといけない。それは認めないということで、日本は1918年、ロシア領のシベリアへ出兵するんです。これをシベリア出兵といいます。なぜシベリアか、北海道から行ったほうが、ロシアに近いからです。
しかしここは寒くて、氷点下30度、最高マイナス65度、ちょっと想像できない。我々、日本人は、氷点下65度だったら、ナイロン製のダウンジャケットの暑いのを分厚く着込んで行けばいいと思って、いっぱい着こんでいく。しかしナイロンは氷点下50度超えたらパリパリになる。船から下りた瞬間に、ナイロンが固まってビリビリ破れる。それくらい寒い。この寒さでシベリア出兵はうまくいかない。


【米騒動】 日本がここに出兵すると・・・・・・日本は今と違って食糧不足です・・・・・・食糧不足で米が足らない時に戦争が起こると、大事な米は庶民よりも先に兵隊さんの飯として軍部に行く。貧しい農家の二男三男が兵隊に行ってよかったというのは、白いおまんまが日に三度食えるからです。激戦に行って、第二次世界大戦のように、飯もない、鉄砲もない、鉄砲はあってもタマがない、ようなところで惨殺された人は、悲惨な限りですけど。
それで米が足りなくなる、米がどんどん値上がりしていって、1918年に米騒動が起こる。最初に起こしたのは富山県の漁村のおばさんたちです。農村ではない。漁村はだいたい気が荒い。そこのおばちゃんたちが、何でこんな米が高いのか、と文句言い始める。
しかしこんな時でも、がめつい人間はいるんです。彼らには分かるんです。米が不足しているときに、戦争が起きたら、米が足りなくなって米の値段が上がる、と。それなら上がる前に買っておけば儲かる、という人が出てくる。これが米の買い占めです。めざといというか、あくどい人はこれをやる。
そうすると騒動が予想以上に広がって、各地で一揆が起こる。うちもだ、うちもだ、ということで、全国的に米騒動が拡大していきます。

庶民が腹を立てれば、さっきも、第一次護憲運動で桂太郎が総辞職に追い込まれたように、米騒動が全国で暴動が起こりだすと、内閣総理大臣も責任をとって辞めざるをえなくなる。1918.9月に寺内正毅内閣は総辞職します。




【大戦景気】
【原因】
 次は経済です。第一次大戦中の日本は、いま言ったような理由で景気がよかったんです。ヨーロッパは大戦で経済が混乱し、物を作れなくなったらからです。これが大戦景気です。一部が戦争すると、それ以外のところが儲かる。
 
ヨーロッパでは金融制度もガタガタになり、ヨーロッパ各国は金本位制度を離脱していきます。すると日本も、ヨーロッパに金融制度を合わせるために、1917年に金本位制度を離脱します。このことは1930年に大きな問題になっていきます。

日本が景気が良くなったのは、ヨーロッパが戦争しだすと、生産力が落ちて、ヨーロッパが輸出していたアジア市場に空白ができる。ものが入ってこなくなる。
そこに日本が、物が不足するんだから、そこに持って行けば売れる。ヨーロッパも、軍備品が不足する。日本に注文が来る。日本はウハウハです。

もう一つ、戦争には人も兵隊もかかるけど、まずはお金です。戦争した国にお金を貸した人は、儲かるんです。そういう構造は戦争につきものです。戦争は、お金がなくてでもやる。借り手でもやる。背に腹は代えられないということで。貸したのはアメリカです。


【産業】 まず儲かったのは、ヨーロッパまで運ばないといけないから、船が足りない。船持っていた人は何倍も儲かる。これを船成金という。成金というのは、将棋で歩が相手陣地に入ったら、急に変わって金の動きをする。一気に大金持ちになった人を成金という。


【紡績業】 日本の産業というのはこの時代、まだ軽工業が力を持ってる。メインは紡績業です。それと織物です。綿織物を作る。紡績業はアジア市場独占です。


【製糸業】 高く売れる高級品としては、製糸です。この糸はシルクです。絹です。高級品です。これはアメリカに輸出する。日本はかなり輸出先としてアメリカ市場に頼っている。
アメリカに頼っているもう一つは、ここから急速に出てくるエネルギー源が、時代はまだ石炭ですけれども、これが石油に変わっていきます。まだ今のような、サウジアラビアとか中東の石油は見つけたばかりで、まだ採掘されていない。エネルギーへの生命線、日本の石油はほぼ100%アメリカ依存です。こういう状態です。次の太平洋戦争というのは、アメリカが日本への石油を切ると言った。これは日本で死活問題になっていく。


【鉄鋼業】 鉄鋼業については、石油の前の石炭です。中国に南満州鉄道が経営する鞍山製鉄所を日本がつくります。
それから、国内製鉄としては北九州に八幡製鉄所がある。今の北九州は鉄冷えで、人口減少率は九州ナンバーワンです。八幡製鉄所は、このあと新日本製鉄所になります。今は住友金属と合併して新日鉄住金という。日韓関係の問題は過去20年間は従軍慰安婦問題だった。最近、韓国がこの新日鉄住住金がらみで、また新たな問題を要求してきた。日韓併合で韓国は日本の領土だった。そこで工場労働者として強制的に日本に連れてきたから、これを徴用工問題といって日本に賠償を求めた。そういう問題が持ちかけられているところです。ここらへんは八幡製鉄所がらみです。


【化学】 化学部門では、それまで日本はドイツから薬品や肥料を輸入してたんだけれども、第一次大戦でドイツと戦っているから、ドイツからの輸入が入ってこなくなる。そうすると日本は自分で作るしかない。それが作れるんですね。日本はすでに技術的にその水準にあります。薬品や肥料の国内生産が可能になったということです。


【電力】 それから新たな動力源として電力です。それまで明治時代は蒸気力だったんです。福島県の猪苗代発電所から送電線を張って、まず東京に送電を開始した。それまでは電気なんかないです。

私が生まれたころにはすでに電気はあったけれども、まだ電灯に使っているだけだった。まだ水道がなかった。100年も200年も前のことじゃないです。私がハナタレ時分の50年ぐらい前のことです。どうやって水飲むか。ちゃんと農家には水瓶があって、寝る前に汲んでおくんです。そして一晩、寝かせる。堀の水は今のように淀んでいなくて、けっこう流れていたから、水道の水ほど綺麗じゃないけれども、今の堀の水ほど、濁ってはいないんですよ。一晩寝かせると泥はだんだん底に沈殿していく。朝起きてお母さんたちがまずやることは、ひしゃくで水瓶の上澄みをすくう。そしてまず湯を沸かす。そしてご飯を炊く。いわゆるカマドでの飯炊きです。こういうカマドがあって、ここでワラを燃やす。そのカマドの上に釜をのせる。この炊き方が、はじめチョロチョロなかパッパで、1時間ぐらいかかってご飯を炊く生活です。時代としては、戦後までこういう生活は続いていました。
水瓶の上澄みをとるから、炊きたてご飯のなかにメダカが2~3匹入っていたりした。そんなことは大したことないんです。メダカを食ったって、死にはしない。あれが食えなかったら、この時代は腹空かして何も食えなくなる。そんなに驚くほどのことじゃない。

私が小学校のころまではクーラーとかなかった。こんなにハエがいないような世界じゃなかったんです。ハエは食堂でもブンブン飛ぶし、夏に出てくる蚊は、こんなもんじゃなかった。道路脇の電信柱に街灯があると、蚊が光を求めてわんさかと集まって、蚊柱が立っていた。台所にはハエたたきがあって、これを横に置きながら飯を食って、ハエがいるとパチッとたたく。うちのお袋とかものすごくうまかった。成功率98%ぐらいだった。
天井からは、ハエ取り紙といって、ベターッとノリがついた巻紙を天井から垂らすんです。最初はグルグル巻いてあって、画びょうで天井に留めると、自然に1時間ぐらいで垂れてくる。そこにエサを求めたハエが1匹、また1匹とやって来て、10日ぐらいでほぼ満席ですね。時々、死んだハエがちゃぶ台にポトッと落ちる。ご飯を食べていると、上からポトっとハエが落ちてくる。それでも大したことはない。取り除けばそれで終わりです。味もちがわない。

むかしは干し柿があって、よく家の二階に吊してあった。縄に挟んで干し柿を吊すんです。自家用としてつくっていたから、食べたらいかんと言われても、ときどき勝手に取って食べていた。あるとき妙に味がおかしい。柿が干すとしぼむんで、シワシワになって、その中にハエが食い込んで抜けきれなくなっている。ハエが柿の中に2~3匹つまって、私はそれを知らずに食ってから分かった。だから私はハエの味を知ってる。それでもこうやって元気に生きている。どうもなりはしない。今だったら、死ぬか生きるかの騒動しないといけないようなことでも、大したことないです。人間は死ぬときは死ぬけど、死なないときはそう簡単に死なない。あまり心配しなくていい。今の衛生観念から言うと、こんなこと言ったらいけないかも知れないけど。
今は虫一匹いたら大騒動して、こんなもの食えるか、という。虫も住めないような世界は、逆に恐ろしくて、人間だって住めない世界です。人間の都合だけで世の中は成り立っていない。虫一匹おかずに入っていたら、こんなもの食えるか、という。冗談じゃない。そんなことを言っていたら飯なんか食えない。これはついこの間のことです。と言っても50年は経つけれども。


【結果】 結果として日本は、それまで貿易赤字国で、輸入が多かった国だったけれども、大戦期間中は輸出が増大し、輸出超過で貿易黒字国になった。今まで農業生産額が1位だのが、工業生産額が1位になる。つまり日本は農業国か、工業国かと問われたら、工業国だと言えるようになった。工業国になると、工場地帯ができて、都市が発達してくる。都市が急速に発達していく。明治時代までは、農村生活の方が都会生活よりも水準が上だった。地方の生活が上だったから、好んで東京に行く人は、あまりいなかったんです。
東京に行くのは、多くは農家の次男、三男なんです。食い扶持がないから。それが好んで都会に行くようになる。都会の方が生活水準が上になっていく。政府もそれを奨励して、田舎にはない文化住宅、といっても今から見ると、普通の台所があるだけなんですけど。カマドに下りなくても、そのままご飯がつくれるような家です。カマドは土間にあって、当然一度ゲタに履き替えて行くんです。それがゲタに履き替えなくても行ける台所になった。まあ今からいえば当たり前といえば当たり前ですけれども、そういうのが文化の象徴としてもてはやされる時代になった。

となると、今まで都会で働いていた人は、実際は貧しい農家の娘さんたちなんです。これも口減らしです。「女工」と言われていた。それが自らすすんで都会に出て行く男子労働者が中心になっていく。
ここでは何が違うかというと、女工さんは若い時に働いて、いずれ実家に帰る。そして田舎に帰って結婚するんです。結局、田舎の人になる。
しかし、男は一度都会に出て行くと、田舎に帰ってこないんです。都会で嫁さん見つけて、そこに住み続ける。男が多いから、結婚の競争率は高いんです。
都会では、400年前に江戸ができた時から、男の結婚は厳しいです。うまく嫁さん見つけられると、次に子供が生まれる。この子供は東京っ子です。こうやって人口がどんどん増えていく。
今ではすっかり東京が日本の中心のようになってますけど、そういう都会中心への変化が、この時代から起こっていきます。
これで終わります。

新「授業でいえない日本史」 36話 20C前半 原敬内閣~大正期の文化

2020-10-24 09:16:23 | 新日本史5 20C前半
【原敬内閣】(1918.9~21.11)
米騒動によって寺内正毅内閣が総辞職すると、1918.9月に原敬(はらたかし)が総理大臣になります。第一次護憲運動後、首相は、山本、大隈・寺内・原とくる。その2ヶ月後の1918.11月に第一次世界大戦がイギリス側の勝利で終わります。


【本格的政党内閣】 寺内正毅が総理大臣を辞任した時には、立憲政友会が議会の第一党を占めていました。この立憲政友会の総裁が原敬です。天皇がノーと言えばダメになるんだけれども、天皇はそれほど我を通したりしないです。あっそうかと、だいたい認めるんです。こういう形で総理大臣が選ばれた。これが本格的政党内閣です。
議会の多数を占める党の党首として天皇から内閣総理大臣だと認められた。ただ寺内正毅内閣の総辞職後、新たに選挙が行われたわけではありません。それ以前の議会を引き継ぐ形で総理大臣になります。大臣のポストの多くを立憲政友会が占めます。ただし陸海軍大臣は政党員ではありません。

原敬の出身は岩手県です。前任の寺内正毅は長州でしたし、今までの総理大臣のほとんどは薩摩か長州出身でした。しかし、このあとはガラリと変わって、薩摩・長州出身の総理大臣はほとんど出てこなくなります。

ここまでの歴代長期政権は、1位が桂太郎、2位が伊藤博文です。

2位の伊藤博文を破ったのは昭和の首相佐藤栄作で、この人も山口県(長州)出身です。1位の桂太郎が破られたのはつい最近の2019年のことで、これは安倍晋三政権です。そしてこの人も同じく山口県(長州)出身です。
つまり今の時点での歴代長期政権は、1位安倍晋三、2位桂太郎、3位佐藤栄作、4位伊藤博文となり、すべて長州出身者です。しかも佐藤栄作は安倍晋三の叔父に当たります。こんなことは普通は起こりえないことです。このことの特異さを考えると、長州の力はどこかに温存されていったのかも知れません。
山県有朋、桂太郎、寺内正毅はすべて陸軍の長州出身です。それに対して、薩摩出身の首相はほとんど出てきません。

この原敬内閣には、長州閥として陸軍大将の田中義一が陸軍大臣として入ります。田中義一はのちに総理大臣になります。戦前では、彼が最後の長州出身の総理大臣になります。
桂園時代には、長州の陸軍と立憲政友会が対立していましたが、立憲政友会を母体とする原内閣は、長州の陸軍とここで手を結んだようにも見えます。


【パリ講和会議】 1918.11月に第1次世界大戦が終わると、翌年の1919.1月からその講和会議が勝ったフランスで行われる。これをパリ講和会議という。

この第一次世界大戦には、2つのフェイントがあるといいました。
1つはロシアが崩壊したということです。1917年のロシア革命です。そしてそれまで机上の空論だと思われていた計画経済の政府、これが実現した。これを社会主義と言う。
ソ連がなぜできたのかというのが、今までの疑問だったけれども、20年前からは、ソ連がなぜあんなにあっけなくつぶれたのか、というのがまた新たな疑問になって、疑問は非常に多いですね。
ロシア革命でロシアはソビエト連邦となる。君たちが生まれたころには、すでにこのソ連がつぶれてまたロシアになっていた。ロシア、ソ連、ロシアと変わります。


この第一次世界大戦は本来ヨーロッパの戦いであったはずです。日本は日英同盟があったから参戦したんです。しかもあまり加わってないです。
しかしアメリカはもともと何の関係もなかったし、同盟関係も結んでなかったけれども、これにアメリカが参戦した。これに参戦することによって、イギリスに不利な局面を一気に打開して、圧倒的にドイツをやっつけた。これでドイツも崩壊した。

さらにアメリカはイギリスなどの戦勝国に莫大な資金援助もしています。戦後はその貸し付けた資金をヨーロッパから回収することによって、ますますアメリカは繁栄していきます。

ここで王様がいなくなった国が、2つ出てきた。今まで、国には王様がいるというのが常識だったけど、ロシア皇帝は殺された。ドイツ皇帝は逃亡し、亡命した。そしていなくなった。
これによって、列強の中で王様がいる国は、勝ったイギリスだけになった。しかしこのイギリスの王様は、もう300年も前から政治の実権を持たない王様です。第一次大戦は、一面では王国つぶし、帝国つぶしの戦いです。


【ベルサイユ条約】 条約が結ばれたのが、パリの郊外のベルサイユです。ベルサイユ条約という。しかしここで主導権を握ったのは、もうイギリスじゃない。
最大の手柄を立てたのはアメリカです。アメリカの軍事力、それともう一つはお金です。この資金力がないと、この戦いは勝てなかった。その資金を提供したのが、大戦の1年前に設立された連邦準備制度理事会というアメリカ中央銀行、FRBであった。非常に分かりにくい名前ですが、アメリカの中央銀行です。今もここでドル札が発行されています。それを設立した大統領はウィルソンという。アメリカの民主党出身ですが、生え抜きの政治家ではなく、もともとは大学教授です。金融資本家の援助を受けて大統領になった人です。

このパリ講和会議に、日本からは元老の西園寺公望が全権で参加する。
まずドイツが悪いとして、責任を負わせ、徹底的に賠償金をもらおうという戦後処理を行います。
それから、民族は自分の判断で国を作っていい。民族自決の原則です。ヨーロッパに民族で国を作っていく。逆に言うと、ヨーロッパは、ますます小さい国が乱立していくんです。
ではアジアはどうか。植民地のままです。こういうのをダブルスタンダードという。民族自決だといいながら、いいよというのはヨーロッパ人だけ。アジアは植民地のままです。アフリカ人なんかはとんでもない。こういう体制をベルサイユ体制という。

日本は敗れたドイツの領域をもらう。中国の山東省、それから南洋諸島です。この日本の領域は前回に地図で示しました。今と全然違う。これに対してアメリカが、それはもらいすぎだ、という。日本は、日英同盟でイギリス側に味方したけれど、これはもらいすぎだ、納得できない、と言って、アメリカはここから、巻き返しをはかっていく。

こういう日本の領土の拡大に対して、併合された方は腹を立てる。朝鮮も、中国も。反日運動です。
日韓関係や日中関係は、このあたりの歴史からずっと絡んでくる。反日運動だから、日本にとっては嬉しいことではありません。慰安婦問題でも、最近出てきた徴用工問題でも、お金が絡むんです。オレには関係ないじゃなくて、日本が払う賠償金は、もともとは誰のお金か。税金です。いろいろ我々への手当とかが削られて、これが朝鮮に行く、中国に行く、という構造です。ごめんなさいと言った以上は、必ず賠償がきます。だから、事実が分からないまま、その場しのぎでごめんなさいと、いうとあとで大変なことになる。
朝鮮は三・一独立運動という。1919年3月1日に起こる。中国は五・四運動といいます。1919年5月4日に起こる。中国の場合は、日本が突きつけた二十一ヵ条要求に対してです。


【国際連盟】 それから、このパリ講和会議で、もう一つ、突然出てきたのが・・・・・・朝起きたらできていたという感じなのが・・・・・・国際連盟です。
このあいだ、少し言ったけれども、アメリカ大統領ウィルソンがこの会議のリーダーシップを取っている。それをいいことに、アメリカ国内にさえ何の根回しもなく、この人が突然提案したのが国際連盟です。
アメリカがそんなに言うんだったら、反対はできないな、当然アメリカもはいるだろう、と思っていたら、フタを開けてみるとアメリカは入らないという変なことになる。

アメリカ議会は、こんなのは初耳だ、何で急にこんなことを要求するのか、しかも国際会議で提案したあとに、と言う。アメリカはもともと孤立主義といって、ヨーロッパには関心を持たない。その代わり、ヨーロッパからの干渉も受けないというスタンスなんです。これをモンロー宣言という。干渉しない代わりに、干渉もするなという立場なんです。
国際連盟はまったく逆です。干渉もするし、その代わり意見も聞きましょうということです。ぜんぜん違う。ただ武力は持ちません。それが今の国際連合と違うところです。
なぜこのウィルソンは、こんなことを急に提案するのかというのは、話せば話すほどよく分からなくなるから、ここではカットしますが、アメリカは参加しない、ということを知っておいてください。アメリカが提案したのに。異常な話です。
ということは、次に第二次世界大戦が起こっても、アメリカは集団安全保障上、それに加われないはずなんです。アメリカは第二次世界大戦が起こっても、長いこと戦争に加われなかった。しかし日本の真珠湾攻撃をきっかけに参戦します。そうなるまでの動きはあとで詳しく見ていきます。


【シベリア出兵の継続】 その後の日本は、ソ連が社会主義になったというのが怖くて怖くて仕方がない。日本に一番近い国というのは、実はソ連なんです。だからソ連に干渉していく。シベリア出兵という、ということはすでに言いました。
しかしこれはうまく行かないし、小競り合いがあっても、日本は寒すぎてうまく戦えない。結局、うまくいかないけれども、これをずっと続けて、撤兵したのはさらに4年後の1922年です。日本は列強の中で一番ムダ金を使った。これは失策です。1920年のニコライエフスク事件でも多くの死傷者を出し失敗している。


【私立大学】 国内面で原敬がやったことは、都会に人口が集中しつつある。都会の生活が上がりつつある。教育水準も高まっている。しかし大学が足らない。だから大学をつくる。
今まで専門学校と言っていたものを私立大学とする。例えば東京専門学校は、新宿付近の早稲田にあったから、名前を変えて早稲田大学となった。


【普通選挙】 それからこの内閣は、非常に庶民の人気が高かった割には、普通選挙法には反対します。所得制限を完全には撤廃はしない、しかし、撤廃したいという人が多かったのを受けて、3円に引き下げる。明治では、最初は15円、例えばですけど、納税額が1500万円ぐらいの大金持ちであった。しかし納税額が300万円ぐらいに引き下げました。それでも高いですけど。もうちょっとすると、普通選挙になります。


【大戦景気の反動】 大戦中は景気がよかったけど、戦争が終わると、大戦景気の逆になる。大戦景気は、ヨーロッパがつくれなかったからです。ではヨーロッパつくれるようになれば、当然そのぶんの日本の販売力は落ちるんです。ヨーロッパが戦後復興していくと、その年すぐに、また日本は輸入超過になり、貿易赤字国に転落していく。
こんなこと分かってるじゃないか、と思うけど、恐慌というのは、わかっちゃいるけどやめられないで、アッ売れない、と思ったときにはすでに遅くて、生産調整が間にあわないのです。それですぐに戦後恐慌です。1920年に戦後恐慌に陥いる。このあと、ヨーロッパは復興していきますが、日本はこのあと10年間、20年間とずっと恐慌つづきです。これは現在の平成不況の30年間と似ています。これがその第一発目です。これでもか、これでもかと、恐慌が来るんです。

バラの未来を描こうとした原敬は、急速に人気を落としていきます。そんななかで、東京駅でブスッとやられる。暗殺です。1921.11月です。犯人は国鉄職員の18歳の少年で、背後関係は分かりません。ただ単独犯とは思えません。こういう形で原敬は終わります。顔が端正で人気が高かったけど、政党政治に暗い影が落ちてくる。
そのあとは、予期しない暗殺だから、ピンチヒッターが出てくる。与党の立憲政友会はそのままです。




【高橋是清内閣】(1921.11~22.6)
原敬が暗殺されると、大蔵大臣であった高橋是清がピンチヒッター的に、1921.11月から原敬内閣をそのまま引き継ぎます。与党もそのまま立憲政友会で、その立憲政友会の総裁にもなります。
この人はここよりも、あと1回あとで大蔵大臣として約10年後に出でくる。そこが彼の本領発揮です。彼は日露戦争の資金をアメリカから取り付けた人で、アメリカとのパイプをもった人です。もと銀行家でお金の世界に詳しい人です。ここではピンチヒッター的です。しかしこのピンチヒッターの時に、アメリカを中心として、国際社会は大きく動いてきます。そのアメリカに対しては、なすすべがありません。



【ワシントン会議】 アメリカは日本を敵と見立てています。そして第2回戦をふっかけてくる。イギリスを中心とする主要国に呼びかけアメリカで会議を開きます。これが1921年ワシントン会議です。アメリカ大統領はハーディングです。
背景にあるのは日本と米英の対立です。日本全権は、次の首相になる加藤友三郎です。この時は海軍大臣です。海軍軍人で海軍大将を務めた人です。


【四カ国条約】 この会議で日本が結んだ条約が、1921年の四カ国条約です。四カ国というのは、アメリカ、イギリス、フランス、日本です。
このなかで軍事同盟があるのは、日英同盟です。アメリカはこれを切りたいんだけれども、切れとは言えないから・・・・・・ここらへんがウソも方便です・・・・・・日英同盟はいいですね、オレも入りたいです、フランスさんも入れて四カ国同盟にしましょう、という。
そのあと、どうなるか。イギリスは日英同盟を組んでいたから、日本びいきになるかというと、アメリカとイギリスは言葉も同じ、民族も同じアングロサクソンです。イギリスは今に至るまでアメリカと喧嘩したことはありません。さも当然のようにアメリカ側につく。
ではその四カ国同盟は機能するか。誰もがウソも方便だと知っている。ウソと分かっていても、日本はどうしょうもない。世界の基軸である米英のまえに、いとも簡単に日英同盟は廃棄されます。

幕末に伊藤博文がイギリスに近づいて以来、日本とイギリスとの関係はずっと続いてきましたが、ここでイギリスとの関係は大きな転換点を迎えたといってもいいでしょう。伊藤博文が日露戦争の前に、日英同盟に反対して日露協商論を唱えたことは、この観点から考えるべきことだと思います。イギリスを中心に世界を見ていた伊藤博文は、イギリスのホンネを最初に見抜いた政治家であったともいえると思います。伊藤博文は二階に上らされたあと、イギリスからハシゴをはずされることを恐れていたのではないでしょうか。

ただ日本とイギリスとのレールを敷いた政治家もまた伊藤博文であることは間違いのないことです。伊藤博文がハルビンで暗殺されたことにも謎はつきまとっています。

大きな流れを見ると、幕末からの伊藤博文の親英路線を受け継いだのは、同じ長州でも山県系の桂太郎の陸軍です。そして親英路線の象徴である日英同盟を切ったのが、ワシントン会議全権で海軍大臣の加藤友三郎です。この人は広島県出身で、薩摩閥ではありませんが、海軍の実力者です。
このあとの長州閥で陸軍出身の首相として田中義一が出てきますが、失脚に近い形で退陣していきます。れ以降、陸軍内の長州閥の勢力は低下していき、日本の敗戦まで長州出身の首相は現れません。
ところが米英に敗れた日本が、戦後になって再び親米英路線を取ると、今の安倍晋三首相の祖父である岸信介をはじめとして、再び長州出身の首相が登場してきます。


【九ヵ国条約】 日英同盟を廃棄して、アメリカは、日本は取りすぎだと思っていたから、その目的を1922年の九カ国条約でかなえます。
九ヵ国すべてを覚えるのは大変です。前に述べた4ヶ国にどこが加わったか。ポイントは一つだけ、中国です。中国の日本権益をチャラにしよう、というのが、アメリカの狙いなんです。
メインは、大戦中に日本が中国に突きつけた対華21ヵ条の要求の一部を否定する。ドイツから取った山東省を中国に返せという。


【海軍軍縮条約】 さらに、戦争しないようにしましょうね、といいます。
攻める軍隊は陸軍じゃないんですよ。陸軍は守りの軍です。ホント言うと日本の戦後はもともと専守防衛だった。それを数年前に安倍政権が変えたけれども、ホントは専守防衛で守るだけです。陸軍だけでいい。守るだけだったら飛行機は飛ばなくていいんです。飛行機はもともと攻めるためのものです。では飛行機が飛んでいない時代はどうだったか。この時代にやっと飛行機が飛び始めたのです。攻める軍隊は海軍なんです。だから攻める軍隊を削減しようという。陸軍じゃなくて、海軍軍縮条約を結ぶ。1922年です。

どういう割合で削減するか。米英日の主力艦の制限です。主力艦というのは・・・・・・まだこの時にはないけど第二次大戦の時には戦艦大和とか戦艦武蔵とかができる・・・・・・そういう主力艦がある。
米:英:日で、5:5:3とした。国力としてはこのくらいのものかなあ。どうですか。ここにどういうトリックがあるか。5:5:3でも、米英は仲間です。日本ははずされたんです。実質は米英は合計して5+5で10です。実体は10対3です。これどうですか。絶対に勝てないです。
このあとイギリスが2度と日本側に着くことはないです。ここで決まった体制をワシントン体制という。日本にとって重要なのは、1回戦のベルサイユ体制ではなくて、この2回戦のワシントン体制です。これで決まりなんです。

日本内部には、この体制に対して不満も高まった。日本に不利だからです。しかし、イヤこれでいい、アメリカと仲良くやっていきましょう、と一貫してアメリカにすり寄る人がいる。これがアメリカ大使の幣原喜重郎です。これを協調外交といいます。
この幣原喜重郎が歴史で一番大きく出てくるのは、日本にピカドンが落ちてアメリカに負けた太平洋戦争後、まず内閣総理大臣になるのがこの幣原喜重郎です。ここで戦後日本の半分以上が決まる。農地改革から財閥解体から一貫して、親米です。元アメリカ駐在の外交官、アメリカ大使館員です。
高橋是清内閣は、ワシントン会議が終わると、内閣の方針が一致せず、総辞職します。




【加藤友三郎内閣】(1922.6~23.9)
次は、ワシントン会議で全権を勤めた加藤友三郎が1922.6月に総理大臣になります。海軍出身のもと海軍大将です。

この4ヶ月前の1922.2月に元老の実力者山県有朋が死亡し、元老は松方正義と西園寺公望になっています。元老の話し合いで、加藤友三郎が選ばれると、加藤は立憲政友会が協力することを条件に首相を引き受けます。それを天皇が了承するという形です。ここで政党内閣がいったん切れます。非政党内閣です。

しかしこの人は任期途中で病死します。原敬は暗殺、このもと海軍大将の首相は病死。このあとよく人が死んでいきます。肝心なところで。明治維新とか、明治維新直前とかでも、よく人が死んでいったでしょう。将軍が死んだら、天皇も死んだとか。坂本龍馬も殺された。

ただ世界史をみると、ここでドイツがとんでもないことになる。パン一個が1兆円とか、リヤカーいっぱいお札を積んでいっても、パン一個しか買えないとか、とんでもないインフレーションになる。これも半分は謎ですね。なぜここまで中央銀行が紙幣を刷ったのか。
このインフレーションは、これ変な話があって、パン一個が1兆円になるという事は、それまでまじめに働いた人は、毎月毎月1万円ずつ貯金してたんですよ。貯金して100万円を貯めた。しかしパン一個が1兆円する時代で100万円の貯金とか、何の役にも立たなくなる。庶民の資産は全部パーになる。そういう事になって、ドイツ人は身ぐるみ剥がされていく。ドイツ人全員が貧乏になる。
ではそのドイツ人が貧乏になった分の富は、どこに行ったのか、というのがよく分からない。
そんなにドイツが苦しかったら、と言って、アメリカが、貸しましょうかと言う。これが甘いささやきですよ。貸しましょうかと言って、1924年にアメリカ人のドーズという人が来る。このドーズは、この後に副大統領になる大物なんです。
その次を言うと、アメリカドイツ着お金を貸してる。しかしこの後5年後の1929年世界大恐慌が起こる。そしたらアメリカもお金が足らなくなって、ドイツに貸したお金を急に早く返せという。ドイツは、そこでまた失業者だらけになる。そのあとに出てくる政治家がヒトラーです。その世界恐慌まで、あと5年です。




