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2020年のアメリカ大統領選以後はムチャクチャ

授業でいえない日本史 25話 近代 ペリーの来航~金の流出

2020-08-26 18:00:00 | 旧日本史4 近代
【ペリーの来航】
まだ、江戸時代は終わってないけれども、1853年、アメリカのペリーが軍艦率いて浦賀にやってくる。実質ここから「近代」になります。近代のきっかけは外からやってきたということです。
このときのペリーが見た日本の政治構造は、こんなになっている。この三角形を書くのは、これでこれで3回目です。三角形が二重になっている。ここにあるのは、天皇です。ここは将軍です。天皇と将軍の関係です。




鎌倉時代から室町時代は、天皇の三角形は大きかったから、誰にも分かったけれども、太平洋の向こうから日本を見たら、上の三角形は見えずに、将軍が日本語の王のように見える。だからそこを目指してしてくる。だから江戸に来るんです。天皇は京都にいます。でも京都には行かない。見間違いなんです。
ただ日本は、この13年前にはあの中国が、あの島国の小さいイギリスに、こてんぱんにやられているという情報を、すでにキャッチしている。1840年のアヘン戦争です。
だから、来たぞ、というときには、戦えないことを知っている。これを卑怯というと、日本は1500年代の戦国時代に何を学んだか。武将たちがどういう戦いをしたか。勝てない相手とは戦わないです。勝てる相手かどうかを判断する。これがイクサで一番大事だということを学んだんです。
勝てない相手でも当たって砕けろ、そんなことをすれば命がいくらあっても足りない。ではどうやって生き延びていくか、家臣団を食わしていくために、それを懸命に考えてきたのです。勝てない相手と戦ったらダメなんです。


それでも戦わざるをえなかった唯一の戦いが、太平洋戦争だと私は思うんですけどね。いろいろやらせもあって、逃れられなくなるんだけれども、あそこまで戦うというのは、私にもちょっと謎なんです。日本の伝統には、ああいう戦い方はないです。あれが日本の伝統的な戦い方じゃないです。勝てない相手と戦って、どうするんだということなんですよ。

そういうペリーがやってきた。大砲向けてね。4艘の軍艦で、大砲を向けてやってくるということは非常に失礼なことです。失礼なことを承知でやってきている。よくペリーの来航を喜ぶ人がいますが、当時の人にとっては、これは平和的な開国要求でも、友好的な開国要求でもありません。武力的な開国要求です。もう断れないわけです。非常に屈辱的なものです。だからこのあと、天皇(王)を中心にして、外国人(夷)を追い払っていこうという「尊王攘夷運動」が起こるのです。
アメリカの目的は150年たった今でも変わらない。アメリカの本当に友好国として、仲間として欲しいのは、日本じゃなくて中国です。

この時の幕府の中心、将軍もあとで出てくるけど、将軍は、この時代は天下泰平で、よきにはからえ、なんです。
実権は老中首座にある。阿部正弘という。まだ若い。30代の異例の若さで老中になる有用な人です。でもこの時代、タイミングよく人が死ぬんです。暗殺と分かっていればまだしも、とにかく死んだとしか記録は残ってない。何でこのタイミングで死ぬの、というのがよくある。
この後、明治維新の1年前に、将軍が死んで、天皇が死ぬんです。こんなことあるのか。ナンバーワンとナンバーツー、ふつう同じ年に相次いで死ぬか。ここらへんが明治維新なんです。

ペリーから開国を要求されて、私は答えられない、という。こんな大事なことは天皇じゃないと分からないと。将軍そこにいるから聞いてこい、と言われても、これで交わすんです。
将軍は王じゃない。王はずっとむこうの京都にいる。行くのに1ヶ月ぐらいかかる、往復するのに2ヶ月かかる。これで逃げたんです。1年間待ってくれと。それでペリーは、1年後にまた来るからと言って、いったん帰る。
ただこの回答によって、江戸時代300年間ほとんど目立たなかった天皇が表舞台に出てくるきっかけになる。


【諸藩の動き】 この間、そのしもじもの下級武士は、どうしていたかというと、参勤交代で江戸に行く人はいっぱいいる。
佐賀藩の副島種臣は、京都に遊学というか、半分学び、半分仕事、京都の情勢をおまえ見てこいといわれる。ペリー来航の前年、1852年、24才です。いったん帰ったあと、1855年から再度京都に上っています。

この1853年、土佐の坂本龍馬、これも高知県から江戸に出ている。このとき17才です。まだ剣術修行していただけで、政治的活動はまだしてない。こういうふうにして、地方武士と京都や江戸とのつながりがある。


【幕府の対応】 ついでに言うと、ペリーがやってきた航路は、ほとんどの人は太平洋を渡ってきたイメージを想定しますが、太平洋航路はまだないです。
アメリカは、やっとこの5年前に、西海岸にたどりついたばかりです。世界史でやったように、アメリカ合衆国というのは、東のこんな小さいところから始まって、それがどんどん西に開拓して、やっと西までたどりついたのであって、新しい西海岸に軍港なんかない。軍港なんかないから、今までどおり東海岸から出発するしかない。これが世界標準地図です。日本は一番東にある遠い国です。アメリカから東へ東へと、こうやってくる。よっぽどアジアが欲しかったんです。

このあと、1年後にまた来る。困ったぞ。今まで幕府のことは、300年間、幕府で決めていた。こんなことはなかった。どうしましょうかと、天皇にお伺い立てたんです。こんなことは、はじめてです。ついでに大名からも意見を聞いてみた。
このとき困ったことには、海外情勢を一番知っているのは幕府です。天皇も大名も、海外情勢を知らない。アヘン戦争がどうなっているのかも知らない。無礼なヤツとは戦え、勝てるのか、勝てるに決まっている、と思っている。現状認識がまったくともなってないわけです。現状認識が伴っていない相手に、いくら相談しても、解決はしません。逆に現状認識が誤っている相手には、相談しないほうが良い。相談すればいいというものではない。知恵がない人に相談しても、判断を誤るだけだから。
彼らは圧倒的に、開国反対だという。ということは、ペリーと戦わないといけないということです。勝てるのか、勝てないんですよ。
このこと自体が、まず従来の慣例を破っている。幕府自体で決めてない。今まで300年間は、幕府独裁、というよりも幕府のことは幕府で決めていた。
それが外様大名まで含めて発言しだした。薩摩藩も外様です。身分は一番低いけれども力がある。長州もそうです。土佐も肥前もそうです。彼らが、言っていいんだと思って、発言力を持ち出します。




【日米和親条約】 
そういう結論が出ていない間に1年過ぎ去った。あっという間に決ます。約束通り1年待て、ペリーが来ました。1854年です。ノーといえないです。条約を結びます。日本は開国します。でも貿易はまだです。これが日米和親条約です。和親だから親しくするだけです。


【諸藩の動き】 このとき、ペリーの日記に、何もない一介の若い武士が出てくるんです。それが吉田松陰という長州の武士です。神奈川沖に停泊しているペリーの艦隊に向かって、家来と2人で、小さな小舟で、夜の闇に紛れて舟をこぎ出して、オーイ、俺をアメリカに連れて行け、という。帰れ、帰れ、オレたちは大事な交渉の前だ、おまえなんか相手にできるものか、と言ったら、それでも引かずに、大声で叫んでいる。ペリーは政治判断から、いや帰れ、という。ここで変なことすると、結べる条約も結べずにアメリカに帰ることになる。オレも子供の使いじゃないから、仕事を果たしたい、だから帰れ、と言って追い返す。
吉田松陰は、何年かあとに打ち首になりますが、その時は、おまえ長州にもどれ、と言われて、謹慎です。ただ家から出なければ、活動していい、という。塾で教えるんです。これが松下村塾です。ここに集まった下級武士たちが、この後、名だたる政治家になる。伊藤博文、井上馨、桂小五郎、山県有朋、ほとんど総理大臣クラスの人間ばかりです。このあとの4~5年、この松下村塾で学ぶんです。多数の下級武士が集まってくる。
昔、見に行ったことがあるけど、本当にお世辞にも、豪邸とはいえない。今は公園化されて神社になり、周囲はお金をかけているけど、建物自体は小さな小屋みたいなところです。こんなところでどうやって講義するんだろう、と思うようなところです。

実は松下村塾は吉田松陰が開いたものではなく、松陰の叔父が開いている塾で、松陰はいわばそこの居候です。だから松陰がそこで授業をしたというよりも、そこが若手下級武士たちの溜まり場のようになり、彼らはそこでいろいろな不満を語り合っていたようです。そこがたまたま塾の一室だったということです。そのリーダーが吉田松陰なのです。


【条約の内容】 1854年、和親条約が結ばれる。それまでは鎖国で、長崎の出島しか、外国船の入る港はなかった。追加して、下田です。伊豆半島です。それから、なぜか函館です。北海道の。供給するのは、薪水、これは水と薪の供給です。
水は水兵さんのお飲み水です。海水は飲めないから。冷蔵庫がない時代に、長期の船のなかで水は貴重です。塩水は飲めないでしょ。水は貴重です。


これは戦争の時に海軍の本当の話なんですが、あの戦友と2人で、戦闘で軍艦から投げ出されて、ボートで海を漂っていた。それから1週間ぐらいで、救助されたから、戦死せずにすんだけれども。その間どうやって咽の乾きをしのいだか。食い物よりもまずは水なんです。何したか。靴をコップ代わりにして、お互いのオシッコを飲みあうんです。これは理にかなったことです。海水飲んだら死ぬんだから。死ぬよりもオシッコ飲んだ方がいい。お互いに飲み合うんです。オレのオシッコ、少し残しとけ、とか言いながら。想像を絶する世界ですね。戦争のサバイバルゲームは。
その水と薪です。薪は蒸気船の薪です。あと食い物も供給する。つまりまだ貿易はしてないです。でも貿易しろというのは、時間の問題です。

後々問題になるのが、最恵国待遇といって、不平等条約のはしりです。アメリカが押しつけてくる。最恵国とは何かというと、このあと、いろんな国と条約を結ばせられる、その結んだ条約の中で、アメリカは一番恵まれた条件になっていないといけない。自動的に条件をスライドさせないといけない、というものです。
本来条約とは、一対一で、どういう内容で結ぶか、お互いの自由です。でもこうなるとその自由がない。これが最恵国待遇です。ひとつの国にこういうことを認めると、アメリカがいいならオレもだ、となる。イギリスは大英帝国です。オランダも、さらにロシアも、それを要求します。なんでアメリカと結んで、オレとは結べないのか、と詰め寄る。理屈が立たないようになる。こうやって次々に不利な条約を結ばされていく。イギリスとは日英和親条約、オランダとは日蘭和親条約、ロシアとは日露和親条約、ずっと結ばせられる。
日露和親条約では、ロシアとの国境も決められた、日本領はこのまえ言ったように、エトロフまでが日本領。その東のウルップ島からはロシア領です。北海道の北にある今のサハリン、つまり昔の樺太は雑居の地です。これが今でも生きていて、日本の主張です。北方領土問題です。これが根拠になっています。でも今はそこにはロシア人が住んでいます。70年間前から。


【諸藩の動き】 この1854年、西郷隆盛は27歳です。藩主島津斉彬のお庭番になります。本当は情報担当です。


1854年、佐賀の大隈重信江藤新平が、藩校の弘道館を退学しています。大隈重信は中級武士です。江藤新平は下級の下級です。大隈は16才。江藤は20才。大隈重信は成績は1番だったらしい。藩校の弘道館で。しかし、藩校の授業内容が気に食わない。今からはオランダでしょうが、という。藩校では儒学ばっかりやっている。儒教ばっかりでオランダ語がないじゃないか。ヨーロッパのことがわからないじゃないか、と言って、こんなところで勉強できるか、と飛び出す。退学です。成績トップでこういうことを言ってみたいですね。これ2番じゃ、ひがみっぽくなる。
でも江藤新平は単純に学費がないからです。彼も切れ者で頭がよかったけど、貧乏で学費が払えないのです。


【国内改革】 幕府は和親条約を結ぶと、まず、これからは海外とのつきあいだ、海軍だ、と言って、1855年に長崎の出島の近くに海軍伝習所をつくる。長崎の防備は、もともとどこが管理していたか。佐賀藩です。ここで学ぶ人を、佐賀藩は48名だします。全国で90人ぐらいだから、半分以上は佐賀藩です。ここで佐賀藩の有能な人物が長崎に行く。長崎は海外情報の宝庫です。


【諸藩の動き】 同じ1855年、大隈重信は、お前がいうことが正しかった、中国の儒教ばかりしている場合じゃない。佐賀藩は、藩校弘道館に、蘭学の専門のコースを設けます。おまえ、そこにはいれ、と言われる。大隈は、1年前には、なぜ蘭学がないか、と言って退学していた。藩が動いたということです。

2年後の1857年には、アメリカで株の暴落が起きて、景気がガタッと落ちる世界恐慌が起こっています。資本主義が乱れ始めています。


【幕府の動き】 このあと4年後に貿易条約をむすぶんですよ。その前に、その4年間の幕府内の動きです。
1857年、まだ30代で元気いっぱいだった老中阿部正弘、この条約を結んだ人が、ぽっこり死ぬ。よくわからない。こういう死に方が流行る。恐いですね。ここらへんは。流行るというか、こういう死に方をする人もいっぱいでてくる。大半は謎です。


平成になってからも、もと財務大臣の中川昭一、大臣クラスで次期首相と目されていた人が、自宅の二階で死んでいた。約10年前です。ある日突然、奥さんが行ったら、冷たくなってた。これは新聞に出ていることです。こういう不審死は今でもあります。

次に座ったのは、老中首座になったのが、堀田正睦です。
この時に徳川一族では、一つのお家問題を抱えてるんです。13代将軍の徳川家定、この人に子供が生まれないんですね。将軍にとって1番大事な仕事は、男の跡継ぎをつくることです。皆な、近くの家来たちは知っているんです。この人は、もともと女性に興味を持てない人だったんですよ。ということは、われわれは、性の自由でいいんだけれども、将軍になると、それじゃあ困る。世継ぎができないのが確定した。できないでしょ、女性に興味がない男だったら。子供できない。これが確定したということは、次の14代将軍を決めないといけない。でもこうなると政治が割れるんです。

それで対立したのが、1人目は、一橋慶喜です。結論いうと、この人が15代将軍になる。14代ではない。一橋家は、徳川の分家で三卿といって三家よりも身分が一ランク下です。
もう一人、徳川慶福(よしとみ)という。この人は三家です。紀州藩、和歌山です。家柄はバッチリです。家柄で決定です。徳川慶福が次の14代将軍になります。一橋慶喜は15代将軍になります。ここで一橋慶喜が将軍になっていたら、徳川幕府はつぶれてなかったんじゃないかという話もある。
この徳川慶福を推したのが、譜代大名の井伊直弼(いいなおすけ)です。彦根藩の殿様です。彦根ってどこですか。正月にマラソンがあるところという人がいますが、あれは箱根です。彦根は琵琶湖のほとりです。滋賀県です。




【日米修好通商条約】
このときには、まだ決着つかないまま、世継ぎ争いが続いてる。そうこうしているうちに、イギリスが中国にまたちょっかい出している。1856年に、第2次アヘン戦争ともいう戦争をまたふっかける。アロー戦争です。中国は、またけちょんけちょんに負ける。粉々になって、虫食い状態にされていく。
それをちらつかせる訳です。どうしましょうか。丁寧な言葉で。中国やられましたね、いやぁ、独り言ですよ、と。恐喝はしないけど、事実を念押しする。やっぱり脅しですね。
こういうのは、交渉に当たった本人が一番困る。攻められたら勝てない。一歩譲って、ここは結ぶしかない。しかし結んだら、周りはそんなこと気にせず大反対でしょ。開国反対です。
老中の堀田正睦は身が危ない、と思う。この時代、よく殺されるから。オレの責任じゃないように、天皇の責任にしないといけない。天皇さま、よろしいでしょうか。天皇の許し、これを勅許という。勅は天皇です。教育勅語の勅とか、この字は明治によく出てくる。天皇を指す言葉です。
しかし天皇も海外情勢を知らない。天皇も開国反対です。即座に拒絶です。
その間に、14代を押していた彦根藩主の井伊直弼は、そんな悠長なことしている場合じゃない、早く次の手を打ったほうがいい、と思う。
堀田正睦が京都に行っている間に、幕府内でクーデターを起こすんです。オレが幕府を仕切る、と。非常の時にしか、めったにならない大老になる。クーデター成功です。井伊直弼が大老に就任する。


そして1858年、大老の井伊直弼が、日米修好通商条約を結ぶ。通商とは貿易です。
これで物騒になってきた。ここからですよ、本格的に幕末の騒乱状態にはいるのは。
堀田と違うのは、いやオレの責任でいい、と無勅許でやる。つまり天皇の許可なしでやる。しかし殺されはしないぞ。徹底して反対派と戦うつもりなんです。
しかしこの2年後、やはり殺されます。無勅許でやって、自分の責任でやって、こんなことやったのは誰だ、と非難が高まる。

それで貿易がはじまるのが、神奈川長崎、新潟、兵庫、と四つでできるようになった。
ただ最大の貿易港なっていくのは、神奈川といったけど、神奈川の中心地からはずれた、ひなびた漁村で、横浜村というのがあったんですよ。実際には、横浜に変わる。
横浜は今は大都会だけれども、この時はひなびた漁村です。福岡市から西のほうに行った今宿の近くに、横浜という地名がある。横浜というのは、横の浜でしょ。浜はどこにだってあるし、よくある地名です。この時までどこにでもあるような小さな漁村なんです。

これも不平等条約です。同時に不平等条約を押し付けられる。まず関税自主権がない。貿易する時に、外国製品に関税をかけるのは、国として当然の権利なんです。でもそれがない。自由にかけられない。関税自主権がない不平等条約です。
もう一つある。まず考え違いをいうと、例えば他の国に唾はいたら罰金10万円だとする法律があれば、オレは日本人だから関係ない、と思っている人がいる。その国で、唾はいたら10万円の罰金という決まりがあったら、当然そこに行った日本人は、その国の法律に従わないといけない。これが当然なんです。裁かれなかったら、どうなるか。人を殺したって日本人だから帰っていいことになる。日本でこれができるのは沖縄の在日米軍だけで、だから問題になっているでしょ。そんなことがあっていいわけないじゃないですか。日本でリンゴを盗んだアメリカ人は、当然、日本の裁判で裁かれないといけない。でもそうじゃないんです。
日本にいるアメリカ人の領事が裁く。といっても、実際には裁かない。はやく逃げろという。実質的に無罪なんです。こういう不平等条約を、別名で治外法権ともいう。外国人を裁くことができないということです。
この条約も次々に、アメリカと結んで、なんでオレと結ばないか、オランダと結んで、イギリスと結んで、フランスと結ぶ。ここでフランスが来たました。これで世界の二大国家、イギリスとフランスが日本にやって来ました。右に行けばイギリス、左に行けばフランス。ヘビ二匹からにらまれたカエルみたいなものです。イギリスとフランスではさまれて、タダですんだ国はないです。そして貿易が始まった。


【五品江戸廻送令】 アメリカとイギリスが欲しかったのは、実は日本製品の生糸です。江戸時代の300年間で日本は作れるようになった。これが良質だった。そしたら外国人商人が、横浜で買い占める。
江戸に近い横浜で買い占めると、本来は江戸に入っていた生糸が、江戸にはいらなくなる。それで、生糸に4品目を加えて、1860年にまず江戸から回せ、それが余ったら横浜だ、と幕府が命令した。これを五品江戸廻送令といいます。しかしこれ何がおかしいか。江戸の商人は従来通り100円で買うとする、でも横浜のイギリス人が120円で買うとする、すると売る方はどっちに売るか。
経済ルールと政治ルールと違うんです。モノを売りたい時に、100円で買う人と、120円で買う人がいたら、どっちに売るか。120円に決まっている。これは政治は、こんなことまで変えられない。
それで生糸を売る在郷商人が反対する。だから失敗する。幕府の統制が効かなくなっているということです。


【金の海外流出】 それからもう一つ。外交が始まると、日本は300年のあいだ鎖国していたから今まで関係なかったですけど、貿易がはじまると、取り引きするお金は、金か銀なんですよ。日本は金もつかっていたし、銀もつかっていた。江戸の金遣い、大坂の銀遣いです。その交換比率は、金対銀で、1対5です。しかしアメリカやヨーロッパは、金と銀の交換比率が、1対15なんです。頭の回転のいい人は分かる。ぼろ儲けできるでしょ。
イギリスから15グラムの銀を持って日本に来ると、日本の交換レートは、1対5=3対15です。15グラムの銀で3グラムの金を買う。
この3グラムの金をイギリスに持っていったら、イギリスの交換レートは、1対15=3対45ですから、これは45グラムの銀になる。これ合法でしょ。つまり15グラムの銀を日本に持って来ただけで、日本で金を買って往復すれば3倍に増える。
ということは日本の金が外国に流失する。これで日本は、金が足らなくて、なかなかのちの金本位制が確立できなくなる。経済的には二流国家になります。
ちなみに現在の金と銀、1対40、もっと銀は下がってる。金が上がった、このあと150年間で、金が上がって、銀は落ちている。ヨーロッパは金中心の取り引きをしていくからです。


そうなると、政府は、1860年に大判小判の小判の量を三分の一に落とす。これを万延小判といいます。ということは、1枚の小判が3枚になるということで、そうなると小判の量が3倍になる。すると政治経済の授業と同じで、通貨量が増えれば物価はどうなるんですか。物価は高騰するんです。
庶民はモノの値段が上がると喜ばない。今ぐらいのものですよ。政府が物価を2%上げるぞー、といって、そうだそうだと連呼している。これはアベノミクスです。
ふつうは物価が上がると庶民は困る。不満がたまる。その不満は誰に向けられるかというと、開国した幕府が悪いんだ、ということになって、幕府への不満が増大していく。幕府不利です。
ここから多くの日本人が幕府に対して頭にくるんだけれども、ペリーと戦ったらどうなるか、中国のアヘン戦争のようになってよかったのか、ということはあまり言いません。
これで終わります。

授業でいえない日本史 26話 近代 井伊直弼~薩英戦争

2020-08-26 17:00:00 | 旧日本史4 近代
【井伊直弼の独裁】 こういう幕府への不満が増大する中で、幕府の大老に就任したのが彦根藩主の誰だったか。井伊直弼です。歴史上では悪役で有名で、よく出てくる人ですけれど、これは善人でも、悪人でもないですよね。政治的なスタンスの違いです。私は個人的には好きです。この人は、理屈が分かっているから。対立して一歩も引けないという時になると、人も処罰していく。代わりに命取られて、殺されていく。それはそれで仕方がない。殺されていいとか、変にとったらダメだよ。そんなこと言っているわけじゃない。
このときに女に興味を持てない将軍さんがいた。よく死ぬんです。1858年、13代将軍徳川家定が死ぬ。そうすると、井伊直弼が押していたのは、一橋慶喜じゃなくて、紀州藩主の徳川慶福だった。この人が14代将軍になって、将軍になって名前を変える。徳川家茂(いえもち)という。14代将軍です。


【安政の大獄】 それで反対派の不満を押さえる。1858年に反対派を牢に投獄する。これを、安政年間だから、安政の大獄という。獄に入れる、牢屋に入れるということです。反対派をこうやって弾圧する。一番文句言っていた人間は、長州の吉田松陰です。前に言ったけど、ペリーの船に夜の闇に紛れて近づいて、アメリカに連れて行け、オレはどうしてもアメリカが見たいんだ、という。なぜ見たいのか、と問うと、日本をよくするんだ、という。すごい日本人だな、とペリーが日記に書いていた。
この人、自分の考えを曲げろと言われても、いや曲げない、という。ふつう、ハイわかりました、と言って、牢屋から出て、また信念が変わりました、とかいって出ればいいのに、そういう方便がきかない。それで処刑です。
この4~5年のあいだに、彼の松下村塾というところで学んでいた若者たちが、後のそうそうたる政治家、総理大臣クラスになるという話はしました。


【諸藩の動き】 この1858年、通商条約が結ばれた年から、動乱は本格的に始まる。人がよく死にます。1858年、まず薩摩の殿様の島津斉彬が死ぬ。原因不明の高熱。どうも2~3日で死ぬ。ピンピンして、病弱でもなんでもないのに。この殿様のお抱えで、身分はお庭番だけれども、信頼を集めていた情報担当、これが西郷隆盛です。
西郷はこのとき後ろ盾を失って、鹿児島桜島の浮かぶ錦江湾にお坊さんと2人で入身自殺をする。坊さんは死ぬ。しかし西郷隆盛だけ、助けられて息を吹き返した。ここからこの人の不幸が始まる。何で死なしてくれなかったのか、と。そして奄美大島に島流しになる。

翌年の1859.9月、あるイギリス人が長崎にやって来ます。トーマス・グラバーです。あの長崎の観光名所グラバー邸の主人になる人物です。イギリス商社の代理人として長崎やってきたのです。この商社は、ジャーディン・マセソン商会といって、今でもあるイギリスの大商社、大財閥です。日本人はアメリカの大企業は知ってても、イギリスの大企業はあまり知らないのです。今でもあるイギリスの大企業です。この企業はなんで成長したかというと、アヘン戦争です。中国にアヘンを売りつけることで成長した企業です。

1840年のアヘン戦争は、この会社の社長ウィリアム・ジャーディンがイギリス外相パーマストン(のち首相)に手紙を書いて、引き起こしたものです。その背後には、ヨーロッパ最大の金融財閥ロスチャイルド家が見え隠れします。またグラバー園内のリンガー邸脇には、フリーメーソンのマークの彫られた石柱もあります。私が見に行ったときにもありました。
そのジャーディン・マセソン商会の代理人としてやってきたグラバーはまだ若干20歳、非常に若くしてやってくる。彼が日本に売りつけるものは鉄砲・大砲などの武器です。武器商人です。

佐賀藩は、それまでお城の北方に精錬方を設置して、鉄を作り、大砲をつくっている。そういう日本随一の近代科学工場をもっていた。1858年には、筑後川支流の早津江川沿いに、数年前に世界遺産になった三重津海軍所をつくります。

1859年、アメリカ人のフルベッキが長崎に来た。これはどうもオランダがらみみたいです。アメリカは移民の国で、日本はオランダと江戸時代つき合ってる。そのオランダからアメリカに移住した人です。本業は宣教師なんですが、憲法・政治に非常に明るい人です。そういう人が長崎に来て、佐賀藩と繋がりができ英語を教える。このあと佐賀の大隈重信に教えたことは、宗教じゃなくてアメリカ憲法だったんです。

1859年、佐賀の江藤新平は、この時に藩校の弘道館を1度やめて、またオランド語を学んでいるんですが、やっぱりお金が続かずに蘭学寮をやめ、下級役人の仕事を始める。どうも佐賀にいないような、情報担当みたいなことをやる。情報担当というと、アメリカのCIAとか、上級官僚みたいですけれども、身分の低い人がやる仕事です。なぜか。危険な仕事だからです。殺されてもかまわないような人間じゃないとダメです。忍者がそうです。ただ実力はある。そういう動乱期に入っていく。


伊藤博文はもともと萩から遠く離れた瀬戸内海に面した山口県東部の農民の生まれですが、萩で来原良蔵という武士に出会ったのを手始めに、吉田松陰、木戸孝允、高杉晋作と次々に明治維新の重要人物と出会っていきます。
伊藤はすでに、1858.10月には、来原良蔵の手付き(雑用係)として長崎の毛利藩邸に出向き、翌年1859.6月まで西洋式の練兵や砲術を学んでいます。長崎の事情には明るい人物です。
来原良蔵は木戸孝允の義弟にあたったため、その縁から次には木戸孝允の手付きとして活動しはじめます。

同年1859年には木戸孝允について江戸勤務となっています。そして江戸で吉田松陰が処刑されると、その遺体を伊藤博文らが受け取りに行っています。




【開国後の政局】
【尊王攘夷運動】
 そういう中で幕府は、藩の反対を押し切って貿易を始めた。何も知らない藩は外国人なんか大嫌いだ、幕府への反発を強める。幕府の代わりに尊王が出てくる。
王は誰を指すか。将軍じゃない。天皇を指します。そして外国人が大嫌いだ、打ち払おうという攘夷です。これが尊王攘夷です。夷は外国人です。天皇を敬い、外国人を打ち払おう、という運動が激化する。これを尊王攘夷運動といいます。
それと同時に、日本の本来の姿を探る国学も、江戸の末期から流行っていた。この国学も尊王攘夷運動と結びつきます。


【桜田門外の変】 そういうなかで開国を実行し、貿易を実行した人物を殺ってしまおう、という動きが出てくる。江戸城の入口にいくつか門がある。1860年桜田門外の変が起こる。雪が降っていた。真っ白な雪に、真っ赤な鮮血がパーッと散る。殺されたのは大老の井伊直弼です。その門の外で井伊を待ち伏せしていたんです。
暗殺の主体は水戸です。それに薩摩の一部です。これによって幕府の中心人物である井伊直弼の独裁も崩壊する。


【諸藩の動き】 佐賀藩主の鍋島直正が、翌年の1861年に、どうも嫌気がさして引退するんです。隠居する。活動をやめてはいないけど。もうあとはまかせた、と。しかし佐賀は隣の長崎との関係は切れません。
同じ1861年に、オランダ語でめきめき頭角を現した大隈重信は、弘道館の蘭学教授になります。このとき23歳。そして今からはオランダ語じゃなくて英語だ、長崎にフルベッキという人が来たぞ、と教えを請いに行きます。
佐賀藩は、この1861年に長崎のイギリスの武器商人グラバーにアームストロング砲を注文しています。


【公武合体運動】 井伊直弼は、幕府の運動は、今までは天皇には頼らない、幕府だけの力で行こうとした。しかし井伊直弼は殺された。
やっぱり天皇の力が必要だ。これが公武合体運動です。公とは何をさすか。天皇です。武は幕府です。天皇と将軍が力をあわせようという動きです。具体的には政略結婚です。これを進めたのが、このあとの中心になる老中安藤信正です。


ちょっと複雑なことに、薩摩は、殿様の島津斉彬が死んだでしょ。では薩摩の実権を誰が持つかというと、島津斉彬の腹違いの弟、昔は、こんなのはいっぱいある。殿様はいっぱい、嫁さんもっているから。島津久光という。しかし、この人は殿様にはならない。ただ実力者ということです。これと西郷隆盛が仲が悪い。この人はこの人で、私はそれなりに好きですけどね。
要らないことを言うと、個人的なことは言うなという人がいるけど、歴史ほど個人的なものがなくなったら、無味乾燥で面白くないものはないです。それこそ年代、何月何日に、何が起こった、何が起こった、と並べただけで歴史になる。それをどう評価するかは、どうしても個人的な判断がかかわらざるをえない。

ではその公武合体というのは具体的には何か。天皇の妹がいた。この時の天皇は孝明天皇といいます。明治天皇のお父さん。その妹。だから皇女和宮です。
14代将軍になったばかりの徳川家茂は独身なんです。タイミングがあう。2人を結婚させよう。いわゆる政略結婚です。これが1861年です。だから一般的には、政略結婚の犠牲になった不幸の中心人物が皇女和宮だ、というイメージなんだけれども、人間の人生というのは分からないもので、どんな形で結婚しようと、男と女の相性というのは、なかなか分からない。
結婚するといたって仲睦まじいんです。だからこの人の本当の不幸は、政略結婚させられたことではなくて、夫の将軍家茂が早死にすることです。この将軍は数年後に死にます。明治維新直前で。さらに同じ年に、皇女和宮の兄である孝明天皇も死ぬ。不思議ですね。なぜ。死んだと書いてあるだけです。
政略結婚というのは、こういう風によくある。洋の東西を問わず、ヨーロッパでもあります。


【坂下門外の変】 それでは反対派の動きです。こんどは江戸城の入口に坂下門というのがある。そこで、安藤信正のヤツ、いらんことしやがって、殺ってやろう、という人がいる。安藤信正暗殺、これは未遂です。だから安藤信正襲撃です。1862年坂下門外の変です。
これをやったのは水戸浪士です。一命はとりとめたんだけれども、人間は突然ブスッとやられると、この人は腰が立たなかったらしい。それは無理もないと思う。お命ちょうだいと言って、籠で揺られている時に、外から突然ブスッとやられて腰が立たないというのは、私は仕方がないと思うけれども、人間の本能で危ないと思ったら、その場を動かないといけない。
動く様が腰が立たないから、犬猫のように四つんばいで逃げた。それをみんな見ている。それが一人歩きして、こいつはヘナチョコだということになって失脚していく。

そういうことがあって、明治になって、板垣退助が暴漢に襲われて、腹をブスッとやられた時に、毅然として、板垣死すとも自由は死なず、と言ったといわれる。あれは完璧なウソです。腹を包丁で刺されて、言えない。
そういうことで、この安藤信正は失脚する。その後どうなるかというと、井伊直弼は暗殺、そのあとの安藤信正も失脚。いよいよ、幕府は屋台骨が崩れはじめた。


【文久の幕政改革】 そこで出てくるのが、さっき言った薩摩藩の実力者の島津久光です。同年の1862年、幕府に、しっかりせんかと、幕政改革を要求する。これを文久の幕政改革といいます。ここで注意は、薩摩はここでは、幕府を支える側に立っていることです。薩摩の藩論は、倒幕ではなく、佐幕です。佐幕とは、幕府を支えることです。
でも時代は変わったもので、外様大名が、実力があるとは言え、将軍家の徳川に指図しに行くんだから。鹿児島から江戸まで。それをまた幕府がハイ分かりました、と聞く。こういう時代になったということです。


【生麦事件】 ただそれは後から見ると、おまけです。メインはこのあと起こる。この人がこの仕事成し遂げて、今度は江戸から薩摩に帰る1日目、横浜村の隣の生麦村で生麦事件が起こる。1862年です。
大名行列の前を、それを知らないイギリス人が道を横切った。馬に乗って。すると、無礼者、無礼打ち一発です。イギリス人を殺した。それはそれで、法的に裁かれればいいけれども、相手はイギリス人です。
政治がからむと、1人が死んだことによって、強い国はいろいろ条件を突きつけてくるんです。どうしてくれるんだよ、オイ、オレの大事な弟分を殺してくれたな、落とし前をどうしてくれるんだ、と。いろんな条件を突きつけてくる。


【諸藩の動き】 西郷隆盛は、この1862年に、やっと島流しから赦免される。許される。鹿児島に戻ってきたかというと、また島津久光と意見が対立して、おまえまた島に戻れと、今度は沖永良部島に2回目の島流しになる。
こうやって島流しされると、西郷隆盛の場合には、ヤクザがムショ入りしたら、逆に箔がついて帰ってくる。藩主に楯突いて2回も島流しになって、死なずに生きて帰ってきた人だと、だんだん格が上がる。そうでないと、島流しにされた人が、このあとなぜ薩摩の実権を急に握るのか、分からなくなるでしょ。彼を取り立てたのが家老の小松帯刀です。この人は薩摩の実権を握って、次には幕府軍の実権も握っていくんです。そのメカニズムが不思議ですね。

それとは別に、全然、藩の力とは別のところで動いていくのが坂本龍馬です。この10年近く前に、17歳の時に剣道を学びに、江戸に1度出たことがあったけれど、土佐藩に帰って、下級武士だからイヤになって、1862.3月に脱藩して藩を飛び出す。普通は脱藩は捕まったら死刑です。そのくらいのことをやっていく。
坂本龍馬は、誰を訪ねていったかというと、これも幕府の下級武士です。家柄としては。ただ能力だけで伸びていく勝海舟という人を訪ねていく。勝の家には、いろんな人がいて、勝のお化け屋敷と言われるぐらい、行く度に客人が10人ぐらいいて、勝海舟に、あの人誰かと聞いても、オレも知らない、という。自分の家に留めている客人の名前さえ知らない。何が出てくるかわからないから、お化け屋敷といわれる。いろんな人が動いている。

佐賀の江藤新平も、坂本龍馬の脱藩の3ヶ月後の1862.6月に脱藩する。そして戻って来て捕まえられる。裁きを受ける。ふつうは死刑ですけど、なぜか蟄居で済むんです。謹慎処分です。背振山系の山奥のお寺に。見に行ったら、金福寺というそのお寺は今は廃寺になっていて、誰も住職さんもいない。いまは荒れ果ててますが、そのお寺で、おまえ謹慎しろ、ということです。2年間ぐらいは、そこにいて、2年後の1864.7月に許された。
しかし、佐賀の背振山系の山奥の寺にいるはずの江藤新平が、このあとで言う1863.5月の長州による外国船砲撃のあと、隣の筑後久留米藩の記録に出てきて、久留米水天宮宮司の真木和泉が佐賀藩の江藤新平と会い、さらに久留米に来ていた長州藩士ともあって、佐賀藩から長州藩への大砲の供給について話し合ったという記録が出てくる。おかしい。つまり蟄居してない。蟄居させるつもりがないんです。公式記録は蟄居ですが、しかし実際には動いている。こういうのを忍者とは言わないけど、やっぱり密偵です。情報探索です。それをやっている。

そういう意味では、長州の伊藤博文もそうです。日本初の総理大臣になる人です。さらに4度も内閣総理大臣になる人です。総理大臣在任期間も長い。この人も長州の下級武士です。この時には、長州の武士たちの中でも一番下です。

何してるかというと、1862.12月には、東京の品川あたりのイギリス公使館の焼き打ちです。その実行部隊をやってる。これは公式記録で、裏の記録ではありません。その一週間後には、伊藤は国学者の塙次郎を斬っています。
裏の記録は、この人は女好きだったということ。よく京都の祇園あたりに遊びにいっている。なじみの女がいて、その女の話では、今日は人を殺ってきた、というのが分かったといいます。どうも多くの人を殺ってる。だからドスが効いている。この時代の伊藤は一種のテロリストです。長州には藩全体にこういう気風があります。


その翌年の1863年に伊藤博文はイギリスに密航します。だからイギリスで英語を覚えるんです。テロリストが英語を覚えて帰ってくるんです。頭がいいし、ドスが効いてる。すごみのある人です。
だから本当に若い頃、子供のころから何をしてたか、本を探すけど、あるのか知らないけど、私が探したところではないです。だから分からない。10代半ばまで何してたのか。これほど有名な人が、調べようとしてもなかなか分からない。



【長州】 では次、その伊藤博文の長州、山口県です。ここは、幕府も外国人も嫌いなことで一貫しています。藩論は尊王攘夷、これ一本です。特に1862年に開国派の長井雅楽(うた)が失脚してからはそうです。天皇を中心にして、外国人を打ち払う、これでまとまる。そのためには、政治の中心は、もう江戸じゃない。天皇がいるところ、つまり京都で活動する。だから一時、京都の町は長州の侍だらけです。

その中心人物が高杉晋作です。この人も松下村塾出身です。吉田松陰の弟子です。しかし彼もまた遊び好きです。しかも女にもてる。伊藤博文は女好きだったけど、女からどうも怖がられるようなところがあった。彼は上手に三味線ひいて、今でいうギターですよ、ギターをひいて、あっ晋作さんだ、と女が寄っていくようなタイプです。


【攘夷決行】 翌年1863.3月、将軍が約200年ぶりくらいに京都に入ってくる。天皇から呼ばれて。将軍に任命するのは、誰が任命するのか。任命するのは、天皇ですね。そしたら任命されに来なさい、と言われる。200年ぶりに。
今まで、そんな将軍いないのに、それを言うと、それなら任命しないぞ、という。天皇と将軍の力関係が逆転している。それで200年ぶりぐらいに将軍が京都に入る。そこで将軍に任命する代わりに、条件を出される。外国船を打ち払え、と。おまえは征夷大将軍だろ。征夷だから、悪さをする外国人(夷)を打ち払うのが征夷大将軍じゃないか、打ち払えよ、と言われて、ハイという。ここらへんは騙しあいです。では、いつするのか。期日を決めとかないと、政治は動かない。

何年か前、憲法には、4分の1の国会議員の賛成があると、臨時国会を開かなければならない、と書いてある。1/4の賛成があった。安倍さんは、でも開かない。それで済んだんです。なぜか。いつ開けと書いてないからというんです。だから、いつか開きますよ、と言えるんです。開き直れば。だから、日にちはきっちりと書かないと、そのうちに、とかいう約束は、政治のなかでは約束したうちに入らない。不誠実な世界ですよね。

いつまでにするか。これが大事です。その2ヶ月後の1863年5月10日と決めた。将軍が全国に命令を出す。それで、全国が一斉に外国人を打ち払ったかというと、そこは、わかっている、ハイと言ってしないんですよ。ハイと言って本当に実行したのは、長州藩だけ。長州藩が下関海峡から、そこを通る外国船に向かって砲撃する。

このあたりを説明するのは、命令どおりになってないから、非常に説明しにくいというか、考えれば考えるほど理屈どおりではないから、ある学校では文句をいう生徒がでてきたりする。なんでだ、理屈通りなってないじゃないか、納得いかない、と言うんです。そうなんですよ、納得いかないことで動いているんです。この時代は。攘夷決行宣言を約束通り実行した。1863年5月10日、でもこれは長州藩だけです。


【諸藩の動き】 その直後、2日後、伊藤博文や井上馨ら長州藩士5人が、密かにヨーロッパに密航した。ヨーロッパのイギリスへです。俗に「長州ファイブ」といって、これは有名で映画にもなったから、秘密でもなんでもない。
これを仲介したのは、イギリスのジャーディン・マセソン商会横浜支店の支配人です。でも実は、段取りを整えたのは長崎のグラバーだとも言われる。グラバーもジャーディン・マセソン商会の長崎での代理人です。イギリスでは、このジャーディン・マセソン商会の社長ヒュー・マセソン直々に彼らの面倒を見ます。伊藤はそのヒュー・マセソンを通して、イギリス政財界の重要人物と接触していきます。わずか22才の下級武士に対する対応としては破格の扱いです。

佐賀藩は、この1863年ごろにイギリスからアームストロング砲を購入している。ということは、誰から購入するか。長崎の防備は佐賀の管轄であった。管理地であった。そこにトーマス・グラバーという武器商人がいる。イギリス人です。アームストロング社という大砲会社は、イギリスの大砲会社です。
ただこのアームストロング砲は、有名な割には、どうやって購入したかという経緯がよくわからない。手に入れたことだけは事実なんですけど。この大砲を持っているのは、この段階で佐賀藩だけです。


【奇兵隊】 長州ではこのあと変な動きがある。下関海峡での攘夷決行の1ヶ月後の1863.6月に、高杉晋作が、変わった兵隊をつくる。これが奇兵隊です。何が奇か。兵隊は武士と決まっていた江戸時代に、農民を集めて兵隊をつくる。農民兵です。このための資金を提供したのが下関の廻船問屋白石正一郎という豪商で、その白石正一郎宅が奇兵隊の本拠とされました。


戦国時代、長州の藩主毛利家はもと広島を根拠地にしていた戦国大名でした。しかし関ヶ原で敗れたのち大きく石高を減らされて山口に移されます。そのとき知行地の不足から、家臣に加えてもらえない人々が多く生じますが、そういう人々が農民身分となってついてきます。これらの農民身分の人々には「オレはもともと毛利家の家臣だ」という意識があります。江戸時代の兵農分離のなかでの奇兵隊の結成は、このような長州藩独特の意識なしには考えられないことです。
高杉晋作が農民兵である奇兵隊をつくれたのも、そういう長州の気風が農民層にまで及んでいたからでしょう。奇兵隊そのものが明治維新の一つの奇跡だと思います。

伊藤博文は農民の出です。といっても村の庄屋の親戚筋に当たり、村のリーダー格です。本名は林利助といいます。彼の生家は萩城下ではなく、広島県に近い山口県東部の瀬戸内海に面した光市にあります。生家跡は今は記念館になっています。そこは萩城下から遠く離れた場所です。10才までそこで過ごしました。そこから日本海側の萩城下に引っ越し、14才の時に足軽の伊藤家に養子に入った人です。

伊藤博文の生家のある光市近辺からは多くの政治家が出ています。隣の田布施町からは戦後の首相岸信介が出ます。彼の実弟は佐藤栄作です。外孫は安倍晋三、ともに日本の首相です。戦前の外務大臣を務めた松岡洋右も伊藤博文と同じ光市の出身です。

この光市では奇兵隊が結成されたあと、それに続いて、田布施町との境界の石城山にある石城(いわき)神社を本拠地として第二奇兵隊が結成されています。


【薩英戦争】 でも忘れてはいけない。1年前の生麦事件を。生麦事件は村の名前です。生麦・生米・生卵とかじゃない。たんに村の名前です。薩摩藩によってイギリス人が殺された事件です。
その仕返しにイギリスがやってくる。これが薩英戦争です。薩摩とイギリスが戦う。長州藩による下関での攘夷決行から2ヶ月後の1863.7月です。薩摩は完敗します。薩摩の錦江湾に浮かぶイギリス船まで、薩摩の大砲がとどかない。逆にイギリスの船から撃った大砲が鹿児島の市街まで届く。ふつう船から撃ったら、船が揺れて、あまり飛ばないんです。それでもイギリスの大砲は届くんです。
それ見て、何がわかったかというと、勝てないというのがわかる。これが薩摩の藩論を変えていくわけです。勝てないのがわかった。


では何するか。これは政治的にはものすごく大事なんです。勝てないから戦わない。では次に何するか。そのことは非常に大事なことです。勝てないと分かって、それでも戦う、と言ったら、例えは悪いけど、太平洋戦争みたいになる。不思議な戦いでね。戦争したいと言って、勝てるのかと問うと、勝てると言った人は1人もいないんです。よっぽど何かがあったんだろうと思う。
これで終わります。

授業でいえない日本史 27話 近代 八月十八日の政変~小御所会議

2020-08-26 16:00:00 | 旧日本史4 近代
今、ペリーが来てから10年ばかり経った1863年のことです。
ペリーが来てから5年間は、たいしたことなくて、実際に動乱状態になって行くのは1858年の日米修好通商条約からです。ポイントは、修好じゃなくて、通商です。貿易が始まったのです。
300年間の鎖国が破れて、日本の経済状態は混乱していく。そういったところから動乱が起こって、幕府は何だ、いらんことしやがって、条約なんか結びやがって、開国なんかしやがってと不満が高まっていきます。
今では開国するのが正しいとみんな思っていますが、この時は開国なんかして、バカじゃないか、と思っているんです。その批判を一身に浴びているのが幕府なんだけれども、この幕府に対して賛成や反対が大きく分かれる。


徹底的に反幕府で、幕府なんかつぶしてしまおうというのが長州です。山口県です。ここは一貫して倒幕です。
これを4文字熟語で教科書流にいうと尊王攘夷となる。王は天皇です。ということは将軍は要らない。代わりに天皇を尊重する。攘夷の意味は、夷は外国人です。外国人を追い払うということです。


これに対して薩摩は藩内で賛成、反対ありながらも、幕府いいんじゃない、支えていたほうがいいんじゃない、となる。これを4文字熟語で書くと、佐幕開国となる。佐幕というのは幕府を支えること。尊王の反対です。開国というのは説明は要らないでしょう。外国人を討たない。つまり薩摩と長州は敵同士なんです。複雑な明治維新の結論を先にいうと、この水と油の薩摩と長州が手を組むなんていうことは、ありえなかったんです。こういうありえないことが起こったんです。これが1866年の薩長連合になっていく。坂本龍馬が有名なのは、この立て役者だから、という筋書きになってる。本当かどうかは、よく分からないけれども。
違った主張を言い張っていても結論が出ないから、そこは政治はいつも妥協の産物です。どこをお互い譲歩するかです。半分ずつにするんです。
結論は何か。半分ずつにした何になるか。明治維新それから平成に至るまで、日本の路線は、尊王と開国です。日本の近代化とは尊王開国です。これが結論です。だから天皇がある。年号もある。なんでこんなことになったのか。そうなるまでのことを、これから見ていきますが、まず薩摩と長州は、ここでは徹底して憎み合っています。




【八月十八日の政変】
その薩摩から見たら、外国船を討つなんていうことは、きちがい沙汰だ、ということを長州がやった。これが、1863.5.10日の長州による外国船砲撃です。全国一斉と言ったけれども、他の藩はホンネを知っているからしなかった。
こんなことをしていたら、外国からつぶされてしまうぞということで、薩英戦争の1ヶ月後、1863年8月18日に、薩摩藩が長州藩を京都から追い出したんです。これを8月18日の政変といいます。

イギリスに勝てないといち早くわかった薩摩藩にとって、外国人を打ち払おうとしている長州は危険極まりない藩です。こんなの相手と戦ってどうするんだ、これは国を滅ぼすことだ、と。それで薩摩藩が、長州の政治活動の中心である京都を制圧して、公武合体派と手を組んでいく。
尊王攘夷派の公家、というのは長州に味方する公家グループです。外国人を打ち払え、外国人と戦うぞという公家たちです。これを罷免する。クビです。そして京都から追放する。これが七人のお公家さんだったから、七卿落ちという。行く当てがないから、雨の中、長州に逃れて行った。
これで、薩摩と長州の憎しみはピークに達した。天皇がいる京都が政治の中心地になっていた。この結果、長州の勢力は京都から廃除された、ということです。これが1863年です。ここから動き出す。いろんな人物が蠢いています。


次の年の1864年になると長州は、やられてばかりじゃ、武士のメンツが立たない。やられたらやり返すぞということで、今度は長州が薩摩に対して・・・・・・京都は薩摩が握っているから・・・・・・京都を攻める準備をしだす。
この間に主要人物は、いろんな動きをしてます。


【諸藩の動き】 土佐を脱藩した坂本龍馬は前年の1863.1月から勝海舟の門下生になっています。龍馬は、1864.2月に、勝海舟に連れられて長崎に来ている。長崎には、トーマス・グラバーがいます。アヘンを密売している会社の代理店を勤めてる人で、武器商人です。
長崎に行くと、グラバー邸の下にある記念館がある。そこは香港上海銀行というイギリス最大の銀行で、今もある。今は記念館になってます。その香港上海銀行の設立にも、グラバーの親分のジャーディン・マセソン商会が関係しています。こんなものが宣伝もせずに、ごく平然と記念館になっているところが、すごいことです。

西郷隆盛は龍馬が長崎に来た同じ月の1864.2月、西郷は2回目の島流しから鹿児島に戻ってくる。そしたら箔がついている。あいつは不死身だ。島流しになるとたいがい死ぬんですが、死なずに戻ってきた。それが人望を集める。この年に幕府軍が長州を攻める。次に言うけれども。その司令官になる。島流しの牢獄にいた人間が司令官になる。激動の時代には、こういうことが起こる。
南アフリカで大統領になったネルソン・マンデラは、大統領になる以前は何だったか。禁固20年間の政治犯です。政治犯が大統領になる。これが動乱です。幸いにしてこの70年間、日本にはそんなことはないけど。動くときはこうなります。


【禁門の変】 5ヶ月後の1864.7月禁門の変が起こります。禁門とは京都御所の門の一つです。京都御所というのは、このとき天皇が住んでいたところです。

これは長州の動きです。勢力回復のため上洛する。上洛とは、京都に上ることです。天皇がいるところに上ることです。この時、長州は京都に攻め上るんです。
それを迎え撃つのは薩摩です。薩摩と会津です。会津が親幕府的な藩として、ここで出てくる。佐幕つまり幕府を支えようという立場です。薩摩と会津はこうやって手を組みあって、長州と戦っていく。オレたちは仲間だと思っている。

しかし先のことを言うと、明治維新直前に、薩摩は倒幕側に寝返る。そしてこの間まで手を組んでいた会津を攻め滅ぼしていく。その一つが白虎隊の戦いです。
聞くところによると、100年経って、この時に生きていた人の孫の世代というから、今から30~40年前までは、会津にいって喫茶店にはいって、どこから来なさった、と言われて、鹿児島から、と言ったら塩を入れられる、とか。それくらい憎しみは100年すぎても残っていた。


禁門の変では薩摩と会津がいっしょになって、長州と戦った。長州はまた負けた。



【第一次長州戦争】 
禁門の変で負けた長州は、負けたばかりか、天皇の御所に向かって大砲を撃ったんだから、朝廷の敵だ、と名指しされ、朝敵だから問答無用で藩を取りつぶそうということになる。禁門の変の1ヶ月後の1864.8月、幕府は長州を滅ぼしに行く。これが第一次長州戦争です。主導権は幕府ですが、この軍の総大将になったのが、島流しから帰還したばかりの薩摩の西郷隆盛です。
ただ西郷は、長州を潰すことまでは考えていない。でも正面から、いいえ、とは言わない。ハイと言いながら、長州はやっぱり生かしていたほうがいい、と腹の中ではそう思っていた。だから長州を取り囲んだだけで戦わなかった。


【諸藩の動き】 伊藤博文は、前年の1863.5月の下関での外国船砲撃のとき、密かにイギリスに密航していた。それが、1年後のこの年1864.6月にイギリスから帰国します。なぜこんなに早く帰ったか。
伊藤は帰国すると、まず横浜で迎えに来ていた長崎のグラバーと会い、ただちに英国公使オールコックに会いに行き、計画中の下関砲撃をやめるように頼んでいます。そして帰国した翌月の1864.7月イギリス軍艦バロッサ号に乗って地元の下関に帰ってきています。

一介の下級武士をグラバーが出迎え、国の代表たるイギリス公使が面会を受け入れ、さらに彼をイギリス軍艦で藩まで送り届ける。イギリスは伊藤博文に対して特別待遇で接しているように見えます。なぜ特別待遇のように見えるのでしょうか。
グラバーもイギリス公使のオールコックも、今後のことについての指示を伊藤博文に与えているのではないでしょうか。だからこの下級武士に会う必要があるし、軍艦で長州まで送り届ける必要があるように見えます。
博文は藩に戻ると、藩の上層部に対して和平の説得に当たります。なぜ、わずか23才でこんなことができるのか、不思議です。これ以後、伊藤博文は、長州藩にとって重要な英国担当窓口になり、イギリス軍の接待にあたります。

伊藤がイギリスから下関に帰ったのと同じ1864.7月、佐賀藩の江藤新平は赦免されます。このときまで佐賀山間部の富士町の金福寺というところで、形上は謹慎していました。しかしその間も極秘の活動をいろいろしていたみたいです。極秘だから、なかなか歴史に残っていないけど、他藩の記録に残っている。そういう人がいろいろ蠢いている。

その1ヶ月後の1864.8月には、京都で西郷隆盛坂本龍馬が初めて会っています。その2ヶ月後の1864.10月には、坂本龍馬が塾頭を務めていた神戸の海軍操練所が閉鎖になったため、大坂の薩摩藩邸に龍馬をかくまっています。薩摩の西郷隆盛と坂本龍馬のつながりはここでできています。


【四国艦隊下関砲撃事件】 前年の1863.5月に長州は、フランス船、アメリカ船、オランダ船に向けて、大砲をぶっ放していました。

その翌年1864.8月、第一次長州戦争で幕府軍が長州を取り囲んでいるちょうどその時、その仕返しが来るわけです。4ヶ国連合で。これを四国艦隊下関砲撃事件といいます。四国艦隊、これは日本の四国じゃないです。イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四カ国です。特にイギリスとフランス、この2カ国ににらまれて生き延びた国はないです。
どのくらいの軍事力の差かというと、四ヶ国軍は攻撃して上陸したあと、記念写真を取って帰るんです。きれいに記念写真が残っている。イギリス、フランス、アメリカ、オランダの軍服を着た人たちがきれいに並んで、記念写真撮って、みなさんどうもおつかれさまでした、といって帰るんです。圧倒的な軍事力の差です。

これで長州は、幕府軍とは戦わずして降伏した。第一次長州戦争と、四国艦隊下関砲撃事件がうまく重なる。どうですか。これをたんなる偶然だと思いますか。偶然にしては、話ができすぎてませんか。不思議ですね。幕府軍の総大将である薩摩の西郷隆盛は、戦わずして長州に勝ったわけです。

見方によっては、西郷隆盛を応援するために、イギリスは他の三国を誘って下関を砲撃したようにも見えます。西郷隆盛が、長州を取り囲んだまま、じっと見守っていたというのも、四国艦隊が下関を砲撃しに来ることを知っていたからのようにも見えます。

しかしこれで、長州もやっと分かる。とても勝てないと。藩論が変化し、攘夷、つまり外国人と戦うことは不可能だ。これがポイントです。イギリスは長州が幕府軍に負けたのではなく、あくまでもイギリス軍に負けた形にしたかったのです。

ここで薩摩と長州は何が一致したんですか。攘夷不可能で一致したのです。これは戦えない。これで勝てると思ったら戦さの素人でしょうね。素人ほど怖いものはないけど、戦さに関しては武士はやっぱり素人じゃなかった。
そうすると、戦争しても勝てないから、外国と仲良くしないといけないということになる。特にイギリスと。アメリカはこのとき南北戦争が起こっていて、日本どころじゃなくなって、しばらくは来ないです。そのあと40年ぐらい経って、またヒタヒタとやってくるんですけど。


ここで攘夷か開国か、その結論は出ました。長州も攘夷から開国路線に切り替えたのです。これで日本の開国路線は決まりました。
ではあと残っていることは何か。尊王か、佐幕かです。つまり、幕府を倒すか、幕府を支えるか、のどちらかです。あとの問題はこの一点に絞られます。


【長州の動き】 その後、長州はどうなるか。外国と戦うのはムリだ、という革新派が出てくる。第一に高杉晋作です。もう一人が木戸孝允です。高杉晋作は明治維新前に血を吐いて死にますが。木戸孝允は明治維新後も生き残ります。嫁さんは京都の幾松という芸者さんです。明治の大臣クラスというのは、色町の女性を堂々と自分の嫁さんにしていく。


高杉晋作は、奇兵隊という農民兵をつくっていた。四国艦隊の攻撃から4ヶ月後の1864.12月、奇兵隊を率いて長府の功山寺で挙兵する。この挙兵に、伊藤博文も力士隊を率いて加わります。農民のくせにと、武士はバカにしていたけれども、戦ってみたら農民兵が勝ってしまった。そして軍事的に長州藩をおさえてしまう。これが高杉晋作です。

平たく言うと長州では、上級武士に対して下級武士と農民が反乱を起こし、下級武士と農民が藩の実権を握ってしまったのです。これは日本の中に独立国ができたようなもので、普通は幕府によって潰されてしまうところですが、討伐に向かった幕府軍に対し、武器・弾薬を手に入れた長州藩が勝ってしまうというのが明治維新の流れです。ではなぜ長州藩は武器・弾薬を手に入れることができたのか、というのが次の流れです。

イギリスにとって、それまで尊王攘夷を唱えていた長州は邪魔な存在でした。しかしここで長州藩は開国路線に変わります。尊王開国路線です。イギリスはこの時すでに植民地帝国で、その時にもちいる手段は一貫して「分断して統治せよ」です。これはインドを植民地にする過程でも見られたことです。

あと残る課題は、尊王か、佐幕かです。幕府を倒すか、幕府を支えるかです。それまでイギリスにとって長州藩は邪魔な存在でしたが、尊王論によって倒幕路線をとる長州藩にイギリスは急に近づいていきます。イギリスが長州寄りになっていきます。薩摩藩と同じように、長州を応援するようになります。


【フランスの動き】 この戦いのメインはイギリスとフランスです。これらの国と日本は仲良くしないといけない。幕府は生き残るだろう、これが大方の予想です。フランス公使はロッシュです。フランスは幕府に近づきます。


【イギリスの動き】 しかしイギリスは、どこと仲間になればいいかと考えた時に、幕府ではなく、薩摩を選ぶ。たぶん薩摩が幕府を倒すだろうと考える。この狙いが当たるんです。でも自然にそうなったわけではありません。そうしむけるわけです。戦争を決するのは軍備です。イギリスがどちらに武器を供給するか、これが勝敗を決します。

四国艦隊下関砲撃事件の翌年1865.閏5月、ここでイギリス公使がオールコックからパークスに変わります。
ここからはイギリスの力技です。イギリスは白を黒にしていく力をもっています。そこに、長崎の武器商人グラバーが絡んでいく。



【薩摩の動き】 薩摩は、薩英戦争でイギリスと戦って、勝てないというのを早々と知っている。だからイギリスに近づいている。
この藩を牛耳った二人が、西郷隆盛と弟分格の大久保利通です。明治維新後は、大久保が主流になっていきますが、しかしそれはあとのことです。彼らをまとめている薩摩藩の家老は小松帯刀です。彼ら二人よりも若いですが、有能な開明派の武士です。


そこで何をするか。西郷は、長州をつぶしたらいかんと密かに言う。密かにというのは、今では日本の教科書に載っていて秘密でも何でもないようなことでも、この当時は10人もしらない。まず幕府は知らない。そしてあろうことか、薩摩藩の殿様も知らない。そういう下級武士たちの動きが起こります。

西郷の、長州をつぶさない、ということの意味は、逆に幕府を倒すということです。このような大きな変化が、薩摩藩の正式決定ではなく、一部の下級武士たちの動きによって決められていったということです。だから薩摩の殿様さえ、このことを知らないのです。


【諸藩の動き】 この間、長崎のグラバーは薩摩と仲が良いから、また別の人間を密航させる。まだ江戸時代です。江戸幕府は滅んでいない。1865.3月、五代友厚という薩摩の人間を密かに密航させる。ヨーロッパに出向かせます。

イギリス公使がパークスに変わる直前の1865.5月に、土佐の坂本龍馬が日本初の株式会社と言われる会社をつくる。亀山社中という。亀山というのは長崎の地名です。いま観光客が行く亀山社中は、普通の小さな狭い民家です。長崎は坂が多くて山が多いから、岩肌に坂道にへばりつくような家で、車は通れないです。しかし当初の亀山社中は、長崎の豪商小曽根英四郎の自宅にありました。小曽根の自宅はちょうどグラバー邸を降りたところにありました。つまりグラバーの家と目と鼻の先にありました。これがのちに名をあらためて、海援隊という運送会社になります。
なぜ文無しの一介の浪人が、会社をつくれるのか。そのお金の出所に触れた本がないです。会社つくるのに、まずお金がかかるでしょう。運送会社をつくるのに、お金がかかるでしょう。次に、イギリスの機関銃を7800挺も買う。買っていいけれども、なぜそんなにお金があるのか、そこには薩摩藩家老の小松帯刀の援助があります。購入先は、長崎にいるイギリスの武器商人グラバーです。

その2ヶ月後の1865.7月、長州の伊藤博文と井上馨が長崎に出向いてグラバーと会い、薩摩に名義を借りて、小銃購入の契約をしています。彼ら二人を長崎の薩摩藩邸に泊め、グラバーとの仲をとりもったのも薩摩の小松帯刀です。長州は、第一次長州戦争後、武器の購入を禁止されているからです。薩摩藩は、名義を貸すことで、それまで戦っていた長州と接近していきます。それと同時に両藩はイギリス武器商人グラバーに接近していきます。

1865年、香港にイギリスの銀行である香港上海銀行が設立されます。グラバー邸を降りたところに香港上海銀行の長崎支店の記念館がある。これは中国の銀行みたいな名前ですけど、ぜんぜん違ってイギリスの銀行です。頭文字でHSBCと略号で書きますが、今でも5本の指に入る世界の巨大銀行です。これはアヘンの売上代金を本国イギリスで送金するための銀行です。グラバー邸の真下に、このような曰く付きの銀行の支店の建物があります。
この間、長崎に行ったとき、今は記念館だけれども、ちょっと前まで長崎県警の警察署だった。タクシーの運転手さんに、グラバー邸の下の香港上海銀行までいってください、というと、思い出話をして、あそこはもと警察署で、オレは高校の時はわるさばかりしていて、何回もお世話になったから、行きたくない、と世間話をしていた。捕まったことを思い出しますね、と。そうやってずっと使われていた建物です。

同年の1865年には、大隈重信が中心になって、フルベッキというアメリカ人をトップに据えて、学校をつくる。これは長崎につくった佐賀藩の英学校です。大隈もそこの先生になります。このあと大隈重信は明治維新まで長崎で活動しています。このあと大隈重信の政治デビューはこの長崎です。




【薩長連合】 
翌年1866.1月、密かに薩長連合が成立します。薩摩の小松帯刀西郷隆盛と、長州の木戸孝允が、京都の小松帯刀の別邸で結んだ密約です。ただ西郷隆盛は直前までこれを拒否しています。密約だから文書の取り交わしもありません。内容が分かるのは、のちに木戸孝允が記憶を頼りに書き留めたからです。土佐の坂本龍馬が同席して、薩摩と長州の証人となります。

この薩長連合が明治維新のポイントです。これができた瞬間に、明治維新は8割方は完成です。

いままで、薩摩と長州は敵と味方です。憎んでも憎みきれない相手が薩摩だ、と長州は言っているタテマエ上、公にはできない。幕府も知らないし、また薩摩も長州も殿様さえ知らない。
下級武士たちが勝手に密かにやる。ただお金の出所は、下級武士はお金を持たないはずなんだけれども、お金の出所がよく分からない。ただその周りにお金持ちのイギリス人がいる。これがグラバーです。

豪遊した高杉晋作でも、20代で京都の祇園というのは、私たちが遊べるところではない。銀座で遊んだら座っただけで5万円とか取られる。それを毎晩遊んでいるんですよ。
私が不思議なのは、お金です。そういうお金が20代であることが不思議でしょう。君たちは20代でそんなところで遊べるかな。座っただけで5万も10万も取られて、仲間を連れて行ったら100万ぐらい簡単に飛ぶんですよ。それを毎晩繰り返して、1000万、2000万の金がどこから来たのか、これが分からないんです。


坂本龍馬は、イギリス人グラバーから武器を買って、これを長州に輸送する。海援隊という船会社で。
なぜ長州がイギリスとつながったか。さっきも言ったように、その半年前の1865.7月、長州の伊藤博文と井上馨が長崎に出向いてグラバーと会い、薩摩に名義を借りて、小銃購入の契約をしています。伊藤博文の動きがあるわけです。イギリスとの窓口は伊藤博文になっているのです。でもイギリスとつながりがあっても、長州は武器の購入を禁止されている。だから薩摩の名義で買ってもらう。名前だけ借りる。

それを坂本龍馬が、長崎で銃を船に積んで、鹿児島に行くと見せかけて、長州に行く。これで決定です。お互い信用してないときに、敵に武器を渡すというのは絶対ありえないことです。武器を敵に渡した。そこまでしないと信用できないということです。


ただこれを坂本龍馬がすべて仲介したかどうかは分かりません。武器を売るか売らないか、決定権はイギリス商人のグラバーにあります。そうみると、坂本龍馬は、グラバーの指示通りに動いた運送会社の社長にすぎないとも言えます。グラバーは政治的判断から表に出たくないのです。坂本龍馬はグラバーの名代として、この薩長同盟の密約に立ち会ったのだと思われます。


薩摩と長州が手を組んだといっても、薩摩が長州といっしょに幕府軍と戦うというのではありません。しかし薩摩は長州に名義貸しをして、長州への武器の供給を手伝うと言っているのです。そのことの意味は、幕府を支えてきた薩摩が、ここではっきりと討幕へと舵を切ったということです。
そしてその背後には、イギリスの武器商人グラバーが、さらにその後ろにはイギリス公使パークスの存在があります。

その翌月の1866.2月には、長崎にいるイギリス人グラバーが、薩摩を訪問しています。
さらにその4ヶ月後、第二次長州戦争が勃発した直後の1866.6月、イギリス公使パークスが、グラバーとともに薩摩を訪問しています。

その途中の下関で、パークスは伊藤博文と会っています。
パークスは帰途、再度、下関に立ち寄っています。
イギリスは長州の伊藤博文を足がかりにして、薩摩に接近しているように見えます。
伊藤はこのころ、萩にはほとんど戻らず、下関を拠点に動き回っています。そして下関の芸者梅子と昵懇になり、妻のすみ子と離婚し、梅子と結婚しています。伊藤の女好きはかなり有名です。




【第二次長州戦争】 

薩長連合を知らない幕府です。でも長州の動きが、どうもおかしいと、そのくらいは気づきます。
薩長連合が成立した5ヶ月後の1866.6月に、幕府は、第二次長州戦争を起こします。第一次長州戦争では、長州を潰さなかった、やっぱり潰しておけばよかった、と。幕府が各藩に呼びかけて長州を攻めます。しかし肝心の薩摩は出兵を拒否するんです。
それはそうでしょう。誰も知らないところで薩摩と長州と手を組んでいるんだから。知らないのは幕府です。つまり情報力の差なんです。知っていたら、幕府はこんなことしてない。でもイギリスはそのことを知っています。同月その開戦直後に、さっき言ったように、イギリス公使パークスがグラバーをともなって、薩摩を訪問します。


その敗れゆく幕府方の総大将になったのか、小笠原長行(ながみち)という唐津藩の殿様格の人物です。唐津藩は譜代大名です。
戦ってみたら、幕府不利です。幕府軍は相手が、300年前の関ヶ原の火縄銃をしかもたないと思っている。そんな旧式の鉄砲とばかり思っていたら、最新鋭のイギリスの機関銃を撃ってくる。話と違う。これでは戦えない。幕府が負けそうになる。


【徳川家茂の死】 幕府が負けそうになると、こういうところでよく人が死ぬんです。第二次長州戦争の最中の1866.7月、将軍徳川家茂が急に死ぬ。ピンピンしていた人が急死する。それで幕府はこれを理由に、将軍が死んで、長州なんか相手にできるか、おまえなんか相手にしている場合じゃないんだ、と言って戦争を中止する。これウソです。ウソなんだけれども、これで戦争中止です。
しかし見ていた人は、ははー、幕府は負けたんだと、分かるわけです。幕府の権威失墜です。


【孝明天皇の死】 そして、将軍徳川家茂が死んだ半年後の1866.12月に、今度は孝明天皇が死ぬ。将軍が死んで、天皇が死ぬ、こんなことが、たった半年間で起こるのか。そんなことが起こった。そうか、と思う人は、それでいいけど、こんな偶然があるのかなと思うと、どこまでも不思議です。
やはり暗殺説があります。皇女和宮から見ると、自分の夫である将軍の徳川家茂が死に、その半年後には兄である孝明天皇が死ぬということになる。彼女に悲劇はここにあるわけです。彼女にはこれは決して偶然には見えなかったと思う。


【明治天皇即位】 この次の天皇が、孝明天皇の息子の明治天皇が即位しますが、この明治天皇の即位については、その詳細に触れた本を読んだことがありません。明治天皇の在位は1867年~1912年となっていますから、孝明天皇が死亡したのが1866.12月ですから、その翌年の1867年中には、新天皇として即位しているはずですが、その即位の経緯も、その後の明治維新政府の成立の動乱期も、この新天皇の動きは全く描かれていません。

このあと成立する明治新政府の国家元首になる人の動きがまったく描かれていないというのも不思議な話です。歴史というのは、勝った側の薩摩・長州の歴史観によって描かれていくものですが、その勝った側の代表である明治天皇の動きこそ克明に描かれるべきものなのに、それがまったく描かれていないということは一体どういうことなのでしょうか。よほど描きたくないことがあったのでしょう。
明治天皇が描かれるのは、即位から22年後の1889年に大日本帝国憲法が発布されるときの式典の描写として描かれるだけです。明治天皇の人物像はよく分かりません。

もう一つ言うと岩倉具視です。孝明天皇暗殺説にからむのは。NHKの大河ドラマの配役で、岩倉具視をお笑いタレントの笑福亭鶴瓶にしたらダメよ。あれほどイメージの違う配役はない。岩倉具視はあの手の人物じゃないです。うかつにつきあっていたら殺されてしまう。あれは怖い人間です。

1867.4月、土佐の岩崎弥太郎が長崎に着任し、グラバーと会います。岩崎はのち三菱財閥をつくります。三菱財閥は、船会社から始まります。今でもある日本郵船です。


【15代将軍徳川慶喜】 幕府は、あと小指でちょっと押せば倒れそうです。こういう時、1867.1月に15代将軍になったのが徳川慶喜です。この人は幕府を潰した将軍として有名なんだけれども、このときには、将軍になって威張ろうなんか、小指ほども考えてない。ふつう自分の利害を考えたら、こんな時に将軍にならないです。借金1億円かかえて今にも倒産しそうな会社の社長にしてやるぞ、と言われて、社長になるか。ならないでしょう。

幕府はいよいよ滅亡に向かうんだけれども、新しい将軍の徳川慶喜は、政治的には、幕府が滅ぶことと、徳川が滅ぶことは違うということに気づいたんです。どういうことか。幕府は滅んでいいけれども、家臣団を何万人と抱えてる徳川家はつぶれてもらったら困る。これが1867年10月14日の大政奉還です。これで幕府はつぶれても徳川は生き残れる・・・はずだった。


【坂本龍馬の船中八策】 この大政奉還をはじめて考えた人というのは、坂本龍馬になっている。船の中で考えたから、船中八策といって。大政奉還の4ヶ月前の1867年6月のことです。


昔ある人が、坂本龍馬は、薩長連合を仲介して幕府を潰そうとしたのに、なぜ急に幕府の延命策を考えるのか、それはおかしくないか、と言っていました。不覚にも私は、それまでその矛盾に気づきませんでした。確かにそうです。
坂本龍馬が明治維新を目の前にして殺されたことを考えると、ますますその疑問は大きくなるばかりです。坂本龍馬は、一度グラバーの手引きで密航していたのではないかと言われますが、彼はそこで何を見たのでしょうか。
彼は薩長連合に立ち会いながらも、途中で考え方を変えたようです。彼が暗殺されたのは、そのことと関係しているようです。彼が、グラバーの後ろに何があるか、それを見ていたかどうか、それは分かりません。

佐賀の大隈重信と副島種臣も、坂本龍馬の船中八策の3ヶ月前の1867.3月、佐賀藩どころじゃないということで、脱藩して京都にいって、何を唱えたか。やっぱり大政奉還です。
しかしここは政治力の差です。この二人の大政奉還はカットされた。それどころか、佐賀に強制送還される。何をしているんだ、早く帰ってこないか、と。
しかし坂本龍馬の大政奉還はつながる。土佐の殿様の山内豊信から将軍徳川慶喜へと伝えられる。これは幕府が自分からつぶれる、ということです。最後の将軍の徳川慶喜が、頭が悪かったら理解できないはずです。幕府はつぶれたほうがいいですよ、と言われて徳川慶喜は、ウーンそれしかないな、と思った。それで自分から潰れる。頭の回転が速くなければできないことです。


【討幕の密勅】 しかし1867.10.14日には幕府をつぶそう、という討幕の密勅が出る。密勅の勅というのは、天皇の命令です。秘密の命令です。幕府はまだあるから。これにも、これ本当かという話もある。また岩倉具視が、偽文書をつくったんじゃないか、という話があります。

このときの天皇は新帝である若い明治天皇です。偽文書かどうかは不問にされます。勝手に自分の名前で討幕命令を出された明治天皇のことは何も触れられていません。ふつうは天皇である自分に無断で、天皇の命令を勝手につくられたら腹を立てると思うのですが。明治新政府で神格化までされる明治天皇ですが、その明治天皇の動きが一番わかりません。




【大政奉還】 

これを受けて、というか事前に察知して、同日の1867.10.14日、徳川慶喜が大政奉還を行う。政権を朝廷にお返しします、幕府はここで滅びます、ということです。これは政治的な論理として、敵は「討幕」で幕府を討つんでしょ。でも幕府がつぶれたら、もう討つ相手がいないわけです。あくまでもつぶすのは幕府でしょ。討幕だから。でも幕府はここでなくなったんです。理屈上は。これ手品じゃないですよ。論理が通っています。
ただ江戸城はあるし、徳川はある。しかしそれは幕府ではない。だから政治的に討てない。意味分かるかな。
もう一度説明すると、幕府はある。幕府の実権は徳川にあるんです。幕府というのは将軍がトップです。その将軍の上に天皇がいる。そしたら徳川は、天皇からもらった征夷大将軍を返上するんです。征夷大将軍を返上したら、幕府はその瞬間になくなるでしょう。すると、なくなった幕府は討てないでしょ。こうやって結局、徳川が行き残る。
こういう、ややこしいじゃなくて、これはかなり高度な政治的戦略ですよ。小学生には、こういうクドクドとした説明をしようとは思わない。いくら言っても小学生が理解する限界を越えているから。しかし、高校生なら理解できるんです。ここで徳川は自ら、政権を朝廷に返上する。これが大政奉還です。幕府は自らすすんで滅びる。
江戸幕府の消滅は、ここです。1867年です。約270年続いた江戸幕府の消滅はここです。大政奉還です。
討幕をかわした徳川家は、将軍家ではなくて、最大の大名として生き残り、力を全国に及ぼそうとする。何だ、今までと変わらないじゃないか、ということです。

ここから論理の第2回戦が始まります。でも、それじゃダメだというのが、西郷隆盛とか大久保利通なんです。ここはどうしても、徳川につぶれてもらわないといけない。



【王政復古】 

2ヶ月経って1867.12.9日に、朝廷は、王政復古を行う。政権は天皇にもどった。しかし、天皇は千年近く政治をやったことないから、何も組織がないわけです。まずとりあえず総裁議定参与という三職を設ける。
上から順番に。総裁が天皇の親戚で一番偉いようだけれども、それは名目上のことで、実権は参与の下級武士たちです。
薩摩が入っている。長州が入ってる。そして天皇中心の政治を行います。これで終わります、みなさまお疲れ様でした。さあそのまま隣の部屋へどうぞ。ここからが本番です。


【小御所会議】 夜10時過ぎから。酒飲ましてさあどうぞ。酔いが回ったところで、その場所が、大広間の隣の小御所というところです。小御所会議です。これも京都御所の中です。
半分、酒を飲ませて酔っ払わせながら、西郷隆盛はこの席には上がらずに、軍隊率いて、全部京都御所を取り囲んでいる。どういうことですか。脅しです。文句あるか、と。武力を使ってでも徳川を潰すつもりです。


すでに将軍ではない徳川慶喜に対して、細かいことをいうと、彼は将軍職ではなくて、すでに内大臣という天皇の家来になっていた。これを認めない。官職を辞退させる。辞官です。
それからもっとも大事なことは、徳川の領地400万石、この領地を天皇に返上させる、ということです。納地です。
これでは、徳川はメシ食っていけない。こういうことが小御所会議で決定された。これが最終決定です。辞官・納地の決定です。

徳川慶喜は、これには腹を立てた。これには腹を立てたんだけれども、このとき京都にいた。すぐ大坂に行って、そして考える。天下分け目の戦いの再来をするのか、負けを認めるのか。1867年も差し迫った12月のことです。
これで終わります。

授業でいえない日本史 28話 近代 明治政府の成立~士族の反乱

2020-08-26 15:00:00 | 旧日本史4 近代
【明治政府の成立】
【鳥羽・伏見の戦い】
 ここから明治維新です。小御所会議が1867年12月9日です。大晦日むかえて年が明け、1868年1月3日、幕府軍と薩長軍が京都を主戦場に戦った。幕府軍は二手に分かれていたため、京都の鳥羽と伏見が戦場になる。これが鳥羽・伏見の戦いです。ここで決着はつかなかったけれども、薩長軍が優勢です。この薩長軍の総大将は西郷隆盛です。
徳川慶喜は徹底抗戦せずに、京都ではいったん軍を引いて、船で江戸にさっと帰ります。
ここで注意すべきは、世界史上、他の国では内乱が起こって負けそうになると、外国勢の応援を頼むんです。しかしこれは勝っても負けても、命取りなんです。これを幕府側はしない。同じように薩長軍もイギリスに援助を頼まない。
奇特なイギリス人が個人的に、何人か参加したことはあるけど、これをもって何万人のイギリス軍が、またはフランス軍が入ってきたということはない。そういう応援を頼まない。ここらへんは目立たないけれど、決定的に違うところです。他のアジア諸国とは。
でもだからといって、このあとの日本の政治にまったくイギリスの影響がなかったかというと、それはよく見ていくしかありません。

明治になってるから、薩長軍が政府軍です。幕府軍はないから賊軍という形になる。天皇をいただいているのは、薩長側です。こういうのを錦の御旗といって、象徴な意味をもつんです。
この時の天皇は孝明天皇の死を受けて即位した若い明治天皇なんですけど、いつの間にか明治天皇は、薩長側だということになっているんです。この段階で、明治天皇の姿は全く歴史に現れません。その前の孝明天皇は、開国には反対であった。その息子の明治天皇はどうなのか。そのことはまったく分かりません。ただここでは、明治天皇は、薩長軍を新政府軍だとする錦の御旗になっているということです。

このことと関連して語られるのは、明治政府が、日本の歴史問題で、それまで否定されていた南北朝期の南朝を正統だとしたことです。日本の天皇家は、北朝であったにもかかわらずです。


【諸藩の動き】 1868.1月、伊藤博文は下関から、イギリスの軍艦で神戸に向かい、神戸にいたイギリス公使のパークスと会っています。なぜ伊藤だけがイギリスの軍艦に乗れるのか、よく分かりません。自分の仕事の都合で移動するときに、外国の軍艦に乗って移動する人はまずいないでしょう。伊藤は新政府の人事でも大抜擢で参議になり、兵庫県知事になります。わずか26才です。

幕末の志士といわれる人たちは確かに若いのですが、そのほとんどは1830年代生まれです。西郷隆盛などは若いといっても1827年生まれです。その中で伊藤博文は1841年生まれで、飛び抜けて若いのです。そしてこの最も若い伊藤博文が、早くもこの6年後には、実質的な政府のトップの座につきます。内閣総理大臣の座はまだありませんが、それができるまでの実質的な日本政府のトップの座は、内務省の長官の内務卿です。伊藤博文は早くも明治維新から6年後の1874年に、その内務卿の座につきます。1885年の初代内閣総理大臣も伊藤博文です。その後も伊藤は合計4回総理大臣の座につきます。
農民として生まれ、足軽となり、それから内閣総理大臣にまで登りつめた伊藤博文の出世のスピードは幕末の混乱期でさえ異例の早さです。このあとも伊藤博文とイギリスとのつながりは、しばらくは見え隠れします。

佐賀藩は、鳥羽・伏見の戦いが起こると、オレも行かなければ、となる。それまではずっと動くな、だったんです。それまで積極的に討幕派に加わることはしなかった藩です。
ただ新政府から味方となって戦うよう要請が来る。アームストロング砲を持っているから。普通は1キロしか飛ばないのに、これだけが2キロも3キロも飛ぶ。このアームストロング砲はこのあとの戊辰戦争で活躍します。
江藤新平も、まっ先に伊万里港から出発する。そして、京都について薩長軍に加わる。江藤新平は何をしたか。おまえ、乞食のかっこうできるか、ハイやります、という。東海道を乞食のかっこうでずっと歩いて行け、と言われる。これは何ですか。隠密です。情報収集です。的確な情報を探っていく。
軍隊というのは、この時代まで、1000人で出発して、江戸に1000人でついたら失敗です。1000人で出発した兵隊は、1万人になっていないといけない。周りからどんどん人を集めてこないといけない。それができるかどうかです。そういうことを江藤新平はやっている。

大隈重信も、このときに新政府の役人となり、ひきつづき長崎勤務となります。その年1868.5月に、長崎で浦上信徒弾圧事件が起こります。これは長崎の隠れキリシタンが名乗りを上げたため、新政府に捕まえられて投獄された事件です。これにイギリス公使のパークスが猛烈な抗議を行います。大隈はそれへの対応のため長崎から京都に向かい、パークスと渡り合います。
大隈はこう言います。「宗教上の対立でどれだけの人が苦しみ、どれだけ多くの血が流れるか、その悲惨さを一番知っているのはキリスト教徒であるあなたたちではないか。ここでキリスト教を認めたら日本の宗教上の混乱は甚大なものになる」。大隈はヨーロッパの宗教戦争のことを言ったのです。
パークスは下役人だと思っていた大隈の見識の深さに驚き、引き下がったと言います。「佐賀に大隈あり」、これが実質的な大隈重信の政治デビューになります。それ以降大隈は中央政府で活躍することになります。ここにも長崎つながりで、新しい政治家が登場します。伊藤博文も長崎との関係の深い人でした。

長崎つながりの意味は、イギリスつながりだと言うことです。のちのことですが、大隈重信は立憲改進党の党首になります。その立憲改進党は、イギリス流の立憲政治を目指します。今の日本の議院内閣制も、イギリスの議院内閣制を取り入れたものです。しかし大隈がそれまで長崎でフルベッキから学んでいたのは、アメリカ憲法なのです。大隈はここでイギリス公使パークスとのつながりができるわけです。このパークスはこのあと異例の長さで1883年まで日本の公使を務めますが、その後のパークスの動きはほとんど触れられることがありません。伊藤や大隈との接触はなくなったのか。そんなことはありえない、と私は思います。
例えば、伊藤博文の首相時代、のちの「鹿鳴館時代」のことですが、その最も華麗な舞踏会のひとつとして知られる1887年4月20日の仮装舞踏会「ファンシー・ボール」があります。この舞踏会は、実は鹿鳴館ではなく首相官邸で行われます。伊藤博文首相・梅子夫人の主催ということで開かれたこの舞踏会は、実際には時のイギリス公使夫妻が主催したもので、伊藤は好意で官邸を会場に貸し出しています。この舞踏会は、当時の国粋主義者たちから「亡国の兆し」と口を極めて罵られることになりますが、伊藤はそれにもかかわらず、イギリス公使の申し出を断り切れなかったのです。 

イギリス人グラバーのグラバー商会は、長崎に来ていた土佐の岩崎弥太郎に引き継がれ、のちの三菱財閥になります。大隈の資金源はこの三菱なのです。これも長崎つながりです。
のちの伊藤博文内閣の外相を務める陸奥宗光も坂本龍馬の海援隊のメンバーです。坂本龍馬が重要ではなく、幕末の長崎で活動していたということが重要なのです。そのような人々のつながりがイギリスを中心にして維持されていきます。


【五箇条の誓文】 江戸に着くには3ヶ月かかる。その3ヶ月で、江戸に着くまえに、薩長軍ははやばやと、1868年3月五箇条の誓文を出す。これもむかしは御誓文と御をつけていたけれども、御はつけるなとなって、五箇条の誓文となりました、こういう政治をやるとか、みんなで話し合いをするとか、五箇条の方針を発表する。
ただこれは国民は知りません。まだ国民というのはいないけど、国民には別に立て札を立てる。これを五榜の掲示という。政権は変わったけれども、江戸時代と何も変わらないぞ、という通知をしている。キリスト教も禁止のままです。


【無血開城】 新政府軍は江戸に着きました。戦うかどうか、徳川慶喜の判断のしどころです。結論は戦わなかった。これを美談として無血開城という。1868年4月です。これがもし戦っていたら、必ずイギリスが来る。フランスが来る。
幕府は、戦わずになぜ負けを認めたか。この狙いは外国の介入を防ぐことです。そういう判断をしたのは、薩長じゃない。幕府将軍の徳川慶喜です。徳川慶喜が意図していたのは外国軍とくにイギリス軍の介入を防ぐことでした。ということは徳川慶喜が本当の敵とみていたのは薩摩・長州軍ではなく、イギリス軍だったとも言えるわけです。
幕府軍は決して徳川だけが孤立していたわけではありません。すぐ後で言うように東北諸藩は徳川方として薩摩・長州軍と戦います。この戦いには約1年かかります。この東北諸藩に徳川方の軍勢が加わっていれば、戊辰戦争はどっちが勝ったか分かりません。しかしどっちが勝つにしろ、壮絶な戦いとなり両軍とも甚大な被害を被ることは間違いありません。
そうなったときに、どこが出てくるか。イギリスの動きはそこを狙っているようにも見えます。敵同士を戦わせて、相手が弱ったところを叩く。この論理はこのあと起こる日露戦争でも見られることです。徳川慶喜の目は利いています。明治維新で誰がいちばん遠くを見ていたか。

いざ江戸に近づいて、総攻撃だというその直前に、勝海舟西郷隆盛の会談がある。どこまで本当なのか分からないけれども、これが非常に美談に語られて、ドラマ上では一つの明治維新の見せ所になっている。
幕府方の勝海舟が言った条件というのは、将軍を殺したんじゃ、俺のメンツはたたない。主君を殺させておいて、家臣であるオレがそのままノウノウと生きていられるわけがない、それだけはやめてくれ、というんです。
西郷隆盛は、イヤ将軍がいてもらっては困る、と言う。しかし、そこまで言うのだったら、命は助けましょう。

でもホンネは、ここで戦えば、他の外国の例では、必ず外国軍の介入を受けるんです。そういう単純な美談じゃないだろう、と思う。結局これをどうやって防ぐか、というところまで見ていたかどうか、の問題だろうと思います。将軍徳川慶喜の助命によって無血開城が実現されたのではなく、無血開城の理由として将軍徳川慶喜の助命が上げられたということだと思います。徳川慶喜はこのあと、政治の表舞台に立つことなく、ひっそりと明治を生きます。

そういう意味では、日本を狙っているイギリスにとって、江戸城総攻撃をしなかった徳川慶喜は、手強い相手です。西郷隆盛が江戸城を総攻撃して、それに対して旧幕府軍が徹底的に抵抗すれば、勝負は簡単にはつかない。その時にイギリスが薩長の新政府軍を応援すれば、膠着していた戦いを薩長軍の優位に導くことができる。そうなったとき、薩長軍はイギリスに対して頭が上がらなくなるわけです。イギリスは日本を思うように操ることができる。

西郷隆盛は、徳川慶喜が恭順の意を示している以上、江戸城総攻撃をできなかった。平和的な江戸城受け渡しになったわけです。イギリスにとって徳川慶喜は目障りな人物だったのではないでしょうか。おまえがいなければ、と。
このあと、存続を認められた徳川家は、駿府つまり静岡に移って、廃藩置県で藩がなくなるまでは、大名として存続します。


【蝦夷共和国】 ただ、戦わずに幕府がつぶれることを潔しとしない幕臣たちは、東京から旧幕府の軍艦をかっさらって、オレは日本とは別の独立国を作るんだと言って、北海道の五稜郭に立てこもって蝦夷共和国という別の国をつくる。これが榎本武揚です。戊辰戦争の最終決戦は、この函館の五稜郭の戦いです。

またその蝦夷共和国を、イギリス、フランス、アメリカは喜んで承認する。ここらへんに、イギリス、アメリカ、フランスのホンネが透けて見えるんです。日本が割れて欲しいわけです。
だから大国が承認したこの蝦夷共和国は、われわれ日本人には有名じゃないのに、世界史的には独立国が成立してます。1年間ですけど。我々は知らないけど、イギリスなどの大国が承認するんです。

これも尾ひれがついて、1年後の1869.5.18日に降伏する寸前に、榎本武揚は一冊の外国の本を持ってきて、オレは殺されてもいいから、この本は日本で一冊しかないからと言って、敵軍の大将の黒田清隆に、あなたが預かってくれ、という。燃やすな、と言う。それを聞いて、黒田清隆・・・・・・この人はのちに総理大臣になる薩摩の人間なんですけど・・・・・・こいつは殺したらいけない人間だ、と思って、オレの下で働けといって、北海道の役人として使っていった。これもたぶん美談ですね。榎本武揚は、明治維新を生き残ります。


【会津戦争】 結局、この江戸城総攻撃は中止された。しかし、これだけの藩、東北の藩は、薩長とは手を組まない。戦うぞという藩が、これだけあるんです。これらの藩との戦いが始まります。これを戊辰戦争といいます。
東北諸藩はほぼ反薩摩、反長州です。その中心がどこかというと、薩摩と一番仲がよかった会津です。会津藩の中心は会津ですが、会津は明治維新で県庁所在地にならなかった。敵の中心だったから。会津には最近まで大学もなかった。ここで最大の激戦になった会津戦争が戦われます。
その会津を中心に東北諸藩が組んだ同盟がある。奥州、羽州、越後をあわせて、奥羽越列藩同盟という。



この戦いで、藩は総動員で、君たちのような高校生も、白虎隊というのを組織して、後方攪乱しろと言われる。しかし、夜が明けてみたら、まだ未熟な若者たちは早とちりして、お城が炎上しているように見えて、、お互いに腹刺し違えて死んでいった、という悲劇の白虎隊の話がある。
なぜこんな話が、伝わるかというと、腹刺し違えてたまたま1人生き残ったらしい。その人は、生き残って恥じているわけです。生きながらえて、嫁さんにも子供にも何も言わなかったけれども、死ぬ間際に、実はな、と語って、これが分かったのはだいぶ後のことです。そういう明治維新の裏側を生きた人たちも、東北にはいっぱいいます。


【五稜郭の戦い】 明治維新は、基本的に西日本の、薩長の西日本の勝利だから、東北人は冷や飯食いです。最後は、榎本武揚が独立国をつくっている五稜郭の戦いです。お城があります。五角形の五稜郭というお城です。変な城で、日本風のお城じゃない。幕末にオランダ式のお城を、幕府がここにつくっていた。しかしここで負けた。このとき1869年です。1年ちょっとかかっている。

ここで戊辰戦争は終わるんだけれども、われわれ勘違いしているのは、新政府の軍隊だから当然、東京に帰るはずと思うんですけれども、そんな新政府はまだありはしないのです。
では、どこに帰るかというと、薩摩の人間は薩摩に帰る。薩摩の兵隊が、新政府軍として戦っただけで、長州の兵隊たちも、東北まで転戦して、あと帰るのは長州です。土佐も肥前もそうです。
しかし負傷して帰ってくる。藩に戻ってきたら、まだ江戸時代のままです。変わったの表面上だけです。

まず一世一元の制をここでとり、天皇は終身制となります。この終身制を廃止したのは何天皇ですか。これが前の平成天皇です。

1868.10月には江戸城が皇居となります。京都御所にいた明治天皇は江戸城に入り、江戸が東京と改められます。さらに翌年の1869年の3月に、首都を東京に移す。東京遷都です。遷都というのは都を移すことです。東京とは東の京という意味です。京都がそれまでは首都だったからです。




【中央集権体制】
【版籍奉還】
 こういうふうに戊辰戦争は終わっても、実体は江戸時代のまま、これを全国一つの国にするためには、2つ手を打ちます。1869年です。戊辰戦争が終わってすぐです。
1番目、版籍奉還という。奉還というは、みずから進んでお返しすることです。何をか。版籍というのは藩です。まだ藩があります。版は土地を意味する。籍は人を意味する。
明治維新を成し遂げた四つの藩は、誰の目にもあきらかです。俗に薩長土肥という。薩摩、長州、土佐、肥前を、まとめてこういうふうに言います。彼ら4藩主が自分から進んで、土地と人を全部、天皇にお返ししますと言ったんです。でも本当は自分から言うはずないんですね。
それぞれ、新政府に加わった家来たちが、殿様に、こうしてください、と頭を下げて、悪いようにはしませんから、と説得して実行するわけです。ここでは確かに、悪いようにはしません。しかし2年後には藩そのものを潰していく。
悪いようにはしませんから、名前だけというんです。藩主は、そのままでいいです。ただ名前を、知藩事に変えてくれたらいい、という。政治はまずこうです。名前からです。
しかし、これは従来と決定的に違う。知藩事になった瞬間に、藩主は新政府から任命されるものになるんです。天皇から任命されることを認めたということです。

おまけに、土地と人は天皇に返している。あとは天皇の考え次第でどうにでもなる。おまえこっちに転勤とか、天皇の名前でできる。実質的にそれを考えているのは新政府の役人です。

表面的には何も変わらない。藩の軍事権もある。侍もいる。侍は軍隊です。そのままです。藩の徴税権もある。農民は相変わらず藩に年貢を納める。そのままです。この段階では、何も変わらない。しかし意味が変わっています。


【廃藩置県】 2番目はその2年後1871年廃藩置県をやる。藩をなくして、県を置く。これが本番です。県とは何か。詳しく言わないところがミソですね。ただその意味を知ると、これは必ず反乱が起こるということで、反乱にそなえて、まず東京に1万人の兵隊を集める。薩摩と長州から。土佐、肥前は半分はずされ気味です。
中心は大久保利通です。ここらへんから。西郷隆盛ではない。西郷は、そこまでやるつもりはないです。薩長連合に二の足を踏んでいた西郷の予感はあたったようです。西郷は、明治政府のやり方に疑問を感じ始めたようです。1868年の五箇条の誓文には、「広く会議をおこし」という言葉がありますが、それは原案では「列侯会議をおこし」となっていて、この段階では藩をつぶすことは考えていなかったことが分かります。列侯とは大名のことですから。
なぜこれが急に藩の取りつぶしに変わったのか。イギリスとつながりの深い伊藤博文は早くからこれを主張していました。

藩を取りつぶし、お殿様も地方を引き払う。藩の権利を没収して、大名は東京に引っ越させる。こんなことをしたら当然、藩の大反乱が起きると思っていたら、なぜかなかった。
それは、藩の借金を新政府が、全部引き受けるというその条件です。藩は戊辰戦争を戦い、勇壮な若者たちが、これから働いてもらう人たちが、手を失ったり、足を負傷して働けない。そして給料だけは払わないといけない。だから藩の財政は火の車なんです。大名たちも頭を抱えています。それで、従うしかないとなる。

ここで藩が消滅したということは、それまで持ってた藩がもっていた軍事権、つまり侍の特権が消滅ということです。
農民はそれまで藩に年貢を納めていた。その藩が年貢をもらう徴税権も、ここで消滅です。本当に藩がつぶれた。
そしてお殿様は、東京に引っ越しです。
ではお殿様の代わりに、誰かがやって来るかというと、若い中央官僚が来る。大久保とか木戸とかのもっと下の役人です。これが県知事になる。ただまだ県知事とは言わない。県に命令する人、県令といいます。これがいまの県知事です。

武士にとっては、さあ大変です。お城には、お殿様がいると思っていたら、もういなくなった。そしてどこの馬の骨かわからんような、20代30代の若い、ハイカラ頭で背広を着た人がやってきて、私が今から命令します、と言う。これが全国にわたって一斉に行われた。でもここでは血が流れないです。こうやって日本は一気に中央集権化に成功したのです。

これで武士が消滅したのです。武士たちのうち新政府や地方政府の役人として召し抱えられたのは一部に過ぎず、多くの武士は主君を失って失業し、路頭に迷います。明治維新が世界の中でも他に例を見ないのはこの点です。
戦いで勝った者はふつうは次の政権を担います。戊辰戦争を戦ったのは、地方武士たちなのです。この武士たちが次の新しい政府を担うのかというと、まったく逆に武士はつぶれて消滅していきます。この点は西南雄藩といわれる、薩摩・長州・土佐・肥前も変わりません。戊辰戦争を戦って勝った武士が、日本からいなくなるのです。

戦ったあとには必ず利益が発生します。ではこの利益は誰がもらったのか。それがよく分からないのです。では利益がなかったのかというとそんなことはありません。利益をもらったものは必ずどこかにいます。でもそれが分かりません。
武士がつぶれて農民が利益を得たわけでもありません。あとでいうように、農民の年貢が軽くなることはありません。奇兵隊に応募した長州の農民兵はこのあと捨てられます。抵抗すれば処罰されました。

少なくとも明治維新で利益を得たのは武士でも農民でもありません。職を失った武士たちの多くは、多くの不満を抱えながら、役人になるか、軍人になるかの道を選びます。特に軍人には政府への不満が残ります。
明治維新にシコリが残らなかったというのはウソで、多くのシコリが残ります。そしてそれは明治以降へ持ち越されます。

もともと明治維新というのはペリーによる開国要求から始まりました。西洋列強は、自分たちの要求通りに貿易してくれる政府を日本を求めたのです。さらに自分たちの要求通りに動いてくれる政府を日本に求めたのです。これを防ごうとするところから幕末の動乱は始まりました。結果はどうだったのでしょうか。

明治維新によって、藩のなかでの売り買いに限られていた市場が、全国市場化していきます。地方の物だって、大坂で売っていいし、東京で売っていい。こういう市場があって、誰にでもその才能によって、売ることができる。こういうことが資本主義の土台です。
こういう大変困難な時に、血が流れないということは、非常に効率がいい。これが正しいとすればですけど。
そして県知事が登場する。この県知事、今と違って選挙なしです。中央の役人が転勤族として来ます。

反乱が起こらなかったもう一つの理由があります。藩がつぶれたら、武士も消滅することは今述べました。では武士の給料はどうなるか。仕事もないのに給料だけは払う、としたんです。この給料を家禄という。しかしこんなことは、ふつう考えて、ありえないです。仕事もないのに給料だけもらえるというのは。これはウソというか、方便なんです。3年後にはやはり給料を打ち切ります。

だから明治維新の本当の革命は、この1871年でしょうね。武士がつぶれ、藩がつぶれたからです。これで新政府に対抗する勢力は無くなりました。それが大事です。明治維新の1868年ではなくて、廃藩置県1871年が意味的には大事です。
本当はここで、他の国だったら血が流れるんだろうけれども、日本の場合には血が流れない。何が起こったのかよく分からないまま、静かに行われる。ヨーロッパだったら、これだけのことをやるには革命がおこります。それが日本の場合には非常に静かに行われた。うっかりすると見落としてしまいます。

もう一つ不思議なことは、イギリスの動きが新政府が成立した途端に分からなくなることです。幕末であれだけ薩摩と長州に影響を与えたイギリスが、下級武士による政府が成立した途端に介入をやめるとは考えられません。ただこれから十数年間は動きがわからなくなりますが、それは終わったのではなく、1890年代になると日本とイギリスとのつながりははっきりとした形を取って現れてきます。それが日清戦争直前の1894年に結ばれた日英通商航海条約であり、もう一つは日露戦争前の1902年に結ばれた日英同盟です。


【藩閥政府】 その結果、日本をリードするのは藩閥政府になる。この藩閥政府によって、日本全国が動かされる。薩摩、長州に、土佐、肥前を加えて、これを藩閥政府といいます。しかし8割がたは薩摩長州です。土佐、肥前はほとんど出てこない。
あとは、地方で新政府に対する反乱が起きて、鎮圧されることになる。




【欧米視察】 
ただ不思議なことに、さあ今から本格的に改革していこう、という時に、このあと何していいのか分からなくなって、政府の中心人物たちは、オレたち欧米を見に行く、と言う。
1871.10月から欧米視察に行くんです。約2年間も。一国の政府のトップがこぞって国を離れ、総勢107名という大人数で、2年間という長期間外遊する。これは極めて異例なことで、不自然なことです。
ヨーロッパでの主な訪問先は、やはりイギリスです。このイギリスと日本との外交関係はこのあとも見え隠れします。30年後の1902年には、日英同盟も結ばれます。ペリーの来航以降、日本の外交を引っ張ってきたのは、アメリカではなく、このイギリスです。この時の世界ナンバーワン国家はイギリスです。

ちなみに、イギリスの日本での拠点であるイギリス大使館は、この翌年の1872年5月、約1万坪の広大な土地を、法外に安い値段でイギリスが借り受けたものです。江戸城のすぐ西、今の皇居のお堀(半蔵濠)のすぐ西に隣接した土地です。他の大使館に比べて、その広さは驚くほどです。まるで皇居を見張るっているかのようにイギリス大使館があります。所在地は東京都千代田区一番町一です。

(皇居の隣のイギリス大使館)


その使節団に参加しなかったのが、西郷隆盛です。江藤新平もいかない。おまえたちに任せておく、という。これを留守政府という。ただ2年間も留守して、この激動の時代に何もしないことは無理なんですね。
次から次に、手を打たないといけない。すると意見が対立する。欧米視察組は完全に、ヨーロッパに魅了されて、うわーすごいんだというヨーロッパ一辺倒で帰ってくる。
その中心は大久保利通です。伊藤博文もついていきます。それに対して、オレは行かない、イヤだと言うのが、西郷隆盛です。彼と行動をともにした佐賀の江藤新平がいる。
特命全権大使は岩倉具視(46才)で、副使は、大久保利通(41才)、伊藤博文(30才)、木戸孝允(38才)、山口尚芳(32才)の4人。大久保利通よりも11才も年下の伊藤博文が、大久保と同格の副使として加わっている。これは異例の大抜擢です。伊藤博文はなぜこんな力をもつことができたのでしょうか。


【伊藤博文の動き】 さっきも少し言いましたが、伊藤博文は明治維新幕開けの1868.1月、まず神戸にいたイギリス公使のパークスに会っています。そしてパークスが外国公使に新政府が誕生したことを知らせるべきだ、というと、それを新政府に伝え、それを実現させています。翌年1869年には会計官(大蔵省の前身)となり鉄道建設に取り組もうとするが、その資金は外資に頼るしかなく、そこでもイギリス公使パークスの助力を得ています。
先にも言いましたが、このイギリス公使パークスは・・・・・・外国の公使はふつう4~5年で交代するものですが・・・・・・1865年から1883年まで、18年間という異例の長さで日本の公使を務めています。しかも皇居から目と鼻の先にイギリス公使館は広大な敷地を構えています。パークスは、皇居のお堀の横からじっと日本政府の動きを見ているわけです。

また伊藤は、欧米視察団が派遣される直前の1870.11月から1871.5月まで財務会計の調査のために自ら願い出て、アメリカに派遣されています。伊藤にとっては2回目の海外渡航です。2回目ということよりも、自ら願い出たら、政府がそれを認めるという伊藤の立場に尋常ならざるものを感じます。
そしてその年1871年10月からの欧米視察団の副使として、3度目の海外渡航に出向きます。これも実は伊藤博文の建議によって具体化したものです。
約100人の視察団を2年間にもわたって、世話ができる日本人がいたのでしょうか。言葉も通じず、電話もない時代に、どうやって100名もの日本人の、移動の手配や、宿泊先の手配、見学や研修の手配をできる日本人がいたのでしょうか。これは外国人が手はずを整えてくれなければ、できないことではないでしょうか。
それにしてもなぜ伊藤だけがこんなに多く海外渡航できるのでしょうか。伊藤の動きには分からないことが多いのです。


【四民平等】 では政治じゃなくて、庶民がどう変わっていたかというと、今まで武士身分、農民身分に分かれていたけれども、京都の貴族は華族、それから旧武士は士族、それ以外の農工商は平民に変わる。ある学校の、明治30年代の学籍簿を見たとき、出身身分が書いてありました。士族出身とか、書いてあるんです。
あと平民の名字、ここから名字が出てくる。これはそれ以前の戸籍がないから、確かめようがないけど、農民もすでにそれ以前から名字をもっていた、という考えがいまは強い。
ただ、戸籍がはじめてできるから、名前を太郎だけではなくて、山田太郎とか、名字を正式にここでつけた。
それから引っ越してもいいぞ、それまでは勝手に藩の外に出て行くと、打ち首だった。そういう転居の自由も認められた。


【文明開化】 ヨーロッパ思想をいろんな人たちが広めるけれども、一番よく広めたのは、1万円札の福沢諭吉ですね。この人は、九州の人です。大分です。しかも大分の小藩です。小さな藩の下級武士です。ベストセラーになった「学問のすゝめ」を書く。学問に身分はない。しかし、それで平等を説いたかというと、よく読んだら、人の上に人をつくらす、人の下に人をつくらず、の3行あとに、努力によって差は出ますよと、ピシャッと書いている。努力によって、人間には差がつく。だから学問をしなければならない。あまりにも、天は人の上に人をつくらず、というあのフレーズが有名すぎて1人歩きしてる部分がありますけど、きちっと厳しいことは言っている。

それから、その学問、学制、学校制度です。ヨーロッパは大学から行く。お金持ちの教育です。でも日本は違う。小学校からつくっていく。日本の小学校の優秀さは、この20~30年あとから約100年間、世界ナンバーワンだったけれど、たぶん20年ぐらい前からそうではなくなった。その代わり、ゆとりとか個性とか自由化とかが出てきています。