【社会運動】
この大正時代の社会は、気分は明るい。大正デモクラシーといいます。普通選挙運動が盛んです。普通選挙運動としては吉野作造という人、東大の先生です。

それから、婦人も強くなる。1911年に青鞜社ができます。青い靴下という意味です。ヨーロッパのマネです。ヨーロッパのダテ女たちが、青い靴下をそろえて、女性の権利を声高に求めたフランス女性たちがいるんですね。それが大好きで、平塚雷鳥(らいてう)という。本当は、明子さんというんです。平塚明子です。ペンネームを雷鳥という。すごい名前です。

それから1920年に新婦人協会ができて、女性にも政治活動をさせろ、という。それから次には、女性にも参政権をくれという運動になる。

また男も賃金上げろ、労働時間を減らせ。1912年に友愛会ができます。そういう労働運動の団体です。この団体は、名前から分かるように、最初は優しかった。友達と愛情だから。労使協調なんです。景気が良いときはいいんですよ。しかし日本は第一次世界大戦が終わると、景気が悪くなってすぐ恐慌になっていく。そして失業者があふれる。給料が下がっていくと、本気になっていく。鋭い対立が起こる。名前も変えて、友愛会が1921年に日本労働総同盟となる。そしてストライキが頻繁に起こっていくようになる。

そういう中で、計画経済じゃないとダメなんだという政党、その運動を社会主義運動という。政党は1922年に日本共産党ができる。今もあります。この時には非合法に結成されます。今は合法です。
しかしこれは社会主義運動の本当の目的は1国だけじゃダメなんだという世界革命論なんです。だから世界革命を起こすために、あっちこっちの国に支店を作る。支部を作る。その日本支部・・・・・・親玉はソ連のコミンテルンといいます・・・・・・としてできたのが日本共産党です。

それから農民も、自作農ばかりじゃなくて、地主の土地を借りて耕している農民が多い。小作争議という。サラリーマンでいうと給料上げてくれ、というのといっしょです。地方でもこういうのが起こっている。




【大正時代の文化】
大正時代、第一次世界大戦後です。1920年前後です。時代的な雰囲気はデモクラシーの風潮が盛んで、大正デモクラシーといいます。


【政治思想】 その代表的な人が、政治思想としてデモクラシーを推進していった人は、東京大学の法学部の先生で美濃部達吉という人です。この人の憲法学説を天皇機関説といいます。
実は戦前の日本は民主主義国家ではないんですよ。正式な法的位置付けとして、主権は国民にない。主権は誰なんですか。天皇なんです。そういう中で、どうやって民主主義に近づけるかという理論を構築した。主権は天皇にあるとは言わずに、国家にあるとした。
1歩拡大すれば、「天皇は神聖にして」とあるから、神様であるという考えも出てくるんです。それを天皇は機関であるとした。少なくとも神様とはいっていない。天皇というのは法的には、いろいろ内閣とか文部省とあるような、一つの機関としてととらえるべきなんだ、ということです。少なくとも神ではない。神様になったら絶対文句言えなんなるから。これが定説であったということを知っていてください。ただこれはあと10年経つと、軍部によって否定される。軍部が全部悪いとは言わない。その過程を今から言っていくわけです。

次が吉野作造です。民本主義という。民主主義じゃないのか。これをすぐ民主主義と書くんです。民主主義と書けないという理由を今言ったんです。日本は民主主義国家ではない。主権は天皇にあるから。そのなかで、主権のありかを、主権がどこにあるかと言いはじめると難しくなるから、これは目的論になる。政治は民衆本位であるべきだとした。これが民本主義です。


 (日本に来た)宣教師たちは日本をキリスト教化する工作を進めていました。その一例が大正時代に表面化した大正デモクラシーですが、大正デモクラシーは日本を混乱に陥れました。大正デモクラシーを主導した1人の吉野作造はクリスチャンです。日本の指導的クリスチャンの多くがアメリカの宣教師と呼応して、日本の国体の破壊活動をしました。言い方は悪いですが、彼らはスパイと紙一重の活動をしたのです。私は大正デモクラシーこそが、日本の国体を破壊しようとした元凶だと考えています。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 2015.12月 P125)



【文学】 次は文学です。白樺派という。白樺というのは雑誌の名前です。この白樺という雑誌に小説を中心にのせた人たちのグループです。主に学習院大学出身です。いわゆるお金持ちですね。身分も高くて、お公家さんとかいる。代表的な人が、武者小路実篤です。「むしゃこうじ」という名前でわかる。もと貴族です。それから有島武郎とか志賀直哉という人たちです。

自分たちの理想郷の村を作るんだと言って、九州に乗り込んで、宮崎県の山奥の村を買いとって、ここらへんがお金持ちでしょう。親の金です。自分たちで新しき村を作るんだといって、共同作業をやったりするんだけれども、これはうまくいかない。ただ新しき村は、ここでつぶれなくて、実は今も1人か2人で関東あたりにあるらしい。この新しき村の流れというのは。なぜこれがうまくいかなかったか。やっぱり男と女の関係ですね。それでうまくいかなかった。彼らが目指したものは、集団ではなくて、個人主義です。この個人主義という考え方も流行ってくる。

それからもうひとつの派。新思潮派という。芥川龍之介です。よく茶川と書いたりする。茶川龍之介じゃない、芥川龍之介です。作家になりたい人の登竜門は何という賞か。この人にちなんで。芥川賞です。これをもらうと、だいたい一生食っていける。最近では、漫才師の誰がもらったですか。又吉直樹がもらった。読んではいないけれども。

それから労働運動が盛んで、貧しい労働者の生活実態を描く。今はほとんど消えたけれど、プロレタリア文学というのがあります。雑誌の名前は「種蒔く人」です。
代表作家は、小林多喜二。小説の名前は「蟹工船」という。本当に蟹を取るための遠洋漁船の中に、たこ部屋状態で働いている貧しい漁船の乗組員たちの重労働の実態ですね。10年ばかり前に、日本の景気が暗黒の10年から20年になったあたりで、若い人たちに一部火がついた。50年ぶりにこの蟹工船がものすぐこ売れた年がありました。


【民俗学】 それから学問としては昔のことというと、徳川家康とか、有名な人、源頼朝とか、そういった人を調べるのが歴史だったけれども、この人は、誰も知らないような、例えば私の爺さん婆さんの、そのまた爺さん婆さんとか、そういう人たちの生活を知りたいと思った。名づけて常民といった。柳田国男という人です。彼の学問を民俗学という。ミンゾク学には2つあって、世界にいろいろいる民族を研究するのを民族学という。日本の姿に限定して、それが近代化で失われていく中で、それを取り戻そうというのが民俗学です。ゾクの字が違う。


【マルクス主義】 それから、河上肇の「貧乏物語」です。マルクス主義者です。この「貧乏物語」が今までと違うのは、貧乏というのは、お前の働きが悪いからだと、それで済まされていたのが、明治の石川啄木という詩人が、「働けど 働けど 我が暮らし 楽にならざり じっと手を見る」と詠んだ。何を歌ったか。一生懸命働いても俺の力では貧乏にしかならんという。社会に責任がある、という考え方です。貧乏は個人の責任ではなく社会の責任だ。これが今の福祉国家の考え方の一つの柱でもある。
こういう新しいのが出てきている。


【新劇】 今度は劇です。今でも、いわゆる演劇の世界というのは、地方にはないけど、福岡にちょこっとできたけど、客はあまり入ってない。東京にある。なぜかというと、大手マスコミの新聞、テレビ、映画、ラジオ、そういうメディアには全部、統制がかかる。本当に自分が言いたいこと、表現したいものというのを、何も統制がかからずに伝えたい。客は50人、100人程度でもいいから見て欲しい、というのが演劇の世界です。だから基本的に貧乏なんです。
それでできた芸術座。中心は島村抱月という大学の先生です。日本初の女優松井須磨子が誕生しますが、やっぱりうまくいかない。ただれた男女関係になる。これは今でもある芸能界の常です。

次に築地小劇場です。築地が出てきました。移転した築地魚市場ができる前にあった。あそこらへんにあった。小山内薫という。東大生です。まったく大学の勉強はしない。大学に行っても。こればっかりやっているという人です。芸術家というのは、生活をかえりみず、そういうことをやる人が多い。成功する人もいれば、リスクとして半分以上は身を滅ぼしたりする人もいる。


【美術】 美術界では、二科会というのが作られていく。この会は今でもあります。日本画もけっこう頑張ってる。西洋画ばかりでなくて。日本美術院というのもある。
その日本流で、現代風だという評価を受けているのが、竹久夢二という。なよっとした、ちょっといなせな現代風の洒落た細身の女を描く。黒い猫を抱いた「黒船屋」とかが載っています。


【雑誌】 それから、一般大衆向けには雑誌が出てくる。今はないけれども、一番売れ筋は「キング」です。月刊誌ですね。
「中央公論」は今でもある。それから「改造」、これはみない。
「文芸春秋」はあります。月刊誌としてナンバーワンです。今でも本屋に行けばあります。

むかし本は高かったんだけれども、このころ大衆化を目指して、とにかく安くしようといって、1冊1円です。円本といいます。1円は、今の値段で、大まかにいって1000円です。
本が1000円で買える。普通5~6千円したんです。5~6千円だったら買えない。しかし1000円だったら買える。やっぱり1000円までは出して良い本は買わないといけない。
今はアマゾンで、200~300円で送料が300円かかって、500~600円で買える。だから、出版社は儲からない。古本だから。


【ラジオ放送】 電波では、ラジオ放送が開始された。テレビなんか、まだないです。テレビは、私が生まれたころには家になかった。日本放送協会ですね。NHKの始まりです。テレビもなければ、電話もありません。
電話がないときに、どうやって連絡をしていたか。5キロ先の親戚とかザラにある。これはうちの話、私の親父は昭和の初めに生まれましたが、祖母(親父のお袋)から、親戚のおばちゃんに、明日つかいに行けと言われて、手紙を持って渡しに行っていたという。一生懸命歩いて、子供の足で片道5キロ、往復10キロです。きつかったと思うよ。向こうのおばちゃんが、よく来てくれたね、と言ってかわいがってくれた。饅頭を食わせてくれた。甘いものは、むかしは無かった。歩いて行くのは、イヤだったけれども、着けば楽だった。メシ食うと動きたくなくなるから、泊まっていく。帰らない連絡はできない。どうしていたのか。

村に最初に電話が来たとき、覚えている。その家は大きな柱を立てて拡声器をつけた。村の人の緊急の用事は全部そこにかかってくる。だから電話をつけて、そこは民家ではなく、店だったからね。しょっちゅう、そこに何さんを呼んでくださいと電話がかかってくる。何々さん、電話がかかってるよ、とマイクで村中に呼び出す。そしたら、大急ぎで走って行く。200メーターぐらい全力で走っていく。
その次は何だったか、ダイヤル式ではなく、村役場の有線電話です。君たちは知らないだろうね。こんな話をしていると進まない。ただ村中筒抜けなんです、受話器の形をしているけど。隣の家で、言ったらいけないことを言っているというのが筒抜けなんです。だから秘密のことは話せなかった。
これで終わります。

新「授業でいえない日本史」 37話 20C前半 ドイツの状況・関東大震災~金融恐慌

2020-10-24 09:15:00 | 新日本史5 20C前半
【ドイツの状況】
前にも少しいいましたが、ここらへんは、世界の動きとリンクしないとわからないです。第一次世界大戦で負けた国はドイツです。正式にはもうドイツと言わない。1919年にヴァイマール共和国に変わる。このときのドイツは、ヴァイマール共和国またはワイマール共和国という。皇帝は逃げていったから、王政でもなくなった。
そしてそこでは米英中心に・・・・・・半ば日本国憲法と似ていますが・・・・・・新しい憲法をつくりなさい、と押しつけられたんです。世界で一番民主的な憲法と当時は言われた。これが1919年のヴァイマール憲法です。これが戦後すぐできる。


【大インフレーション】 しかしこれでうまくいくかというと、莫大な額の賠償金を科せられたドイツは、なかなかそれを払えない。払えないことに対してフランスが腹を立て、1923年にドイツのルール地方に軍事侵攻してそこを占領した。
それに対して、ドイツの大量の労働者がストライキを打って働かなくなった。そうすると、ドイツの物価が、2倍、3倍どころか、1兆倍になった。大インフレーションが起こる。これが1923年です。このことの庶民にとっての意味は、一生懸命1万円ずつ貯めていて、銀行に預けた100万円の預金額が、パン一個が1兆円するようになると、何の価値もないようになる。国民の資産が奪われていった。
その対策として、シュトレーゼマン内閣のもとで、1923.11月に、1兆マルクを1マルクの紙幣と交換する。これで100万円なんか、ほとんどないに等しいですね。こういうふう金融手法を使って、インフレーション自体は収束したんだけれども、ヴァイマール共和国とはいったい何なのか。自分が貯めた100万円が一気に吹っ飛ぶ、こういう国というのはいったい何なのか、と不満が高まってくる。
ドイツでは、大インフレーションに揺れるヴァイマール共和国への不満から、同月の1923.11月にヒトラーがミュンヘン一揆という軍事行動を起こしています。このころからヒトラーの動きはあります。すぐ失敗して捕まえられますけど。このあとヒトラーらは投獄される。この間に書かれたのが「我が闘争」です。
アメリカも同時に、ドイツにはお金がない、賠償金が多すぎるからお金を貸しますよ、という。これが1924年のドーズ案です。アメリカがドイツにお金を貸すことになった。
しかし、5年後の1929年には、アメリカ自身が世界大恐慌を起こして、お金が足らなくなると、貸したドイツからまっ先にお金を引き上げる。するとドイツが一番失業率が高くなる。アメリカが恐慌を起こして、ドイツ人が一番苦しむという形になっていく。このような中で、4年後の1933.1月にヒトラー内閣が誕生します。


この他の国際情勢を見ると、この前年1922年には、戦争に敗れた大帝国オスマン・トルコが崩壊して、小さなトルコになる。この旧オスマン帝国領にもイギリスやフランスが乗り込んでいきます。




【山本権兵衛内閣②】(1923.9~23.12)
では日本に戻ります。どこからの続きか振り返ってみると、1921.11月に原敬暗殺のあとを受け、ピンチヒッター的に高橋是清が首相になった。しかしアメリカが第二ラウンドとしてワシントン体制に持っていって、日英同盟は破棄された。海軍軍縮条約では米:英:日で、5:5:3だけど、本当は10対3で日本不利になる。こういう状況になって、第一次大戦で勝ったと思っていたら、どうもおかしいということで、その高橋是清内閣もつぶれた。
次は1922.6月に、ワシントン会議で全権を勤めた海軍の加藤友三郎が総理大臣になります。ここで政党内閣がいったん切れます。非政党内閣です。しかし加藤は任期途中の1923.8月に病死した。

加藤友三郎内閣のあとを受け、1923.9月同じ海軍の第2次山本権兵衛内閣が成立します。2回目の組閣です。しかしこの山本権兵衛が首相として組閣作業をしている最中にも、とんでもないことが起こります。



【関東大震災】 1923.9月、関東大震災の発生です。1923年は、ドイツでは大インフレーション、日本では関東大震災、どっちも踏んだり蹴ったりです。
日本は、この3年前の1920年に戦後恐慌が起こって景気が悪くなったばかりのところに、さらに追い討ちをかけるように関東大震災が起こる。ここから景気がさらに悪化していき、震災恐慌に陥っていく。

そうすると銀行から借りたお金が返せない企業が続出する。家も潰れて、工場もつぶれたら、入ってくるはずの売上代金が入らないから、そうなると返せるはずの借金も返せない。ではそのまま工場を潰していいか、というと、この人は、まず支払い猶予を出す。30日間は借金返せと言うな、と命じた。
そうすると、借りた人は、手形で借りています。私が銀行から、100万円借りるときには、私が手形を発行して100万円と書いて、支払期日を書いて、名前を書いて、印鑑打って、その手形を銀行が持っている。これを銀行は、期日に払ってもらうことで、利益を上げているけれども、結局私は払えないんです。30日間だけ待ってといっても、うやむやになる。私は家もつぶれて、食うや食わずで、ちょっと待ってくださいよ、と言うしかない。銀行がそういう返済の見込みが立たない手形をいっぱい持ち腐れしていく。こうやって銀行に溜まった不良手形を震災手形という。返済できるのか、できないのか分からないような手形、これが銀行の金庫の奥にいっぱい溜まっていく。

このままだったらお金が回収できずに銀行自体が潰れる。そういった時に、本当はやったらいけないけれども、日本銀行が金本位制の制約を破って、お金を刷る。日本銀行は1万円札を刷れるんです。ガバガバ刷って、それを銀行に貸すんです。これを日銀特融という。日本銀行の特別融資のことです。A銀行がつぶれそうだと思ったら、日本銀行がA銀行にお金を貸す。これで急場をしのぐけれども、根本的解決にはならない。本当は、未払いの震災手形をちゃんと支払ってもらわないといけない。これを一日延ばしにしていくんです。
数年間そのままです。あれどうなったかと、みんな不安なんだけれども、解決策がないから、みんな手を触れない。こういう状態で、じわじわと日本の銀行の経営が悪化していく。


【虎ノ門事件】 この時は大正時代で、のちの昭和天皇が皇太子です。1923年、その皇太子を暗殺しようとする事件が起こった。これが虎ノ門事件です。銃を発砲した青年の父親がこともあろうに国会議員だった。それで大騒動になって、山本内閣はその責任を取って総辞職していく。これが薩摩出身の最後の内閣総理大臣です。その後は、薩摩出身の総理大臣は出てきません。長州出身者はこのあとも出てきます。




【清浦奎吾内閣】(1924.1~24.6)
次の首相は清浦奎吾が就任します。貴族院出身で枢密院議長の清浦奎吾が内閣総理大臣になる。1924.1月です。清浦奎吾は衆議院議員ではない。選挙によって選ばれた人じゃない。こういうふうに、大正時代は政党政治の時代だといったわりには、清浦奎吾は、貴族院出身で政党内閣ではない。山本権兵衛は海軍軍人で政党内閣ではない。その前の加藤友三郎内閣も海軍出身です。3代続けて非政党内閣が生まれた結果、これあんまりだ、ということですぐに反対運動が起こる。これが1924年第二次護憲運動です。


【第二次護憲運動】 これを第一次に続いて第二次護憲運動という。護憲というのは憲法を守るという意味です。
ここで、お互いライバルであった三つの政党が、この時だけは手を組もうという提案に賛成した。憲政会立憲政友会革新倶楽部の三つです。この三つを、護憲三派といいます。立憲国民党は、1922年に革新倶楽部と名前を変えています。
内閣は議会を解散して、総選挙を行います。するとこの護憲三派がみごと勝っていく。下の政党系図で確認してください。

(政党系図)


このとき三派を結成した各党の中心人物は、憲政会加藤高明です。この憲政会が第一党になります。政党内閣が目標です。ということは、一番勝った政党のリーダーは次の総理大臣です。
立憲政友会の総裁は、総理大臣であった高橋是清です。ここで政党のナンバーワンとナンバーツーが逆転した。立憲政友会は反主流派が政友本党として分裂し、憲政会に議席数で負けた。
三番手になった革新倶楽部の総裁は、犬養毅です。

こういう護憲運動が、第一次護憲運動以来、約12年ぶりに盛り上がった。第一次護憲運動は1912年、この第二次護憲運動が1924年です。この結果、清浦奎吾は1924.6月に総辞職します。約半年の短命政権です。

ほぼここで大正は終わりです。大まかに言うと大正時代とは、第一次護憲運動と第二次護憲運動にはさまれた時代です。

昭和元年は1926年です。だから昭和換算は1925をひきます。


【内閣覚え方】 「山のお寺 原たかし 賛成
山の 山本権兵衛内閣①
お  大隈重信内閣②
寺  寺内正毅内閣
原  原敬内閣
た  高橋是清内閣
かし 加藤友三郎内閣
賛  山本権兵衛内閣②
成  清浦奎吾内閣






【加藤高明内閣】(1924.6~25.8)
1年割り込むけど、ここからほぼ昭和史になります。次の首相は一番多く議席数を取った憲政会加藤高明です。1924.6月からです。


加藤高明は東大卒業後、三菱に入社し、創業者である岩崎弥太郎の長女・春路と結婚し、その翌年から政界入りした政治家です。大隈重信の秘書を務めています。このことから後に「三菱の大番頭」と皮肉られるほど、三菱との関係の深い政治家です。憲政会と三菱との関係は、立憲改進党の大隈重信と三菱創業者の岩崎弥太郎以来の深い関係を引き継ぐものです。 

全体としていうと、日本は経済が悪いから、余裕なんてない。経済発展をしないといけない。アメリカが、日本にこのぐらいで我慢しておけといっても、それどころじゃない。うしろは崖っぷちなんです。とても我慢できない。
しかしワシントン会議以降、日本の外交は親米方針です。親米英です。アメリカ、イギリスに逆らわないほうがいいぞ、ということでずっと行きます。
この時の、内閣を支える政党は、護憲三派の連合ですが、メインは憲政会です。この憲政会の党首が加藤高明です。そこに2番手の立憲政友会が手を組む。3番手はこのあと弱小政党になっていく革新倶楽部です。

こうなると、本格的な政党内閣が続くかに見えた。彼ら政党員は、これこそ政党政治の本来の姿だという意味で、憲政の常道といった。これが常識だと。政党政治はこういう形でないといけない。これがいつまでも続くはずだ、政党政治の完成だという意味です。
しかしこれは10年も持たずにつぶれます。首相が暗殺されることによって。この事件がのちの1932年五一五事件です。このとき、すでにニューヨークウォール街の世界大恐慌は始まってます。それ以降、政党政治は息を吹き返しません。


【普通選挙法】 でも先のことは分からないから、加藤高明がやったことは、今まで大正時代に民衆が強く求めていた制限選挙、所得制限の選挙を無くします。これが1925年普通選挙法です。
今までは、金持ち中心で、所得がいくら以上という制限があった。具体的にいうと、税金をいくら以上払っている者だけという制限です。これを撤廃した。ただし女性の参政権はもっとあとです。だから25歳以上の男子に選挙権が与えられた。所得制限はないということです。年齢制限だけです。年齢制限があるじゃないか。何も分からない小学生に選挙させたら大変でしょう。年齢制限はどこにでもあります。


【治安維持法】 しかしそれと同時に一つの法律をつくります。普通選挙をやったらソ連好きの国民から社会主義にしようという動きが出てくるぞ、それだけは許されない、彼らが出てきたらすぐ逮捕できるようにしないといけない、と考えた。これが1925年治安維持法です。治安を維持して、いい法律に見えるかもしれませんが、天下の悪法はいつも名前だけはすごく立派な名前で出てくるのです。ここでも治安維持という立派な名目で出てくる。
これはどういう法律か。普通はリンゴを盗みたいと思っただけで、犯罪は成立するんですか。しないんですか。しないんですよね。ところがこの法律は、するんですよ。社会主義にしたい、と思っただけで犯罪になる。なぜそんなことが分かるのか。ここに本があるじゃないか、と言われる。だから自由に本が読めなくなるんです。つまり思想統制です。


【幣原外交】 外務大臣は幣原喜重郎です。彼は協調外交を取ります。協調とはどこと協調することか。親米親英です。アメリカとイギリスに従っていこう、という。日本がアメリカとの戦争に負けたあと、真っ先に日本の総理大臣になるのがこの人物です。

幣原喜重郎の妻・雅子は三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の四女です。三菱財閥と関係の深い政治家です。

しかし日本はこの時、いろいろな要求を受け入れるほど経済的には豊かではない。しかも戦後恐慌、震災恐慌と2回も恐慌が起こっている。実はあと3回目、4回目が来ます。そして4番目が一番大きいんです。もうがまんできない、そう追い詰められていく。経済が悪いとそうなっていく。



【加藤高明内閣②】(1925.8~26.1)
ただ、こういう幣原喜重郎の協調外交に対する反対もあって、護憲三派による連立内閣は崩れます。

1925.8月、首相加藤高明は内閣をつくりなおす。これが第二次加藤高明内閣です。ここで立憲政友会は三派連合をはずれます。革新倶楽部もはずれます。憲政会だけになる。それで弱くなる。
その協調外交に対して、こんなにアメリカに譲歩してたら大変なことになるぞ、という危惧を持っていたのは軍部です。だから、景気が悪くなるに従って、アメリカにハイハイと言っていてホントにいいのかな、と思う人たちの意見が軍部に集まる。不況下の経済の動きと、軍部への期待が歩調を合わせていく。
この1925年、立憲政友会は、もと陸軍の大物、長州の田中義一立憲政友会の総裁として迎えます。田中義一は軍人から政党政治家になるわけです。

ここで、また首相が死にます。1926.1月、加藤高明が病死します。




【若槻礼次郎内閣】(1926.1~27.4)
加藤高明が死んで、1926.1月にピンチヒッター的に憲政会の若槻礼次郎が総理大臣になっていく。与党の憲政会は変わりません。しかしピンチヒッターだからといって、危機はぜんぜん待ってくれない。それどころか、逆にそういった弱いところを狙い撃ちするようなところがあって、内閣が弱いときに限って何か起こります。
これは理屈が合っていると思う。政治が弱いときには、危機を防ぎきれずに何かが起こるからです。ここで3回目の恐慌が起こる。1927年金融恐慌が起こる。
ちょっと復習すると、第一次世界大戦後、日本は好調な輸出が一気にストップし、また輸入超過に戻って貿易赤字国になった。戦争が終わったから景気が良くなるかというと、逆です。そうすると1920年に戦後恐慌が起こった。
そこで弱いところを吸収合併していくのは財閥なんです。財閥が肥え太っていく。財閥が大きくなるのは、景気がいいときではない。逆に悪い時です。その3年後の1923年には関東大震災が発生し震災恐慌が起こっていく。


【金融恐慌】 1927年に3つ目の金融恐慌が起こります。1923年の関東大震災で発生した震災手形がすぐには処理されなくて、銀行手持ちの震災手形、いわゆる不良債権、これがずっと銀行内に残る。しばらく見て見ぬふりをしていたけれど、知ってる人はこの手形のことを財界のガンという。
この当時ガンは治らない病気です。これを誰が処理できるか。そういう時に、オレがやってやるぞー、とかけ声だけは立派だったけど、十分な力量と知識がないと、こういうことは失敗するんです。大蔵大臣の片岡直温が、処理するぞーといって、処理するどころか、ある銀行が危ないんじゃないか、という噂に火をつけるような失言を国会でしてしまった。それでみごと失敗するんです。
そうすると銀行というのは、立派な経営の健全な銀行でも、あそこの銀行が危ないという黒い噂がたつと、自分の預金も危ないんじゃないかと思って、銀行預金を引き出しに来る。銀行はもともと人のふんどしで相撲をとっている。例えば、人の預金を1%で預かって、それを3%で他人に貸すことによって、儲けを2%取る仕組みです。そのことによって成り立ってるのが銀行だから、もともとの原資である預金、自分の預金100万円を引き出せ、引き出せと、みんな押し寄せたら、健全な銀行でもつぶれてしまう。こういう構造になっている。

こういうのを取り付け騒ぎという。景気が悪くなると取り付け騒ぎが起こる。これは、私が生きてる間にもありました。ある銀行が不安だぞとなると、お金を入れるカートン、あれがもう銀行の中でとんでいた。それがニュースで流れていた。平成不況のはじめには、そういう大混乱に落ちていった。

これがきっかけになって取り付け騒ぎが、全国に広がっていった。日本の中小銀行などの関係のないところまで休業に追い込まれた。1920年代の不景気の中で。これが1927年の金融恐慌です。1920年の戦後恐慌、1923年の震災恐慌、1927年の金融恐慌、1920年代には3回も立て続けに恐慌が起こる。日本は、めちゃめちゃです。

その時に、鈴木商店という・・・・・・なにか田舎の商店のような名前ですけれども・・・・・・そのころの日本の三大商社の一つです。これは株式会社じゃないけれども、当時は誰でも知っている個人経営の大企業です。これが倒産してしまった。このままだと、この倒産した会社にお金を貸し付けている銀行も、資金回収できずに倒産する。それが台湾銀行なんです。なぜ日本史に台湾が出てくるんですか。台湾はこのとき日本の領土です。ということは、台湾銀行は台湾にとっては日本銀行みたいなものです。日本銀行がつぶれたら日本の血液がストップして、日本の経済は一瞬で潰れてしまう。これはどうしても潰せない。
それで若槻内閣は、台湾銀行を救済しようとする。これは理屈じゃない、つべこべ言っているうちに、潰れてしまったら遅いんだ、という。
戦前には急きょの策として、勅令がある。勅は天皇です。議会にはかるんではなく、天皇の勅令でこれを切り抜けようとした。しかしこの時には、天皇の相談役機関がある。これが時々、絶大なる力をふるいます。これが枢密院です。この枢密院が拒否します。天皇に言うんです。これはよくない、署名したらダメですよ、と。それで台湾銀行は融資を受けられずに、休業してしまいます。

ではなぜ、枢密院が拒否したか。1920年代の日本人の不満はずっとどこの国にやられっ放しなのか、知っているんです。アメリカなんです。そのアメリカに歯向かわずに、手を取っていこうと言ってたのが外務大臣の幣原喜重郎です。協調外交です。対米協調、対英協調です。対米英協調外交です。なぜ無理難題をふっかけられても、ハイハイと頭を下げ続けて協調しているのか。こういう不満です。それで若槻内閣が望んだ勅令案を、天皇の相談機関である枢密院が拒否した。
すると金融恐慌は拡大の一途をたどって、日本経済は大混乱に陥る。銀行はバタバタ倒産するし、中堅企業もどんどん倒産していく。
しかし幣原喜重郎の協調外交に対する反発は、軍部だけではなくかなり大きい。

総理大臣の若槻礼次郎は事態の収拾を図れず、総辞職していきます。これが1927年、昭和2年です。昭和の始まりというのは、「昭和枯れすすき」という暗い歌があったんですけど、これと同じく暗いです。ひどい恐慌から始まる。

芥川龍之介が「将来に対する漠然とした不安」を感じて自殺するのもこの年です。もちろんそれは政治上のことではなく内面的なものですが、それは明治以降の近代化、つまり西洋化に向かう日本人の心に巣くう、共通した不安だったように思えます。個人主義を突き詰めてその限界を感じた彼は、将来に大きな矛盾が横たわっているのを作家独特の嗅覚で感じとったのでしょう。
その不安は、イギリスの力をバックにしてイギリス追随の外交を進めてきた伊藤博文が、晩年になってイギリスとの日英同盟に不安を感じそれに反対したことと、どこかで共通しているように思います。

大正は明るかったけれども、昭和は暗い。不景気で始まる。
大きな問題は、アメリカ・イギリスに対する協調外交をどうするか。それと相次ぐ恐慌をどうするか。つまり「外交」と「経済」をめぐる問題です。とくに外交では、明治維新以来のイギリス追従の外交が、日米同盟を廃棄されたことによって大きな曲がり角に来ています。これを政党政治が乗り切れるかどうか、これが昭和がすぐに直面した課題です。


いらない話をすれば、私の親父が生まれたのはこの頃です。高校卒業すると赤紙が来て兵隊に取られ、外地に行く前に終戦になったからどうにか生きて帰れたのですが、そのとき近くの町が焼け焦げている景色を見ながら帰ってきた。帰ったその日に、私の祖母が、近くの食品工場が空襲で焼けたために不要になった焼き砂糖を拾い集めてオハギをつくってくれた。そのオハギのうまかったこと、その味が忘れられない、と言っていました。

ここで今はない機関をまとめると、元老というのは天皇の相談役です。これは個人です。
もう一つは天皇の諮問機関つまり相談機関、これが枢密院です。


最後に、年号と西暦の換算をまとめます。
明治は何年を引いたか。1867を引く。考え方は1868年が明治1年だから、そうなるように1867を引く。
大正換算は1911を引く。
昭和換算は1925を引く。
君たちが生まれた平成換算は1988を引くんです。
ちなみに令和換算は2018を引く。2019年が令和1年になるから。

これで終わります。

新「授業でいえない日本史」 38話 20C前半 田中義一内閣~世界大恐慌、世界の状況

2020-10-24 09:13:53 | 新日本史5 20C前半
【田中義一内閣】(1927.4~29.7)
若槻内閣の総辞職を受けて、次の総理大臣に任命されたのが田中義一です。1927年です。与党も変わる。今までは憲政会だったけれども、今度は政友会です。正式名称は立憲政友会ですが、今の自由民主党でも自民党というように、政友会で十分通るようになります。政党政治家のような顔をしているけど、実はこの人は陸軍出身です。しかも長州出身です。


〇 長州の陸軍といわれた陸軍内部では、山県有朋とその子分格である桂太郎の2人のドンがいましたが、1913年に桂太郎が死亡し、そして1922年には最大のドンとして力をもっていた元老の山県有朋が死亡します。とくに山県有朋死去の影響は大きかった。日英同盟を推進してきたのはこの山県と桂なのですから。その長州閥を受け継ぐ陸軍のドンがこの田中義一です。ただこの田中義一は、日英同盟に疑問を持っていたようなところがあります。

〇 この2年前の1925年、田中義一は陸軍のドンから、立憲政友会の総裁へと転身します。軍人を辞職し、政党政治家となります。これは大きな決断です。立憲政友会の総裁へと転身した伊藤博文以来の離れ業と言ってもいい。その理由は、のちの人からはいろいろ言われますが、本人の考えは分かりません。
この人の政治家としてのデビューは1918年の立憲政友会の原敬内閣成立の時に、陸軍大臣として入閣したのが最初です。そのころから田中義一と立憲政友会の結びつきはあります。

〇 陸軍は、桂太郎首相の時代から日英同盟で動いていました。つまりイギリスとの協調路線です。しかしこのあと見るように田中義一は、外交的には協調路線を取りません。少なくともイギリスとの協調路線はとりません。この点で彼は、戦争に大きく踏み込んだ政治家と見なされて、評価はあまりよくありません。
しかしそれは、長州の先輩である伊藤博文が日露協商論を展開して、日英同盟に反対したことと似ています。戦争はしないほうがいいに決まっていますが、国を守るときには必ず対立する国が出てきます。どういう考えで、どこと対立したかを見ていくことは大事です。

〇 一方で、山県有朋と桂太郎の2人のドンを失った陸軍の長州閥は、これ以降、勢力の低下が目立ちはじめます。意外と勘違いされることですが、彼ら2人はイギリスと対立した政治家ではありません。逆に日英同盟を推進し、イギリス側に立った政治家です。それに反対したのは伊藤博文です。

それと同じように、この時にイギリス側に立ったのは、イギリス・アメリカに対して協調外交をとった幣原喜重郎です。それに反対したのが田中義一です。

〇 それ以降、陸軍内では、長州閥に属さない中堅将校たちの独自の動きが見られるようになり、それを統制する力が陸軍上層部から失われていきます。長州閥と対立するグループも出てきます。この対立は次の1930年代になると陸軍を二分する統制派皇道派の対立となって現れます。



【金融恐慌の処理】 この田中義一がまず取り組まなければならない課題は、金融恐慌下の日本の混乱をどう切り抜けるかということです。
大蔵大臣に任命したのが、実はこの人よりも格上で、内閣総理大臣経験者の高橋是清です。


〇 経済が大混乱の中で、例えばクレジットカードでも引き落としの日に、口座にお金がなかったらブラックリストに載っていく。それは企業でいうと倒産です。手形が期日どおり決済できないと倒産します。
それを防ぐためには、全国の銀行に、今はこういう緊急事態だから請求するな、引き落とし先延ばしなさい、と命令する。これが支払い猶予令です。猶予というのは先延ばしのことです。これを英語でモラトリアムという。支払いを一時停止するということです。それで3週間、銀行を閉鎖する。

〇 その間に、日本銀行から、倒産しそうな銀行に特別にお金を貸してやる。これは前回やった、台湾銀行を救済しようとしたのと同じ手法です。台湾銀行もまだ活動休止してるわけですから、これにも同じ手法を使う。
天皇の名で同じ台湾銀行救済勅令案を可決します。今度は天皇はオーケーするんです。日本銀行の特別融資を行う。日銀特融というんですけれども。銀行は、お金を紙に刷ればいい。インクと紙があれば、緊急の場合にはお金を刷れるわけですから、こういった離れ技ができるんです。

〇 理屈が合わないのは、前回の勅令案はダメといいながら、同じ法令なのに、2回目はなぜいいのか。それは政権のスタンスです。協調外交を取っていた幣原喜重郎が、内閣が変わることによって外務大臣からはずれたからです。この政権だったらダメだけれども、この政権だったらいいと。それは外交方針が変わったからです。
こうやって前の若槻礼次郎内閣の政権与党は人気を失ったから、これを防ぐために、政友本党との合流を契機に、憲政会はまた名前を変えます。1927年に立憲民政党となります。これは政党系図で確認してください。



【財閥支配の強化】 ではこの1920年代の金融恐慌の結果、日本の経済はどう変わったかというと、景気が悪い時には、人間と同じで、食うや食わずの時には、子供とか老人とか体力弱い人間から死んでいく。体力が弱い企業、つまり中小銀行から倒産していく。そうすると、弱そうなところは潰れるよりも合併されたほうがいいということで、吸収合併を選ぶんです。身売りします。あんたうちの会社を買ってくれませんか。それで従業員が路頭に迷わずに済むからということで、強いところ三井・三菱・住友とか、そういう銀行の資金力をもとに合併されていきます。


〇 こういう大銀行に吸収されていくから、結果的にこの五大銀行・・・・・・三井銀行、三菱銀行、住友銀行、あと安田銀行、第一銀行があります・・・・・・この五大銀行が独占体制を強化していく。財閥というのは、景気が良い時に儲かるみたいなイメージがあるけれども、逆なんです。景気が悪いときに太っていきます。そうなると、この財閥がますます政界で影響を強めていきます。三井と三菱が二大財閥です。

〇 政党も、政友会と民政党の二つある。三井政友会にお金を出す。三菱はさっき名前を変えた民政党にお金を出す。そういう政治と経済が結びついていく。これは民主主義とは別の動きです。こうなると政党は、民衆ではなく、大企業の方を向いて政治を行っていく傾向を強めます。



【共産党員検挙事件】 この時代は、軍部の力が強まるに従って、いろいろな異分子、政府と同じ考えじゃない人が検挙されていく。とくに社会主義思想を持つ共産主義者は検挙されていく。
そういう考えを持った大学の先生も、大学をクビになったりしていきます。
この共産党というのは、それよりもちょっと前に、地下組織として、大正の終わりに結成されている。1922年、大正11年に、日本共産党ができている。
ソ連の日本支部として。何という組織ですか。共産主義は、もともと世界革命論という、質の悪い漫画みたいな、これを大真面目でやっている。日本共産党は、コミンテルンの日本支部として非合法に結成されていた。これを日本も知っている。


〇 しかし3年前の1925年には、普通選挙法を施行したばかりだった。選挙人口が増えたんです。貧しい人たちも選挙できるようになって、その初めての普通選挙が1928年です。
共産党でなくても、資本主義に反対する政党、これを無産政党といいますが、これが日本の史上はじめて国会議員を当選させます。しかも8名も。これに政府は驚いて、ますます、共産主義は危険だとして共産党員を検挙していく。これは、リンゴを盗もうと思っただけでは、今の法律では罪に問われないけれども、この法律は盗もうと思っただけで罪に問われる。こういう法律も成立している。それが普通選挙法と同じ年の1925年に成立した治安維持法です。

〇 似たことは今もあります。治安維持というのは大義名分で、2~3年前も似たような集団的自衛権を楯にして法律できた。こういう法律はどうにでも化けます。1928年には、この治安維持法に死刑が追加された。
この治安維持法による取り締まりのために、ふつうの警察と違って、特別な思想犯を捕まえる警察が、1928.7月に置かれます。考えただけで犯罪になるわけですから。これを特別高等警察という。略して特高です。



【強硬外交への転換】 外交面では協調外交から強硬外交に変わります。外務大臣は、首相田中義一が兼任します。
なぜこういうふうに外交方針を変えたかというと、さっきも言った幣原喜重郎の協調外交がうまくいってなかったから。幣原喜重郎は戦後すぐ内閣総理大臣になるけれども、実は戦前は外務大臣としてうまくいってない。


〇 田中義一内閣が成立した1927年、海の向こうのインドネシアでは・・・・・・ここはオランダの植民地ですが・・・・・・オランダからの独立運動をしはじめる。インドネシア国民党のスカルノです。戦後独立を達成して日本に来たとき、そこで見初めたのが、3番目の嫁さんのデビ婦人ですね。そのスカルノが活動を始めています。
フランスの植民地であったベトナムでも、同じ年にベトナム国民党の独立運動が始まっています。
その3年後の1930年には、インドでガンディーが塩の行進をはじめ、イギリスに対する抵抗運動を再開します。

〇 アジア諸国ではこのようなヨーロッパ列強に対する抵抗運動が高まる中で、中国は逆にイギリスやアメリカに接近していきます。

(20世紀初めのアジア植民地)


(参照 アジアの独立運動)
https://blog.goo.ne.jp/akiko_019/e/70495ca6d4b6dc08f7af64a7a86a6ebe


〇 これと前後して、中国ではどうかというと、反日気分が強まっていきます。
ここでこれまでの中国のことをザッと振り返ると、1840年のアヘン戦争でイギリスがまず中国に乗り込み、上海・香港などの主に中国南部を支配します。
1894年に日清戦争で日本が勝利すると、フランス、ドイツ、ロシアなどの列強も続々と乗り込んでいきます。
これに対して1900年には義和団事件が起こり「扶清滅洋」を唱えて、ヨーロッパ列強への反発が強まります。そのとき南アフリカ戦争で忙しかったイギリスは、首相のソールズベリが日本に義和団事件の鎮圧を要請し、日本がその鎮圧に中心的な役割を果たすことになります。
その後、日本では日英同盟を結ぶべきかどうかで揺れますが、日英同盟に反対したのが伊藤博文でした。しかし山県系の桂太郎首相は日英同盟を結び、1904年の日露戦争に勝利します。そして満州に影響力を強めます。
1911年に辛亥革命が起こり、清朝は崩壊します。
第一次世界大戦中の1915年には、清朝を倒した中華民国に対し、対華二十一ヵ条の要求を行います。これにより、それまでヨーロッパ列強に向けられていた反発感情が日本に向かいはじめます。

〇 このあと現在に至るまで日本と中国が親しい関係になることはありません。なぜこんなことになったのか。
前にも少し言いましたが、伊藤博文が若い時からとってきた親英路線は、このような中国と日本の対立を生むことになります。晩年になって伊藤博文は日英同盟に反対しますが、その時にはすでに中国の主導権はイギリスに握られていて、日本と中国の亀裂はますます大きなものになっていきます。
大きな目で見ると、ヨーロッパにとって日本と中国が対立しアジアが分断されることは、ローマ帝国以来の「分割して統治せよ」のセオリーどおりだと言えます。
それまで日本側に立ってきたイギリスは、すでに1921年のワシントン会議で日英同盟を廃棄し、日本を敵視するアメリカ側についています。このことは日本にとって明治維新以来のとても大きな外交上の変化です。
イギリス・アメリカと対立しながら、このことにどう対処すべきか。そのことが日本の最も大きな課題になっていきます。

〇 中国では大きく分けて、北の北京政府と孫文を中心とする南方政府に分かれています。
そこに1921年に中国共産党がつくられます。1924年に、孫文の国民党とこの共産党が、一時的に手を組んで戦うべき相手を絞ろうとします。イギリスを中心とする外国勢を追い払うのではなく、国内に割拠している北方軍閥を一掃しようとします。これを第1次国共合作といいます。国共というのは国民党のと共産党のです。合作は合同作戦です。共産党の後ろには当然ソ連がいます。国民党の後ろにはイギリスと関係の深い浙江財閥がいます。
中国は戦国時代のような軍閥割拠状態です。まず中国を統一しよう、そのためには国民党と共産党が手を組んで他の軍閥をやっつけていこう、という。孫文は翌年の1925年に死にますが、その後は蒋介石が孫文の後継者になり、国共合作は続けられます。

〇 蒋介石は、もともと軍人として日本陸軍で教育を受けている人ですが、このあと金持ちの嫁さんと結婚します。孫文の嫁さんも中国ナンバーワンの浙江財閥の次女の宋慶齢(そうけいれい)です。浙江財閥とは浙江省(上海の隣の省)の財閥という意味で、イギリスが支配する上海を拠点としてその支配に協力している財閥です。日清戦争後、上海を中心とする長江流域の中国南部はイギリスの支配地域です。その浙江財閥の宋財閥には三姉妹がいて、三女の宋美麗(そうびれい)と結婚したのが蒋介石です。つまり孫文と蒋介石は嫁さんでつながっています。ちなみに長女の宋靄齢(そうあいれい)は大銀行家の孔財閥に嫁いでいます。
孫文の動きで分からないのは政治資金の出所です。一介の医者が、なぜこれほどの政治活動や軍事行動ができるのか。政治にはお金が必要です。しかしその資金がどこから来るのか、寡聞にして私は知りません。

〇 北の北京政府内では、A派とB派に分かれていましたが、A派内で段祺瑞が失脚した後は、1920年に張作霖が北京の実権を握ります。日本は段祺瑞を支援したあと、この張作霖を支援します。
1922 年にはA派の張作霖とB派の戦争が起こりB派が優勢になります。このときB派にはイギリスとアメリカが資金面で援助しています。1924年にはA派とB派で再度戦争が起こり、A派の張作霖がまきかえします。このときB派は南の孫文と手を組むようになります。1925.5月には上海で五三〇事件が起こり反英運動が盛り上がりますが、1925.11月にはA派の張作霖の部下が反乱を起こしB派と組もうとして鎮圧されたことから、張作霖を支援した日本に対して反日運動が起こります。

このように中国の軍閥割拠状態はとても複雑な経過をたどりますが、この経過の中で、はじめイギリスへの反対運動に傾いていた中国の動きが、逆に日本への反対運動へと転換していくことがポイントです。

〇 それが、蒋介石(孫文の後継者)を中心とした、「北京政府打倒の動き」へと発展していくわけです。
1926.7月、蒋介石を中心とする国共合作軍が北伐を開始します。北伐というのは、国共合作軍を南方勢力だとした場合、北京を中心とした北部には地方軍閥がゴロゴロしているから、そういう北方軍閥征伐をおこなうという意味です。短かすぎる短縮形で分かりにくいけど、方軍閥征のことを北伐といいます。

〇 このあと起こる太平洋戦争はアメリカとの戦いだと思っている人が多いですが、そこに至る過程の大半は中国で起こります。表に出てくる動きのほとんどは中国です。日本はこの中国と戦っていくのです。アメリカはあとでひょっこりと唐突に出てきます。いったい何が起こっているのか、非常に分かりにくい戦いです。



【山東出兵】 しかしその北方軍閥の中心で、北京を支配している張作霖を応援しているのが日本です。北伐が始まると日本は困る。蒋介石(第一次国共合作)を支援するイギリスに主導権を奪われて、中国に乗り出せなくなる。

〇 それに、イギリスは日英同盟を組んでいた日本の仲間かと思っていたら、第一次大戦後は1921年に日英同盟は廃棄され、日本を捨てて、逆にアメリカにすり寄っていった。つまりイギリスは、アメリカと組んで日本と敵対する方向に手のひらを返した。
そのアメリカはどうしているか。アメリカは、日本人に対して警戒を強め、1924年には、日本人はアメリカに来るなという排日移民法を出しています。アメリカはもともと移民の国で、誰が移民に来てもいいよ、という国ですが、その中で日本人の移民だけはダメだという。こうやって日本人を排斥していく。
しかも日本は北京を拠点にした北方軍閥を応援しています。だからこの第一次国共合作による北伐(北方軍閥征伐)は日本とイギリスが対立したことを示しています。

〇 そこで日本は、1927年に中国の山東半島に日本軍を出兵します。これを山東出兵といいます。

当時の日本の経済を引っ張っている業界は、紡績会社です。この近くにも県内最大の紡績会社がありました。今は公園になってますけど。私のお袋はこのころ生まれてますが、女学校の頃、その工場に軍事動員にいっていたといってました。そういうのが各地にあるわけです。日本景気が悪いから、企業は活路を求めて中国に工場進出していく。海外で生産しようとします。これも戦後1980年代から日本企業がやってるのと一緒です。トヨタ自動車などは、半分以上は海外で生産している。

〇 こういう中国に進出した日本の紡績会社を在華紡という。在華紡績会社のことです。縮めて在華紡という。華というのは中国です。

この当時、日本人が中国に工場を作って、そこに乗り出しています。この山東出兵は、日本政府として中国にいる日本人・・・・・・こういうのを居留民といいます・・・・・・これを北伐という中国の内乱から保護する必要があるという理由からです。これは表面上の理由です。
しかし本当は、中国の北伐への危機感からです。そして日本は、このとき首都北京に陣取ってる軍閥の張作霖(ちょうさくりん)を支援しています。本拠は満州です。この満州軍閥を日本は支持してる。


〇 この山東出兵に、日本はだいぶ力を入れて、第一次、第二次、第三次と3回出兵しますが、結局うまくいかなかった。途中1928.5月に済南事件(さいなんじけん)という衝突がありますが、北伐軍は山東地方をすり抜けるようにして北京へ向かいます。そして1928年に北京を制圧し、北伐が成功した。つまり日本が支援してる北京の張作霖は負けて、本拠地の満州に逃れようとします。



【張作霖爆殺事件】 国共合作軍に負けた張作霖は日本と意見が対立して、オレは足を洗う、満州に帰ると言って、列車に乗って帰っていたところで、その列車が何者かによって爆破されます。これが1928.6月です。これを張作霖爆殺事件という。
翌日の日本の新聞は、これをどう報道したか。満州某重大事件と発表した。事件がおこった。重大事件だぞ、とだけ。中身は何も知らせない。とにかく何か起こった。こういう言い方をして、この列車爆破を日本は、中国側の仕業だと発表したんだけれども、実はこれは日本の関東軍が独自に起こした事件だったということになっています。関東軍というのは満州にいる日本軍です。


 張作霖爆殺事件というものが起こり、関東軍の河本大作大佐が首謀者であるかのように伝えられました。現在では資料が出てきており、ソ連の情報部が仕掛けたことが明らかになっています。・・・・・・しかし、日本が張作霖を爆殺したという誤った情報が世界に流されることになってしまったのです。日本が支那で残虐なことをしているというねつ造された情報が1920年代からアメリカのメディアによって流され続けていましたので、日本が張作霖を爆殺したという情報を信じる人たちが欧米諸国に大勢いました。日本は情報戦で負けていました。(「世界を操るグローバリズムの洗脳を解く」 元駐ウクライナ大使 馬渕睦夫 悟空出版 P123)


〇 これにピンときたのが、殺された張作霖の息子の張学良です。あっこれは日本だ、と。それでそれまで親父の敵であった蒋介石と、急きょ手を組む。日本にとっては全く逆の結果を生むことになった。
日本は金融恐慌で混乱しています。日本だけでは景気がたち行かなくなるほど、会社はボトボトと倒産していって、大企業の五大銀行だけが大きくなって、政治家はその財閥と結びついている。
それに対抗する意味でも関東軍は、日本は満州国は日本の生命線だとして、満州支配計画を立てるけれども、この作戦はうまくいかない。

〇 そいうなかで、めったに腹を立てない昭和天皇が、張作霖爆殺事件について田中を叱責した。田中義一は事件の責任を取って1929.7月に総辞職します。

彼はその2ヶ月後の1929.9月に狭心症で死亡します。元気に首相を務めていた人が、辞任後たった2ヶ月で死亡するというのも不思議です。
日英同盟に反対した伊藤博文も朝鮮に飛ばされ、ハルピンで暗殺されました。これも謎の多い事件です。
田中義一が死亡して、次の政友会総裁は犬養毅に変わります。ちなみに、この人も暗殺されます。

〇 そして次の政権は立憲民政党浜口雄幸(おさち)に変わります。それとともに外務大臣に協調外交の幣原喜重郎が復活します。田中義一がめざした強硬外交は途絶えます。
田中義一が死亡した翌月の1929.10月、またとんでもないことがアメリカで起こります。世界大恐慌の始まりです。1929年です。ほぼ1920年代は終わりました。ここから本格的に1930年代の第二次世界大戦への道が始まります。




【アメリカの動き】
さきに世界大恐慌後の世界の動きを見ていきます。去年やった世界史、ここらへんは、世界の動きとリンクします。
1929.10月、アメリカのニューヨークのウォール街、そこは世界最大の証券取引所です。そこで株の大暴落がおこります。株が一気に十分の一に暴落する。100万円がたった10万円になる。これが全世界を巻き込む世界大恐慌に発展します。
今から約10年前の2009年にもリーマン・ショックが起こりましたけど、それもアメリカがリーマン・ショックをおこして、一番被害を受けたのはヨーロッパだった。訳が分からない流れになっていっている。そのあと一番景気がよくなったのは実はアメリカなんです。ヨーロッパは、さらにイギリスがEUを脱退し、景気が悪くなって、ますますひどい状況になっている。金融というのはこんなことができる。自分が失敗して、相手に損害をあたえることができる。金融というのは恐い世界です。1929年の世界恐慌もそれと同じです。

〇 まずアメリカは、敗戦国ドイツがお金がないから、お金を貸していた。しかしそのアメリカがお金が足りなくなると、まずドイツに早く返せという。ドイツはたまったもんじゃないです。ドイツからアメリカ資金が急速に逃げていき、まずドイツがここで破綻する。失業率が世界一高くなり、働けないお父さんでいっぱいになるのは、アメリカじゃなくてドイツです。
アメリカのこのときの大統領はフーバーという人です。この人が銀行に・・・・・・日本でも田中義一がやったように・・・・・・ドイツの支払いを一時猶予しなさい、という。先延ばししてくれと。そうじゃないと、ドイツがつぶれるぞと、支払いを1年間停止した。しかし景気はどんどん落ちていった。

〇 それで、3年後の1932年の大統領選挙に負けるんです。1932年の大統領選挙では。勝ったのが・・・・・・フーバーは共和党ですけど・・・・・・反対政党の民主党から出たフランクリン・ルーズベルトが勝った。フランクリン・ルーズベルトが大統領に当選する。これが1932年です。
ルーズベルトは、オレはフーバーのような能なしじゃない、新しい政策をやるんだ、と言って、資本主義の国アメリカで、ニューディールという社会主義に近い政策をとる。ディールは政策です。ニューは新しいです。たんに新政策という意味です。だから中身は具体的には表してない。
ポイントは、政治と経済は別というのが今までの資本主義の考え方だったけれども、政治が経済に介入するんだ、という。これは社会主義です。ダムをつくったり、農家に補助金を与えたり、テネシー川を整備したり、そういう社会主義経済に近い政策をとっていくわけです。例えばテネシー川流域開発事業。これが代表的です。TVAという。働き口のないお父さんはここで職にありつけて、給料を払えば生活できるじゃないかという。

〇 教科書には、これが効いたと書いてあるけど、経済統計をみると政府の支出ばかりが増えて全く経済は回復していないです。
アメリカが本当に経済回復するのは、このあと第二次世界大戦に参戦してからです。参戦するとB29戦闘機をつくらないといけない、戦車をつくらないといけない、鉄砲をつくらないといけない。それで軍事産業が儲ける。けっきょく軍事産業中心に経済が回復していく。

 ルーズベルトが大統領に就任した1週間後の1933年3月11日に、彼は、経済を安定させるという大義名分のもと、銀行の金貨両替業務を停止させる行政命令を発令した。続く4月5日には、アメリカ国民に所有する金を拠出させ、1オンス20.67ドルで政府が買い取った。勝手に金を所有した場合は、10年の禁固刑と25万ドルの罰金を科した。この法令は1974年まで存続した。さらに1934年1月に「金準備法」を可決し、金1オンスを35ドルと定めたが、国民には金を購入する権利はなかった。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P182)

 1929年の大恐慌の最終目的は(1933年の)金本位制の廃除であった。そしてインフレ政策を駆使し、第2次大戦にいたる金融の道を敷設した。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P180)

 1933年アメリカの金本位制が廃止されたことで、戦争への障害物が取り除かれた。残るは戦争を始める「口実」だけだった。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P193)

 初めに、アメリカ国内において金貨の流通と兌換が廃止された。次は、世界市場で金の通貨としての機能を廃除した。そして1944年ブレトンウッズ体制によるドル本位制度が確立され、金本位制度に取って代わった。
 そして、リチャード・ニクソン大統領が1971年に(ドル=ショックで)第3段階を完成させた。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P184)

 1929年の大恐慌後、不況対策としてとられたルーズベルト大統領のニューディール政策は、ケインズの進言に基づくものでありました。アメリカ政府の支出はうなぎのぼりに増加したにもかかわらず、雇用は思ったほど回復しませんでした。結局、雇用を含む経済の回復は第2次世界大戦まで待たなければならなかったのです。(世界を操る支配者の正体 馬渕睦夫 講談社 2014.10月 P180)

 1938年には、アメリカは莫大な政府債務の累積を憂慮する財政均衡主義者の声に押されて、財政支出を削減した結果、景気が再び悪化し、2番底へと向かい始めました。・・・・・・この景気後退の中、アメリカに残されたのは積み上がった巨額の財政赤字だけであり、この景気後退を救ったのは第2次世界大戦の戦時需要でした。(世界一おもしろい世界史の授業 宇山卓栄 中経の文庫 P351)



【イギリスの動き】
だから世界恐慌はずっと続いて、不景気はイギリスにも及ぶ。
このイギリスは、このあいだまで世界の中心国だった。世界の金融制度は金本位制です。金本位制では、本物のお金は金だったんです。紙幣を発行したら、そのぶん中央銀行であるイングランド銀行の金庫には、金の貯蔵がないといけない。しかしこれでは紙幣を発行できなくなって、これををやめる。つまり金本位制を停止する。これが1931年です。それだけ景気が悪くなって、大量のお金を印刷しなければならなくなっていたということです。

〇 そしてイギリスの製品を売るために、保護貿易政策をとる。関税を高くする。イギリスは世界最大の植民地を持っているから、それができる。そういう植民地を持っているところはいいです。例えばインドに・・・・・・インドはイギリスの植民地です・・・・・・イギリスは、無関税で輸出する。しかし日本がインドに売ろうとしたときには、今まで5%の関税を、30%に引き上げる。日本の100円の製品をここで130円になる。これで日本製品は売れなくなる。外国製品締め出しです。これは植民地持っているからできることです。日本はそういう植民地がないです。ドイツもないです。あんたは植民地があるからいい、それならオレも植民地を持っていいよね、となる。
そしてまた市場をめぐって戦争になっていく。こうやって日本は行き場を失って、満州に行かざるをえなくなるんです。

〇 そのイギリスが金本位制を停止したのが1931年です。1933年にアメリカも金本位制を停止する。やっぱりアメリカは景気が良くなってない。景気がよかったら金本位制を停止する必要ないんです。ルーズベルトは成功してない。
1932年には・・・・・・イギリスはいっぱいカナダとかニュージーランドとかアフリカとかに植民地を持っている・・・・・・そういったところの代表を集めて、イギリス連邦経済会議を開いて、イギリス製品は関税ゼロ、しかし他の日本製品とかドイツ製品には高い関税をかけていくことで合意する。大植民地帝国イギリスならではのことです。
こういう経済圏、イギリス中心とした経済圏ができる。これをブロック経済圏といいます。つまりブロックするんです。ブロックというのは、バレーボールのブロックと同じで、敵の製品を通さないことです。こっち側に入れない。輸入させない。自国の製品は無関税、しかし外国商品には高関税をつける。