最初は、小学校の就学率は低い。子供が勉強しなければならない時代じゃない。8割方の日本人は農家ですから。うちの親父が言ってましたが、小学校から帰ってきたら、農作業の手伝いをさせられるわけです。今のように蛇口ひとつで、田んぼに水は入らない。踏み車といって、田んぼに突き刺すように立てて、それに乗って踏み車をずっと回していく。人間の足で。大人だったら、あまり重すぎるけど、小学生だったらちょうどいい。小学3、4年ぐらいの体重が一番ベストという。もう延々と、2時に帰ってきて7時まで、5時間ずっと、これを延々と回していました。田植えの時にはこれをしなければならなかった、と。
だから親は小学校になんかやりたくないわけですよ。しかも最初は無償ではない。義務教育じゃないから、働き手を取られたうえに、金を払って学ばせないといけない。だから最初は就学率は低い。しかし20~30年でポーンと上がっていく。特に男子は。

それから、月暦を改めて、今の太陽暦に代わる。これが明治6年です。

それから日本の仏教のこと。仏教は外来宗教だからダメだ。そんなバカな、というかも知れないけれども、伝統的な仏教を否定する。日本の古来の宗教は何か。神社です。お寺は仏教です。神道を国教化するといって、神仏分離令を出す。
今はあまりないけれども、お寺の中に神社があったり、神社なのか、お寺なのか、よくわからなかったりたり、合体したものが昔はよくあったです。
しかし明治政府の、仏教はインドの宗教だからダメだという。それでお地蔵さんのクビを全部、ナタでそぎ落としていく。村々にはずれのお地蔵さんは、満月の夜になると、よだれかけのところから真っ赤な血が出てるぞ、とか、そういう伝説化した話がある。血あび地蔵の話とか、君たちはあまり知らないけど結構あるんです。首を切り落とされたお地蔵さんがいっぱいある。こんなことをしても、宗教は信じる者は信じるんです。だからこれはみごと失敗です。だからお寺は生き残り、今でもふつう我々は死んだらお寺のお墓にはいる。
つまり明治政府は神仏習合の否定をやろうとして失敗したのです。しかし明治初年は、まだ血気盛んで、神道が日本の宗教だとして、国教化をどんどん目指していく。これにはある種の狂気を感じます。ここには西洋のキリスト教のように、一つの宗教によって国家をまとめようとする一神教的発想があります。




【征韓論】
では政治です。留守政府です。1871年から政府の主要人物は欧米視察に行ってる。大久保利通、木戸孝允、岩倉具視などです。どうもその実権は、伊藤博文です。
そんな中、1872年に征韓論が起こります。これは非常にわかりにくいだけれども、軍事的な問題です。日本は昔から、チンギス・ハーンが日本に攻めてくる時には、どこからかというと、朝鮮半島からなんです。朝鮮半島が敵になった時には、日本は危ない。
これは、こういうふうに言われる。子供が寝ているとすると、朝鮮半島というのはその咽元に突きつけられた刀のようになっている。ここを敵にしたら、日本は勝てない。これは800年前の元寇のときも、そうだった。だからここは絶対に仲間にしておかないと、日本の軍事的安全は守れない。
日本は開国したけれども、江戸時代のように鎖国しているのは日本だけじゃない。中国も、朝鮮も鎖国状態です。
ある面、朝鮮は1本筋が通っていて、ずっと鎖国してきたんだから、ヨーロッパ人が開国しろと迫っても、外国には関係ない、鎖国するかしないかはオレたちの問題だ、と一貫している。しかしそうは言っても、朝鮮がこうだったら・・・・・・早い話がロシアですよ・・・・・・ロシアが攻めてきて占領されるぞ、そしたら、オレが困るというのが日本の立場です。日本の咽元に、剣先が突きつけられたら困る、という。だから朝鮮の鎖国をやめさせないと、日本はまずいことになる、日本と同じ開国の方向でしてやってくれ、という。これが西郷隆盛です。

これは2回ねじれる。けっこう複雑なんです。そこに、もしイヤと言ったら、武力行使だ。戦争してでも開国させる、という。そこに、ちょっと待て、と大久保利通が外国から帰国する。今はそんな戦争をするべき時じゃない、と言って、取り止めさせる。それで西郷と喧嘩わかれです。では大久保利通は、朝鮮半島を攻めないかというと、3年後の1875年の江華島事件でしっかり朝鮮を攻めます。昭和になっても、満州・朝鮮は日本の生命線です。軍事的にも最重要地点です。
良い悪いは別にしても、こういうことがあって今も日本と朝鮮は仲が悪いでしょ。韓国は日本に補償を求めるでしょ。われわれの税金から、何十億とかかるかも知れない。そういう補償問題に今でもなってます。

そのような西郷の主張する征韓論がここで負けた。では何でこんな論争が起こったのかというと、これは留守政府と欧米視察組の勢力争いです。おまえたちに主導権を持たせて朝鮮半島を取るとらせはしない、取るのは俺たちだ、という欧米視察組は思っているんです。つまり政府の主導権争いです。

なぜこんなことになるのか。西郷隆盛は、江戸城総攻撃をしないことによって、イギリスが日本の政治に介入することを防いだ。イギリスはそのことを苦々しく思っている。西郷はイギリスのやり方を見抜いている。イギリスはその西郷が目障りなんんです。
この征韓論争に西郷隆盛も、江藤新平も敗れます。そして下野して、地元に帰る。つまり政府の高官を辞める。おまえたちといっしょにはできない、と言って、地元に帰るわけです。
逆に勝ったその欧米視察組の中心が、大久保利通です。西郷隆盛の弟分格です。この時に内閣総理大臣はまだありませんが、もし内閣総理大臣があったら大久保利通だろう、と言われる。その拠点が内務省です。内務官僚といえば、官僚のトップです。絶対的な権力を持ちます。明治維新から5年目の1872年に、西郷隆盛と大久保利通の力関係が逆転するわけです。

西郷はどうもイギリスに嫌われている。大久保とイギリスの関係はよく分かりませんが、西郷よりも嫌われてはいない。何よりも欧米視察組の中には伊藤博文がいます。このあとは薩摩の大久保利通、長州の木戸孝允、伊藤博文などの欧米視察組が力をもちます。彼らはすっかりヨーロッパに感化されて帰ってきます。ヨーロッパ視察の中心地はイギリスです。この征韓論争が1872年です。


【軍制】 次には、これから軍事は大事だ、農民であろうと兵隊になってもらおう、という。これが1873年の徴兵令です。ただ長男だけは、死んでもらっては農家の跡取りがいなくなって困るから、長男は免除です。それからお金持ちは、どうにかなりませんか、というと、そしたら270円で免除してやる、という。今の270万ぐらいかな。当時は貧しくてそんな大金お金持ちしか払えません。
1882年には天皇のお言葉として、軍人勅諭を出す。軍人とはこうあるべきだという勅諭です。軍隊の最高司令官も天皇ということになる。


【秩禄処分】 こうやって、今まで戦うのは武士だったけど、武士の仕事はますますなくなる。武士は仕事もないのに給料だけもらってる。しかしこんなことは長くはつづかない。一時しのぎだと言いました。これが1876年に打ち切られる。これを秩禄処分という。
こういう分かりにくい言葉を使うのは、分かって欲しくないからですよ。今でも政治家が妙に横文字を使ったり、難しい言葉を使うときは、中身を隠したがっているときだと思っていいです。中身をわかって欲しくないんですよ。
秩禄というのが武士の給料です。この強制的な打ち切りです。これが1876年です。
さらにこの1876年には、武士が腹を立てるようなことを、次々にやる。武士の魂である刀、刀の脇差しはならぬと、廃刀令を出した。




【士族の反乱】 
それで次の年の1877年には、西郷隆盛が腹を立てた。これがメインの西南戦争ですけど、その前に、征韓論から負けて下野した江藤新平の動きが、ちょっと謎なんですね。

江藤新平の動きをずっと見ていくと、征韓論で負けて下野してから、何ということはしてない。東京でブラブラです。佐賀に何年か帰ってないなあ、佐賀に帰ろうかな、と思って、船を伊万里で降りて、ブラブラしながら長崎にも行ってみようかなと思って、ゆっくり帰ってくると、佐賀に入ったときには、江藤さん、反乱どうしたの、という話になっている。オレ知らんよ、イヤーあんた反乱起こしているよ、という。エッ誰が、あんたが、何それ、という話です。1874年佐賀の乱です。だから謎が多い。この時の政府の実力者は大久保利通です。
もう新政府軍が佐賀までやってきて、鉄砲をぶっ放して、他県に逃げた江藤を引っ捕らえて、裁判にもかけずに即打ち首です。裁判にもかけないんだから。裁判にもかけないで、大物政治家が死ぬときには、何かやましいことがあります。9.11のビンラディンの時も、リビアのカダフィの時もそうだった。この佐賀の乱が士族の反乱の最初だということになっています。あと小さいこういう乱は、いくつか起こる。

ただ最大のものが、西郷隆盛です。この人も鹿児島に帰ってる。1877年西南戦争です。明治維新というのは、武士が起こして武士が潰れるという変な革命です。
だから何のために戦ったのかという不満をもつ武士は、全国にも鹿児島にいっぱいいる。本当を言えば、彼らが幕府を倒したんです。そして職を失って、給料もなくしたのも自分たちなんです。いったい何のためにオレたちは戦ったのか、うちの兄貴は死んだのか、なんでオレは右足を失ったのか、訳が分からんじゃないか。そこに西郷が帰ってきて、西郷さん、いっしょにやりましょうよ、という。西郷隆盛もたぶん嫌気が指している。彼は2回死にそこねてますから、勝てるとは思ってないけど、それならやろうか、ということです。
もともとは、忍者みたいな、お庭番だから、情報を知らないわけじゃない。的確な兵力、相手の武装、勝てる見込みはないです。しかし、もういいか、やろう、という。熊本城が最大の激戦地です。たった熊本までしか行けなかった。新政府軍が先に熊本までやって来たんです。だから、西郷が攻めたというよりも、新政府が鹿児島を攻めたといった方が実は正しいです。ここで行き止まりです。そして地元に戻って、鹿児島の小高い山の洞窟、その洞窟を見に行きましたけれども、そこで、もうよかたい、と言って自害して果てます。これが西南戦争です。

この結果は、何だったか。武力ではもう勝てない。じゃあ文句言うときは、どうすればいいか。言葉だ、思想だ、言論だ。こうして自由民権運動に変わるんです。この後、武力闘争は起こりません。
その自由民権運動の中心が、土佐の板垣退助です。板垣退助も下野している。おまえたちといっしょにはできない、ということで。このとき政府を動かしてるのは大久保利通です。佐賀の乱の時も、西南戦争の時も。
しかしその大久保利通も、1878年、江戸城近くの紀尾井坂というところで、出勤途中に突如、暴漢に襲われて暗殺される。このとき大久保利通は実質的な政府の実力者である内務卿をつとめていました。その後釜に座るのは伊藤博文です。

それに対抗してくるのが大隈重信です。大久保利通の右手は長州の伊藤博文です。左手は佐賀の大隈重信です。大隈は西郷側にはつかず、大久保利通側についています。
この大隈も結構、血が好きですね。この約10年後には、爆弾で右足を飛ばされて杖をつくようになりますが、その杖はただの杖じゃない。仕込み杖です。敵が来たらそれを抜いて、バシッと殺るつもりです。明治の法治国家で、総理大臣クラスの政治家が仕込み杖もって歩いている。今そんなことしたら手が後ろに回る。オレは右足がないからといいつつ、杖がきらりと光る。怖いですね。この手の人間ですよ。

ここで第一世代のリーダーは、すべて死んだ。1877年に西郷は戦死です。同じ年に、木戸孝允は病死します。翌年1878年に大久保は暗殺です。
次の世代がリーダーの座をめぐって、ここで暗闘する。それは3年後なんですが、そこまで行くには、まだいろいろなことが起こります。
これで終わります。

授業でいえない日本史 29話 近代 地租改正~国会期成同盟

2020-08-26 14:00:00 | 旧日本史4 近代
明治維新というのは、不思議な革命で、革命を成し遂げた武士がつぶれていく。江戸幕府を倒したのは武士なのに、逆にその武士がつぶれていく革命なんです。そういう意味では、革命の勝利者がつぶれていくという、世界で他に例を見ない革命です。こんな不思議な革命はありません。
だから、なんでだ、という不満がとうぜん武士におこっていく。それが西南戦争という形で現れますが、それも西郷の死とともに敗れ去っていきます。そこで、それまでのリーダーたちがほとんど死に、その結果、一番若い伊藤博文が前面に立つという展開になっていくわけです。
それが1881年明治十四年の政変につながりますが、今回はそこに行くまでのことをやります。まだ新政府になったばかりで、いろんなことをしていかないといけない。


【地租改正】 まずこの新政府は、お金がないです。無一文だと思ってください。お金を、どうやって取るかというと、日本人の8割以上は農民だから、農民から税金を年貢を取らないといけない。ではどうやって取るか。何を基準に年貢をとるか、といった時に、それまでの基準を変えていく。
実は今まで、言ってないけれども、江戸時代には土地の売買は禁止です。田畑永代売買の禁があった。何をつくるかということも、自由につくったらだめだった。これは田畑勝手作の禁という。
明治になってそれを解除していく。特に売買の禁の解除が大事です。土地を売り買いするためには、土地の値段がないとダメですね。日本に土地に値段がつくというのは、この時が最初です。誰かが値段を決めないといけない。その土地の値段がいくらなのか、誰にも分からない。だから政府が決める。地価を定めて、土地の所有者に、これが地券だ、土地の権利書だ、といって渡す。どういうものかというと、教科書にも明治政府が発行した地券がよく載っています。株券も、今はパソコンの中に入ってしまったけれども、もともとこのようなものだったんです。この地券に値段と所有者が記載されてある。こうやって、まず土地の値段を決める。目標は政府の財源確保です。ではそこから、どうやって年貢とるか。
1873年に、地租改正条例を出す。地租というのは年貢です。今までは、秋に収穫した米の量が基準だった。つまり収穫高だった。これを土地の値段に変えたんです。収穫高よりも土地の値段のほうが高い。10倍も20倍も。だから、地価を基準にすると、地価の3%でいい。見た目は非常に安く感じます。たたった地価の3%でいいんだぞ、といっても地価そのものが高いから、換算してみたら江戸時代の年貢と変わらない。そうすると何のための明治維新だったのか、農民には不満が残る。

1877年には、ちょうど西郷隆盛が政府と対立して西南戦争をやっている。それにからめるように、同じ年に地租改正反対一揆というのが各地に起こる。
西郷と農民の両方から攻められて、政府もここは引こう、と、税率の3%を2.5%に・・・・・・これは結構な引き下げです・・・・・・税率を20%近く引き下げた。


【殖産興業】 では次に産業を起こさないといけない、農業だけではヨーロッパに負けてしまう。この時代の危機感は、ヨーロッパが他の地域を支配しよう、植民地にしようとしているということを、ひしひし感じている時代です。うかうかしていたら国がなくなるという危機感があるわけです。日本が植民地にならなかったのは、アジアで例外的なことで、アジアを見るとほとんどの地域は植民地にされている。ああはなりたくない、そのためには、という危機感がある。
だから工業を起こさないといけない。ヨーロッパは自然と産業革命がわき起こったけど、これは奴隷貿易で金貯めていたからです。日本はそういうお金がない。ということは、国が主導していかないと工業が発達しない。その部門が1870年に設置された工部省です。
さらに国内全般の工業に加えて、商業部門もやっていき、地方行政や警察まで管轄するのが1873年に設置された内務省です。この内務省が一番強い権限をもっています。この後は、内務省の長官が、実は内閣総理大臣クラスです。内閣総理大臣はまだいないのだけれども、この内務省の初代長官として、力を振るったのが大久保利通です。しかしこの人も西南戦争後すぐ暗殺されました。伊藤博文も1874年に、すでに内務省の長官になっています。

政府が建てた模範工場として非常に有名なのが、群馬県にある・・・・・・日本の得意は生糸です・・・・・・富岡製糸場です。1872年に作られた生糸をつくる工場です。糸というのは生糸のことです。シルクです。これにフランス系の技術を導入して政府が運営しました。
それから鉄道です。新橋~横浜間、1872年にできました。新橋は東京のすぐ横にあります。
それから郵便です。約10数年前に首相の小泉純一郎がつぶして民営化しましたけど。国営としての郵便事業です。これは不可欠だ、これは国家事業でないとだめだ、というのが前島密です。これは、情報を民間にゆだねるという、10数年前の小泉政権の決定とは、まったく違います。情報こそ国家が管理しないといけない、という発想はもともとあるものですが、いま郵便事業は民営化されています。郵便とは情報のことです。


【金融制度】 では次、一番大事なお金です。そのお金がないんですね、この政府は。戊辰戦争をするお金あったじゃないか。戊辰戦争を1年間戦って、勝ったじゃないか。あれは刷っただけです。ただの紙を1万円だとして。これを太政官札民部省札といいます。
もともとの紙幣の1万円札というのは、1万円金貨との交換券であったんです。しかしそれですらない。ただ刷っただけです。おまえは金庫に大判小判を持っているのか、と言われても、そんなものありはしない。
オレが保障するからこれは1万円札だ、と言っても、もし新政府軍が負けたらその1万円札はただの紙切れになる。どうするのか、と言われたら、それまでです、と答えるしかない。こういう紙幣が流通している。こういうのを金と交換できないから、不換紙幣というんです。非常に信用が薄いです。

では今の1万円札はどうなのか、と聞いた人がいた。やっぱり信用ない。今の1万円札も金貨と交換できない。本来の貨幣はこの時代のヨーロッパでも日本でも、金貨と交換できる紙幣、これを兌換紙幣という。これが信用ある紙幣です。これにしたい。

ヨーロッパは少なくともこのレベルにはなっている。それでそのための条例として、まず単位の制定をする。大判小判じゃなくて、新しい通貨を作るために、新貨条例というのを発令する。1871年です。
言ってないけど、江戸時代は、4進法で非常に複雑だった。それを明治になって10進法にして、新しい通貨「」をつくった。円の下の単位は今はなくて、1円が最低単位だけれども、その時には「銭」があった。今でも為替相場なんかでは110円50銭とかの銭がある。そういう言葉として残っています。さらにその下になると、厘があった。
だから1円というのは今の感覚でいうと1万円です。どんどんインフレになって、1円は子供の遊びにも使えないようなお金になったけど、ここでの狙いはまず「円」という単位を制定して、次に銀行を作りたい。

この銀行が、国立銀行という名前なんだけれども、1872年国立銀行条例をつくったんですけれども、これは国立と名前がついていても、本当は国立ではないんですね。看板に偽りありです。今の地方銀行と同じ、民間の銀行です。

ここで銀行という形態が許可されたということです。それまでも金貸し商売はありました。では銀行とどう違うのか。それまでの金貸しは自分のお金を貸していましたが、銀行は他人のお金を貸すところです。他人から預かったお金を別の他人に又貸ししていいのか、そんなことが許されるのか、ヨーロッパでも長い議論がありました。1848年にイギリスが最初にそれを公式に認めます。銀行は預かったお金のウチの一部を支払準備のために用意しておけば、あとのお金は自由に貸し出していいことになったのです。君たちが銀行に預けたお金は、銀行にはありません。別のところに貸し出されているのです。この制度を日本は導入したのです。
このことの意味は、「政治・経済」で言ったと思います。銀行の信用創造機能という銀行の通貨発行権にかかわる非常に重要な問題です。銀行は知らず知らずのうちにどんどん通貨の発行量を増大させることができるのです。しかしここではこれ以上深く立ち入りません。

その民間の銀行が、あたかも国立銀行のような顔をして、お金を発行するんです。つまり日本銀行券があるように・・・・・・今の1万円札は正式には日本銀行券といいます・・・・・・福岡銀行券や熊本銀行券があったんです。地方ごとに。こういう銀行が全国に百以上できていく。

こういうことを考え出した人、考えた人というかこのモデルはアメリカなんですけれども、渋沢栄一という。この人はこのあと日本財界のドンになる人です。
めざすは兌換銀行券を発行したい。一番いいのは、政府の金庫に本物の金貨があれば、一番いいんだけれども、政府にもお金がないんです。
それなら世の中のお金をもっている人たちに、お金を発行してもらおうという発想です。それを銀行として認めようというわけです。その結果、日本全国に民間銀行が乱立していきます。例えば、福岡銀行、熊本銀行などなど、これ110銀行ぐらいまで出てくる。日本全国の紙幣がバラバラです。百何十種類も紙幣があるような状態になっていく。

ヨーロッパはというと、この銀行のはじまりは、世界史でやったけど、イギリスです。1694年にイングランド銀行という、のちにイギリスの中央銀行になる銀行ができてるんです。
しかしこの日本の銀行はアメリカのマネです。アメリカはこのときどういう状態か。1861年に始まった南北戦争が1865年に北部の勝利に終わって以来、お金の亡者たちがいっぱい出てきて荒稼ぎしていく。そして大財閥が形成されていく時代です。ロックフェラーという石油王、カーネギーという鉄鋼王、ハリマンという鉄道王が出現する。ロックフェラーは石油支配から金融支配にも乗り出す。この一翼を担うのがモルガン財閥です。ここも民間銀行がいっぱいある。アメリカ国内でお金の種類は何百種類と出てくる。その形を真似たものです。

その急成長しているアメリカで、1873年に2回目の世界恐慌がおこる。発端はニューヨークの銀行の経営破綻です。景気が一気に悪くなる。工業生産力が発展して、実力以上に物を作るから、過剰生産になる。そして売れ残る。だから買ってくれるところをさがす。これが市場を求めることになる。市場とはなにか。これ植民地ですよ。植民地時代に入っていく。

世界史でこの時代のことを何と言ったか。帝国主義の時代といった。そういう流れのなかで日本は国立銀行を作ったけれども、なかなかうまくいかない。
1873.10月から1880.2月まで約7年間、このようなことを管轄する大蔵卿の任にあったのが大隈重信です。大隈は中央銀行の設立はしません。アメリカでも中央銀行には賛否両論あったのです。

しかしその後、やっぱり中央銀行を作らないといけない、となる。十年後の1882年に中央銀行の日本銀行ができるようになります。
これが内政面です。



【初期の外交】
次に外交面です。領土問題を抱えてます。ロシアとの領土問題です。ペリーが来た次の年には、領土はここまでだったんですね。日本の領土は、択捉島まで。今も領土問題で日本が主張してる領土はこの択捉島までです。
樺太つまりサハリンはは雑居の地です。しかし1875年に、このラインを変更する。南が日本、サハリンは手放す。樺太と千島を交換するんです。この条約を樺太千島交換条約という。ロシアとの国境がこれで成立した。
今の日本が求めてる国境はどこか。ここまでです。しかし解決はしてない。


【琉球】 領土問題、次は琉球です。前に言いましたが、琉球は江戸時代は、どこの国ですか。日本でも、中国でもなかった。日本でも、中国でもあった。それまでどこの国か分からなかった。日清両属だったから。
どうやって決着がつくかというと、まず1871年に中国の清と日清修好条規を結び、清と国交をもったあと、次に1874年に日本が台湾出兵を行う。どういうことかというと、琉球の漁民が、海が荒れて、行くあてもなく漂いながら台湾に漂着し、そこで殺されたんです。そのことに対して日本は中国に、抗議すると、中国がゴメンと言った。これで決定です。この意味、分かりますか。中国がゴメンといった以上は、殺された琉球の漁民は日本人だと認めたことでしょ。それは琉球は日本だということです。これで決定です。これで琉球の領有権が手に入った。これをやったのは、西郷隆盛の弟、西郷従道です。

この1874年の台湾出兵に断固として反対したのが長州の中心人物である木戸孝允です。木戸は自分の意見が受け入れられず、政府を去って下野します。この1874年に伊藤博文は、内務省の長官である内務卿にわずか33才で就任しています。

それで、次の1879年に、それまで日本なのか中国なのか、分からなかった琉球を正式に県にする。これを琉球処分という。外交交渉というのは、厳しいものです。発言一つが何を意味するか、それをきちんと考えていなければならない。日本が謝罪外交といわれて久しいですが、謝罪したらタダで許してもらえるほど外交は甘くありません。
だから政治家は謝罪なんか、簡単にはしないものです。政治家が謝罪したら終わりなんです。具体的には、お金の問題です。何億円の損失です。謝った以上は、ハイこれでおしまい、では済まないです。謝った以上は責任を取らなければならなくなる。
ここで琉球は沖縄県となった。


【朝鮮】 次は、朝鮮です。ここは征韓論争が起こって、西郷隆盛が死んでいくきっかけにもなった。外交方針の違いからね。反西郷派は政府の中心に座って、朝鮮に対しては出兵するなという、和平論をぶったけれども、それから2年後の1875年にはシっカリと朝鮮を攻撃します。
根底にあるのは、ペリーが大砲を向けてきたら断れなかった日本と、それでも断ろうとする朝鮮の外交方針の違いがあります。断ったら危ないと言う日本。何をぬかすか、腰抜けめという朝鮮。その外交方針の違いです。アヘン戦争を知らないのか、と言うと、朝鮮は朝鮮だ、と言う。どっちが正しいのか、ということです。
この1875年の攻撃を江華島事件という。これは朝鮮の島です。これを日本の軍艦が攻撃した。軍事衝突が起こった。そして日本が勝った。
そして翌年1876年に日朝修好条規を結んで、国交を開かせる。不平等条約です。治外法権がある。日本側に有利です。ここらへんから、両国がこじれていく。日韓関係が今もよくないというのは、知ってますね。



【自由民権運動】
【民撰議院設立建白書】
 ではまた内政に戻ります。西南戦争後の国内の動きです。西南戦争の敗北で武力では勝てないと分かった。あとは言論だ、政治的な論理だ、という自由民権運動が盛り上がっていきますが、実はこれは西郷隆盛たちが征韓論で敗れた直後から始まっています。その中心になるのは土佐の板垣退助です。彼はすでに西南戦争の前から、その動きを始めています。


板垣退助は征韓論で大久保利通と対立したあと、政府を下野します。そして1874年1月、国に対して意見書を出す。これを建白書という。これを民撰議院設立建白書という。
ここらへんは時代順じゃないから、死んだはずの江藤新平が出てきたりしますけれども、時間軸を調整してください。江藤新平は、ここまで東京にいます。江藤新平も板垣と連名で提出します。そのあと翌月の1874年2月に、久しぶりに佐賀に帰ろうかなあと思って、佐賀に帰ったら、江藤さん、何でここにいるの、反乱どうした、知らんよといいながら、捕まってそのまま佐賀の乱の首謀者として殺されていく。

この民撰議院というのは何か。民衆によって選ばれた議院です。まだ国会という言葉がない。今流にいうとこれは国会のことです。国会という名前が定着するのは、日本が戦争に負けてからですね。太平洋戦争後です。それまでは、帝国議会といっていた。この時には、そういう名前もないから、民撰議院、今でいう国会です。これを作ってくれとお願いした。
ただ政府は動かない。そのうちにとか、考えときますとか言うだけです。政治の世界で、そのうちにとか、考えときます、というのは、しません、ということです。ちゃんとする場合には、何月何日までにと、日付をいれないとダメです。

それならもっと強く押していこう、となる。同年の1874年に土佐に政治結社をつくる。これを立志社という。ここで出てくるのは、この政治結社だけですけれども、この時には地方にはいっぱい政治結社がある。こういう政治結社が今の政党のルーツになる。
政治的な考え方を同じくした人たちがグループをつくって、自分たちの考える政治をやっていこう。よくこんなことを言う人がいます。それでいくら貰えるのかと。いくら貰えるかと考えると、分からなくなる。政治で自分が儲けようとするのは、政治に今もはびこる横領と紙一重の発想です。


【愛国社】 この立志社は高知だけのローカル版なんです。これを全国版にして行こう。そしてこれが全国版に拡大されたのが、1875年の大阪で結成された愛国社です。全国組織になったということです。
それまでの政府側は大久保利通です。わかりました、そのうちにやります、という。これは拒否です。そのうちにというのは。しかし全国組織になったのを見て、これは板垣は本気でやるつもりだ、というのが分かるんです。早く手を打たないといけない。
大久保は、東京から大阪に急いで出向く。東京に出てこいじゃない。大阪で結成されたから、自分みずからが大阪に出向いて、まあまあ板垣さん条件を聞きましょう、と折れるんです。
それで、今まで喧嘩していた板垣退助は、この時政府を下野していた木戸孝允とともに政府に復帰します。でも木戸孝允はこのあと数年後に死にます。だから中心は板垣退助です。その板垣が政治に復帰すると、そういう条件でやりましょう。ただし、天皇の言葉として証拠をくれ、国会をつくるという証拠をくれ、と言う。これが1875年の立憲政体樹立の詔です。詔というのは天皇のお言葉です。立憲政治を樹立するという約束です。立憲政治とは憲法に立脚する政治です。そして国会は、この憲法の中に記述されるものです。
そのために三つの柱をつくる。まず元老院を作る。国会という言葉がないから、法律をつくる機関のことです。それがこういう言葉です。元老院とは立法府です。戦前まで続きます。
それから大審院を作る。裁判所という言葉がないから、審査するところ、犯罪を審査するところです。裁判所です。司法です。
もう一つが、地方官会議を開くことです。大まかに言うと県知事会議です。県の実情を言っていいところです。この3つが条件です。

それで板垣は政府に入ったけど、政府は同じ年の1875年に何をするかというと、讒謗律(ざんぼうりつ)を出す。難しい字ですけど、讒謗とは、そしるとか非難するとかいう意味です。政府批判一切禁止です。あれ、言うこと聞くよと言ったのに、違うじゃないかと、板垣は思う。
政府批判はどうか、文字で批判するという方法が明治から非常に強くなる。文字での批判とはこの時代、新聞紙しかないです。というか新聞というメディアが、このころ新たにでてきたんですよ。
そこで新聞紙条例です。これも1875年です。新聞で政府批判をすることは御法度だ、と禁止する。これで政府の本音が分かる。もう分かった、これまでだな、板垣退助と木戸孝允は、再度下野します。板垣は、反政府の立場で戦う。木戸孝允も下野して、そのあと病死します。

そして1877年に最大の士族の反乱、西南戦争が起こります。順番が逆になったけど、西南戦争までにすでにこういうことが起こっていました。
翌年の1878年には内務省の長官である内務卿の大久保利通が暗殺され、伊藤博文がそのあとを継いで2度目の内務卿(1878.5~1880.2)になります。この時の内務卿は、ほぼ薩摩と長州の交代制になっています。1885年に内閣制度ができてからの内閣総理大臣もこの薩摩と長州の交代制が続きますが、薩摩優位から、伊藤を中心とする長州勢の優位に変わっていきます。
このとき大隈重信は大蔵省の長官である大蔵卿(1873.10~1880.2)をつとめています。


【国会期成同盟】 板垣は、もう政府には近づかない。その全国組織が、ここから5年後の1880年にまた拡大していきます。1880.3月、ここではじめて、国会という言葉が出る国会期成同盟がつくられます。国会を期成というのは、国会をつくっていこうということです。その同盟です。これは実は全国組織の愛国社が名称変更したものです。

しかし政府は即座に弾圧する。これを集会条例という。集会したらいけない、とする。言論大会を開いたらいけない、という。しかし民権派もこれで弾圧されっぱなしではない。こういう自由民権運動の流れは1880年代ずっと続いていきます。

ここらへんの日本の騒然とした雰囲気は、戦後生まれの我々にはなかなか分からないものがあります。平成に入って日本人は政治に対してほとんどモノを言わなくなりました。1960年代の学生運動ぐらいです。
これで終わります。

授業でいえない日本史 30話 近代 明治十四年の政変~黒田清隆内閣

2020-08-26 13:00:00 | 旧日本史4 近代
【明治十四年の政変】
では1880年代に入ります。政府内でごたごたが起こります。1881年です。これを明治14年の政変という。
西暦の明治換算は1867を足し引きしたらいいです。1868年が明治元年です。だから1867に、明治14年の14を足すと1881年になる。

政府内では二つの対立がある。それは総理大臣クラスの大久保利通が、紀尾井坂の変、最近まで赤坂プリンスホテルがあったところなんでが、その付近で暗殺される。第一世代のリーダーたちというのは西郷隆盛も死んだし、木戸孝允も死んだし、大久保利通も死んだ。第一世代のリーダー格というのは、ここで死んでしまったんです。明治維新から10年経つと、その子分、弟分格、第二世代というか、そういう人たちの主導権争いになっていって、それが誰と誰の対立かというと、大久保利通暗殺のあとをめぐって、長州の伊藤博文と肥前の大隈重信の対立になっていく。手を組めばいいじゃないか。しかし国会に対する考え方違う。

伊藤博文は国会はまだ早かろう、という。国会なんか要らないという人もいるなかで、国会が必要だというのは2人とも共通しています。しかし伊藤は、まだ早い、と言う。時間かけて、失敗しないようにやりましょう、と。
それに対して大隈は、今すぐやろう、こういうのは早いほうがいい、という。この対立が埋まらない。埋まらないなかで、何とも不思議な事件が起こる。

北海道開拓使、これは今の北海道の県庁、北海道庁です、その払い下げ事件で、その金の動きをめぐって疑獄事件がおこる。これを北海道開拓使官有物払い下げ事件という。1881年、このときの北海道の県庁の長官が黒田清隆で、彼はのちに総理大臣にもなります。薩摩です。この黒田が、同じ薩摩の五代友厚・・・・・・この人も幕末にトーマス・グラバーの船に乗ってイギリスに密航していますが・・・・・・この同じ薩摩の人間に、1億円の大型工場を100万円で売るから買えよ、という。これがなぜか新聞に公表されることになった。こういう事件が、誰も知らないはずなのに、分かったんです。なぜこれが分かるのか、ということです。
こういうのリークという。これが誰かがリークしたんです。政府の機密情報を新聞記者なんかに、ニュースソースを言うなよ、オレが言ったと言うなよ、と言って流す。今でもありますね。私はあまり納得してないけど、情報によりますとか、政府筋によりますと、何とか筋によると、とか新聞によく書いてある。誰から聞いた、というのを、新聞は隠しているんですよ。ふつうは、そんなこと誰から聞いたのか、そこが大事でしょ。しかし、何とか筋によると、とか何事もなかったかのように書いてある。政府高官が公にこれをやったら、守秘義務違反で手が後ろに回る。
大隈じゃないかな、と言われつつ、今に至るまで、クエスチョンのままです。大隈も、死ぬ間際まで、やったとも、やってないとも言わない。なかなか食えない人物です。この人は。

その1881年に突如として、大隈重信が罷免される。罷免というのは政府をクビにされるということです。政府から出て行けということです。
これについては、薩摩・長州の肥前ねらい撃ちの第1弾が江藤新平だった。だから江藤新平の二の舞かな、ということもちょっと感じます。佐賀藩は幕末の動乱の中で、薩摩・長州の動きとはずっと一線を画してきた藩です。藩主の鍋島直正は、政治的判断から何も語っていませんが、薩摩・長州の動きに危険なものを感じていたフシがあります。明治新政府になってからも、佐賀藩出身者の動きは薩摩・長州とは微妙に違います。そのことは薩長土肥の一画をしめる土佐藩にもいえます。つまり薩長政府に対して、土佐と肥前はその批判勢力として機能していたわけです。ただそのなかでも最も薩摩・長州寄りだったのがこの大隈重信です。

その大隈がここでクビになったということは、薩長の藩閥政府がここで完成したということです。それとともに大久保利通亡き後のリーダーが決定されたということです。リーダー伊藤博文の誕生です。この人も、かなり血の匂いのする人物ですね。歴史の闇の部分ですけど。

では大隈重信はこの時まで何をしていたか。1873年から1880年まで大蔵卿を務めています。今の財務大臣、それ以前の大蔵大臣のポストです。つまり政府の財政や金融を握っていたのです。これは総理大臣に次ぐポストといっていい。お金を握る人間というのはいつの時代も強いものです。これをクビになるのですから、その第2のポストに誰がなるか、という問題が浮上します。
ここで松方正義という薩摩の人物が大蔵卿になります。のちに総理大臣になります。この人も洋行帰りです。ヨーロッパの銀行制度を見てきている。このあとでいいますが、日本銀行を作ったのはこの人です。日本銀行のような中央銀行の設立には賛否両論があって、ちょっと黒い影はあるんですよ。そういう人物が大蔵卿になります。

ここで、大隈と伊藤の対立は、もともと何だったかというと、国会をいつ開くかということの意見が違ってた。それに対しては、国会を開くということでは、一致してるんです。国会なんかいらない、という発想はない。
伊藤博文は同年1881年に、必ず国会を開く、という約束を、勅諭形式で出します。これを国会開設の勅諭といいます。勅という言葉は明治でよく出てくる言葉で、天皇を指します。天皇のお言葉として出てくる。間違いなく開くということです。さらにその期限も決めます。1881年にこの勅諭を出して、今すぐではないけど10年後には開く、ということになる。そして1890年には、約束どおり第1回帝国議会が開かれます。

今までの自由民権運動の目標は民撰議院設立だった。民撰議院は国会だった。これで目標達成です。国会ができる。ただ今すぐではない、というところで次の段階に入っていく。
このあとは国会の準備です。国会は話し合って、意見が対立する場合には、多数決で決まる。ということは、国会で自分たちのグループが半分以上占めればいいわけです。
そのためのグループがつくられます。これが政党です。


【政党の結成】 国会ができる、これが決まったのが1881年です。その年に初の政党ができる。
これが自由党です。1年後にもう一つの政党ができる。これが立憲改進党です。自由党の党首は、民撰議院設立建白書からのリーダー板垣退助です。

それに対して立憲改進党の指導者が政府を追われた大隈重信です。板垣退助は土佐、大隈重信は肥前です。薩長土肥のうち、土佐と肥前が政府から追い出され、政府を批判する勢力として政党を結成したということです。今では政党員というと、政府側だと思われがちですけど、この段階では、政党は反政府側に立つ批判勢力です。

大隈重信の動きは複雑です。ここでは一種の手のひら返しです。今まで政府のナンバー2をやっていたかと思うと、今度は政党の党首におさまって政府に反対する。この変わり身の速さも大隅重信が、地元であまり人気がない理由なのかもしれません。

ではこれらの政党を支持した人はどういう人たちだったか。板垣の自由党は土佐を中心とする田舎の金持ちたちです。田舎の金持ちというのは大百姓です。豪農という。豪農を中心とした田舎の金持ち層です。それと旧士族です。
それに対して、大隈の立憲改進党は、都会の金持ち層です。いわゆる会社の社長です。社長を難しい言葉でいうと、産業資本家です。その筆頭が実は三菱です。三菱はここから財閥になっていく。三菱は土佐の岩崎弥太郎が長崎のグラバー商会を引き継いではじめたものです。この人も同じ土佐つながりで坂本龍馬と関係している。岩崎弥太郎は、坂本龍馬が長崎につくった海援隊に、そろばん係として入っていた人物です。この人は政治家にならずに、実業家の道を歩んで、財閥にのし上がっていきます。それが三菱です。悪くいえば、大隈の金づるが三菱です。その大隈も幕末には長崎で活動していました。つまり長崎つながりが生きているのです。だから金持っている。個人の金ではないけれど。政治資金はどうもここらへんからくる。大隈重信は、のちお金を貯めて何をするかというと、早稲田大学をつくったりする。

ではヨーロッパのモデルはどちらか。自由党がフランス流です。

立憲改進党はイギリス流です。「政治・経済」でも言いましたが、日本の政治は議院内閣制といます。これはフランス流なんですか。アメリカ流なんですか。イギリス流なんですか。イギリス流ですよね。今の内閣制度を作ったのは大隈です。大隈はイギリス流だという。フランスは過激すぎる、というんです。フランスは殺すでしょ。王とか、マリーアントワネットとか。これはダメだ。もうちょっと穏健がいい。イギリスもむかし王を殺したんだけれども、結果的に考え直して今は王がいる。政治スタイルとしては、日本はこのくらいがいいという。

しかしそこには、大隈の好みだけではなく、幕末のイギリス人グラバー以来のイギリスとの関係があるように思えます。板垣退助があとで力を失うのに対して、大隈重信があとあとまで力を維持することができたのは、このイギリスとのつながりにあるような気がします。

これに対して自由党はフランス流をとります。イギリスとフランスといえば、幕末の日本に介入した二大国家です。明治維新はイギリスと結んだ薩摩・長州の勝利に終わりました。フランスは逆に幕府を支援しました。そのフランスを自由党が模範にするということは、反イギリスの立場を明確にしたということもできます。



【松方財政】
ではそのあとのお金の問題です。大隈のあと、大蔵卿の座についたのが松方正義です。明治新政府のお金は一体どこから来たかというと、実はありはしないのです。前にも行ったように、戊辰戦争を戦った。金の裏付けも何もないのに、紙を1万円札にして刷っただけです。戦争ほどお金がかかるものはない。西郷隆盛と戦った西南戦争も、お金を刷っただけです。これは不換紙幣です。紙に1万円と書いて、これ1万円だろう、これで大砲をくれ、鉄砲くれ、と言っただけです。今でいう政府紙幣です。まだ日本銀行はありません。
発行したのは日本銀行はまだないから、当時は内閣もなくて、当時は太政官というのが政府の中心的役所なんです。ここが印刷したから、太政官札という。
まだ明治政府ができて10年ちょっとです。この政府は、いつまでもつか、半分の日本人はそう疑っている。明日この政府はつぶれるかもしれない、と。そういうときに、この政府がこれは1万円だろう、鉄砲を売ってくれといっても、この1万円が、明日には紙切れになる不安がある。みんなそれは受け取りたくない、と思っている。ただお金が必要だから、1万円札を政府はボコボコ刷っている。

となると、政治・経済の授業の論理と同じで、経済実体が同じなのに、紙幣をむやみに刷ったら、モノの値段は上がります。モノの値段が上がることを何というか。インフレですね。すると物価が高くなって庶民は困る。
さらに政府も困ります。モノの値段が高くなる割には、政府の税収は固定された土地の値段の3%(または2.5%)だから、増えないんです。意味わかるかな。土地の値段の3%、土地の値段は地券という紙に、ここは100万円の土地と書いてあるから、それはインフレににかかわらず固定されてるんです。その3%だから税収は増えないんです。しかし、物価は高くなっている。物価が高くなっていく中で、税収が増えなかったら、実質的に政府の財政は減少していく。お金のない政府から、ますますお金がなくなっていく。

そういう1881年に大蔵卿、大蔵大臣になったのが、薩摩の松方正義です。明治14年の政変で。そして大ナタを振るうんです。
物価の値上がりを止めないといけない。インフレを止めないといけない。これがデフレーション政策です。金融用語では、金融引き締めという。
政治用語では、松方がやったから、これを松方デフレという。物価を下げるぞ、と言うんです。物価を下げるためには、出回っているお金の量を減らさないといけない。世の中のお金の量を減らすためには、ここらへん半分は、近代の歴史の半分は政治・経済の授業と同じです。お金のことが絶えず関係します。お金のことがない歴史なんて半分道楽です。理念だけで動くようなヤワな世界ではなくて、やっぱり政治の裏付けにはお金が必要です。

モノの値段を下げるためには、世の中のお金の量を減らさないといけない。減らすためにはどうするか。増税か、減税か。増税ですよね。農民からの増税です。これで世間からお金が吸い取られます。ということは、農民が持ってる紙幣は不換紙幣だから金の裏付けがない不健全なお金です。増税によって、その不換紙幣の回収を行った。

彼は1877年から約1年間、渡欧しています。オレはフランスに行って金融を学んできた、というのが、彼のプライドなんです。フランス滞在中に、松方はヨーロッパ最大の金融家であるパリのロスチャイルドとも会っています。そして中央銀行の仕組みをじっくりと学んでいます。こういう銀行をつくるぞ、ヨーロッパ流の中央銀行を作って、ヨーロッパ流のお金の発行の仕方に変えるぞ、といって、日本の中央銀行である日本銀行を作るんです。これが1882年です。ここで、お金は政府が発行するものではなくなった。中央銀行が発行することになった。ではこの日本銀行とは何なのか。日本銀行は今でも東京証券取引所に株を上場している民間の銀行です。政府組織ではありません。
そして準備を経て、3年後の1885年には、日本銀行がお金を発行する。お金の正式名称は日本銀行券といいます。今日1万円札、もっているから見せます。何と書いてあるか。ここに日本銀行券と書いてありますね。千円札でも書いてある。1万円札にも書いてある。これは政府紙幣じゃないです。このスタイルを作ったのが松方正義です。

ただ金は、日本は一流国家じゃないから、まだ金(キン)が不足している。だから銀兌換です。金庫のなかには、金の代わりに銀しかない。こういうスタイルを銀本位制という。金本位制はもともとイギリスが取り始めた制度です。やがて日本もイギリスに合わせようとします。銀行のことをなぜ銀行というのか。それはこの時に紙幣を金ではなくて、銀と交換するところだったからです。銀が主要通貨だったのです。

ではそれまでは、国立銀行があった。1871年にできた。それまでの日本のお金は国立銀行によって発行されていた。これは福岡銀行とか、熊本銀行とか、日本中に100を越える種類の1万円札があった。非常に不便極まりない。これを停止する。これがお金を発行することはダメになる。これが福岡銀行とか、熊本銀行とかになっていく。いわゆる地方銀行になっていきます。

この時には増税一色ですから、世の中はお金が足りなくなって深刻な不況になっていく。不況になると、景気が悪くなって、景気が変動するときというのは、弱いものから先に潰れていくんです。潰れそうな小さな会社は、体力のある大きな会社に合併されていくんです。それと同じで、つぶれた小百姓の土地を、大百姓が買い占めていくんです。
農村も、持てる農民と持たざる農民に階層分化していく。貧しい農民たちは、この新政府ができて、何もいいことがないじゃないか、こんなの間違ってる、と暴動を起こしていきます。



【民権運動の激化】
ここで言論の戦いであった民権運動が、政府への不満、松方デフレへの不満、不況への不満、そういうものがたまって、逆に暴力的に激化していく。直接の原因は松方財政による不況です。
どういう激化事件が起こっていったか。1880年代前半に、次々に起こっていく。このことによって、今まで民権運動は地方のお金持ち農民による豪農民権だったのが、貧しい貧農を中心に暴動を押していくような動きに変化していく。ここはさっと行きます。
1882年に福島で起こる。弾圧事件が。
次に1884年に群馬で起こる。農民たちが武装蜂起する。
次に1884年に茨城の山の麓で起こる。この山を加波山という。その山に農民たちが集まって、ムシロを持って、百姓一揆みたいなものです。政府に要求するぞ、と暴動化していく。加波山事件という。悪いことをやっている政府高官は殺そう、と。こういう計画が発覚する。建前上、彼ら農民は、オレたちは自由党の一員だ、と名乗っているから、自由党の幹部はここで怖じ気づくんです。このままだと、オレたちは何もしてないけど組織責任を取らされて、牢屋に入れられるかも知れない。その前に、オレたちは関係ないということで、貧農と手を切ろうと自ら解党していく。自由党はここで一旦解党する。
板垣退助は、自由党の党首だったけれども、自由党を解党して、オレはよく考えたらヨーロッパを見たことない、見に行く、と言ってフランスに行く。ちょうどフランスは、ルイ・ナポレオン政権がつぶれたあとの第3共和制といって、非常にゴタゴタしている時期なんです。オレが描いていた近代化は、こういうもんじゃない、と言って失望して帰ってくる。このあとは力をうしなう。やる気を失ってしまう。

そして1884年、今度は埼玉の秩父です。また貧農が武力蜂起をする。これが秩父事件です。こういうのが、たった3年の間にバタバタと起こっていく。
この秩父事件を最後として、この時に大隈重信も、自分の作った改進党・・・・・・立憲改進党は立憲を省略したりします・・・・・・オレは面倒見きれない、一抜けた、というんです。党首の大隈重信が立憲改進党を脱党する。党から抜ける、ということです。
この大隈重信の動きは政府側に行ったり、反政府側に行ったり、非常に複雑です。



【朝鮮問題】
【壬午事変】
 江華島事件から6年経った。日本と朝鮮は外交方針をめぐって、方針が違う。1882年に朝鮮と日本との間でまた軍事衝突が起こります。壬午(じんご)の年に起こったから壬午事変という。
朝鮮も、今のように北と南に分かれてない一つの国です。その朝鮮にも親日派と、反日派がいるんです。反日派は、開国した日本は腰抜けだと思っている。これは鎖国派です。中心は大院君という王の父親です。
それに対して、王の嫁さんである閔妃は、いや日本流がいい、と言う。こうやって割れるんです。ただこの閔妃はあとで寝返ったりしてちょっと複雑なんですけれども。
朝鮮の政界がごたごたして、大院君一派が設置したばかりの日本公使館を攻撃した。これに対して日本は軍隊を出動した。そしたら中国の清もまた朝鮮に出動した。なぜ中国が出てくるか。世界史でも言いましたけど、朝鮮は伝統的に中国を親分としている。中国は、子分が叩かれたら親分が出てきて当然じゃないか、という感覚です。これを中国の宗主権といいます。親分の権利みたいな感覚です。
このことによって日本はのちに清と戦っていくことになります。この朝鮮の説明によって、すでに半分は約10年後の日清戦争の説明をしていることになります。


【甲申事変】 さらにその2年後の1884年に2回目の衝突が起こる。甲申(こうしん)の年だったから、甲申事変という。
ここで、さっき日本派だった、王の嫁さん閔妃が寝返って、中国側につくんです。そうするとやっぱり日本流がいいという部下と対立する。その部下が金玉均(きんぎょくきん)です。
ちょうどこのときフランスも、中国の別の子分をねらってる。1884年に清仏戦争で、フランスはベトナムを植民地にしたんです。ベトナムは越南といって、朝鮮と同じように伝統的に中国を親分としている。ベトナムとはこの越南のなまりです。それで俺の子分に何をするかと、清がフランスと戦争する。相手はフランスのナポレオン3世です。けちょん、けちょんに負けて、ベトナムはフランスの植民地になってフランス領インドシナになる。
実は約60年後の1940年代に、日本はここに向かって軍を進めます。太平洋戦争の直前です。ここに行った瞬間に、そこに関係ないアメリカが日本への石油をストップする。エッということになる。それで追い込まれていく。こういう因縁のある場所です。

これにこりて、今さら清じゃないでしょと、焦った親日派の金玉均がクーデタを起こすけれども失敗する。日本の仲間が失敗したんだから、日本が不利になっていく。不利なまま、中国と条約を結んでいく。それが結ばれた中国の都市の名前を取って、天津条約という。1885.4月です。
これを結んだ日本の代表が伊藤博文です。伊藤はこの時、こういうことを交渉できる国のトップになっている。この年の12月には伊藤博文は初代内閣総理大臣になります。相手は李鴻章です。この同じ顔ぶれで、のちの日清戦争の条約も結ばれることになります。

ここで日本は渋々、何を認めたかというと、こういう言葉が出てくる。清の宗主権、親分権です。ここで日本に不利なまま日清関係が悪くなる。そして朝鮮は、今度はロシアに近づいていく。これが最も日本が恐れたことです。日本は追い込まれていく。

この危機は、前に言ったように、なぜ朝鮮半島が危険かというと、レーダーも核兵器もないときに、こういう寝そべっていた赤ん坊の喉元に、剣先が突き刺さる形に朝鮮半島がなっているからです。朝鮮半島と九州、本州は、そういう形になっている。ここがロシアという敵に渡ったら日本は防ぎようがない、という感覚です。これが明治にはずっとある。
戦後は、ほとんどこのことを習わないから、意味が分からなくなっています。戦前の人は、ほとんどの人がこのことを分かっていたけれども。これは常識だった。いまは軍事教育は危険視されて、人気がないからね。


【大同団結運動】 次に言うけれど、1885年に内閣制度ができて、内閣総理大臣に伊藤博文がなっている。ここで政府側の組織が固まった。民権運動はゴタゴタしてるから、政府側が強くなった。
今度は、民権側はそうはさせじと、ゴタゴタをやめて、いろいろ細かい違いはあるかもしれんけれども、大きいところで団結しようじゃないか、まとまろうじゃないか、という運動を起こす。これが1886年の大同団結運動です。
土佐藩士の坂本龍馬の知り合いであった後藤象二郎という人物が中心です。彼は生きのびて、こういうところで活躍している。


【三大事件建白運動】 それで、国会が始まるのは、3年先なんだけれども、国会に対して文句を言おうと、どうしても我慢できない問題が3つある。
それが三大事件建白運動です。1887年です。政府に対してね。要求は何か。
一つ目に、おまえたちは弾圧ばかりしているじゃないか。言論集会ぐらい認めろ。
二つ目に、税金を安くすると言ったじゃないか。安くなってないじゃないか。安くしろよ。地租軽減を求めます。政府も痛いところです。お金のない政府にとっては。
三つ目に、外交失策の挽回です。治外法権とか、不平等条約がなかなか解消できない。それどころか、政府はさらに悪い条件を飲もうとしている。


そういう三つの要求を民権派はするんですが、内閣ができた政府側は1887年、即座に弾圧する。この弾圧条例を保安条例という。警視総監というから今の警視庁の長官が、こういう民権活動家を、死刑にはしないけれども、江戸時代でいう所払いがあった。東京から出ていけというわけです。東京追放をしていく。これが民権派の動きです。



【大日本帝国憲法の準備】
同時並行的に、松方財政がある。民権運動の激化がある。もう一つは、政府側は、国会を開くためには、国会のルールは何に決められているか。国会のルールは、憲法に書かれています。だからこれを開くためには、憲法をつくらないといけない。1880年代には、憲法作成の準備を同時に行っている。