〇 イギリスがこれをやると、それならオレもやる、といって、植民地を持っているフランスもこれをやる。アメリカは植民地はもたないけれども、その代わり国内で石油は出るし、広大な国土もあるから市場としては問題ないです。困るのは、持たない国です。




【ドイツの動き】
その頃ドイツではというと、そういう失業者が世界最高に高まる中で、合法的に選挙で選んだ政治家がヒトラーです。1920年代にもいたんですが、1920年代は、それほど目立たなかった。しかし、世界恐慌後に一気に人気が高まる。
彼が率いる政党がナチスです。国民社会主義ドイツ労働者党という。社会主義という文字がありますが、これは社会主義ではないです。どっちかというと、社会主義国と対立していく側なんです。

〇 前にいったように、1923年ドイツには、キチガイのような大インフレーションが起こっていた。1兆倍という。
ちょうどその年に、早くもヒトラーは、こういう政治じゃどうにもならないとして、一揆を起こしたりしている。暴力革命です。これはすぐ失敗して、捕まえられるんですけれども。
この間に投獄されますが、獄中のけっこう恵まれた環境で彼が書いたのが「我が闘争」です。部下に口述筆記させたんです。これには政治家が国民を操るために、まず仕掛けないといけないことは、マスコミ操作なんだということを、つぶさに書いてる。20世紀の隠れたベストセラーと言ってもいいでしょう。実際、今もそれに似たようなことは、いろいろな国で起こっています。

〇 その間しばらくは注目されなかったんだけれども、世界大恐慌が起こると、このナチスが、あれよあれよという間に、1932年の選挙では第1党に躍進するんです。
これは国民だけではなくて、お金持ちたちも、今までの政治ではダメだなと思う。大資本家、それから軍部も、一気にこのヒトラーを支持していく。つまりヒトラーは合法的に政権を取っていくということです。

 1924年以降、アメリカのチャールズ・ドーズは、ドイツ経済再建のため政府委員を組織し、ドル資本のドイツへの大規模注入を行います。ドーズが主導したドル資本注入はドイツ経済をアメリカ資本の傘下に置くねらいもあり、実際にドイツ経済が回復していくと、資金を拠出した証券会社などのアメリカ資本は巨額の利益を得ました。
  しかし1929年に世界恐慌が発生すると、ドイツに投じられていたドル資金が急激に引き上げられ、ドイツ経済は真っ先に壊滅的な打撃をこうむりました。アメリカ資本によって支えられていたドイツ経済は、アメリカ資本の撤退により崩壊させられてしまいました。
  ヴァイマル共和国は破綻し、暴動が頻繁に起こり、大混乱に陥りました。このドイツの混乱を救ったのがアドルフ・ヒトラーです。(世界一おもしろい世界史の授業 宇山卓栄 中経の文庫 P332)



〇 1933年にヒトラーは首相になり、ヒトラー内閣が誕生していく。ここからヒトラーが押しも押されもせぬ正式なドイツの指導者になっていく。
この時に第2党としてナチスと票を競り合っていたのが、実は共産党なんです。これは半分、まだはっきり原因がわからないけれど、国会議事堂放火事件が起こって、これによって共産党が弾圧されていく。容疑をかけられていく。真相はまだ闇の中ですけど。
その年には、首相になってすぐにヒトラーが、国会にはかって成立させた法がある。これが全権委任法です。国会の審議を経ずに、国家政策はすべて、ナチスとそのリーダーである自分に任せなさい、という。これで国会は、実質的に機能停止です。形だけです。なにせ全権委任しているんだから。国会で審議する必要がない。

〇 彼がやったことは、とにかくアメリカ発の世界恐慌で一番被害をこうむって失業率が世界一高い国、これがドイツなんです。
その失業対策に公共事業をやっていく。国が仕事を作る。仕事のないお父さんたちを雇って給料を払えば、国民も生活できる。代表的なものが、国内にアウトバーン・・・・・・日本でいう高速道路です・・・・・・それをどんどん作っていく。
そして・・・・・・今の高校生は車にはあまり興味ないみたいですけど・・・・・・ドイツといえば、70年間、国民車として、これ何ですか。ワーゲンです。フォルクスワーゲンです。俗にカブトムシと言ってた。これカブトムシに似ているから。ほとんど原型は今でも変わりませんよね。そういうのを国民車として、ドンドン売り出す。そうすると失業者が減少して、国民の人気が上がって、実際に経済状態も良くなった。実際に経済を上げていくんです。

 1933年ヒトラーが政権を執った後に直ちに取り組んだのは「銀行法」の改定であった。このなかで、帝国銀行取締役会の独自性を取り消す、帝国銀行頭取と取締役会メンバーは国家元首によって指名される、帝国銀行に市場政策を公開する権限を付与する、政府が雇用創出に資金を供給する際には帝国銀行は「雇用創出手形」の割引ができる、と定めた。「雇用創出手形」は、フェーダーの提案であったため、「フェーダー貨幣」とも呼ばれた。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P296)

 1933年5月31日、ヒトラー政権が、中央銀行で割り引き可能な「雇用創出手形」(フェーダー貨幣)を発行する。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P301)
  一部の経済学者は、第二次世界大戦が勃発した根本的原因の1つは、ドイツ政府が貨幣発行権を握り、英米の支配から脱却したことにあると考えている。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P302)

 ヒトラーはハイパー・インフレーションによって疲弊した経済を立て直すため、国際銀行家が発給する通貨を使用しないバーター貿易を行いました。互いの国家に必要な物資を交換することで、双方が債務を負うことなく貿易をすることができたのです。このように、ヒトラーは国際銀行家から借金することなく、政府の強力な指導力によってドイツ人の福利を向上させるプロジェクトに資金を提供して、短期間のうちにドイツをヨーロッパで最も豊かな国に躍進させました。・・・・・・このようなドイツは決して許せないと考えた勢力がいました。かつて、南北戦争のときに戦費を政府通貨の発給で賄ったために、国際金融勢力によって暗殺されたリンカーン大統領の故事を思い出してください。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 2015.12月 P137)

※ 第2次大戦 イギリスがドイツと戦った理由は? 3
通貨発行権を国が持つか中央銀行が持つかという問題は、近代になって発生した問題である。
この当時もそして現在も、通貨発行権は中央銀行が握っているが、それ以前は国家が握っていた。
ヒトラーはナチス党に入党した当初から、中央銀行が通貨発行権を握っている世界の現状に疑問をもっていた。

ヒトラーは政権をとった1933年から通貨制度の改革に努めている。それも6年の年月をかけてかなり慎重に事を運んでいる。それは独裁者とのイメージとは異なるもう一つのヒトラーの姿である。それが完成したのが第2次大戦が起こった1939年のことである。この年にドイツの中央銀行は『帝国銀行法』によって合法的に国有化されている。
このことによってナチスドイツは通貨発行権を握ったのである。
 このことの意味は何か。
ドイツが、イギリスのシティやアメリカのウォール街を中心とする国際金融資本から独立して通貨を発行する権限を手に入れたということである。
イギリスがドイツと戦った本当の理由はここにあるのではないかという指摘もある。
20年前の第1次世界大戦の終了から、ドイツが賠償金の支払いのために、アメリカからの融資に頼っていたことは周知の事実である。
ヒトラーはこのアメリカ金融界からの独立を図っていたのである。
もともと通貨発行権は国家が持つものであった。しかしこの当時、通貨発行権は中央銀行が握っていた。
ヒトラーは通貨発行権を持つ中央銀行を潰すことをせず、中央銀行を国有化することによって、通貨発行権を国家の手に戻そうとしたのである。
 今でも中央銀行は国家資本によって成り立っていると考えている人がいるが、これは間違いで、実は中央銀行は民間資本の出資によって成り立っている。このことを理解しておかないとヒトラーのとった行動の意味は分からない。
ドイツ経済はこの当時アメリカウォール街の国際金融資本からの融資によって成り立っていた。
ヒトラーは中央銀行を国有化することにより、自前でそのことを行おうとしたのである。
そうなればヒトラーは思うように中央銀行から融資を受けることができ、その資金を使っていくらでも公共投資をしてドイツ経済を上向かせることができる。
実際ヒトラーの首相就任以来、ドイツ経済は高速道路アウトバーンの建設に代表される公共投資をさかんにすることにより、みるみるうちに回復していった。
 その方法は、国家のダミー会社をつくって、その会社に『雇用創出手形』を発行させ、その手形を公共事業の支払金にすることによって実質的には通貨と同じ役割をさせる、という多少今の方式とは違った方法をとるが、要は中央銀行が政府の要求に従って、通貨を発行しているのと同じことである。
これによってヒトラーは莫大な額にのぼる公共投資を行い、その結果ドイツ経済を立ち直らせたのである。
しかしそのことは、世界の金融を支配しているアメリカのウォール街やロンドンのシティの国際金融資本家たちの地位を、低下させるものであった。
彼ら国際金融資本家たちは、そのことを恐れた。
 紙幣は富との交換券である。
その紙幣発行権を国家が握ることができれば、国家はあらゆる富を手にすることができる。ヒトラーはそれを公共投資という形で行った。アウトバーンなどの国家の公共財としての富は増え、同時に公共事業に従事して賃金収入を得た国民の富も増えた。
1920年代前半に経験したハイパーインフレにも陥らなかった。
このことはドイツに紙幣が不足していたことを物語っている。
第一次大戦の敗戦国であるドイツは、賠償金という形で国家の富を吸い取られていた。ドイツ国内に潜在的な富はあるが、紙幣が吸い取られていたため、その富を有効活用する手段がなくなっていた。
 紙幣がないのなら、別の形で紙幣をつくればよいと気づいたのが、『雇用創出手形』である。この効果は絶大であった。
 しかしこれと同時にアメリカは不況に陥っていく。1937年のルーズヴェルト恐慌と言われるものである。ルーズヴェルトについては初期にとったニューディール政策の成功だけがいわれるが、実際にはアメリカはこの政策によって不況を脱してはいない。むしろナチスドイツの経済復興とほぼ時を同じくして、逆に不況に陥ったのである。アメリカが本格的に好景気を取り戻すのは、第二次大戦に入ってからである。
 ルーズヴェルト恐慌から2年後の1939年に、それまでドイツに対して宥和策をとっていたイギリスとフランスは、ドイツとソ連のポーランド侵攻をきっかけとして、突然矛先を転換して、ドイツに対してだけ宣戦布告をしていく。
 ドイツとアメリカ間で繰り広げられているのは、植民地戦争ではなく、金融戦争である。
 ところで日本で今行われているアベノミクスなる金融政策についてだが、安倍政権は、中央銀行を国有化しようとしたナチスドイツと一見すると非常によく似た動きをしている。
今の黒田日銀は、ほぼ安倍政権の思うとおりの動きをしている。
これは日銀が国有化されたのと同じ動きである。
そしてその黒田日銀によって量的金融緩和が行われているのも、ナチスドイツと似ている。日本銀行券という紙幣のバラマキである点では、ナチスドイツよりももっと直接的である。
 ではその違いは何か。
ナチスドイツがアメリカの中央銀行からの独立を目指したのに対して、安倍政権はアメリカの思うとおりに動いている。その安倍政権が日銀をなかば国有化するのと同じ動きをしているということは、日銀がアメリカ政府によって取り込まれるのと同じ効果をもっている。
昨年10月末に、アメリカが金融緩和を終了するのとほぼ同時に、日銀が逆に追加緩和に踏み切ったのも、日銀がアメリカ金融界を補完するために使われているということである。
金融緩和によってナチスドイツがめざましい経済復興を遂げたのに対し、今の日本が金融緩和によってもまったくその効果が上がらないのは、金融緩和は同じでもその目的がまったく違っているからである。
アベノミクスとは、日銀の国有化ではなく、日銀の米国化である。日銀を国有化しているのは日本ではなく、アメリカである。
これもアメリカが得意とする金融戦争の一環である。
今、安倍晋三をヒトラーになぞらえるパロディをよく見かけるが、その違いは、ヒトラーが金融戦争に対して自覚的であったのに対し、安倍晋三が無自覚である点である。
ヒトラーは資本主義に対する金融の持つ意味を深く理解していた。この理解があったからこそナチスドイツは経済復興に成功した。しかし安倍晋三がそのことを理解しているかは疑問である。
(私はヒトラーが政治的に正しかったかどうかには一切触れていないことを申し添えておく。)




〇 それと同時に、ヨーロッパにはユダヤ人を迫害する。ユダヤ人というのはずっと金融業者で嫌われてるんですよ。そのユダヤ人迫害も強行していく。これは戦争が始まった後、このあと5~6年後ですけどね。これがドイツの状況です。

そういったことをやるお金というのは、政府がお金をつくっていく。そこが今までと違うところです。近代国家はお金は誰が作るんですか。政府が作るんですか。これを作るのは中央銀行です。しかしヒトラーはそれに頼らない。
なぜもともとお金をつくる権限があった国家が、お金をつくれなくなったのか、というのがまず大きな疑問です。これに頼らずに、国家がお金を発行していいじゃないか、ということで、実際つくっていく。国家がお金を刷る。それによって経済を復興していった。
これで終わります。

新「授業でいえない日本史」 39話 20C前半 金解禁~高橋財政

2020-10-24 09:12:50 | 新日本史5 20C前半
【浜口雄幸内閣】(1929.7~31.4)
どこからの続きかというと、田中義一が張作霖爆殺事件で失脚したあとからです。
そのあとを受け継いだのが浜口雄幸(はまぐちおさち)です。1929.7月の成立です。田中義一は立憲政友会の総裁として首相に任命されていましたから、今度はその反対政党の立憲民政党の総裁の浜口雄幸が首相になります。まだ政党内閣は続いています。


【金解禁】 第一次世界大戦中にヨーロッパが金本位制を離脱したのに合わせて、日本も1917年に金本位制を離脱しましたが、この時も日本はまだ離脱したままの状態です。キーワードは金本位制です。この説明は、「政治・経済」で済ましたことにします。これやると時間がかかる。
でも簡単にいうと、本物のお金は金(キン)だ、という制度です。今は違う。今は管理通貨制度といって、今のアベノミクスのように金の保有量に関係なくいくらでもお金を刷れる制度です。キンのことは「金」、オカネは「お金」と区別して書きます。

〇 第一次世界大戦が終わると、ヨーロッパ各国は復興し、金本位制度に復帰しています。しかし日本は離脱したままです。なぜなら日本の1920年代というのは不況続きだったから、戻れなかったのです。戦後恐慌、震災恐慌、金融恐慌で、なかなか復帰できない。これはお金がかかるから。しかしアメリカが1919年に、イギリスが1925年に、金本位制に復帰した。

〇 だから日本もヨーロッパと同じように復帰しようとして、よしやるぞといって、1930.1月に強引に復帰したんです。これを金解禁という。これは短縮形です。正式な名称は、金輸出禁止解除のことです。ところどころ字を取って、金解禁です。ここは丸呑みして、金本位制に戻した、と思ってください。これを行った大蔵大臣が、もと日銀総裁の井上準之助です。
ここで金本位制にもどすと、貿易決済は金で行いますから、輸入する場合には金を輸出することになります。今まではその輸出を禁止していたから、それを解禁して輸出オーケーとしたということです。輸出すれば金が日本に入ってくるし、輸入すれば日本の金が海外に流出する。こういう制度です。これが金本位制です。

〇 ただこのとき1930.1月という数字に注目してください。3ヶ月前の1929.10月に、ニューヨークのウォール街で株価の大暴落が起こっているんですよ。これはアメリカだけにはとどまらなかったけれど、この時は今よりも太平洋を渡ってくるのにちょっと時間がかかって、日本は自分たちには関係ないと思っていた。だから日本が不況に巻き込まれるとは予測しないまま金解禁をやった。
この目的は為替を安定させて、輸出を拡大しようということだったんだけども、これをやった瞬間に世界大恐慌の波を受けて、全く逆の方向に日本経済は突き進んでいきます。日本はますます不況が深刻化します。
金解禁の狙いは、為替を安定させ緊縮財政を取る。ぶっちゃけて言うと、弱い会社には潰れてもらおうと非情な冷たい仕打ちを政府はした。強いところだけに頑張ってもらえば、日本は立ち直ることができる、と考えたけれども、その3ヶ月前の1929.10月に世界大恐慌の火種が撒かれていた。

〇 そうするとアメリカやイギリスは、外国からの輸入を抑えようとして、輸入品に高関税をかけ出したんです。つまりブロック経済を行ったんです。日本の狙いは輸出を拡大することだったのですが、まったく逆の結果になります。輸出しようとしているのに、輸入先が高関税をかけたら物が売れずに輸出できない。高関税にブロックされる。
だから弱い企業は潰れる。おまけに政府は緊縮財政でお金の量を減らしていく。踏んだり蹴ったりの状態になる。関東大震災といい、金融恐慌といい、何かしらタイミングが悪い。日本は、ヨーロッパのブロック経済という保護貿易主義で、高関税をかけられて輸出が伸びない。

〇 その結果、この1930年に日本は昭和恐慌に突入していく。これが1920年からの恐慌の中で一番ひどい恐慌です。それでなくても1920年代の日本は、不景気の真っ最中です。さっきも言ったように、1920年の戦後恐慌、1923年の震災恐慌、1927年の金融恐慌、これでもか、これでもかと恐慌がくる。金融恐慌で終わりだろうと思っていたら、そのあとに一番デカいのが来た。
日本の恐慌はだんだん尻上がりに大きくなる。はじめチョロチョロで、中パッパですが、最後にドカンときて、どうにもならなくなった。


【昭和恐慌】 昭和になって1927年の金融恐慌、それからこの1930年の昭和恐慌です。昭和恐慌の原因は金解禁の失敗です。ここから日本の政治は本格的におかしくなっていく。
日本は狙いが完全に裏切られて、輸出は増大するどころか激減していく。そしてアメリカに対して日本が一番期待していた稼ぎがしらの生糸の値段が暴落する。生糸はもともと贅沢品です。不景気になれば真っ先に売れなくなるわけです。それで日本の生糸農家が没落していく。農村にも恐慌はおよびます。
産業界も弱いところから潰れていく。中小企業が倒産する。会社が潰れると、お父さんたちの職が失われる。そして都会では食えなくなる。それで田舎に戻ろうといって、田舎に戻ってくると、田舎でも農村恐慌が起こっている。
もう輸出は伸びない。逆に輸入超過になって日本の金が流失する。今までは金は輸出できなかった。しかし金解禁で金を輸出していいことになった。お金と金がリンクしているから、貿易赤字の分はごっそり日本の金が海外に流出することになるんです。


〇 この流出した金はどこに行ったか。じわじわとアメリカに貯まり出すんです。このあと日本が戦争に負けた1945年には、世界の金の半分以上は、なぜかアメリカに集まっています。他の国の金がアメリカに集まりだす。日本の金もだいぶこれに貢献している。先のことですけど、戦後のアメリカのドルを中心とする通貨体制はそこから始まります。
1929年のアメリカの株式の大暴落の原因はよく分かりません。いろいろなことが言われていますが、アメリカははじめから金(キン)が欲しかったのではないかとも言われます。世界規模でみたら原因をつくったのはアメリカです。アメリカの株をつり上げて、それを一気に落とした人たちがいる。

〇 しかし庶民は、そんなことは分からない。政党政治といっても何もいいことないじゃないか、1920年代は恐慌ばかりじゃないか、しかも政治家は財閥と結びついている、肥え太っているのは財閥だけじゃないか、政党政治家なんか信用できない、そんな気分が蔓延していきます。このあたりはドイツの気分とよく似ています。

〇 では政治家の代わりに誰がいるかというと、軍人さんです。軍の将校は、今以上の超エリートです。地域の高校の成績トップは、東大に行くか、陸軍士官学校に行くか、そういう時代です。成績1番の人が陸軍士官学校に行って、2番手や3番手の人が東京大学に行ったりする。そうすると大人になって、同じ高校の出身者が東京の政治の舞台で出会っても、軍人さんの方が東大卒の政治家よりも高校の時は頭がよかったりする。そういうエリートです。そういう軍人さんへの期待が国民の間に盛り上がっていく。


【ロンドン海軍軍縮条約】 しかもイギリスは、不景気だからまた海軍を縮小しましょう、戦争しないようにしましょう、と呼びかける。これが1930年のロンドン海軍軍縮条約です。昭和恐慌とほぼ同時です。この時の外務大臣はまた幣原喜重郎です。どういう人だったか。アメリカ・イギリスが大好きです。協調していきましょう、手を取り合っていきましょう、という協調外交の外務大臣だった。彼がまた復活している。だからイギリスの誘いに乗っていきます。
ここでの取り決めは、補助艦の制限です。10年前にワシントンで結ばれた海軍軍縮条約もあった。あれは主力艦だった。その主力艦の周りを取り囲んで行くのが補助艦です。これが合同して艦隊を組む。


〇 その比率です。アメリカ:イギリス:日本の比率で、10107です。アメリカ10に対して日本7、それでいいぐらいかなぁ、というと、前回と同じ理屈です。覚えていますか。このときアメリカとイギリスが組むというのは、ほぼ確実なんです。実質はアメリカとイギリスを足して、20対7です。これでは勝てないです。

〇 こういうことを政党政治家がやっていく。しかしこの幣原喜重郎は人気を失っているんですよ。それでもイギリス・アメリカの誘いに乗っていく。
このことに対して軍部は、こんなことしてたら国は守れない、この責任は誰がとるのか、政治家は軍事の知識もないくせに統帥権つまり軍事指揮権を勝手にいじって、これを侵している、と言う。これを統帥権干犯問題という。
軍部は、この内閣に対してそういう批判をしていきます。国民の気持ちも、政党政治家から顔をそむけつつあります。だから次の1931年から、世の中はぶっそうになっていく。


【三月事件】 陸軍の中ではクーデター計画が発覚します。1931.3月の三月事件です。陸軍内部に桜会という一種の秘密結社があって、彼らはすでに陸軍指導部を信頼していない。だから自分たち独自で政権構想を立て、それを実行に移そうとします。しかしこれは計画が漏れて失敗します。
国民の気分も、政党政治家の言うことに従えるか、という感じです。じっさい金解禁で失敗している。そしてますます景気が悪くなる。


【重要産業統制法】 景気が悪いと、ものが行き渡らないから、政府は翌月の1931.4月に重要産業統制法をだす。本来は経済活動は自由なはずですが、政府が経済を統制しはじめます。政府がこういうことをすると、これは大企業保護になるか、社会主義経済になるかのどちらかなんです。日本は社会主義はとりませんから、大企業中心の経済体制をつくっていき、それを政府が統制しようとしていきます。こうなると国家社会主義という考え方にも近づいてきます。これが国家による経済統制の始まりになります。

〇 そういった昭和恐慌の中で、首相の浜口雄幸は1930.11月に東京駅で撃たれます。一命は取りとめますが重体になり、翌年8月にそれがもとで死亡します。原敬も東京駅で暗殺された。この時代はよく人が死にます。
昔、この時代を知っている年配の人から聞いたことがありますが、小学生のときには、政治家というのは死ぬもんだと思っていた、と言われてました。政治家になると死ぬんだ、殺される、と思っていた、と言われてました。実際良く死ぬんです。
政治は、バラエティ番組に政治家が出て笑いを取るとか、そういうことをする政治家がいますが、政治家というのはそういうものじゃないです。どうかすると命を取られる職業です。




【若槻礼次郎内閣②】(1931.4~31.12)
浜口雄幸が撃たれると、1931.4月にまたピンチヒッターとして若槻礼次郎が登場します。2度目の登場です。この時はピンチヒッターだから与党は変わりません。立憲民政党のままです。外務大臣もそのまま幣原喜重郎です。


【満州事変】 だから軍部としては、やっちゃおれん、言われたとおりにしていても、失敗ばかりじゃないか、もうオレたち独自でやろうとなる。
1931.9月満州事変が起こります。失敗続きの経済の打開策として、軍部は一言でいうと、満州が必要だと判断します。材料供給地、それから製品の販売先として。
昭和恐慌の最中で必死に脱出の道を考えていたのは、軍部、とくに満州駐屯の日本の軍隊です。これを関東軍といいます。
独自に作戦計画を立てて、また張作霖爆殺事件と似たような鉄道爆破事件を仕掛けます。その爆破された場所が中国の柳条湖です。べつに湖じゃないです。そういう地名です。そこで鉄道を爆破する。その鉄道が、日本が経営する南満州鉄道つまり満鉄です。満鉄爆破事件です。日本はそれを、中国側のしわざだと公表していく。この作戦参謀は、関東軍一の切れ者といわれた石原完爾という人です。戦後、戦犯で捕らえられても、裁判のとき立て板に水のように、アメリカに対して非の打ち所のない批判をやっていく。この計画の理由を、米英の動きと絡めて理路整然と述べていく。こいつはどうもできない、といって釈放されます。そして世界最終戦争論という戦争論を書く。事件の内容としては、3年前1928年の張作霖爆殺事件と非常に似ていますが、違う事件です。

〇 しかしこれは、もともと内閣が命令したものではなかったから、この総理大臣若槻礼次郎は不拡大方針をだします。これ以上戦争を拡大するな、という。しかし、黙っていろ、オレたちはやるんだ、そういって軍部は独走する。そして満州を占領していきます。翌年1932年には満州国という中国とは別の国を満州につくっていく。こうやって日本は、軍部と内閣が別々の動きをしていくようになります。なかなか国としての統率が取れない。そういう状況の中で、国民はどっちを支持していくか。失敗続きの政党政治家は人気がありません。国民は軍部を支持していく。よく軍部が国民の反対を無視して戦争に突入していった、と勘違いする人がいますが、そうではありません。近代国家で国民の反対を押し切って戦争できる国はありません。


〇 では国民が軍部を支持する流れをつくったのは何か。最初に何が軍部を支持したか。これがマスコミです。テレビはまだ無いから、新聞やラジオです。そこから世論が軍部支持に傾いていく。戦後になって、新聞社によっては、さかんに自分たちが平和の使者みたいなことをいってますけど、そういうマスコミこそ、この時代に一番軍部を支持しています。

〇 ここで事件をまとめると、1928年は張作霖爆殺事件です。鉄道爆破事件です。別名満州某重大事件です。3年後の1931年は柳条湖事件です。これも鉄道爆破事件です。そこから軍事行動が広がっていきます。これが満州事変です。
実質的に、日本の戦争を長く取ると、日本の戦争はここから始まっている。この年から1945年の終戦までを十五年戦争とも言います。日本はアメリカではなく、中国と戦っていきます。


【十月事件】 独走しようとする軍部の動きも強まってきます。柳条湖事件の翌月1931.10月には、またクーデター計画が発覚します。これを十月事件といいます。これも陸軍内部の秘密結社桜会のクーデター計画です。しかしこれも失敗です。合法的にやっていてもラチはあかんから、自分たちの推す首相を立てて国家を改革していこうという計画です。
これで桜会のクーデター計画は2回続けて失敗した。それは計画が大きすぎるから外部に漏れるんだ、という反省が生まれる。もっとオレたちだけで秘密裏にやろう。そういう動きが若い青年将校たちの間に生まれてきます。

〇 彼ら青年将校には地方出身者が多いです。このころの地方経済はメタメタです。とくに東北は貧しくて、貧しい農家の娘さんたちは、女郎屋というのはわかるかな。女郎屋に売り飛ばされるんです。この時代には、合法的な商売があって、女を買って女郎屋に売り飛ばす商売、これを女衒(ぜげん)というんですけど、貧乏な家は足元を見られて、100万円の娘が、50万で買ってやろうか、と買い叩かれる。しかしイヤと言えない。明日の生活にも困っているから。それを見るに見かねて、うちは100万で買います、相談ください、といって、村役場が張り紙を出したりする。役場がですよ。そういう時代です。何も知らずに見たら、日本の役場はなんと非人道的な事をしたか、というかも知れないけど、そうじゃないんです。そのくらいの悲惨さが地方にあるわけです。このような地方の惨状を知っている人が青年将校には多い。


(昭和恐慌時の山形県伊佐沢村の張り紙)


〇 もう一つ、こういうことを知っていた方がいいのは、いま韓国との間で政治問題化している従軍慰安婦問題というのは、この延長線上にある問題です。この話は難しいですね。しかし、軍隊に若い娘さんが慰安に行くというのは、日本女性にだってあるんです。いいとは言わないけど。


〇 軍隊の司令官が、血気盛んな独身男、20歳前後のカッカした若い兵隊たちを統率するときに、一番悩ましいのは・・・・・・これもあんまり言えないけど・・・・・・性処理の問題です。どうやって、カッカきている男たちをおさめるか。明日死ぬかもしれない死の不安と向き合っている若い兵隊は時として自分が抑えられなくなる。人は変なもので、死の不安の中でさえ、逆に欲求は高まるみたいです。極限状態の中ではそういうことが起こる。それをどうやって押さえるか。これを間違うと、兵隊が暴動おこしたりする。だから司令官はこれにものすごく頭を悩まします。これはどこの国の軍隊でもそうです。明日をも知れぬ命のなかで、それをなだめるというのは多くの国の軍隊が行ってきたことです。アメリカのマリリン・モンローだって、あの大女優でさえ、ベトナム戦争の時には歌を唄いに慰問に行ったんです。そしてみんなワーワー、ピーピーいいながら、大喜びで歓声を上げる。それで発散させるわけです。これは本当に悩ましい問題です。
若槻礼次郎内閣は、関東軍の暴走をめぐる閣内不一致で1931.12月に総辞職します。




【犬養毅内閣】(1931.12~32.5)
ここで与党が変わる。今までは民政党だったけれども、政友会に変わります。新しい首相が犬養毅です。1931.12月からです。犬養毅は第二次護憲運動のときは革新倶楽部の党首でしたが、1925年に革新倶楽部は立憲政友会に合流し、立憲政友会の総裁として首相になります。だから彼はもともとは大隈重信の立憲改進党系の人です。政党系図で確認してください。


【金輸出再禁止】 まず前年の金解禁、これは失敗だった。犬養内閣は、早くこれを止めないといけない。内閣が成立するとすぐ1931.12月に金輸出再禁止を行う。再度、金本位制を停止します。
これを行ったのは総理大臣経験者の高橋是清です。この人が大蔵大臣になる。この人の腕の見せどころは総理大臣としてではなく、大蔵大臣としてここで腕を振るいます。
これは、ちょっと理屈がいるから次で説明しますが、一番簡単にいうと、お金を印刷するんです。景気が悪い時には、とにかくお金の量を増やすということです。ここらへんは、今のアベノミクスと似ています。でもこれはアベノミクスに似ているのではなく、アベノミクスがこの時代の経済政策に似ているのです。それは今の日本の経済状況が、長引く不況の中で、この時代と似ているとも考えられるということです。


【第一次上海事変】 満州事変が起きた柳条湖は中国の北方にありますが、その3ヶ月後の1932.1月、そこからずっと南の上海の共同租界周辺で、日本人僧侶の殺害をきっかけに、日中両軍が衝突します。これを第一次上海事変といいます。


【満州国建国】 その2ヶ月後の1932.3月、満州では、この満州を中国と切り離して、満州国を建てます。
その皇帝には、20年前に滅んだ清朝の最後の皇帝をたてます。ラストエンペラーという映画にもなった。当時の宣統帝溥儀は子供だったけれども、20年経って大人になっている。このもと清朝の皇帝を立てる。清朝の故郷はこの満州です。しかし実権は日本にある。日本は満州への支配を強めます。
これは犬養が考えたことではなくて、関東軍の行動です。犬養は、イヤこれは国際関係が悪くなる、と思って渋るんです。しかし国民は、もう政治家の方を向いていない。


【血盟団事件】 民間の血気はやる人たちの中では、暗殺グループが出てくる。これを血盟団という。そして満州国ができたのと同じ月の1932.3月に暗殺事件が起こる。これが血盟団事件です。井上日召という人が中心です。本業はお坊さんです。お坊さんさえ腹を立てた。1人で1人ずつ有力政治家を殺していこうとする。まず経済政策で失敗した井上準之助、この人は金解禁をやったときの大蔵大臣です。そして政党と結びついていた三井財閥の団琢磨を暗殺する。


【五・一五事件】 血盟団事件の2ヶ月後、残るは総理大臣だ、これはオレたちが殺る、と軍部の将校が決起します。海軍のエリート軍人が決起する。昭和7年、1932年の5月15日、これが五・一五事件です。海軍の青年将校による暗殺事件です。将校というのはエリート軍人です。首相の犬養毅を暗殺する。首相官邸に乗り込んで拳銃を向ける。犬養が「話せばわかる」と言うと、「問答無用」と言ってバーンと撃つ。首相犬養毅暗殺です。「話せばわかる、問答無用」というのが流行り言葉みたいになる。
これで犬養毅内閣が終わっただけではなく、政党政治が終わります。政党政治は敗戦まで二度と復活しない。大正期のような政党政治を望む声は出てきません。国民が政党政治に顔を背けていたんです。


(政党系図)




【内閣覚え方】 「カカア ワカッタ ハワイ
カ   加藤高明内閣①
カア  加藤高明内閣②
ワカッ 若槻礼次郎内閣①
タ   田中義一内閣
ハ   浜口雄幸内閣
ワ   若槻礼次郎内閣②
イ   犬養毅内閣






【高橋財政】
【金輸出再禁止】
 犬養毅は殺されても犬養がとった経済政策は続いていく。高橋是清の経済政策です。これを彼の名前をとって高橋財政という。基本は金輸出再禁止です。つまり金本位制の停止です。
通貨制度で失敗すると、戦争で日本人の何百万人が死ぬことにつながっていくんです。日本は通貨制度で失敗したんです。1929年の世界大恐慌の対応に失敗したんですよ。
そこで登場したのが大蔵大臣の高橋是清の政策です。これは犬養内閣からはじまる。犬養は殺された。しかし、高橋是清は、次の斉藤内閣、その次の岡田内閣と約6年間、大蔵大臣を務めて、一貫してこれをやっていく。
ここで高橋は金本位制度を停止しますが、これが今の管理通貨制度です。今の日本もこの制度です。
まず金本位制を停止することによって、円を下げるんです。円を下げて、つまり日本の製品を安くして、ヨーロッパの高関税の障壁を飛び越えて、輸出を増やそうとする。
実は戦後1980年代以降の中国がやったことはこれです。中国の人民元は、10分の1まで安くなる。だから1990年代から日本に百円ショップができて、その製品のほとんどはメイドインチャイナです。

〇 ただこのとき三井財閥は、円が安くなるということは逆にドルが高くなることですから、それを見込んでドルを買っておく。そしてドルが高くなったところで売るわけです。
これは、かなり日本に損害を与える。それで三井は批判されますが、その三井とつるんでいるのが立憲政友会なんです。政党人気はますます落ちる。何かやっていることが、チグハグです。

〇 しかし景気自体はこれで伸びる。低迷していた日本の輸出が、息を吹き返す。特に綿織物の輸出では、イギリスを抜いて世界一位になっていく。
ヨーロッパではイギリスも、他国から輸入したくないんです。高関税政策でブロック経済をとっている。しかしその壁を乗り越えて日本の安い綿織物が入ってくるわけだから、日本はとんでもないことをしている、と批判する。しかしこれはどうでしょうか。金本位制をはずれると為替は変動しますし、為替が低下して自由競争に任せるのは、ある意味で資本主義のルールなんです。


〇 それにもかかわらず、日本に対する批判がおきて、ソーシャルダンピングだ、社会的な安売り、不法な商売だ、と日本を非難しはじめる。イギリスは、日本はとんでもない国だ、と言いはじめる。そこでイギリスは、1932年にカナダでオタワ会議を開いて、ますますブロック経済を強化する。イギリスは植民地をいっぱい持っています。このカナダもイギリスの植民地だったところです。世界最大の植民地帝国がイギリスですから大きなブロック経済圏をつくることができる。しかし日本は、そういう植民地を持っていない。かろうじて満州国を保護国化したばかりです。
だから日本は、このあと満州だけは手放せない。満州は日本の生命線、という言葉で守ろうとしていく。イギリスとやっていることは変わらないんだ、植民地持っているからイギリスは生きていけるんでしょう、だったら日本だって植民地必要なことは分かるよね、という。しかしイギリスは、イヤ分からない、というんです。これどっちが正しいんですかね。とにかくここで、イギリスやアメリカとの関係はますます悪くなる。

〇 ここで1929年の世界大恐慌からの経済の流れをちょっとまとめます。
その直後、1930年に金解禁を行った。これは失敗した。大蔵大臣井上準之助、首相は浜口雄幸です。それで日本は昭和恐慌に陥った。首相の浜口雄幸はバーンと打たれた。暗殺未遂です。しかし次の年に死んだ。

そして首相は、犬養毅に変わった。大蔵大臣は高橋是清になった。この人が急いで金本位制を停止した。これが金輸出再禁止です。これで日本は経済を回復した。

〇 これを政党で見ると、昭和になってからの政党政治の中心は立憲民政党中心だった。協調外交だった。アメリカに、ハイわかりましたという。イギリスにも逆らわない。
これに対して政友会、この犬養内閣は強硬外交をとる。アメリカ、イギリスに対して、良い悪いをはっきり言う。イエスも言うし、ノーとも言う。特に経済面ではそうです。外交面でも結果的に、満州支配を強化していった。

〇 軍部もこれに賛成し、景気を上げるために軍部も協力する。また軍部にも政府は協力する。それで高橋財政の間に、軍事費も増大していった。そのために政府は借金もした。公債を発行した。それを日本銀行に買ってもらって、日本銀行からお金をもらう。しかしこれ、いつまでもやれるわけじゃない。のちのことですが、この政策はここらへんが限界だから、政策を転じようとする。すると軍事予算が少なくなるからこれに軍部は反発するようになる。このあと5年後です。そこでこの高橋是清は暗殺される。これが二・二六事件、1936年です。これは先の流れです。


【重化学工業発達】 ただこの時には景気が回復する。その回復した証拠として恩恵を受けた会社が、日本最大の製鉄会社です。これを日本製鉄会社という。明治時代は八幡製鉄所といっていた。
今はこれは戦後、新日本製鉄になって、それが数年前に住友金属と合併し、今は新日鉄住金となった。今も日本最大の製鉄会社であることに変わりありません。

〇 それから1935年には、日本は工業国になった。しかしまだ軽工業中心であったものが、重工業がその生産高を抜く。
昭和になって、新たに急速に成長したのが日産です。まだ車のメーカーじゃないけど、これが今の日産です。これは国外に進出して急成長していく。満州に進出していく。満州重工業になっていく、とこういうことです。
それからあと、日窒というのもあります。日本窒素肥料という。これも朝鮮で経営を拡大して、戦後は水俣病を発生する。今はサランラップとかをつくっている。旭化成です。


〇 こういう新興財閥は、旧財閥ぎらいの軍部が・・・・・・旧財閥は政党と結びついているから・・・・・・旧財閥に頼らずに、新しい企業家を育てていこうという方針とも一致している。
しかしまだポイントは隠れて見えません。このとき日本の貿易はどこに依存しているか。アメリカに依存してるんです。肝心な石油は、もろにアメリカに依存しているという状況があります。これを、あと8年後の1939年から、一方的にアメリカが売らない、と言いはじめていく。そういう流れをちょっと念頭においてください。
これで終わります。

新「授業でいえない日本史」 40話 20C前半 斎藤実内閣~日中戦争

2020-10-24 09:09:27 | 新日本史5 20C前半
【斎藤実内閣】(1932.5~34.7)
犬養首相が暗殺されたあと、政党内閣は復活せずに、海軍出身の内閣になります。首相は海軍出身の斎藤実(まこと)です。1932年です。
元老松方正義の死後、元老は西園寺公望1人になっていて、後継首相の指名は元老西園寺公望の推薦を経て天皇が決めることになっていましたが、実質的には元老の意向を天皇が受け入れるのが慣例となっています。
西園寺公望は、立憲政友会の総裁をつとめた政党政治家ですが、現在の政党政治では軍部の台頭を抑えることは無理だと判断します。テロやクーデターは違法ですから、そのような違法行為を起こした軍部の力は弱まるかといえば、そうはならずにかえって軍部の力を強めることになります。それは一つには政党政治が国民の支持を失っていたことがあります。その政党政治が国民の支持を失う経緯は今まで述べた通りですが、その根底には1920年代からの長引く不況や恐慌があります。

〇 軍部出身者が内閣総理大臣になったとはいえ、これですぐに戦争に突き進むかというとそうではなく、斎藤は海軍内の穏健派であって、そういう意味では協調外交派です。ここでは軍部をもって、軍部のテロやクーデターを押さえようとしたという、ねじれた関係があります。

〇 これは軍部に二つの派閥があったということです。一つは対米英協調的な穏健派と、もう一つはそれに反対する派閥です。それは、日露戦争前の山県有朋伊藤博文の対立、つまり日英同盟論日露協商論の対立にまでさかのぼります。

〇 明治初期には、欧化主義が激しく、井上馨による鹿鳴館での舞踏会などが開かれ、それに対する政府批判もありました。そのとき伊藤博文は井上馨といっしょになって欧化主義を推進しています。まず誰よりも先に、幕末にイギリスに密航して、イギリスを中心とする西洋文化を取り入れようとしてきたのは、この伊藤博文と井上馨でした。幕末の段階で、すでに伊藤博文は、イギリス軍艦で国内を移動できるつながりがありました。

〇 ところが明治後期になると、そのイギリス流を推進してきた伊藤博文は、疑問を持ちはじめます。伊藤博文は山県が主張する日英同盟に反対し、日露協商論を唱えます。日英同盟がロシアとの戦争に結びつくのに対し、日露協商論は戦争を回避するための方策です。日露協商論は戦争を避けるために、どこと組むか、それを考えています。しかし伊藤の日露協商論は敗れ去ります。そして伊藤は1909年に暗殺されます。しかしその後も日英同盟派と日露協商派の対立は続きます。それはたんに長州閥に対する反長州閥の対立ではありません。


〇 大正以降は、イギリス・アメリカに対する協調外交と、それに反対する強硬外交の対立となってあらわれます。協調外交路線をとったのが憲政会から立憲民政党へと続く流れであったのに対し、逆に強硬外交路線をとったのが立憲政友会です。


〇 この立憲政友会の初代総裁が伊藤博文です。この経緯は、立憲政友会の成立のところで、説明した通りです。しかし彼は1909年にハルビンで暗殺されました。

次の2代総裁が桂園時代を担った西園寺公望です。
次の3代総裁は原敬です。しかし彼も東京駅で暗殺されました。
そのあとを受けた4代総裁が高橋是清です。しかしこのあとで言いますが、彼も二・二六事件で暗殺されます。
高橋是清が政友会総裁を辞職したあと5代総裁になったのが犬養毅ですが、彼は前に言ったように、五・一五事件で暗殺されます。

〇 つまり歴代の立憲政友会総裁で暗殺されなかったのは西園寺公望だけなのです。そしてその西園寺公望が、ただ1人の元老となって首相に選んだのが、海軍の穏健派で対米英協調的な斎藤実です。西園寺はこのような形で対米英協調派に譲歩したのです。

〇 しかし明治末、伊藤博文が対米英協調的な日英同盟に疑問を持ったのはなぜだったか。それはこの路線に、戦争に巻き込まれる恐れを感じたからです。戦争に巻き込まれないために、どこと組むか。組むべき相手を間違うと手遅れになる。伊藤のこの予測は当たったのでしょうか。


〇 政党政治はこのような形で幕を閉じます。戦前の日本で政党政治が復活することはありません。
ここからは、政党と軍部の対立ではなく、軍部内の対米英協調派とそれに反対するグループの対立がメインになります。ただうまく説明するのは簡単ではありません。

国際状況は、策略、謀略、騙しあい、フェイント、何でもありの状況になります。そのなかで日本は翻弄されていきます。


【満州国承認】 軍部は不況脱出を求めて、内閣に従わずに、独自に満州経営を始めています。すでに前年の1932年に満州国を建国しています。犬養首相は、その満州国を認めたくなかった。イギリスやアメリカがそれに反対するからです。
しかしこの斎藤内閣は、軍部がつくったこの満州国を承認していく。そして積極的に満州国を日本の経済ブロックのなかに組み込んでいこうとする軍部の動きを追認していきます。そのような経済政策と絡んでいます。

〇 少し目をヨーロッパのドイツに転じれば、この1930年代初め、ヨーロッパで一番復興に成功したのが、ドイツのヒトラー内閣です。アウトバーンをバーンと作る、景気拡大策をバーンとやる。この方法は高橋是清の方法と非常に似ています。
アメリカでは1933年に、世界大恐慌以来の共和党のフーバー大統領が大統領選挙に敗れて、民主党のルーズベルト新大統領になります。日本はこのルーズベルト政権と太平洋戦争を戦っていくことになります。


【国際連盟脱退】 日本は1933年に国際連盟を脱退します。これは満州事変がきっかけです。イギリスが満州事変の調査団を派遣する。リットンという貴族が中心だったから、これをリットン調査団という。その報告書を提出して、いろいろ日本に融和的なことも書いてあるけど、つまるところは日本による満州国は認めないと言う。
これが満州事変の2年もあとになったのは、1929年に世界大恐慌が起きて、世界は満州事変どころじゃないんですよ。経済が混乱しているから。企業が倒産しないようにするのが精一杯です。世界はこのとき世界恐慌の対応に追われている。そういう混乱の中で、日本は国際連盟を脱退していく。このときの全権代表は松岡洋右(ようすけ)です。松岡は長州出身で、生まれも伊藤博文の出生地に近い。伊藤博文の影響もあって昔から親ロシアを唱えていた政治家です。


〇 ちなみに松岡洋右の親族は戦争を飛び越えて戦後の日本の政治家とつながっています。松岡洋右の妹・藤枝は、のちの首相である岸信介・佐藤栄作兄弟の叔父にあたる佐藤松介に嫁いでいます。その長女が佐藤寛子で、佐藤栄作の夫人になります。佐藤栄作は寛子を娶って親戚の佐藤家に婿養子に入っています。佐藤栄作の実兄が岸家の養子となった岸信介であり、その岸信介の娘の子が、史上最長政権となった安倍政権の安倍晋三です。

〇 松岡洋右は、少年の頃から約10年ほどアメリカで生活した経験があり、外交官として出発した異色の経歴の持ち主です。彼はこのあと外務大臣になりますが、そこで相手するのは、ドイツのヒトラー、それからアメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、こういう海千山千の世界です。特にルーズベルトとチャーチルは世界を股にかけて、とても読みきれない動きをしていきます。

〇 その2ヶ月後の1933.5月に、斎藤内閣は満州事変の事後処理として、塘沽(タンクー)停戦協定を結びますが、満州の日本軍つまり関東軍は、満州に隣接する華北地方を中国政府から分離させる華北分離工作を続けていきます。
この斎藤実内閣は、1934.7月に、帝人事件という官僚の贈収賄事件で総辞職します。




【岡田啓介内閣】(1934.7~36.3)
その次も海軍出身の首相です。海軍穏健派の岡田啓介です。1934.7月です。
すでに日本と中国の戦争状態は、満州事変から始まっています。そのなかで中国がまとまりきれてないのは、国民党と共産党が内乱しているからです。中国人同士が内乱状態で戦っているわけです。1934年から1936.10月にかけて、共産党は国民党に負けてずっと逃げ始めます。長征というのを何千キロもの道のりを、軍隊を率いて逃げ延びていきます。長征という言葉は、この実態を表してはいません。

〇 1935年に、孫文の後継者である国民党のリーダー蒋介石はそれまでの中国通貨の両に代えて、新しい通貨の「元」を発行します。この時にイギリスは中国の新通貨「元」を法定貨幣・・・・・・これを法幣といいますが・・・・・・と認め、イギリス通貨のポンドとの交換を保障します。つまりこれで蒋介石は自分が発行した紙幣の元で、イギリス製品が買えることになります。そのことはイギリスの中国への武器援助、資金援助を意味します。すでに日本は1931年の満州事変以来中国とは半ば戦争状態にあるのですから、その中国にイギリスが援助するということは、イギリスは日本に敵対したということです。ただ軍事面ではなく、金融的な援助はよく見ていないと非常に分かりにくいのです。

その代わりに中国の銀はイギリスの銀行の香港上海銀行に接収されます。香港上海銀行は中国の銀行のような名前ですが、れっきとしたイギリスの大銀行です。しかもこの銀行はアヘン戦争後のアヘンの売上代金をイギリスへ送金するためにつくられたいわく付きの銀行です。長崎のグラバー邸の坂を下るとすぐにこの香港上海銀行の長崎支店跡があります。日本とも無関係ではありません。今もこの銀行は、香港の通貨である香港ドルを発行している香港の中央銀行です。

 蒋介石政権は1935年、通貨制度の根本的な改革を始めます。政府は貨幣を「」に統一し、「廃両改元」を行います。・・・・・・当時、中国各地に割拠する軍閥はそれぞれ独自に通貨を発行していました。・・・・・・蒋介石は通貨改革のため、イギリスの手を借りました。イギリスは元をポンドとリンクさせる管理通貨制度への移行などを指導します。・・・・・・政府系4銀行の発行する銀行券のみが法定通貨、つまり法幣と定められます。・・・・・・法幣「元」はポンドと交換可能で、1元=1シリング2.5ペンスとされました。法幣の安定のために、中国の銀はイギリスの銀行の香港上海銀行に接収され、基金として積み立てられました。こうしてイギリスは、対中国債務の保全を図り、「元」をポンドの支配下に置きます。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P259)

 1935年、国民党の蒋介石政権は、イギリス人の経済顧問リース・ロスの指導を受けて、銀本位制の放棄とポンドと直結する管理通貨制を採用し、銀両(銀の秤量貨幣)を廃止して政府が銀お買い上げ、通貨を政府系銀行が発行する紙幣(法幣)のみに統一する改革を行いました。中国の「法幣」はイギリスのポンドにリンクされ、ポンドで価値を裏付けされる紙幣になりました。最後まで残った銀経済圏の中国が、ポンド経済圏に組み込まれたわけです。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P197)

 中国の国民党政府は、1935年、イギリス人の財政顧問リース・ロスの指導下で、伝統的な銀経済からポンドにリンクする紙幣への幣制(通貨)改革を実行しました。中国では現銀(銀貨、銀塊)や多数の紙幣が流通する混乱が続いていましたが、世界恐慌の余波がおよぶなかで、政府は通貨を「法幣」という紙幣に統合することにより通貨主権を確立せざるをえなくなったのです。中華民国政府は「法弊」を唯一の通貨とし、その価値を担保するためにイギリスのポンドにリンクさせました。・・・・・・銀経済圏の最後の拠点だった中国がポンド圏に組み込まれたことは、銀貨により動いていた世界経済が紙幣による経済に転換したことを意味しました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P273)

 アメリカを動かしていた国際主義者たちは、日本を叩くために蒋介石を利用し、日本が敗北したあとに毛沢東を支援して蒋介石を潰すことを計画していました。蒋介石は日本を追い出すためにアメリカを利用しようと考えたのでしょうが、逆に彼はアメリカに利用されていたのです。・・・・・・蒋介石は宋一族の浙江財閥と組んで紙幣を発行し、その紙幣と交換に民衆が持っている現物の銀を取り上げました。蒋介石は有利な価格で民衆から金を巻き上げ、国際価格で売却して大儲けをしました。・・・・・・しかしアメリカは、中国を共産化することを目指していましたので、毛沢東を支援しました。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 2015.12月 P151)

 支那事変は中国側が仕掛けたということは先ほど述べました。その裏で蒋介石がしていたことは、ユダヤ系のサッスーン財閥と組んで私腹を肥やすことでした。蒋介石は紙幣を発行し、民衆の銀と交換しました。・・・・・・蒋介石夫人の宋美麗は、浙江財閥創始者の宗家の出身です。宋美麗はアメリカ留学経験があるため、アメリカに行って自分たちが日本の被害者であると宣伝し、兄の宋子文はサッスーンと組んで金儲けをしていました。支那事変で表向きは日本と戦っているように見せながら、その裏で蒋介石一派はせっせと金儲けをしていたわけです。(「反日中韓」を操るのは、じつは同盟国・アメリカだった 馬渕睦夫 WAC 2014.10月 P150)



〇 1935年にはそのように金融面でイギリスと中国が強く結びついたにもかかわらず、日本は国内問題に終始します。同年、日本では軍部の力が強くなって、一つの憲法学説に対する批判が軍部からでてくる。学問に対しても軍部が注文をつけていく。これを天皇機関説といいます。前に言いましたけれども、大正時代までこれは学会の定説だった。へんちくりんな学説ではない。これに軍部が噛みつく。天皇機関説は美濃部達吉という東大の先生が提唱していた学説です。天皇は神聖にして、という明治憲法をどう受け取るか。少なくとも、美濃部の天皇機関説は、天皇は神ではない、と言っている。軍部はこれが気にくわない。天皇をつかまえて機関であるとは何ごとか、と。
日本の国体・・・・・・国体とは国民体育大会ではなくて国家の体制のことです・・・・・・この国体をはっきりと定めて、天皇主権を打ちだそう、ということになっていく。軍部は国体明徴声明を出していく。日本の国体の特徴を明らかにする声明です。ここで天皇主権の再確認を行い、美濃部達吉の本「憲法撮要」は発禁処分つまり発行禁止になります。



【二・二六事件】 軍部が強くなっていく中で、軍部は軍部で意見の隔たりがあります。2つのグループがある。ここで説明するのは二・二六事件です。次の年1936年2月26日の事件です。

〇 この1936にはヨーロッパーでスペイン内戦が起こっています。まだアメリカは奥に引っ込んでいる。このときには、どことどこが戦うかというと、スペイン内戦というのは、ドイツとソ連の戦いです。
だからこの当時は、戦争やるんだったらドイツとソ連だろうと、みんな思っていた。しかし、このあとの戦争はドイツとイギリスの戦争となり、この時とはぜんぜん違っていきます。

〇 まだ日本はアメリカと戦うという発想もない。そのなかで陸軍内部の対立がある。若い人たちを中心とする青年将校たちは、皇道派と呼ばれる。それに対して、40代以上のお偉いさん、中堅幕領は統制派といわれる。
皇道派というのは、今の日本はこのまま行ってもどうにも発展できない、ここはクーデターでも思い切ってやる以外に国家を改造する道はない、非合法的手段に訴えてやるしかない、そこまで日本は追い詰められてるんだ、そう考えている人たちです。そういう意味では昭和初期からの対米英協調外交に不満を持つ人が多い。これは、おもに20代の青年将校たちです。地方出身者がけっこう多い。

〇 1935年に、この相沢三郎という皇道派の人が、統制派の永田鉄山を暗殺するという事件が起こる。これを相沢事件といいます。そこからこの2つの対立がはっきりと現れてきます。階級的に偉いのは、この暗殺された側の統制派です。この統制派は、斎藤実首相、岡田啓介首相と続く対米英協調外交路線に従い、合法的に政権を運用していこうという人たちが多い。

〇 1936年2月26日に、青年将校を中心とする皇道派が決起するという事件が起こります。これが寒い日です。雪が降るなか、東京永田町一帯が皇道派により占拠されます。青年将校たちが独断で何千人という軍隊を動かす。そして、今の日本のトップを殺していきます。
まず狙われたのが首相岡田啓介です。しかしこの人は、首相官邸のなかで、女中部屋に逃げ込んで見つからなかった。どうにか脱出する。
しかし逃げ切れなかった人が大蔵大臣の高橋是清です。暗殺される。そのほかにも、前首相の斎藤実もいます。


〇 この将校たちが信頼を寄せたのが陸軍大将の真崎甚三郎でした。しかしこれは昭和天皇の、絶対認めないという一言で、鎮圧されてしまう。
そのあと兵隊を動かした青年将校たちは、処刑されていく。これで反乱を起こした軍部の力が弱まったかというと、皇道派の力が弱くなっただけで、逆に統制派が強くなっていく。軍部は統制派でまとまり、軍部の力は一気に強くなっていく。いま言ったように、この統制派は皇道派に比べると、イギリス・アメリカに対して日英同盟以来の協調外交路線をとる人たちが多い。






【世界の状況】

【ドイツとソ連】 ではそのころ世界ではというと、まずソ連が、社会主義関係の政党も一枚岩ではなかったけれど、1935年にそれをまとめて一つの組織、コミンテルンという世界組織をつくる。これはソ連側の動きです。これは、二・二六事件の1年前の1935年のことです。
反ファシズムです。ファシズムはドイツのことです、そのファシズム勢力を駆逐して行こうとする。そのソ連側の統一勢力を人民戦線という。ちょっとぶっそうな名前です。


【スペイン内戦】 このソ連側とドイツ側が、国を二つに分けて内乱状態に入るのが、スペインです。スペイン内戦が1936年から始まる。
スペインの選挙では、ソ連側のアサーニャという人物が勝った。内閣もできた。これに軍部や大地主が大反対して、軍部の将軍フランコが反乱を起こした。これがスペイン内戦です。
アサーニャ側にはソ連が付いている。ではフランコには誰がついているか。これにドイツがつく。イタリアもつきます。日本はまだ無関係です。ドイツが中心になって、フランコのスペイン反乱軍を支援していった。
この対立は、ドイツとソ連です。

〇 ではこれに対して、イギリスはどうか。不干渉です。オレには関係ないという。となると、フランスもそうです。アメリカもそうです。アメリカ国民は太平洋戦争直前でも80%以上が戦争反対です。
ドイツが負けたというイメージが強いけど、この戦いでドイツが負ける、ということじゃないです。1939年に、スペインではフランコ軍が勝つ。つまりドイツ側が勝っていく。そういう状況です。ドイツ有利というのがこの1930年代末の情勢なんです。


【ドイツのラインラント進駐】
 もうちょっと世界を見ると、第一次世界大戦で負けたドイツは、1936年に、国家として軍備や軍隊を持ったらいけないというのは、国家としてありえない、という。普通の国のように軍隊をもちますと宣言する。そして、もともとドイツの一部であったラインラント・・・・・・フランスとの国境一帯です・・・・・・そこは非常に物騒で、いろんな紛争がおこるから、軍隊をそこに駐屯させるという。
これに対してもイギリスは黙認です。何もしない。いいんじゃないか。イギリスは容認します。イギリスがそうならフランスもそうです。これを宥和政策といいます。

〇 確かに第一次世界大戦のドイツへの仕打ちは厳しすぎた、という雰囲気もある。イギリスもフランスも黙認するんだな、ドイツのこと分かってくれているんだな、とドイツは思う。
それが3年後、突然、宣戦布告する、ということになっていく。


【日独伊三国防共協定】 日本はこの時期、ドイツラインラント進駐の翌年1937年に、二・二六事件で倒れた岡田内閣のあと、日独伊三国防共協定を結びます。防共の共は、ソ連のことです。共産党の共です。防共とはソ連を防ぐということです。まだ敵はアメリカじゃないです。このときにはソ連です。というか、太平洋戦争の直前までずっと日本の敵はソ連なのです。しかし実際に戦うのは、まったく違う相手のアメリカです。これはほとんど突然出てくる。だから何が起こっているのか、よく見ておかないと、分かりにくいのです。


【ドイツのオーストリア併合】 その翌年の1938.3月にドイツは、同じドイツ人の国であるオーストリアを併合しますが、これに対してもドイツは、ドイツの都市ミュンヘンで会談を開き、イギリスとフランスの了解を取り付けます。イギリスとフランスは1938年段階でも宥和政策です。仲良くしましょう、文句言いませんよ、これで了解している。これを国際条約の合意として結んでいる。

〇 そして次には、ドイツと隣接するチェコスロバキアです。そのチェコスロバキアのドイツ国境にあるズデーテン地方は、ドイツ系住民が住んでるところなんです。ドイツは、民族自決の原則に則って、ドイツ人はドイツ人で一つの国をつくるという。イギリスはこれも認める。1938.9月、ドイツはそのズデーテン地方を併合します。


【アメリカによる日米通商航海条約破棄通告】 しかし、翌年1939.7月に、アメリカが突然、日本に対して日米通商航海条約を破棄通告をする。日本は、エッという感じです。日本の頭に浮かぶのは石油です。日本はほぼアメリカに石油を頼っている。
この条約の意味は、「安心してください、日本に石油を売りますよ」というのが条約ですが、これは逆に条約破棄です。「オレは売らなくてもいいんだよ、売らないことだってできるんだよ」とアメリカは言ったということです。
日本は、アッやる気か、と思う。今の日本もこの危機はずっとあります。このままでは原発がちょっと無理だから、日本に石油は出ないでしょ。日本人をつぶすには、石油をストップすればいい。