明治の人たちというのは、政府の憲法案だけじゃなくて、オレも憲法案をつくるから参考にしてくれというのが、いっぱい出てくる。有名なもので、そういう自分が個人的に作った憲法試案を私擬憲法という。
植木枝盛という人は、日本国国憲按をつくる。これは憲法案という意味です。次は私擬憲法案です。そういうのがいっぱい出てきた。


しかし、政府は、伊藤博文を中心に憲法つくっていく。憲法をつくった中心人物は伊藤博文です。伊藤は1882年に再びヨーロッパに出向き、憲法を学びます。そのとき伊藤が模範としたのはイギリス流ではなく、ドイツ流憲法です。このとき伊藤は42才。幕末の動乱期、23才でイギリスに密航してから、ずっとイギリスとの関係が深かった伊藤ですが、この約20年の間に伊藤が感じとったことは何だったか。伊藤は英語が得意で、政府の中心人物の中では、ヨーロッパに関して伊藤の右に出る者はいません。その伊藤がイギリス流ではなく、ドイツ流を選び取ったのです。イギリスべったりだった伊藤が、イギリスとの距離を取り始めるのです。


国会の準備のために政府がやったことは、1884年に華族令というのをつくる。昔は華族さんというのがいるんです。旧貴族、または江戸時代の大名の一族です。
何のためかというと、明治には衆議院ともう一つあった。今は参議院ですけれども、貴族から構成される貴族院というのがあった。これを作るためです。




【伊藤博文内閣】(1885.12~88.4)
ここまで準備をして、1885年に今の内閣制度が発足する。今も内閣制度です。1885年から。まだ憲法ありませんよ。内閣がさきです。憲法がないからまだ国会もありません。

1885.12月、初代内閣総理大臣になったのが長州の伊藤博文です。西郷隆盛からみたら、伊藤博文は10以上年下だから、おい若いの、とアゴで使われていた世代です。このあと内閣総理大臣に4回なります。あとは内閣ができたら、内閣ごとに行きます。この人が初代です。内閣制度がここで発足した。それまでの制度は太政官制です。それに変わって内閣です。


【井上馨外相】 その部下として外務大臣、略して外相という。外相というのは外務大臣です。同じ長州、若い時からのポン友、イギリスにもいっしょに密航している。井上馨です。本名は井上聞多です。伊藤は俊介です。二人で話すときは、聞多、俊介の仲です。

井上馨はそれ以前から外務卿で、1880年代から極端な欧化政策をとっています。外国人を招いて、舞踏会を開きます。この時代を鹿鳴館時代といいます。夜な夜な外国人を鹿鳴館という今の日比谷公園の隣に建てた社交場に招いては、舞踏会を開き、日本の貴婦人たちと踊らせます。こういうことを今と比較したらダメですよ。この時代、日本女性が男と手を取って踊るなど考えられないことです。これに対して、はしたないことだ、と強い反発が起こります。首相の伊藤博文と外相の井上馨が、このような世間一般の常識と違った政策をとるほど、西欧化に対して異常な熱意を持っていた、ということが大事なのです。

この井上外務大臣がやったことは、イギリス、アメリカから治外法権を押しつけられている。人を殺したアメリカ人、日本で殺したアメリカ人、日本人は裁くことができないんです。日本にいるアメリカの領事が裁いて、裁いてというか、はやく帰れと言って、おとがめなしです。これをどうにか撤廃したい。そのために何をするかというと、日本の裁判官に外国人の裁判官を任命しようとした。これが良いのか悪いのか。日本で裁くことができなかったら、日本で裁けるようにしろ。イギリスは、その代わりイギリス人を日本の裁判官に雇えという。イギリスだけとは限りませんが、今の日本で同じことをやったら、まず乗り込んでくるのはアメリカ人でしょう。それと同じことです。日本の外交の柱はイギリスなのです。


そのことはのち1902年の日英同盟の締結を見ても明らかです。世界を驚かす日英同盟が突然結ばれたと考える方がおかしいと思います。日本とイギリスの結びつきは、幕末から強いものがあります。前にも言ったように、幕末1866年の薩長連合の裏には長崎のグラバーを通じたイギリスの影響があります。伊藤博文も井上馨も、そして大隈重信も長崎と深い関係があります。明治になってもイギリス公使館は、皇居の隣の一等地に広大な敷地を構えています。

これも前にも言いましたが、伊藤博文は1887年4月20日、その最も華麗な舞踏会のひとつとして仮装舞踏会を開きます。この舞踏会は、実は鹿鳴館ではなく首相官邸で行われます。伊藤博文首相・梅子夫人の主催ということで開かれたこの舞踏会は、実際には時のイギリス公使夫妻が主催したもので、伊藤は官邸を会場に貸し出しています。この舞踏会は、当時の人々から口を極めて罵られることになりますが、伊藤はそれにもかかわらず、イギリス公使の申し出を断り切れなかったのです。 


この外国人を日本の裁判官に任用することに対して、これは条約改正どころか、よけい悪くなることだよ、という御雇外国人がいる。フランスとイギリスはだいたい仲が悪い。そこで日本に教える。これは撤廃じゃなくて、改悪だよ、そんなことした外国はないよ、と。これを認めたら、日本の司法権は完全に外国の支配下におかれるよ、と教えるんです。これはボアソナードというフランス人です。これが世界の常識的な見解です。しかしこの内閣には外国からの圧力をはねのける力はありません。それを問題視していくのは、民権派の力です。


【ノルマントン号事件】 ちょうどその時に、イギリスの船でノルマントン号事件というのが起こる。
主要なファーストクラスにはイギリス人が乗っている。二等客室には、貧しい日本人が乗っている。難破するんですよ。イギリス人は全員助かる。日本人はほとんど死ぬんです。船長は、いやー全員を目指して、平等に助けましたけれども、なぜかイギリス人だけが助かって。なぜか日本人だけが死にました、というんです。
これはなぜかじゃなくて、わざとだろう。しかしイギリス人を裁けないです。こうやって、日本人は見殺しにされていく。そこに反対運動が起こる。それがさっき言った三大事件建白運動です。その3番目の外交失策の挽回というのがあった。それはこういうことです。
治外法権を撤廃する代わりに、日本の裁判官に外国人がなるなんて、おかしいんじゃないか。イギリス船が難破して、イギリス人だけが助かって、日本人が死ぬのはおかしいじゃないか。イギリス人を裁けないのは、おかしいじゃないか。政府はしっかりしろということです。そういう要求です。首相の伊藤博文、外相の井上馨、この両名のイギリスべったりの外交政策に、批判が集中していきます。


【枢密院設置】 それからこの間も伊藤博文は、こっそりと別荘にこもって缶詰になりながら、憲法案を作っているんです。その作る機関を枢密院という。1888.4月設置です。この初代議長になるのも伊藤博文です。これと同時に伊藤は内閣総理大臣を辞め、黒田清隆が次の首相になります。
この枢密院はもともとは、憲法をつくるため、それを最終審議するための場所だった。しかし、これだけだったら憲法ができた瞬間になくなるんです。なくならずに済むように、天皇が困った時には相談に乗る機関にする。だから1945年の原爆が落ちる年まで存続します。

これ以後、日本の政治が、昭和になって暗礁に乗り上げて、どうにも決まらないというときには、突然この枢密院が出てきたりする。それは天皇が相談して、枢密院がでてきて、天皇はその時に困っているから、枢密院のいう通りにする。そういう意味では、内閣以上に強い力をもつ組織です。
十数年間解決がつかなかいときに、突然、枢密院が出できて、解決するということも起こります。ここらへんに非民主手的な組織が残ってます。

それから地方制度も、1880年代末に、市や町ができる。郡というのもできます。




【黒田清隆内閣】(1888.4~89.10)
こういう批判の中で、憲法発布を待たずに、内閣総理大臣は長州の伊藤博文から、1888.4月に薩摩の黒田清隆に変わる。ここらへんは、長州がなれば、次は薩摩というふうに10年ぐらいこの繰り返しです。これが藩閥政府です。薩摩、長州だけです。土佐、肥前は出てこない。大隈重信もはずされたし、江藤新平は殺されたし、もう薩摩、長州です。次は薩摩の黒田清隆です。伊藤は長州だった。前に出てきた北海道長官だった人です。


【大日本帝国憲法発布】 この内閣のとき、1889年大日本帝国憲法が発布される。憲法を出すことを発布という。字が読める明治の人間は、発布と書いてあるから、絹の布がもらえると大喜びしたというんです。もらいに行った。布くださいと言って。そしたらぜんぜん違ったという、笑い話のようなことがあった。なぜか発布というんです。
これは憲法の種類としては、欽定憲法といって、天皇が定めた憲法です。国民が定めたんじゃなくて。


【貴族院と衆議院】 ここに書いてあることは、まず国会は二院制を採るということです。
法律や予算の成立の時には、議会の同意が必要。これは当たり前ですけど、これがないときには、何の同意だったか。天皇の同意なんです。法律を作ったり、予算を成立させるとき、天皇の同意ではなく、議会の同意で成立するということです。この違いは大きい。ここで国民が、国の運営に意見を反映させることができるようになった。

ではその二院というのは何なのかというと、それがまず政府がつくりたかったのは衆議院ではなくて貴族院です。これは国民からは選ばれません。1年前の華族令に指定された、旧お公家さんとか、旧大名クラスの家柄から選ばれる。誰が選ぶか。国民が選ぶんではありません。またでてきた、勅撰という言葉。勅は何か。天皇が選ぶんです。今は衆議院が優越ですけれども、この時は対等です。
我々国民は半分の力しか持たない。その半分ですら画期的なことであった。それが衆議院です。この名前は現在に至るまで続いている。今も同じ衆議院です。
では貴族院は戦後、何に変わったか。参議院です。イメージとしては、貴族院というのは、今でいえば参議院です。ただこの時は対等です。そこが違う。
選挙権は満25歳以上の男子です。女はダメ。20才じゃない。当然18才でもない。


【制限選挙】 ただ制限選挙で、所得制限がある。国税15円以上の人だけに選挙権が与えられた。間違いを恐れずにいうと、税金1500万円ぐらい払ってる大金持ちです。
これが人口の1%だけれども、これが2%、3%、10%、20%、100%、だんだん50年間で広がっていく。最初は1%です。広げろ、と言われて徐々に広げていくんです。ということで、ここまでにします。

ここでアレッと思ってほしいのが、憲法が先か、議会が先か。イギリスや他のヨーロッパの場合にはどっちが先だったか。もう一回言うよ。憲法が先か、議会が先か。ヨーロッパの場合には、議会が先だった。基本中の基本です。重要な所です。日本の場合には、憲法が制定されたとき、帝国議会、つまり今の国会はあるんですか。ないんですね。そこが逆転している。議会を開くために、憲法をつくっている。ヨーロッパは、議会がもともと歴史的にあって、議会から発生して憲法ができる。そこが違う、というところです。


【統帥権の独立】 この大日本帝国憲法と現日本国憲法と比較してみた場合、その違いは、今の日本国憲法には、表面上は軍隊ないことになってるんです。だからこういう言葉もないんだけれども、軍隊を指揮する権利、これを統帥権という。
これが言葉でいうと、統帥権の独立という言葉があるんです。これだけじゃあ、独立は、何からの独立なのかわからない。内閣から独立しているということです。天皇主権国家だから、天皇の元に通常は内閣総理大臣がいて、内閣がある。今の自衛隊は、軍隊はないということになってるんだけれども、現憲法ではね。自衛隊が仮に、ここらへんは言い方が難しいですよ。軍隊らしきものとしよう。そしたら、それは内閣の下に軍があるんです。内閣総理大臣が命令するんです。これは他の国でも、そうなんですよ。

しかし内閣から独立しているということは、陸海軍は内閣の外にあるんです。そして天皇が統括している。
というと、いいじゃないか、思うかも知れませんが、天皇は独裁者というには、余りにも自立性がないんです。ほとんど部下の意見を聞いて、どう思うか、どう思うか、と聞いて、そして会議開いて、大方の意見がそうだったら、そうしましょう、ということになる。最終的に、印鑑を押すだけなんです。ほとんどしゃべらない。御前会議というのは。黙れ、オレが決めるとか、そんなことないんですよ。
雰囲気を見ながら、最終的に、見たところ、こちらの方がいいかな、みたいな感じなんです。ほとんど命令しない。

こういう規定の中で、内閣総理大臣が陸海軍大将に、戦争しろ、とか、するな、とか言ったらどうなるか。軍部は腹を立てるんです。コラおまえは誰に向かって言っているのか、何の権限があって言っているのか、と。軍部は独立しているんです。命令される必要はないのです。これが最初の時、明治、大正では保てていたけど、昭和になっていくと、戦争に対して、満州事変などが起こって、内閣は戦争しないといっても、内閣を信用しない軍部が内閣を無視していくんです。こういう問題をはらんでいる。ここには政府が本当に信頼できるか、という問題があります。


(統帥権の独立)


ということは、組織を書くと、天皇のもとに、内閣と軍部がある。軍部は陸軍と海軍です。空軍はないです。飛行機がないから。内閣と軍部が対等ということです。内閣に軍部に対する命令権限がない、ということです。
忘れたころに、昭和になって思い出してください。内閣は戦争しないと言った。でも戦争が始まった。どういうことか、分からなくなったときはこれです。政府に対する根強い不信感があるわけです。

それから、もう一つの重要な違いは、内閣総理大臣、今の首相は内閣総理大臣である前に何なんですか。国会議員なんです。国会議員の中から内閣総理大臣を選ぶんだけれど、このときは内閣総理大臣は、国会議員である必要はない。
国会議員であってもいいよ。国会議員であることが多いんだけれど、法律的にそれを強制されないということは、非常に大きな違いです。例えば私が、戦前だったら、国会議員も何でもないのに、天皇が、あなた内閣総理大臣をしなさい、と言われれば、はい、私は内閣総理大臣になれる。こうやって天皇が任命する。


【大隈重信外相】 この前の伊藤博文内閣の時には、外務大臣は井上馨だったけれども、首相が変わると外務大臣も大隈重信に変わる。大隈重信は、政府から追放されたりまた戻ったり、政府のなかの外務大臣になったりまた出たり、次には総理大臣になったり、いろんな動きをします。

この人は、前の外務大臣の案を受け継いで、治外法権を撤廃したい。その条件としてイギリスに示したのが、最高裁判所の裁判官、これを判事という。判断する人です。判事は裁判官のことです。最高裁判所の裁判官に外人を登用する、という案を示す。

これは、日本の主権を外国に売り渡すことだ。よけい悪くなることだ、という反対がある。これには十分理由があります。外務大臣が井上から大隈に変わっても、裁判官に外国人を登用しようとする、今では考えられない方針は変わりません。これは日本の司法権の一部を外国人に譲り渡すことです。ここに外国からの非常なる圧力を感じます。外国というのは具体的にはイギリスのことです。伊藤博文も大隈重信も、幕末からイギリスとの関係の深い人です。しかしそのイギリスとの舞台裏でのやりとりはなかなか表面には現れません。


しかしこの時代、反対を押しのけてやろうとすると命を狙われる。爆弾を投げられます。一命は取り留めたけれども、右足が吹っ飛ぶ。大隈重信の記念館にはそのあと使った義足が展示してある。だからこのあとは杖をついて歩く。その杖が仕込み杖だった。なんかすごい話だと思いますね。
大隈が片足を失って、これで外国との交渉中止です。ここで内閣は総辞職する。黒田清隆内閣は終わった。

黒田清隆は薩摩だった。この時代の内閣総理大臣は、長州と薩摩との交代が続きます。次は長州の番です。
これで終わります。

授業でいえない日本史 31話 近代 第一帝国議会~日清戦争、三国干渉

2020-08-26 12:00:00 | 旧日本史4 近代
【山県有朋内閣】(1889.12~91.5)
1889年、3番目の内閣、山県有朋内閣が成立します。出身は長州です。内閣は、長州、薩摩、長州、とくる。あと5~6回、交代交代です。
憲法が定まって、そこに国会の開き方が書いてある。


【第一回総選挙】 日本初の総選挙が行われます。衆議院議員選挙のことを総選挙といいます。1890年です。政府を支持する政党もできた。政府支持の政党、これを吏党(りとう)という。しかし政党というのは基本、政府に対して反対する人たちが、最初につくったものです。政府反対の政党を民党という。具体的には、板垣の自由党と、大隈の立憲改進党です。
どちらか勝つか、これが焦点だった。どっちが勝ったか。定数300で、129対171、民党が優勢です。政府が負けたということです。ということは議案が簡単には通らないということです。


【第一帝国議会】 この選挙結果のもとに、今でいう国会・・・・・・これは正式名称は帝国議会という・・・・・・これが1890年に初めて開かれる。
この山県有朋というのは、出身が陸軍です。長州の。ここで初登場ですけど、あの幕末時代から、伊藤博文たちといっしょに活動をやってる人です。陸軍を中心にして、独自の判断でどんどん政治を推し進めていくんだ。しかも防衛力、朝鮮半島への軍事力を強化していくんだ、という。しかし軍事力強化は、お金がかかるんです。

民党は全く反対です。明治維新以来、国民は疲れている。少しは休ませろ。税金を下げろ。つまり「民力休養経費節減」です。政府はさらに軍事力を増大しようとしているから、全く折り合いがつかない。それでどうしたかというと、最初から汚点です。お金で動かすんです。お金やるから賛成してという。国会議員に。それが自由党土佐派です。これは自由党の本流ですね。立志社以来の。ここらへんが日本の民主主義が、まだまだという感じです。
どうにか予算を通したけど、しかし汚点は残った。


【民法制定】 ではこの内閣の時に、何が起こったか。日本の民法です。我々の生活に一番関係する法律です。ふだん我々はあまり意識しないけれども、いつから成人かとか、何歳から結婚できるかとか、家のあり方とか、親の財産をどうするかとかも、そういうのは民法の規定です。夫婦関係、親子関係、そういう人間の最も基本的なことを規定するのは民法です。憲法の次は民法です。あんまり意識しないけれども。
まずフランス流の案がでた。しかし、これに対してできたばかりの東京大学の穂積八束(ほずみやつか)という教授が、こんな民法はダメだという。確かにフランスは過激な国ではある。フランス革命とかナポレオン戦争とかで。
こんな民法ができたら、我々の日本の古来の、忠孝、そういう伝統的な考え方が滅んでしまうということて、これはちょっと問題だぞ、と論争が起こっていく。そして保留になる。この論争のことを民法典論争といいます。

このことの裏には、日本は明治維新でちょんまげ切って、羽織袴を脱ぎ捨てて、背広に着替えて、ハイカラ頭で、ネクタイを吊っていく。そういう西洋化を選んだ国です。しかし一方では、そのことに対する危機感がある。これでいいのかと。日本の伝統は残さないといけないんじゃないかと。
こういうのが・・・・・・明治維新後からもう20~30年経ってます・・・・・・この時代になると出てくる。本当に日本文化は古くて野蛮なものだったのか、と。

それから7~8年経ったあとの1898年には、フランス流はやっぱりダメだ。ヨーロッパをマネするんだったらドイツ流がいいということになる。ドイツはフランスに比べると、過激ではないし、日本人と民族性が似ている、ともいわれる。これで日本の伝統的な何を守ったかというと、です。

戦後の今の日本には家はありません。法律的には、家族しかない。家は家族とどう違うのか。家には、会社の社長がいるように、家には家長がいる。この家長が、家に対して全責任を背負うんですよ。この家の構成員はこの家長の許しがないと、昔は結婚できなかった。また家長に従わなければ親子の縁を切る。これを何というか。今は死語になっているけど、これを勘当という。勘当になると、家に対する権利を失うんです。相続する権利とかも含めて。こういう権限と責任が、社長が社員に命令するように、家長つまりオヤジにある。お父さんですよ。その権利つまり戸主権を規定する。これに対しては、君たちは大時代的なと思うかも知れんけど、日本の家はこういうものでした。地震、雷、火事、オヤジと言われた時代には。戦後日本が戦争に負けてから、日本の家制度はなくされてしまいました。

もう一つ、1890年には、教育に関して天皇のお言葉、教育はこうあるべきだという勅諭を発布する。教育勅語です。また勅が出てきた。勅の意味は天皇です。いま学校が絶対守らないといけないルールに教育基本法がある。明治にはない。それに代わるものが教育勅語です。これにのっとって教育を行うことになります。


【大津事件】 では懸案の条約改正問題です。これは10年経っても20年経っても、まだ解決できない。それどころか日本は自国の司法権を外国人に譲り渡そうとさえしている。その結果、大隈重信の右足が吹っ飛んだ。それでもまだ解決できない。

この時の外務大臣は青木周蔵という人です。この青木周蔵は、イギリスと非常にうまく交渉していた。このままうまくいくかなと期待したときに、そこにちょうどロシアの皇太子・・・・・・この人は次にロシア皇帝になるニコライ2世なんですが・・・・・・この人が日本に立ち寄った。日本とロシアの関係というのは、ロシアが朝鮮に接近していて仲が悪い。
そこで、琵琶湖の近くの町に立ち寄った。琵琶湖のほとりの大津、滋賀県の県庁所在地です。そこで警護していたお巡りさん自身が、この皇太子をブスッとやる。世間は大騒ぎです。これが1891年の大津事件です。次期ロシアの皇帝をですよ。でもどうにか一命は取り留めた。未遂に終わった。彼は、のちにニコライ2世になります。でもロシア革命が起こって死んでいくんですけど。これはのちのことです。

これは間違いなく死刑だ。政府は死刑にしろと圧力をかけた。しかし、この時の最高裁判所の長官・・・・・・このとき最高裁判所は大審院といいますが・・・・・・児島惟謙(これかた、いけん)は、確かに犯人は悪いけれども、法律に従ったら、未遂事件で死刑にはできない、という。暗殺未遂事件で、罪をいくら加重しても、最高で無期懲役だ、と言った。だから無期懲役にした。三権分立では、司法は行政の圧力を受けず、法律にのみ従うのがルールなんです。これに対し政府は、頭にカッカカッカ、ときた。ロシアと戦争になったらどうするんだ、と思った。しかし外国の反応が意外だった。日本はわかってる。三権分立の意味が分かってるじゃないかと、逆に評判が高まった。そしてこの事件は、日本が司法権の独立をまもったという事件だということに落ちついた。
しかし山県有朋内閣は、この事件の責任を取って総辞職します。山県内閣はここまでです。




【松方正義内閣】(1891.5~92.7)
次は、1891年から松方正義内閣です。一度でてきた人です。何をした人か。日本銀行をつくった人です。さらにデフレ政策をとった大蔵大臣です。薩摩出身です。
今度の選挙は民党に勝つぞと、解散して選挙をやった。結果は、また負けたんです。明治政府は選挙で負け続けです。1880年代の極端な欧化政策も、国民に人気がなかった。逆に、このあと政権を取る自由民権運動の流れ、こっちの方に票が集まったという事実がある。
国会が、民党という反対政党で占められたら、政府の法律も通らない。来年度の予算の承認は国会でオーケーが出ないと決められない。だから予算をつくれない。予算をつくれなかったら、おまえじゃダメだといわれ、その責任を問われてすぐ総辞職です。国会の力で、総理大臣の首を変えることができるようになったんです。それで政府は困った。




【伊藤博文内閣②】(1892.7~96.9)
1892年、また伊藤博文内閣の成立です。2度目の伊藤内閣です。この人は、3回目、4回目も出てくる。なぜこんなに何回も総理大臣になれるのか、不思議な人です。また前の松方が薩摩だったから、今度は長州です。
これは伊藤内閣は長いです、1892年、3年、4年、5年、6年まで、足かけ5年です。なぜ長いか。ここで日清戦争がおこるからです。どんなことしてでも、これでは負けられない。


【日清対立】 朝鮮と日本の関係は、明治の初めから仲が悪かった。これは外交方針の違いからです。日本は幕末約10年間のすったもんだの末に、開国方針をとった。朝鮮半島は、なんだ大砲ぐらいで脅かされて、日本のへなちょこめ、うちは伝統的に鎖国なんだ、と言う。折り合いがつかないんですね。
今の日本は豊かになって、主食の米が余ってるイメージがあるけれども、この時は米は足らないです。日本は貧しいです。農作業はほとんど江戸時代のままなのに、この30年間で、日本の人口は1.5倍ぐらいに増えている。明治から約100年で日本の人口は3倍になります。今の少子化と違って、日本の人口がガンガン伸びているところです。だからその人口の増加に食糧が追いつかなくて、朝鮮からの食料輸入に頼っています。
しかし朝鮮は、日本に米が足らないこの時に、日本に輸出しないよ、と言うんです。日本に米を売らない、と。これを防穀令といいます。これで頭にきて、慶応大学をつくった福沢諭吉は何と言ったか。もう相手にしなくていい、と言った。これを脱亜論という。ダツアロンです。何かガンダムみたいな名前ですが、脱アジア論です。亜というのはアジアです。大東亜の亜というのもアジアです。脱亜とは、アジアを脱して、という意味です。さらに、入欧、ヨーロッパ流にやっていこう、と続きます。
日本は、とにかく朝鮮とか中国にかかわらずに、ヨーロッパの仲間入りをすればいいんだ。その背景には、中国、朝鮮は、なかなか日本の目指す近代化が進まないという事情がある。日本と考え方が違う。そういう事情がある中で、朝鮮半島と日本は、だんだんと仲が悪くなる。


【甲午農民戦争】 その朝鮮で一つの戦争というか、国内の反乱が起こる。1894.3月に甲午農民戦争が起こる。これは別名、東学党の乱ともいう。朝鮮半島ではヨーロッパの文明に対して非常に反発が大きい。ここから日清戦争につながっていきます。
日本でも幕末時には、尊王攘夷があった。外国人を打ち払えと。朝鮮では、キリスト教は西学と言われた。それに対して朝鮮の伝統的な宗教の総称が東学です。つまり西洋流に反対しようという人たちが、反乱を起こした。すると朝鮮政府は、自分では鎮圧できないから、朝鮮が親分と仰いでいる中国に応援を求めます。中国は清です。清の軍隊が応援に駆けつける。
それなら日本だって応援に駆けつけよう、と言って、日本の軍隊も朝鮮に駆けつける。朝鮮を中国に渡したくないわけです。
日本と清の両国が朝鮮に出兵して、この甲午農民戦争を鎮圧した。でもこれで終わりではない。そのまま日本軍と清軍は朝鮮から動かない。にらみ合う。こうなるともう戦争です。こうやって日清戦争のきっかけは朝鮮半島でおこる。


【日英通商航海条約】 この間、外交交渉。外務大臣も変わっています。大隈のあとは青木周蔵。この時は陸奥宗光です。実はこの人も、長崎びいきなんです。長崎の海援隊のメンバーとして活動していた人です。長崎にはイギリス人グラバーがいました。関西の人間ではなくて、東北の人間という点では珍しいですが。三菱の創始者である土佐の岩崎弥太郎も長崎で海援隊がらみなんです。大隈重信も、佐賀藩が長崎に建てた英学校を拠点にして、やっぱり長崎で活動していました。長崎つながりです。岩崎弥太郎は、長崎でイギリス人のグラバーとつながる。日本最大のビール会社、キリンビール会社は、もともとはイギリス人グラバーがつくった。キリンビールは財閥系でいうと三菱です。この三菱と大隈との関係はずっと続きます。長崎つながりは、明治の政財界にずっとつながっている。長崎がらみの人は、なぜかイギリスとの交渉でうまくいくんです。

中国と戦うためには、イギリスを味方につけないといけない。陸奥宗光はこれに成功していくんです。イギリスと、簡単に言うけれども、この時代の中心はアメリカじゃない。世界の中心はイギリスです。最大の帝国は大英帝国のイギリスです。このイギリスが、日本との条約改正にイエスという。イギリスとの間に1894.7月日英通商航海条約を締結する。日清戦争が起こる1ヶ月前です。
何を認めたか。イギリスが、日本にもっていた、日本で犯罪を犯しても無罪になるという治外法権を撤廃する。日本で罪を犯したイギリス人はちゃんと日本の法律で裁いていい。今でいうと当たり前なんですけど。それが今まではなかったんです。国が弱いとこうなるんです。それを初めて日本は撤廃した。しかもその相手がイギリスだった。イギリスがウンと言った。日清戦争の直前に日本のバックには、イギリスがいたということになる。これが8年後1902年の日英同盟につながっていきます。

では、そのイギリスはなぜ、ちょんまげ国家の日本にすりよって行ったのか。これにはちゃんと裏があります。イギリスは、日本を応援することによって、何を防ごうとしたか。イギリスの敵はどこか。実はロシアなんです。世界史でも言ったけど、19世紀末のイギリスとロシアの対立はグレートゲームと言って世界史上の大きなテーマです。そのロシアは日本よりも清を選んでる。その清を通じて朝鮮の不凍港を確保したいというのがロシアの狙いです。
イギリスにとってロシアは敵です。敵の敵は味方になる。戦争の論理は意外と簡単です。今でもそうです。敵の敵は味方になりやすいというのは、友達関係でも同じです。私がA君と仲が悪かった場合、そのA君とB君とが犬猿の仲だったら、私とB君は仲間になりやすい。逆にA君とB君が仲がよかったら、私はB君まで敵にまわすことになる。イギリスにとってロシアは敵です。ロシアの仲間が清だったら、清はイギリスの敵になるんです。あまり難しい理屈じゃない。そして清が敵だったら、清と仲の悪い日本は味方になりやすい。それでイギリスは、清と仲の悪い日本につく。基本はこれです。

先のことを言うと、これで日本はイギリスを味方につけて、まず清と戦い、次にロシアと戦う。清もロシアもこれで弱くなる。そこにイギリスの新たな敵としてドイツが出てくる。これが第一次世界大戦です。これは世界史の話ですが、このことに日本の果たす役割は大きいです。清に勝って、次にロシアに勝つ。たった10年で。これで第一次世界大戦につながっていく。
だからここの日清戦争の説明の半分は、すでに日露戦争の説明にもなっています。日清戦争、日露戦争というのは、理由の半分は同じです。連鎖しています。


【イギリスの帝国主義】 ここで日本の動きと関係の深いイギリスの動きをいいます。この時のイギリスというのは、世界のナンバーワン国家、大英帝国で、世界をまたにかけてどんどん植民地を築いています。これを帝国主義といいます。ただここでイギリスは余裕たっぷりかというと、実はイギリスも焦っています。その結果の植民地主義です。なぜイギリスは植民地が欲しかったか。

今まで産業革命でイギリス製品は世界でナンバーワンだったけれども、イギリスは1870年代からの第二次産業革命に出遅れて、物が売れなくなっています。すると製品を売る市場を求めて、外国の領地を占領していく。それが植民地です。そして保護貿易に変わる。先に支配した者が勝ちだと言って、そこに強制的に売りつけていく。分かりやすく言うと、植民地ぶんどり合戦です。
1880年代にナンバーワン国家イギリスの産業力がアメリカに追い越された。とすると、今まではナンバーワンだったら物が売れて自由貿易でよかったんですけれども、相手が強くなったらイギリスは今度は保護貿易にしようとする。
さらにドイツが急速に経済発展している。保護貿易にするためには、遅れた地域、アジアやアフリカを自分の植民地にする必要がある。そして保護貿易にして、外国製品を閉め出したら、イギリス製品が売れるんです。仮にドイツがアジアに製品を売ろうとしたら、オレの領地に何を売っているか、と言える。こういう形でどんどん植民地を獲得していく。最大の植民地を持つのがイギリスです。まずはアジアです。イギリス最大の植民地はインドです。


このような植民地支配には多額の資金が必要です。その資金を供給するのが銀行を中心とする金融資本家です。このようなイギリスの動きの後ろには、多額の資金をもつロスチャイルド家のような金融資本家の存在があります。彼らは政治家に多額の資金援助をしています。イギリス首相ディズレーリとロスチャイルド家との深い結びつきは有名です。

(金融資本による議会支配)


イギリスはまずインドを領有した。約100年前の1757年のプラッシーの戦い、それからちょっと前の1857年のシパーヒー(セポイ)の反乱です。次には、中国に1840年のアヘン戦争をしかける。1882年にはアフリカのエジプトを占領する。1899年の南アフリカ戦争では、オランダ人を追い出して、南アフリカで金を一人占めする。あそこは金とダイアモンドが出ます。お金になるところは全部取っていく。1900年代になって中東から石油が出れば、まっ先に取る。

世界史上のことをもうちょっと言うと、その結果、一番被害を受けたのが、アフリカです。数百年前から奴隷貿易の供給地にされたアフリカは、壮健な20代の男がどんどんで奴隷として連れ去られて人口が減少し、働き手がいなくなり社会が崩壊します。
そしてこの19世紀末になると、ヨーロッパはアフリカを植民地にしていく。そこにルールは、あって無きがごときものです。早いもの勝ちなんです。1880年代のアフリカの植民地は面積の10%でしたが、1900年には90%になります。アフリカはほんの10数年の間にほぼヨーロッパの植民地にされていく。
アフリカの国境は、人が住んでいるのを無視してヨーロッパ人が直線を引くから、民族が分断されていく。これがいまだに残るアフリカの民族紛争の火種になっている。アフリカがやっと独立したのは、第二次世界大戦後です。


【日清戦争】 こういうふうイギリス中心の世界情勢の中で、1894.8月日清戦争が始まっていきます。清と戦う1ヶ月前に日本は、イギリスと条約を結んだ。これが1894.7月の日英通商航海条約です。これは外交的には不平等条約の撤廃の一つで、治外法権が撤廃されますが、戦争という意味で言うと、日英同盟に結びつく第一歩なんです。
日英同盟というと、日本という弱小国家に対して、イギリスは大英帝国、世界ナンバーワン国家です。これが五分五分の対等で同盟を組むということはふつうありえないことです。そういうふうに考えたほうがいい。同盟は対等だから、日本とイギリスが対等かというと、今の日米同盟といっしょで、ぜんぜん対等じゃないでしょ。今の日米同盟が対等だと思っている人はいないとは思うけど。

ではなぜイギリスは、ちょんまげ国家だった日本と同盟を組むのか。なぜ治外法権の撤廃を認めたか。

イギリスとロシアの対立の原因は、ロシアがヨーロッパの南に向かって地中海へ出ようとしたからです。イギリスが強くなれたのは、イギリスは島国で海に囲まれているからです。イギリスは海軍の国です。ドレーク以来の海賊の伝統があります。ところがロシアは寒くて、軍艦をもっていても冬場は氷で閉ざされてしまいます。ロシアの最大の弱点はそこです。だからロシアが一番欲しいものは1年中凍らない港です。これを不凍港といいます。日本に住む我々にはピンとこないことですが、氷に囲まれた軍艦など何の役にも立たないのです。だからロシアは不凍港を求めます。これを南下政策といいますが、これに脅威を感じたのがイギリスです。イギリスはなんとしてもそれを阻止したい。イギリスは外交的手段で他の国を味方につけ、ロシアの南下を阻止します。

負けたロシアは地中海への南下がダメだったら、今度はシベリア方面を東に行こうとします。そこに軍港を建設します。ウラジオストックという軍港です。新潟県の反対側の日本海側に。しかしここは日本海に囲まれていい軍港とはいえません。地理的に、日本海から出るときに狙い撃ちされるのです。それで1890年代になると、シベリア鉄道を着工して、東へ東へと進みます。そこで目指すは軍港です。もっといい軍港をもちたい。それが朝鮮半島北部の遼東半島です。
ロシアが遼東半島に軍港をもてば、中国をねらうイギリスの脅威になります。イギリスはどんなことしてもそれを阻止したい。そこに、ちょうどいい味方がいた。これが日本です。これが日露戦争につながっていく。でも今はその前の日清戦争の説明をしています。

清はアヘン戦争以来、イギリスに痛めつけられています。でも日本は幕末以来イギリスと仲が良い。このこと自体が非常に不思議なことです。中国がアヘン戦争でイギリスに痛めつけられたのに対し、日本はこのあと1902年にイギリスと日英同盟を組みます。

そしてさらにその後のことを言えば、1930年代に日本がイギリスと対立するようになると、イギリスは中国を応援するようになります。つまりイギリスはその時その時で、日本か中国のどちらか一方しか応援しないのです。そしていつも日本と中国は対立していくのです。

この時も、清はイギリスよりも、ロシアのに近づいていった。ということは、清はイギリスの敵であるロシアの味方になったということです。国際関係は意外と単純で、敵の敵は味方になるんです。それと同じ理屈で、敵の味方は敵です。これがイギリスと中国の関係です。
そうなると中国と対立する日本は、イギリスの味方としてますます重要になる。まず清を叩こうということです。1894.7月の日英通商航海条約にはそういうイギリスの思惑があります。その路線に首相伊藤博文と外相陸奥宗光が乗ったということです。日本は、そういうイギリスの国際戦略上にある、ということです。その一環なんです。


翌月1894.8月、日本は日清戦争に入っていく。しかし内政面では、政府側と民党側というのは喧嘩して仲が悪い。平和な時には、国内で戦っていてよかったけれども、外国と戦う時は、もう内輪もめどころじゃない。民党は全面協力していく。そこには危機感があります。もし負けたら、他の国が植民地にされるのを見ているから。
このときの首相は伊藤博文です。伊藤博文は2つある政党のうちの、2つあるというのは分かるかな。政党が分からないと、二度手間、三度手間です。政党の流れを見てください。

いま政党は2つある。2つというのは、板垣の自由党と大隈の立憲改進党です。首相の伊藤博文は、そのうちのどっちと手を組むか。板垣退助の自由党と手を組む。法律をつくる時には議会の承認がいるから、議会が反対したら政治がすすまない。だから、どうしても民党の協力が必要で、自由党と接近する。その自由党の党首である板垣退助が政府側に入る。内務大臣という総理大臣に次ぐナンバー2のポストです。


民党側もこの戦争に対して反対運動は起こしません。何か大きな合意があるようです。この合意が何なのかは分かりません。ここで政府側の伊藤博文と民党の自由党との結びつきができます。このことはあとの伊藤の動きと関係します。今まで対立していた政府と民党が手を組みます。
伊藤が自由党と手を組んだということは、逆にいうと、もう一方の大隈の立憲改進党とは手を組まなかったということです。この大隈も日清戦争に対する反対運動は起こしません。

ここで戦争に突入していくわけです。第二次世界大戦のイメージでこの時代の戦争を見ないでください。全面戦争やるのは、日本は第二次世界大戦だけです。世界では第一次世界大戦からですけど。
それまでの戦争は、首都から遠く離れた場所で戦いあう局地戦です。決戦場所は、旅順・大連です。ここで日清が戦う。この旅順・大連はよく出てくる。ここに中国最大の軍港があるから。この半島を遼東半島という。ここが陸の戦闘場所になる。これは十年後の日露戦争もここです。旅順・大連を占領し、日本が勝利する。

(日清戦争)


それから、どさくさに紛れて、日本は台湾を占領する。このあと日本は朝鮮半島を植民地にしていたというとこは、みんな知っているけれど、それよりも先に台湾は日本の領土になる。第二次世界大戦で日本が負けるまで。このあと約60年間ぐらいは日本の領土です。そこに日本が置いた監督府を、台湾総督府という。だからこの時代の日本人は、よく台湾に行っている。
朝鮮半島はその後の独立があって反日ですが、それに比べたら台湾は、いまは親日国です。大陸中国や韓国に比べたら、まだ親日的です。日本語を話せる高齢者などもいます。日本の教育を受けたから。

日清戦争は、まだ終わってないけれども、のちのち関係するのが、アメリカの動きです。アメリカは、カリフォルニアに来るまで、もともと大西洋側が中心だった。イギリスとアメリカは大西洋を中心に見ると近いのです。それが西部開拓を進めてカリフォルニアにまで出てきたら、その前には太平洋が広がっています。太平洋が欲しいなと、次には太平洋にいく。それで太平洋のまん中のハワイをまず領有する。
ハワイがアメリカ合衆国だということは知っていますね。でも地理的にハワイがアメリカ合衆国である必要はないでしょう。なぜここがアメリカなのか。ここは別に王国があったんです。それを潰して領有するんです。そしてそこに軍事基地、軍港を築きます。これが真珠湾、パールハーバーです。第二次世界大戦の時に、またここが拠点になる。
次にグァムです。沖縄のちょっと東の方です。今は沖縄に米軍基地がある。米軍は退かないでしょうけど。退くとしたら、次にグァムに行く。そこにも大きな米軍基地がある。ここがあると、日本を攻撃できる。中国にも行ける。それよりもっと近いのが沖縄基地です。
それからフィリピン。ここもアメリカは植民地にしたけれども、今は独立した。めざすは、ペリーといっしょです。ペリーは日本が欲しかったんじゃない。中国が欲しかった。これはずっと繰り返しで戦後も行きますから、同じような話をまたするかも知れません。


【下関条約】 日清戦争は日本が勝った。講和条約は勝った国で結ぶ。これが1895年の下関条約です。なぜ東京ではないのか、大阪でもないのか。伊藤博文は山口県の人間です。伊藤博文は幕末にここで活動していた。嫁さんもこの下関の芸者梅子です。そのなじみの店、下関の春帆楼というところでやります。春帆楼には今もこの時に交渉した部屋が保存されています。交渉相手は、李鴻章という前に一度でできた人物です。

そこで何が決まったかというと、すぐ朝鮮が日本の植民地になったというのは、まだ早いです。朝鮮は親分は中国だったんです。植民地にする前に中国との関係を切りたい。だから国は国として、民族は独立しないといけない。こういわれると、中国は反対しようがない。まず中国との縁を切って、朝鮮を独立させる。外交上の言い方としては、こういう言い方をします。親分の権利、これを宗主権といいますが、これを否定する。

さらに中国から領地をもらう。これが遼東半島です。これはあとで、すぐ出てくるけれども、ロシアが横取りします。そこに旅順という軍港があるから。もらいたくて仕方がない。
もう一つが、台湾です。日本は台湾を領有します。

そして負けた側は、お金を払わなくてはならない。賠償金です。2億両、テールという。2億テールです。これで日本の勝利です。1年もかかりません。当時の戦争はそれぐらいです。太平洋戦争のように5年も6年もかけて、やるなんてことは異常です。


【三国干渉】 日本は、勝った勝った、と言っていたら、その年がまだ終わらないうちに、三国干渉が起こる。独立国は、他の国から、指図される筋合いはありません。そんなことを言われたら国際法違反です。これを内政干渉という。内政干渉されない国、それが独立国の証しです。しかしこれが今の日本で分からないのは、日本はしょっちゅうアメリカから要求をつきつけられて、それを断ることができなくなっています。それが当たり前になっていますが、本当は、隣のおじさんから自分の家のことに口出しされる筋合いはないのと同じで、よそから何か言われれば、ウチのことだから口出しするな、と言うものです。
要求したのはロシアです。でも1人では言いにくいから、ドイツを誘い、フランスも誘って、そんなことしたらダメじゃないか、中国の領土をぶんどったらダメじゃないか、ちゃんと返しなさい、という。これが三国干渉です。それで遼東半島返還です。代わりに、3000万テールをやるから。10万やるからみたいなものです。


そしてその遼東半島は、中国からロシアがもらうんです。こういうのが国際政治ですよ。理屈が立ってないじゃないか。その通りです。理屈は立ってません。唯一、理屈というものがあるとすれば、悲しいことに武力です。軍事力です。このことは教育的じゃないから、君たちにそうしなさい、とか言うことをいっているんじゃないです。でもこういうことがあったということです。

ロシアが遼東半島を領有する。これで日本は頭にきたんだけれども、じっと我慢の子であった。なぜか。勝てないからです。ロシアに。それで合言葉、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)という。意味が分からないでしょう。臥薪嘗胆とは、冬に冷たい薪のうえに尻をつけて、苦いキモを噛む。腹が煮えくり返るのを我慢して黙って耐えることです。臥薪嘗胆で行くしかないんだ、という。

日本人が何を思ったかというと、うちの親父やオレの兄貴が日清戦争で戦死したのは、何のためか、国が弱いというのは本当に情けないことだな、こういう国権論というのが出てくる。国が弱いとみじめだ、と思いだす。
それで、日本もほめられないこともしますね。朝鮮半島は、もともと親分が中国だったのが、日本に頭下げないといかんようになったということで、閔妃という王様の嫁さんが日本に反発するんです。日本なんかイヤだ、といって、反日政策をとった。それで日本は閔妃を殺します。ここらへんから関係が悪くなる。朝鮮は、日本よりもロシアだと、親露政策をとりだす。名前も朝鮮から大韓帝国と変えていく。これらへんからこじれていくんです。

なぜ日本が朝鮮半島にこだわるか、というのは言いました。軍事上の理由からです。だからここを敵にまわしたら、日本の命取りになる。しかし遼東半島先端の旅順はロシアのものになった。
これで終わります。

授業でいえない日本史 32話 近代 日清戦争後の内閣~立憲政友会の成立、明治の社会問題

2020-08-26 11:00:00 | 旧日本史4 近代
【日清戦争後の内閣】
【松方正義内閣②】
(1896.9~98.1)
日清戦争後の内閣は、伊藤が長州だった。今度はまた薩摩の松方正義です。ずっと薩摩と長州のたらい回しです。
下関条約の翌年の1896年に、松方正義が内閣総理大臣になる。内閣を組織したら、国会があるから、国会議員に賛成してもらわないといけない。伊藤が自由党と手を組んだら、この松方は立憲改進党あらため進歩党と手を組む。もともと何か、立憲改進党です。こうやって名前が変わっていくんですよ。党首は大隈重信です。佐賀の大隈と手を組む。だから松方と大隈の字を取って松隈(しょうわい)内閣とも言う。大隈はそれまで政府を批判する側だったけれども、政府側に入って外務大臣のポストを得た。

ただこの松方正義は、外交というより、専門は実はお金なんです。以前は、大隈重信が大蔵卿の時代にその大蔵省の官僚として活動していた人です。それが1877年にヨーロッパに金融制度を調査に行ったことをきっかけに急速に出世していきます。1881年の明治十四年の政変で、大隈に代わって大蔵卿の座について以来、この時まで、日本の大蔵大臣のポストにはほぼこの人が独占しています。1882年に大蔵卿として日本銀行を作ります。

そしてこの時も自ら大蔵大臣を兼任し、1897年に西洋流の金本位制を確立します。この資金源になったのは日清戦争の賠償金です。この内閣の目玉は、初めからこれだったような気がします。

この松方がやった日本銀行設立と金本位制度確立は、目立ちませんが、かなりお金のかかることです。アメリカの金本位制度の確立はそれより3年遅い1900年ですし、中央銀行設立はさらに遅い1913年です。しかもこれには賛否両論あり、とくにイギリスを中心とする外国の金融家たちの利害が大きくからんできます。
日清戦争でお金を使い果たして日本政府にはお金がない。それにもかかわらず、松方正義は、1897年に無けなしの金を金本位制のために使ったのです。日清戦争の賠償金が手に入ったのをこれ幸いに、一気にやった感じです。

その結果、次の伊藤博文内閣は、増税しようとして、これがなかなか議会を通らず苦しみます。松方正義がなぜ西欧流の金融制度である中央銀行制度や金本位制にこれほどこだわったのか、不思議な感じがします。日本の財政事情はそれを許す状況にはなかったのです。




【伊藤博文内閣③】(1898.1~98.6)
次に伊藤がまた、オレがやる、という。1898.1月です。第三次伊藤博文内閣です。また長州です。伊藤は、お金が足りない、税金を増やさないといけない、と言う。地租増徴です。日本人の8割以上は農民ですから、地租です。なぜ税金を増やさないといけないか。日清戦争でお金を使い果たして政府にはお金がないからです。

今までイギリスびいきだった伊藤は、このころから微妙に動きが変化します。時代はますますイギリス寄りになって、1902年の日英同盟、1904年の日露戦争へと向かって動き始めますが、伊藤はイギリスとの接近を避け、ロシアとの接近を模索し始めます。そしてロシアとの戦争を回避しようとします。このような伊藤の変化がどこから来るのか、それは分かりませんが、日清戦争後は今までの伊藤博文の動きとは、かなり違ってきます。

税金取ることには民党は反対する。法案はとおさない。税金を取るといっても、法治国家は。8%、10%にするというのは、法律を決めないといけない。今の消費税でもそうです。しかし国会はこれを否決する。そうすると増税法案が通らずに、政府は暗礁に乗り上げる。

すると政府の増税案を否決した二つの民党同士が仲良くなる。二つの政党とは、自由党進歩党です。そこで、政府と対決するためには、二つに分かれているより一つにまとまったほうがいいぞと、この二つの政党が合体します。この合体した政党を憲政党といいます。
政党系図の1898年のところが憲政党です。この代表に大隈重信が就任します。
すると伊藤は大隈に言うんです。大隈さんよ、おまえヤル気か、それならやってもらおうじゃないか、オレは退くよ、と言う。

(政党系図)





【大隈重信内閣】(1898.6~98.11)
これで、憲政党の党首として、大隈重信が総理大臣になります。1898.6月です。この時、大隈重信は、国会の過半数を占める憲政党の党首として、総理大臣になったんです。そしてそれを天皇が認めたのです。
つまり今の政治のスタイルと同じです。いまも自民党が過半数をとる最大政党だから、その自民党の総裁が日本の総理大臣になってます。
これが日本初の政党内閣です。その日本初の政党内閣の総理大臣に大隈重信が就任したということです。今でいえば自民党にあたるのが、この憲政党です。首相に進歩党の大隈重信、内務大臣に自由党の板垣退助がなる。だから隈板(わいはん)内閣ともいいます。

ここで初めて、内閣総理大臣が、長州、薩摩、長州、薩摩と続いていたものが途切れた。肥前の大隈重信が首相になった。薩摩・長州以外の初の総理大臣が、初の政党内閣の総理大臣だということです。そしてナンバーツーの内務大臣には、土佐の板垣退助がなった。見方を変えれば、今までの薩摩・長州政府に対して、土佐・肥前政府が成立したようにも見えます。

ここで政党政治が始まろうとした。しかしこれはうまくいかなかった。伊藤は、やれるもんならやってみろ、やれるものか、と思っている。
もともと仲の悪かった自由党と立憲改進党(ここでは進歩党)という2つの政党が合体したわけです。
ここで尾崎行雄という人が、国会演説でいらないことを言うんです。これは共和演説といいますが、これで揚げ足をとられて、合体した政党がまたすぐ二つに分裂する。それで終わりです。1年もたない。半年ももたずに1898.11月に崩壊する。

二つに分裂した政党はまた名前が変わります。名前は自由党と言わななくなります。自由党は先に憲政党と名乗る。名前は早い者勝ちです。憲政党がつぶれた。それでオレたちは別の政党をつくった。名前は憲政党です。
大隈の進歩党系は、やられた、と思う。そこで、俺たちが本物だと、憲政本党と名乗る。でも本家は本家といわないのです。本家は黙っていても本家なんです。これからは、憲政党が一番、憲政本党が二番の政党になっていく。政党系図では、左が憲政党、右が憲政本党です。そういうふうに半年でつぶれた。




【山県有朋内閣②】(1898.11~1900.10)
次に出てくるのが、こういった時がちょっと恐い。反動が来るんです。軍部が出てくる。もう一人の隠れた人物、もと総理大臣で軍部のドンです。また長州です。山県有朋です。1898.11月第二次山県有朋内閣が成立します。


【中国の状況】 
ここで中国に目を向けると、この人がやったわけではないけれども、日本に負けた中国のその後です。中国は眠れる獅子と言われていたけれども、ぜんぜん強くないぞと、実体をさらしたんです。そしたらヨーロッパ列強は容赦ないです。早い者勝ちで、あっという間に虫食い状態になる。


(列強の中国分割)


イギリスの勢力圏です。イギリスが緑の部分をほぼ勢力圏に納める。長江流域です。その長江の下流に南京があり、河口付近に中国最大の都市上海があります。ここにはイギリスの租界があり、中国の権力が及ばない一画がつくられます。イギリスの中国進出の拠点になります。10数年後の辛亥革命の発端になるのは、ほとんどはこの地域からです。のちの革命指導者になる孫文蒋介石も、この上海の財閥と非常に深い関係にあります。

あと重要なところは香港です。香港は島です。向かいに半島がある。これを九龍半島という。今ここまでふくめて香港だといっている。イギリスは九龍半島をとる。九龍半島は香港です。やっと中国に返したのは100年後、平成になってからの1997年です。
香港の隣にマカオがある。これ昔からポルトガル領です。香港・マカオの旅、とかよく言いますが、今から20年までは植民地だった。東洋最大のマカオ、ここに何があるか。あまり行かないほうがいいけど、カジノです。賭博場です。多分ここは濁った金が、ロンダリングしないと行けないような金が、いっぱい動いているところです。

それから、ロシアは北から北京付近まで降りて来ています。
フランスはこっち、ベトナムの方です。南から来ます。
弱かったら虫食い状態にされる。これが19世紀ですね。このあと2回も世界大戦するまでわからない。2回で終わらないかも知れないという話もあります。

それから、もう一つ。これに出遅れたのが、アメリカです。アメリカもホントは中国が欲しい。欲しいんだけれども、出遅れたから、何と言うか。門戸を開放しましょう、みんなに平等に、という。これを門戸開放宣言といいます。でもこれは、自分が欲しいからです。アメリカは満州も狙っています。それでこのあと、アメリカは日本と戦うようになる。中国をめぐってです。前に言ったように、このためにハワイを取って、グァムを取って、フィリピンを取って、ホントは中国に行きたいのです。ただ出遅れています。
こういう状態になると、中国の民衆は、腹を立てるときにはすごいんですよね。暴動が起こっていく。