〇 その前に、これは余談かな、今の日本の食糧自給率は先進国中最低です。自給率は4割もない。食糧をストップすれば、自動的に日本人はつぶれます。これは食糧安全保障上、非常にまずいことです。さらにまずいのは、これを日本人がほとんど意識していないことです。軍事上の安全保障も大事ですけど、食い物がなければどうにもならないでしょう。


【独ソ不可侵条約】 その翌月1939.8月に、対立しているドイツとソ連が突然、独ソ不可侵条約を結びます。突然、ドイツとソ連が仲間になった。ソ連と対立している日本はこれに驚いて、当時の首相の平沼騏一郎は、私は辞めますという。辞める理由は、私には世界が分からない、なぜなのか、複雑怪奇だ、という言葉を残して辞めていく。


【第二次世界大戦の勃発】 そしてその翌月1939.9月に、世界では第二次世界大戦が起こります。でもこれに日本がすぐ参戦するわけではないです。この段階では日本と関係のない戦争です。
これはドイツとイギリスの戦いです。イギリスは今まで、ドイツと宥和政策で仲良くしましょうと言っていた。これが突然の宣戦布告です。

〇 きっかけは、ドイツ軍が1939年9月1日ポーランドに侵攻する。すると2日後の9月3日に、イギリスがドイツに宣戦布告します。ドイツがイギリスに宣戦布告したのではありません。ドイツのヒトラーはビックリです。
1ヶ月前の独ソ不可侵条約のときに秘密協定があった。ドイツは西からポーランドに侵攻するから、ソ連は東からポーランドに侵攻しましょう、そしたらおあいこだ、ポーランドを分けましょう、という密約です。
約2週間遅れて9月17日ソ連もポーランドに侵攻する。ドイツは西から、ソ連は東からポーランドに侵攻します。
しかしイギリスは、ソ連には宣戦布告しないのです。関係ないというか、イギリスは明確な説明しない。とにかくイギリスがドイツにだけ宣戦布告する。そうするとフランスもドイツに宣戦布告する。
このあとソ連はポーランドだけではなく、この北方にあるエストニア・ラトビア・リトアニアというバルト三国にも侵攻していく。そしてソ連に併合していく。それでもイギリスはソ連には宣戦布告しません。この不思議さが第二次世界大戦にはずっとついて回ります。






【広田弘毅内閣】(1936.3~37.2)
先に第二次世界大戦勃発までの世界の流れをみましたが、また日本に戻ります。二・二六事件以降のことです。岡田啓介内閣という軍部内閣も軍部を抑えきれなかった。
そうすると今度は、岡田啓介内閣で外務大臣を務めていた広田弘毅が、内閣総理大臣に任命される。この人は軍人ではない。といっても政党政治家でもない。外交官出身つまり官僚出身です。1936.3月です。しかし官僚は、もともと政治家の下で命令を受ける立場であって、力を持たないんです。組閣の時点で、各大臣は誰々だ、と軍部が干渉してくる。それを防ぐことができない。

〇 1936.5月、大正時代に一旦廃止されていた、軍部大臣は現役の武官でないといけない、つまり現役の軍人でないといけないという、軍部大臣現役武官制を復活させます。これで軍部の力がますます強くなる。この制度は、軍部が腹を立てれば内閣総理大臣のクビをどうにでも飛ばすことができる。こういう制度です。これは、前に言ったように、山県有朋が明治時代につくったものですが、これは軍部の暴走のもととなり批判が多かったため、山本権兵衛が廃止したものです。それが広田弘毅内閣でまた復活した。

1936.8月、国策の基準として、中国北部、満州の隣の華北に軍事進出する、ということを正式に決定した。目的は日本のブロック経済を作り、日本の経済を復活させるためです。

〇 1936.11月、日本はドイツと日独防共協定をまず結ぶ。さっき言ったように、防共の共はソ連を仮想敵国だとしている。次の年にまたイタリアが加わる。
これが戦争直前には日独伊三国軍事同盟に発展していく。そのきっかけになっていく。だから、この人は、日本が戦争に負けたあと、A級戦犯に捕らわれて裁判にかけられ、死刑になる。非軍人で処刑された唯一の総理大臣です。
このときドイツはナチス党です。リーダーはドイツはヒトラーです。イタリアはファシスタ党、リーダーはムッソリーニです。ファシズムというのは全体主義と訳されるけれども、言葉のルーツはイタリアのファシスタ党がルーツです。「束ねる」という意味です。

〇 中国では、国民党と共産党が仲間割れしている。それを一枚岩にまとめる事件が、1936.12月西安事件です。西安は都市の名前です。昔の長安です。北京よりかなり西のほうにある。張学良という軍人、父親は日本軍によって爆殺された張作霖です。その息子の張学良が蒋介石を監禁して、いま戦うべきは日本だ、共産党と内乱を起こしている場合じゃない、イヤだというならこの部屋から一歩も出さないぞ、と言う。蒋介石は、分かったと言う。これがきっかけとなって、翌年1937.9月に第二次国共合作が結ばれます。
これで中国は一致して抗日つまり日本と戦うことになります。でも裏にイギリスありです。アメリカありです。軍事物資はイギリスとアメリカが中国に援助している。

 張学良の背後にいたのは、コミンテルン毛沢東です。毛沢東の背後にはアメリカがいて、アメリカが彼を支援していました。(「反日中韓」を操るのは、じつは同盟国・アメリカだった 馬渕睦夫 WAC 2014.10月 P139)

 ルーズベルトの取り巻きの社会主義者たちは、ソ連を南下させるとともに、中国国内で国民党ではなく共産党に勝利させて、共産党に政権を握らせる戦略を立てました。国民党の蒋介石を日本と戦わせて疲弊させ、その間に共産党の勢力を伸ばすのが、彼らのグランドデザインです。・・・・・・当時のアメリカの政権は国際主義者たちに動かされていましたが、アメリカ国民はそのようなことには全く気がついていませんでした。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 2015.12月 P129)



【林銑十郎内閣】(1937.2~37.5)
それで広田弘毅は軍人に押される一方です。次は林銑十郎という陸軍出身の首相ですけれども、3か月しかもたない。1937.2月~5月です。



【近衛文麿内閣①】(1937.6~39.1)
それで誰か首相いないかな、と思っているときに、ここで出てくるのが貴族院出身、近衛家出身の名門、近衛文麿です。1937.6月第一次近衛文麿内閣が成立します。1000年前は平安貴族の藤原氏です。近衛家はその分家になります。


〇 実はこの人は、二・二六事件のあとも首相候補になっています。前年の1936.3月に元老西園寺の推薦を受けた昭和天皇から首相の大命が下っていますが、この時は「健康が許さない」ことを理由に断っています。しかし本当の理由は、西園寺の考えるイギリス・アメリカとの協調を基本とする政治のなかでは、自分の考える政治はやっていけないと考えたからです。彼は第一次大戦後、世界が大戦の勝者であるイギリス・アメリカの利害を中心につくられていくことに疑問を持っていました。そういう意味では伊藤博文の系譜につながる政治家です。
しかしイギリス・アメリカという強大な力の前に、一国の首相としてどう向き合っていけばいいか「自信がない」と言うのもホンネでした。だから一度は断ったものの、事態がここに至り、首相を受けざるをえなくなったのです。彼は二・二六事件で皇道派が敗れたあと、自分が皇道派の二の舞になることを予想していたようなところがあります。彼は敗戦後、服毒自殺を遂げることになります。


【日中戦争】 この近衛内閣の時に、日本と中国の本格的な戦争が始まる。これが日中戦争です。1937.7月です。
日本の戦争は、まずアメリカとではないです。まず中国とです。次の予測はソ連です。アメリカと戦うべきでもないし、戦っても勝てない、というのが日本の合意なんです。対米英協調外交路線です。

〇 この時にはすでに、中国も日本と戦う体制ができています。第二次国共合作ができつつあります。
この日中戦争は何がきっかけかというと、北京郊外に盧溝橋という橋がある。その橋の右と左で日本軍と中国軍がにらみあっていた。夜中、一発の銃声が響いて、この銃声の原因は今に至るまで不明です。そしてそのまま戦争に流れこんでいく。これが1937.7月の盧溝橋事件です。
何かよく分からない。やらせだ、偶発事故だ、いろんな説があるけど、結局、この一発の銃声が何だったのか、よく分からない。こういう時には、たぶん部外者でしょうね。
盧溝橋事件に対して、近衛内閣は不拡大方針を出しますが、軍部は聞かない。そのまま軍隊を進めていきます。ここからずっと泥沼状態の日中戦争が始まっていきます。
2ヶ月後の1937.9月、中国では第二次国共合作が結ばれます。

〇 ここで対外事件と対内事件、あわせて4つの事件をまとめます。
1931年、32年、36年、37年の事件です。
外側2つが国外事件、31年の満州事変、37年に盧溝橋事件です。
その中に2つが国内事件、32年に五・一五事件、36年に二・二六事件です。
並べると、31年の満州事変、32年の五・一五事件、36年の二・二六事件、37年の盧溝橋事件となります。


【国民精神総動員運動】 日中戦争が起こった3ヶ月後の1937.10月から日本は、国民精神総動員運動を行い、国民の意識変革を求めていきます。服装から変えていく。女性はもんぺをはきなさい。女子高生にももんぺはきなさい。戦争映画で見たことあるでしょう。あの雰囲気ですよ。贅沢は敵だと。男は、仕事着も国民服です。


【日独伊三国防共協定】 1937.11月、日本はそれまでの日独防共協定に、イタリアを加えて日独伊三国防共協定に拡大していく。仮想敵国はソ連だ、ということです。アメリカを敵としているのではありません。


【南京占領】 北京郊外の盧溝橋から始まって、日本軍が中国内をどんどん南下していく。どこまで行くか。途中で、北京郊外の通州や、中国最大の都市の上海で事件が起こったりしますが、1937.12月に中国国民政府のある南京を占領します。このとき南京の住民は日本軍が攻めてくるということで、郊外に避難していて30万人くらいしかいなかった、とも言われる。

〇 しかし日本軍がここに入って50万人の中国人を殺したという話がある。これが南京大虐殺といわれる事件です。なぜ30万人しか残ってないのに50万人も殺せるのか。人によっては、これは殺されたのは2000人という人、イヤ2万人だという、20万人、50万人ともいう。実態が分からない事件になっています。
アイリスチャンという女流歴史家で、10数年前にこれを本にした人がいました。次の年、なぜか死にました。これを触るとどうも死人がでる。
事実がわからないまま虐殺記念館を南京郊外に中国が建てています。そこらへんはよく分からない。どっちが正しいかではなくて、ただ分からないのです。分からないことを、分かったことにするのは、歴史的ではないです。

〇 これで南京を追われた中国国民政府は、さらに内陸の都市に首都を移す。それが重慶です。このことの意味は、首都を奪われても降参しない、徹底して戦うということです。東京が占領されても、日本が降伏しないようなものです。

 そもそも、蒋介石の国民党軍が日本軍の進撃によって首都南京を追放された(1937年)にもかかわらず、なおも蒋介石に重慶に居座らせて日本との戦闘の継続を強要したのはアメリカです。・・・・・・蒋介石の背後にいたアメリカは、あくまで蒋介石に日本との戦争を継続させたのです。それはなぜでしょうか。アメリカの戦略が蒋介石を日本との戦争で疲弊させて、中国を共産主義者に売り渡すことにあったからではないでしょうか。(国難の正体・新装版 馬渕睦夫 ビジネス社 2014.11月 P37)

 首都を追われた蒋介石は重慶に逃げ込み、これをもって戦闘は終わるはずでした。通常は、首都を明け渡すことは降伏を意味します。日本政府は蒋介石に和平提案をしました。ところが蒋介石は引き延ばし作戦に出て、事実上の和平拒否をしました。業を煮やした近衛首相は「国民政府を対手とせず」と有名な声明を出し、和平交渉は頓挫することになりました。蒋介石はなぜ和平を拒んだのでしょうか。彼の背後にいたのはアメリカです。蒋介石と日本との戦争を続けさせたかったアメリカは蒋介石に強要して、戦争を続けさせました。(「反日中韓」を操るのは、じつは同盟国・アメリカだった 馬渕睦夫 WAC 2014.10月 P144)

 アメリカは蒋介石を対日戦に駆り立てる一方で、毛沢東を強力に支援して中国の共産化を推し進めようとしていました。こうした背景を見れば、日中戦争は日本が侵略したわけではなく、中国側の意思だけで起こったわけでもなく、背後にいるアメリカが日中両国が戦うようにあらゆる手を用いて仕向けたと見ることができます。(「反日中韓」を操るのは、じつは同盟国・アメリカだった 馬渕睦夫 WAC 2014.10月 P146)



【第一次近衛声明】 年が明けて翌月1938.1月、日本の近衛首相は、蒋介石政府である「国民政府を相手としない」という第一次近衛声明を出す。ということは、蒋介石政府を認めないということです。


【国家総動員法】 1938.4月には、国家総動員法を出す。今は非常時だという。この法律によって、何が可能になったか。国会を通さずに、人を自由に動かすことができる。高校生に授業しなくていいぞ、爆弾つくりに行け、道路の改修に行きなさい、そういうことが可能になった。
それから物的資源を自由にできる。自動車会社に戦車つくれ。会社が何をつくるかというのを、国家が統制できるようになる。これは戦時体制です。戦時体制にこの1938年から本格的に入っていくということです。
この段階で、帝国議会つまり国会権限が停止された。廃止はされないけれども形だけです。機能してないから無いのと同じです。


【第二次近衛声明】1938.11月、近衛首相は第二次近衛声明を出します。この日本の中国との戦争は何のための戦争か。ここで初めて、東亜という言葉が出てくる。東アジアの新秩序という意味の「東亜新秩序」建設が表明されます。東亜の意味は、東アジアです。東アジアは独立していない。植民地だらけなんです。イギリス、フランス、オランダ、アメリカの。ここに新秩序をもたらす、ということです。
 この日中戦争から、国民の意識として、はっきり戦争してるという意識になります。でも相手は中国です。アメリカとの真珠湾攻撃からではないということです。アメリカはまだ関係ありません。

〇 この1920年代から1930年代の20年間をまとめてみると、1920年代は第一次世界大戦後は協調外交路線をとってきた。これはどことの協調外交なんですか。対米英ですね。アメリカ・イギリスとの協調路線です。これ中心となった外務大臣が幣原喜重郎です。意外と影に隠れて目立たない人物なんですけれども、動きとしてはに非常に重要です。このあと、戦後最初の総理大臣になっていきますから。
ところがこれが行き詰まって、さらに世界恐慌が起こる。そして日本は金解禁に失敗する。不景気におちいります。昭和枯れすすきの時代です。そこで日本は苦悩します。
不況でもイギリスはどうにかしのげます。大植民地帝国だから。大きなブロック経済つくって、自分たちの経済圏をつくればいい。しかし何も持たない日本とドイツが困る。アメリカはというと、植民地はちょこっとでも、国土自体が広くて石炭も石油もでるし、問題ないわけです。

〇 1年後には第二次世界大戦が起こります。その2年後には日本が太平洋戦争に突入する。そういう流れになっていく。いまは1938年です。内閣は第一次近衛文麿内閣だった。
近衛文麿はこのような状況に行き詰まりを感じ、自ら辞意を固めます。1939.1月近衛内閣は総辞職します。



【内閣覚え方】 「サイフのオカネ ヒロウタ 林の近道
サイフの  斎藤実内閣
オカネ   岡田啓介内閣
ヒロウタ  広田弘毅内閣
林の    林銑十郎内閣
近道    近衛文麿内閣




これで終わります。

新「授業でいえない日本史」 41話の1 20C前半 平沼騏一郎内閣~阿部信行内閣

2020-10-24 09:08:15 | 新日本史5 20C前半
【平沼騏一郎内閣】(1939.1~39.8)
近衛文麿が辞意を固めて退陣したあとは、枢密院議長の平沼騏一郎が首相になります。政党政治家ではありません。もともとは司法官僚です。1939.1月の成立です。

日本はすでに中国と戦ってる。敵はアメリカではなくて、ソ連です。さっき言った通り。ソ連が気にかかっている。


【ノモンハン事件】 対ソ紛争が起こる。北朝鮮の北方の満州です。今でいう中国とソ連の国境沿い、そこで日ソ両軍が衝突する。場所はノモンハンです。ノモンハン事件という。1939.5月です。これは何ヶ月も続くんだけれども、結論いうと日本は負ける。北に行くのは阻まれる。これはソ連との戦いで、まだアメリカはぜんぜん関係ありません。
この1939年の7月には、国民徴用令が出される。軍事産業への人的資源、これの国家管理です。本格的に、高校生は授業なんかせんでよかぞ、軍事動員に行け、といって。そういう人を勝手に動かせる。戦時体制です。


【アメリカの日米通商航海条約破棄通告】 今までの流れで、中国は出てくる、ソ連も出てくるけれども、ほとんどアメリカは出てこない。しかし、このアメリカが突然、1939年7月に、日本に対して、日米通商航海条約の破棄を日本に通告する。ここで初めてアメリカが出てきます。日本は、エッ何でだ、と思う。

〇 それまでアメリカは、日本が欲しいものは何でも貿易取引で供給しますよ、と言っていた。メインは石油です。前に言ったように、日本は必要な石油をほぼアメリカに頼っている。それを破棄したということは、どういうことか。おれはあんたに石油を売らいことだってできるんだよ、ということです。エッ脅されてるのか、という感じです。アメリカからの輸入が困難になっていくということです。そして2年後の1941.8月には、アメリカは一滴も石油を売らないことを通告します。

〇 なぜこんなことになるのか。ある教科書には、前年の1938年に近衛首相が出した東亜新秩序声明に対して、「アメリカは自国の東アジア政策への本格的な挑戦だとみなした」と書いてあります。でも東亜とは東アジアのことであって、アメリカの領土とは関係ありません。なぜアメリカは、自分の領土でもない東アジアのことについて、日本が発言したことに腹を立てるのか。日本はアメリカ領土のことをとやかく言っているわけではないのに。日本が、東アジアのことに発言した途端に、アジアから遠く離れているアメリカが腹を立てるのです。

〇 世界大恐慌以来、世界ではブロック経済の形成が進んでいます。イギリス通貨のポンドが流通するイギリスブロック(スターリング=ブロック)、フランス通貨のフランが流通するフランスブロック(フラン=ブロック)、アメリカドルが流通するアメリカブロック(ドル=ブロック)、ドイツのマルクを中心とする為替管理地域も形成されています。そういうなかで、日本は円を中心とする円ブロックをつくれるかどうか、それが日本の死活問題になります。その表明が近衛の東亜新秩序なのです。それに対してアメリカは腹を立てます。

〇 東アジアはすでにアメリカのものになっているかと言えば、インド・ミャンマー・マレーシア・シンガポールはイギリス領、インドシナはフランス領、インドネシアはオランダ領、フィリピンだけがアメリカ領で、アメリカの利害とはほとんど関係ありません。それにもかかわらずなぜアメリカが腹を立てるのか。

〇 実はアメリカはこの前年の1938年から、ルーズベルト恐慌に陥っています。1933年からルーズベルトが実施したニューディール政策はうまくいっていないのです。公共事業の成果が出ず、逆に財政難に陥り、財政支出を削減した結果、恐慌におちいります。アメリカはその打開策を求めています。アメリカが経済回復するのは戦争に参入してからです。
アメリカの日米通商航海条約の破棄通告の意図がどこにあるのか、日本は翻弄されます。日本は、日本にあるアメリカ大使館を通じて、国交改善の要請を行いますが、アメリカ政府は冷淡です。
このことは日本にとってたいへん重要な意味をもちますが、ほとんどの教科書にはたった1行サラリと書いてあるだけです。逆に言うと日本の教科書にはこれ以上書けない部分があるのです。

 1939年7月26日、突如、(アメリカが)日米通商航海条約を廃棄するという通告をしてくる。日本とアメリカは、何の戦争もしていない頃です。通商条約破棄という準宣戦布告のようなことをアメリカは日本に対してやった。・・・・・・日本にとっては当時、全輸出額の半分近くが、アメリカ向けです。こんな貿易関係を破棄するなんていうのは、これだけで戦争行為です。(日米戦争を起こしたのは誰か 加瀬英明他 勉誠出版 P58)

 (アメリカによる)日米通商航海条約の破棄通告は国際法上、また当時の不戦条約に照らしても、日本に対する宣戦布告に該当します。日本はアメリカから事実上の宣戦布告をされていたのです。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 P119)

 慣習国際法上は、アメリカが日米通商条約を破棄して日本に対して石油を禁輸したこと自体が、宣戦布告行為と見なされます。・・・・・・(真珠湾攻撃を)「日本による騙し討ちだ」とアメリカは日本を非難しましたが、アメリカが宣戦布告と同様のことをしていたことを目立たないようにして、日本に責任を負わせるためのアメリカ側の情報操作に過ぎません。アメリカは中立を装いながら、支那を支援して日本を攻撃していました。フライング・タイガーズ(アメリカ合衆国義勇軍)と呼ばれる軍隊を組織して、支那の対日戦を支援しています。日本が真珠湾攻撃をする前から、アメリカ軍は日本への軍事攻撃を始めていたのです。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 P119)



【独ソ不可侵条約】 ここでまた変なことが起こります。日本は共産主義のソ連が敵だと思っていた。ドイツもソ連が敵だと思っていた。だからソ連を対象に日独防共協定という共産主義を防ぐ協定を結んだ。
そのドイツが、突如として独ソ不可侵条約を結ぶ。1939.8.23日です。ドイツソ連が手を組んだということです。首相の平沼騏一郎は、これを理解できない。
 世界はご都合主義で動いています。この時ソ連は東のノモンハンで日本と戦っているから、西では戦えない。だから西にあるドイツと不可侵条約を結んで、ソ連は西の守りを固めた。ドイツはドイツで、ソ連を叩くにはまず西のフランスを叩いておかなければならない。そうしないと西のフランスと東のソ連との挟み打ちになる。それは避けたい。だからここは一旦東のソ連と不可侵条約を結び、ドイツは東の守りを固めた。ドイツのヒトラーは防共協定よりも東の守りを優先したわけです。
 しかし平沼騏一郎は、「複雑怪奇」という有名で無責任な言葉を残して総辞職する。ここに日本の実力とホンネが表れています。一国の首相さえ世界情勢がよく分からない。君たち高校生が分からないというのも無理はない。8ヶ月間の短命内閣でした。

〇 ではドイツがソ連と結んだのは何のためか。あと1ヶ月もしない1939.9月第二次世界大戦が起こります。ドイツとソ連が挟み撃ちして、どこに攻めていくか。これがポーランド侵攻です。この瞬間に、ドイツにとって思いもよらぬ第二次世界大戦が始まる。


〇 しかしこれはドイツとソ連のフェイントです。ドイツもソ連もこれを本気で守る気がなかった。しかし、日本はそこまで見抜けないまま翻弄されていきます。ドイツがソ連と手を組んだら、日本もソ連と手を組もうということになっていく。
 ドイツとソ連は、この直前までスペイン内戦で敵と味方に分かれて戦っています。ドイツのファシズムとソ連の共産主義は敵対関係にあります。
さかのぼれば、第一次世界大戦の時も、ドイツのパン=ゲルマン主義とロシアのパン=スラブ主義は対立していました。ドイツとソ連の不可侵条約は見かけ上のものだったのです。

〇 このあとのことを言うと、2年後の1941年に日本は日ソ中立条約を結びます。独ソ不可侵条約を見て、日本はドイツと同様に、ソ連と手を組みますが、結果的にみるとこれもソ連のフェイントです。終戦間際、ソ連が裏切っていく。日本は翻弄され続けます。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【この先の概略】
〇 太平洋戦争を説明する前に、あらかじめここから先の動きをポイントだけ説明していきます。
 広田弘毅内閣時の1936年に日本は日独防共協定を結びます。敵は共産党のソ連なんです。日独 VS ソ、です。アメリカは出てきません。

〇 平沼騏一郎内閣時の1939年にノモンハン事件が起きる。これは、日 VS ソ、です。アメリカは出てきません。

〇 平沼騏一郎内閣時の1939.7月に、突然アメリカが日本に対して日米通商航海条約の破棄を通告する。日本にとっては寝耳に水です。

〇 平沼騏一郎内閣時の1939.8.23日に、ドイツとソ連が独ソ不可侵条約を結ぶ。これで日本は、あれっと、理解できない。ドイツとソ連が手を組んだ。しかしこれはフェイントです。

〇 日本の首相が平沼騏一郎から次の阿部信行に変わった直後の1939.9.1日、ドイツがポーランドに侵攻します。
すると2日後の1939.9.3日、イギリスはドイツに宣戦布告をした。フランスも宣戦布告します。独 VS 英仏、です。
この理由は、イギリスがポーランド相互援助条約を結んでいたからだ、とされます。しかしこの条約は、以前からあったものではなく、独ソ不可侵条約が締結された2日後の1939.8.25日に慌てて結ばれたものです。このことによって宣戦布告への布石が打たれます。

【馬渕睦夫】99%の人が勘違いしているプーチンの現状【ひとりがたり】

(文字起こし 2:30~) ヒトラーも、今日のプーチンのように追い詰められたんです。戦争に行くようにヒトラーが追い詰められた。というのは、これは本当にヒトラーに分があったんですが、つまりポーランドとの、要するに最後の領土交渉ですね。それに対して簡単に言えば、ポーランドに対しアメリカとイギリスとフランスが絶対に妥協するな、ポーランドの独立は保証する、自分たちがポーランドを守ってやる、と言ったわけです。
 ヒトラーは、私からすればごくごく柔和的な提案といえますが、簡単に言えば、ダンツィヒというバルト海に面した、それのドイツへの返還です。90%以上がドイツ人で、もともとドイツ領ですから、それを返還してくれということ。
 もう一つは、ポーランド回廊と言われますが、ドイツ本土とそれからドイツ領の東プロシアですね。その間にポーランドが入り込んでいるわけです。そこがポーランド回廊と言われる地域ですが、これも元ドイツ領です。でもそのポーランド回廊を返せとは言わずに、そこに高速道路高速鉄道ですね。東プロシアと本土を結ぶ。それを建設させてくれという条件だった。それは飲めないはずないです。もともと自分の領土ではないドイツの領土だったところですから。ヒトラーはそのドイツ領土ですら返還は要求しなかった。これで飲めないはずがないわけですが、つまり米仏がバックにいたから飲まなかった。つまり空約束をポーランドは信じたわけです。
 それで何をやったかというと、国境地帯つまり旧ドイツ領にいるドイツ人を虐殺したんです。これなんか今とよく似たような状況です。歴史はだいたい繰り返すわけですが、役者は違っても繰り返すんですが、それでヒトラーも侵攻せざるを得なかった。
 ただそのときに皆さんもご存知の通り、ヒトラーはスターリンと密約を交わしていて、西半分はヒトラーが取る、それから東半分はスターリンが占領するという密約を交わしたわけです。これが有名な独ソ不可侵条約秘密議定書ですが、それに従って、その2週間後に今度はスターリンもポーランドの東半分を占領したわけです。
 ところがその時にアメリカも、ポーランドの独立を保証していたイギリスフランスも、それからポーランドの独立を守ると言っていたアメリカも、ソ連に宣戦布告しなかったわけです。だからポーランドは消滅したわけです。
 だからどういうふうになるのかということの一つの例なんです。だから私は、ヒトラーは1939年までは善政を敷いていた。これはほとんどが内政問題でしたから、ドイツ国民の福利のための政策をやっていたというふうに私は判断しておりますし、それはほぼ歴史的に間違いないんだと思いますが、このポーランドの戦争を強いられたというところから、ヒトラーの歯車が狂っていくということにもなるわけです。

※  第2次世界大戦の前にナチス・ヒトラーが世界侵略を企てているとの根拠なき誹謗中傷が欧米のメディアで連日のごとく繰り返されていました。米国のルーズヴェルト大統領や英国の有力政治家チャーチル(1939年のナチスのポーランド侵攻後に首相就任)などはヒトラーとの戦争は避けられないと決めつけて、折から行われていたドイツとポーランドとの交渉においてポーランドが決してドイツと妥協せず戦争するように執拗に働きかけていたのです。
 ヒトラーはベルサイユ条約によって不当に奪われたドイツ領の回復を目指していました。武装が禁じられていたラインラントへの進軍から始まって、同じドイツ民族国家であるオーストリアとの合併、チェコ・スロバキアのドイツ系住民の居住地域であるズデーテン地方の併合などを経て、最後の領土回復要求であるポーランドとの交渉に臨んでいました。
 ヒトラーの要求は極めて寛大でした。実質的な領土回復要求はバルト海に臨む港湾都市ダンチヒの返還のみでした。住民の9割がドイツ人であるダンチヒはポーランドに使用権がありましたが、国際連盟の管理下にあった国際都市です。その他は、ドイツからポーランドに割譲されたポーランド回廊におけるハイウェーと鉄道の建設でした。ドイツの飛び地である東プロシャとドイツ本土の間に位置する回廊における両者を結ぶ輸送路の建設で、ポーランド回廊のドイツへの返還ではなかったのです。
 この寛大な要求をポーランドが呑めないはずはありません。しかし、ポーランドは最後まで妥協しなかったのです。それには訳がありました。英仏がポーランドの安全を保障していたのです。つまり、ポーランドがヒトラーから侵略されれば、英仏はポーランド側にたってヒトラーと戦うといういわば白紙委任状でした。ポーランドは英米による独立保証を基に、ヒトラーに対し不相応な強硬姿勢をとったのです。英仏に加えてアメリカのルーズベルト大統領からも強力な応援がありました。
 ルーズヴェルトもヒトラーとの戦争を決めていました。イギリスのチェンバレン首相の頭越しに、強硬な反ヒトラー主義者であるチャーチルと接触して戦争熱を煽らせるとともに、チェンバレンからの和平へ向けてのルーズベルトの介入要請を拒否し続けました。ルーズベルトの特使であるブリット駐仏大使はルーズヴェルトの直々の指示に基づき、アメリカは必ずポーランドを支援するのでドイツと戦争するようポーランド政府に執拗に迫りました。アメリカの強い援軍を得て、ポーランドはドイツを不必要に刺激する挑発行動をとりました。ポーランド回廊のドイツ系住民の迫害・虐殺です。1939年9月1日のドイツによるポーランド侵攻の直前には、約6万人のドイツ系住民がポーランド軍などによって惨殺されました。ヒトラーにポーランド侵攻決断の最後の一押しになったのが、ドイツ人の虐殺だったのです。自国民保護という国際法上の大義名分でした。
 ドイツのポーランド侵攻の2週間後には、独ソ不可侵条約秘密議定書(1939年8月23日締結)に従い、スターリンのソ連がポーランドに侵攻し東半分を占領しました。ところがドイツには宣戦布告した英仏は何故かソ連には宣戦布告しませんでした。ポーランドの独立を保証していたにもかかわらずです。この歴史の謎は解明されてしかるべきでしょう。(「ウクライナ紛争 歴史は繰り返す」 馬渕睦夫 著 WAC出版 序章より P3 2022.5月出版(抜粋))