【変法自強運動】 政府側も、これはいかんということで、近代化政策に乗り出します。これを変法自強運動という。変法というと、変なことではなく、大まじめで近代化のことです。これをしようとしたのは康有為という人ですが、うまくいかなかった。それは皇帝が悪かったんじゃない。皇帝の側室です。正室の東太后と側室の西太后がいて、そのうち西太后は役人の娘です。しかも美人です。でも政界に入ると、政敵を次々に殺していきます。西太后は、正室の東太合を押さえてのし上がり、皇帝の実母として皇帝を尻に敷いていく。そして自分の甥っ子の皇帝まで廃位する女傑です。この西太后が変法自強運動に反対して、失敗していく。

ただこのとき中国人のなかでちょっと頭がいい人たちは、東洋で近代化に成功しているのは日本だから、日本に行って勉強しないといけない、と思っている人がかなりいます。だから日本に多くの中国人がやって来ます。東京にも。のち清朝を倒すことになる孫文も、東京で活動しています。


【義和団事件】 そこで中国政府がゴタゴタしているウチに、中国民衆は、自分の国が外国の餌食になっている状況に腹を建てて、反乱が起こします。これが1899年義和団事件です。
これには白蓮教という宗教が絡んでいます。白蓮教というのは、中国の伝統宗教の一つですが、義和団が何を唱えたか。清を支えようじゃないか、外国が中国を食い物にしている、そういう悪い西洋を滅ぼそう。これが「扶清滅洋」です。日本でいうと、尊王攘夷みたいな感じです。外国人を打ち払おう、と。
そして実際に、外国公使館を打ち払っていく。日本でも若いころの伊藤博文はこういうことをしていましたね。しかし外国の公使館を襲うことは、立派な戦争理由になります。
中国での暴動は、石投げたり、暴動起こしたり、今でもニュースで流れています。中国人が暴動を起こす時は今も過激です。でもこうなると、公使館保護の名目で出兵できる。

この時代はまだ飛行機がないから、ヨーロッパからは数ヶ月かかる。でも日本からだったら1週間で行ける。さらにイギリスはこの時、南アフリカ戦争で忙しく、兵力が足りません。そこでイギリス首相のソールズベリは日本に出兵を要請します。首相の山県有朋は、これを受けて1900.6月に中国への出兵を決定し、義和団事件の鎮圧に中心的な役割を果たします。その結果、日本は「極東の憲兵」と呼ばれるようになります。この時の山県内閣の陸軍大臣がのちの首相になる桂太郎です。これが1900.6月北清事変です。

◆ 日本政府はイギリス政府からの積極的な要請もあり、各国と打ち合わせて、その賛成もえたので、7月初旬ようやく一個師団の出兵を決定した。(日本の歴史22 大日本帝国の試煉 隅谷三喜男 中公文庫 P228)

◆ ロシアの権益拡大を怖れるイギリス首相のソールズベリー卿は、日本に対して6月23日、7月5日、7月14日と再三にわたって出兵を要請した。また、2回目と3回目の出兵要請の際には、財政援助も申し入れている。7月5日の要請は特に、ソールズベリー侯が列国を代表するかたちでおこない、なおかつ、出兵可能な国は日本だけであり、反対する国は無いと明言したのであった。 第2次山縣内閣はこの要請を受けて1900年7月6日に増派を決め、7月18日に大沽に上陸し、7月21日は天津に達した。 (ウィキペディア 義和団の乱)

もう1900年代、20世紀になりました。これにまっ先に駆けつけて、暴動を鎮圧する中心になったのが日本ですが、日本と同じく大軍を派遣し、満州を占領したのがロシアです。そしてロシアはこのあとも満州を占領し続けます。イギリスによる日本への出兵要請は、このロシアの動きを押さえ込む意図もあったのです。このことがのちの1904年の日露戦争につながります。

しかし伊藤博文はこれは危険なことだと思っています。今までイギリスびいきの伊藤でしたが、このあたりから急に動きが変わっていきます。伊藤はイギリスとの距離を取り始めます。伊藤の政治活動の中でこの変化は非常に大きなことです。

しかしそれは自分の政治的な力を低下させることにつながります。自分の政治力の源泉であるイギリスに代わって、それを民党の支持に求めていきます。
伊藤はここから急に民党、とくに憲政党に接近していきます。日清戦争の時も、当時首相だった伊藤博文は、憲政党の前身であった自由党と協力しています。

それと同時にロシアに接近して、ロシアとの戦争回避に努めるようになります。イギリスに同調する日英同盟論に対して、伊藤のこの主張は日露協商論と呼ばれます。


【治安警察法】 では山県内閣の内政です。1900年、山県有朋内閣は、治安警察法をつくる。戦争に向かうかも知れないときに、何が給料上げろだ、休みをくれだ、労働運動だ、バカヤローと、そんなものは抑制していく。労働運動の抑制です。
これは不法な運動の取り締まりだからまだ序の口です。これが昭和になると、頭の中で考えたことさえ罪に問われることになる。こうなると最悪です。


【軍部大臣現役武官制】 それから軍政面では軍部大臣現役武官制が制定される。
これは説明が必要です。日本には陸軍大臣、海軍大臣があります。今の防衛大臣です。これには軍人がならないといけない。それでいいじゃないか、思うかも知れない。しかし軍部に対して、内閣総理大臣は命令権がもともとない。これが統帥権の独立だった。


では軍部が内閣と仲が悪い場合、どうなるか。軍人に、陸軍大臣になってくれ、と言っても、イヤだ、という。では他の者に頼もうとすると、おまえたち、分かっているだろうな、と軍部のドンが言う。そうなると誰もなり手がない。軍部にはそういうことができる。そしたら内閣総理大臣は組閣できない能なしになる。内閣さえ作れない。すると能力のない人間は、やめないといけない。内閣総理大臣を辞めることになる。どういうことか。内閣より軍部が上になるのです。そういう危険性をはらむ制度です。
これがズルいのは、本文の下の但し書きに、軍部大臣現役武官制を書くのです。陸海軍大臣は現役の武官に限る、と小さく書いてある。武官というのは軍人のことです。


【立憲政友会の成立】 それに対して政党側はどういう動きをしたかというと、分裂した後の旧自由党、つまり憲政党です。政党系図の左側です。山県内閣批判にだんだんと傾いていく。同じ長州人だけれども、山県に比べたらまだ伊藤がいいぞ、と伊藤博文に接近していきます。自由党党首だった板垣退助は力を失っています。それで伊藤博文に、オレたちのリーダーになってください、と頼む。伊藤は今まで政府の重鎮で、民党とは対立していた側の人です。民党にとっては、伊藤は政府の人間です。その伊藤に、リーダーになってください、と頼む。すると伊藤も、分かった、という。

こうやって伊藤博文が憲政党の総裁になる。総裁になった瞬間にこの政党は、憲政党は名前を変えます。これが1900.9月立憲政友会の成立です。この政党がこのあとの日本の敗戦まで、約45年続きます。立憲政友会は、もとはといえば自由党です。


この伊藤博文と立憲政友会の結びつきが、どういう合意のもとで行われたのかは分かりません。伊藤博文の日露協商論は、4年後におこる日露戦争に反対するものです。民党は、1890年の第一帝国議会の時には、軍事費の増大に対して「民力休養・経費節減」を唱えて反対しています。そういう意味では、この時には、目の前に迫りつつある日露戦争に対して、ともに反対の立場です。
しかしこのことの意味はもっと先を考える必要があります。日露戦争に反対の立場をとることは、将来的にイギリスに対して同調しないことを意味します。
伊藤博文がイギリスの政策に何を感じ取ったのか。今までイギリスびいきだった伊藤博文が、なぜここで急にイギリスから離れようとしたのか、私は寡聞にしてよく知りません。しかしこのことの意味はとても大きなものです。伊藤博文はここで、自分がつくってきたイギリス寄りのルールを、自ら壊す方向に行ったのです。そしてその伊藤の考えに、立憲政友会が同調したのです。

自由党が憲政党となり、憲政党が山県批判に大きく動いて、トップに山県に対抗できる藩閥政治家を持ってこようとした。そのトップが伊藤博文です。そして立憲政友会として生まれ変わった。そこで伊藤博文は、右から左に180度変わるんですよ。政府批判側の政党の党首になる。同時に憲政党は名前を変えて、立憲政友会となる。そしてその総裁に伊藤博文がおさまる。
政党系図の1900年の政党が立憲政友会です。そしてこの立憲政友会を母体にして、山県内閣を打倒していく。


これに対して大隈重信の憲政本党(もと立憲改進党)は、結成当時からずっとイギリス寄りです。大隈がつくった日本初の政党内閣も、イギリスの議院内閣制をまねたものです。伊藤博文はこの大隈の憲政本党とは手を組まなかった。それは伊藤と大隈との個人的な対立というより、大きな政治方針の違いを見て取ることができます。
このイギリスに対する方針の違いは、このあと日本に原爆が落ちるまで、言葉を変え、形を変えながら、ずっと続くことになります。大きな目で見れば、現在の自由民主党内の派閥にまで続いていると見ることができます。




【伊藤博文内閣④】(1900.10~01.5)
山県内閣を立憲政友会の力によって倒したから、その党首が、次の内閣総理大臣になる。これが伊藤博文です。1900.10月第四次伊藤博文内閣の成立です。この時の与党は立憲政友会です。



【北京議定書】 1900.6月の北清事変以降、日本軍が中心になって義和団事件は鎮圧されますが、ロシアの満州占領は続きます。そのなかで清との交渉が進みます。清は、ごめんなさいの協定を結ぶ。これが1901.9月の北京議定書です。日本は、3ヶ月前の1901.6月に桂太郎内閣に交代しています。もう動乱はおさまりました、ではみなさん軍隊を引き上げましょうね、となる。しかしロシアは、満州を占領し続けます。

日本は朝鮮からもっと北の満州まで行きたかったんです。何ということだ、ということに、ならざるを得ない。これをどうするか、約1年半、押し問答が続く。あとは水面下の外交です。日本はイギリスを味方につけないと勝てない。イギリスはシメシメです。日本がロシアと戦ってくれるなら、日本を応援しよう。そこでロシアが弱ったところを叩けばいい、と思う。
それが1902年の日英同盟になり、さらに1904年の日露戦争につながりますが、伊藤博文がこのことを危険なことだと思っているのは、先に言った通りです。長年イギリスの意向を受けてきた伊藤は、イギリスの狙いがすぐに分かったのです。伊藤はここで初めてイギリスとつきあうことのリスクを感じたのではないでしょうか。

イギリスの意向に従って戦った日清戦争も危ない賭けだった。伊藤は首相としてその戦いを行った。しかしロシアとの戦争は、それとは比べものにならないくらい危険が大きい。実際、世界では日本がロシアに勝てるなど誰も思っていません。もし負ければどうなるか。日本はとんでもないことになる。そんなことをイギリスは日本に求めている。本当に今までのようにイギリスに従ったままでいいのか。伊藤博文のイギリス離れは進みます。


【貴族院の反対】 民党はもともと政府を批判する側だった。伊藤博文はもともと批判される側の政府側のリーダーだった。このような伊藤の動きに対して、貴族院が、この内閣はおかしい、敵なのか味方なのか分からないという。だから貴族院はこの伊藤内閣に反対します。当時貴族院と衆議院は対等だったから、貴族院の同意が得られなかったら、伊藤は政権運営ができなくなります。
それで、この内閣は8ヶ月の短命に終わります。これが1901.5月です。政府のリーダーとして4度首相を務めた伊藤ですが、イギリスと距離を取り始めたとたんに伊藤は政府から追い出された形になります。

ここで1800年代の終わり、19世紀の終わりです。ここまでが、一つの区切りです。

この19世紀が終わった段階で、明治政府のドン二人といえば、伊藤博文山県有朋になります。どっちも山口県人、長州の人間です。政府のドン二人が、長州閥で占められたことになります。薩摩の人間はこのあとほとんど出てきません。今まで薩摩と長州が交代交代で政権を担当していましたが、それが肥前の大隈内閣ができたところでそれが終わます。そして残った政府のドン二人は、どちらも長州の人間だったということになります。この二人の対立は何か。イギリスと距離を置くか、近づくか、その違いです。

このあとも長州出身の首相はよく出てきますが、薩摩出身の首相は大正時代の山本権兵衛を最後に出てこなくなります。

しかし伊藤も山県も、60~70歳ぐらいです。いい歳だから、政界を引退する。ここで政治の中心は、彼らの次の世代に変わっていきます。たまたまちょうど1900年を区切りに、そういう世代の交代があります。ただこの二人は、政界を引退はしても、背後から政府に影響を及ぼす力をもちつづけます。



【内閣覚え方】 「イクヤ マイマイ オヤ 伊藤だ
イ   伊藤博文内閣①
ク   黒田清隆内閣①
ヤ   山県有朋内閣①
マ   松方正義内閣①
イ   伊藤博文内閣②
マ   松方正義内閣②
イ   伊藤博文内閣③
オ   大隈重信内閣①
ヤ   山県有朋内閣②
伊藤だ 伊藤博文内閣④







【資本主義の発達】
日露戦争のことは、このあとでやりますが、この明治中期の社会産業面に行きます。日清戦争の頃に、日本で産業革命が本格的におこりだす。1880年代から1890年代にかけてです。すぐに重工業には行かない。まず軽工業です。
産業革命は軽工業の中の何から起こったか。綿ですよ。イギリスと同じです。綿を作る産業が紡績業です。まず糸です。糸を織って世の中が変わる。その糸を織って布になる。これを綿織物業といいます。兄弟のようなものです。この近くにも大きな紡績会社がありました。いまは公園になってますけど。あの公園の東側の南北の通りは紡績通りというんです。今の高校生は知らないかも知らないけど、我々の世代にとっては紡績通りです。その紡績です。県内最大の紡績会社があったところです。これが産業革命の花形です。

技術面では、もともと手で紡いでいたのを、動力を取り入れてたらガラガラ音がしたからガラ紡という。これで非常に効率が良くなる。そして本格的な機械紡績になる。知らないかもしれんけど、化粧品会社のカネボウの正式名称は何か。最近男でも化粧品を買っているんでしょう。君たちも買っているの。男の化粧品とか。カネボウというのは、鐘淵紡績です。鐘淵は東京にある地名です。そこにあった紡績会社です。紡績は、今から40年前ぐらい前に円高でつぶれて、その後、化粧品会社に衣替えしたんです。
この時代の最大の紡績会社は、大阪の大阪紡績会社といって、渋沢栄一が作った。

製糸業は日本の伝統として残ります。これは生糸です。これは繊細すぎて機械生産には向きませんが、輸出品として外貨を稼ぎます。これは輸出の花形です。


【明治の社会問題】
【労働問題】
 政治・経済でやったように、産業革命が起こると同時に、労働問題がおこってくる。お金はお金があるところに集まる習性がある。すると社長だけが儲けて、労働者は貧乏なまま、低賃金・長時間労働を強いられる。こういう実態が日本にも表れてきて、今はないけれども当時東京周辺ではスラム街があった。非常に貧しい人たちが密集して住む。東南アジアの首都近辺では今でもあります。そういう日本の下層社会というものを丹念に調べた本、これが横山源之助の「日本の下層社会」です。これが1899年です。

これに触発されて、その4年後には、政府もこれじゃいかん、本格的に調べようと、農商務省が調査をして本にまとめる。これを「職工事情」という。
工場労働者のことは当時「職工」という。実は工場労働者は、日本は「女工」から始まったんです。それが男に変わった。職工は男の工場労働者です。こういう長時間・低賃金労働をどうにかするための、保護するための法律として、この資料を基にできた法律が工場法です。一方では政府も労働者保護にまわる。
それでもまだ不十分だから、労働運動、労働組合を作りたいという運動になる。戦後は認められたけれども、この当時はまだ認められてないです。弾圧される運命にある。しかしこういう運動がだんだんと起こってくる。


【労働運動】 最初、職工義友会というのが、1897年、日清戦争の3年後にできる。つくった人は高野房太郎といって、アメリカ仕込みです。小泉政権の時、アメリカ帰りの金融大臣で竹中平蔵という人がいました。あの人は逆に派遣労働とかの低賃金を進めたほうですけど。
それが同じ年に労働組合期成会というものに発展する。労働組合の作り方教えますよ、という団体です。こうしたときには、こうしたらいいですよ、妨害うけたらこうしたらいいですよとか。こういう労働運動の走りもできた。これが明治の中期です。


【公害問題】 一方では産業革命の裏側につきものの公害問題が早くも発生する。日本初の大々的な公害です。栃木県の足尾というところに銅山がある。銅は貴重品です。10円玉は銅でしょ。もともと茶色でしょ。錆びると何色になるか。あれ毒を持つんです。緑になって。緑青という。そういうことを知っていながら、どんどんどんどん川に流す。近くの渡良瀬川に。これが1890年の足尾銅山鉱毒事件です。そこは100年以上たっても、今でもペンペン草しかはえない。自然は一度汚染されると、なかなかもとに戻らない。こういうのが垂れ流しされている。これは大変だということで、地元の国会議員の田中正造という人が、議会に訴えるんだけれども、無視される。天皇に直訴までする。それでも取り上げられない。最後は、このために戦って無一文で死んでいった、そういう気骨の人です。


【社会主義運動】 労働運動は次の段階になると、社会主義運動につながっていきます。単純にいうと、政治・経済でもやったからサラッと行くけれども、人間は2種類しかいない。労働者と資本家です。働く人と働かせる人、平社員と社長です。

労働運動とは、労働者は低賃金で生活に困ってるから、保護しようというものです。しかし、これを理論的に考えていった場合、社長、資本家などの大金持ちがいる限り、そこにお金が集中して、労働者には富が回ってこないんだという考えが出てくる。これが資本家の否定になります。こうなると資本主義体制を壊して、社会主義国家をつくろうとなる。これがマルクス主義です。
こういう考え方が日本にも思想として入ってきて、そうだ、そうだ、そうに違いない、という人も増えてくる。結果的に我々は、今から30年前にソ連がつぶれたから、これは失敗したということを知っているけれども、この時にはそういう動きが実現可能だと思われていた。

そのための第一歩として1898年に社会主義研究会ができる。研究会ができると次には政党ができる。3年後の1901年に社会民主党という社会主義政党ができる。日本初の社会主義政党です。日本を社会主義国家にしていこうという政党です。
しかし、できたその日に即刻禁止です。当時の政府はこういうことができる。日本はただ法治国家だからか、即刻禁止できる法律がないといけない。その前年の1900年に、治安警察法という法律を山県有朋がつくっていた。労働運動はこうやって弾圧されます。


【政府の弾圧】 そういう政府の弾圧もある中で、1人の人間が処刑されていく。1910年、このちょっとあとで、日露戦争後ですけれども、大逆事件というのが、第二次桂太郎内閣の時におこる。これは結論をいうと、ホントなのかどうかわからないんだけれども、天皇暗殺を企てた容疑で逮捕され、否認するんだけれど、イヤ間違いないとして、処刑される。これが幸徳秋水です。
幸徳秋水に、あまり支持があつまらなかったのは、この人の結婚観がちょっと異様なんです。嫁さん子供がおりながら、別の女性・・・・・・管野スガというんですけど・・・・・・そういう人と同棲していたりして、その私生活が今から見ても非道徳的なんです。そういうことで彼には支持があつまらなかった。そういう私生活が社会主義思想とどう関連するかというところは、難しくてよくわからないけど、この社会主義思想が当時の日本人の道徳観を壊す恐いものと受け止められたのは確かなようです。
これで終わります。

授業でいえない日本史 33話 現代 日露戦争~明治の文化

2020-08-26 10:00:00 | 旧日本史5 20C前半
【桂園時代1】
では日露戦争に行きます。1800年代が終わって1900年代です。ここで区切りです。同時に前に言ったように、ボス2人、山県有朋伊藤博文が引退した。そこで次の世代にバトンタッチした。ただ彼らは本当に引退したのかというと、最高顧問みたいな形になるんですよ。こういうのは制度上はないけれども、実際はあって、元老と呼ばれます。こういう隠然とした力を持つ。お互いにやっぱりリーダーシップを争うんです。伊藤系と山県系が。

山県有朋は陸軍出身ですから、彼の子分の陸軍大将の桂太郎、これが次の総理大臣になる。やはり長州です。桂太郎は木戸孝允と同じ一族です。木戸孝允は若い頃は桂小五郎といって桂家の出身です。木戸孝允は同じ一族の桂太郎を若い時から支援していました。そういうことを考えると長州閥の本流は伊藤博文からこの山県有朋系に変わっています。


それに対して、伊藤博文は政党政治家に転身したから、その子分は西園寺公望(きんもち)です。この人は、名前からわかるように京都のお公家さんです。政治家として有能でもある。だから長州閥は伊藤系ではなく、山県系に受け継がれていきます。
これから十数年、桂と西園寺が交代交代に内閣を何回もつくっていく。だからこの十数年を桂の桂と西園寺の園をとって、桂園時代といいます。伊藤博文は長州閥に対立する存在となったのです。



【桂太郎内閣①】(1901.6~06.1)
伊藤博文内閣のあとは、それに対立する山県系の桂太郎内閣です。1901.6月からです。山県有朋の子分の桂太郎です。長州の人間です。今の安倍首相も長州です。山口県人です。長州閥というのは戦後も続いています。日本の総理大臣の出身県でだんとつ多いのは長州です。



【日英同盟】 内閣成立から3ヶ月後の1901.9月に、北清事変後の北京議定書を結びますが、ロシアは満州を占領し続けた、ということはすでに言いました。その2ヶ月後の1901.11月に、イギリスの外相から、日本に対して日英同盟を締結したいとの申し出があります。この時のイギリスは世界のナンバーワン国家で、どこの国とも同盟を結ばず、それを「光栄ある孤立」として誇っていました。そんなナンバーワン国家がなぜ後進国の日本と自分から進んで同盟を結ぼうとするのか。それにはちゃんと理由があるということもすでに言いました。
なぜちょんまげ国家だった日本が、あの大英帝国のイギリスと対等同盟を結べるのか。本当は結べないんです。イギリスは日本にやらせたいわけです。

それ以前の中国情勢は、中国で義和団事件が起こって、北清事変になった。そこに列強が軍隊を中国に派遣する。そして義和団を鎮圧する。では国に戻りましょうといいながら、ロシアはそのまま満州の占領を続ける。日本は、朝鮮からもっと北に行きたかったけど、そこを先にロシアが取る。その前には、日清戦争後の三国干渉で、日本に遼東半島を返せといったあと、そこをロシアが取っている。

ではどうするか。伊藤博文はロシアには勝てないと思う。ここは涙をのんで手を組むしかない。これが日露協商論です。これが伊藤博文です。ここで伊藤博文は、イギリスの意向と逆の方向に動いたことになります。
このころイギリスで賭けが流行ったといいます。日露戦争でロシアが勝つか、日本が勝つか。掛け率は10対1で、圧倒的にロシアの勝ちです。ほとんどの人は日本が勝てるとは思っていない。私はこれが世界の常識だと思います。伊藤博文のこの判断は、世界の常識をふまえた非常に適切なものだったと思います。


しかし日露戦争の勝利のあと、これはあとでも言いますが、1905年に伊藤博文は韓国統監府の初代長官となり朝鮮の経営にあたりますが、日英同盟に反対していた元老の伊藤博文が日本の最前線である朝鮮経営の現地責任者になるというのも意外なことです。さらにそのあとの1909年に満州のハルビン駅で暗殺されたことも含めると、何か不自然なものを感じます。

伊藤の日露協商論に対して、軍部はそうじゃない、戦うべきだという。そのためにはイギリスを味方につけることが必要だという。日英同盟というのはロシアと戦うための条件です。これが山県有朋とその子分の桂太郎です。その桂太郎がこの時の総理大臣です。

ずっと日本の頭にあるのは朝鮮です。日清戦争もそうでした。今から起こる日露戦争も朝鮮です。朝鮮の奪い合いです。なぜ朝鮮にこだわるかというのは、以前黒板に絵を描きました。剣先が喉元に突き刺さっているような。ミサイルがないときにはそうなんです。
さらにその北方は今は中国の東北地方というけれども、この当時は満州という。

結局、山県有朋系の桂太郎総理大臣が勝って、日本は1902年日英同盟を結ぶ。この意味は限りなく日露戦争に近づいたということです。
イギリスにとっては、どういうことか。ここにトリックがあるんです。日本が一国と交戦した場合には、当然イギリスは日本に味方すると思うでしょう。味方しないんですよ。中立を守るとだけ書いてある。では何のための同盟かというと、ロシアにどこかが味方した場合、つまりロシアの味方の国がでてきた場合には、イギリスは日本に味方する。
しかし世界のナンバーワン国家のイギリスを敵に回して、ロシアに味方する国があるかと考えたときに、まずこれはないです。ナンバーワン国家はイギリスです。イギリスを敵に回して戦おうという国はこの時代にありません。
ロシアと日本が戦っている間は、イギリスは中立を守る。つまり日本とロシアをサシで戦わせるわけです。イギリスは無傷なんですよ。日本は負けるだろう、仮にロシアが負ければ、めっけものです。ロシアが体力を消耗したところで叩けばよい。日本は負けたらどうなるか。イギリスのリスクよりも、日本のリスクが大きい。日本にとってはとても危険な賭です。このことに伊藤博文は反対していくわけです。


【日露戦争】 1904.2月日露戦争が起こる。さっきもいったように原因は、ロシアと日本は、満州をめぐって対立している。日本もロシアも、どっちも満州が欲しい。日本は単独では勝てないから、イギリスの政治的な応援が欲しい。でもイギリスは戦わない。しかしロシア側に応援する国はこれでまずなくなった。


【アメリカの資金援助】 では勝てるのか。イヤお金が足りない。そこで出てくるのが、ニューヨークのウォール街の金融家が出てくる。政治的にはイギリスが応援し、資金面ではアメリカが応援する。でもこれは借金です。お金を貸すよ、お金をやるよじゃない。そうアメリカが言う。日本はアメリカからお金を借りて、日露戦争を戦います。日本にお金を貸したのは、ジェイコブ・シフというアメリカの銀行家です。政府の人間ではないです。後ろにイギリスを中心に活動するヨーロッパの最大の銀行家ロスチャイルド家とのつながりをもつ人です。

このきっかけは、戦争資金の借り入れを求めてロンドンに来ていた横浜正金銀行副頭取の高橋是清が・・・・・・この人はのち総理大臣や大蔵大臣になる人ですが・・・・・・たまたまアメリカからそこに来ていたジェイコブ・シフとパーティーの席で出会い、資金の借り入れの話をまとめたという話になっています。まるで映画にでも出てくるような話です。
そのアメリカのジェイコブ・シフを通じて、イギリスのロスチャイルド家のお金が日本に流れ込んでいるわけです。日本銀行をつくった松方正義も、このロスチャイルド家とのつながりを持っていました。

(日露戦争の構図)




【英仏協商】 ではそれまでロシア側にはどこが応援していたかというと、ドイツとフランスです。日本への三国干渉はこの3ヶ国で行われました。
日露戦争が始まる1904年に、何ができたか。英仏協商ができた。それまでロシア寄りだったフランスが、イギリスと組んだのです。1898年、アフリカで植民地競争を繰り広げていたイギリス軍とフランス軍がアフリカのファショダで衝突しそうになったファショダ事件が起こります。これを回避することにより、それまで対立していた両軍が急速に接近します。その結果むすばれたのが1904年の英仏協商です。

政治力はイギリスが上です。イギリスはフランスという敵を味方につけた。取り残されたのは、ロシアとドイツです。これはもう半分は第一次大戦の説明になります。世界史でやりましたけど、第一次世界大戦のメインは、どことどこの対立であったか。イギリスとドイツの対立でした。
日本はこのことに重要な役割をしています。世界史的にみると、日露戦争というのは、日本が勝っただけの戦争じゃない。ロシアを押さえ、そのロシアをイギリス側につけます。これでイギリス・フランス・ロシアの三国協商ができます。そういう意味で第一次世界大戦につながっていきます。


【非戦論】 日本にも伊藤博文と同じように、これは危ないぞ、と思う人はいる。なぜこんな日英同盟を結んで、危険を犯して戦わないといけないのか。これが非戦論です。
その急先鋒が幸徳秋水です。さっき殺された人です。生き返ったわけでないです。あれは1910年だった。ここで政府ににらまれたんです。もともと新聞社の社員だったんですけれども、社長が日露戦争を批判しないことを決定すると、その新聞社を退社して、自分で別の新聞社、平民社というのを結成して言論活動をやっていきます。
もう一人は、国語でも出てくる与謝野晶子という人です。この人も反戦歌をつくる。弟が兵隊にとられて、「君死にたまうことなかれ」という歌を作って非常に有名になります。数年前に亡くなった与謝野馨財務大臣は、その孫です。彼は変な死に方をしましたけど。


【203高地】 実際の戦い、陸軍と海軍に分かれます。陸軍はこの時の首相である桂太郎をはじめ、幹部はほとんど長州閥です。それに対して海軍は、このあとで首相になる山本権兵衛を筆頭にほとんどが薩摩閥で占められています。長州の陸軍、薩摩の海軍という構図は、このあとの政治にも微妙な影を落とします。この時もすでに仲はあまりよくありません。

陸軍は攻防戦は局地戦です。日清戦争でせっかく日本が取ったのに、ロシアに奪われたところがあった。旅順です。遼東半島の先端です。そこによい軍港がある。その軍港を奪いとろうと、裏山の高地、これを戦略上、203高地と名づけて奪い取ろうとします。むかし映画にもなりましたけど、私が若い頃だったから君たちは知らないかもしれない。203高地の戦いです。
ここで、ロシア軍は203高地の上から、ドカンと大砲を撃つんです。日本は何も持たないから、歩兵を何万人も突撃させるしかない。突撃、突撃、何度も突撃作戦をやる。日本軍は死屍累々です。何回も突撃作戦をやって、もうこれが限界だというところで、やっと203高地を取った。どっちが勝ったか、わからないような状態です。この総大将が乃木希典です。ただその代わり自分の3人の息子全部をこの戦いで失います。こうやって日本もヘトヘトなんです。


【日本海海戦】 海軍は、ロシアのバルチック艦隊がロシアから出発する。大西洋からインド洋を通って、日本のどこに来るか。ペリーは浦賀に来た。レーダーも何もないから、どこに向かっているかまったく分からないです。東郷平八郎は対馬海峡に来ると読んで、ずっと待ち伏せする。来そうですか。日本海側にウラジオストクというロシアの軍港があるから、まずそこに立ち寄ろうとするはずだとの読みです。本当はそれが当たるかどうか恐かったと思う。それがまんまと来る、来なかったら、どうなっていたか。ここで待っていたら、日本はガラ空きです。

相手の動きを盗むのはイギリスも得意です。実はこのとき日本海軍の動きを指揮していたのはイギリス海軍だという話もあります。イギリスは海軍の国です。イギリス海軍の将校が日本海軍に出入りし、実質的に日本海軍を指揮していたとも言われます。日本海海戦当日も、イギリスの海軍将校が観戦武官として日本の軍艦に乗り込んでいます。この戦いで日本の連合艦隊がとった「T字戦法」は日本独自の作戦のように言われますが、実はイギリス海軍にもとから取っていた戦法です。日本海軍はそれをイギリス海軍から教わったのです。それにこの日本海の海戦で活躍した日本の主力艦はすべてイギリス製軍艦です。


1880年代には、日本は裁判所の裁判官に外国人を任用しようとしたことがありました。これは日本の司法権を外国に譲り渡すことだとして強い反対運動が起こり、阻止されました。しかしこれと同じようなことは起こりえます。日本の軍事権の中に、イギリス軍部が入り込んでいたことは十分に考えられることです。しかも軍事機密は特に厳重に守られますから、そのことはなかなか分かりません。

結果は日本の勝利です。これが非ヨーロッパ諸国が、ヨーロッパの国に勝った世界史上初の出来事です。まず喜んだのはトルコです。トルコはそれまでロシアに痛めつけられているから。トルコには今でもトーゴー通りがある。そしてフィンランドにはトーゴービールが今でもある。これは東郷平八郎にあやかったものです。
ただロシア本土を叩いたわけでもなくて、ロシアは別にまだ戦力に余裕があります。逆に日本に余裕がない。お金も弾薬も。なぜこれで勝てたのか。


【ロシアの内乱】 ロシアは足元から崩れていく。1905年に、血の日曜日事件ともいわれる第一次ロシア革命が起こります。民衆が暴動を起こしていくんです。ロシアは内部から崩壊していく。それでロシアの戦争継続が困難になる。
だからロシアは日本に負けたと思ってない。日本は勝ったと思っている。この交渉はまとまらないです。戦局では、日本が勝ってしまった。



【ポーツマス条約】 日本の手柄にする前に、早く終わらせたい。これがアメリカです。それでアメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトが日本とロシアを仲介して講和条約を結ばせる。これがポーツマス条約です。アメリカも自分の利益を考えています。

それで講和条約の場所が、アメリカのポーツマスという軍港です。それをアメリカの大統領が、私に任せなさい、という。これは日本に、これ以上勝たせたくない、というのがホンネです。この後からアメリカと日本は対立する。君たちが小学生だったら、これ以上話すつもりがないのは、味方だったら対立するわけがないと、小学生は思ってますが、それでは説明できないことです。
仲介したのは、これ以上日本で勝たせたくないからです。アメリカ大統領は。はやく仲裁して、終わらせないといけない。そのアメリカ大統領はセオドア・ルーズベルトです。第二次世界大戦のルーズベルトじゃない。そのおじさんです。ルーズヴェルト一族です。
ここに出向いていく日本全権が外務大臣の小村寿太郎です。ロシア側はウイッテです。名があるけど、通常ウイッテといいますね。日本には戦争継続の余力はなかった。ロシアは負けたとは思っていない。この小村寿太郎はかわいそうです。日本では勝った勝ったと宣伝している。でも相手は負けたと思っていない。よくて引き分けなんです。しかしそれでは帰れないんですね。
これを話をどうつけるか、交渉が失敗したら、また戦争になる。それで日本は戦えるか。戦えない。こういう交渉はしたくない。日本に不利です。

韓国に対する指導権をまずもらった。
次に、ロシアから領土を割譲した。全部じゃないけれども、樺太の南半分です。北緯50度以南の樺太です。今のサハリンです。今はロシア人が住んでいます。
そして次には日清戦争で分捕られた旅順・大連を取り戻した。これ考えてみれば当たり前よね。もともと日本が日清戦争でとったものだから。
それで4番目が一番かな。日本は、朝鮮を取って、北の満州に行きたいんです。満州に行くのは列車なんです。飛行機はないから、その鉄道を作る権利を獲得します。この会社が南満州鉄道、略して満鉄といいます。戦前で、満鉄というと日本最大の大企業です。のち原爆が落ちて日本が負けて、消滅したけど。
これに比べたら、賠償金とか、あまり関係ないと思うけど、素人受けするのはやっぱりお金なんです。これがなかった。なにやっているんだ、賠償金もとってないのか、と。この人は帰れない。帰ってきたら石投げられる。私はよく頑張ったと思うんです。よくここまでもってきたと思いますけど、素人目には、賠償金も取らずに何しているんだ、うちの親父は戦争で死んで、兄ちゃんは片足失って、何のために戦ったのかと、石投げられる。


【国際社会への影響】 その前に、日露戦争がヨーロッパ諸国に与えた影響です。白人社会では、あのちょんまげ国家が白人国家に勝ったなんて考えられない。そういう衝撃が走る。
さらにアジアの地域は、白人には勝てないと思っていたけれども、勝った国があるんだ、俺たちにもできるかも、と思います。ここから独立運動がおこる。この時はアジアのほとんどはヨーロッパの植民地になっています。


【黄禍論】 ヨーロッパでは、黄色い人間が白人社会に悪さをするという黄禍論(こうかろん)が巻き起こります。黄色は日本です。禍は災いです。イエローペリルという。ここから日本人排斥というのも起こってくる。この時代にから。
そのメインがアメリカです。移民の国のアメリカで、なぜか日本人だけは来るな、と言われる。こうやって日本とアメリカの対立が表面化していく。この話は第二次世界大戦に結びついていきます。その芽はここらへんから出てきます。
アメリカは、日露戦争までは、敵はロシアだと思っていたけれど、日本が勝ってしまった。すると今度は日本を警戒しだす。このあとずっと警戒し続けます。ここからそれが始まります。
日露戦争の世界史的意味は、白くない人間が、初めて白い人たちに勝った。白くない人たちは、それまで植民地にされていたけど、おれたちもやれば独立できるんじゃないか、と思いはじめたということです。


【日比谷焼打事件】 ただし、小村寿太郎は賠償金が取れなかったから、帰ってくるなり石投げられて、これが暴動になっていく。これを日比谷焼き討ち事件という。日比谷は東京の地名です。東京駅の目の前に日比谷公園という大きい公園がある。都会の一等地、皇居のすぐ横にある。そこでの交番が焼き打ちされたりして、民衆が暴動化していく。日本には昔、戒厳令というのがある。家から出るな、という。家から出たら、しょっぴかれるから出られなくなる。こうやって暴動を抑える。

こういうときに本当のことをマスコミが語らない癖がつきはじめるんです。日本は、勝ちしたけど、大勝ちしているんじゃないんだぞ、ということを言わないです。勝った、勝ったと、ちょうちん行列しているんです。各地でバンザイ、バンザイで、ちょうちん行列している。そんな中で、何も本当のことを報道しない。これの繰り返しが、第二次世界大戦の日本のマスコミの姿勢に通じます。ということは、今のマスコミと違う、ではないですよ。
この暴動によって、総理大臣の桂太郎は、政権担当能力を失って総辞職した。責任をとって。戦争に勝ってやめたんです。
ここでもう一つの意味は、庶民の不満によって内閣をつぶすことができた、という意味がある。戦争の戦後処理で、国民の暴動によって内閣が潰れた、ということです。べつに暴動を起こしなさいとか、そういう意味じゃないけど。民衆の力が盛り上がっていくんです。




【第二次産業革命】
今度は社会です。産業面です。第二次産業革命というのが日露戦争後に起こる。日清戦争のころの第一次産業革命は軽工業でした。第二次産業革命は重工業に移ります。
鉄ができてくる。1901年、北九州に八幡製鉄所ができる。鉄にのりだす。鉄ができればビルができる。軍艦ができる。大砲ができる。このころ飛び始めた飛行機ができる。戦争に強くなる。綿は戦争に強くならない。この八幡製鉄所は官営です。国家が半分、お金を投入する。この南は福岡県の筑豊です。そこに炭鉱がある。石炭がでる。だから北九州の八幡にできる。いまの新日鉄です。最近合併して、住友金属と合体して新日鉄住金という。

それから、船もつくるようになって、海運業が新興して、こういう造船奨励法とか航海奨励法を出して、貿易にも乗り出していくことです。

それから金融面では1897年に、金本位制を確立する。松方正義の第2次内閣の時です。これがヨーロッパ流です。本物のお金は金です。日本それまでは銀しかもたなかった。2回戦争に勝って、日清戦争では賠償金もとって、それを基にしてどうにか確立できた。ただ日本に財政的余裕があるわけではなく、このあと日本は増税しなければならなくなり苦しむことになります。この制度はヨーロッパにならったものです。

松方正義は、日本銀行もつくったし、金本位制度も作った。ヨーロッパ流の金融制度を、そのまま日本に導入した。これができるとヨーロッパと貿易しやすくなるし、ヨーロッパと資本的にも結びつきやすくなる。このヨーロッパと共通する金本位制度の上に立って、日露戦争ではアメリカやイギリスの資金が日本に流入してきたわけです。そこにはヨーロッパ最大の金融家であるロスチャイルド家の存在が見え隠れします。松方正義は政治的には目立たない首相ですが、よく分からないところで日本のお金の流れをつくっています。


【財閥形成】 その一方で、お金はお金のあるところに集まる。会社はお金のあるところに集まって、だんだん会社は大きくなっていく。財閥が形成されていくのもこの明治時代です。
財閥の実体は持ち株会社です。日本でも10数年前に復活しました。会社が会社の株をもっていい。そういう会社グループを管理する会社を持ち株会社といいます。英語で書くと、HDという。ハードディスクじゃない。ホールディングスという。これが持ち株会社なんです。戦前はこれが認められていて、これによって財閥が形成された。
三大財閥は、三井・三菱・住友です。これは今でもあるグループ企業です。では四大財閥は何か、安田です。明治末頃に形成されます。


【市場の狭さ】 では明治の産業の特徴ですけど。財閥は大きくなって、物はつくれても、買う人間がいない。国民が貧しい。農村では、貧しい土地を持たない人たちが増えていく。田舎では生活できなくなる。
だから当てもなく都会に出て行くという流れができます。起業家にとっては、シメシメです。彼らは低賃金で働いてくれる。長時間労働もしてくれる。1日8時間労働とか、最低賃金法とかない時代です。

地方では寄生地主制というのが発展している。都会の大金持ちが地方の土地を買い占めていたりする。ということは、つくる力があっても、買う人がいないということです。
買う人がいないということは、国内市場が狭いということです。買ってくれないんですよ。ではどこに売るか。海外市場に売ろうとなる。しかしまだヨーロッパには勝てない。ではどこに売りたいか。それが、満州、それから朝鮮です。ヨーロッパにならって、ということです。イギリスもこうやって植民地獲得をやっていった。

このあと日本は朝鮮を植民地化しますが、このことは今でも韓国との賠償問題で取り上げられます。長崎に原爆が落ちた。あれは誰が賠償しなければならなくなったか。誰が落としたのか。アメリカが落としたんでしょ。韓国が、被爆して賠償金を請求した先は、日本政府に請求した。日本に賠償金を払えと言ったんです。日本は原爆を落とした国なんですか。落とされた国なんですよ。原爆は落とされた国が悪いんですか。外務大臣が珍しくエキサイトしてしました。これ以上言うと、アメリカが腹を立てるから言えない。のど元まで出ていた感じですけど。そういう政治問題まで、今でも繋がってるということです。




【明治の文化】
【思想】
 ちょっと政治を外れて、産業をいっていましたが、今回は文化にいきます。
1番目、明治の中期、1890年ごろ、日清戦争ごろになると、どういう思想の流れが出てくるか。

国粋主義という考え方です。今も国粋主義という言葉はあるけれども、それとちょっと違って、明治の初めというのは、とにかくヨーロッパ文化を取り入れようとする。日本文化は古いんだ、今からは日本でなくヨーロッパ一辺倒、学問のススメとか、そういうものが出てきた。
しかし、明治から20~30年経つと、いや日本はそんなにバカだったのか、それはちがうんじゃないの、という考えも出てくる。そういう意味で日本思想の復活です。最近あまり言わないけれども、我々が小さい頃は、知識はヨーロッパ流でも、心は日本流でいくという「和魂洋才」という言い方もよくありました。三宅雪嶺という人です。雑誌は日本人という。こういう雑誌も出てくる。

それからもう一つが平民主義です。これも雑誌の名前でいうと、ヨーロッパだ、ヨーロッパだ、ではなくて国民です。国民というのは日本人ことです。日本人はバカじゃなかったんじゃないの、バカじゃないんですよ。実はそれは、ヨーロッパ人が先に言った。日本人はバカじゃない、と。日本の文化は優れている、と。
ヨーロッパ人はいろいろな日本の文化をもちかえっている。日本人は明治のはじめは、こんなもんガラクタだと思っていた。しかしヨーロッパ人には、これは価値がある、と分かる。だから日本の文化財はもちろん日本にもあるけれど、大英博物館とか、ルーブル美術館とかにもいっぱいある。


【教育】 次は教育です。今は教育基本法というのがありますが、この時代には、そういう法律はないんです。ただそれに代わるものとして、教育に関する基本的な考え方として、1890年に発布された教育勅語があります。よくでてくる勅の字です。これは何を意味したか。天皇ですよね。ということは、天皇のお言葉として出されたものです。そこで重視されたのは、戦後教育が個人や個性というものであるとすると、まず「忠」「孝」です。孝というのは親孝行の孝です。家族関係を基本にして、それを広げて国家に対する「忠」を重んじ国家社会を築いていこうという考え方です。
教育勅語の冒頭は、「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ」とある。うちの親父の小学校の時の記念写真が残っていて、80年ぐらい前のクラス写真ですが、そこに何が写っているか。これなに、と聞くと、うしろに小さな社のようなものがある。奉安殿だ、という。この中に教育勅語が収められている。全校集会のときには、校長先生が、毎回まず教育勅語を読む。バシッとスーツで決めて。これをおろそかに読むと、校長のクビが飛んだという話もある。非常に強い教育の基本性があったということです。

この授業が日本史だから言うけれども、本当は自分の国の歴史を日本史という名前でやってる国は珍しいです。自分の国の言葉を学ぶ教科を日本語とは言わないでしょう。国語というでしょう。それと同じで日本の歴史を学ぶ教科は国史といったんです。どこの国の歴史とか言わない。日本人が国史といったら、日本史に決まっている。日本人が国語といったら日本語に決まっているのといっしょです。
それが原爆が落ちて戦争に負けたでしょ。それから6年間はアメリカの占領下にあって、国史という言い方はよくない、日本史にしなさい、ということになった。だから今の名前になったのが日本史という科目です。


【文学】 文学では、まず小説です。それまでは小説というと戯作文学といって、まともな人間がやる職業じゃない、と思われていた。それをちゃんとした文学にしていく。
その第一歩が坪内逍遥が1885年に刊行した「小説神髄」です。これは小説の書き方です。近代小説の書き方です。そういうのを読んで、そういうものなのか、とこのあと小説家や文学者が出てくる。
それまで日本語は、話し言葉と書き言葉は別だったんです。江戸時代までは、文で書くときには文語体、いわゆる候文です。これを小説で撤廃した。口語と文語、これを一致させた。ふつうの話し言葉で小説を書く。二葉亭四迷という。落語家みたいですけれど、落語家ではないです。二葉亭四迷は武士の出です。父上、私は小説家になりたい。小説家なんて戯作者じゃないか、そんなものは認めん、それでも言うこときかんなら、おまえなんか、「くたばってしめえ」、と言った。なんか反応悪いね。「ふたばってしめえ」です。「ふたばていしめい」、だから二葉亭四迷です。まあそういう自虐ネタですね。自分のペンネームを、くたばってしめえ、をもじって二葉亭四迷とした。

それから与謝野晶子、これ一度出てきた。日露戦争に反対した歌人ですね。みだれ髪という非常に艶っぽい、今読んでもゾクゾクくるような歌を詠んでいます。歌は575ですか、57577ですか。77の方です。

明治の末から、今でも読まれてるのは、夏目漱石です。代表作は「坊っちゃん」というのが一番人気です。この人は、イギリスに留学してけど、こんな国のどこがいいのかと、まったくイギリスになじめなかった。こんな国の何がいいんやろか、日本のエリートの中でそういう疑問をもった初めての人です。ヨーロッパの個人主義をまねて、ホントにそんなことでいいのか、と疑問をもった人です。


【音楽】 次は芸能です。音楽も日本音階でなく、ドレミの西洋音階を取り入れて歌を作る。
学校は東京音楽学校です。いまの東京芸大という大学になっている。滝廉太郎は、代表作は「荒城の月」です。荒城というのは、ふるさとの荒れ果てたお城のことです。明治維新後、多くのお城が荒れ果てている。この近くの城も東堀は埋め立てられて今はありません。これを復興しようと、今の知事さんが言っていますが。荒れ果てたふるさとの城、大分県の竹田の岡城を思い浮かべながら作った曲です。


【美術】 それから美術です。美術は明治の初めはヨーロッパ絵画一色で、日本画なんかっていうのはもうゴミだ、がらくただ、と思われていた。しかし、イヤーこれは素晴らしい、といったのが、アメリカ人のフェノロサです。外国人が日本人の良さに気づく、当の日本人は、ヨーロッパ、ヨーロッパだ、日本なんかもう古い、と思っていた。そうじゃないと、外国人から気づかされる。オレもそうだと思う、といって彼についていったのが岡倉天心です。この人がフェノロサの指導を受けながら、日本の美術のよさを再発見して、そのための学校をつくっていく。これが東京美術学校です。これも今の東京芸大です。さっきの東京音楽学校、東京美術学校、ともに今の東京芸大となる。

その一方で西洋画も、だいぶ発展していって、「湖畔」、湖にたたずむ美女を描く。黒田清輝という人です。この美女が実は自分の奥さんだったというオチがつく。こういう自分の奥さんをモデルにするという感覚、日本人にはあまりないですけど、確かにきれいな絵です。
その他として福岡県の久留米出身の青木繁の「海の幸」です。

医学の分野とか、物理学の分野では、世界の最高水準に、はやくも50年間で達する。例えば野口英世の黄熱病という風土病の研究とか、でもノーベル賞取ってない。有色人種だからです。水準に関係なく、有色人種は対象外なんです。しかしレベル的にはそうだったということです。

これで終わります。

授業でいえない日本史 34話 現代 日露戦争後の外交~大正政変

2020-08-26 09:00:00 | 旧日本史5 20C前半
【日露戦争後の外交】
日露戦争後の外交にいきます。桂太郎内閣まで行って日露戦争、そこでロシアに勝った。
日露戦争のねらいはどこか。日清戦争もですけど、朝鮮をめぐってなんです。日本が北から攻められる。これ何回も言うけれども、ミサイルがない時代です。

日本を攻める場合、一番攻めやすいのはこの朝鮮半島からです。だからここは日本の生命線で、もう一つ安全策をとろうとすると、やっぱりここまで必要だというのが満州です。「満州は日本の生命線」とよく言われるようになります。


【韓国】 まず韓国です。日本は、日露戦争中の1904年から第1次日韓協約を結び、朝鮮に対して日本の軍事顧問、外交顧問、財政顧問を派遣する。
その翌年1905年には、第2次日韓協約を結びます。日露戦争で勝って、日本はまず韓国の外交権を掌握する。内政面では、朝鮮の統治のために日本の役所を朝鮮に置く。これを韓国統監府といいます。その初代長官に着いたのが伊藤博文です。このとき伊藤はすでに60才を超え、政治の第一線から退いて元老といわれる立場にあります。いわば隠居に近い立場にあります。こういう人が外地の第一戦に出て行くということは、かなり異例な人事です。
これに対して、朝鮮側が反発した事件が起こります。オランダのハーグで開かれた国際会議に、オレたちの国に日本はこう乗り込んで来ているというのを、訴えに行ったハーグ密使事件が起こり、これで日韓関係また悪くなる。
その2年後の1907年には、第3次日韓協約が結ばれて、正式に朝鮮の内政権つまり行政権まで、日本は手に入れます。

この頃から日本に対する反対運動も朝鮮国内で起こります。荒っぽい人たちが武装化して、日本に対して闘争を行う。これを義兵闘争という。
1909年に韓国統監府の初代長官伊藤博文が、ハルピン駅に降り立ったところを朝鮮人によって暗殺されます。伊藤博文暗殺です。こうやって伊藤は最後は暗殺されます。その犯人が安重根です。安重根は逮捕されて死刑になりますが、伊藤暗殺の理由として述べた裁判での法廷証言で、ここでは言いませんが、不思議なことを言っています。

朝鮮では、安重根は今では歴史上の英雄です。伊藤博文は極悪人です。日本では、伊藤博文は、4回も総理大臣になった明治の元勲です。彼を殺した安重根は殺人犯です。教えられることが逆なんですよ。この伊藤暗殺をきっかけにして、朝鮮を併合しないと、ちゃんとした朝鮮の統治はできなくなる、という意見が高まってくる。

翌年1910年日韓併合条約が結ばれる。これは日本が勝手にやったんじゃなくて、それを中国、ヨーロッパ、アメリカなどの国際社会が承認します。これで国際社会に認められている。植民地なんか認めない、そんなこと言うとヨーロッパ自体がアジアやアフリカなどにいっぱい植民地を持っているから、これをダメとは言えないわけです。
朝鮮国内の統治機関も名前を変えて、1910年に朝鮮総督府とする。長官には、寺内正毅という陸軍大将がなります。この人は国内に戻って、このあと内閣総理大臣になります。朝鮮・満州は、日本の重要地点と位置づけられます。


【満州】 さらに、朝鮮だけだと軍事面で不安が残る。その北方の満州も支配下に置きたい。そこで1906年に、満州に関東都督府を置きます。この関東は、日本の関東じゃない。満州の関東です。たまたま満州に関東地域というのがあった。
これが1906年で、約10年後に、この関東都督府は行政部門と軍事部門に分かれます。行政部門は関東庁になり、軍事部門は関東軍になる。ここは日本のエリート軍人の集まりになります。先のことを言うと、日本が中国それからアメリカと戦争に突っ走っていくのは、このエリート軍人の関東軍です。内閣の意向など聞かない。しかも統帥権の独立があるから。内閣から命令されたら、こら誰に向かって言っているのか、という。

経済面では、日本の東海道本線より長いような鉄道をつくる。これが南満州鉄道という大鉄道です。それを運営する南満州鉄道株式会社を設立する。資本の半分は日本政府の出資です。こういうのを半官半民という。しかも単なる鉄道会社じゃなくて、製鉄会社とか、いろんな会社を併合した大財閥です。一大コンツェルンです。日本の産業界のトップ企業にまで成長していく。満鉄本社は大連につくられます。日本は、旅順・大連をまず取ったんです。


【アメリカ】 日本がこうやって、急速に朝鮮・満州に勢力を及ぼしていく一方で、これに不満をもったのがアメリカです。
まずアメリカは、イギリスと同じで、日本が勝つなんて思ってなかった。日本が勝ってしまった。これがまず番狂わせです。予定としては日本が負けて、ロシアが勝つ。しかし、日本もそこそこ戦おうから、ロシアが弱るだろう。弱ったところでイギリスがロシアを叩けばロシアは負ける。日本の勝利で、その予定がくずれた。
日本が勝ったら、はやくストップさせて早く戦争をやめさせないといけない、となる。それがポーツマス条約です。
日本がこうやって朝鮮・満州に進出していくと、アメリカはこの満州問題で日本と対立する。そこから日米関係が悪化していきます。