 開戦後ヒトラーは、アメリカのローズヴェルト大統領に調停を求めたが、拒絶されている。(早わかり 世界近現代史 宮崎正勝 日本実業出版社 P240)



〇 こうやって1939.9.3日第二次世界大戦が始まった。ドイツに対して宥和策をとっていたイギリスが突然ドイツに宣戦布告します。アメリカは、まだ出てきません。
しかしイギリスは、約10日遅れてソ連が独ソ不可侵条約にしたがって同じポーランドに侵攻しても、ソ連には宣戦布告をしません。ポーランドと相互援助条約を結んだことが宣戦布告の理由なら、同じ行動をとったソ連にも宣戦布告をすべきなのですが、そうはなりません。理屈が合わないのです。

 第二次大戦というのは、ヒトラーが宣戦布告したんじゃなく、ドイツがポーランドに侵入したというので、イギリスが宣戦布告したんです。ほとんど同時にソ連もポーランドに侵入しているのに。(日米戦争を起こしたのは誰か 加瀬英明他 勉誠出版 P64) 

 (米英は)、1939年にヒットラーを引っかけてポーランド侵攻させて第2次大戦を起こした。(金融世界大戦 田中宇 朝日新聞出版 2015.3月 P109)

 1939年3月末、イギリスとフランスが、ポーランドとルーマニアの独立を保証した。・・・・・・イギリスもフランスもポーランドを侵略から救いだす力がなかったにもかかわらず、その独立を保証した。・・・・・・第二次大戦のスタートは、ポーランドを保証するという失敗にある。それでイギリスはドイツに宣戦布告した。(日米戦争を起こしたのは誰か 加瀬英明他 勉誠出版 P88)



〇 当初はドイツが快進撃、ヨーロッパで強かった。日本は、ドイツにつこう、ということで、1940.9月日独伊三国軍事同盟を結びます。今、さきの流れだけを言っています。詳細はあとで言います。ここで日独伊が手を組んだ。

〇 すると、独ソ不可侵条約に倣おうということで、ノモンハン事件で敵であった日本とソ連が手を組んだ。これが1941.4月日ソ中立条約です。でもこれもフェイントです。

〇 しかし手を組んだはずのドイツとソ連が突然、戦いだす。1941.6月独ソ戦です。これがドイツとソ連のホンネです。日本は戸惑います。日本が、ソ連と1941.4月の日ソ中立条約で手を組んだとたん、その2ヶ月後の1941.6月に同盟国のドイツがソ連と戦う。独 VS ソ、です。また日本は翻弄されます。まだアメリカは出てきません。日本ともドイツとも、まだアメリカは敵になっていません。アメリカには参戦する理由がないからです。

〇 しかし、この1941.12月太平洋戦争が始まる。これが日 VS 米です。これで日本は決定ですね。これが突然だということです。ほとんど流れの中心ではない。この動きは、最後に突然出てくる。だから非常に理解しにくいんです。

〇 最後までいうと、日本とソ連の、日ソ中立条約がありながら、1945年、終戦まぎわにはソ連が対日参戦する。日 VS ソ、です。日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦してくる、ということです。
こういう流れを、次に内閣を追って説明します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


【阿部信行内閣】(1939.8~40.1)
平沼騏一郎内閣が、1939.8月の独ソ不可侵条約の成立により「複雑怪奇」という言葉を残して総辞職したあと、総理大臣になったのが陸軍出身の阿部信行です。陸軍大将です。1939年8月28日に組閣を命じられ、2日後の8月30日に阿部信行内閣が成立します。
このとき昭和天皇からは、「英米との協調方針」を取ることとの異例の指示があります。外務大臣には、新米英派の海軍大将野村吉三郎が就任します。 


【第二次世界大戦勃発】 今言ったように、1939年8月30日の阿部内閣成立から2日後の9月1日、ドイツがポーランドに侵攻します。

するとその2日後の9月3日、イギリスは突然、ドイツに宣戦布告をした。1939年9月3日、海の向こうのヨーロッパでは第二次世界大戦が勃発します。
この時には、まだ日本はドイツと軍事同盟を結んでいませんし、ヨーロッパの戦争と日本は関係ありません。日本は大戦不介入を表明します。日本は戦争に加わりません。

〇 さっきも言ったように、第二次世界大戦の直接のきっかけは、ドイツとソ連のポーランドへの侵攻です。ドイツとソ連が、それぞれ東と西からポーランドに侵攻したことに対して、イギリスがドイツに宣戦布告したのであって、ドイツがイギリスに宣戦布告したのではありません。
ドイツがイギリス領土に攻め込んだわけでもないのに、なぜイギリスがドイツに対して宣戦布告をするのか。イギリスとポーランドとの相互援助条約が理由とされますが、イギリスはそれまでドイツに対して宥和政策をとっていたのです。そのイギリスはドイツと外交交渉するでもなく、突然ドイツに宣戦布告をするのです。
しかもイギリスは、同じポーランドに侵攻したソ連には宣戦布告をせずに、ドイツにだけ宣戦布告をします。理屈が合いません。しかしここから第二次世界大戦が始まります。

〇 これにはヒトラー自身が驚きます。ヒトラーはこれで宣戦布告されるとは予想もしていないのです。だからヒトラーは、アメリカのルーズベルトに密かに、この宣戦布告を取り消すよう調停してくれることを頼みます。しかし、アメリカのルーズヴェルトは、素知らぬ顔で、一蹴りします。

 開戦後ヒトラーは、アメリカのローズヴェルト大統領に調停を求めたが、拒絶されている。(早わかり 世界近現代史 宮崎正勝 日本実業出版社 P240)

 ヒトラーは、ポーランド分割によりソ連と国境を接することを、イギリスは容認すると想定していました。しかし、イギリス国内でドイツに対する批判的な世論が形成され、それに押し切られる形で宣戦布告が行われました。ヒトラーにとってこの宣戦布告は「寝耳に水」というべきもので、ヒトラー自身にイギリスやフランスと開戦する意志はなく、ヒトラーは一方的に開戦を突きつけられることになりました。(世界一おもしろい世界史の授業 宇山卓栄 中経の文庫 P364)




〇 実はこの1939年にドイツは「帝国銀行法」によりドイツの中央銀行を国営化しています。イギリス・アメリカの中央銀行は国営ではなく民間銀行です。しかしドイツは国営銀行になりました。これによりドイツの通貨発行権はヒトラーが握ります。これにいちばん腹を立てたのは、イギリスやアメリカの国際金融資本家だったと言われます。

 (ナチス政府は)1937年に公布された「帝国銀行新秩序法」で、帝国銀行取締役会は直接国家元首に指導されることを規定し、その独立性が完全にはく奪された。・・・・・・
1939年に)ナチス政府は「帝国銀行法」を公布した。この法律で、金と紙幣の兌換を禁止する、・・・・・・中央銀行の政府融資額は「指導者と国家元首」が決める、などを定めた。これは、貨幣制度がロスチャイルドの「黄金の十字架」から自由を取り戻したことを意味した。こうして、ナチス政府による中央銀行の法律面と政治面の両方で国有化が完成した。国債銀行家の激しい反対を避けるため、ヒトラーは徐々に実行し、6年間をかけてようやく中央銀行の実権を握ったのである。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P297)
(筆者注) これは政府が紙幣発行権を握ったたこと。



〇 同月1939.9月、ソ連とのノモンハン事件は、日本が劣勢です。日本は、これは撤退だ、中止だ、と撤退させます。実質的には日本の関東軍が敗北しています。
1939.10月、価格等統制令を出します。中国とはすでに戦っていて、戦時経済に入っていきます。
国民の間には、戦時経済と物価高騰に対する不満が高まり、それに乗っかる形で、政党勢力が阿部内閣に対する批判を高めます。こういう中で阿部信行内閣は1940.1月に総辞職します。わずか5ヶ月の短命内閣です。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【世界の状況】
【1940年】
 目をヨーロッパと世界に転じて見ると、1939年に第二次世界大戦が始まって約1年間はドイツが優勢です。ドイツの西隣にあるオランダをまずドイツが占領する。そのドイツの勢いに、イギリスは見る影もない。とっとと大陸から退散していく。フランスもそうです。
 イギリス軍は、ヨーロッパから去って、本国ブリテン島に帰っていく。
そのままドイツ軍は、フランスに入って首都パリを落とす。フランスは、あっという間にドイツに負けます。ドイツがフランスの大半を占領する。フランスは早々と降伏です。
フランスの中にも、フランスよりもドイツにつく人たちも出てくる。親ドイツ政権のヴィシー政府がフランスに成立する。

〇 翌年の1940.9月に、日本は北部仏印進駐を行う。ドイツの快進撃を見て、日本が北部フランス領インドシナ・・・・・・ここは今のベトナムです・・・・・・そこに日本は進出する。
こういうドイツ優勢の動きの中でその同月1940.9月に、日独伊三国軍事同盟が結ばれます。

〇 ドイツに降伏したフランスは、イギリスに逃げたフランス将軍が、フランス国民よ戦え、と呼びかけている。自分は逃げていてこう言うのも変なものですが、これがド・ゴールです。これをフランスの亡命政府という。
しかしド・ゴールはイギリス・フランスが勝ったあと、戦後のフランスを代表する大統領になっていく。ド・ゴール大統領です。しかしこの時はイギリスに逃げているんです。
それに対して、フランス人のなかには、ドゴール将軍の呼びかけに、ドイツと戦おう、という人たちが出てくる。この運動をレジスタンスという。抵抗という意味です。

〇 ちょうどこの頃イギリスは、前の首将のチェンバレンは、戦争反対だったけれども、戦争好きの首相が登場する。これがチャーチルです。これがアメリカのルーズベルト大統領と仲がいい。イギリスはドイツ軍に空爆されながらも、どうにか持ちこたえる。


【1941年】 ここから1941年です。日本はドイツにあわせて、ソ連と手を組む。これが1941.4月日ソ中立条約です。
しかしそのインクもかわかない2ヶ月後の1941.6月に、仲間になったはずのドイツとソ連が戦い始める。これが独ソ戦です。
どうなっているのか、日本は理屈が立ってないんですよ。日本はこうやって翻弄されていきます。ドイツがソ連に宣戦布告する。この理由は私も分からない。ヒトラーがソ連ぎらいであったとしか書いてない。なぜヒトラーがソ連が嫌いだったのか。政治家はそんなに好き嫌いでは動かない。今はヒトラーは極悪人になってるけれど、良い悪いは別にして、一応、名の通った一国の首相です。そんな好き嫌いでは動かないです。

〇 戦況はこれで変わる。今までドイツとソ連は仲間でした。それまでイギリスもソ連とはあまり仲が良くなかったんです。そのソ連がイギリスと手を組みます。これが1941.7月英ソ軍事同盟です。
これで実は半分はドイツの負けです。あとの半分が、イギリスがアメリカのルーズベルトを引っ張ってくる。これで決まりです。

〇 こののち、真珠湾攻撃の同年12月8日アメリカが参戦する。第一次世界大戦でアメリカがイギリス側に立って参戦したパターンと同じです。イギリスとアメリカは常にこうです。政治家が違うだけで、ストーリーは変わりません。
ソ連は、ロシアの民衆の抵抗も手伝って、ドイツ軍の進出を阻む。ソ連はドイツの東にあり、これでドイツの東部戦線は長期化していくわけです。


〇 独ソ戦に戻ります。独ソ戦の開始が1941.6月です。その1ヶ月後1941年7月28日に、日本は南部ベトナムに進出する。これを南部仏印進駐といいます。南部仏印とは南部ベトナムのことです。このときベトナムはフランスの植民地です。南部フランス領インドシナ進駐です。狙いは、インドネシアのスマトラ島に石油がある。アメリカは1939年に日本に、石油を売らなくてもいいんだよ、と言った。だから日本ははやく石油を確保しないといけない。

〇 するとその3日後の1941年8月1日に、アメリカは対日石油輸出禁止を発表します。石油を一滴も売らない、と決定したんです。これを日本は予想してたかというと、ア然とします。エッ何でだ、と。オレたちはアメリカに何かしたのか、という感じです。とにかくこれで石油が入ってこなくなった。石油備蓄は長くてあと1年です。日本は焦ります。

〇 このときの首相は近衛文麿です。近衛文麿は、ヒトラーが取った行動とほとんど同じです。ルーズベルトさん、これはどうにかならないでしょうか、二人で話し合いましょう、と日米のトップ会談を申し込む。しかしルーズベルトは、知らん顔で、また一蹴りする。

 (1941年)8月4日、(日本の)近衛首相は陸海軍大臣と協議し、ルーズベルト大統領との直接会談の道を探ると発表した。引き続き和平の条件を探るという決定は、海軍の支持を得、陸軍も同意していた。天皇は、できるだけ早く大統領との会見に臨むよう指示した。8月8日、東京からの指示に基づいて、野村大使はハル国務長官に対して、ルーズベルト大統領との首脳会談を正式に申し入れた。・・・・・・
大西洋憲章を話し合った時期(1941年8月9日から14日)には、チャーチルもルーズベルトも日本の動きがわかっていた。二人は日本に対して何らかの行動を起こすことを決めていた。近衛首相の提案を無視した上で、日本に対して強い警告を発することを決めた。(裏切られた自由 上 ハーバート・フーバー 草思社 P472)

 1941.9月ルーズベルトは、日本の近衛総理大臣の和平の提案を受け入れ拒否した。(日米戦争を起こしたのは誰か 加瀬英明他 勉誠出版 P102)



〇 一蹴りしてすぐ、その約10日後にイギリスのチャーチルと会うんです。このへんは日付を追わないと分かりません。3日で情勢が変わる。ルーズベルトはチャーチルと会って1941年8月12日太平洋憲章を発表する。
イギリスはこのときまだドイツに負け続けているんです。負けているのに、この大西洋憲章は勝ったあとの予定を話し合っているんです。アメリカ大統領と。
しかもアメリカはまだ第二次世界大戦に参戦していません。戦ってもいないアメリカと、第二次世界大戦でイギリスが勝ったあとのことを話し合います。これは不自然です。
そしてそこで、この戦いはドイツという悪のファシズムとの戦いだ、と戦争の意味づけと正当化を行います。このドイツのファシズムを懲らしめるために、俺たちアメリカとイギリスは、民主国家として立ち向かうんだ、とアメリカ・イギリスは言います。

〇 さらにここで、勝てば新しい国際組織である国際連合をつくろうということまで決めます。今までの国際連盟はヨーロッパのスイスにあります。今度はアメリカのニューヨークにつくろうという。ニューヨークにはそれだけの空き地がない。それは心配しなくてもいい、大金持ちが寄付しますから、という。これがロックフェラー財閥です。ロックフェラーの私有地がボーンと寄付される。世界平和のためだという。でもお金持ちほど、儲からないことはしないんです。

〇 つまりここで三大国家、米英ソが手を組んでいるんです。これでほぼ決まりです。蒋介石の中国も米英側につきます。そのあとは、どうやってアメリカが参戦するか。その理由作りです。
ソ連のスターリンは、イギリスが嫌う世界革命路線、これを放棄する。イギリスとアメリカは、よしよし、それでいいんだ、仲良くしましょう、とロシアにいう。
日本が太平洋戦争に突入する前に、こういう状況がすでにでき上がっています。

 チャーチルとルーズベルトは、太平洋戦争前の1941年8月に大西洋憲章を調印しますが、その時点でアメリカの参戦について話し合っていたことが、明らかになっています。(太平洋戦争の大嘘 藤井厳喜 ダイレクト出版 P65)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



新「授業でいえない日本史」 41話の2 20C前半 米内光政内閣~真珠湾攻撃

2020-10-24 09:07:50 | 新日本史5 20C前半
【米内光政内閣】(1940.1~40.7)
1941.8月までの世界の状況を先に言いましたが、ここから阿部信行内閣が総辞職した1940.1月の日本に戻ります。
次は海軍出身の首相です。軍人であることには変わりはないです。1940.1月米内光政内閣が成立します。さっき言ったように、この時はドイツがまだ快進撃を続けている最中です。日本はまだ太平洋戦争に突入していません。

〇 日本はアメリカとではなく中国と戦っています。その中国のなかにも、蒋介石の中国はどうもおかしいと思う人がいる。それで蒋介石の重慶政府を脱出する。そして日本と協力する。これが汪兆銘です。日本の支援のもとで蒋介石政府とは別の南京新政府をつくります。
この米内光政内閣は陸軍との対立で半年しか持たない。1940.7月に総辞職します。



【近衛文麿内閣②③】(1940.7~41.10)
たった1年半の間に3つの内閣が次々に倒れたあと、残るは近衛文麿しかいない。1940.7月第二次近衛文麿内閣ができます。ここから1年3ヶ月、真珠湾攻撃の2ヶ月前の1941.10月まで首相を務めます。この1年3ヶ月の在任期間は、この時代では長いほうです。この時代の内閣は短命内閣続きで、半年持てばいいほうですから。
彼は外務大臣に松岡洋右を起用します。基本的な外交方針は、ソ連と組んで、アメリカ・イギリスとの戦争を避ける方針です。


【北部仏印進駐】 世界の動きを先に言いましたが、再度それを日本を中心にして見ていきます。
近衛内閣成立から2ヶ月後の1940.9月、日本は北部仏印進駐を行います。仏印というのはフランス領インドシナのことです。フランスの植民地です。北部仏印とは今の北ベトナムです。


〇 この動きの背景にあるのは、前年の1939.7月に突如としてアメリカが日本に対して、石油を売らなくてもいいんだよ、と言ったことです。それが日米通商航海条約の破棄通告です。それで日本は、急いで石油を確保しようとする。石油はインドネシアのスマトラ島にあります。
もう一つは、日本軍は満州から北に行こうとしてソ連と戦ったノモンハン事件で負けた。これが1939.9月です。北がダメなら南しかない、という南進策への方針転換です。この二つが合体して北部仏印進駐になります。

〇 さらにもう一つあります。日本は中国と戦ってます。戦局は日本に有利です。しかし中国に勝っても勝っても、中国の物が尽きない。武器、弾薬、鉄砲が尽きない。それはなぜか。イギリスアメリカが中国を応援して補給しているからです。ベトナムやビルマの南の密林に道を通している。これを援蒋ルートといいます。援蒋ルートとは、蒋介石援助ルートのことです。米英は半ば公然と中国を支援しています。日本はこれを断ち切りたい。
ちなみに、蒋介石の嫁さんは中国随一の浙江財閥の娘の宋美麗です。浙江財閥とは上海の隣の浙江省を拠点にした、イギリスと関係の深い財閥です。上海はイギリスの拠点です。宋美麗はさらにアメリカとも接近し広告塔として活動していきます。


【日独伊三国軍事同盟】 北部仏印進駐と同月の1940.9月、外相の松岡洋右はドイツ駐在の来栖三郎大使に指示して、ドイツと同盟を組む。イタリアもふくめて。これが日独伊三国軍事同盟です。このときはドイツの快進撃の最中で、日本には「バスに乗り遅れるな」という雰囲気がある。松岡洋右は、日本がドイツ・イタリアと組んで集団安全保障体制を強化すれば、アメリカはこれ以上日本と対決することはないだろうと考えます。
しかしアメリカの構想はそれを上回る規模であることが、翌年1941.8月の大西洋憲章で明らかになります。逆にアメリカは日本と戦うチャンスをうかがっていたのです。

〇 この日独伊三国軍事同盟によってアメリカのルーズベルトとの関係は悪化します。しかしアメリカの国論は、国民の85%が戦争反対です。ルーズベルトは日本に宣戦布告できない。
ルーズベルトはイギリスのチャーチルと接近していきます。しかしイギリスとアメリカとの間に同盟関係はありません。その前にアメリカはまず国際連盟にさえ加盟していない。これでどうやって戦争したらいいのか。

〇 ドイツはアメリカを攻撃しているわけではないから、アメリカはドイツと戦う理由がない。
しかし日本と戦うことができれば、ドイツとも戦うことができる。日本とドイツの日独伊三国軍事同盟はアメリカがドイツと戦う絶好の理由を与えたのです。日本とドイツは、このあと軍事的な共同作戦をとることはありませんし、実質的には機能しません。しかしアメリカ側からすれば攻める理由になるのです。日本が先に手を出せば、アメリカはいつでも日本・ドイツと戦うことができる状況が生まれたのです。


【新体制運動】 近衛首相は、戦争体制固めとして新体制運動を始めていく。
もう政党はいったん活動を停止しましょう、挙国一致でやりましょう、一つの政党があればいいじゃないか、という。それでこの政党を大政翼賛会という。1940.10月です。ここで政党は解散しました。政党がすべて解散して、一つの政党になった。そして一つの政党のもとに、県、市、町、村、町内会、部落会、隣組、そこまで徹底して組織していく。しかしこうなると滅多なことは言えなくなります。この戦争勝てるのとか言うと「非国民」と言われて、しょっぴかれていく。滅多なことが言えない世の中です。

〇 それから労働組合も活動を停止しましょう、となる。翌月1940.11月です。これが産業報国会の成立です。報国というのは、先生に報告するんではなくて国に報いる会です。労働組合の消滅です。今はそれどころじゃない、ということで。

〇 これが日本のファシズム体制だ、というふうに、ヨーロッパでは言われるけれども、これはこの時点で、日本がどれだけ危機感を持っていたかという証しでもある。これは楽に勝てるとかまったく思ってない。しかし国民に負けるかもしれないと言うと、戦争反対になるからそうは言えない。これは本当に危機感をもってないと、やれないことなんです。
実際、この戦争で勝てるといった人もいないんです。でもやらざるをえない状況が生まれつつある。

〇 1941.4月からは、小学校も小学校じゃなくなる。国民学校という。このころ小学校を卒業した人は、小学校卒業じゃない。国民学校卒業です。
物資も、切符制・配給制になる。切符制というのは、お金のほかに切符がないとモノを買えない制度です。自由に物が買えなくなる。物が足らないから。


【日ソ中立条約】 さきの1939.8.23日にドイツがソ連と独ソ不可侵条約を結んだ。でもこれはドイツとソ連のフェイントであることが、このあとすぐに分かります。しかし日本はこれを信じて、ドイツに歩調をあわせてソ連と手を組みます。
それが1941.4月日ソ中立条約です。これも外相の松岡洋右が結びます。松岡は日独伊にソ連を加えて、日独伊ソの四カ国で軍事同盟を組もうとします。つまり日独伊三国の集団安全保障体制にソ連を加え、それをさらに強固なものにしようとしたのです。この時点では、独ソ不可侵条約日ソ中立条約日独伊三国軍事同盟、この三つの条約に矛盾はありません。このことは、伊藤博文の日露協商論以来の流れと関係しています。


〇 軍部はこれで北方のソ連とは戦わないことになったから、北方にいた軍隊をみんな南に集中し、南進させようとします。


(太平洋戦争前の日本の国際関係)



〇 ここで注意すべきは、アメリカは日本の国際条約の枠のどこにも入っていないことです。日本が戦っているのは中国であり、日本軍が進駐したのはフランス領インドシナです。そしてねらっているのはオランダ領インドネシアの石油です。アメリカはこの関係の中で枠外にいて、日本と直接対立する立場にはありません。それがなぜ、日本がアメリカの真珠湾を攻撃することになるのか。そこの疑問点にだんだん近づいていきます。


【独ソ戦】 しかしその2ヶ月後の1941.6月に、ドイツはソ連と独ソ戦を開始します。これがドイツとソ連のホンネです。ここで日本の集団保障体制の三本柱の一つである独ソ不可侵条約が破綻したのです。これで日ソ中立条約が宙に浮く形になる。実効性を持たなくなる。ドイツとソ連が戦っているのに、日本はソ連と日ソ中立条約を結び、ドイツとは日独伊三国軍事同盟を結んでいるという矛盾です。この状態ではお互いが疑心暗鬼になり、日独伊三国軍事同盟も日ソ中立条約も機能しなくなります。

〇 ドイツにとってもこの独ソ戦は、戦力を西と東の二つに分けることになり、戦力の低下につながっていきます。この独ソ戦は第二次世界大戦の一つの謎です。表面上の理由はドイツとソ連が石油利権で対立したことになっています。


【日本の在米資産凍結】 アメリカにも日本移民がいっぱいいます。かなりお金持ちになっている日本人もいる。まだアメリカとは戦ってないです。戦ってないけれども、おまえたちは敵国民だといって、アメリカの在米日本人の資産を凍結し、強制収容所に送るんです。これが1941.7月在米日本資産凍結です。ドイツがユダヤ人を強制収容所に入れたことは有名ですけど、アメリカが日本人を強制収容所に送って財産を没収したことは、あまり知られてないです。


【南部仏印進駐】 1941年7月28日、日本はさらにベトナム南部へ軍を進める。これが南部仏印進駐です。1年前は北部仏印だった。時は近衛内閣です。


【アメリカの対日石油輸出禁止】 その3日後の1941年8月1日に、アメリカが日本に石油一滴も売らない、と通告してきた。アメリカによる対日石油輸出禁止です。日本にとっては寝耳に水です。この間たった3日です。

〇 そこで、にわかに開戦論が出てきます。日本はそれまでずっと日米戦争を避ける方針でした。ただ、ここで石油が手に入らなくなると、このままではどうしようもないというジリ貧論が出てきます。このままでは座して死を待つだけだと。しかし勝てるとは一人も言えない。日本はそういう窮地に追い込まれたのです。「窮鼠、猫を噛む」状態です。追い込まれたネズミは猫を噛みに行く、という意味です。

〇 陸軍は開戦論です。海軍は消極論です。この海軍では、勝てるとしても1年以内の短期決戦しかないという。勝ち目は薄い。だから戦わないほうがいい、という。
しかし陸軍はちがう。1年以内の短期決戦しか勝算がないのなら、即座に戦うべきだと言う。軍部内での海軍の消極論は分が悪い。しかし国力差は、日本対アメリカで、1対77です。これは勝てないです。

〇 このあとすぐ、近衛首相は打開策を求めて、アメリカのルーズベルトに日米の首脳会談を申し出ます。しかしルーズベルトはそれを拒否します。
そしてルーズベルトは10日後にチャーチルと会う。ルーズベルトとチャーチルで、二国間で話し合いが行われている。そして1941年8月12日大西洋憲章を発表します。憲章という難しい名前になっていますが、これはアメリカとイギリスの二国間の取り決めにすぎません。

〇 その間も日本はこの戦争の回避交渉はずっと続けます。それが野村吉三郎という駐米大使です。この人は有能な人なんですが、4ヶ月後の宣戦布告の暗号電文だけ、30分遅れて届けたことになっています。この間の事情は、誰も口を割らないです。


【ABCD包囲網】 そういったなかで、アメリカが石油を輸出しなくなると、オレも、オレも、オレもと、他の国もそれに倣っていく。1941年には、日本に対してABCD包囲網があっという間にできる。
Aはアメリカ、Bはブリテンのイギリス、Cがチャイナの中国、Dはダッチというのはオランダです。この4ヶ国が日本に経済制限をかける。この戦いは、最初から非常に厳しいですね。これではちょっと戦えないです。
しかし猫に追い詰められたネズミは死ぬとわかっていても、最後は猫に飛びかかっていく。「窮鼠、猫を噛む」です。出てくるのはそういう言葉です。




【東条英機内閣】(1941.10~44.7)
近衛文麿の次が東条英機です。東条英機内閣が組閣される。1941.10月です。近衛内閣の陸軍大臣です。


【ハル・ノート】 3か月間の交渉もむなしく、3か月後の1941.11月に、アメリカの国務長官・・・・・・大統領に次ぐナンバーツーの地位です・・・・・・のハルが日本に要求を伝えます。これをハル・ノートという。軽いメモ書きみたいな呼び方ですけれども、国家のナンバーツーが、他国の政府に文書を届けるということは、正式文書と同じです。
そこに何が書いてあったか。日本は出て行けという。まずフランス領インドシナから出て行け、それだけではなく、中国大陸から出て行け、さらに満州から出て行け、という。これは日本としては、ありえないことです。
ここまで言われると、日本は、これはやる気だな、と思う。あっちはやるつもりですよ、と。しかもこのハル・ノートは、アメリカ人にも知らされていない。あとで聞くと、マッカーサーさえ知らないものです。つまりこれはアメリカでさえ同意を得られていないものです。これは日本に戦争をけしかける動きです。
事実その通り日本は、ハル・ノートを事実上の宣戦布告だと、捉える。しかし、アメリカはイヤイヤそんなことはない、と言っている。でもこれは少なくとも最後通牒です。

 ハル・ノートは、アメリカによる交渉打ち切りのための最後通牒です。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 P120)



【太平洋戦争】 翌月12月1日に、御前会議つまり天皇の臨席のもとでの会議が開かれ、これだけのことを言われたらもうやるしかないでしょう、となる。誰一人勝てるとは言わないままです。それでもやるしかない、というのが太平洋戦争です。そんなことまで言われたらやるしかない、という感じです。
この太平洋戦争という名前も戦後、日本が負けてからアメリカがつけた名称で、日本は大東亜戦争といってました。大きな東アジアの戦争だという意味です。アメリカは、それまでどこにも出てきてなかったのですから。

〇 日本の戦争目的もここで、はっきり打ち出します。大東亜共栄圏の樹立を掲げます。大東亜とは東アジアです。東アジアはほぼヨーロッパの植民地になっている。ここは共栄してない。共栄させようじゃないか、ということです。
まずヨーロッパを追い払わないといけない。植民地をやめさせないといけない。
結果として、日本は負けたけれども、この最後の目的だけは達成する。戦後、アジアの国々は全部独立していきます。