前にも言ったから、サラッと行くけど、実はアメリカも中国に進出したいのです。とくに満州に。太平洋を西へ西へと進み、ハワイに進出してここを植民地にする。ハワイにはカメハメハ王朝という王国がありました。このカメハメハ王朝は、日本の天皇陛下に会いに来て、どうにか救ってもらえないかと頼みに来ます。天皇陛下は、ごめんなさい、助けたいけれども、日本にはその力がない、というんです。だから無念ですが、ハワイはアメリカの領土になります。
次がグァム、今の沖縄米軍基地の東の島です。そこにも米軍基地があります。
そしてフィリピンを領有する。このフィリピン総督がマッカーサー一族です。戦後日本を180度作りかえていく総督です。この時は父親です。40年後に日本に乗り込んできたのは息子です。ダグラス・マッカーサーです。もともとフィリピン総督なんです。
1899年には、門戸開放宣言を出しています。みんなで分けあいましょう、と。本当はアメリカが取りたいわけです。こういう中で、日米対立が深まっていく。
このことが日本でピカドンと原爆が落ちることの説明の半分と思っていいです。満州問題で日米対立が起こります。

1905年に、移民の国アメリカで唯一、お前たちは移民とは認めない、と指定されたのが日本人です。日本人移民排斥問題です。アメリカは、お父さんお母さんが子供産んで人口を増やした国じゃない。ヨーロッパからの移民、東南アジアからの移民、中国からの移民ですよ。アメリカのサンフランシスコにはチャイナタウンもある。なぜか日本人だけは移民はダメ、来るな、となる。それは日本の満州政策への反発からです。

それをどうにか取り持とうと、アメリカさん、日本さん、手を組みましょう、という一時的な解決が、桂太郎首相とアメリカの国務長官タフトという人のあいだで、協定が結ばれた。アメリカは日本の韓国領有を認める。その代わり、日本はアメリカのフィリピンは認める。これでお相子じゃないの、ということで一旦手を握る。
しかしこれに反発したのが、アメリカの大鉄道王ハリマンです。ハリマンは、満州に鉄道を敷きたくてたまらないんです。ここは儲かると。それを日本が先に手を打って南満州鉄道を通した。ここでハリマンが腹を立てる。ハリマンの計画ができなくなったから。

その後のアメリカの国防総省は、オレンジ計画という・・・・・・オレンジジュースみたいですが・・・・・・実は日本侵略計画を立てる。太平洋戦争の40年も前の段階でです。アメリカには、こういう計画がすでにできあがっていた、ということが戦後に分かります。

さらにこの1924年には、アメリカで日本人を排斥する法律がつくられる。排日移民法の成立です。これはアメリカの法律です。排日移民法というのは。日本人のアメリカへの移民はダメということです。アメリカは移民の国だから、どこからの移民もオーケーのはずなのに。


【ロシア】 ではロシアです。ロシアとは決着ついた。日露戦争に負けて、ロシアは満州から撤退した。撤退してもう敵意がない国とは手を組んだほうが早い。日本は早々と手を組みます。日露協約を結ぶ。ポーツマス条約の2年後、1907年です。これで日露関係は改善されます。だから10年もたたずに、コロコロ国際情勢が変わる。変わって、そういう変化に頭のなかがついていかないと、外国に取り残されていく。

あとは、宿敵だったイギリスとロシアが、日露戦争でロシアが負けることによって、手を組む。この対立はグレートゲームといわれてきた。1800年代の後半、イギリスとロシアというのはずっと対立していた。これが日露戦争をきっかけに協商を組んだ。1907年英露協商の成立です。

前に半分いったけど、これが世界を揺るがす第一次世界大戦のほぼ半分の説明です。
あと、ここにフランスが加わりさえすればいいですが、すでにフランスは加わっている。ロシアとフランスの間には、すでに1891年に露仏同盟があります。1891年の露仏同盟、1904年の英仏協商、1907年の英露協商、この3つの条約によってイギリスを中心とする三国協商が成立します。


(三国協商)


ドイツだけが取り残される。第一次大戦というのは、イギリス対ドイツの対立です。イギリスの三国協商とドイツの三国同盟の戦いです。日本はこの時、日英同盟でイギリス側、勝つ側に回ります。


しかし20年後の1920年代には、ドイツと同じように外されていく、ことになります。


【中国】 そういった時に、お隣の中国、眠れる獅子といわれた清朝が、1911年に滅んだ。これが辛亥の年だったから、辛亥革命(しんがいかくめい)という。指導した人は孫文です。本業は医者なんですけど、嫁さんが宋慶麗という大財閥のお嬢様です。だから資金源はたっぷりです。浙江財閥といって、中国一の財閥のお嬢さんです。
日本が清と戦った日清戦争以降、この人は医者もそっちのけで、清朝を倒すための政治結社をつくり始めた。日清戦争が起こった年の1894年に興中会をつくります。そして日本がロシアにまで勝った1905年には、名前を中国革命同盟会と変える。これで一目で目的がはっきりした。興中会では見ただけでは何なのか分からない。中国革命という意味は、反清朝です。この中国革命同盟会は、どこで結成されたか。このとき東洋の中心は東京です。アジアで日本だけが近代化に成功している。その近代化のモデルになっている。

そして、清朝が倒れて成立した国が、翌年1912年成立の中華民国です。臨時大総統に孫文が就任します。でもこれが今の中国ではない。中華民国は今どこにありますか。今の台湾です。台湾はいま中国とは別の国として中華民国を名乗っています。いま2つの中国とか、台中関係とかいう問題がありますが、ここらへんから発生します。この事情が分からないと中国関係はなかなか分からない。

ただ孫文は中華民国の臨時大総統になりますが、軍事を持たなかった。軍事を持っていたのは、清朝の家来の軍閥です。孫文に、オレと交代してくれ、大総統はオレがやる、という。これが袁世凱です。そうなると、イヤ袁世凱じゃなくてオレだろ、という軍閥がいっぱい出てきて、この国はまとまらない。軍閥割拠の状態になります。このように国がまとまらないなかで、この中国に介入しようとしたのが、日本、イギリス、アメリカです。しかしそれぞれ応援するところが違う。それでまた喧嘩する。仲が悪くなっていく。





【桂園時代2】
いま外交だったけれど、こういうことが起こったときの内閣を見ていきます。この時代は、桂太郎と西園寺公望が、約12年間、交代交代で内閣総理大臣をつとめた時代で桂園時代といいます。日露戦争時の内閣は、山県有朋系の桂太郎内閣だった。それが日比谷焼き討ち事件でつぶれた。



【西園寺公望内閣】(1906.1~08.7)
その後をうけて、1906年西園寺公望内閣が成立します。この内閣は伊藤博文系です。西園寺公望は、伊藤博文の後を引き継いだ立憲政友会の総裁です。だから与党は立憲政友会です。この内閣は、1年半で潰れます。どちらかというと、軍隊をバックにもつ軍人の桂太郎が強いです。


このとき副首相格の内務大臣になるのが、のちに首相として本格的な政党政治をはじめる原敬(はらたかし)です。原敬はこのあと立憲政友会の幹部として、また西園寺公望の右腕として、存在感を強めていきます。

大隈重信系の憲政本党は、立憲政友会をしのぐことができず、このあとしばらくは政権を取ることができません。

時代は薩摩・長州の藩閥政府から、山県系の桂と伊藤系の西園寺の長州系同士の対立となり桂園時代へと移っています。薩摩閥は長州勢に追い出される形で、勢力を弱めていきます。



【桂太郎内閣②】(1908.7~11.8)
1908年第2次桂太郎内閣が成立します。日露戦争から4年後です。
さっきの外交面では、内閣をとばして言ったたけれども、1909年に伊藤博文が暗殺されたのも、そのあとの1910年の日韓併合条約も、この桂太郎内閣の時です。

その年に朝鮮総督府を設置した。この朝鮮総督府の建物は、戦後もずっと韓国に残っていた。国会議事堂みたいな、立派な建物でした。これがつぶされたのは、戦後50年も経った1995年です。それがなんで取り壊されたか。今の日韓関係は良くないからです。現在の政治にも尾を引いています。

それから、この内閣、1911年に長年の不平等条約であった関税自主権の回復を行う。今の自由貿易のルールと違って、この時代は、輸入する側は自国産業の保護のために外国製品に対して自由に関税をかけるのが普通です。そのことをまず理解してください。しかし、戦後になって、自由貿易にして関税なくそうという流れが50~60年続き、それがまたトランプ大統領になって、アメリカは国内産業の保護のためにまた関税をかけると言っています。
そこまではいいですけど、自由に関税をかけてよかったら、中国だって自由に関税をかけたいでしょ。トランプはなぜ関税をかけるのかと言う。ここが合わないです。これで米中関係が、いま悪くなっている。一歩違うと景気が悪くなる。そんな短絡的な問題ではなくても、なんかいま変化しています。少なくとも、50年ぶりぐらいの戦後の変節期ではあります。でもこれはここでの話ではありません。

その関税自主権回復の条約が1911年の日米通商航海条約です。これは小村寿太郎です。一生懸命にポーツマス条約を結んだ人です。今の政治家だったら自己弁護をするけれども、この人は、賠償金が取れなくて石投げられても、それでも内情を明かさないんです。日本には余力がなかった。金庫の中もすっからかんだった。でもそれを言うと、国民が不安がって日本がどうなるか分からないから、グッと我慢して言わないんですよ。そして自分が悪者になる。そこらへんが泣けるところです。昔の人は偉かった、と思うところです。

これとはまったく違った話ですが、この桂太郎内閣時の1911年に、天皇家の正統性に関する南北朝正閏論で、意外なことに政府は南朝を正統とします。南北朝というのは、室町期の南北朝時代のことです。今の天皇家は北朝なんです。しかし政府は逆に南朝を歴史的に正統だとしました。しかしこのことはずっとくすぶっていた問題で、今まで触れてきませんでしたが、明治政府は早くから南朝を正統だとしてきました。それが表面化したのがこの時で、政府はやはり南朝を正統だとしました。これは不思議なことです。明治天皇はこれを了承し、翌年1912.7月に亡くなります。



【西園寺公望内閣②】(1911.8~12.12)
桂太郎の次に、1911.8月に2回目の西園寺公望内閣が成立します。同じ年の1911.10月に中国に大激変が起こり、300年続いた清朝が倒れた。辛亥革命の勃発です。
この辛亥革命に対して、軍部は、満州まで進出したい。実際このあと30~40年かかって、そのとおりなっていく。しかしそうするためには、まず軍隊を増員しないといけない。軍隊を増員するためには、お金がかかる。
そういう軍隊増設の要求を陸軍がするんです。軍隊の数え方は、1個師団、2個師団という。陸軍は2個師団、増やしてくれ、という。二個師団増設要求を西園寺内閣に対して、陸軍が行う。
しかし西園寺は、お金がない、と断る。すると軍部は、こんなチャンスを逃していいのか、と言う。これに対して西園寺は、先立つものがない、お金がない、このあいだまでロシアと戦って金庫には何もない、と拒否するんです。
これ以上したら、日本がひからびてしまう。まず国内の行政をきちっと行い、財政拡充が優先だ、という。

ここから内閣と陸軍と対立していきます。軍部と対立して、内閣の大臣、陸軍大臣がオレは辞める、という。辞めていいよ、何の関係もないじゃないか。ところが、どういう制度があったか。軍部大臣現役武官制という非常に政治的なトリックがあるんですね。
軍部大臣というのは、陸軍大臣と海軍大臣です。そこに座れるのは、現役つまり定年退職してない武官、今でいう自衛官です。軍人です。それでないといけない。軍部は軍部で、独自の組織があって、そのなかのドンが、おまえ陸軍大臣になっておけ、と命令する。

しかし陸軍が腹を立てたら、おまえたち分かってるな、オレの前で椅子に座ったら承知しないぞ、という。すると内閣総理大臣から、陸軍大臣なってください、と言われても、直属の軍部の親分が怖くて誰も座れない。イスが埋まらなかったら、総理大臣は組閣能力がない、ということでクビになる。1912年、これで西園寺内閣はつぶれた。

軍部大臣現役武官制のために、西園寺公望内閣は総辞職せざるを得なくなった。つまり軍部が腹を立てると、内閣がつぶれるという事態になった。つまり最高権力者であるはずの内閣総理大臣の上に軍部があることになる。軍部が内閣をつぶすことができる制度になっているんです。ただこれが民主的なのかな、という疑問は残ります。



【桂太郎内閣③】(1912.12~13.2)
それでその陸軍のドンが出てくる。桂太郎が陸軍のドンです。同じ1912.12月です。第3次桂太郎内閣です。これに対して、これはおかしいんじゃないか、という反対運動が当初から起こる。そこに民衆も気づいたんです。当時の民衆は政治を理解しているんですね。この民衆の疑問があったから、政治家が成功するんです。逆に政治家が無理に焚きつけようとしても、民衆が踊らなかったら、うまくいかないです。ここで政治家が、第一次護憲運動というのをキャッチフレーズとして打ち出す。言葉通りとらえれば、憲法を守ろうという運動です。1912.12月からの動きです。


この目的は、この軍部のやり方が本当に大日本帝国憲法の趣旨に沿っているのか。これを国民に問う、ということです。しかし当時の有権者は、ここで内閣がつぶれることの政治の意味を分かっていた。
この運動の指導者は、前に政党系図でやったけれども、そして日本の政党政治には二つの政党がある。立憲国民党立憲政友会です。憲政本党は立憲国民党と名前を変えています。これはライバル同士だから、めったに手を組まないんだけれども、共通の敵である軍部に対しては、対立を乗り越えて手を組もうじゃないかと、話がまとまったんです。このまとめた政治家が二人います。
一人は立憲国民党犬養毅です。この人は、このあと昭和になって首相になり暗殺されたことで有名になります。もう一人は、立憲政友会尾崎行雄という人物です。

立憲政友会総裁の西園寺公望はこの時、大正天皇から「内閣に反対するのをやめるように」と言われますが、それを断るために、立憲政友会総裁を辞職します。その後任として立憲政友会総裁の職に就いたのが原敬です。

(政党系図)


この2人が手を組むことによって国民運動が盛り上がる。スローガンは、閥族打破です。閥族は軍部です。それともう一つが憲政擁護です。憲法による政治、つまり政党政治を目指すと言うことです。この時代の憲法も運用次第によってはこういうことがができる。それを目指そうということです。二つ合わせて、閥族打破、憲政擁護、です。


さらにこれを応援したのが、薩摩出身の海軍軍人、山本権兵衛です。勢力を弱めていた薩摩閥の海軍は、ここで政党に近づくことになります。この人は次の首相になります。海軍は薩摩の勢力の強いところで「薩の海軍」と呼ばれていますが、薩摩出身の首相はこの人が最後になります。
その前の薩摩出身の首相としては日本銀行や金本位制をつくった金融関係に強かった松方正義がいますが、そのあと松方自身は元老となって力を保持しますが、松方系の政治家が首相になることはありません。それよりも薩摩閥は海軍を拠点としていきます。

陸軍を拠点とする政府側の桂太郎は、立憲国民党を切り崩して、仲間割れさせようとします。立憲国民党を離れてオレに着かないか、ということで、新しい政党をつくるんです。これを立憲同志会といいます。正式な成立は、のちの1913.12月です。

こうやって政党の動きを政府が切り崩そうとした時に、決めては民衆です。軍部はちょっとおかしくないかと、民衆が暴動をおこしていく。東京中心に暴動が拡がり、石投げていく、ということが起こる。別に石を投げろといってるわけじゃないんだけれども、これで、おさまりがつかなくなる。これをおさめるためには、一つには中国流に戦車を出動させて、警官隊に発砲させて鎮圧するという方法もある。これ君たちが生まれ前の、中国の天安門事件というのは、これだった。

しかし日本はそこまでしない。桂太郎は、これは自分が辞めるしかない、ということで辞任します。1913.2月のことです。1912.7月に大正と改元されて、まだ1年も経ちません。これを大正政変といいます。このことの政治的な意味は、国民の運動によって、つまり民意によって、政権を変えることができた、ということです。この内閣は最短記録53日で終わります。

これを世界史的に見るとどうか。中国の辛亥革命に乗り込むために、陸軍を二個師団増設させようとした陸軍の意図は、これによって失敗した。つまりこの段階では、日本は中国に干渉していないということです。

1年ずれたけれども、ここまでがほぼ明治の終わりです。明治は1911年までです。
次から大正時代に入っていきます。世界史で言うと、1910年代のビックイベントは第1次世界大戦です。1914年です。基本は、1894年、1904年、1914年、この順に日清、日露、第1次大戦です。これ以上覚えやすい戦争の起こり方はないですね。
第2次世界大戦は1939年です。頭の整理てもしておいてください。どっちみち戦争への道は複雑極まりないです。たどればたどるほど、わけが分からなくなっていっていくようなところがあります。しっかり見ないとだまされたりもします。
太平洋戦争というのは日米戦争とのことで、第二次世界大戦の地域戦です。これは2年遅れで1941年から始まります。この1939年と1941年を混乱する人もいて、頭の中の序列が混乱していく。そういうところに入って行きます。



【内閣覚え方】 「カサカサカ
カ 桂太郎内閣①
サ 西園寺公望内閣①
カ 桂太郎内閣②
サ 西園寺公望内閣②
カ 桂太郎内閣③





【アメリカの状況】 
ここでアメリカの状況を見ると、いま世界は第一次世界大戦に向かっています。1914年、いよいよ第一次世界大戦が勃発します。
 そのころアメリカでは中央銀行をつくろうとする計画が密かに進んでいます。金融資本家たちはこの中央銀行の設立のため、人目をはばかるように密議をこらしていたという話もあります。彼ら金融資本家たちの中心にいたのが欧州のユダヤ人財閥ロスチャイルド家です。しかし今まで言ったとおり、アメリカ人の多くは中央銀行の設立をのぞんではいません。
 そこで1907年にアメリカにまた恐慌が発生します。



◆ 1907年アメリカの恐慌は、仕組まれたものであった。それはニューヨークの準備銀行が、彼らの預金者である地方銀行に通貨を支払うことを拒否したことから起こり、そのためこれらの地方銀行は、今度は自分たちの顧客の預金引き出しを拒否する必要が生じたのである。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P244)

◆ 1907年、ニューヨークの中堅銀行のニッカ-・ボッカーがモルガンたちの仕組んだ風評によって倒産に追い込まれて、銀行恐慌が勃発します。これらの一連の動きの中で、モルガンやロックフェラーと気脈を通じたセオドア・ルーズベルト大統領が財閥の市場独占を禁止する反トラスト法の停止を宣言すると恐慌はおさまり、銀行業務は正常化されます。モルガンやロックフェラー財閥は反トラスト法停止の下で、ライバル会社を倒産させたり買収したりして独占的地位を強化します。(国難の正体 馬渕睦夫 ビジネス社 P109)


 1912年には、アメリカの大統領が共和党のタフトから民主党のウィルソンに変わります。ウィルソンの本業は学者であって、政治家ではありません。彼は大統領になるため、イギリス系の金融資本家から援助を受け、そのことによって大統領に当選します。
 その前の大統領は共和党のタフトでした。この大統領選で、共和党の大統領タフトの対抗馬として、同じ共和党の元大統領セオドア・ルーズベルトが第3政党として進歩党をつくり、共和党の票を分裂させました。このような不自然な動きの中で民主党のウィルソンが勝利し、大統領に就任します。


◆ ロシア政府は、村落在住のユダヤ人の活動が、田舎の人々を搾取していると考えていた。アメリカのユダヤ人銀行家たちは、ロシアに対して宣戦布告することをアメリカ大統領に要求したが、大統領のタフトは拒否した。彼らは次の大統領選で共和党を分裂させ、民主党のウィルソンを選出した。(世界権力構造の秘密 ユースタス・マリンズ 日本文芸社 P190) 


 第一次世界大戦の1年前、1913年に・・・・・・「たまたまだ」とアメリカは言うけれど・・・・・・アメリカは中央銀行をつくります。これで紙のお金が自由に印刷できるようになった。金貨と違い、紙のお金はいくらでも印刷できます。戦争で一番必要なのは何か。大砲とかミサイルとかはもちろん必要ですが、それは軍人に任せておけばよいことです。政治家にとって戦争で一番必要なものは何か。お金です。そのお金を作る場所、これがアメリカの中央銀行FRB)です。
 しかもこれが銀行という名前になってない。連邦準備制度という訳のわからない名前になってる。「わざと」そういう名前にしたという話さえあります。これは日本で言えば日本銀行のことです。アメリカ版の日本銀行です。
 我々の1万円札は正式名称は「お金」ではありません。「日本銀行券」です。これは政府がつくったお金ではありません。中央銀行という民間銀行が作ったお金です。この銀行は民間の金持ちがつくったものであって、政府がつくったものではありません。2大財閥として、ロックフェラー財閥、それからモルガン財閥です。これは今でもあるアメリカの財閥です。FRBは彼らの民間資本によってつくられた銀行です。こうやって国家の裏にドカンと金融資本家が居座わります。

 この中央銀行によって第一次世界大戦の資金が湯水のようにヨーロッパに供給されます。 

 連邦準備制度理事会というアメリカの中央銀行(FRB)設立の署名をしたのは、この新しい大統領のウィルソン大統領です。のちに彼はこのことを「うかつだった」と後悔しています。


◆ ウッドロー・ウィルソンは、晩年になって連邦準備制度設立に加担したことを後悔して、こう言い残しています。
「私はうっかりして、自分の国を滅亡させてしまいました。大きな産業国家は、その国自身のクレジットシステムによって管理されています。私たちのクレジットシステムは一点に集結しました。したがって国家の成長と私たちのすべての活動は、ほんのわずかな人たちの手の中にあります。私たちは文明開化した世界においての支配された政治、ほとんど完全に管理された最悪の統治の国に陥ったのです。」(金融の仕組みは全部ロスチャイルドが作った 安部芳裕 徳間書店 P140)

◆ 1900年初頭、ロスチャイルド家は、ハウスをヨーロッパに送って銀行家が政治家を支配する実情を学ばせた。・・・・・・ ハウスは、最初ウィルソンを大統領選で勝利させることを任務としていたが、のち外交関係に関わった。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P226)


FRBの株主構成



 1913.12.23日というクリスマスの前日に、多くの議員がクリスマス休暇で欠席している中、この中央銀行設立の法案は議会を通過します。
 中央銀行は発券銀行です。つまりお金をつくるところです。お金をつくるのは国家ではありません。中央銀行です。お金をつくる力を手に入れた者は、巨万の富を手に入れます。お金を人に貸すことによって人を操るのです。


◆ そもそも FRS(連邦準備制度) が生まれた理由の一つは、議会が税を徴収していると市民に悟られずに財政資金を手に入れるためだったことを忘れてはならない。この搾取にアメリカ人が驚くほど無関心なのは、マンドレーク・メカニズムの仕組みが全くわかっていないからだろう。・・・・・・政府は FRS を通じて国債を貨幣化するだけで、必要な資金を手に入れられる。(マネーを生みだす怪物 G・エドワード・グリフィン 草思社 P253~254)

◆ ユースタス・マリンズ著「連邦準備制度の秘密」(邦訳「民間が保有する中央銀行」面影橋出版)は、ロスチャイルド家イングランド銀行を支配し、イングランド銀行を通じて「シティ」を支配し、イングランド銀行=シティを通して米国 FRB を支配し、 FRBを通して米国の通貨=マネーを支配する構造を完成したことを詳しく論評している。(ロスチャイルドの密謀 太田龍 成甲書房 P402)

◆ 憲法を無視した犯罪的法案、つまり連邦準備法案の可決によって、ロスチャイルド家ウィルソンを介してアメリカを第一次世界大戦に引き入れることに成功した。(ロスチャイルドの滅亡 ジョン・コールマン 成甲書房 P246)

◆ アメリカ連邦準備制度がなければ、第一次大戦は起きなかった。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P133)

◆ FRBの設立でアメリカは大量のドルを刷って戦費を捻出し、また他国へ貸し出しすることができるようになりました。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 P64)


◆ (アメリカが)ヨーロッパの戦争を援護するために大規模な連邦債を発行したことで、国内で流通する通貨量が激減した。ここで中央銀行がその威力を現した。アメリカ政府は連邦債務を大量に発行し、それをまた FRB が驚くほどの貪欲さでのみ込み、その後は巨額の連邦準備券、つまりドル紙幣が洪水のように市場に溢れ出たのだ。こうして、ヨーロッパのための戦争債券によってもたらされたデフレは補われたが、その代償として、連邦債は一直線に増加し、 FRS が発足してからわずか4年(1916~20年)の間に、10億ドルから250億ドルへと25倍にまで膨らんでいった。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P139) 



 戦争するときにはお金が必要になります。そのお金をつくる力がユダヤ人財閥を中心とするアメリカの金融資本家の手に入ったのです。

これで終わります。

授業でいえない日本史 35話 現代 第一次世界大戦~大戦景気

2020-08-26 08:00:00 | 旧日本史5 20C前半
【大正時代の内閣】
ここからは、桂太郎を倒した政治が始まっていく。ここから大正時代です。その大正時代のイメージは、一言で言うと、大正デモクラシーと言われます。政党政治が花開きます。
大正は短いけれども、気分としては明るい。ただ15年で終わるだけに、あだ花に終わります。昭和になって、また軍部が復活し、外国からもいじめられて、また戦争していくことになります。大正時代の第一次世界大戦、昭和に入っての第二次世界大戦と、2回の戦争をしていきます。



【山本権兵衛内閣①】(1913.2~14.4)
桂太郎第一次護憲運動により総辞職して、次の総理大臣は、桂園時代の順番としては西園寺公望の番ですが、西園寺は立憲政友会の総裁を辞めていますので、自分の代わりに海軍の山本権兵衛を天皇に推薦します。
この時代の首相は、議会の決定がそのまま通るのではなく、議会の意向を尊重しつつ、元老といわれる明治の功労者たちの会議を経て、最終的には天皇の判断で任命されることになっています。
山本権兵衛は天皇から首相を任命されると、立憲政友会の協力を条件として総理大臣の任を引き受けます。これが1913.2月に成立した山本権兵衛内閣です。だからこの内閣を支える与党は立憲政友会になります。この内閣の副首相格である内務大臣には立憲政友会総裁の原敬が就任します。
政党というのは、もともと政府に反対する立場で生まれたのですが、ここでは明らかに政府に賛成する側になっています。それが与党です。反対は野党です。しかし政党が政府を支えるというこの構造は、初の政党内閣である大隈重信内閣以降、桂園時代の西園寺内閣の時代から成立していたものです。ただここでは首相が政党員ではなく、軍人であるというだけで、立憲政友会が政府の与党になっていることには違いはありません。

この山本権兵衛は、陸軍ではなくて、海軍の軍人です。久々の薩摩出身です。その前の首相の桂太郎は長州出身だった。しかし薩摩勢力はかなり小さくなっています。この人が最後の薩摩出身の内閣総理大臣です。あとでもう一度ピンチヒッター的に総理大臣になりますが。

それに対して長州出身の内閣総理大臣は、このあとも出てきます。現在の総理大臣の安倍晋三も長州出身です。しかも2019年に史上最長の内閣になりました。この人の叔父さんも佐藤栄作といって内閣総理大臣だったし、この人のお爺さんも岸信介といって内閣総理大臣でした。一族から何人もの総理大臣を出しています。すべて長州出身です。

海軍の大まかなイメージをいうと、海軍は話せば分かる、という感じです。それに対して陸軍のイメージは明治のガンコ親父、という感じです。そういう意味でちょっと海軍のほうが民主的には受けがよかった。

まず陸軍がこだわっていた軍部大臣現役武官制という制度は、やっぱりいかんよね、ということで、軍部大臣現役武官制を廃止します。ちょっと裏話をいうと、法律として軍部大臣現役武官法があったんじゃないです。いろいろある小さな制度上のなかの、1条、2条、3条、4条とずっとあって、その但し書きに小さく、軍部大臣は現役武官とすると、サラッと書いてある。油断も隙もないです。教科書でいうと、本文ではなく欄外の小さなところに一行だけ書いてある。これが決定的に重要なことになる。この手は、現在の政府でもやります。本当に油断も隙もないです。
ただこの山本権兵衛は、ドイツの武器会社で、ジーメンス社というのがあって、ここから武器を輸入した時に、袖の下をもらった役人がいて、それを理由に内閣不信任を出されて、すぐ潰されていく。これがジーメンス事件です。たった1年後の1914.4月です。この事件も不透明なところがあって、ちょっとヤラセっぽい感じもあります。




【大隈重信内閣②】(1914.4~16.10)
立憲政友会を与党とした西園寺公望の代わりの山本権兵衛が倒れると、次は桂太郎の順番ですが、桂太郎は、山本権兵衛内閣中の1913.10月に脳血栓で死去します。それで、どうしていいか分からないということになる。次の総理大臣は誰か。いったんオレは政治家辞めたという人、すでに70歳を超えています。もうアンタしかおらん、ということで元老の井上馨に推されて登場するのが大隈重信です。1914.4月です。
そんなに簡単に総理大臣になっていいのか。ここが今と違うところです。国会議員でなくても、天皇が、おまえ総理大臣になれ、と任命すれば、総理大臣になれるんです。

余談ですが、大隈が首相に推薦される前、元老会議は、次期首相として、徳川家当主で貴族院議長の徳川家達(いえさと)を推薦しています。しかし徳川家達はこれを辞退します。明治維新から50年近く経っているとはいえ、明治政府の敵であった徳川家がこうやって新政府の中にはいり、首相になれる地位にまで登りつめ、かつての敵である明治の元老たちから推薦を受けていることには驚きます。もし彼が辞退していなければ、徳川将軍家の首相が誕生していたことになります。

大隈重信の動きは複雑で、非常に理解しにくいところがあります。この前年1913年に桂太郎に対立する政党を寝返えらせようとして、新しく政党ができました。その政党が大隈内閣を支えます。立憲同志会です。
本来、大隈重信が党首を務めていたのは憲政本党です。その憲政本党が立憲国民党と名前を変えたのですから、大隈重信は立憲国民党を与党とするかと思ったら、その立憲国民党を飛び出した人たちでつくられた立憲同志会を与党とします。
主要政党は、ここで2本から、立憲政友会立憲国民党立憲同志会の3本になりました。


(政党系図)


ちょっと確認します。政党系図、1910年の立憲国民党まで言ってますが、この立憲国民党から分離させた政党、おまえ立憲国民党を裏切ってオレたちに寝返ってくれよ、といわれた政党、これが立憲同志会です。これは陸軍寄り、長州寄りです。その政党によって支えられた内閣が、この第2次大隈重信内閣です。


【第一次世界大戦】 世界史に目を転じると、ここで何が起こったか。この年1914.7月に、第一次世界大戦が起こる。
これに日本は直接は関係ないんだけど、第一次世界大戦が起こった。どういうふうに起こったかというのは、世界史でやりました。基本はイギリスとドイツの対立です。ドイツが狙われます。日本はこの時には日英同盟によりイギリス側につく。そしてイギリスが勝つ。
しかしその後20年経って、第二次世界大戦の時には、日本はドイツ側に追いやられてしまうんです。ドイツはしょっちゅう叩かれます。

もうひとつ、ここで、イギリスと今にいたるまで鉄壁なタッグを組んでる国がある。民族的にも言語的にもイギリスと同じアングロサクソンのアメリカです。これが、いいところでイギリスに味方していきます。これが世界の流れです。
きっかけはサラエボ事件です。ここでドイツの仲間のオーストリアの皇太子・・・・・・次の皇帝になる人・・・・・・が暗殺される。誰からかというと、これがスラブ系の青年、つまりロシア系のセルビアという国の一青年によって。


【日本の参戦】 日本の外務大臣はこのことを悲しんだか、喜んだか。「大正の天佑」と言った。これ、どうですか。天佑とは、天の恵みです。チャンスだ。なぜチャンスか。中国に行きたいからです。陸軍は、辛亥革命のあと、二個師団の増設を要求していた。それで揉めていたのが日本の状況だった。それが中国に行くんだったら今だ、となる。ドイツも中国に植民地を持っている。ドイツに宣戦すれば、そこを取れるじゃないか。実際、ドイツの植民地を取っていきます。日本は勝つ側だから。

すると、のちのことですが、なぜおまえが取るのか、とアメリカが言う。取り過ぎだろう、と言う。これも世界史でやりました。これが1921年のワシントン会議です。そういう流れになっていく。そこまで言うと第二次世界大戦の説明の半分になる。ここは日本史だから世界史とは関係ない、で済ませるかというと、1900年代になると世界史の動きと日本史はリンクしていきます。世界の動き抜きでは日本史は説明するのが難しくなります。

日本が参戦する理由は、日本がイギリスと結んでする日英同盟です。ドイツに参戦して、ドイツの中国植民地を奪う。それが同時に中国進出です。すでに日本は、朝鮮を領有してます。100年以上たった今でも、中国・朝鮮と日本は関係が悪い。

君たちが生まれたころまでは、従軍慰安婦問題だった。去年の暮れから新たに起こっている問題が徴用工問題です。このまま行けばキリがない。それがもし本当だとしたら、謝っていいんだけれども、ただこの時代に植民地でそういったことやっているのは、日本だけではないということは、公平な世界史理解のためには知っておかないといけない。300年前からのイギリスの奴隷貿易とか、いったい何なのかという話になる。そこらへんの歴史的公平性というのは正しく世界的に理解しないといけないと思う。

世界では、第一次大戦に勝つ側がイギリスです。メインはイギリスです。世界の一等国もまだイギリスです。このイギリスと組むのがロシアフランスです。これが三国協商です。
それに対して、ドイツオーストリアイタリアと組んだ三国同盟です。といってもこれは親戚づきあいのようなものです。ドイツとオーストリアはもともと国が別れているのが不思議なくらいで、どっちもドイツ人でドイツ語をしゃべっています。ホントいうなら、民族自決でいうなら、ドイツ・オーストリア連合帝国で、一つの国でまとまったほうがすっきりするぐらいのものです。
それに加えてイタリアです。でもイタリアはすぐに裏切ります。当てにならない。



(第一次世界大戦にいたる世界状況については、下記を参照)



【参戦理由】 日本には日英同盟がある。しかしこれに書いてないのがアメリカです。これは書けないです。アメリカはこの段階で、何の軍事同盟は何もないのに、つまり参戦する正当性がないのに、うまく参戦してくるんです。この時には、ルシタニア号というアメリカ船が、ドイツの潜水艦によって沈没させられた、ことを理由に参戦してくる。


【経過】 それで日本は、中国のドイツ領を奪いに行く。山東半島です。ここは重要な地点です。中国でみると狭いみたいですけど、日本の四国より大きい。あとのドイツ領は、こういう南洋諸島です。がばっと南洋諸島を取っていく。
その説明ですけれども、その山東半島の一部に青島(チンタオ)という、ドイツの拠点だったところを取る。それからもう一つは南洋諸島をとる。


【中国政策】 中国に対しては、1915.1月対華二十一ヵ条要求を出します。対華の「華」は中華の華です。「華」とは世界のことです。中華というのは、世界の中心のことです。だから中華どんぶりというのは、世界のまん中を食べる食べ物です。そこに21もの要求をしていく。
孫文は、軍隊を持たなかった、という話はしました。実力者は孫文ではなく、袁世凱です。この袁世凱も、なにか気の毒な点もあって、これは教科書にも書いてあるけれども、孫文は理想化されすぎてるんですね。袁世凱は悪人化されすぎているんです。水戸黄門さんと悪人みたいです。袁世凱には、最初、孫文を追い払った時には、後ろにイギリスがついていたんですけれども、そのイギリスは袁世凱に登らせたハシゴをはずします。そして失意のうちに、次の年1916年に死んでいきます。中国はバラバラになるように、なるように仕向けられるようなところがあって、これで中国はますます混乱していく。

翌年の1917.9月、孫文は広東軍政府を樹立し、中国では南北両政権が対立するようになります。つまり中華民国というのは看板だけで、日本の戦国時代のように、あちこちに親分さんがいて、勢力争いをしている軍閥割拠の状態になっていく。

そういったなかで、日本は、まずさっきいったドイツ権益です。
次に日露戦争でとっていた朝鮮北方の旅順・大連の租借権を99ヶ年に延長します。99ヶ年というのは正確でなくて、半永久的という意味です。
そこを拠点に、東海道新幹線よりも長い距離の南満州鉄道を敷く。

そして、会社の名前、公司(こんす)というのは中国流の株式会社、漢冶萍公司(かんやひょうこんす)という。漢冶というのは地名、萍公司というのが会社です。これは製鉄会社です。
21ヵ条を大きく4つ言うと、これなんです。これを、屈辱だと思いながらも、中国はイギリスからもハシゴを外されて、どうしようもなくて受け入れざるを得ない。
しかし受け入れた日の5月9日を民衆たちは、国の恥の記念日だとして祝った。国恥記念日といいます。こういう祝い方は歴史に残るんです。だから日中関係は今でも悪い。


【日本の領土】 このころの地図を見ます。日本が第一次世界大戦中にやったこととして、対華二十一ヵ条の要求、それから山東半島、青島占領。ドイツ領の南洋諸島まで取った。戦前の日本は領土は大きいです。もう一つは台湾です。
要らないことを一つ言うと、グァムはいってない。なぜか。ここは米軍です。今もです。米軍のここら辺の基地で、中国に1番近いところは、沖縄基地でしょ。次がグァムです。ここの米軍ミサイルは、中国を向いてます。中国にとっては今の沖縄の米軍基地は脅威です。


(第一次大戦時の日本領土)




【総選挙】 そして大隈重信は、一度ダメになった二個師団増設をするために、軍隊を増強するために、1915.3月に総選挙をうつ。結果は与党の立憲同志会の圧勝です。立憲同志会が153議席、立憲政友会が108議席です。この圧勝で陸軍の二個師団増設要求が通ります。
桂太郎の死によって桂内閣の代わりとして登場した大隈重信は、桂太郎の肝いりで結成された立憲同志会を議会の第一党にのし上げます。ここで立憲同志会は、立憲政友会を圧倒します。

実はこの時、第一次世界大戦が起こると、ヨーロッパは戦争で、物資が不足する。だから日本に大量に注文が来るんです。日本はウハウハ作るんです。売れ、売れと言って。どんどん輸出をのばして日本は景気がよくなります。これを大戦景気といいます。それで大隈さんはいい人だ、ということで選挙に圧勝する。
この時代、日本は景気がいい。この好景気が戦争いっぱい続く。戦争は足かけ5年が続きます。こんなに長い戦いというのは、近代史上は初です。これを大戦景気といいます。
どういうふうに日本の景気が変わったか。それは後述します。




【寺内正毅内閣】(1916.10~18.9)
ここまで、二個師団増設をしたあと、大隈内閣は野党である立憲政友会や陸軍のドンで元老の山県有朋と対立するようになります。

大隈首相が辞表を提出すると、長州と陸軍のドンである元老の山県有朋は、同じ長州出身で陸軍大将の寺内正毅を次期首相に推薦します。それが受け入れられて寺内正毅内閣の成立となります。これが1916.10月です。

議会対策としては、最大政党の立憲同志会の協力を得られなかったため、その対立政党である立憲政友会の了解を取り付けます。立憲同志会はこの1916年に憲政会と名前を変えます。

1917.4月に総選挙(衆議院議員選挙)が行われ、寺内内閣と対立した憲政会は敗れ、内閣に協力的な立憲政友会が議席を伸ばして第一党になります。

この寺内正毅は、前に朝鮮を守っていた人です。朝鮮総督府の長官です。あそこはエリートコースです。朝鮮に行くという人はエリートコースです。あい変わらず景気はいい。大戦景気は続いています。


【西原借款】 中国は軍閥割拠の状態です。袁世凱は北京を拠点にして南方の勢力と対立していましたが、1916年に死にます。

この袁世凱の後継者に二派閥あって、仮にA派とB派とすると、A派の段祺瑞(だんきずい)を資金面で応援したのが日本です。もう一方のB派はイギリスとアメリカが資金面で応援します。ここですでに日本とイギリスとの対立関係が発生しています。
このあとのことを言うと、段祺瑞は失脚し、A派は満州を拠点とする張作霖に受け継がれますが、張作霖がB派に勝利し、北京を押さえることになります。日本は段祺瑞から張作霖へと続くA派を応援していきます。しかしこれはまだ序盤戦です。

日本がここで段祺瑞を応援したというのは、単にがんばれ、がんばれじゃなくて、お金を援助したということです。中国へお金を貸したのは寺内首相の秘書の西原亀三という人です。国会承認には関係なく、独断で貸します。これを西原借款(しゃっかん)といいます。借款というのは貸付金のことです。


【アメリカとの対立】 ただ、このころから日本の中国進出を喜ばないのが、さっき言ったアメリカです。アメリカも実は、中国北方の満州を狙っている。日露戦争後、アメリカの鉄道王ハリマンが、鉄道を敷きたいと申し出てくる。しかし資本参加させないと、日本は断るんです。
そこでいろいろアメリカと対立してくるなかで、一応手を打とうねじゃないかと、調節を行います。日本の石井菊次郎という人とアメリカのランシングという人が、1917年に一応の手打ちをする。これを石井・ランシング協定といいます。日本には朝鮮支配を認めましょう。その代わりではアメリカには、フィリピン支配を認めます。お互い、朝鮮とフィリピンを認め合って、これで手を打とうじゃないか。しかしアメリカンは、まだまだ不満です。


【ロシア革命】 第一次世界大戦はフェイントがあります。1917年に何が起こるか。ロマノフ王朝滅亡です。これがロシア革命です。日露戦争で日本が勝ったのも実は、第1次ロシア革命のおかげだった。その13年後、第一次世界大戦中の1917年に、第2次ロシア革命が起こります。この第2次ロシア革命のほうが、本当のロシア革命です。ここでロシアに初の社会主義国家が誕生した。
それまでロシアはイギリス側について戦っていた。ということはドイツに有利なんです。イギリスに不利です。これが1917.3月です。



【アメリカの参戦】 その翌月の1917.4月に、アメリカは突然、イギリスに味方して参戦する。
しかし教科書には、そう書いてないです。この2年前の1915年にアメリカの客船ルシタニア号が、ドイツの無制限潜水艦作戦であるUボート作戦によって撃沈されたから、その仕返しだという。教科書にはそう書いてある。しかしそれは2年前です。
本当は、1917.3月にロシア革命でロシアが滅び、翌月の1917.4月にアメリカがイギリスに味方して参戦したというのが歴史の流れです。
しかもこれが決定打です。ドイツはそれまで五分五分以上に戦っていたのですが、アメリカが参戦すると、急速にイギリス側が有利になって、イギリスを勝利に導きます。そしてそのあとはアメリカがイギリスをも追い抜いて世界の一等国になっていく。


【アメリカFRBの設置】 世界の基軸通貨がそれまではイギリスのポンドだったのが、いつから今のようにドルとなったか。それはここからです。第一次世界大戦後から、アメリカのドルが世界の基軸通貨になった。そのドルを発行しているのがFRBという・・・・・・今でもよく新聞に出てくる・・・・・・アメリカの中央銀行です。これを連邦準備制度理事会といいます。日本でいう日本銀行なのですが、銀行と名前がついてないから非常にわかりにくい。連邦準備制度理事会という、わけの分からない不思議な名前になっている。これは単純にアメリカの中央銀行だと思ってください。FRBとは何か。日本銀行と同じアメリカの中央銀行です。ここが今もアメリカのドルを発行しています。


ただこれができるまでには、アメリカはすったもんだを繰り返しています。その理由は、中央銀行はもともと政府の力の及ばない民間の銀行で、ここに金融力の強いイギリスの資本が入りこめばアメリカの利益が失われる、という強い反対論があったからです。この点は今の日本銀行も同じで、日本銀行は民間企業と同じように東京証券取引所に上場されている企業で、その株式も民間企業と同じようにそこで売買されています。政府組織ならこんなことはできません。

しかもFRBができたのは第一次世界大戦のほんの1年前の1913.12月です。しかもクリスマスで多くの議員が欠席する中でアメリカ議会を通過した、といういわく付きのものです。


【シベリア出兵】 まだ第一次世界大戦は続いています。日本はこのロシアという社会主義国家の誕生に対して、何を行ったか。ロシア革命の最終目標は何だったか。一国革命だったですか。世界革命ですよね。世界革命というと、タチの悪い漫画みたいな話だと感じますけど、しかし本気です。世界革命だったら、一番近い国が日本です。日本にも革命が起こる。これは防がないといけない。それは認めないということで、日本は1918年、ロシア領のシベリアへ出兵するんです。これをシベリア出兵といいます。なぜシベリアか、北海道から行ったほうが、ロシアに近いからです。
しかしここは寒くて、氷点下30度、最高マイナス65度、ちょっと想像できない。我々、日本人は、氷点下65度だったら、ナイロン製のダウンジャケットの暑いのを分厚く着込んで行けばいいと思って、いっぱい着こんでいく。しかしナイロンは氷点下50度超えたらパリパリになる。船から下りた瞬間に、ナイロンが固まってビリビリ破れる。それくらい寒い。この寒さでシベリア出兵はうまくいかない。


【米騒動】 日本がここに出兵すると・・・・・・日本は今と違って食糧不足です・・・・・・食糧不足で米が足らない時に戦争が起こると、大事な米は庶民よりも先に兵隊さんの飯として軍部に行く。貧しい農家の二男三男が兵隊に行ってよかったというのは、白いおまんまが日に三度食えるからです。激戦に行って、第二次世界大戦のように、飯もない、鉄砲もない、鉄砲はあってもタマがない、ようなところで惨殺された人は、悲惨な限りですけど。
それで米が足りなくなる、米がどんどん値上がりしていって、1918年に米騒動が起こる。最初に起こしたのは富山県の漁村のおばさんたちです。農村ではない。漁村はだいたい気が荒い。そこのおばちゃんたちが、何でこんな米が高いのか、と文句言い始める。
しかしこんな時でも、がめつい人間はいるんです。彼らには分かるんです。米が不足しているときに、戦争が起きたら、米が足りなくなって米の値段が上がる、と。それなら上がる前に買っておけば儲かる、という人が出てくる。これが米の買い占めです。めざといというか、あくどい人はこれをやる。
そうすると騒動が予想以上に広がって、各地で一揆が起こる。うちもだ、うちもだ、ということで、全国的に米騒動が拡大していきます。

庶民が腹を立てれば、さっきも、第一次護憲運動で桂太郎が総辞職に追い込まれたように、米騒動が全国で暴動が起こりだすと、内閣総理大臣も責任をとって辞めざるをえなくなる。1918.9月に寺内正毅内閣は総辞職します。




【大戦景気】
【原因】
 次は経済です。第一次大戦中の日本は、いま言ったような理由で景気がよかったんです。ヨーロッパは大戦で経済が混乱し、物を作れなくなったらからです。これが大戦景気です。一部が戦争すると、それ以外のところが儲かる。

ヨーロッパでは金融制度もガタガタになり、ヨーロッパ各国は金本位制度を離脱していきます。すると日本も、ヨーロッパに金融制度を合わせるために、1917年に金本位制度を離脱します。このことは1930年に大きな問題になっていきます。

日本が景気が良くなったのは、ヨーロッパが戦争しだすと、生産力が落ちて、ヨーロッパが輸出していたアジア市場に空白ができる。ものが入ってこなくなる。
そこに日本が、物が不足するんだから、そこに持って行けば売れる。ヨーロッパも、軍備品が不足する。日本に注文が来る。日本はウハウハです。

もう一つ、戦争には人も兵隊もかかるけど、まずはお金です。戦争した国にお金を貸した人は、儲かるんです。そういう構造は戦争につきものです。戦争は、お金がなくてでもやる。借り手でもやる。背に腹は代えられないということで。貸したのはアメリカです。


【産業】 まず儲かったのは、ヨーロッパまで運ばないといけないから、船が足りない。船持っていた人は何倍も儲かる。これを船成金という。成金というのは、将棋で歩が相手陣地に入ったら、急に変わって金の動きをする。一気に大金持ちになった人を成金という。


【紡績業】 日本の産業というのはこの時代、まだ軽工業が力を持ってる。メインは紡績業です。それと織物です。綿織物を作る。紡績業はアジア市場独占です。


【製糸業】 高く売れる高級品としては、製糸です。この糸はシルクです。絹です。高級品です。これはアメリカに輸出する。日本はかなり輸出先としてアメリカ市場に頼っている。
アメリカに頼っているもう一つは、ここから急速に出てくるエネルギー源が、時代はまだ石炭ですけれども、これが石油に変わっていきます。まだ今のような、サウジアラビアとか中東の石油は見つけたばかりで、まだ採掘されていない。エネルギーへの生命線、日本の石油はほぼ100%アメリカ依存です。こういう状態です。次の太平洋戦争というのは、アメリカが日本への石油を切ると言った。これは日本で死活問題になっていく。


【鉄鋼業】 鉄鋼業については、石油の前の石炭です。中国に南満州鉄道が経営する鞍山製鉄所を日本がつくります。
それから、国内製鉄としては北九州に八幡製鉄所がある。今の北九州は鉄冷えで、人口減少率は九州ナンバーワンです。八幡製鉄所は、このあと新日本製鉄所になります。今は住友金属と合併して新日鉄住金という。日韓関係の問題は過去20年間は従軍慰安婦問題だった。最近、韓国がこの新日鉄住住金がらみで、また新たな問題を要求してきた。日韓併合で韓国は日本の領土だった。そこで工場労働者として強制的に日本に連れてきたから、これを徴用工問題といって日本に賠償を求めた。そういう問題が持ちかけられているところです。ここらへんは八幡製鉄所がらみです。


【化学】 化学部門では、それまで日本はドイツから薬品や肥料を輸入してたんだけれども、第一次大戦でドイツと戦っているから、ドイツからの輸入が入ってこなくなる。そうすると日本は自分で作るしかない。それが作れるんですね。日本はすでに技術的にその水準にあります。薬品や肥料の国内生産が可能になったということです。


【電力】 それから新たな動力源として電力です。それまで明治時代は蒸気力だったんです。福島県の猪苗代発電所から送電線を張って、まず東京に送電を開始した。それまでは電気なんかないです。

私が生まれたころにはすでに電気はあったけれども、まだ電灯に使っているだけだった。まだ水道がなかった。100年も200年も前のことじゃないです。私がハナタレ時分の50年ぐらい前のことです。どうやって水飲むか。ちゃんと農家には水瓶があって、寝る前に汲んでおくんです。そして一晩、寝かせる。堀の水は今のように淀んでいなくて、けっこう流れていたから、水道の水ほど綺麗じゃないけれども、今の堀の水ほど、濁ってはいないんですよ。一晩寝かせると泥はだんだん底に沈殿していく。朝起きてお母さんたちがまずやることは、ひしゃくで水瓶の上澄みをすくう。そしてまず湯を沸かす。そしてご飯を炊く。いわゆるカマドでの飯炊きです。こういうカマドがあって、ここでワラを燃やす。そのカマドの上に釜をのせる。この炊き方が、はじめチョロチョロなかパッパで、1時間ぐらいかかってご飯を炊く生活です。時代としては、戦後までこういう生活は続いていました。
水瓶の上澄みをとるから、炊きたてご飯のなかにメダカが2~3匹入っていたりした。そんなことは大したことないんです。メダカを食ったって、死にはしない。あれが食えなかったら、この時代は腹空かして何も食えなくなる。そんなに驚くほどのことじゃない。

私が小学校のころまではクーラーとかなかった。こんなにハエがいないような世界じゃなかったんです。ハエは食堂でもブンブン飛ぶし、夏に出てくる蚊は、こんなもんじゃなかった。道路脇の電信柱に街灯があると、蚊が光を求めてわんさかと集まって、蚊柱が立っていた。台所にはハエたたきがあって、これを横に置きながら飯を食って、ハエがいるとパチッとたたく。うちのお袋とかものすごくうまかった。成功率98%ぐらいだった。
天井からは、ハエ取り紙といって、ベターッとノリがついた巻紙を天井から垂らすんです。最初はグルグル巻いてあって、画びょうで天井に留めると、自然に1時間ぐらいで垂れてくる。そこにエサを求めたハエが1匹、また1匹とやって来て、10日ぐらいでほぼ満席ですね。時々、死んだハエがちゃぶ台にポトッと落ちる。ご飯を食べていると、上からポトっとハエが落ちてくる。それでも大したことはない。取り除けばそれで終わりです。味もちがわない。

むかしは干し柿があって、よく家の二階に吊してあった。縄に挟んで干し柿を吊すんです。自家用としてつくっていたから、食べたらいかんと言われても、ときどき勝手に取って食べていた。あるとき妙に味がおかしい。柿が干すとしぼむんで、シワシワになって、その中にハエが食い込んで抜けきれなくなっている。ハエが柿の中に2~3匹つまって、私はそれを知らずに食ってから分かった。だから私はハエの味を知ってる。それでもこうやって元気に生きている。どうもなりはしない。今だったら、死ぬか生きるかの騒動しないといけないようなことでも、大したことないです。人間は死ぬときは死ぬけど、死なないときはそう簡単に死なない。あまり心配しなくていい。今の衛生観念から言うと、こんなこと言ったらいけないかも知れないけど。
今は虫一匹いたら大騒動して、こんなもの食えるか、という。虫も住めないような世界は、逆に恐ろしくて、人間だって住めない世界です。人間の都合だけで世の中は成り立っていない。虫一匹おかずに入っていたら、こんなもの食えるか、という。冗談じゃない。そんなことを言っていたら飯なんか食えない。これはついこの間のことです。と言っても50年は経つけれども。