【真珠湾攻撃】 開戦が1941年12月8日です。相手の軍港、ハワイの真珠湾を攻撃する。
結果的に30分の通告の遅れで、奇襲だ、騙し討ちだ、と言われることになります。その結果、アメリカでは「リメンバー・パールハーバー」、これが合言葉になる。「真珠湾を忘れるな」という意味です。オレたちは奇襲攻撃されたんだ、あの黄色いジャップ(日本人)は許せない、という。あれだけ戦争に反対していた国民が、一気にこれで戦争支持に変わる。奇襲とされたことの意味は大きいです。

〇 これには裏話があります。アメリカは、日本の暗号解読に、1年以上前から成功しているんです。だから、日本の情報は筒抜けだった。ルーズベルトも、真珠湾攻撃のことを本当は数日前から知っていたんじゃないかという話もある。攻撃目標のメインとされたアメリカ空母はすべて湾外に出払っていて、真珠湾内には一隻もいませんでした。こういう形で真珠湾攻撃は成功し、「トラトラトラ」の暗号電文が日本に打たれます。

 アメリカの情報当局は、1940年8月に日本軍の暗号の解読に成功し、これまでに傍受した日本の暗号電報はすべて解読されていた。多くの歴史学者は、ルーズベルト大統領は日本軍の真珠湾攻撃計画を知っていたと信じている。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P193)

 戦後の東京裁判では、死刑に処せられた A級戦犯海軍軍人は1人もいません。文官の広田弘毅を除くと死刑になったのはすべて陸軍軍人です。・・・・・・そもそも海軍の作戦は、最初からおかしなものばかりです。真珠湾を攻撃する必要があったのかどうかについても、きちんと検証する必要があります。・・・・・・南進するにしても、オランダ領のインドネシアの石油だけ抑える作戦にしていれば、アメリカは対日戦に参戦できなかったはずです。アメリカ国民は参戦に反対していましたから、オランダ領が攻撃されたのみでアメリカの領土が攻撃されていなければ、開戦の理由になりません。・・・・・・
 ところが日本の海軍は、アメリカの領土である真珠湾に攻撃を仕掛けました。これでは、アメリカに参戦させるためにやったようなものです。作戦的に見ても真珠湾攻撃をする必要があったのかどうか非常に疑問です。・・・・・・しかも真珠湾攻撃は極めて中途半端なものでした。よく指摘されるように、石油施設は全く攻撃しませんでした。・・・・・・そのようなこともあって、山本五十六スパイ説というものまで出てきているわけです。・・・・・・しかも、真珠湾には老朽艦しかおらず、空母はすべて湾外に出ていました。・・・・・・真珠湾攻撃をさせるように周到に謀った者がいるのでしょう。それに呼応したのが日本の海軍です。
 真珠湾攻撃については、東条英機首相ですら知らなかったと言われています。日本には統合参謀本部がありませんでしたから、海軍は独自に作戦を立てており、陸軍に伝えていなかったようです。・・・・・・さらに真珠湾攻撃から半年後にはこちらからミッドウェーにまで出かけていって惨敗を喫しています。・・・・・・最大の問題は、海軍が補給を確保しなかったことです。ガダルカナル島でも膨大な戦士者が出ていますが、ほとんどの戦死者は餓死によるものでした。・・・・・・海軍がとった作戦はおかしなものばかりです。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 2015.12月 P139)

 ヒットラーの野望が実りかけ、イギリスの運命が風前の灯火となったとき、アメリカは、ひそかに検討していた戦争作戦を開始した。1941年12月、アメリカの戦略に引っかかって日本が真珠湾を攻撃し、日米が開戦すると、三国同盟が適用されて米独間も戦争開始となり、アメリカはイギリス中心の連合軍の側に立って参戦することになった。(金融世界大戦 田中宇 朝日新聞出版 2015.3月 P101)




〇 しかし日本は、ハワイを攻撃したいわけではありません。本当に目指しているのは、東南アジアです。このあとアメリカ本土に進軍したわけでもない。だからアメリカ本土には、爆弾は一発も落ちてないです。
日本の作戦の中心は、このあと、まずイギリス植民地のシンガポール、これを同時に占領します。イギリス兵は追い出される。
次にはフィリピンに行く。ここはアメリカが植民地であった。アメリカ兵が追い出される。この時追い出されたフィリピン総督が、日本の敗戦後に占領軍の司令官になるマッカーサーです。
インドネシアはオランダの植民地であった。オランダ兵は追い出される。
そういうヨーロッパ人が追い出される姿を、東南アジアの現地の人ははじめて目の当たりにするわけです。



【内閣覚え方】 「平沼に アベック ヨーナイ ココハ ヒデー
平沼に  平沼騏一郎内閣
アベック 阿部信行内閣
ヨーナイ 米内光政内閣
コ    近衛文麿内閣②
コハ   近衛文麿内閣③
ヒデー  東条英機内閣



これで終わります。

新「授業でいえない日本史」 42話 20C前半 ミッドウェー海戦~敗戦

2020-10-24 09:06:35 | 新日本史5 20C前半
【東条英機内閣】続き
太平洋戦争という名前ですけど、もともとは大東亜戦争なんですけれども、戦後は太平洋戦争というんです。しかしこれまで説明してきたように、もともとはアメリカとの戦いではなかったから、最近ではアジア太平洋戦争ともいいます。いま太平洋戦争は、アジア太平洋戦争という言い方がだんだん多くなってきている。
もともとは日中戦争だから、アジアをつけないとどこかおかしい。アメリカとばかりやっていたんじゃない。真珠湾、真珠湾というけれども、真珠湾攻撃の時も、同時にシンガポールとか、インドネシアとか、フィリピンとか東南アジアに軍を進めています。真珠湾攻撃は日本海軍だけの動きです。東南アジアには、オランダの植民地、、イギリス植民地、アメリカの植民地、フランスの植民地、いっぱいある。そこで戦っているわけです。


【ミッドウェー海戦】 当初半年はよかったけれども、逆転される。これは、予想されたことです。短期決戦しか勝つ道がないだけでも、その短期決戦が無理になったのが、6ヶ月後です。
開戦は1941年12月です。次の年1942年6月に、ミッドウェー海戦がある。太平洋上でやって、ものの見事に敗北した。この裏には日本の暗号がすべて読まれていた、という事情がある。だから何時何分に、日本はこうする、とアメリカは全部知ってる。
大敗北なんだけれども、ここから日本では報道統制がかかる。マスコミ統制が効いていますから、負けは伝えない。伝えないのは、ウソ言ったことにはならない。伝えなければ分からない。たまに勝ったことだけ伝えるから、ほとんどの人は敗戦直前になるまで、日本が負けることを知らないです。ニュースをみて日本が負けると思った人は、日本人に100人に1人もいないですね。あとの99人は、日本ずっと直前まで、私の母も、このとき二十歳前ですが、知らない。ほとんどの人間はそれを知らない。

そのなかで国内体制は、政党がない翼賛選挙ということをやって、自由に立候補できない。政府が推薦した候補者しか立候補できない。そういう状態になる。


【スターリングラードの戦い】 海の向こうのヨーロッパでは、ドイツとイギリスが戦っています。ドイツはソ連とも戦っています。ドイツの快進撃がストップされた戦いが、やはり1942.8月スターリングラードの戦いです。今は名前を変えてボルゴグラードという都市になっています。

次の1943年になると、アメリカ優勢の中で、アメリカは頭いいから、日本がずっと南に前戦を伸ばしてる。そういう時に、日本の戦艦と戦うよりも、日本と戦うためには、兵站といって、軍需物資を輸送する必要があるんですね。その輸送経路をプツッと切るだけでいい。これが潜水艦作戦です。
だから日本の南洋諸島にいた兵隊さんは、君たちと同じ年齢ぐらいの人たち、鉄砲があっても、弾がない。その上にだんだん食い物が、届かなくなる。非常に悲惨な状態で負けていくことになる。こういったことも、何時何分、どこの海峡を通るという、暗号が読めないとなかなかできない。アメリカは暗号を読むんです。


【劣勢】 日本の劣勢は明らかになり、1943.2月、日本軍はガダルカナル島という南方の島を撤退します。これが日本が勝てない、ということがはっきりした。日本の勝算の見込みが消滅したんだけど、このときも敗退と言わずに、転進とかいう不思議な言葉を使う。
そうすると庶民は、忙しいから新聞の見出しだけ読んで、中身を読まない。転進して進んでいるんだから、勝っているんだと思う。

例えば、敵機3機撃墜と見出しで書いて、ずっと読んでいくと、一番最後に我が方の損害は10機であった、これは負けている。でもみんな気づかない。某新聞などは、そういうことをやっていくんです。

一番、人気が高かった海軍の山本五十六元帥、
「してみせて いってきかせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」
これけっこう有名な歌です。
1943.4月、南方ニューギニア島の東あたり、島から島へと飛行機で飛ぶ予定のところを、敵機に発見され、撃墜されて死亡です。こんなところでめったに敵機と遭遇しないです。国のトップが。暗号がすべて読まれてる。狙いうちです。こんな広い大空のしたで、小型飛行機が飛んでいるのを、アメリカがなぜ分かるのか。動きが読まれているわけです。


【学徒出陣】 だんだんと働き手がいなくなって、学生は、もう授業はいい、軍需工場に手伝いに行け、これが学徒動員です。これが1943.6月です。
さらに、だんだんと戦う兵隊が少なくなって、ついには学生に、戦争に行け、ということになっていく。それまで学生は兵役を免除されていたけれども。半年後の1943.12月には、学徒出陣です。戦争に行け。学生にも赤紙が来る。赤紙というのは分かりますか。召集令状です。赤い紙に書かれていたから。


【大東亜会議】 ただ日本の仲間もある。それはイギリスやオランダに植民地にされてる地域とか。こういったタイ、フィリピン、ビルマ、インドなどの地域の代表を集めて、大東亜会議という国際会議を開きます。1943.9月です。そこで共存共栄、独立を目指すぞ、と宣言するんだけれども、同じ月には同盟国のイタリアは降伏している。

日本はこのあとまだまだ2年戦う。今まで無条件降伏などなかったです。しかし、負けたからには何でも言うことを聞け、と無条件降伏を要求された。何をされるかわからんから、降伏できない。最終的にはも原爆を落とされて、相手の要求を飲まざるをえない、ということになっていく。


【疎開命令】 そういう悲惨な状況の中で、空襲が来るのは、田舎よりも都会です。都会に住む人たちの命にも危険が迫る。東京大空襲、大阪大空襲、博多もやられてます。山笠がある中心地とか。それで地方に引っ越そうとする。これを疎開という。でも事情があってなかなか引っ越せないと、子供たちだけは、安全な田舎に引っ越させようとする。親元を離れて学童疎開をさせる。


【インパール作戦】 日本の方は、次、中国軍ともずっと戦ってます。アメリカだけじゃなくて。その中国軍の武器弾薬は、全く不足にならない。豊富にもっている。これが援蒋ルートです。イギリス、アメリカが、中国を援助している。密林の中を。
それを断ち切るためにもビルマ方面に日本軍が侵攻する。
しかしこの作戦が1944.3月からのインパール作戦といいます。しかし、ものの無残に負けます。ひどい戦いです。ここでの、戦いというのは、食い物がないどころか、水がない。水がないときに、密林の中でもう、不衛生な中で、たまに小川が流れていると、兵隊は、上官の命令を無視して、走っていって水をガブガブと飲む。どうなるとおもいますか。頭を川に突っ込んだまま死ぬんですよ。急に水をガブ飲みすると。何日も水分が欠乏状態で、ゴクゴク飲んで、そのまま動かなくなる。

それが、1ヶ月後に別の部隊がまた来て、川に青々と海藻がただよっている、といって近づいてみると、白骨化した1ヶ月前の兵隊の髪の毛が、川の水面に漂って海藻のごとく揺られている。そんな戦いです。
腹が減ったときには、だんだん頭やられてきて、腕に傷があると、意識朦朧となって、メシ食いたい、腹減ったとか、わけ分からないことをいいながら、おいしいおいしいといって、米粒を食べている。腕からとって。ウジ虫です。傷口にウジ虫がわいて、それを米粒と思って、おいしいおいしいと食べ出す。そして死ぬ。戦争映画で見る勇ましい世界と違うんです。ぜんぜん悲惨さが違う。


【サイパン陥落】 東京空襲が可能になるきっかけとなったのが、南のサイパン島の陥落です。1944.7月です。いくらなんでも、B29戦闘爆撃機が爆弾を積んで、ニューヨークから東京まで太平洋を横断して爆弾を落として帰る、なんてことはできないです。
フィリピンからだいぶ東のサイパン島を米軍が占領して、まず滑走路を作る。
そこは往復可能だから、そこからB29戦闘機を東京に向けて出撃させる。往復可能な射程距離になると空爆ができる。空爆は無差別です。ここから本土爆撃が始まる。
無差別爆撃の始まりです。兵隊で死んだ人よりも、日本は非戦闘員つまり普通の庶民のほうが多い。何十万も死んでいく。
サイパン島が陥落したこの1944.7月に、東条英機内閣は総辞職していく。


【ブレトンウッズ会議】 まだ戦争が終わってない。ここからあと1年戦争は続きますが、戦争が終わらないうちから、勝ったあとのことをアメリカは相談し始める。手回しが良すぎるほどいい。このことは3年前の大西洋憲章の時からそうです。大西洋憲章では戦う前から計画を練っている。ここでは、戦争が終わる前から、戦後の世界の通貨体制の計画を練っています。そして戦争が終わったときには、すべて決まっています。それほど手回しが良いのです。こういうところにアメリカの意図を見ることができます。通貨政策と金融政策は相通じるものですが、アメリカの動きにはアメリカ金融界の動きが見え隠れします。


この会議をブレトン=ウッズ会議といいます。ブレトン=ウッズというのはアメリカの地名です。ここで1944.7月に会議が開かれました。これは、日本に原爆が落ちるよりも1年以上前です。戦後の通貨体制は、ここですでに決まります。

もともと戦争前の世界の通貨体制は金本位制で、ドルであろうが円であろうが、本物のお金である金と交換できました。しかしアメリカは第二次世界大戦中に、金を一人占めするほど集めています。世界の半分以上の金がアメリカに集まってきて、それにともないアメリカ通貨のドルが一躍、主要通貨になります。

ここでドルはほかの通貨のワンランク上の通貨になる。金はドルでしか買えないことになる。金はドル以外の通貨では買えなくなる。これを金ドル本位制というんですけれども、日本にとって、円では金を直接買えなくなる。
日本人が本物のお金である金を手に入れるためには、円をドルに交換して、このとき手数料が発生して、その手数料はアメリカの銀行に入る。そのドルでもって金と交換する。そういう二度手間をしないと、買えない。イギリスのポンドでも同じです。こうやってドルが世界の基軸通貨になる。アメリカの狙いはこれだったのです。戦後、ヨーロッパは植民地を失って没落していきますが、そのなかでアメリカだけが繁栄を極めていくようになります。そこにはアメリカの軍事力もさることながら、世界の基軸通貨の地位を手に入れたドルの威力が大きくかかわっています。


のちのことを言うと、ちなみにこのドル基軸体制は約30年続いたあと、1971年にストップします。これがドル・ショックです。ドル・ショックで壊れた。ドルと金は交換できなくなります。
こうなればドルももとの地位に落ちないといけないはずです。金とドルのリンクが切れたら、ドルが基軸通貨の位置から落ちなければならないはずですが、不思議なことにドルはそのままです。そういう理屈にあわないことが起こる。これは今も続いています。
戦後、ドルが世界の基軸通貨になった理由は、ドルでしか金は交換できないというのが理由でした。それが交換できなくなったら、ドルが他の通貨の上にいる理由はない。
それにもかかわらずドルが主要通貨の地位にとどまっているのは、アメリカの軍事力があるからです。軍事力を基盤にした政治力があるからです。その影響をいちばん強く受けている国はどこでしょうか。戦争終結時には、そういう体制が、すでに決まっていたということです。




【小磯国昭内閣】
東条英機内閣が総辞職して、陸軍大将であった小磯国昭内閣1944.7月に成立します。


【フィリピン戦】 1944.7月です。いよいよ戦争末期、あとは日本はなす術もなく、フィリピンを奪われます。もとフィリピン総督がマッカーサーです。彼が日本が負けたあと総司令官となって日本を占領する。今の日本国憲法の原案もマッカーサー草案という。


【神風特攻隊】 日本は、1944年10月から、神風特攻隊の出撃が始まる。自由志願とは言っても、生き残った人たちによると、とても断れる雰囲気ではなかったという。手を上げたい人、と言われて、そういうけどあれは手をあげさせられた、とみんな言う。断られない。体当たり攻撃です。100%死ぬ作戦です。これだけは人間の歴史上ないです。
いくら戦争でも、勝ち負け五分五分の作戦をやるんです。負けても4分6ぐらいです。100%死ぬ作戦は作戦としてありえない。これを誰が発案したかは、よく分からない。


彼らは戦争中、「軍神」とまで崇められる。ところが戦争が終わると一転して「この特攻崩れが」と罵られるようになる。この戦後の日本人の変わり身の早さを、ある特攻隊員は「18才のあの屈辱を一生忘れない」と言っています。その屈辱は、自分が特攻隊員であったことへの屈辱ではありません。戦後の日本で味わった屈辱のほうが彼の心の中に消えがたく残るのです。


【東京大空襲】 1944.11月から東京にも空襲が始まる。4ヶ月後の1945.3月、東京大空襲です。一夜で死者10万。東日本大震災が約3万だったから、あの規模を3倍越える。


【沖縄戦】 それで日本に攻めてくるときに、まずは近い所、アメリカはすでにフィリピンを持ってますからね。フィリピンから、アメリカ艦隊は南のほうから来て、まずは沖縄を攻める、ということです。1945.4月沖縄戦です。

余談ですが、そのころ私の父は兵隊として鹿児島にいました。高校を卒業したばかりで、そこで「穴掘り」ばかりしていたと言ってました。帰ってきたのはその年の9月の終わり。1ヶ月も何していたのか、と私が聞くと、オレたちは戦争が終わったと知らされていなかった、それどころか沖縄が取られたら次は鹿児島の志布志湾だといわれていたから上陸すると信じていた、と言ってました。「穴掘り」とは何のことか分からなかったのですが、最後の決戦用の地下壕を掘っていたのです。そして1ヶ月ぐらいずっと、臨戦態勢で戦う準備をしていた。本当に11月1日に決戦が予定されていたことを、つい最近NHKのテレビ放送で知って驚きました。父はその予定された決戦の日にちまでは知らなかったようです。
1ヶ月ぐらい経つと、ホントに日本は負けていて鹿児島には上陸しないことが分かった。マッカーサーは東京に行ったから、これはホントに負けたということがやっと分かった。帰還命令が出て、列車に長い時間ゆられて地元の駅に降り立つと、周りの家が空襲で焼けていた。その焼け跡を見ながら家にたどりついたことを、まるで昨日のことのように話していました。それから1年間、何もする気が起きなかったと言ってました。
私が子供のころの父は、誰に言うともなく「日本は敗戦国だ、敗戦国だ」と言ってました。それは子供心に妙に私の耳に残っていますが、私が中学のころからピタリと言わなくなりました。そのことは私が大人になってから、それもだいぶ後になって気づいたことです。

また農業をしていた私の叔父は海軍兵でしたが、戦後、海軍の短刀を家のタンスの奥に隠していました。私は子供のころ、それを従兄弟から「誰にも言うなよ」と言われながら見せてもらったことがあります。朝の光が差し込む部屋で、その短刀のサヤを抜いたときのキラリとした輝きを今でも忘れることができません。

叔父が亡くなって叔母が遺品を整理しているとき、タンスから海軍の短刀が出てきたといって、ちょっとした騒動になりました。叔父は叔母にもそのことを話していなかったのです。
戦争中、その叔父の戦死通知が届いたことがありました。乳飲み子を抱えた叔母が途方に暮れていると、そこに叔父が帰った来たそうです。あとで事情を聞くと、叔父は軍艦に乗って出航する予定だったのが、急に休暇命令が出て帰ってきたそうです。乗るはずだった軍艦は出航するとすぐ攻撃され、沈没したそうです。叔父の代わりには他の人が乗り組みました。それが何かの手違いで叔父の戦死通知となったのです。マジメで無口な叔父でしたが、戦後しばらくは酒を飲むと手がつけられなかったといいます。




【鈴木貫太郎内閣】
1945.4月、海軍大将から枢密院議長になった鈴木貫太郎が首相になります。この内閣が終戦を決定する内閣になります。しかし陸軍は本土決戦論です。とことんやろうとする。無条件降伏だぞ、何されるか分からんぞ、それぐらいだったら1億玉砕だ、と。玉砕とは死ぬということです。当時1億が日本の人口ですから。
しかしこの首相は、それはあんまりだろう、軍人以外の民間人まで全員玉砕したら日本はどうなるか、生きていたら可能性はゼロじゃないじゃないか、と言う。日本の可能性は、ホントにかすかな可能性です。



【日本の敗戦】
【カイロ会談】 日本の敗戦の1年以上前から、アメリカは着々と戦後世界の準備を行ってます。

1943.11月エジプトでカイロ会談が行われます。敗戦の2年も前のことです。アメリカ大統領ルーズベルト、イギリス首相チャーチル、中国は蒋介石の3人の会談です。
日本が負けたあと、どうやって分割しようか、ということです。いま問題の北方領土は入ってないということにも注意してください。ここにはソ連は入ってないから。


【ヤルタ会談】 次はソ連の南方の避寒地・・・・・・冬場に温いところです・・・・・・ヤルタというところで1945.2月ヤルタ会談が行われる。アメリカのルーズベルト、イギリスはチャーチル、ここで初めてソ連のスターリンが入ってくる。ルーズベルトはスターリンと手を組みます。


何が決められたか。公表されたことは当てにならないです。公表されない約束がある。こういうことは今でも結構あります。戦後になってから分かった秘密協定です。ソ連の対日参戦が決定される。
これ聞いて、アレッと思う人、いませんか。これは何がおかしいか。日ソには何があったか。中立条約があったでしょ。日ソ中立条約が。矛盾してる。つまりあんな条約は無視だ、ということです。
この3ヶ月後の1945.5月には、ドイツのヒトラーも無条件降伏をしていく。


【ポツダム宣言】 日本はまだ無条件降伏は飲めない。1945.7月、連合国がドイツのポツダムを占領し、そこで出した宣言がポツダム宣言です。
 その要求は、日本は早く無条件降伏しろ。これは耳にタコができるほど聞いていて当たり前みたいになっていると思いますが、無条件降伏を突きつけたのは世界史上、アメリカだけです。ふつうは条件付き降伏です。命を助けるから降伏しろとか、女・子供には手を出さないから降伏しろとか、教育制度には手をつけないから降伏しろ、憲法には手をつけないから降伏しろ、ふつうすべて戦争というのは政治の一環だから交渉事なんです。これが無条件だったら、何をされてもいいことになる。殺されても文句言えなくなる。

 この時にルーズヴェルトは死にます。ガンだったということです。こんな肝心なところで死ぬかなあとも思います。自動的に副大統領のトルーマンが次の大統領になっています。トルーマンチャーチルスターリンの話し合いです。
大統領が変わり、ここで方針が変わる。ルーズベルトはソ連のスターリンを仲間として呼び込んだ大統領です。トルーマンは、逆にスターリンが大嫌いです。ソ連が大嫌いです。これが戦後の米ソ冷戦につながっていきます。

理屈からいうとトルーマンのほうが分かりやすいです。資本主義と社会主義をうまくやれるわけがない。では、ルーズベルトがなぜスターリンと手を組もうとしたのかが、よく分からない。経済体制が違って、あとで対立するのは目に見えてるようなものなのに。
ただソ連には日ソ中立条約があるから、ソ連は表に出られない。だから発表したときにはソ連を隠して米英中の名前で出す。
だから日本はここにソ連が入ってるなんてことは知らない。ソ連がこのあと対日参戦し、満州に攻め込むことなど、日本では誰も知らない。

それどころか、日本の軍部はどうにかアメリカと停戦するための仲介役をソ連に頼んでいる。ますます情報筒抜けです。
日本は、日ソ中立条約は、オレも守るから、ソ連も守るはずだ、と思っている。そこがこの第二次世界大戦では通用しない。


【敗戦】 軍部は本土決戦論です。一億玉砕論です。
しかし1945年8月6日、まず一発目、アメリカが原子爆弾を広島に投下します。
これを見てソ連は、はやく終わってもらったら困る、オレが戦争に参加したあとに降伏してくれ、というのがソ連の対日参戦です。
その2日後の8月8日に、突然、ソ連が対日参戦して満州に侵入してくる。
そしてその翌日の8月9日に、2発目の原子爆弾を長崎に投下する。
 こういうふうに日付がほぼ連続しているのは、たまたまじゃない。アメリカとソ連との戦後の日本利権に対する分捕り合戦が始まってるのです。アメリカが、ソ連が日本に侵攻する前に早く戦争を終わらせたいのです。
 無条件降伏しない日本が悪いんだ。だから原爆を落としたんだ、というのがアメリカの言い方です。でもできない条件を突きつけたのはアメリカなんです。日本は唯一の被爆国といわれますが、本当はアメリカが唯一の投爆国なのです。落とされた方が悪いのか、落としたほうが悪いのか。ポツダム宣言というのは、無条件降伏という途方もない要求なのです。

鈴木貫太郎は8月15日に、ポツダム宣言を受諾した。「耐え難きを耐え」という玉音放送がラジオで流されます。玉音の玉とは何なのか。玉というのは何ですか。天皇です。天皇の肉声が流れる。日本人はこのとき天皇の声を始めて聞いた。
鈴木内閣にとっては、陸軍と対立する中で、これも一種の作戦であって、天皇の声を録音して、東京渋谷のNHK放送局に持ち込むまでは、妨害する軍人がわんさかいる。だから本当に流れるかどうか半信半疑です。隠し持って12時直前にNHKにサッと飛び込んで、流してくれ、流れた、これで作戦成功です。無条件降伏とか、そんな降伏条件はありえない、という軍人がけっこういるんです。
こういう手段でないと、なかなかまとまらないです。これで日本は無条件降伏で負けました。無条件降伏は、ポツダム宣言には「日本軍の無条件降伏」となっていて、「日本の無条件降伏」とはなっていません。たった一文字の違いですが、この違いは絶大です。しかし占領軍はこの一文字の違いを完全に無視していきます。




【東久邇宮稔彦内閣】
負けたあとの内閣は、総理大臣を誰にしていいか分からないから、皇族内閣です。東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)内閣という。敗戦処理の手続きのための内閣です。1945.8月から1945.10月までの2ヶ月間の内閣です。


【マッカーサー】 そして勝った国はアメリカ、イギリスなどの連合国です。本当は、アメリカだけものではないんだけれども、もうあとは早い者勝ちです。1945年8月30日に、マッカーサーが神奈川の厚木飛行場に降り立つ。サングラスかけ、コーンパイプを加えて。

新聞をみていると、この日から3日ぐらい新聞は発行されてない。国民に情報がシャットアウトされます。明らかに8月30日までの日本の新聞と、それ以降の新聞は書いている内容が違う。
何が起こったのか。まず報道を押さえている。新聞社です。報道で伝えていい報道を全部、検閲していく。情報は、これほど変わるものなのか、というほど。
今までは鬼畜米英と言っていた。鬼畜米英は分かりますか。犬畜生の畜、鬼畜というのは鬼の畜生です。米英はアメリカとイギリスです。それがマッカーサーが降りたって、3日たったら、マッカーサー元帥さまと変わっていく。ものすごい変わりようです。戦争に負けということはこういうことなんだ、と思います。それほど一気に変わります。

だからこの頃のことは、私が小学校のときには戦前から戦後にかけて学校の先生を続けられいた先生がいっぱいおられましたが、なかなかその頃のことをしゃべられなかったです。変わり方が、あんまり早くて。
というのは、1945年8月まで言ってたことと、翌月の9月から言うことは、まったく違うんです。その当時のことは、しゃべりたくないだろうと思う。


【降伏文書調印】 そして、その3日後の1945年9月2日に、降伏文書を調印したのが、重光葵です。
この降伏文書調印で法的には日本という国はありません。日本列島はあっても、日本には主権がなくなるからです。主権がない国家というのはありません。このあと7年間、1952年に独立を回復するまで。この7年間はどこの歴史か。たぶんアメリカ史の一部でしょうね。日本という主権国家がないのですから。でもその7年間の間に、大事なことのほとんど、憲法から法律、経済体制が決まっていく。


【東南アジア諸国の独立】 では日本が占領した東南アジアの地域はどうなったか。日本が占領する前は、欧米の植民地だった。しかし次々に独立していく。日本は一度彼らを追い出す。しかし日本が負けたら、欧米はまた植民地に戻ってくる。
しかし、欧米の軍隊が日本軍に負けて逃げていくのを現地の人は見ているから、抵抗運動を始めていく。ここから本格的な独立運動が始まる。

インドネシアは、どこの植民地だったか。オランダから独立する。独立戦争をここから始める。指導者はスカルノです。大統領になります。第三婦人が、茶の間でおなじみのデビ婦人です。

フィリピンは、アメリカから独立した。
インドは、イギリスから独立した。
マレーシアも、イギリスから独立した。
ビルマつまり今のミャンマーも、イギリスから独立した。
ラオスは、フランスから独立した。
カンボジアも、フランスから独立した。ほとんどが独立した。

ベトナムの独立だけが長引く。フランスと戦って勝つ。そこにアメリカがフランスを応援する。これがベトナム戦争です。この段階でみんな、ベトナムは終わりだ、と思った。しかし、ベトナムがアメリカに勝つんです。独立を勝ちとる。約30年かかります。1976年です。まじまじと覚えています。
私は子供ながら、ベトナム戦争は遠い東南アジアのことと思っていました。枯れ葉剤をまいたのは米軍だ、日本とは関係がない、と。ところがその米軍機がどこから飛び立ったか。沖縄の米軍基地です。当時は、ほとんどそういう報道もないです。
これで終わります。