【結果】 結果として日本は、それまで貿易赤字国で、輸入が多かった国だったけれども、大戦期間中は輸出が増大し、輸出超過で貿易黒字国になった。今まで農業生産額が1位だのが、工業生産額が1位になる。つまり日本は農業国か、工業国かと問われたら、工業国だと言えるようになった。工業国になると、工場地帯ができて、都市が発達してくる。都市が急速に発達していく。明治時代までは、農村生活の方が都会生活よりも水準が上だった。地方の生活が上だったから、好んで東京に行く人は、あまりいなかったんです。
東京に行くのは、多くは農家の次男、三男なんです。食い扶持がないから。それが好んで都会に行くようになる。都会の方が生活水準が上になっていく。政府もそれを奨励して、田舎にはない文化住宅、といっても今から見ると、普通の台所があるだけなんですけど。カマドに下りなくても、そのままご飯がつくれるような家です。カマドは土間にあって、当然一度ゲタに履き替えて行くんです。それがゲタに履き替えなくても行ける台所になった。まあ今からいえば当たり前といえば当たり前ですけれども、そういうのが文化の象徴としてもてはやされる時代になった。

となると、今まで都会で働いていた人は、実際は貧しい農家の娘さんたちなんです。これも口減らしです。「女工」と言われていた。それが自らすすんで都会に出て行く男子労働者が中心になっていく。
ここでは何が違うかというと、女工さんは若い時に働いて、いずれ実家に帰る。そして田舎に帰って結婚するんです。結局、田舎の人になる。
しかし、男は一度都会に出て行くと、田舎に帰ってこないんです。都会で嫁さん見つけて、そこに住み続ける。男が多いから、結婚の競争率は高いんです。
都会では、400年前に江戸ができた時から、男の結婚は厳しいです。うまく嫁さん見つけられると、次に子供が生まれる。この子供は東京っ子です。こうやって人口がどんどん増えていく。
今ではすっかり東京が日本の中心のようになってますけど、そういう都会中心への変化が、この時代から起こっていきます。
これで終わります。

授業でいえない日本史 36話 現代 原敬内閣~大正期の文化

2020-08-26 07:00:00 | 旧日本史5 20C前半
【原敬内閣】(1918.9~21.11)
米騒動によって寺内正毅内閣が総辞職すると、1918.9月に原敬(はらたかし)が総理大臣になります。第一次護憲運動後、首相は、山本、大隈・寺内・原とくる。その2ヶ月後の1918.11月に第一次世界大戦がイギリス側の勝利で終わります。


【本格的政党内閣】 寺内正毅が総理大臣を辞任した時には、立憲政友会が議会の第一党を占めていました。この立憲政友会の総裁が原敬です。天皇がノーと言えばダメになるんだけれども、天皇はそれほど我を通したりしないです。あっそうかと、だいたい認めるんです。こういう形で総理大臣が選ばれた。これが本格的政党内閣です。
議会の多数を占める党の党首として天皇から内閣総理大臣だと認められた。ただ寺内正毅内閣の総辞職後、新たに選挙が行われたわけではありません。それ以前の議会を引き継ぐ形で総理大臣になります。大臣のポストの多くを立憲政友会が占めます。ただし陸海軍大臣は政党員ではありません。

原敬の出身は岩手県です。前任の寺内正毅は長州でしたし、今までの総理大臣のほとんどは薩摩か長州出身でした。しかし、このあとはガラリと変わって、薩摩・長州出身の総理大臣はほとんど出てこなくなります。

ここまでの歴代長期政権は、1位が桂太郎、2位が伊藤博文です。

2位の伊藤博文を破ったのは昭和の首相佐藤栄作で、この人も山口県(長州)出身です。1位の桂太郎が破られたのはつい最近の2019年のことで、これは安倍晋三政権です。そしてこの人も同じく山口県(長州)出身です。
つまり今の時点での歴代長期政権は、1位安倍晋三、2位桂太郎、3位佐藤栄作、4位伊藤博文となり、すべて長州出身者です。しかも佐藤栄作は安倍晋三の叔父に当たります。こんなことは普通は起こりえないことです。このことの特異さを考えると、長州の力はどこかに温存されていったのかも知れません。
山県有朋、桂太郎、寺内正毅はすべて陸軍の長州出身です。それに対して、薩摩出身の首相はほとんど出てきません。

この原敬内閣には、長州閥として陸軍大将の田中義一が陸軍大臣として入ります。田中義一はのちに総理大臣になります。戦前では、彼が最後の長州出身の総理大臣になります。
桂園時代には、長州の陸軍と立憲政友会が対立していましたが、立憲政友会を母体とする原内閣は、長州の陸軍とここで手を結んだようにも見えます。


【パリ講和会議】 1918.11月に第1次世界大戦が終わると、翌年の1919.1月からその講和会議が勝ったフランスで行われる。これをパリ講和会議という。

この第一次世界大戦には、2つのフェイントがあるといいました。
1つはロシアが崩壊したということです。1917年のロシア革命です。そしてそれまで机上の空論だと思われていた計画経済の政府、これが実現した。これを社会主義と言う。
ソ連がなぜできたのかというのが、今までの疑問だったけれども、20年前からは、ソ連がなぜあんなにあっけなくつぶれたのか、というのがまた新たな疑問になって、疑問は非常に多いですね。
ロシア革命でロシアはソビエト連邦となる。君たちが生まれたころには、すでにこのソ連がつぶれてまたロシアになっていた。ロシア、ソ連、ロシアと変わります。


この第一次世界大戦は本来ヨーロッパの戦いであったはずです。日本は日英同盟があったから参戦したんです。しかもあまり加わってないです。
しかしアメリカはもともと何の関係もなかったし、同盟関係も結んでなかったけれども、これにアメリカが参戦した。これに参戦することによって、イギリスに不利な局面を一気に打開して、圧倒的にドイツをやっつけた。これでドイツも崩壊した。

さらにアメリカはイギリスなどの戦勝国に莫大な資金援助もしています。戦後はその貸し付けた資金をヨーロッパから回収することによって、ますますアメリカは繁栄していきます。

ここで王様がいなくなった国が、2つ出てきた。今まで、国には王様がいるというのが常識だったけど、ロシア皇帝は殺された。ドイツ皇帝は逃亡し、亡命した。そしていなくなった。
これによって、列強の中で王様がいる国は、勝ったイギリスだけになった。しかしこのイギリスの王様は、もう300年も前から政治の実権を持たない王様です。第一次大戦は、一面では王国つぶし、帝国つぶしの戦いです。


【ベルサイユ条約】 条約が結ばれたのが、パリの郊外のベルサイユです。ベルサイユ条約という。しかしここで主導権を握ったのは、もうイギリスじゃない。
最大の手柄を立てたのはアメリカです。アメリカの軍事力、それともう一つはお金です。この資金力がないと、この戦いは勝てなかった。その資金を提供したのが、大戦の1年前に設立された連邦準備制度理事会というアメリカ中央銀行、FRBであった。非常に分かりにくい名前ですが、アメリカの中央銀行です。今もここでドル札が発行されています。それを設立した大統領はウィルソンという。アメリカの民主党出身ですが、生え抜きの政治家ではなく、もともとは大学教授です。金融資本家の援助を受けて大統領になった人です。

このパリ講和会議に、日本からは元老の西園寺公望が全権で参加する。
まずドイツが悪いとして、責任を負わせ、徹底的に賠償金をもらおうという戦後処理を行います。
それから、民族は自分の判断で国を作っていい。民族自決の原則です。ヨーロッパに民族で国を作っていく。逆に言うと、ヨーロッパは、ますます小さい国が乱立していくんです。
ではアジアはどうか。植民地のままです。こういうのをダブルスタンダードという。民族自決だといいながら、いいよというのはヨーロッパ人だけ。アジアは植民地のままです。アフリカ人なんかはとんでもない。こういう体制をベルサイユ体制という。

日本は敗れたドイツの領域をもらう。中国の山東省、それから南洋諸島です。この日本の領域は前回に地図で示しました。今と全然違う。これに対してアメリカが、それはもらいすぎだ、という。日本は、日英同盟でイギリス側に味方したけれど、これはもらいすぎだ、納得できない、と言って、アメリカはここから、巻き返しをはかっていく。

こういう日本の領土の拡大に対して、併合された方は腹を立てる。朝鮮も、中国も。反日運動です。
日韓関係や日中関係は、このあたりの歴史からずっと絡んでくる。反日運動だから、日本にとっては嬉しいことではありません。慰安婦問題でも、最近出てきた徴用工問題でも、お金が絡むんです。オレには関係ないじゃなくて、日本が払う賠償金は、もともとは誰のお金か。税金です。いろいろ我々への手当とかが削られて、これが朝鮮に行く、中国に行く、という構造です。ごめんなさいと言った以上は、必ず賠償がきます。だから、事実が分からないまま、その場しのぎでごめんなさいと、いうとあとで大変なことになる。
朝鮮は三・一独立運動という。1919年3月1日に起こる。中国は五・四運動といいます。1919年5月4日に起こる。中国の場合は、日本が突きつけた二十一ヵ条要求に対してです。


【国際連盟】 それから、このパリ講和会議で、もう一つ、突然出てきたのが・・・・・・朝起きたらできていたという感じなのが・・・・・・国際連盟です。
このあいだ、少し言ったけれども、アメリカ大統領ウィルソンがこの会議のリーダーシップを取っている。それをいいことに、アメリカ国内にさえ何の根回しもなく、この人が突然提案したのが国際連盟です。
アメリカがそんなに言うんだったら、反対はできないな、当然アメリカもはいるだろう、と思っていたら、フタを開けてみるとアメリカは入らないという変なことになる。

アメリカ議会は、こんなのは初耳だ、何で急にこんなことを要求するのか、しかも国際会議で提案したあとに、と言う。アメリカはもともと孤立主義といって、ヨーロッパには関心を持たない。その代わり、ヨーロッパからの干渉も受けないというスタンスなんです。これをモンロー宣言という。干渉しない代わりに、干渉もするなという立場なんです。
国際連盟はまったく逆です。干渉もするし、その代わり意見も聞きましょうということです。ぜんぜん違う。ただ武力は持ちません。それが今の国際連合と違うところです。
なぜこのウィルソンは、こんなことを急に提案するのかというのは、話せば話すほどよく分からなくなるから、ここではカットしますが、アメリカは参加しない、ということを知っておいてください。アメリカが提案したのに。異常な話です。
ということは、次に第二次世界大戦が起こっても、アメリカは集団安全保障上、それに加われないはずなんです。アメリカは第二次世界大戦が起こっても、長いこと戦争に加われなかった。しかし日本の真珠湾攻撃をきっかけに参戦します。そうなるまでの動きはあとで詳しく見ていきます。


【シベリア出兵の継続】 その後の日本は、ソ連が社会主義になったというのが怖くて怖くて仕方がない。日本に一番近い国というのは、実はソ連なんです。だからソ連に干渉していく。シベリア出兵という、ということはすでに言いました。
しかしこれはうまく行かないし、小競り合いがあっても、日本は寒すぎてうまく戦えない。結局、うまくいかないけれども、これをずっと続けて、撤兵したのはさらに4年後の1922年です。日本は列強の中で一番ムダ金を使った。これは失策です。1920年のニコライエフスク事件でも多くの死傷者を出し失敗している。


【私立大学】 国内面で原敬がやったことは、都会に人口が集中しつつある。都会の生活が上がりつつある。教育水準も高まっている。しかし大学が足らない。だから大学をつくる。
今まで専門学校と言っていたものを私立大学とする。例えば東京専門学校は、新宿付近の早稲田にあったから、名前を変えて早稲田大学となった。


【普通選挙】 それからこの内閣は、非常に庶民の人気が高かった割には、普通選挙法には反対します。所得制限を完全には撤廃はしない、しかし、撤廃したいという人が多かったのを受けて、3円に引き下げる。明治では、最初は15円、例えばですけど、納税額が1500万円ぐらいの大金持ちであった。しかし納税額が300万円ぐらいに引き下げました。それでも高いですけど。もうちょっとすると、普通選挙になります。


【大戦景気の反動】 大戦中は景気がよかったけど、戦争が終わると、大戦景気の逆になる。大戦景気は、ヨーロッパがつくれなかったからです。ではヨーロッパつくれるようになれば、当然そのぶんの日本の販売力は落ちるんです。ヨーロッパが戦後復興していくと、その年すぐに、また日本は輸入超過になり、貿易赤字国に転落していく。
こんなこと分かってるじゃないか、と思うけど、恐慌というのは、わかっちゃいるけどやめられないで、アッ売れない、と思ったときにはすでに遅くて、生産調整が間にあわないのです。それですぐに戦後恐慌です。1920年に戦後恐慌に陥いる。このあと、ヨーロッパは復興していきますが、日本はこのあと10年間、20年間とずっと恐慌つづきです。これは現在の平成不況の30年間と似ています。これがその第一発目です。これでもか、これでもかと、恐慌が来るんです。

バラの未来を描こうとした原敬は、急速に人気を落としていきます。そんななかで、東京駅でブスッとやられる。暗殺です。1921.11月です。犯人は国鉄職員の18歳の少年で、背後関係は分かりません。ただ単独犯とは思えません。こういう形で原敬は終わります。顔が端正で人気が高かったけど、政党政治に暗い影が落ちてくる。
そのあとは、予期しない暗殺だから、ピンチヒッターが出てくる。与党の立憲政友会はそのままです。




【高橋是清内閣】(1921.11~22.6)
原敬が暗殺されると、大蔵大臣であった高橋是清がピンチヒッター的に、1921.11月から原敬内閣をそのまま引き継ぎます。与党もそのまま立憲政友会で、その立憲政友会の総裁にもなります。
この人はここよりも、あと1回あとで大蔵大臣として約10年後に出でくる。そこが彼の本領発揮です。彼は日露戦争の資金をアメリカから取り付けた人で、アメリカとのパイプをもった人です。もと銀行家でお金の世界に詳しい人です。ここではピンチヒッター的です。しかしこのピンチヒッターの時に、アメリカを中心として、国際社会は大きく動いてきます。そのアメリカに対しては、なすすべがありません。



【ワシントン会議】 アメリカは日本を敵と見立てています。そして第2回戦をふっかけてくる。イギリスを中心とする主要国に呼びかけアメリカで会議を開きます。これが1921年ワシントン会議です。アメリカ大統領はハーディングです。
背景にあるのは日本と米英の対立です。日本全権は、次の首相になる加藤友三郎です。この時は海軍大臣です。海軍軍人で海軍大将を務めた人です。


【四カ国条約】 この会議で日本が結んだ条約が、1921年の四カ国条約です。四カ国というのは、アメリカ、イギリス、フランス、日本です。
このなかで軍事同盟があるのは、日英同盟です。アメリカはこれを切りたいんだけれども、切れとは言えないから・・・・・・ここらへんがウソも方便です・・・・・・日英同盟はいいですね、オレも入りたいです、フランスさんも入れて四カ国同盟にしましょう、という。
そのあと、どうなるか。イギリスは日英同盟を組んでいたから、日本びいきになるかというと、アメリカとイギリスは言葉も同じ、民族も同じアングロサクソンです。イギリスは今に至るまでアメリカと喧嘩したことはありません。さも当然のようにアメリカ側につく。
ではその四カ国同盟は機能するか。誰もがウソも方便だと知っている。ウソと分かっていても、日本はどうしょうもない。世界の基軸である米英のまえに、いとも簡単に日英同盟は廃棄されます。

幕末に伊藤博文がイギリスに近づいて以来、日本とイギリスとの関係はずっと続いてきましたが、ここでイギリスとの関係は大きな転換点を迎えたといってもいいでしょう。伊藤博文が日露戦争の前に、日英同盟に反対して日露協商論を唱えたことは、この観点から考えるべきことだと思います。イギリスを中心に世界を見ていた伊藤博文は、イギリスのホンネを最初に見抜いた政治家であったともいえると思います。伊藤博文は二階に上らされたあと、イギリスからハシゴをはずされることを恐れていたのではないでしょうか。

ただ日本とイギリスとのレールを敷いた政治家もまた伊藤博文であることは間違いのないことです。伊藤博文がハルビンで暗殺されたことにも謎はつきまとっています。

大きな流れを見ると、幕末からの伊藤博文の親英路線を受け継いだのは、同じ長州でも山県系の桂太郎の陸軍です。そして親英路線の象徴である日英同盟を切ったのが、ワシントン会議全権で海軍大臣の加藤友三郎です。この人は広島県出身で、薩摩閥ではありませんが、海軍の実力者です。
このあとの長州閥で陸軍出身の首相として田中義一が出てきますが、失脚に近い形で退陣していきます。れ以降、陸軍内の長州閥の勢力は低下していき、日本の敗戦まで長州出身の首相は現れません。
ところが米英に敗れた日本が、戦後になって再び親米英路線を取ると、今の安倍晋三首相の祖父である岸信介をはじめとして、再び長州出身の首相が登場してきます。


【九ヵ国条約】 日英同盟を廃棄して、アメリカは、日本は取りすぎだと思っていたから、その目的を1922年の九カ国条約でかなえます。
九ヵ国すべてを覚えるのは大変です。前に述べた4ヶ国にどこが加わったか。ポイントは一つだけ、中国です。中国の日本権益をチャラにしよう、というのが、アメリカの狙いなんです。
メインは、大戦中に日本が中国に突きつけた対華21ヵ条の要求の一部を否定する。ドイツから取った山東省を中国に返せという。


【海軍軍縮条約】 さらに、戦争しないようにしましょうね、といいます。
攻める軍隊は陸軍じゃないんですよ。陸軍は守りの軍です。ホント言うと日本の戦後はもともと専守防衛だった。それを数年前に安倍政権が変えたけれども、ホントは専守防衛で守るだけです。陸軍だけでいい。守るだけだったら飛行機は飛ばなくていいんです。飛行機はもともと攻めるためのものです。では飛行機が飛んでいない時代はどうだったか。この時代にやっと飛行機が飛び始めたのです。攻める軍隊は海軍なんです。だから攻める軍隊を削減しようという。陸軍じゃなくて、海軍軍縮条約を結ぶ。1922年です。

どういう割合で削減するか。米英日の主力艦の制限です。主力艦というのは・・・・・・まだこの時にはないけど第二次大戦の時には戦艦大和とか戦艦武蔵とかができる・・・・・・そういう主力艦がある。
米:英:日で、5:5:3とした。国力としてはこのくらいのものかなあ。どうですか。ここにどういうトリックがあるか。5:5:3でも、米英は仲間です。日本ははずされたんです。実質は米英は合計して5+5で10です。実体は10対3です。これどうですか。絶対に勝てないです。
このあとイギリスが2度と日本側に着くことはないです。ここで決まった体制をワシントン体制という。日本にとって重要なのは、1回戦のベルサイユ体制ではなくて、この2回戦のワシントン体制です。これで決まりなんです。

日本内部には、この体制に対して不満も高まった。日本に不利だからです。しかし、イヤこれでいい、アメリカと仲良くやっていきましょう、と一貫してアメリカにすり寄る人がいる。これがアメリカ大使の幣原喜重郎です。これを協調外交といいます。
この幣原喜重郎が歴史で一番大きく出てくるのは、日本にピカドンが落ちてアメリカに負けた太平洋戦争後、まず内閣総理大臣になるのがこの幣原喜重郎です。ここで戦後日本の半分以上が決まる。農地改革から財閥解体から一貫して、親米です。元アメリカ駐在の外交官、アメリカ大使館員です。
高橋是清内閣は、ワシントン会議が終わると、内閣の方針が一致せず、総辞職します。




【加藤友三郎内閣】(1922.6~23.9)
次は、ワシントン会議で全権を勤めた加藤友三郎が1922.6月に総理大臣になります。海軍出身のもと海軍大将です。

この4ヶ月前の1922.2月に元老の実力者山県有朋が死亡し、元老は松方正義と西園寺公望になっています。元老の話し合いで、加藤友三郎が選ばれると、加藤は立憲政友会が協力することを条件に首相を引き受けます。それを天皇が了承するという形です。ここで政党内閣がいったん切れます。非政党内閣です。

しかしこの人は任期途中で病死します。原敬は暗殺、このもと海軍大将の首相は病死。このあとよく人が死んでいきます。肝心なところで。明治維新とか、明治維新直前とかでも、よく人が死んでいったでしょう。将軍が死んだら、天皇も死んだとか。坂本龍馬も殺された。

ただ世界史をみると、ここでドイツがとんでもないことになる。パン一個が1兆円とか、リヤカーいっぱいお札を積んでいっても、パン一個しか買えないとか、とんでもないインフレーションになる。これも半分は謎ですね。なぜここまで中央銀行が紙幣を刷ったのか。
このインフレーションは、これ変な話があって、パン一個が1兆円になるという事は、それまでまじめに働いた人は、毎月毎月1万円ずつ貯金してたんですよ。貯金して100万円を貯めた。しかしパン一個が1兆円する時代で100万円の貯金とか、何の役にも立たなくなる。庶民の資産は全部パーになる。そういう事になって、ドイツ人は身ぐるみ剥がされていく。ドイツ人全員が貧乏になる。
ではそのドイツ人が貧乏になった分の富は、どこに行ったのか、というのがよく分からない。
そんなにドイツが苦しかったら、と言って、アメリカが、貸しましょうかと言う。これが甘いささやきですよ。貸しましょうかと言って、1924年にアメリカ人のドーズという人が来る。このドーズは、この後に副大統領になる大物なんです。
その次を言うと、アメリカドイツ着お金を貸してる。しかしこの後5年後の1929年世界大恐慌が起こる。そしたらアメリカもお金が足らなくなって、ドイツに貸したお金を急に早く返せという。ドイツは、そこでまた失業者だらけになる。そのあとに出てくる政治家がヒトラーです。その世界恐慌まで、あと5年です。




【社会運動】
この大正時代の社会は、気分は明るい。大正デモクラシーといいます。普通選挙運動が盛んです。普通選挙運動としては吉野作造という人、東大の先生です。

それから、婦人も強くなる。1911年に青鞜社ができます。青い靴下という意味です。ヨーロッパのマネです。ヨーロッパのダテ女たちが、青い靴下をそろえて、女性の権利を声高に求めたフランス女性たちがいるんですね。それが大好きで、平塚雷鳥(らいてう)という。本当は、明子さんというんです。平塚明子です。ペンネームを雷鳥という。すごい名前です。

それから1920年に新婦人協会ができて、女性にも政治活動をさせろ、という。それから次には、女性にも参政権をくれという運動になる。

また男も賃金上げろ、労働時間を減らせ。1912年に友愛会ができます。そういう労働運動の団体です。この団体は、名前から分かるように、最初は優しかった。友達と愛情だから。労使協調なんです。景気が良いときはいいんですよ。しかし日本は第一次世界大戦が終わると、景気が悪くなってすぐ恐慌になっていく。そして失業者があふれる。給料が下がっていくと、本気になっていく。鋭い対立が起こる。名前も変えて、友愛会が1921年に日本労働総同盟となる。そしてストライキが頻繁に起こっていくようになる。

そういう中で、計画経済じゃないとダメなんだという政党、その運動を社会主義運動という。政党は1922年に日本共産党ができる。今もあります。この時には非合法に結成されます。今は合法です。
しかしこれは社会主義運動の本当の目的は1国だけじゃダメなんだという世界革命論なんです。だから世界革命を起こすために、あっちこっちの国に支店を作る。支部を作る。その日本支部・・・・・・親玉はソ連のコミンテルンといいます・・・・・・としてできたのが日本共産党です。

それから農民も、自作農ばかりじゃなくて、地主の土地を借りて耕している農民が多い。小作争議という。サラリーマンでいうと給料上げてくれ、というのといっしょです。地方でもこういうのが起こっている。




【大正時代の文化】
大正時代、第一次世界大戦後です。1920年前後です。時代的な雰囲気はデモクラシーの風潮が盛んで、大正デモクラシーといいます。


【政治思想】 その代表的な人が、政治思想としてデモクラシーを推進していった人は、東京大学の法学部の先生で美濃部達吉という人です。この人の憲法学説を天皇機関説といいます。
実は戦前の日本は民主主義国家ではないんですよ。正式な法的位置付けとして、主権は国民にない。主権は誰なんですか。天皇なんです。そういう中で、どうやって民主主義に近づけるかという理論を構築した。主権は天皇にあるとは言わずに、国家にあるとした。
1歩拡大すれば、「天皇は神聖にして」とあるから、神様であるという考えも出てくるんです。それを天皇は機関であるとした。少なくとも神様とはいっていない。天皇というのは法的には、いろいろ内閣とか文部省とあるような、一つの機関としてととらえるべきなんだ、ということです。少なくとも神ではない。神様になったら絶対文句言えなんなるから。これが定説であったということを知っていてください。ただこれはあと10年経つと、軍部によって否定される。軍部が全部悪いとは言わない。その過程を今から言っていくわけです。

次が吉野作造です。民本主義という。民主主義じゃないのか。これをすぐ民主主義と書くんです。民主主義と書けないという理由を今言ったんです。日本は民主主義国家ではない。主権は天皇にあるから。そのなかで、主権のありかを、主権がどこにあるかと言いはじめると難しくなるから、これは目的論になる。政治は民衆本位であるべきだとした。これが民本主義です。


【文学】 次は文学です。白樺派という。白樺というのは雑誌の名前です。この白樺という雑誌に小説を中心にのせた人たちのグループです。主に学習院大学出身です。いわゆるお金持ちですね。身分も高くて、お公家さんとかいる。代表的な人が、武者小路実篤です。「むしゃこうじ」という名前でわかる。もと貴族です。それから有島武郎とか志賀直哉という人たちです。

自分たちの理想郷の村を作るんだと言って、九州に乗り込んで、宮崎県の山奥の村を買いとって、ここらへんがお金持ちでしょう。親の金です。自分たちで新しき村を作るんだといって、共同作業をやったりするんだけれども、これはうまくいかない。ただ新しき村は、ここでつぶれなくて、実は今も1人か2人で関東あたりにあるらしい。この新しき村の流れというのは。なぜこれがうまくいかなかったか。やっぱり男と女の関係ですね。それでうまくいかなかった。彼らが目指したものは、集団ではなくて、個人主義です。この個人主義という考え方も流行ってくる。

それからもうひとつの派。新思潮派という。芥川龍之介です。よく茶川と書いたりする。茶川龍之介じゃない、芥川龍之介です。作家になりたい人の登竜門は何という賞か。この人にちなんで。芥川賞です。これをもらうと、だいたい一生食っていける。最近では、漫才師の誰がもらったですか。又吉直樹がもらった。読んではいないけれども。

それから労働運動が盛んで、貧しい労働者の生活実態を描く。今はほとんど消えたけれど、プロレタリア文学というのがあります。雑誌の名前は「種蒔く人」です。
代表作家は、小林多喜二。小説の名前は「蟹工船」という。本当に蟹を取るための遠洋漁船の中に、たこ部屋状態で働いている貧しい漁船の乗組員たちの重労働の実態ですね。10年ばかり前に、日本の景気が暗黒の10年から20年になったあたりで、若い人たちに一部火がついた。50年ぶりにこの蟹工船がものすぐこ売れた年がありました。


【民俗学】 それから学問としては昔のことというと、徳川家康とか、有名な人、源頼朝とか、そういった人を調べるのが歴史だったけれども、この人は、誰も知らないような、例えば私の爺さん婆さんの、そのまた爺さん婆さんとか、そういう人たちの生活を知りたいと思った。名づけて常民といった。柳田国男という人です。彼の学問を民俗学という。ミンゾク学には2つあって、世界にいろいろいる民族を研究するのを民族学という。日本の姿に限定して、それが近代化で失われていく中で、それを取り戻そうというのが民俗学です。ゾクの字が違う。


【マルクス主義】 それから、河上肇の「貧乏物語」です。マルクス主義者です。この「貧乏物語」が今までと違うのは、貧乏というのは、お前の働きが悪いからだと、それで済まされていたのが、明治の石川啄木という詩人が、「働けど 働けど 我が暮らし 楽にならざり じっと手を見る」と詠んだ。何を歌ったか。一生懸命働いても俺の力では貧乏にしかならんという。社会に責任がある、という考え方です。貧乏は個人の責任ではなく社会の責任だ。これが今の福祉国家の考え方の一つの柱でもある。
こういう新しいのが出てきている。


【新劇】 今度は劇です。今でも、いわゆる演劇の世界というのは、地方にはないけど、福岡にちょこっとできたけど、客はあまり入ってない。東京にある。なぜかというと、大手マスコミの新聞、テレビ、映画、ラジオ、そういうメディアには全部、統制がかかる。本当に自分が言いたいこと、表現したいものというのを、何も統制がかからずに伝えたい。客は50人、100人程度でもいいから見て欲しい、というのが演劇の世界です。だから基本的に貧乏なんです。
それでできた芸術座。中心は島村抱月という大学の先生です。日本初の女優松井須磨子が誕生しますが、やっぱりうまくいかない。ただれた男女関係になる。これは今でもある芸能界の常です。

次に築地小劇場です。築地が出てきました。移転した築地魚市場ができる前にあった。あそこらへんにあった。小山内薫という。東大生です。まったく大学の勉強はしない。大学に行っても。こればっかりやっているという人です。芸術家というのは、生活をかえりみず、そういうことをやる人が多い。成功する人もいれば、リスクとして半分以上は身を滅ぼしたりする人もいる。


【美術】 美術界では、二科会というのが作られていく。この会は今でもあります。日本画もけっこう頑張ってる。西洋画ばかりでなくて。日本美術院というのもある。
その日本流で、現代風だという評価を受けているのが、竹久夢二という。なよっとした、ちょっといなせな現代風の洒落た細身の女を描く。黒い猫を抱いた「黒船屋」とかが載っています。


【雑誌】 それから、一般大衆向けには雑誌が出てくる。今はないけれども、一番売れ筋は「キング」です。月刊誌ですね。
「中央公論」は今でもある。それから「改造」、これはみない。
「文芸春秋」はあります。月刊誌としてナンバーワンです。今でも本屋に行けばあります。

むかし本は高かったんだけれども、このころ大衆化を目指して、とにかく安くしようといって、1冊1円です。円本といいます。1円は、今の値段で、大まかにいって1000円です。
本が1000円で買える。普通5~6千円したんです。5~6千円だったら買えない。しかし1000円だったら買える。やっぱり1000円までは出して良い本は買わないといけない。
今はアマゾンで、200~300円で送料が300円かかって、500~600円で買える。だから、出版社は儲からない。古本だから。


【ラジオ放送】 電波では、ラジオ放送が開始された。テレビなんか、まだないです。テレビは、私が生まれたころには家になかった。日本放送協会ですね。NHKの始まりです。テレビもなければ、電話もありません。
電話がないときに、どうやって連絡をしていたか。5キロ先の親戚とかザラにある。これはうちの話、私の親父は昭和の初めに生まれましたが、祖母(親父のお袋)から、親戚のおばちゃんに、明日つかいに行けと言われて、手紙を持って渡しに行っていたという。一生懸命歩いて、子供の足で片道5キロ、往復10キロです。きつかったと思うよ。向こうのおばちゃんが、よく来てくれたね、と言ってかわいがってくれた。饅頭を食わせてくれた。甘いものは、むかしは無かった。歩いて行くのは、イヤだったけれども、着けば楽だった。メシ食うと動きたくなくなるから、泊まっていく。帰らない連絡はできない。どうしていたのか。

村に最初に電話が来たとき、覚えている。その家は大きな柱を立てて拡声器をつけた。村の人の緊急の用事は全部そこにかかってくる。だから電話をつけて、そこは民家ではなく、店だったからね。しょっちゅう、そこに何さんを呼んでくださいと電話がかかってくる。何々さん、電話がかかってるよ、とマイクで村中に呼び出す。そしたら、大急ぎで走って行く。200メーターぐらい全力で走っていく。
その次は何だったか、ダイヤル式ではなく、村役場の有線電話です。君たちは知らないだろうね。こんな話をしていると進まない。ただ村中筒抜けなんです、受話器の形をしているけど。隣の家で、言ったらいけないことを言っているというのが筒抜けなんです。だから秘密のことは話せなかった。
これで終わります。

授業でいえない日本史 37話 現代 ドイツの状況・関東大震災~金融恐慌

2020-08-26 06:00:00 | 旧日本史5 20C前半
【ドイツの状況】
前にも少しいいましたが、ここらへんは、世界の動きとリンクしないとわからないです。第一次世界大戦で負けた国はドイツです。正式にはもうドイツと言わない。1919年にヴァイマール共和国に変わる。このときのドイツは、ヴァイマール共和国またはワイマール共和国という。皇帝は逃げていったから、王政でもなくなった。
そしてそこでは米英中心に・・・・・・半ば日本国憲法と似ていますが・・・・・・新しい憲法をつくりなさい、と押しつけられたんです。世界で一番民主的な憲法と当時は言われた。これが1919年のヴァイマール憲法です。これが戦後すぐできる。


【大インフレーション】 しかしこれでうまくいくかというと、莫大な額の賠償金を科せられたドイツは、なかなかそれを払えない。払えないことに対してフランスが腹を立て、1923年にドイツのルール地方に軍事侵攻してそこを占領した。
それに対して、ドイツの大量の労働者がストライキを打って働かなくなった。そうすると、ドイツの物価が、2倍、3倍どころか、1兆倍になった。大インフレーションが起こる。これが1923年です。このことの庶民にとっての意味は、一生懸命1万円ずつ貯めていて、銀行に預けた100万円の預金額が、パン一個が1兆円するようになると、何の価値もないようになる。国民の資産が奪われていった。
その対策として、シュトレーゼマン内閣のもとで、1923.11月に、1兆マルクを1マルクの紙幣と交換する。これで100万円なんか、ほとんどないに等しいですね。こういうふう金融手法を使って、インフレーション自体は収束したんだけれども、ヴァイマール共和国とはいったい何なのか。自分が貯めた100万円が一気に吹っ飛ぶ、こういう国というのはいったい何なのか、と不満が高まってくる。
ドイツでは、大インフレーションに揺れるヴァイマール共和国への不満から、同月の1923.11月にヒトラーがミュンヘン一揆という軍事行動を起こしています。このころからヒトラーの動きはあります。すぐ失敗して捕まえられますけど。このあとヒトラーらは投獄される。この間に書かれたのが「我が闘争」です。
アメリカも同時に、ドイツにはお金がない、賠償金が多すぎるからお金を貸しますよ、という。これが1924年のドーズ案です。アメリカがドイツにお金を貸すことになった。
しかし、5年後の1929年には、アメリカ自身が世界大恐慌を起こして、お金が足らなくなると、貸したドイツからまっ先にお金を引き上げる。するとドイツが一番失業率が高くなる。アメリカが恐慌を起こして、ドイツ人が一番苦しむという形になっていく。このような中で、4年後の1933.1月にヒトラー内閣が誕生します。


この他の国際情勢を見ると、この前年1922年には、戦争に敗れた大帝国オスマン・トルコが崩壊して、小さなトルコになる。この旧オスマン帝国領にもイギリスやフランスが乗り込んでいきます。




【山本権兵衛内閣②】(1923.9~23.12)
では日本に戻ります。どこからの続きか振り返ってみると、1921.11月に原敬暗殺のあとを受け、ピンチヒッター的に高橋是清が首相になった。しかしアメリカが第二ラウンドとしてワシントン体制に持っていって、日英同盟は破棄された。海軍軍縮条約では米:英:日で、5:5:3だけど、本当は10対3で日本不利になる。こういう状況になって、第一次大戦で勝ったと思っていたら、どうもおかしいということで、その高橋是清内閣もつぶれた。
次は1922.6月に、ワシントン会議で全権を勤めた海軍の加藤友三郎が総理大臣になります。ここで政党内閣がいったん切れます。非政党内閣です。しかし加藤は任期途中の1923.8月に病死した。

加藤友三郎内閣のあとを受け、1923.9月同じ海軍の第二次山本権兵衛内閣が成立します。2回目の組閣です。しかしこの山本権兵衛が首相として組閣作業をしている最中にも、とんでもないことが起こります。



【関東大震災】 1923.9月、関東大震災の発生です。1923年は、ドイツでは大インフレーション、日本では関東大震災、どっちも踏んだり蹴ったりです。
日本は、この3年前の1920年に戦後恐慌が起こって景気が悪くなったばかりのところに、さらに追い討ちをかけるように関東大震災が起こる。ここから景気がさらに悪化していき、震災恐慌に陥っていく。

そうすると銀行から借りたお金が返せない企業が続出する。家も潰れて、工場もつぶれたら、入ってくるはずの売上代金が入らないから、そうなると返せるはずの借金も返せない。ではそのまま工場を潰していいか、というと、この人は、まず支払い猶予を出す。30日間は借金返せと言うな、と命じた。
そうすると、借りた人は、手形で借りています。私が銀行から、100万円借りるときには、私が手形を発行して100万円と書いて、支払期日を書いて、名前を書いて、印鑑打って、その手形を銀行が持っている。これを銀行は、期日に払ってもらうことで、利益を上げているけれども、結局私は払えないんです。30日間だけ待ってといっても、うやむやになる。私は家もつぶれて、食うや食わずで、ちょっと待ってくださいよ、と言うしかない。銀行がそういう返済の見込みが立たない手形をいっぱい持ち腐れしていく。こうやって銀行に溜まった不良手形を震災手形という。返済できるのか、できないのか分からないような手形、これが銀行の金庫の奥にいっぱい溜まっていく。

このままだったらお金が回収できずに銀行自体が潰れる。そういった時に、本当はやったらいけないけれども、日本銀行が金本位制の制約を破って、お金を刷る。日本銀行は1万円札を刷れるんです。ガバガバ刷って、それを銀行に貸すんです。これを日銀特融という。日本銀行の特別融資のことです。A銀行がつぶれそうだと思ったら、日本銀行がA銀行にお金を貸す。これで急場をしのぐけれども、根本的解決にはならない。本当は、未払いの震災手形をちゃんと支払ってもらわないといけない。これを一日延ばしにしていくんです。
数年間そのままです。あれどうなったかと、みんな不安なんだけれども、解決策がないから、みんな手を触れない。こういう状態で、じわじわと日本の銀行の経営が悪化していく。


【虎ノ門事件】 この時は大正時代で、のちの昭和天皇が皇太子です。1923年、その皇太子を暗殺しようとする事件が起こった。これが虎ノ門事件です。銃を発砲した青年の父親がこともあろうに国会議員だった。それで大騒動になって、山本内閣はその責任を取って総辞職していく。これが薩摩出身の最後の内閣総理大臣です。その後は、薩摩出身の総理大臣は出てきません。長州出身者はこのあとも出てきます。




【清浦奎吾内閣】(1924.1~24.6)
次の首相は清浦奎吾が就任します。貴族院出身で枢密院議長の清浦奎吾が内閣総理大臣になる。1924.1月です。清浦奎吾は衆議院議員ではない。選挙によって選ばれた人じゃない。こういうふうに、大正時代は政党政治の時代だといったわりには、清浦奎吾は、貴族院出身で政党内閣ではない。山本権兵衛は海軍軍人で政党内閣ではない。その前の加藤友三郎内閣も海軍出身です。3代続けて非政党内閣が生まれた結果、これあんまりだ、ということですぐに反対運動が起こる。これが1924年第二次護憲運動です。


【第二次護憲運動】 これを第一次に続いて第二次護憲運動という。護憲というのは憲法を守るという意味です。
ここで、お互いライバルであった三つの政党が、この時だけは手を組もうという提案に賛成した。憲政会立憲政友会革新倶楽部の三つです。この三つを、護憲三派といいます。立憲国民党は、1922年に革新倶楽部と名前を変えています。
内閣は議会を解散して、総選挙を行います。するとこの護憲三派がみごと勝っていく。下の政党系図で確認してください。

(政党系図)


このとき三派を結成した各党の中心人物は、憲政会加藤高明です。この憲政会が第一党になります。政党内閣が目標です。ということは、一番勝った政党のリーダーは次の総理大臣です。
立憲政友会の総裁は、総理大臣であった高橋是清です。ここで政党のナンバーワンとナンバーツーが逆転した。立憲政友会は反主流派が政友本党として分裂し、憲政会に議席数で負けた。
三番手になった革新倶楽部の総裁は、犬養毅です。

こういう護憲運動が、第一次護憲運動以来、約12年ぶりに盛り上がった。第一次護憲運動は1912年、この第二次護憲運動が1924年です。この結果、清浦奎吾は1924.6月に総辞職します。約半年の短命政権です。

ほぼここで大正は終わりです。大まかに言うと大正時代とは、第一次護憲運動と第二次護憲運動にはさまれた時代です。

昭和元年は1926年です。だから昭和換算は1925をひきます。


【内閣覚え方】 「山のお寺 原たかし 賛成
山の 山本権兵衛内閣①
お  大隈重信内閣②
寺  寺内正毅内閣
原  原敬内閣
た  高橋是清内閣
かし 加藤友三郎内閣
賛  山本権兵衛内閣②
成  清浦奎吾内閣






【加藤高明内閣】(1924.6~25.8)
1年割り込むけど、ここからほぼ昭和史になります。次の首相は一番多く議席数を取った憲政会加藤高明です。1924.6月からです。


加藤高明は東大卒業後、三菱に入社し、創業者である岩崎弥太郎の長女・春路と結婚し、その翌年から政界入りした政治家です。大隈重信の秘書を務めています。このことから後に「三菱の大番頭」と皮肉られるほど、三菱との関係の深い政治家です。憲政会と三菱との関係は、立憲改進党の大隈重信と三菱創業者の岩崎弥太郎以来の深い関係を引き継ぐものです。 

全体としていうと、日本は経済が悪いから、余裕なんてない。経済発展をしないといけない。アメリカが、日本にこのぐらいで我慢しておけといっても、それどころじゃない。うしろは崖っぷちなんです。とても我慢できない。
しかしワシントン会議以降、日本の外交は親米方針です。親米英です。アメリカ、イギリスに逆らわないほうがいいぞ、ということでずっと行きます。
この時の、内閣を支える政党は、護憲三派の連合ですが、メインは憲政会です。この憲政会の党首が加藤高明です。そこに2番手の立憲政友会が手を組む。3番手はこのあと弱小政党になっていく革新倶楽部です。

こうなると、本格的な政党内閣が続くかに見えた。彼ら政党員は、これこそ政党政治の本来の姿だという意味で、憲政の常道といった。これが常識だと。政党政治はこういう形でないといけない。これがいつまでも続くはずだ、政党政治の完成だという意味です。
しかしこれは10年も持たずにつぶれます。首相が暗殺されることによって。この事件がのちの1932年五一五事件です。このとき、すでにニューヨークウォール街の世界大恐慌は始まってます。それ以降、政党政治は息を吹き返しません。


【普通選挙法】 でも先のことは分からないから、加藤高明がやったことは、今まで大正時代に民衆が強く求めていた制限選挙、所得制限の選挙を無くします。これが1925年普通選挙法です。
今までは、金持ち中心で、所得がいくら以上という制限があった。具体的にいうと、税金をいくら以上払っている者だけという制限です。これを撤廃した。ただし女性の参政権はもっとあとです。だから25歳以上の男子に選挙権が与えられた。所得制限はないということです。年齢制限だけです。年齢制限があるじゃないか。何も分からない小学生に選挙させたら大変でしょう。年齢制限はどこにでもあります。


【治安維持法】 しかしそれと同時に一つの法律をつくります。普通選挙をやったらソ連好きの国民から社会主義にしようという動きが出てくるぞ、それだけは許されない、彼らが出てきたらすぐ逮捕できるようにしないといけない、と考えた。これが1925年治安維持法です。治安を維持して、いい法律に見えるかもしれませんが、天下の悪法はいつも名前だけはすごく立派な名前で出てくるのです。ここでも治安維持という立派な名目で出てくる。
これはどういう法律か。普通はリンゴを盗みたいと思っただけで、犯罪は成立するんですか。しないんですか。しないんですよね。ところがこの法律は、するんですよ。社会主義にしたい、と思っただけで犯罪になる。なぜそんなことが分かるのか。ここに本があるじゃないか、と言われる。だから自由に本が読めなくなるんです。つまり思想統制です。


【幣原外交】 外務大臣は幣原喜重郎です。彼は協調外交を取ります。協調とはどこと協調することか。親米親英です。アメリカとイギリスに従っていこう、という。日本がアメリカとの戦争に負けたあと、真っ先に日本の総理大臣になるのがこの人物です。

幣原喜重郎の妻・雅子は三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の四女です。三菱財閥と関係の深い政治家です。

しかし日本はこの時、いろいろな要求を受け入れるほど経済的には豊かではない。しかも戦後恐慌、震災恐慌と2回も恐慌が起こっている。実はあと3回目、4回目が来ます。そして4番目が一番大きいんです。もうがまんできない、そう追い詰められていく。経済が悪いとそうなっていく。



【加藤高明内閣②】(1925.8~26.1)
ただ、こういう幣原喜重郎の協調外交に対する反対もあって、護憲三派による連立内閣は崩れます。

1925.8月、首相加藤高明は内閣をつくりなおす。これが第二次加藤高明内閣です。ここで立憲政友会は三派連合をはずれます。革新倶楽部もはずれます。憲政会だけになる。それで弱くなる。
その協調外交に対して、こんなにアメリカに譲歩してたら大変なことになるぞ、という危惧を持っていたのは軍部です。だから、景気が悪くなるに従って、アメリカにハイハイと言っていてホントにいいのかな、と思う人たちの意見が軍部に集まる。不況下の経済の動きと、軍部への期待が歩調を合わせていく。
この1925年、立憲政友会は、もと陸軍の大物、長州の田中義一立憲政友会の総裁として迎えます。田中義一は軍人から政党政治家になるわけです。

ここで、また首相が死にます。1926.1月、加藤高明が病死します。




【若槻礼次郎内閣】(1926.1~27.4)
加藤高明が死んで、1926.1月にピンチヒッター的に憲政会の若槻礼次郎が総理大臣になっていく。与党の憲政会は変わりません。しかしピンチヒッターだからといって、危機はぜんぜん待ってくれない。それどころか、逆にそういった弱いところを狙い撃ちするようなところがあって、内閣が弱いときに限って何か起こります。
これは理屈が合っていると思う。政治が弱いときには、危機を防ぎきれずに何かが起こるからです。ここで3回目の恐慌が起こる。1927年金融恐慌が起こる。
ちょっと復習すると、第一次世界大戦後、日本は好調な輸出が一気にストップし、また輸入超過に戻って貿易赤字国になった。戦争が終わったから景気が良くなるかというと、逆です。そうすると1920年に戦後恐慌が起こった。
そこで弱いところを吸収合併していくのは財閥なんです。財閥が肥え太っていく。財閥が大きくなるのは、景気がいいときではない。逆に悪い時です。その3年後の1923年には関東大震災が発生し震災恐慌が起こっていく。


【金融恐慌】 1927年に3つ目の金融恐慌が起こります。1923年の関東大震災で発生した震災手形がすぐには処理されなくて、銀行手持ちの震災手形、いわゆる不良債権、これがずっと銀行内に残る。しばらく見て見ぬふりをしていたけれど、知ってる人はこの手形のことを財界のガンという。
この当時ガンは治らない病気です。これを誰が処理できるか。そういう時に、オレがやってやるぞー、とかけ声だけは立派だったけど、十分な力量と知識がないと、こういうことは失敗するんです。大蔵大臣の片岡直温が、処理するぞーといって、処理するどころか、ある銀行が危ないんじゃないか、という噂に火をつけるような失言を国会でしてしまった。それでみごと失敗するんです。
そうすると銀行というのは、立派な経営の健全な銀行でも、あそこの銀行が危ないという黒い噂がたつと、自分の預金も危ないんじゃないかと思って、銀行預金を引き出しに来る。銀行はもともと人のふんどしで相撲をとっている。例えば、人の預金を1%で預かって、それを3%で他人に貸すことによって、儲けを2%取る仕組みです。そのことによって成り立ってるのが銀行だから、もともとの原資である預金、自分の預金100万円を引き出せ、引き出せと、みんな押し寄せたら、健全な銀行でもつぶれてしまう。こういう構造になっている。

こういうのを取り付け騒ぎという。景気が悪くなると取り付け騒ぎが起こる。これは、私が生きてる間にもありました。ある銀行が不安だぞとなると、お金を入れるカートン、あれがもう銀行の中でとんでいた。それがニュースで流れていた。平成不況のはじめには、そういう大混乱に落ちていった。

これがきっかけになって取り付け騒ぎが、全国に広がっていった。日本の中小銀行などの関係のないところまで休業に追い込まれた。1920年代の不景気の中で。これが1927年の金融恐慌です。1920年の戦後恐慌、1923年の震災恐慌、1927年の金融恐慌、1920年代には3回も立て続けに恐慌が起こる。日本は、めちゃめちゃです。

その時に、鈴木商店という・・・・・・なにか田舎の商店のような名前ですけれども・・・・・・そのころの日本の三大商社の一つです。これは株式会社じゃないけれども、当時は誰でも知っている個人経営の大企業です。これが倒産してしまった。このままだと、この倒産した会社にお金を貸し付けている銀行も、資金回収できずに倒産する。それが台湾銀行なんです。なぜ日本史に台湾が出てくるんですか。台湾はこのとき日本の領土です。ということは、台湾銀行は台湾にとっては日本銀行みたいなものです。日本銀行がつぶれたら日本の血液がストップして、日本の経済は一瞬で潰れてしまう。これはどうしても潰せない。
それで若槻内閣は、台湾銀行を救済しようとする。これは理屈じゃない、つべこべ言っているうちに、潰れてしまったら遅いんだ、という。
戦前には急きょの策として、勅令がある。勅は天皇です。議会にはかるんではなく、天皇の勅令でこれを切り抜けようとした。しかしこの時には、天皇の相談役機関がある。これが時々、絶大なる力をふるいます。これが枢密院です。この枢密院が拒否します。天皇に言うんです。これはよくない、署名したらダメですよ、と。それで台湾銀行は融資を受けられずに、休業してしまいます。

ではなぜ、枢密院が拒否したか。1920年代の日本人の不満はずっとどこの国にやられっ放しなのか、知っているんです。アメリカなんです。そのアメリカに歯向かわずに、手を取っていこうと言ってたのが外務大臣の幣原喜重郎です。協調外交です。対米協調、対英協調です。対米英協調外交です。なぜ無理難題をふっかけられても、ハイハイと頭を下げ続けて協調しているのか。こういう不満です。それで若槻内閣が望んだ勅令案を、天皇の相談機関である枢密院が拒否した。
すると金融恐慌は拡大の一途をたどって、日本経済は大混乱に陥る。銀行はバタバタ倒産するし、中堅企業もどんどん倒産していく。
しかし幣原喜重郎の協調外交に対する反発は、軍部だけではなくかなり大きい。

総理大臣の若槻礼次郎は事態の収拾を図れず、総辞職していきます。これが1927年、昭和2年です。昭和の始まりというのは、「昭和枯れすすき」という暗い歌があったんですけど、これと同じく暗いです。ひどい恐慌から始まる。

芥川龍之介が「将来に対する漠然とした不安」を感じて自殺するのもこの年です。もちろんそれは政治上のことではなく内面的なものですが、それは明治以降の近代化、つまり西洋化に向かう日本人の心に巣くう、共通した不安だったように思えます。個人主義を突き詰めてその限界を感じた彼は、将来に大きな矛盾が横たわっているのを作家独特の嗅覚で感じとったのでしょう。
その不安は、イギリスの力をバックにしてイギリス追随の外交を進めてきた伊藤博文が、晩年になってイギリスとの日英同盟に不安を感じそれに反対したことと、どこかで共通しているように思います。

大正は明るかったけれども、昭和は暗い。不景気で始まる。
大きな問題は、アメリカ・イギリスに対する協調外交をどうするか。それと相次ぐ恐慌をどうするか。つまり「外交」と「経済」をめぐる問題です。とくに外交では、明治維新以来のイギリス追従の外交が、日米同盟を廃棄されたことによって大きな曲がり角に来ています。これを政党政治が乗り切れるかどうか、これが昭和がすぐに直面した課題です。


いらない話をすれば、私の親父が生まれたのはこの頃です。高校卒業すると赤紙が来て兵隊に取られ、外地に行く前に終戦になったからどうにか生きて帰れたのですが、そのとき近くの町が焼け焦げている景色を見ながら帰ってきた。帰ったその日に、私の祖母が、近くの食品工場が空襲で焼けたために不要になった焼き砂糖を拾い集めてオハギをつくってくれた。そのオハギのうまかったこと、その味が忘れられない、と言っていました。

ここで今はない機関をまとめると、元老というのは天皇の相談役です。これは個人です。
もう一つは天皇の諮問機関つまり相談機関、これが枢密院です。


最後に、年号と西暦の換算をまとめます。
明治は何年を引いたか。1867を引く。考え方は1868年が明治1年だから、そうなるように1867を引く。
大正換算は1911を引く。
昭和換算は1925を引く。
君たちが生まれた平成換算は1988を引くんです。
ちなみに令和換算は2018を引く。2019年が令和1年になるから。

これで終わります。

授業でいえない日本史 38話 現代 田中義一内閣~世界大恐慌、世界の状況

2020-08-26 05:00:00 | 旧日本史5 20C前半
【田中義一内閣】(1927.4~29.7)
若槻内閣の総辞職を受けて、次の総理大臣に任命されたのが田中義一です。1927年です。与党も変わる。今までは憲政会だったけれども、今度は政友会です。正式名称は立憲政友会ですが、今の自由民主党でも自民党というように、政友会で十分通るようになります。政党政治家のような顔をしているけど、実はこの人は陸軍出身です。しかも長州出身です。


長州の陸軍といわれた陸軍内部では、山県有朋とその子分格である桂太郎の2人のドンがいましたが、1913年に桂太郎が死亡し、そして1922年には最大のドンとして力をもっていた元老の山県有朋が死亡します。とくに山県有朋死去の影響は大きかった。日英同盟を推進してきたのはこの山県と桂なのですから。その長州閥を受け継ぐ陸軍のドンがこの田中義一です。ただこの田中義一は、日英同盟に疑問を持っていたようなところがあります。

この2年前の1925年、田中義一は陸軍のドンから、立憲政友会の総裁へと転身します。軍人を辞職し、政党政治家となります。これは大きな決断です。立憲政友会の総裁へと転身した伊藤博文以来の離れ業と言ってもいい。その理由は、のちの人からはいろいろ言われますが、本人の考えは分かりません。
この人の政治家としてのデビューは1918年の立憲政友会の原敬内閣成立の時に、陸軍大臣として入閣したのが最初です。そのころから田中義一と立憲政友会の結びつきはあります。

陸軍は、桂太郎首相の時代から日英同盟で動いていました。つまりイギリスとの協調路線です。しかしこのあと見るように田中義一は、外交的には協調路線を取りません。少なくともイギリスとの協調路線はとりません。この点で彼は、戦争に大きく踏み込んだ政治家と見なされて、評価はあまりよくありません。
しかしそれは、長州の先輩である伊藤博文が日露協商論を展開して、日英同盟に反対したことと似ています。戦争はしないほうがいいに決まっていますが、国を守るときには必ず対立する国が出てきます。どういう考えで、どこと対立したかを見ていくことは大事です。

一方で、山県有朋と桂太郎の2人のドンを失った陸軍の長州閥は、これ以降、勢力の低下が目立ちはじめます。意外と勘違いされることですが、彼ら2人はイギリスと対立した政治家ではありません。逆に日英同盟を推進し、イギリス側に立った政治家です。それに反対したのは伊藤博文です。

それと同じように、この時にイギリス側に立ったのは、イギリス・アメリカに対して協調外交をとった幣原喜重郎です。それに反対したのが田中義一です。

それ以降、陸軍内では、長州閥に属さない中堅将校たちの独自の動きが見られるようになり、それを統制する力が陸軍上層部から失われていきます。長州閥と対立するグループも出てきます。この対立は次の1930年代になると陸軍を二分する統制派皇道派の対立となって現れます。


【金融恐慌の処理】 この田中義一がまず取り組まなければならない課題は、金融恐慌下の日本の混乱をどう切り抜けるかということです。
大蔵大臣に任命したのが、実はこの人よりも格上で、内閣総理大臣経験者の高橋是清です。


経済が大混乱の中で、例えばクレジットカードでも引き落としの日に、口座にお金がなかったらブラックリストに載っていく。それは企業でいうと倒産です。手形が期日どおり決済できないと倒産します。
それを防ぐためには、全国の銀行に、今はこういう緊急事態だから請求するな、引き落とし先延ばしなさい、と命令する。これが支払い猶予令です。猶予というのは先延ばしのことです。これを英語でモラトリアムという。支払いを一時停止するということです。それで3週間、銀行を閉鎖する。

その間に、日本銀行から、倒産しそうな銀行に特別にお金を貸してやる。これは前回やった、台湾銀行を救済しようとしたのと同じ手法です。台湾銀行もまだ活動休止してるわけですから、これにも同じ手法を使う。
天皇の名で同じ台湾銀行救済勅令案を可決します。今度は天皇はオーケーするんです。日本銀行の特別融資を行う。日銀特融というんですけれども。銀行は、お金を紙に刷ればいい。インクと紙があれば、緊急の場合にはお金を刷れるわけですから、こういった離れ技ができるんです。

理屈が合わないのは、前回の勅令案はダメといいながら、同じ法令なのに、2回目はなぜいいのか。それは政権のスタンスです。協調外交を取っていた幣原喜重郎が、内閣が変わることによって外務大臣からはずれたからです。この政権だったらダメだけれども、この政権だったらいいと。それは外交方針が変わったからです。
こうやって前の若槻礼次郎内閣の政権与党は人気を失ったから、これを防ぐために、政友本党との合流を契機に、憲政会はまた名前を変えます。1927年に立憲民政党となります。これは政党系図で確認してください。


【財閥支配の強化】 ではこの1920年代の金融恐慌の結果、日本の経済はどう変わったかというと、景気が悪い時には、人間と同じで、食うや食わずの時には、子供とか老人とか体力弱い人間から死んでいく。体力が弱い企業、つまり中小銀行から倒産していく。そうすると、弱そうなところは潰れるよりも合併されたほうがいいということで、吸収合併を選ぶんです。身売りします。あんたうちの会社を買ってくれませんか。それで従業員が路頭に迷わずに済むからということで、強いところ三井・三菱・住友とか、そういう銀行の資金力をもとに合併されていきます。


こういう大銀行に吸収されていくから、結果的にこの五大銀行・・・・・・三井銀行、三菱銀行、住友銀行、あと安田銀行、第一銀行があります・・・・・・この五大銀行が独占体制を強化していく。財閥というのは、景気が良い時に儲かるみたいなイメージがあるけれども、逆なんです。景気が悪いときに太っていきます。そうなると、この財閥がますます政界で影響を強めていきます。三井と三菱が二大財閥です。

政党も、政友会と民政党の二つある。三井政友会にお金を出す。三菱はさっき名前を変えた民政党にお金を出す。そういう政治と経済が結びついていく。これは民主主義とは別の動きです。こうなると政党は、民衆ではなく、大企業の方を向いて政治を行っていく傾向を強めます。


【共産党員検挙事件】 この時代は、軍部の力が強まるに従って、いろいろな異分子、政府と同じ考えじゃない人が検挙されていく。とくに社会主義思想を持つ共産主義者は検挙されていく。
そういう考えを持った大学の先生も、大学をクビになったりしていきます。
この共産党というのは、それよりもちょっと前に、地下組織として、大正の終わりに結成されている。1922年、大正11年に、日本共産党ができている。
ソ連の日本支部として。何という組織ですか。共産主義は、もともと世界革命論という、質の悪い漫画みたいな、これを大真面目でやっている。日本共産党は、コミンテルンの日本支部として非合法に結成されていた。これを日本も知っている。


しかし3年前の1925年には、普通選挙法を施行したばかりだった。選挙人口が増えたんです。貧しい人たちも選挙できるようになって、その初めての普通選挙が1928年です。
共産党でなくても、資本主義に反対する政党、これを無産政党といいますが、これが日本の史上はじめて国会議員を当選させます。しかも8名も。これに政府は驚いて、ますます、共産主義は危険だとして共産党員を検挙していく。これは、リンゴを盗もうと思っただけでは、今の法律では罪に問われないけれども、この法律は盗もうと思っただけで罪に問われる。こういう法律も成立している。それが普通選挙法と同じ年の1925年に成立した治安維持法です。

似たことは今もあります。治安維持というのは大義名分で、2~3年前も似たような集団的自衛権を楯にして法律できた。こういう法律はどうにでも化けます。1928年には、この治安維持法に死刑が追加された。
この治安維持法による取り締まりのために、ふつうの警察と違って、特別な思想犯を捕まえる警察が、1928.7月に置かれます。考えただけで犯罪になるわけですから。これを特別高等警察という。略して特高です。


【強硬外交への転換】 外交面では協調外交から強硬外交に変わります。外務大臣は、首相田中義一が兼任します。
なぜこういうふうに外交方針を変えたかというと、さっきも言った幣原喜重郎の協調外交がうまくいってなかったから。幣原喜重郎は戦後すぐ内閣総理大臣になるけれども、実は戦前は外務大臣としてうまくいってない。


田中義一内閣が成立した1927年、海の向こうのインドネシアでは・・・・・・ここはオランダの植民地ですが・・・・・・オランダからの独立運動をしはじめる。インドネシア国民党のスカルノです。戦後独立を達成して日本に来たとき、そこで見初めたのが、3番目の嫁さんのデビ婦人ですね。そのスカルノが活動を始めています。
フランスの植民地であったベトナムでも、同じ年にベトナム国民党の独立運動が始まっています。
その3年後の1930年には、インドでガンディーが塩の行進をはじめ、イギリスに対する抵抗運動を再開します。

アジア諸国ではこのようなヨーロッパ列強に対する抵抗運動が高まる中で、中国は逆にイギリスやアメリカに接近していきます。

(20世紀初めのアジア植民地)


(参照 アジアの独立運動)
https://blog.goo.ne.jp/akiko_019/e/70495ca6d4b6dc08f7af64a7a86a6ebe


これと前後して、中国ではどうかというと、反日気分が強まっていきます。
ここでこれまでの中国のことをザッと振り返ると、1840年のアヘン戦争でイギリスがまず中国に乗り込み、上海・香港などの主に中国南部を支配します。
1894年に日清戦争で日本が勝利すると、フランス、ドイツ、ロシアなどの列強も続々と乗り込んでいきます。
これに対して1900年には義和団事件が起こり「扶清滅洋」を唱えて、ヨーロッパ列強への反発が強まります。そのとき南アフリカ戦争で忙しかったイギリスは、首相のソールズベリが日本に義和団事件の鎮圧を要請し、日本がその鎮圧に中心的な役割を果たすことになります。
その後、日本では日英同盟を結ぶべきかどうかで揺れますが、日英同盟に反対したのが伊藤博文でした。しかし山県系の桂太郎首相は日英同盟を結び、1904年の日露戦争に勝利します。そして満州に影響力を強めます。
1911年に辛亥革命が起こり、清朝は崩壊します。
第一次世界大戦中の1915年には、清朝を倒した中華民国に対し、対華二十一ヵ条の要求を行います。これにより、それまでヨーロッパ列強に向けられていた反発感情が日本に向かいはじめます。

このあと現在に至るまで日本と中国が親しい関係になることはありません。なぜこんなことになったのか。
前にも少し言いましたが、伊藤博文が若い時からとってきた親英路線は、このような中国と日本の対立を生むことになります。晩年になって伊藤博文は日英同盟に反対しますが、その時にはすでに中国の主導権はイギリスに握られていて、日本と中国の亀裂はますます大きなものになっていきます。
大きな目で見ると、ヨーロッパにとって日本と中国が対立しアジアが分断されることは、ローマ帝国以来の「分割して統治せよ」のセオリーどおりだと言えます。
それまで日本側に立ってきたイギリスは、すでに1921年のワシントン会議で日英同盟を廃棄し、日本を敵視するアメリカ側についています。このことは日本にとって明治維新以来のとても大きな外交上の変化です。
イギリス・アメリカと対立しながら、このことにどう対処すべきか。そのことが日本の最も大きな課題になっていきます。

中国では大きく分けて、北の北京政府と孫文を中心とする南方政府に分かれています。
そこに1921年に中国共産党がつくられます。1924年に、孫文の国民党とこの共産党が、一時的に手を組んで戦うべき相手を絞ろうとします。イギリスを中心とする外国勢を追い払うのではなく、国内に割拠している北方軍閥を一掃しようとします。これを第1次国共合作といいます。国共というのは国民党のと共産党のです。合作は合同作戦です。共産党の後ろには当然ソ連がいます。国民党の後ろにはイギリスと関係の深い浙江財閥がいます。
中国は戦国時代のような軍閥割拠状態です。まず中国を統一しよう、そのためには国民党と共産党が手を組んで他の軍閥をやっつけていこう、という。孫文は翌年の1925年に死にますが、その後は蒋介石が孫文の後継者になり、国共合作は続けられます。

蒋介石は、もともと軍人として日本陸軍で教育を受けている人ですが、このあと金持ちの嫁さんと結婚します。孫文の嫁さんも中国ナンバーワンの浙江財閥の次女の宋慶齢(そうけいれい)です。浙江財閥とは浙江省(上海の隣の省)の財閥という意味で、イギリスが支配する上海を拠点としてその支配に協力している財閥です。日清戦争後、上海を中心とする長江流域の中国南部はイギリスの支配地域です。その浙江財閥の宋財閥には三姉妹がいて、三女の宋美麗(そうびれい)と結婚したのが蒋介石です。つまり孫文と蒋介石は嫁さんでつながっています。ちなみに長女の宋靄齢(そうあいれい)は大銀行家の孔財閥に嫁いでいます。
孫文の動きで分からないのは政治資金の出所です。一介の医者が、なぜこれほどの政治活動や軍事行動ができるのか。政治にはお金が必要です。しかしその資金がどこから来るのか、寡聞にして私は知りません。

北の北京政府内では、A派とB派に分かれていましたが、A派内で段祺瑞が失脚した後は、1920年に張作霖が北京の実権を握ります。日本は段祺瑞を支援したあと、この張作霖を支援します。
1922 年にはA派の張作霖とB派の戦争が起こりB派が優勢になります。このときB派にはイギリスとアメリカが資金面で援助しています。1924年にはA派とB派で再度戦争が起こり、A派の張作霖がまきかえします。このときB派は南の孫文と手を組むようになります。1925.5月には上海で五三〇事件が起こり反英運動が盛り上がりますが、1925.11月にはA派の張作霖の部下が反乱を起こしB派と組もうとして鎮圧されたことから、張作霖を支援した日本に対して反日運動が起こります。

このように中国の軍閥割拠状態はとても複雑な経過をたどりますが、この経過の中で、はじめイギリスへの反対運動に傾いていた中国の動きが、逆に日本への反対運動へと転換していくことが大きな流れです。

それが、蒋介石(孫文の後継者)を中心とした北京政府打倒の動きへと発展していくわけです。
1926.7月、蒋介石を中心とする国共合作軍が北伐を開始します。北伐というのは、国共合作軍を南方勢力だとした場合、北京を中心とした北部には地方軍閥がゴロゴロしているから、そういう北方軍閥征伐をおこなうという意味です。短かすぎる短縮形で分かりにくいけど、北方軍閥征伐のことを北伐といいます。

このあと起こる太平洋戦争はアメリカとの戦いだと思っている人が多いですが、そこに至る過程の大半は中国で起こります。表に出てくる動きのほとんどは中国です。日本はこの中国と戦っていくのです。アメリカはあとでひょっこりと唐突に出てきます。いったい何が起こっているのか、非常に分かりにくい戦いです。


【山東出兵】 しかしその北方軍閥の中心で、北京を支配している張作霖を応援しているのが日本です。そうなると日本は困る。イギリスに主導権を奪われて、中国に乗り出せなくなる。

それにイギリスは、日英同盟を組んでいた仲間かと思っていたら、第一次大戦後は1921年に日英同盟は廃棄され、逆にアメリカにすり寄っていった。イギリスは、アメリカと組んで日本をはずす方向に手のひらを返した。
そのアメリカはどうしているかというと、日本人に対して警戒を強め、1924年には、日本人はアメリカに来るなという排日移民法を出しています。アメリカはもともと移民の国で、誰が移民に来てもいいですよ、という国なんだけれど、その中で日本人だけはダメだという。日本人を排斥していく。

しかも日本は北京を拠点にした北方軍閥を応援しています。だからこの第一次国共合作による北伐(北方軍閥征伐)は日本とイギリスが対立したことを示しています。

そこで日本は、1927年に中国の山東半島に日本軍を出兵します。これを山東出兵といいます。


当時の日本の経済を引っ張っている業界は、紡績会社です。この近くにも県内最大の紡績会社がありました。今は公園になってますけど。私のお袋はこのころ生まれてますが、女学校の頃、その工場に軍事動員にいっていたといってました。そういうのが各地にあるわけです。日本景気が悪いから、企業は活路を求めて中国に工場進出していく。海外で生産しようとします。これも戦後1980年代から日本企業がやってるのと一緒です。トヨタ自動車などは、半分以上は海外で生産している。


こういう中国に進出した日本の紡績会社を在華紡という。在華紡績会社のことです。縮めて在華紡という。華というのは中国です。

この当時、日本人が中国に工場を作って、そこに乗り出しています。この山東出兵は、日本政府として中国にいる日本人・・・・・・こういうのを居留民といいます・・・・・・これを北伐という中国の内乱から保護する必要があるという理由からです。これは表面上の理由です。
しかし本当は、中国の北伐への危機感からです。そして日本は、このとき首都北京に陣取ってる軍閥の張作霖(ちょうさくりん)を支援しています。本拠は満州です。この満州軍閥を日本は支持してる。


この山東出兵に、日本はだいぶ力を入れて、第一次、第二次、第三次と3回出兵しますが、結局うまくいかなかった。途中1928.5月に済南事件(さいなんじけん)という衝突がありますが、北伐軍は山東地方をすり抜けるようにして北京へ向かいます。そして1928年に北京を制圧し、北伐が成功した。つまり日本が支援してる北京の張作霖は負けて、本拠地の満州に逃れようとします。


【張作霖爆殺事件】 国共合作軍に負けた張作霖は日本と意見が対立して、オレは足を洗う、満州に帰ると言って、列車に乗って帰っていたところで、その列車が何者かによって爆破されます。これが1928.6月です。これを張作霖爆殺事件という。
翌日の日本の新聞は、これをどう報道したか。満州某重大事件と発表した。事件がおこった。重大事件だぞ、とだけ。中身は何も知らせない。とにかく何か起こった。こういう言い方をして、この列車爆破を日本は、中国側の仕業だと発表したんだけれども、実はこれは日本の関東軍が独自に起こした事件だったということになっています。関東軍というのは満州にいる日本軍です。


◆ 張作霖爆殺事件というものが起こり、関東軍の河本大作大佐が首謀者であるかのように伝えられました。現在では資料が出てきており、ソ連の情報部が仕掛けたことが明らかになっています。(「世界を操るグローバリズムの洗脳を解く」 元駐ウクライナ大使 馬渕睦夫 悟空出版 P123)

これにピンときたのが、殺された張作霖の息子の張学良です。あっこれは日本だ、と。それでそれまで親父の敵であった蒋介石と、急きょ手を組む。日本にとっては全く逆の結果を生むことになった。

日本は金融恐慌で混乱しています。日本だけでは景気がたち行かなくなるほど、会社はボトボトと倒産していって、大企業の五大銀行だけが大きくなって、政治家はその財閥と結びついている。
それに対抗する意味でも関東軍は、日本は満州国は日本の生命線だとして、満州支配計画を立てるけれども、この作戦はうまくいかない。

そいうなかで、めったに腹を立てない昭和天皇が、張作霖爆殺事件について田中を叱責した。田中義一は事件の責任を取って1929.7月に総辞職します。

彼はその2ヶ月後の1929.9月に狭心症で死亡します。元気に首相を務めていた人が、辞任後たった2ヶ月で死亡するというのも不思議です。
日英同盟に反対した伊藤博文も朝鮮に飛ばされ、ハルピンで暗殺されました。これも謎の多い事件です。
田中義一が死亡して、次の政友会総裁は犬養毅に変わります。ちなみに、この人も暗殺されます。

そして次の政権は立憲民政党浜口雄幸(おさち)に変わります。それとともに外務大臣に協調外交の幣原喜重郎が復活します。田中義一がめざした強硬外交は途絶えます。

田中義一が死亡した翌月の1929.10月、またとんでもないことがアメリカで起こります。世界大恐慌の始まりです。1929年です。ほぼ1920年代は終わりました。ここから本格的に1930年代の第二次世界大戦への道が始まります。




【アメリカの動き】
さきに世界大恐慌後の世界の動きを見ていきます。去年やった世界史、ここらへんは、世界の動きとリンクします。
1929.10月、アメリカのニューヨークのウォール街、そこは世界最大の証券取引所です。そこで株の大暴落がおこります。株が一気に十分の一に暴落する。100万円がたった10万円になる。これが全世界を巻き込む世界大恐慌に発展します。
今から約10年前の2009年にもリーマン・ショックが起こりましたけど、それもアメリカがリーマン・ショックをおこして、一番被害を受けたのはヨーロッパだった。訳が分からない流れになっていっている。そのあと一番景気がよくなったのは実はアメリカなんです。ヨーロッパは、さらにイギリスがEUを脱退し、景気が悪くなって、ますますひどい状況になっている。金融というのはこんなことができる。自分が失敗して、相手に損害をあたえることができる。金融というのは恐い世界です。1929年の世界恐慌もそれと同じです。

まずアメリカは、敗戦国ドイツがお金がないから、お金を貸していた。しかしそのアメリカがお金が足りなくなると、まずドイツに早く返せという。ドイツはたまったもんじゃないです。ドイツからアメリカ資金が急速に逃げていき、まずドイツがここで破綻する。失業率が世界一高くなり、働けないお父さんでいっぱいになるのは、アメリカじゃなくてドイツです。
アメリカのこのときの大統領はフーバーという人です。この人が銀行に・・・・・・日本でも田中義一がやったように・・・・・・ドイツの支払いを一時猶予しなさい、という。先延ばししてくれと。そうじゃないと、ドイツがつぶれるぞと、支払いを1年間停止した。しかし景気はどんどん落ちていった。

それで、3年後の1932年の大統領選挙に負けるんです。1932年の大統領選挙では。勝ったのが・・・・・・フーバーは共和党ですけど・・・・・・反対政党の民主党から出たフランクリン・ルーズベルトが勝った。フランクリン・ルーズベルトが大統領に当選する。これが1932年です。
ルーズベルトは、オレはフーバーのような能なしじゃない、新しい政策をやるんだ、と言って、資本主義の国アメリカで、ニューディールという社会主義に近い政策をとる。ディールは政策です。ニューは新しいです。たんに新政策という意味です。だから中身は具体的には表してない。
ポイントは、政治と経済は別というのが今までの資本主義の考え方だったけれども、政治が経済に介入するんだ、という。これは社会主義です。ダムをつくったり、農家に補助金を与えたり、テネシー川を整備したり、そういう社会主義経済に近い政策をとっていくわけです。例えばテネシー川流域開発事業。これが代表的です。TVAという。働き口のないお父さんはここで職にありつけて、給料を払えば生活できるじゃないかという。

教科書には、これが効いたと書いてあるけど、経済統計をみると政府の支出ばかりが増えて全く経済は回復していないです。
アメリカが本当に経済回復するのは、このあと第二次世界大戦に参戦してからです。参戦するとB29戦闘機をつくらないといけない、戦車をつくらないといけない、鉄砲をつくらないといけない。それで軍事産業が儲ける。けっきょく軍事産業中心に経済が回復していく。




【イギリスの動き】
だから世界恐慌はずっと続いて、不景気はイギリスにも及ぶ。
このイギリスは、このあいだまで世界の中心国だった。世界の金融制度は金本位制です。金本位制では、本物のお金は金だったんです。紙幣を発行したら、そのぶん中央銀行であるイングランド銀行の金庫には、金の貯蔵がないといけない。しかしこれでは紙幣を発行できなくなって、これををやめる。つまり金本位制を停止する。これが1931年です。それだけ景気が悪くなって、大量のお金を印刷しなければならなくなっていたということです。

そしてイギリスの製品を売るために、保護貿易政策をとる。関税を高くする。イギリスは世界最大の植民地を持っているから、それができる。そういう植民地を持っているところはいいです。例えばインドに・・・・・・インドはイギリスの植民地です・・・・・・イギリスは、無関税で輸出する。しかし日本がインドに売ろうとしたときには、今まで5%の関税を、30%に引き上げる。日本の100円の製品をここで130円になる。これで日本製品は売れなくなる。外国製品締め出しです。これは植民地持っているからできることです。日本はそういう植民地がないです。ドイツもないです。あんたは植民地があるからいい、それならオレも植民地を持っていいよね、となる。
そしてまた市場をめぐって戦争になっていく。こうやって日本は行き場を失って、満州に行かざるをえなくなるんです。

そのイギリスが金本位制を停止したのが1931年です。1933年にアメリカも金本位制停止する。やっぱりアメリカは景気が良くなってない。景気がよかったら金本位制を停止する必要ないんです。ルーズベルトは成功してない。
1932年には・・・・・・イギリスはいっぱいカナダとかニュージーランドとかアフリカとかに植民地を持っている・・・・・・そういったところの代表を集めて、イギリス連邦経済会議を開いて、イギリス製品は関税ゼロ、しかし他の日本製品とかドイツ製品には高い関税をかけていくことで合意する。大植民地帝国イギリスならではのことです。
こういう経済圏、イギリス中心とした経済圏ができる。これをブロック経済圏といいます。つまりブロックするんです。ブロックというのは、バレーボールのブロックと同じで、敵の製品を通さないことです。こっち側に入れない。輸入させない。自国の製品は無関税、しかし外国商品には高関税をつける。

イギリスがこれをやると、それならオレもやる、といって、植民地を持っているフランスもこれをやる。アメリカは植民地はもたないけれども、その代わり国内で石油は出るし、広大な国土もあるから市場としては問題ないです。
困るのは、持たない国です。




【ドイツの動き】
その頃ドイツではというと、そういう失業者が世界最高に高まる中で、合法的に選挙で選んだ政治家がヒトラーです。1920年代にもいたんですが、1920年代は、それほど目立たなかった。しかし、世界恐慌後に一気に人気が高まる。
彼が率いる政党がナチスです。国民社会主義ドイツ労働者党という。社会主義という文字がありますが、これは社会主義ではないです。どっちかというと、社会主義国と対立していく側なんです。

前にいったように、1923年ドイツには、キチガイのような大インフレーションが起こっていた。1兆倍という。
ちょうどその年に、早くもヒトラーは、こういう政治じゃどうにもならないとして、一揆を起こしたりしている。暴力革命です。これはすぐ失敗して、捕まえられるんですけれども。
この間に投獄されますが、獄中のけっこう恵まれた環境で彼が書いたのが「我が闘争」です。部下に口述筆記させたんです。これには政治家が国民を操るために、まず仕掛けないといけないことは、マスコミ操作なんだということを、つぶさに書いてる。20世紀の隠れたベストセラーと言ってもいいでしょう。実際、今もそれに似たようなことは、いろいろな国で起こっています。

その間しばらくは注目されなかったんだけれども、世界大恐慌が起こると、このナチスが、あれよあれよという間に、1932年の選挙では第1党に躍進するんです。
これは国民だけではなくて、お金持ちたちも、今までの政治ではダメだなと思う。大資本家、それから軍部も、一気にこのヒトラーを支持していく。つまりヒトラーは合法的に政権を取っていくということです。

1933年にヒトラーは首相になり、ヒトラー内閣が誕生していく。ここからヒトラーが押しも押されもせぬ正式なドイツの指導者になっていく。
この時に第2党としてナチスと票を競り合っていたのが、実は共産党なんです。これは半分、まだはっきり原因がわからないけれど、国会議事堂放火事件が起こって、これによって共産党が弾圧されていく。容疑をかけられていく。真相はまだ闇の中ですけど。
その年には、首相になってすぐにヒトラーが、国会にはかって成立させた法がある。これが全権委任法です。国会の審議を経ずに、国家政策はすべて、ナチスとそのリーダーである自分に任せなさい、という。これで国会は、実質的に機能停止です。形だけです。なにせ全権委任しているんだから。国会で審議する必要がない。

彼がやったことは、とにかくアメリカ発の世界恐慌で一番被害をこうむって失業率が世界一高い国、これがドイツなんです。
その失業対策に公共事業をやっていく。国が仕事を作る。仕事のないお父さんたちを雇って給料を払えば、国民も生活できる。代表的なものが、国内にアウトバーン・・・・・・日本でいう高速道路です・・・・・・それをどんどん作っていく。
そして・・・・・・今の高校生は車にはあまり興味ないみたいですけど・・・・・・ドイツといえば、70年間、国民車として、これ何ですか。ワーゲンです。フォルクスワーゲンです。俗にカブトムシと言ってた。これカブトムシに似ているから。ほとんど原型は今でも変わりませんよね。そういうのを国民車として、ドンドン売り出す。そうすると失業者が減少して、国民の人気が上がって、実際に経済状態も良くなった。実際に経済を上げていくんです。

それと同時に、ヨーロッパにはユダヤ人を迫害する。ユダヤ人というのはずっと金融業者で嫌われてるんですよ。そのユダヤ人迫害も強行していく。これは戦争が始まった後、このあと5~6年後ですけどね。これがドイツの状況です。

そういったことをやるお金というのは、政府がお金をつくっていく。そこが今までと違うところです。近代国家はお金は誰が作るんですか。政府が作るんですか。これを作るのは中央銀行です。しかしヒトラーはそれに頼らない。
なぜもともとお金をつくる権限があった国家が、お金をつくれなくなったのか、というのがまず大きな疑問です。これに頼らずに、国家がお金を発行していいじゃないか、ということで、実際つくっていく。国家がお金を刷る。それによって経済を復興していった。
これで終わります。

授業でいえない日本史 39話 現代 金解禁~高橋財政

2020-08-26 04:00:00 | 旧日本史5 20C前半
【浜口雄幸内閣】(1929.7~31.4)
どこからの続きかというと、田中義一が張作霖爆殺事件で失脚したあとからです。
そのあとを受け継いだのが浜口雄幸(はまぐちおさち)です。1929.7月の成立です。田中義一は立憲政友会の総裁として首相に任命されていましたから、今度のその反対政党の立憲民政党の総裁の浜口雄幸が首相になります。まだ政党内閣は続いています。


【金解禁】 第一次世界大戦中にヨーロッパが金本位制を離脱したのに合わせて、日本も1917年に金本位制を離脱しましたが、この時も日本はまだ離脱したままの状態です。キーワードは金本位制です。この説明は、「政治・経済」で済ましたことにします。
これやると時間がかかる。簡単にいうと、本物のお金は金(キン)だ、という制度です。今は違う。今は管理通貨制度といって、今のアベノミクスのように金の保有量に関係なくいくらでもお金を刷れる制度です。キンのことは「金」、オカネは「お金」と区別して書きます。

第一次世界大戦が終わると、ヨーロッパ各国は復興し、金本位制度に戻っています。しかし日本は離脱したままです。なぜなら日本の1920年代というのは不況続きだったから、戻れなかったのです。戦後恐慌、震災恐慌、金融恐慌で、なかなか復帰できない。これはお金がかかるから。しかしアメリカが1919年に、イギリスが1925年に、金本位制に復帰した。

だから日本もヨーロッパと同じように復帰しようとして、よしやるぞといって、1930.1月に強引に復帰したんです。これを金解禁という。これは短縮形です。正式な名称は、金輸出禁止解除のことです。ところどころ字を取って、金解禁です。ここは丸呑みして、金本位制に戻した、と思ってください。これを行った大蔵大臣が、もと日銀総裁の井上準之助です。
ここで金本位制にもどすと、貿易決済は金で行いますから、輸入する場合には金を輸出することになります。今まではその輸出を禁止していたから、それを解禁して輸出オーケーとしたということです。輸出すれば金が日本に入ってくるし、輸入すれば日本の金が海外に流出する。こういう制度です。これが金本位制です。

ただこのとき1930.1月という数字に注目してください。3ヶ月前の1929.10月に、ニューヨークのウェール街で株価の大暴落が起こっているんですよ。これはアメリカだけにはとどまらなかったけれど、この時は今よりも太平洋を渡ってくるのにちょっと時間がかって、日本は自分たちには関係ないと思っていた。だから日本が不況に巻き込まれるとは予測しないまま金解禁をやった。
この目的は為替を安定させて、輸出を拡大しようということだったんだけども、これをやった瞬間に世界大恐慌の波を受けて、全く逆の方向に日本経済は突き進んでいきます。日本はますます不況が深刻化します。
金解禁の狙いは、為替を安定させ緊縮財政を取る。ぶっちゃけて言うと、弱い会社には潰れてもらおうと非情な冷たい仕打ちを政府はした。強いところだけに頑張ってもらえば、日本は立ち直ることができる、と考えたけれども、その3ヶ月前の1929.10月に世界大恐慌の火種が撒かれていた。

そうするとアメリカやイギリスは、外国からの輸入を抑えようとして、輸入品に高関税をかけ出したんです。つまりブロック経済を行ったんです。日本の狙いは輸出を拡大することだったのですが、まったく逆の結果になります。輸出しようとしているのに、輸入先が高関税をかけたら物が売れずに輸出できない。高関税にブロックされる。
だから弱い企業は潰れる。おまけに政府は緊縮財政でお金の量を減らしていく。踏んだり蹴ったりの状態になる。関東大震災といい、金融恐慌といい、何かしらタイミングが悪い。日本は、ヨーロッパのブロック経済という保護貿易主義で、高関税をかけられて輸出が伸びない。

それでこの1930年に、日本は昭和恐慌に突入していく。これが1920年からの恐慌の中でこれが一番ひどい恐慌です。それでなくても1920年代の日本は、不景気の真っ最中です。さっきも言ったように、1920年の戦後恐慌、1923年の震災恐慌、1927年の金融恐慌、これでもか、これでもかと恐慌がくる。金融恐慌で終わりだろうと思っていたら、そのあとに一番デカいのが来た。
日本の恐慌はだんだん尻上がりに大きくなる。はじめチョロチョロで、中パッパですが、最後にドカンときて、どうにもならなくなった。


【昭和恐慌】 昭和になって1927年の金融恐慌、それからこの1930年の昭和恐慌です。昭和恐慌の原因は金解禁の失敗です。ここから日本の政治は本格的におかしくなっていく。
日本は狙いが完全に裏切られて、輸出は増大するどころか激減していく。そしてアメリカに対して日本が一番期待していた稼ぎがしらの生糸の値段が暴落する。生糸はもともと贅沢品です。不景気になれば真っ先に売れなくなるわけです。それで日本の生糸農家が没落していく。農村にも恐慌はおよびます。
産業界も弱いところから潰れていく。中小企業が倒産する。会社が潰れると、お父さんたちの職が失われる。そして都会では食えなくなる。それで田舎に戻ろうといって、田舎に戻ってくると、田舎でも農村恐慌が起こっている。
もう輸出は伸びない。逆に輸入超過になって日本の金が流失する。今までは金は輸出できなかった。しかし金解禁で金を輸出していいことになった。お金と金がリンクしているから、貿易赤字の分はごっそり日本の金が海外に流出することになるんです。


この流出した金はどこに行ったか。じわじわとアメリカに貯まり出すんです。このあと日本が戦争に負けた1945年には、世界の金の半分以上は、なぜかアメリカに集まっています。他の国の金がアメリカに集まりだす。日本の金もだいぶこれに貢献している。先のことですけど、戦後のアメリカのドルを中心とする通貨体制はそこから始まります。
1929年のアメリカの株式の大暴落の原因はよく分かりません。いろいろなことが言われていますが、アメリカははじめから金(キン)が欲しかったのではないかとも言われます。世界規模でみたら原因をつくったのはアメリカです。アメリカの株をつり上げて、それを一気に落とした人たちがいる。

しかし庶民は、そんなことは分からない。政党政治といっても何もいいことないじゃないか、1920年代は恐慌ばかりじゃないか、しかも政治家は財閥と結びついている、肥え太っているのは財閥だけじゃないか、政党政治家なんか信用できない、そんな気分が蔓延していきます。このあたりはドイツの気分とよく似ています。

では政治家の代わりに誰がいるかというと、軍人さんです。軍の将校は、今以上の超エリートです。地域の高校の成績トップは、東大に行くか、陸軍士官学校に行くか、そういう時代です。成績1番の人が陸軍士官学校に行って、2番手や3番手の人が東京大学に行ったりする。そうすると大人になって、同じ高校の出身者が東京の政治の舞台で出会っても、軍人さんの方が東大卒の政治家よりも高校の時は頭がよかったりする。そういうエリートです。そういう軍人さんへの期待が国民の間に盛り上がっていく。


【ロンドン海軍軍縮条約】 しかもイギリスは、不景気だからまた海軍を縮小しましょう、戦争しないようにしましょう、と呼びかける。これが1930年のロンドン海軍軍縮条約です。昭和恐慌とほぼ同時です。この時の外務大臣はまた幣原喜重郎です。どういう人だったか。アメリカ・イギリスが大好きです。協調していきましょう、手を取り合っていきましょう、という協調外交の外務大臣だった。彼がまた復活している。だからイギリスの誘いに乗っていきます。
ここでの取り決めは、補助艦の制限です。10年前にワシントンで結ばれた海軍軍縮条約もあった。あれは主力艦だった。その主力艦の周りを取り囲んで行くのが補助艦です。これが合同して艦隊を組む。


その比率です。アメリカ:イギリス:日本の比率で、10107です。アメリカ10に対して日本7、それぐらいでいいぐらいかなぁ、というと、前回と同じ理屈です。覚えていますか。このときアメリカとイギリスが組むというのは、ほぼ確実なんです。実質はアメリカとイギリスを足して、20対7です。これでは勝てないです。

こういうことを政党政治家がやっていく。しかしこの幣原喜重郎は人気を失っているんですよ。それでもイギリス・アメリカの誘いに乗っていく。
このことに対して軍部は、こんなことしてたら国は守れない、この責任は誰がとるのか、政治家は軍事の知識もないくせに統帥権つまり軍事指揮権を勝手にいじって、これを侵している、と言う。これを統帥権干犯問題という。
軍部は、この内閣に対してそういう批判をしていきます。国民の気持ちも、政党政治家から顔をそむけつつあります。だから次の1931年から、世の中はぶっそうになっていく。


【三月事件】 陸軍の中ではクーデター計画が発覚します。1931.3月の三月事件です。陸軍内部に桜会という一種の秘密結社があって、彼らはすでに陸軍指導部を信頼していない。だから自分たち独自で政権構想を立て、それを実行に移そうとします。しかしこれは計画が漏れて失敗します。
国民の気分も、政党政治家の言うことに従えるか、という感じです。じっさい金解禁で失敗している。そしてますます景気が悪くなる。


【重要産業統制法】 景気が悪いと、ものが行き渡らないから、政府は翌月の1931.4月に重要産業統制法をだす。本来は経済活動は自由なはずですが、政府が経済を統制しはじめます。政府がこういうことをすると、これは大企業保護になるか、社会主義経済になるかのどちらかなんです。日本は社会主義はとりませんから、大企業中心の経済体制をつくっていき、それを政府が統制しようとしていきます。こうなると国家社会主義という考え方にも近づいてきます。これが国家による経済統制の始まりになります。

そういった昭和恐慌の中で、首相の浜口雄幸は1930.11月に東京駅で撃たれます。一命は取りとめますが重体になり、翌年8月にそれがもとで死亡します。原敬も東京駅で暗殺された。この時代はよく人が死にます。
昔、この時代を知っている年配の人から聞いたことがありますが、小学生のときには、政治家というのは死ぬもんだと思っていた、と言われてました。政治家になると死ぬんだ、殺される、と思っていた、と言われてました。実際良く死ぬんです。
政治は、バラエティ番組に政治家が出て笑いを取るとか、そういうことをする政治家がいますが、政治家というのはそういうものじゃないです。どうかすると命を取られる職業です。




【若槻礼次郎内閣②】(1931.4~31.12)
浜口雄幸が撃たれると、1931.4月にまたピンチヒッターとして若槻礼次郎が登場します。2度目の登場です。この時はピンチヒッターだから与党は変わりません。立憲民政党のままです。外務大臣もそのまま幣原喜重郎です。


【満州事変】 だから軍部としては、やっちゃおれん、言われたとおりにしていても、失敗ばかりじゃないか、もうオレたち独自でやろうとなる。
1931.9月満州事変が起こります。失敗続きの経済の打開策として、軍部は一言でいうと、満州が必要だと判断します。材料供給地、それから製品の販売先として。
昭和恐慌の最中で必死に脱出の道を考えていたのは、軍部、とくに満州駐屯の日本の軍隊です。これを関東軍といいます。
独自に作戦計画を立てて、また張作霖爆殺事件と似たような鉄道爆破事件を仕掛けます。その爆破された場所が中国の柳条湖です。べつに湖じゃないです。そういう地名です。そこで鉄道を爆破する。その鉄道が、日本が経営する南満州鉄道つまり満鉄です。満鉄爆破事件です。日本はそれを、中国側のしわざだと公表していく。この作戦参謀は、関東軍一の切れ者といわれた石原完爾という人です。戦後、戦犯で捕らえられても、裁判のとき立て板に水のように、アメリカに対して非の打ち所のない批判をやっていく。この計画の理由を、米英の動きと絡めて理路整然と述べていく。こいつはどうもできない、といって釈放されます。そして世界最終戦争論という戦争論を書く。事件の内容としては、3年前1928年の張作霖爆殺事件と非常に似ていますが、違う事件です。

しかしこれは、もともと内閣が命令したものではなかったから、この総理大臣若槻礼次郎は不拡大方針をだします。これ以上戦争を拡大するな、という。しかし、黙っていろ、オレたちはやるんだ、そういって軍部は独走する。そして満州を占領していきます。翌年1932年には満州国という中国とは別の国を満州につくっていく。こうやって日本は、軍部と内閣が別々の動きをしていくようになります。なかなか国としての統率が取れない。そういう状況の中で、国民はどっちを支持していくか。失敗続きの政党政治家は人気がありません。国民は軍部を支持していく。よく軍部が国民の反対を無視して戦争に突入していった、と勘違いする人がいますが、そうではありません。近代国家で国民の反対を押し切って戦争できる国はありません。


では国民が軍部を支持する流れをつくったのは何か。最初に何が軍部を支持したか。これがマスコミです。テレビはまだ無いから、新聞やラジオです。そこから世論が軍部支持に傾いていく。戦後になって、新聞社によっては、さかんに自分たちが平和の使者みたいなことをいってますけど、そういうマスコミこそ、この時代に一番軍部を支持しています。

ここで事件をまとめると、1928年は張作霖爆殺事件です。鉄道爆破事件です。別名満州某重大事件です。3年後の1931年は柳条湖事件です。これも鉄道爆破事件です。そこから軍事行動が広がっていきます。これが満州事変です。
実質的に、日本の戦争を長く取ると、日本の戦争はここから始まっている。この年から1945年の終戦までを十五年戦争とも言います。日本はアメリカではなく、中国と戦っていきます。


【十月事件】 独走しようとする軍部の動きも強まってきます。柳条湖事件の翌月1931.10月には、またクーデター計画が発覚します。これを十月事件といいます。これも陸軍内部の秘密結社桜会のクーデター計画です。しかしこれも失敗です。合法的にやっていてもラチはあかんから、自分たちの推す首相を立てて国家を改革していこうという計画です。
これで桜会のクーデター計画は2回続けて失敗した。それは計画が大きすぎるから外部に漏れるんだ、という反省が生まれる。もっとオレたちだけで秘密裏にやろう。そういう動きが若い青年将校たちの間に生まれてきます。

彼ら青年将校には地方出身者が多いです。このころの地方経済はメタメタです。とくに東北は貧しくて、貧しい農家の娘さんたちは、女郎屋というのはわかるかな。女郎屋に売り飛ばされるんです。この時代には、合法的な商売があって、女を買って女郎屋に売り飛ばす商売、これを女衒(ぜげん)というんですけど、貧乏な家は足元を見られて、100万円の娘が、50万で買ってやろうか、と買い叩かれる。しかしイヤと言えない。明日の生活にも困っているから。それを見るに見かねて、うちは100万で買います、相談ください、といって、村役場が張り紙を出したりする。役場がですよ。そういう時代です。何も知らずに見たら、日本の役場はなんと非人道的な事をしたか、というかも知れないけど、そうじゃないんです。そのくらいの悲惨さが地方にあるわけです。このような地方の惨状を知っている人が青年将校には多い。


(昭和恐慌時の山形県伊佐沢村の張り紙)


もう一つ、こういうことを知っていた方がいいのは、いま韓国との間で政治問題化している従軍慰安婦問題というのは、この延長線上にある問題です。この話は難しいですね。しかし、軍隊に若い娘さんが慰安に行くというのは、日本女性にだってあるんです。いいとは言わないけど。


軍隊の司令官が、血気盛んな独身男、20歳前後のカッカした若い兵隊たちを統率するときに、一番悩ましいのは・・・・・・これもあんまり言えないけど・・・・・・性処理の問題です。どうやって、カッカきている男たちをおさめるか。明日死ぬかもしれない死の不安と向き合っている若い兵隊は時として自分が抑えられなくなる。人は変なもので、死の不安の中でさえ、逆に欲求は高まるみたいです。極限状態の中ではそういうことが起こる。それをどうやって押さえるか。これを間違うと、兵隊が暴動おこしたりする。だから司令官はこれにものすごく頭を悩まします。これはどこの国の軍隊でもそうです。明日をも知れぬ命のなかで、それをなだめるというのは多くの国の軍隊が行ってきたことです。アメリカのマリリン・モンローだって、あの大女優でさえ、ベトナム戦争の時には歌を唄いに慰問に行ったんです。そしてみんなワーワー、ピーピーいいながら、大喜びで歓声を上げる。それで発散させるわけです。これは本当に悩ましい問題です。

若槻礼次郎内閣は、関東軍の暴走をめぐる閣内不一致で1931.12月に総辞職します。




【犬養毅内閣】(1931.12~32.5)
ここで与党が変わる。今までは民政党だったけれども、政友会に変わります。新しい首相が犬養毅です。1931.12月からです。犬養毅は第二次護憲運動のときは革新倶楽部の党首でしたが、1925年に革新倶楽部は立憲政友会に合流し、立憲政友会の総裁として首相になります。だから彼はもともとは大隈重信の立憲改進党系の人です。政党系図で確認してください。


【金輸出再禁止】 まず前年の金解禁、これは失敗だった。犬養内閣は、早くこれを止めないといけない。内閣が成立するとすぐ1931.12月に金輸出再禁止を行う。再度、金本位制を停止します。
これを行ったのは総理大臣経験者の高橋是清です。この人が大蔵大臣になる。この人の腕の見せどころは総理大臣としてではなく、大蔵大臣としてここで腕を振るいます。
これは、ちょっと理屈がいるから次で説明しますが、一番簡単にいうと、お金を印刷するんです。景気が悪い時には、とにかくお金の量を増やすということです。ここらへんは、今のアベノミクスと似ています。でもこれはアベノミクスに似ているのではなく、アベノミクスがこの時代の経済政策に似ているのです。それは今の日本の経済状況が、長引く不況の中で、この時代と似ているとも考えられるということです。


【第一次上海事変】 満州事変が起きた柳条湖は中国の北方にありますが、その3ヶ月後の1932.1月、そこからずっと南の上海の共同租界周辺で、日本人僧侶の殺害をきっかけに、日中両軍が衝突します。これを第一次上海事変といいます。


【満州国建国】 その2ヶ月後の1932.3月、満州では、この満州を中国と切り離して、満州国を建てます。
その皇帝には、20年前に滅んだ清朝の最後の皇帝をたてます。ラストエンペラーという映画にもなった。当時の宣統帝溥儀は子供だったけれども、20年経って大人になっている。このもと清朝の皇帝を立てる。清朝の故郷はこの満州です。しかし実権は日本にある。日本は満州への支配を強めます。
これは犬養が考えたことではなくて、関東軍の行動です。犬養は、イヤこれは国際関係が悪くなる、と思って渋るんです。しかし国民は、もう政治家の方を向いていない。


【血盟団事件】 民間の血気はやる人たちの中では、暗殺グループが出てくる。これを血盟団という。そして満州国ができたのと同じ月の1932.3月に暗殺事件が起こる。これが血盟団事件です。井上日召という人が中心です。本業はお坊さんです。お坊さんさえ腹を立てた。1人で1人ずつ有力政治家を殺していこうとする。まず経済政策で失敗した井上準之助、この人は金解禁をやったときの大蔵大臣です。そして政党と結びついていた三井財閥の団琢磨を暗殺する。


【五・一五事件】 血盟団事件の2ヶ月後、残るは総理大臣だ、これはオレたちが殺る、と軍部の将校が決起します。海軍のエリート軍人が決起する。昭和7年、1932年の5月15日、これが五・一五事件です。海軍の青年将校による暗殺事件です。将校というのはエリート軍人です。首相の犬養毅を暗殺する。首相官邸に乗り込んで拳銃を向ける。犬養が「話せばわかる」と言うと、「問答無用」と言ってバーンと撃つ。首相犬養毅暗殺です。「話せばわかる、問答無用」というのが流行り言葉みたいになる。
これで犬養毅内閣が終わっただけではなく、政党政治が終わります。政党政治は敗戦まで二度と復活しない。大正期のような政党政治を望む声は出てきません。国民が政党政治に顔を背けていたんです。


(政党系図)




【内閣覚え方】 「カカア ワカッタ ハワイ
カ   加藤高明内閣①
カア  加藤高明内閣②
ワカッ 若槻礼次郎内閣①
タ   田中義一内閣
ハ   浜口雄幸内閣
ワ   若槻礼次郎内閣②
イ   犬養毅内閣






【高橋財政】
【金輸出再禁止】
 犬養毅は殺されても犬養がとった経済政策は続いていく。高橋是清の経済政策です。これを彼の名前をとって高橋財政という。基本は金輸出再禁止です。つまり金本位制の停止です。
通貨制度で失敗すると、戦争で日本人の何百万人が死ぬことにつながっていくんです。日本は通貨制度で失敗したんです。1929年の世界大恐慌の対応に失敗したんですよ。
そこで登場したのが大蔵大臣の高橋是清の政策です。これは犬養内閣からはじまる。犬養は殺された。しかし、高橋是清は、次の斉藤内閣、その次の岡田内閣と約6年間、大蔵大臣を務めて、一貫してこれをやっていく。
ここで高橋は金本位制度を停止しますが、これが今の管理通貨制度です。今の日本もこの制度です。
まず金本位制を停止することによって、円を下げるんです。円を下げて、つまり日本の製品を安くして、ヨーロッパの高関税の障壁を飛び越えて、輸出を増やそうとする。
実は戦後1980年代以降の中国がやったことはこれです。中国の人民元は、10分の1まで安くなる。だから1990年代から日本に百円ショップができて、その製品のほとんどはメイドインチャイナです。

ただこのとき三井財閥は、円が安くなるということは逆にドルが高くなることですから、それを見込んでドルを買っておく。そしてドルが高くなったところで売るわけです。
これは、かなり日本に損害を与える。それで三井は批判されますが、その三井とつるんでいるのが立憲政友会なんです。政党人気はますます落ちる。何かやっていることが、チグハグです。

しかし景気自体はこれで伸びる。低迷していた日本の輸出が、息を吹き返す。特に綿織物の輸出では、イギリスを抜いて世界一位になっていく。
ヨーロッパではイギリスも、他国から輸入したくないんです。高関税政策でブロック経済をとっている。しかしその壁を乗り越えて日本の安い綿織物が入ってくるわけだから、日本はとんでもないことをしている、と批判する。しかしこれはどうでしょうか。金本位制をはずれると為替は変動しますし、為替が低下して自由競争に任せるのは、ある意味で資本主義のルールなんです。


それにもかかわらず、日本に対する批判がおきて、ソーシャルダンピングだ、社会的な安売り、不法な商売だ、と日本を非難しはじめる。イギリスは、日本はとんでもない国だ、と言いはじめる。そこでイギリスは、1932年にカナダでオタワ会議を開いて、ますますブロック経済を強化する。イギリスは植民地をいっぱい持っています。このカナダもイギリスの植民地だったところです。世界最大の植民地帝国がイギリスですから大きなブロック経済圏をつくることができる。しかし日本は、そういう植民地を持っていない。かろうじて満州国を保護国化したばかりです。
だから日本は、このあと満州だけは手放せない。満州は日本の生命線、という言葉で守ろうとしていく。イギリスとやっていることは変わらないんだ、植民地持っているからイギリスは生きていけるんでしょう、だったら日本だって植民地必要なことは分かるよね、という。しかしイギリスは、イヤ分からない、というんです。これどっちが正しいんですかね。とにかくここで、イギリスやアメリカとの関係はますます悪くなる。

ここで1929年の世界大恐慌からの経済の流れをちょっとまとめます。
その直後、1930年に金解禁を行った。これは失敗した。大蔵大臣井上準之助、首相は浜口雄幸です。それで日本は昭和恐慌に陥った。首相の浜口雄幸はバーンと打たれた。暗殺未遂です。しかし次の年に死んだ。

そして首相は、犬養毅に変わった。大蔵大臣は高橋是清になった。この人が急いで金本位制を停止した。これが金輸出再禁止です。これで日本は経済を回復した。

これを政党で見ると、昭和になってからの政党政治の中心は立憲民政党中心だった。協調外交だった。アメリカに、ハイわかりましたという。イギリスにも逆らわない。
これに対して政友会、この犬養内閣は強硬外交をとる。アメリカ、イギリスに対して、良い悪いをはっきり言う。イエスも言うし、ノーとも言う。特に経済面ではそうです。外交面でも結果的に、満州支配を強化していった。

軍部もこれに賛成し、景気を上げるために軍部も協力する。また軍部にも政府は協力する。それで高橋財政の間に、軍事費も増大していった。そのために政府は借金もした。公債を発行した。それを日本銀行に買ってもらって、日本銀行からお金をもらう。しかしこれ、いつまでもやれるわけじゃない。のちのことですが、この政策はここらへんが限界だから、政策を転じようとする。すると軍事予算が少なくなるからこれに軍部は反発するようになる。このあと5年後です。そこでこの高橋是清は暗殺される。これが二・二六事件、1936年です。これは先の流れです。


【重化学工業発達】 ただこの時には景気が回復する。その回復した証拠として恩恵を受けた会社が、日本最大の製鉄会社です。これを日本製鉄会社という。明治時代は八幡製鉄所といっていた。
今はこれは戦後、新日本製鉄になって、それが数年前に住友金属と合併し、今は新日鉄住金となった。今も日本最大の製鉄会社であることに変わりありません。

それから1935年には、日本は工業国になった。しかしまだ軽工業中心であったものが、重工業がその生産高を抜く。
昭和になって、新たに急速に成長したのが日産です。まだ車のメーカーじゃないけど、これが今の日産です。これは国外に進出して急成長していく。満州に進出していく。満州重工業になっていく、とこういうことです。
それからあと、日窒というのもあります。日本窒素肥料という。これも朝鮮で経営を拡大して、戦後は水俣病を発生する。今はサランラップとかをつくっている。旭化成です。


こういう新興財閥は、旧財閥ぎらいの軍部が・・・・・・旧財閥は政党と結びついているから・・・・・・旧財閥に頼らずに、新しい企業家を育てていこうという方針とも一致している。
しかしまだポイントは隠れて見えません。このとき日本の貿易はどこに依存しているか。アメリカに依存してるんです。肝心な石油は、もろにアメリカに依存しているという状況があります。これを、あと8年後の1939年から、一方的にアメリカが売らなくてもいいんだよ、と言いはじめていく。そういう流れをちょっと念頭においてください。
これで終わります。